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#30
April  2023
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PEOPLE

#46

STAY SALTY ...... people here

I found myself in Berlin.

Mariko Kitai

メディアコーディネーター

希代真理子

4.10 2023

なぜベルリンだったのか

日本の大学で英文科に通っていた頃、夏の休暇を利用して欧州方面にひとり旅をした。

行き先を「ロンドン、アムステルダム、ベルリン、パリ」とざっくり決め、まずイギリスを周遊したあとアムステルダムに数日滞在し、ベルリンに入った。

ロンドンに住んでいた同級生からは、ベルリンについて「あそこには何もないから2日の滞在で十分」ということを聞いていた。

しかし、旅の疲れからか体調を崩し、ベルリンの滞在が自然に延びてしまった。

夏なのに寒くて暗い。

それがベルリンで受けた第一印象である。

風邪気味だというのにシトシト雨が降り、なぜか街の東側は一面灰色だった。

通りを歩くと石炭の独特なにおいがして、今にも崩れ落ちそうなバルコニーの下を早足で歩いた。

有名なベルリンの壁をポツダム広場に見に行くと、街の中心地にまだ撤去されずに打ち捨てられた壁の残骸が残っているほかは広大な空き地が広がっていた。

ポツダム広場最寄りの地下鉄2番線も旧東ベルリンと旧西ベルリンの境界線で切断され、まだ直通していなかった頃だ。

 

ここがヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使のうた』で見た広場かぁ。

ドイツの首都だというのに人も少ないし静かなところだな。

そんなことを思いながら、何もないがらんとしたポツダム広場をあてもなくブラブラと歩いた。

そして実際に見た壁が思ったより薄いことに驚いた。

気付けばベルリンにいた

90年代ポツダム広場

そして、何もないはずのベルリンには不思議とたくさんの出会いがあった。

観光地にはほとんど行かず、知り合いに教えてもらったエリアばかりに足を運んでいた。

カフェで偶然見つけたポストカードに記されていた展示会に出かけたりもした。

そう、あの頃はまだインターネットもスマートフォンもなかったのだ。

1993年のベルリンには不法占拠されたアパートや所有者不明の空き家などが数多く残っており、中庭や地下で夜な夜なイベントが行われていた。

この扉の向こうには何があるのだろう、そんなびっくり箱的な面白さがあった。

 

「あそこには何もない」といっていた同級生はもしかすると観光地だけを見てそう感じたのかもしれない。

確かにベルリンにはロンドンやパリのような華やかさは全くと言っていいほどない。

ただ、何かのきっかけで一歩踏み込んで中をのぞくことができれば、ベルリンという街の持つ魅力に触れることができるような気がするのだ。

 

この旅をきっかけに、日本に帰ってからもベルリンに対する興味は膨らむ一方だった。

通っていた大学でドイツ語を第2外国語として選択していたのも役に立つことになった。

周囲の学生がスーツ姿に身を包むようになっても、「卒業したらベルリンに行く」という決心は揺らがなかった。

今から思えば不思議なことだが、両親も特にベルリン行きに反対することはなかった。

学生の間に1度くらいはスーツを着て就職説明会に行ってみても良かったのかもしれない。

 

そんなわけで就職活動すらせず、1年くらいは住んでみたい、と特に明確な目的を持たずにベルリンにやって来たのが1995年の4月だった。

阪神・淡路大震災やサリン事件が起こった年である。

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90年代タヘレス

ベルリンからモスクワへ

ドイツ語を勉強するためにドイツ語学校に通いながら、文字通り「何もしていなかった」私は知り合いと夜な夜なベルリンの街をただ歩き回ってばかりいた。

 

その日も特にどこを目指すわけでもなく、友人と当時住んでいたシェアハウス(WG)のあったクロイツベルク区を歩いていた。

もうすぐ家に辿り着くというタイミングで、真っ白なピラミッドが視界に飛び込んできた。

夜も遅い時間だというのにギャラリーの中で展示会の準備が行われているようだった。

 

中をのぞきこんでいると、作業をしている人と目があった。

そして、そのまま中に招かれ私たちは共通言語だった英語で何時間も話し込んだのである。

それがモスクワから来たという建築家の3人だった。

モスクワという街がベルリンに来て初めて自分の意識の中に取り込まれた瞬間である。

 

その出会いがきっかけで、モスクワという街にも興味を持つことになった。

ドイツの首都ベルリンに来ただけで、モスクワが身近になったわけだ。

彼らのネットワークを通じてベルリン在住のロシア人とも知り合いになった。

学生ビザ取得のために大学生になった私は、迷うことなくロシア学科を専攻した。

かろうじて覚えたばかりのドイツ語でロシア語を学ぶことになろうとは夢にも思わなかったが、周りがロシア語で会話をする状況が増えたので、理にはかなっていたのだ。

そしてなぜか大学の休暇中に遊びに行ったモスクワでひょんなことから面接を受けることになり、クリニックの受付兼通訳のインターンをする羽目になる。

当時はまだモスクワ在住の日本人が今よりも少なかったのだろう。

病院の面接担当者曰く、「英語、ロシア語と日本語を話せる人を1年半も探していた」ということだった。

面接担当者に「実はベルリン在住の学生なんです」と伝えるとかなり驚いた顔をされた。

病院には3ヶ月ほど待ってもらい、ドイツと日本でモスクワ行きの準備を整えたのである。

モスクワでは国際色豊かな職場で働いていたので、英語を使う機会は圧倒的に増えたが、逆にドイツ語を使う機会がほとんどなかった。

モスクワの赤の広場

ベルリンで就職

モスクワで半年ほどのインターンを終え、そのままモスクワに残ることも考えたが、ある方の助言でベルリンに戻ることに決めた。

モスクワの日常があまりにもドラマチックで毎日がジェットコースターのようだったため、ベルリンに戻ってから暫くは文字通り「何もしない」日々が続いた。

貯金を切り崩しての生活に限界を感じ始めた頃、友人から新聞で求人広告を見たと電話をもらう。

それが映像制作会社の社員募集だった。

面接を受けに行くと開口一番こう尋ねられた。

「本当にロシア語を話せるの?」

「撮影コーディネーターの仕事ってどんなものか知ってる?」

モスクワで病院の受付を半年ほどしていたこと、撮影コーディネーターの仕事は実際にやってみないとわからない、などと返事をしたら面接の翌日に採用の連絡をもらった。

 

実際に仕事でドイツ語を使うようになってから、本格的にドイツ語とも向き合うようになった。

ロシア語も全く同じで、実際に必要に迫られないと勉強できないタイプらしい。

初めはドイツ語でメールをひとつ書くだけで精一杯だったし、電話口ではしどろもどろになった。

それまではベルリン以外の街には対して興味がなかったのに、ロケの仕事をするようになってからはドイツ全国を撮影のために頻繁に訪れることになった。

ロシア語圏には結局、撮影で2度しか訪れる機会がなかった。

それでも2度もあったのだからいい方なのだろう。

 

ベルリンフィルハーモニーにブンデスリーガ、旅番組でライン川沿いの古城、ロマンチック街道、ルートヴィヒのお城、マイセン、ドレスデン、それはもうありとあらゆる場所で様々な撮影を行ってきた。

ベルリン大聖堂と空.jpg

街の隙間と「何もしない時間」

「どうしてベルリンに来たの?」

「ここで今、何をしているの?」

 

ベルリンに来たばかりのときに、すでに何年かベルリンに住んでいた日本人にこう尋ねられたことがある。

相手の期待している返事はなんとなく予想がついたが、あえてこう答えることにした。

 

「ベルリンには来たばかりなので、特にまだ何もしていません」

 

するとその人は呆れた顔をして、何か否定的なことを言ったような気がする。

具体的に何を言われたのかは全く覚えていない。

もう少し先のことをきちんと考えたらどうだ、というような助言だったのかもしれない。

 

まさにこの「何もしない時間」というものが、日本では確保しにくいような気がしていた。

だからドイツの首都だというのに、時間の流れがゆったりとしていたベルリンに惹かれたのだろう。

 

「1年くらい住んでみたい」という気持ちでふらっと来てしまったベルリンだが、気付けばもうかれこれ30年近く住んでいる。

壁崩壊後から数年間続いた「ユートピア」めいたベルリンも、時間と共にいわゆる普通の都市になってしまった。

空き地にも新しい住居やビルが建ち並び、街のあらゆるところにあった隙間が埋め尽くされようとしている。

 

当時好きだったベルリンは今となってはその姿をほぼ消してしまったが、これだけ長く住んでいるのだから、やはり居心地がいいのだろう。

昔と同様、年齢を重ねても計画性がないのは相変わらずだし、マイペースで暮らせるベルリンは私の性に合っているのだと思う。

 

奇しくも節目とも言えるタイミングで、共著を書かないかという話が友人を通して入ったのがコロナ禍の2020年秋のことだった。

ベルリンという街を長期滞在者としての視点から、改めて見つめ直すきっかけにもなった。

ドイツ関連の書籍をすでに何冊も出されている浜本先生との共著『ベルリンを知るための52章』をどこかの書店で見かけたら、是非一度手に取って頂ければ幸いです。
 

先行きの見えにくい世の中だけれど、これからも自分の興味のあることを気の向くままに追って行きたい。


来る者拒まず、去る者追わず。人間万事塞翁が馬。

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text and photo - Mariko Kitai

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メディアコーディネーター

希代真理子

大阪生まれ、奈良育ち。ベルリン在住。モスクワでインターン。

フリーランスのメディアコーディネーターとしてテレビの番組撮影や

新聞の取材や環境やエネルギー、文化芸術分野など各種調査に従事。

明石書店より共著『ベルリンを知るための52章』発売中。

自費出版『ベルリン | 廃墟と記憶』刊行。

  • さえずり
  • note-newlogo-20221220-1

『ベルリンを知るための52章』 (エリア・スタディーズ)

東西冷戦時代には壁を隔てて分断され、イデオロギーの違いによって分断を余儀なくされたベルリン。1990年の統合後、異なる歴史と価値観に折り合いをつけ、さらには異民族を吸引し、現在30%が移民という多文化な街に変貌と発展をとげたベルリンの歴史から最新事情までの光と影を描き出す。

  • ブラックアマゾンアイコン
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『ベルリン | 廃墟と記憶』

かつては、東ドイツ唯一の遊園地だった公園やソビエト連邦の赤軍関連施設だった場所。国が消滅し、行き場を失った空間。そんな歴史とその記憶を持つ場所が、ベルリン市内や郊外にはまだいくつか残っている。異空間への入り口のような佇まいの廃墟を訪ねる旅に出た。

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#29
February  2023
Yuko Fujita
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PEOPLE

#45

STAY SALTY ...... people here

Created by a bullied teacher
A happy ballet school where you can feel the forest and the sea

いじめられっ子先生がつくった森と海を感じる幸せなバレエ教室

私とバレエの関係は、実はずっと複雑です。

バレエを習っていると、それだけでクラスの男子からからかわれ、バレエを知らない大人たちからも「あの子バレエ習ってるから……」と、どこか異質として見られていた時代がありました。

そんな時代に、私は学校でただ一人、バレエを習っている女の子だったのです。

 

神奈川県の藤沢市片瀬海岸に、海を見渡すバレエ教室を開講して今年で4年目になります。

バレエアートシアターin湘南は、2019年7月、コロナ禍に入る直前に生まれました。

設立2年目に西鎌倉に二つ目の拠点を持つことになり、今もくじけそうになりながらも、なんとかこのコロナ禍を駆け抜けています。

 

設立当初、生徒さんの人数はたったひとり。

小学校1年生の女の子と私で、江の島の海を眺めながらのレッスンが始まりました。

この時私が心に決めていたことは、「この子がいつか、バレエを心の支えにしてもらえるように、とにかくバレエの楽しさを伝えよう」ということ。

あれから4年の月日が流れました。

私は今、約40名の生徒さんに囲まれて、幸せなバレエ教室を運営しています。

 

「バレエ」というと、多くの方が特別なもの。

選ばれた人しか踏み込めない敷居の高い世界という印象を持たれるかと思います。

私がバレエ少女だったころは、まさにその印象が強かったのようで、よくクラスの男子や、大人たちから偏見の目で見られ、悲しい思いをしていました。

例えば……

「バレエなんて習って、自分のこと美人だと思ってんのか?」

「バレエなんて習ってるから、やっぱりちょっと変わってるわよね。」

「バレエなんて習ってるから、きっとお菓子なんて食べないんでしょ?」

バレエなんて……、バレエなんて……、私にとってはとても悲しい響きです。

 

当時のバレエの先生はとても厳しく、日に焼けないために夏休みも海に行けない。

遠足や運動会も、コンクールの日程と重なると参加できない。

いつも踊りのことばかり考えていて、友達とうまくコミュニケーションが取れない。

そんな子ども時代でした。

確かに、周りから見れば変わっていたのかもしれません。

私は子どものころとても体が弱く、母が毎週病院に連れて行ってくれていました。

気管支炎、喘息、などの病気があり、健康のためにと医師から勧められたのがバレエだったのです。

この子の体を強くしたくても、スポーツは激しすぎてもたないかもしれない。

音楽にあわせて深く呼吸するバレエならば、きっとこの子には合うだろうという理由で……

私は小さなころから、両親にそのことを聞かされていました。

バレエは、体が弱い私への、両親からのプレゼントでした。

そのプレゼントを、大切に大切にしてきた結果、私はバレエ教師になりました。

 

今では、学校でバレエを習っている子どもさんはとても多く、成人になられてから美容と健康、趣味のためにバレエを習う方も増えました。

そういった方々もまた、日本のバレエ文化を良くしてくださり、支えてくださっているのだと思います。

 

さて、そんな時代になった今。日本のバレエ文化の現状とは……

 

実は日本のバレエ団に所属するバレエダンサーたちは、舞台の仕事だけでは生活ができる状況にありません。

バレエという芸術を日常的に見ようとする文化が、日本にはないからです。

バレエを教える仕事につかせていただいてからは、舞台に立つプロのダンサーたちの影と光を、より身近な視点で垣間見ることになりました。

その時、子どものころに感じていた、バレエが人々の生活に浸透していきづらい「何か」について考え続けることになるのです。

 

幼少のころからバレエを習っていても、プロのバレエダンサーになれるのは100人に1人くらいの割合です。

海外のバレエ団を目指すとなると、もっと少ないかもしれません。

例えばサッカーや野球の選手が、海外で活躍するために尋常ではない努力をしている姿は、想像に難くないと思います。

スポンサーが付き、メディアで取り上げられ、その影響力は幅広く人々の生活に浸透していきます。

実はバレエの世界でも、ダンサーの卵たちは10代のころから同じような過程をたどっているのですが、メディアで取り上げられても、家族みんなでバレエを観にいこう! 応援しに行こう! とは、なりませんよね。

なぜなのでしょう。

 

バレエアートが情操教育専門のバレエ教室になった日。

ある日、私の教室に一人の女の子とお母さんが訪ねてきました。

愛らしいおかっぱ頭に、黒目がちな瞳のとてもかわいい元気な女の子。

その女の子は、「私、大きくなったらバレリーナになるの!」と言いながら、教室中をくるくる回って踊って見せてくれました。

その子のお母さまは私にこうおっしゃいました。

「言葉の発達がちょっと遅れていて、お友達とコミュニケーションがうまくとれるようになる、何か自分を表現する習い事があればいいなと思って、こちらに伺いました」

 

体が弱かった私のために、バレエを習わせてくれた両親の顔が頭をよぎります。

その女の子は、ASD(自閉症スペクトラム症)という、発達特性を持っていました。

 

とてもショッキングなことですが、バレエ教室では発達特性のあるお子さんを受け入れることが困難です。

バレエの練習過程は緻密なカリキュラムが組まれ、非常に複雑で、子どものころから自制心を必要とするところが多々あります。

確かに、その素質を持った、選ばれた子どもさんしか進めない課題が、早い段階でやってきてしまいます。

また、発達特性を持つ子どもさんのケアは、専門知識と経験が必要です。無知なまま安易に受け入れてしまうと、心に大きな傷を負わせてしまいかねません。

そもそもバレエは、すべての子どもさんが気軽に習えるように最適化されていませんでした。長い間……

ところが私は偶然にも、大学で児童心理学と発達障害についての研究をしていた経験がありました。

実際に、専門家のもとで、発達障害を持った子どもさんへの接し方を学び、勉強や簡単な運動の指導経験もありました。

目の前にいるこの女の子が、バレエを一生の宝物にできる教室は、ここしかないかもしれない。

この時、自分でそう思いました。

 

この時、バレエがなぜ人々の生活に浸透していきにくいのか、子どものころ、なぜ「バレエなんて」という言葉をたくさん聞くことになったのか、悟ることになります。

2.8 2023

藤田優子

バレエアートシアターin湘南 主宰

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バレエには、差別的な要素が少なからずあります。

「こういう子どもでないとバレエはできない」この考え方は、実は日本よりもバレエの本場である海外の国の方が根強いのです。

文化の特徴とは面白いもので、明文化、言語化されていなくても、なんとなく感情で伝わっていくものなのですね。

不思議です。

 

あの、おかっぱの愛らしい女の子はその垣根を越えて、こちらに来てくれようとしている天使だ! 私にはそう思えました。

そこから、現状のバレエを指導するメソッドと、子どもさんそれぞれの発達に沿うために教育学とすり合わせ、情操教育のためのバレエへ指導方法の最適化と孤独な研究が始まりました。

バレエアートが情操教育専門のバレエ教室になった日です。

研究を進めていくうちに、バレエとはまるで「バレエのために子どもがいる」かのような考え方を持っていて、「子どものためにバレエがある」という感性が抜け落ちていることに気が付きました。

これが、私が子どものころ感じていた「バレエなんて」の原因かもしれない。

そう思うと、なぜかすべてに納得がいきました。

 

子どものためにバレエがあるという考え方にシフト

子どもたちがバレエを楽しみ、一生の宝物にしていくと、どんな世界になるのだろう。

生徒さんたちがいつか大人になって、家族ができて、みんなでバレエを観に行こう! そう思えるような、そんなきっかけのひとつになれるようなバレエ教室にしたい。

いつしかそれが、バレエアートの一番の願いになりました。

観る人にとってのバレエとは、言葉を用いない、愛をテーマにした感情の学問のようなものです。

総合芸術といわれる歴史の厚みと、人間が表現する究極の心の形を是非、ご覧になってみてください。

 

現在バレエアートシアターin湘南では、シニア世代が中心になって活躍している大和市の市民劇団 演劇やまと塾の皆さんと一緒に、バレエとお芝居のコラボレーションに取り組んでいます。。

世代や地域を超えて、ジャンルを超えても、一緒に楽しめるものだと、力をあわせて素敵な芸術を生み出せるものだと感じてほしい。

バレエを身近に感じてほしい。

その思いに、快くお力を貸してくださった劇団の皆様と、現在2作目のコラボレーションに挑んでいます。

物語の原作は、バレエアートの生徒たちが考えてくれました。

『サルジュ・エミーラ 砂漠に降る雪』という、宇宙とアラビアを舞台にしたファンタジックな物語で、とても子どもが考えたとは思えない壮大な物語に仕上がっています。

こちらの作品は、バレエアートの特徴の一つでもある、グランドバレエミュージカルという形で、プロのバレリーナ、ダンサー、劇団の方々と力をあわせて演じます。

2023年8月5日(日) 藤沢市民会館 大ホールで上演いたしますので、ご興味お持ちいただけましたら、是非足をお運びください。

 

体の弱かった私に、ここまでの生きる情熱を与えてくれたバレエ。

それは、両親からのプレゼントでした。

そのバレエを、同じようにお子さんのためにプレゼントしようとしてくださる親御さまに数多く出会いました。

生徒たちがいつか大人になって、さぁみんなバレエを観に行こう! バレエダンサーを応援しよう! そう思えるきっかけになりたい。

その思いを胸に、今日も私は風の時代を駆け抜けていきます。

text and photo - Yuko Fujita

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バレエアートシアターin湘南 主宰

藤田優子

1975年 神奈川県出身

3歳よりバレエを習う。

大滝愛子主宰 バレエ・アートシアター オブ カーネギーホール イン トーキョーに入所。

大滝愛子・高澤加代子・五島亜津子(貝谷バレエ団)・レオニード=コズロフ(ボリショイバレエ団)らに師事。

埼玉県主催全国舞踊コンクール 入選。東京新聞主催全国舞踊コンクール 入賞。

玉川大学文学部教育学科 小学校教員養成コース専攻

YMCAにて4年間 学習障害児の学習指導・運動指導・研究に携わる。

1995年 オハイオ州シンシナティーバレエ 短期留学・ニューヨークブロードウェイにて現地のレッスンを受講。

フリーランスとして独立後、ブロードウェイダンスセンターにて児童から成人までのバレエ基礎クラスを担当。

プロフェッショナルダンサー宝塚音楽学校受験生、宝塚音楽学校研究生などのバレエ基礎指導にあたる。

2019年 江の島にバレエアートシアターin湘南を設立。

江の島縁起をモチーフとした現代舞踊作品「あまつ風 たぎる波間に 海神は来たれり」発表。

災害復興支援チャリティー公演「江の島にゃんこミュージカル」などを企画・発表し、延べ200人分の支援物資を被災地に送る。

2020年 西鎌倉にバレエアートスクール西鎌倉を設立。

2021年 「くるみ割り人形」のバレエミュージカル化「くるみ割り人形とクララの夢」制作・企画・総合演出。タップダンサー、俳優、市民劇団とコラボレーションで舞台を構築。

2022年 児童のためのバレエミュージカル「ふたごのこうさぎ ピケとソッテ」を制作。藤沢産業フェスタにて発表。

2023年 バレエアートの生徒原作によるバレエミュージカル「サルジュ・エミーラ 砂漠に降る雪」を発表予定。(2023年8月5日 藤沢市民会館 大ホール)

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#28
December  2022
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PEOPLE

#43

STAY SALTY ...... people here

Life itself is a story

Sawa

人生そのものがひとつの物語

皆さんは「カリグラフィー」というものをご存じでしょうか? 

ギリシャ語で“美しい書き物”という意味です。 

文字を美しく見せる(魅せる)技法は日本の書道と共通するところがあり 

西洋書道とも呼ばれています。 

12.15 2022

Sawa

カリグラファー

現在私は、フランス パリで生活をしています。 

 

2014年9月より、パリでカリグラフィーを習い始め、今はオンラインを中心にレッスンをするまでになりましたが、憧れの土地でこの活動をするなんて渡仏した当初は夢にも思いませんでした。 

 

まずはフランスへ行くまで、そしてカリグラフィーとの出会いに至るまでどのような経緯があったか… その軌跡を思い出しながら綴っていこうと思います。 

 

10代の終わり頃からでしょうか。 

雑誌やテレビなどでパリの景色を目にする度にどこか胸の奥底から湧き上がる

トキメキやワクワクをずっと感じていました。 

 

街並み、言葉、人々のファッション、考え方、それまで見てきた日本の文化とは全く違い、 

知る度に自分の心が開放されるような、踊り出すようなそんな感覚でした。 

 

その中でもフランス菓子の世界観に魅了され、短大卒業後、製菓学校への入学を決意しました。

洗練されたデザインや素材の組み合わせに感動し、道具なども初めて目にするものばかり。レシピを読むためのフランス語の授業、独特の発音には毎回高揚し、楽しかったのを覚えています。

 

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最初にパリの地へ降り立ったのは、2005年。 

卒業研修旅行へ参加した時のことでした。 

パリ市内のパティスリー巡り、レッスン、マルシェや蚤の市へ足を運び 

「こんな生活ができたらいいなぁ」と密かに夢を抱き、 この時の滞在で私とフランスの距離はよりリアルに、ぐっと近づいたのを覚えています。 

 

その後、地元の洋菓子店に就職。多くの常連のお客様に支えられ、美味しいと評判の小さなお店でした。 

製菓学校で学んだことをすぐに実践できる現場は、体力的に大変ではありましたが充実した日々を送っていました。

 

仕事に慣れてきた頃、3歳から中学まで続けてきた書道を母の知り合いの教室で再開できることになりました。

文字を書くことがもともと好きだったのです。 

楽しいばかりではないパティシエという仕事を、メンタルバランスを保って続けられたのは、書という自分と向き合う時間があったから。何よりも心の支えでした。 

 

ワーキングホリデーで再び渡仏したのは2008年の終わり頃。 

働きながら、パリで生活できるなんてなんて素敵な制度なのだろうと 挑戦してみたい、経験してみたいという気持ちが日に日に膨らんでいき ヴィザ取得をきっかけに3年勤めた仕事を退職することに決めました。 

 

しかし、順調に思えた2度目のパリへの道のりは 

「留学斡旋会社の倒産」という形での厳しい幕開けとなりました。 

申し込んでいた滞在先、語学学校など、全てが水の泡。 

それまでの時間も、お金も戻っては来ず、振り出しに戻るという絶望を 出発まであと数週間という時に経験しました。 

 

鈍器で殴られたかのような強い衝撃で、しばらくは動けなくなりました。

「パリに行けなくなってしまった…」

夢が一瞬にして絶たれた時、人は思考回路が停止するのだとこの時初めて知ったのです。

 

ですが、立ち止まっていても状況は何も変わりません。

私の気持ちは既にパリにあったので 留学を断念するという選択肢はありませんでしたし、

こんな経験までして変更しなければならないこの先の“パリライフ”はさぞかし素晴らしものなのだろうと。

前向きに捉えて、フランスへ行けることだけを考え大急ぎで再出発に向けての準備にとりかかりました。

 

こうして無事にフランスに入国し、新しく登録した語学学校でフランス語を勉強。 

その後 研修なども含め約5年のレストラン勤務が始まります。 

ついに海外で好きなことをして働ける、生活ができる夢が叶ったのです。

製菓学校で得た知識や技術、語学学校で学んだフランス語を活かせる機会に恵まれ、この仕事をしなければ見ることのでなかったたくさんの景色。雑誌やテレビで観ていた何倍も眩しくてキラキラとした現実に酔いしれていたのは言うまでもありません。

 

しかし、楽しいだけの毎日ではありませんでした。

パティシエという職業は自分で決めた進路でしたが、ある時からセンスが無いことに気がつき、私には向いてないのかもしれないと精神的にも身体的にも限界を感じるようになりました。

メトロの終電がなくなりタクシーで帰るのは当たり前、数時間の睡眠の後、通勤ラッシュと呼ばれる時間から程遠い朝の時間帯に出勤。私の目に映るパリの街はいつ見ても暗く、当時はモノクロに見えていました。

でもそれは、大変な毎日から逃げたいという弱さからくるものなのだと、下積み時代というのはこれが当たり前。

突き進んで行けば、必ず“ゴール”に辿り着くはずだと心の声に耳を傾けることなく、 毎日を必死で過ごしてきました。 

一度決めたことは、諦めてはいけない。続けていれば成功できて、何者かになっているのかもしれないと。。。 

「パリに住めていいなぁ」「羨ましい」と言われては、とてもそうとは言えない現実にやりきれない思いでした。 

いつも自分に自信がなく、どこにいても居心地の良さを感じることが出来ず、すべては自分が引き起こしているとわかっているからこそ、悩んでいました。 

私にはパティシエとしての目標がなかったのです。 

 

辿りつくはずのゴールがないままがむしゃらに走り続ける私に、オーナーは仕事のやり方だけでなく、フランスで生きていく方法や幅が広がるようにとお茶や日本酒などの資格を取得するチャンスを与えてくださいました。 

今の私があるのはこの時の経験があったからだと確信しています。 

カリグラフィーをやってみたいと思うようになったのも、悶々としていたこの時期でした。 

 

それからパティシエという仕事から離れ、結婚など人生の大きな転機を迎えることとなりました。 

肩書も何もなくなった私はこれからどうやって生きていくのかと自問自答の日々。 

“挫折”という言葉が重くのしかかり、 

「仕事を辞めたんだね」

「何もなくなってしまったね」

「せっかくパリに来たのにね」

と 何度も囁く自分が勝手に作り上げた悪魔に飲み込まれそうになりました。 

でも逆を言えば何でもできる自由を手に入れた私は ふとやりたかったことを、損得考えずにやろうと決め、2014年にCalligraphisというサンジェルマンに界隈にあるカリグラフィー教室に通い始めました。 

1803年創業のパリ生まれのコスメブランドBulyへの転身までの2年半の間、ブリュノ・ジガレル氏に師事。その後、現在までローラン・レベナ氏に師事しています。 

 

カリグラフィーはイタリック体、ゴシック体、カッパープレート体と様々な書体があるのですが、教室ではアンティカ体(およそ15世紀のイタリア発祥の書体)、シャンセリエール体(日本ではイタリック体と呼ばれているもの)という幅のあるペン先で書いていく書体から始めていきました。 

 

ペン先のことをフランス語でプリュムPlumeと呼ぶのですが、先端をインクに付けて 書いていく動作、書くときに聴こえてくるカリカリという音や紙の上にぷっくりインクがのってキラキラと輝く様子は何度見ても胸が高まります。

今でこそ、パソコンで文字を打つというのが当たり前になりましたが、それと逆行して手書き文字というものに価値を感じてくださる人も増えているのも確かです。 

カリグラフィーは見る人にも、書く人にも、喜びや癒しを与えてくれる

そんな効果があると思っています。 

 

2016年頃からは少しずつ教えることを始めました。 

ブログにコツコツ記事を載せていたら、「教えてほしい」という依頼が入ってくるようになったのです。 

そこからは日本一時帰国に合わせて年に2回ワークショップを開催、 

通信レッスンなどは2017年からやっていましたが、コロナ禍でオンラインレッスンというものがスタンダードになり、私の仕事もその流れに乗って加速していきました。 

先日も3年振りに日本へ帰国、1dayレッスンも大盛況のうちに終わりました。 それまでオンライン上でしか交流のなかった受講生同士も対面で会えたことに興奮を隠しきれずにいる様子に、目を細めるばかりでした。

こうして人と人が繋がっていく瞬間には、何とも言えない歓びがあります。きっと、この気持ちを感じたくて仕事をしているのだと思います。

 

パリに行きたくてお菓子の道を選び、こうして辿り着いた先にカリグラフィーがありました。 

あの時絶望、挫折だと思っていた、留学斡旋会社の倒産、パティシエを辞めるという選択は、いま振り返ってみるとたったの一コマにしか過ぎませんでした。 

なぜなら、今パリでカリグラフィーに夢中になれていることは今までの出来事を経て、導かれた場所だからです。 

悪いと思っていた出来事が、「この出来事のお陰で・・・」と大逆転する瞬間は 正に、すべてのことに意味があるという言葉が綺麗事ではないことを教えてくれました。

フランス語が伸びたのも、仕事で不手際を起こしてしまった時。必死で辞書を引いて伝えた言葉は自分のものになっていくことを身をもって経験することができました。

ピンチはチャンスは本当だったのです。

 

全てが順調で望んでいないことが起こらない、ふり幅のない人生は起承転結のない映画やドラマと同じで面白くないのかもしれません。 

その幅が広ければ広いほど、印象的なシーンとなり深く心に刻まれるように思います。 

 

あの時パリ行きを諦めていたら、今の私は間違いなくいませんし、 夫とはその後申し込んだ語学学校で出会った ということからも、 

出来事のひとつひとつが貴重なパズルのピースであって、大切な構成要素だと感じずにはいられません。

一つでも欠けたら作品が完成しないと思うと、どんなことも一場面で良し悪し判断はできなくて、そもそも悪いできごとなんてないのでは…という気にさえなってきます。 

人生そのものがひとつの物語であると捉えると、どんな経験も愛おしく思え、すべての出会いと出来事に感謝の気持ちが湧いてきます。

 

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今はフランスの書体を中心としたカリグラフィーという形で、私の考え方などを発信していますが、 何らかの縁があり出会えたことで、人生がより豊かになる きっかけになってくれたらという想いでいます。 

「こんな書体がやりたい」「今の書体をもっと続けて学んでいきたい」という要望をいただくことはとても嬉しいことです。 

 

これからも、自分自身学びを深めていかなくてはいけませんが、それだけでなくこれからは更に誰かに必要とされる存在、多くを与える人でありたいと思います。

 

どんなことが起きても怖くない、全ての出来事に感謝することができたら、人生はもっと面白い方に展開されていくのかもしれない…!

そう信じてなりません。

 

これまでとこれから、そして今に

たくさんの「ありがとう」を込めて。

text and photo - Sawa

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カリグラファー

Sawa

1983年 愛知県生まれ

2008年よりフランス・パリ在住

2014年 カリグラフィーを始め、現在もアトリエに通いながら

フレンチスタイルのカリグラフィーを伝える活動をしている

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#28
December  2022
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PEOPLE

#44

STAY SALTY ...... people here

I got all my energy from Vietnam.

Masamichi Kurimoto

元気は全てベトナムからもらった

ベトナム料理店開業

 

「マサミチ!どうしたん?もうごはんの準備できとるよ。何時に帰るん?」

福岡で1人暮らしをする母からの電話に頭が真っ白になりました。

 

 

****


東京で会社員していた私。

生まれ故郷北九州市小倉で1人暮らししていた高齢の母。
以前から認知症の症状が出ており心配はしていました。
しかし、その時は突然来たのです。

(母からしたら急では無かったのですが…)

翌日小倉に帰り会った母は以前の母ではありませんせんでした。

母の認知症は休職をして様子を見るなどという状態ではなく、すぐに仕事を辞め実家小倉に戻る事になったのです。

小倉に戻ったものの仕事をしなくては生きていけません。

しかし、母の介護をしながらサラリーマンはとても無理そうでした。

考えついたのが会社員時代からの付き合いのあったベトナムです。

特に癖のないベトナム料理は世界中で認められています。

それなのに当時(10年前)は、政令指定都市北九州市にベトナム料理店が1軒もありませんでした。

という事はライバルがいないということ!

大きな売り上げは望めませんが母の介護をしながら細々と営んでいくのにちょうど良さそうだと、海外移住をしようと計画し貯めていた資金を使い、ベトナム料理店を始めることにしたのです。

料理は当時北九州市にも増え始めたベトナム人留学生達に交代で作ってもらえばいい、などと気楽に考えていました。

店名はベトナム人・日本人双方に覚えててもらいやすい『ChàoCafe(チャオカフェ)』に決定。

チャオはベトナム語で「こんにちは」です。
 

12.15 2022

栗本正道

キッチンカー・チャオカフェ

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リエンさんとの出会い

 

私のベトナム料理店人生は、調理人リエンさん無しには語れません。
彼女はチャオカフェのオープン時から支えてくれた人です。

大変真面目で努力家。

絶対に諦めず常に明るい人。

親子ほど歳は離れていますが尊敬、信頼しています。
実はリエンさん、最初のアルバイト面接前に落ちていました。

彼女からアルバイト応募電話が来た時、すでにアルバイト調理人2人が決まっていたため、その時点で定員越えだったのです。

ところが、アルバイトのうち1人に問題発生!

実はほとんど日本語がしゃべれなかったんです。

出来ない事でも「出来る!」と言ってしまう癖のあるベトナム人。

なんでも「はい!はい!わかった!」と言っていたので大丈夫、と信じて疑わなかった自分がバカだったです。

いざ作業練習に入ると全く私のいう事が理解できなかったのです。
この時点で開業1週間前!

焦った私はリエンさんに電話し「やっぱりアルバイトをお願いしたいです。」と恥を忍んでお願いしました。

「わかりました。どうすればいいですか?」

リエンさんの快い返事に安心しました。

「〇〇駅前で待っていてください、迎えに行きます。」

急いで車を走らせました。

この時リエンさんは弱冠20歳日本語学校1年生でした。

更に日本に来て5ヶ月しか経っていませんでした。

駅に迎えに行った時不安そうに立っているリエンさんの姿は今でも忘れられません。

 

****


開業から1年。

『チャオカフェ』は、なんとか営業も黒字で持ちこたえました。

しかし2年目に入り自宅で介護していた母の症状が急に悪くなり、朝晩が逆転し、深夜近隣徘徊が始まりました。

私自身生活荒れ、店の営業も出来る状態では無くなってしまったのでした。

当然ベトナム人アルバイトだけで店舗運営出来るはずもなく、売り上げはどんどん落ちていきました。

呆れたベトナム人アルバイト達は次々と店を辞めてしまい、最後はリエンさん1人になってしまったのです。

そこでリエンさんが言いました。

「チャオカフェは私の家みたいになった。それに日本も大好きでずっと暮らしたい。店長、私社員にしてください。」

この1語に全てに甘かった私は打ちのめされました。

20歳ちょっとの女の子がベトナムにいる家族の為、留学という名の出稼ぎに来ている。

彼女達の生活を支えているという考えが全くなった自分が恥ずかしくなりました。
すぐにリエンさんの就労ビザ取得と母の介護状態改善に奔走しました。

どちらも苦難の連続でした。

しかしリエンさん他ベトナム人留学生の姿を見ていると弱音など吐いている暇はありません。
なんとかリエンさんの就労ビザを取得し、母も公的機関の支援を借り施設に入居する事が出来ました。

リエンさんの頑張りもあり、開業3年目から黒字に転換。

更に5年目から食べログで福岡県ベトナム料理店中1位の地位が不動のものとなりました。

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店舗開業当時

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リエンさん結婚式

突然の閉店

 

順調にいっていたチャオカフェ営業。

リエンさんも在福ベトナム人男性と結婚し、安定した日々を送っていました。

リエンさん共々子供に関しても「私のあかちゃんはもうちょっと先かな。その時は私の代わりを探さないとね」と呑気に構えていたんです。

ところがある日定期健診にいっていたリエンさんから驚きの電話が来ました。

「店長!私妊娠してるってお医者さんに言われたよ!」

それでもまだ1年あるから、などと言い訳をし動かないでいると、ベトナム人実習生通訳の会社に勤めていたリエンさんの旦那さんが急な転勤で福岡市に引っ越すことになってしまったのです。

福岡市と北九州市、同じ県内ですが車で2時間の距離。

生まれたばかりの赤ちゃんもいるのにとても通える距離ではありません。
全てが急すぎて対応できず、色々考えた結果、小倉の実店舗は閉店する事にしました。

リエンさんの料理で人気だったチャオカフェです。

当然廃業を考えました。

その時私の頭にベトナムの風景が浮かびました。

天秤棒に食材と七輪をのせてトコトコ歩いてきて、道端に簡易露店を開いているおばあちゃん。
これも立派な商売です。
「なんだ!自分で作って自分で売ればいいんだ」

頭のもやもやが綺麗になりました。

それはとても簡単な事だったのです。

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リエンさんご家族

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キッチンカー登場!!

キッチンカー営業開始

 

恥ずかしながら私はその時まで料理は全くしていませんでした。

ベトナム料理なんて調味料の名前すらわかりません。

しかしベトナムへは会社員時代含め20年以上通っています。

ベトナムの風、ベトナムの味を伝える自信はありました。

思い立ってから3ヶ月。

リエンさんの家に通いベトナムフォーの作り方を特訓してもらいました。

同時にコロナ禍の新しい営業形態として注目されているキッチンカーへの業態変更を進めました。
しかし、キッチンカー開業後も失敗の連続です。

当たり前ですよね。

3か月前までは料理もしたことが無いのですから。笑

それでもチャオカフェ実店舗時代からのお客様に支えられ、なんとか1年営業する事が出来ております。

最後に

 

キッチンカーを始め、1人で調理・営業をする事になりお客様の暖かさが身に染みます。

北九州市は工業地帯です。

派手な福岡市と違いあまり良いイメージを持たれていません。

住んでいる人達も職人肌、人見知りが強く人当たりもキツイと言われます。

しかし一旦お気に入りになっていただくと、とことんお付き合いいただけます。

チャオカフェ実店舗を閉め、リエンさんがいない今でもほとんどが実店舗時代のお客様です。

リエンさんが料理できなくなった時、辞めなくて本当に良かったです。

諦めない気持ち!

これを教えてくれたのはリエンさんはじめベトナムの人々、ベトナムという国です。

心が苦しくなった人はベトナムに行かれる事をお勧めします。

必ず糸口が見つかるはずですから。笑

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キッチンカー・チャオカフェ

栗本正道

福岡県北九州でベトナム料理のキッチンカーを営んでおります。

5時間コトコト煮込んだスープが自慢のフォー、レモングラス根茎をふんだんに使ったベトナムカレーをお出ししています。
お恥ずかしい話ですがキッチンカーを始めるまで調理した事がありませんでした。

キッチンカーもほぼ手作りのおんぼろです。

それでも暖かいお客さ様に包まれ毎日楽しく市内を走り回っております。

キッチンカー営業についての質問等はメールにてお願いします。なんでも聞いてください。

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#27
November  2022
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PEOPLE

#42

STAY SALTY ...... people here

Sweat and Stubbornness

Flower Life

Tamaki Kumagai

汗かきベソかき花人生

A moveable feast / 移動祝祭日

 

『もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、
その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。
パリは a moveable feast (移動祝祭日)だからだ。』

                 アーネスト・ヘミングウェイ

****

この巻頭エピグラフは、実際にヘミングウェイが若い友人に語った言葉でした。

その短編集は「移動祝祭日」と名付けられ、彼の遺作となりました。

 

1920年代、彼が小さなパリのアパルトマンに住み、空腹を抱えながら、情熱的に執筆活動を始めた頃の回想録の様な短編集です。

 

私も幸運なことに、若い頃パリで暮らした日々がありました。

1990年代、情熱的にフラワーデザインを学んだ頃のことです。

 

帰国後に、この本と出会ったのですが、パリの街の描写がそのまま私の思い出と重なっていました。

まるでヘミングウェイと同時期にパリにいた様な錯覚をして、私の移動祝祭日が輝き始めました。

汗かいてベソかいて、いつも飢えていた。

そんな日々を愛おしく回想します。

いつまでも昇らぬ太陽

 

私が最初に降り立ったパリは、真冬のどんよりとした、薄暗い灰色をしていた。
ヨーロッパの冬は、いつまでたっても太陽が昇らない、闇の中から1日が始まる。
メトロの駅まで歩く間にも、心が折れかかる。
なかなかフランス語が上達しない事や、何でも時間通りに進まないフランス社会へのフラストレーションがたまりに溜まっていたし、あまり良い精神状態ではなかった。

 

朝から花の学校へ行き、午後の実習を終えて、夕方から語学の学校へ通っていました。
どちらの学校でも、私は常に劣等感を抱えて周りの人たちと自分をつい比べてしまう。
さすが、アールドヴィーヴル(生活芸術)の国。
フランス人の感性は突き抜けていたし、夕方の語学学校は、日中働いているヨーロピアンばかりでフランス語の習得も日本人の私より有利だった。

フラワーアーティスト/花の活動家

熊谷珠樹

11.7 2022

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悪くないはかなり良い

「pas mal (パ マル)/ 悪くない。」

たいてい、先生は私の作品をそう評しました。

悪くなく、良くもない。

どーでもいい作品なんだなと下を向いた。
否定から入る表現は、あまり良い印象を抱けないものです。

しかしそれは、しばらくフランス語を勉強してみて、その言葉の深い意味を知るのでした。

 

「pas mal ~」の意味は、けっこうな~とか、かなりたくさんの~など、ポジティブな意味合いで使われます。

江戸っ子だって「悪くないね~」という時、かなり気に入っている様子が伺えますね。
遠回しに言うことが、ちょっと粋だったりする。
私の作品、結構良い評価をもらっていたんだ!

ずっと劣等感を大切に抱えていたなんて…
バカだね~と自分を笑い、暗がりに一筋の光がさした気分でした。

 

そのうち、先生は「トレ・ジョリー/とても綺麗」と評するようになって行きました。

どんなに嬉しかったことか。

 

自分の内側に闇を抱えることで、オリジナルの美学が生まれる。
外へ発散するよりも、グッと自分の内側に抱えてしまう。
そして、ただ黙って言いなりになるのではなく、暗がりの中で、手探りで試行錯誤を続けること。

その時に何かを掴む。
そんな境地に至ったのでした。
 

愛のない女にならない

 

Comme quoi une femme sans amour ? 
C'est comme un fleur sans soleil. Ca deperit.

愛の無い女っていうのは、お日様にあたらない花みたいなものよ。
萎(しお)れるの。
                          ー映画アメリよりー

 

灰色のパリから、小さな希望の光が差し込んで、季節は春へ。

 

ある日曜日の午後、学校の友達からホームパーティーのお誘いが来た。
早くパリの生活に慣れたいのと、語学の勉強になるから、そういうお誘いは喜んで伺います。
しかし、コンビニもないパリのこと、日曜日に気の利いたお店が開いているわけがない。

街は完全にクローズ状態。
さあ手土産に困った!
私は当時、日本代表の大和撫子を背負った心境で、素敵な手土産を持って行くことは外せない。

仕方がない…もうあれしかない。
手ぶらで行くより、いちおう日本製品だし、珍しがってくれるかもしれない。
ストックしてあった柿ピーを持って行くかあ。
大和撫子、大いに妥協である。

 

私は昔から柿の種が大好物で、ストックがないと不安になるくらいハマっていたのです。
それは、缶に入った、高級なものではなく、コンビニでも買える、いわゆる柿ピーというもの。
「日本から何か送って欲しいものある?」

と聞かれれば、すぐさま「柿ピー」とリクエストしていたから、パリにも沢山ストックしてあった。


そんな風にして、パリの屋根の下20代女子がひとり、ワインのお共に(ビールといきたいところ…

しかしフランスのビールはまずくて高い)柿ピーをポリポリなんて、全然オシャレじゃない。

誰にも見せられない裏の顔。

エレガントじゃない、ヘルシーじゃない!

わかっちゃいるけどやめられない。

そんなお年頃に特有の、後ろ暗さがありました。
疲れ過ぎた日には、柿ピーでディナー終了なんて日も結構ありましたね。

理想と現実の間に揺れる大和撫子であります。
 

そんなわけで、禁断の柿ピーを恐る恐る手土産に友人宅を訪ねました。
ところが、どっこい。
さすが、私が愛した柿ピーはたいしたもんです。
日本のおつまみは、質が高いね!と、みなさん、バクバク食べるのですよ。
ディナーの前なのに、全力で完食。
今では「旨み」はフランス料理界で注目されていますが、この柿ピーで彼らは初めて、旨み体験をしたのではないでしょうか。
カツオエキスの旨みに醤油がブレンドされ、ピーナッツがまたピースメーカー的な役割を果たしていて、スナック菓子なのにジャンキーとは程遠い味わい。
柿ピーが、美味しいと言われた事が死ぬほど嬉しかった。

後ろ暗い心が共感者を持ったことで自信をつけたのでした。

 

さらに、あの頃の私のフランス語ときたら、テレビとラジオから聞き取った言葉と、フラワースクールの校長先生が話す上流言葉(ざーます言葉的な)が混じって、ヘンテコで、おかしかったと思われます。
例えば、「お茶でもいかが?外は、馬の小便みたいに雨が降っていますわ」(土砂降りの雨と言いたい)と、ニッコリ話しているわけです。

気の利いたおつまみを持って来るおもしろい子だと、それ以来、ホームパーティーのお誘いが増えて

急にモテモテに。
何がうけるか分からないから、人生って愉快です。
 

私はこう思った。

劣等感を抱きしめてあげよう。
そして、柿ピーが好きなら愛を持って、美味しく食べればいいさ!
ジメジメした心をお日様にさらしてしまおう。

愛が枯れて、萎れてしまう前に。

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経済よりアムールの街

パリに来て半年くらいたって、段々と日常会話が成立するようになりました。

ヘンテコな言い回しでも、相手が笑ってくれたらそれでコミュニケーションは大成功。

そんな風に思えるようになったら、自然と劣等感も消えて行きました。


日本人は、言葉が通じるかどうかを気にし過ぎる。

それも、正しい言葉使いで。
もし、それで外へ飛び出すチャンスを掴めずにいるとしたら、なんて勿体ないこと。
私がパリ行きを決めた時、誰もが第一声、「フランス語話せるの?」と聞いてきました。

私は答える。

「ボンジュールとメルシーしか知らん」

愛を語るのに正しさはいらない

 

伝えたい思い、相手を知ろうとする情熱。
それがなければ、いくら語学を習得しても本当のコミュニケーションは生まれない。
自分は何のために今ここにいるのか?
という問いに、明確な答えを持たないと、使いもしないツールをたくさん増やしてしまい、人生は大混乱です。


私があの頃、パリに居続けた理由はひとつ。
目の前の人が喜んでくれるブーケを作りたいから。
学校から持ち帰った花をアレンジし直して、アパルトマンの管理人さんにプレゼントするのが喜びだった。
マルシェで花を買い、ブーケを作って友達の家へ持っていくのが楽しかった。
それは、シロツメグサで花冠を作り、母にプレゼントした幼い頃と何ひとつ変わっていない。
野原で花を摘むのは真剣勝負で、その余力で学校の勉強をしていたようなものです。
私にとって、目の前の人が笑顔になることにこそ、情熱を傾ける価値があるから。
人によって、その価値は違うでしょう。
それがオリジナリティーを生むのですから。

壁を壊せ

 

We can be heroes, just for one day

僕らはヒーローになれる 

たった一日だけなら

       「Heroes/ David Bowie」

 

***

人は、内と外を区別する境界線を引きたがる。
外からの侵入を防ぐために、または、外へ出さないために、壁を必要とする。

私たちは、知らずに自分の周りに壁を張り巡らせてしまいます。
外と内を隔てる思い込みの壁です。
だから、実在はしません。
実在しないから、気付かないことが多い。
創作とは、壊すことから始まります。
古いものを壊すから新しいものが生まれる。
生み出す力と破壊力のぶつかり合い。
歴史的な大作には、見る人の心を震わせ心の壁を打ち破るパワーを持つものがあります。
学校の教科書で見た名作の数々は、実物をその空気感と共に鑑賞してこそ本来の意味を持つことを思い知りました。

芸術作品に触れることで、私の心に、新しい創作の種が蒔かれる。
毎週末、通い続けた美術館巡りが、私に多くの種を植えつけてくれたのでした。
技術的なことや、デザイン的な事以上に、何を人々に与えられるのかということがアートのミッション。
アート作品は、壁に阻まれそうになる私のヒーロです。
そしてそこからインスピレーションを与えられた私たちは、日々の小さなチャレンジで、自分の壁を打ち壊して行きます。
そして、それを身近で見ている人たちのヒーローになれるのです。

メリーゴーランドに乗って

 

緊急事態宣言が発令された2020年。

私はしばらく対面レッスンを休止していました。

その間に、会えない人たちに向けて毎週メルマガを書いて送っていました。

それがこの「汗かきベソかき花人生」です。

今回は、初回から数号を書き直してこちらへ掲載させて頂きました。

 

この後、私は国家検定、国際コンクールと挑戦が続き、人生の激流にのみ込まれて行く…

というストーリー展開になるのですが、始まりの部分が全てを語っているように思います。

 

0からスタートを切るはずが、自分の思い込みでマイナス方向へと転がり落ちて行く。

ほんの小さなつまずきが重なっただけで、人は簡単に劣等感を抱いてしまうものです。

それをニュートラルな0地点へ振り戻すことで、ようやく物事は動いて行くのではないでしょうか。

 

さて、冒頭のヘミングウェイの言葉は、どんな時に語られたのでしょう。

ある作家志望の若者からこんな相談を受けました。
「今の仕事を辞めて、パリで暮らしてみたいと思う。そして、自分に作家になれる才能があるかどうか、見きわめたい」
それに対しヘミングウェイは、
「適切な助言を与えるのは難しいことだが、ひとつだけ、これだけは間違いないと、かねて思っていることがある。」

と前置きをしてこう言った。
『もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。パリは a moveable feast (移動祝祭日)だからだ。』

作家として成功するのかどうかを超越した世界観。
一度流れた電流の回路は、そう簡単になくならない。
しびれる電流が全身に流れ、一生消えない回線が確立してしまうかのように。
頭で考えることって、人生のほんの数パーセントの有効性しかないけれど、体験することは、一発で人生を変えてしまうほどの威力を持つのだろうと思います。
恐れず、それに手を伸ばせるのか。
ほんの一瞬間に決まってしまうこともあります。

正しさより楽しさを選べと、そうヘミングウェイは言っているように私には感じられます。

そして、誰にとっても、それぞれの移動祝祭日は人生にやって来ます。

 

ヘミングウェイの時代から70年後のパリに居た私は、同じ景色を見ていました。

通りの名前も番地も変わらない。

あの頃のままのカフェも、公園も。

オスマン様式のアパルトマンも。

それはパリジャンの頑固さに映ることもある。

 

東京という街は、たった数年で私を浦島太郎にしました。

道が変わり、新しいビルが街並みを変えて、時間に急かされて道に迷う。

そこが、しなやかでタフな東京の良さと映ることもある。

 

パリのあちこちで見かけたメリーゴーランド。

それは移動祝祭日にふさわしい遊具。

どこで暮らそうと、私は花で人々の移動祝祭日を彩りたい。

 

私にとって花はメリーゴーランド。

text and photo - Tamaki Kumagai

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フラワーアーティスト/花の活動家

熊谷珠樹

都内アトリエにて行う教室運営のほか、フローリストの枠を超えて、子どもたちに向ける花育活動や、

空間装飾、他業種コラボなどを積極的に行い、クリエイティブな活動を行っている。
花を軸とした名言を次々生み出す言葉の達人でもある。
花の世界を飛び越え幅広い年代の人々から支持を集めている

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#26
October  2022
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PEOPLE

#41

STAY SALTY ...... people here

I'm home. Welcome back.

ただいま、おかえり

我が家の次男のルーティン

 

15時過ぎになると、学校帰りの小学生の話し声が自宅に近づいてくる。

もうすぐ小学校3年生の次男が帰ってくる。私はこの子どもたちが帰宅する時間が好きだ。

 

「ただいまあ」。

 

と言いながら、彼はどさっと玄関にランドセルを放るとすぐにトイレへ行き(←学校から帰ってくると安心するのか大きい方が出るとのこと・笑)、“用”が済めば「お腹空いた、おやつない?」とおねだりしてくる。

 

彼からは、ふんわりと甘く優しい給食の匂いが漂ってきて、いくら忙しくてもその匂いを嗅ぎたくなってギュっと抱きしめてしまう。

最近は嫌がられることも増えて、終わりを感じて寂しいのだけど、ギュッ、までが我が家の次男の帰宅後のルーティン。

 

こうやって、顔を合わせて、「ただいま」「おかえり」が言えること、お互いの気配を感じながら宿題したり仕事をしたりする時間があることは、きっと私がおばあちゃんになったときに思い出す「しあわせな日常」なんじゃないかな。

 

仕事が立て込んでいて忙しいときは「もう少し一人の時間で集中したい!」と思うこともあるけれど、あと2~3年も経てば、この子どもたちの声が徐々にクレッシェンドしてくる時間が懐かしくなるに違いない。

 

じきに給食の残り香が嗅げなくなる日がくることを想像すると、のどの奥がぐっと熱くなってくるのです。

ライター/はぐくむ株式会社 代表取締役

高橋かずえ

10.7 2022

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Kazue Takahashi

 私の仕事

 

ここで少しだけ自己紹介を。

 

私は、2005年からライター業を軸に、企業向けのコンテンツをずっとつくり続けている。

 

執筆だけのときもあれば、編集者となってパンフレットもつくり、必要であればディレクターとなって映像を手掛けることもある。

とにかく制作の仕事が好きだ。

 

ライターというと、雑誌や書籍を思い浮かべる方が多いかもしれないが、私の仕事では本屋さんに並ぶような媒体のお仕事をするのはごくわずか。

仕事の9割が会社のマーケティングや採用に関わる部分のサポート業務になるため、あるときから自分の仕事に「マーケティング支援コンテンツ制作」と名前を付けて仕事をしている。

 

「何しているかよくわからないけどライターの人」と思われていそうだが、そう言われながらも仲間が増え、作れるコンテンツの幅は広がり2022年で独立してから17年が経った。

 

毎年、崖っぷちで、仕事とプライベートの境界のない毎日ですが(汗)、まぁまぁ長くこの道を歩み続けた今、『人生とはその「今日一日」の積み重ね、「いま」の連続にほかなりません。』という稲盛和夫さんの名言がぐっと身に沁みる。

 

まだまだですが、継続することで、独立15年を過ぎたあたりからやっと自分の仕事の価値や得意な部分を肯定できるようになりました。

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在宅ワーク、最高です!

 

仕事の内容はさておき、私の仕事人としての人生を振り返って、「これだけは絶対によかった!」と言えることをひとつ、ここでお伝えしたい。

 

それは、2005年からずっと在宅ワークを続けていることだ。

 

2022年9月現在、コロナ渦で在宅ワークがだいぶ浸透したが、それよりもはるか昔から在宅ワークをしてきた“プロ在宅ワーカー”の私からすると、在宅ワークは子育て中の人たちに全力でオススメできるとても都合のいい働き方である。

(3人の子育てをしてきた私がいうのだから、間違いない!)

 

だって、「ただいま」「おかえり」のひとことで、(今日の声の調子だと学校で楽しいことがあったなぁ)、(おや? 元気がないから何かあったのかな)、と、子どもの様子を察することができ、ほんの数年しかない貴重な子育ての時間を目の前で見守ることができるのだから。

 

学校で発熱すればお迎えに行ける。

子どもの習い事の送迎もやりくりすればできる。

我が家の次男に限っては、帰宅後にトイレに行くかどうかで健康チェックまでできちゃうのだ。

 

手がかかる子育て期間が終わろうとしている今だからこそ、紆余曲折はあったけれど在宅ワークを続けられてよかったと心から感じる。

 

何か特別なことができる母親ではないが「ママはパソコンばっかりだったけどさ、いつも一緒にいれたよね!」と胸を張って言えるのは、なかなか悪くないと思う。

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働きやすさも、働きがいも

 

2021年に「オンラインアシスタント」という仕事を小さくスタートしてみたところ、予想以上に反響が高くて驚いている。

ここでいう「反響」というのは、オンラインアシスタントの仕事をしていただいている周りのママたちからだ。

 

オンラインアシスタントとは、すでにお取引のある企業様から、日々の細々としたWeb周りの業務を切り出してご依頼いただく仕事だ。

おもにホームページやSNSの運用代行がメインの仕事になるが、お客様からも「本業に専念できる!」と非常に喜んでいただいている。

 

まずは私の周りのママたちに声をかけて、1日1~2時間くらいの仕事をお願いしてみたところ、「この仕事ができて本当によかった。ありがとう!」と感謝の声が届いた。

恐る恐る声をかけてスタートした仕事だったので、この予想外の言葉は、うれしくて涙がでた。

 

ちなみに、オンラインアシスタントの仕事は、これまで私が子育てをしながら在宅ワークで得たノウハウをもとに、「働きやすさ」と「働きがい」が得られるように、チームを組んで仕事をしていただいている。

 

万一のことがあってもサポートし合えるよう、ひとりにかかる負担は大きすぎず、スケジュールも余裕をもって、できるだけ似た業務をルーティンで回せるようにチーム編成を検討しているところだ。

 

よく、取材記事になるような、子育ても仕事も両立しているバリキャリはもちろん素晴らしいけれど、みんながみんなしたいわけではないし、他人には見せないだけで気持ちに折り合いをつけながら働いているのかもしれない。

 

ひと月に1~2万円分の少ない仕事量だったとしても、家で仕事ができる安心感、稼ぐことができる自信、働き続けることの誇りは大きな価値があるものだ。

 

子育て中は社会から切り離された孤独さもあるから、家族以外の誰かから「ありがとう」と言ってもらえることは、生き甲斐にもつながるだろう。

 

まだまだ小さな芽が出たばかりの仕事だが、私の4人目の子どものような存在として法人も設立したところだ。

もっと多くの人たちが「ただいま」「おかえり」が言えるように、私は在宅ワークを推進していきたい。

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プロ在宅ワーカーの反省点

 

ああ、予想以上に真面目な話が続いてしまった…!

 

在宅ワーク推進派の私が、在宅ワークをするなかで後悔していることがあるとすれば、働きすぎているところだ。

 

40歳を過ぎた今、無理な働き方は人生を短くしてしまいそうで、仕事をルーティン化できるよう業務効率を模索するようになった。

目の前の仕事をこなしていくことで精いっぱい…、というのが正直なところだけれど、オンラインアシスタントのママたちとも仕事をシェアしながら体制を整えていくことが次なる目標だ。

 

子育ては、成長の喜びと寂しさが隣り合わせだ。

 

色んな考えがあるのは承知の上で私の理想をお話すると、いずれ終わりが来てしまう子育て期間は、給食の残り香がかげるようなに近い距離で、ゆったりとした気持ちで、限りある子どもとの時間を過ごしてもらいたいものです。

もちろん、自分自身にも言い聞かせながら。

 

もうすぐ、「ただいま」「おかえり」の時間がやってくる。

text and photo - Kazue Takahashi

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ライター/はぐくむ株式会社 代表取締役

高橋かずえ

はぐくむ株式会社 代表取締役。富士山の麓、山梨県富士吉田市出身。

企業向けコンテンツ制作、ITママによる小さな会社向けのオンラインアシスタント、LINEマーケティング、住宅業界の専門ライターをしています。パラレルキャリアでシナジーを生みながら、私は私らしくやっていきます♪

photo - Tomoko Osada

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