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#28
December  2022
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PEOPLE

#43

STAY SALTY ...... people here

Life itself is a story

Sawa

人生そのものがひとつの物語

皆さんは「カリグラフィー」というものをご存じでしょうか? 

ギリシャ語で“美しい書き物”という意味です。 

文字を美しく見せる(魅せる)技法は日本の書道と共通するところがあり 

西洋書道とも呼ばれています。 

12.15 2022

Sawa

カリグラファー

現在私は、フランス パリで生活をしています。 

 

2014年9月より、パリでカリグラフィーを習い始め、今はオンラインを中心にレッスンをするまでになりましたが、憧れの土地でこの活動をするなんて渡仏した当初は夢にも思いませんでした。 

 

まずはフランスへ行くまで、そしてカリグラフィーとの出会いに至るまでどのような経緯があったか… その軌跡を思い出しながら綴っていこうと思います。 

 

10代の終わり頃からでしょうか。 

雑誌やテレビなどでパリの景色を目にする度にどこか胸の奥底から湧き上がる

トキメキやワクワクをずっと感じていました。 

 

街並み、言葉、人々のファッション、考え方、それまで見てきた日本の文化とは全く違い、 

知る度に自分の心が開放されるような、踊り出すようなそんな感覚でした。 

 

その中でもフランス菓子の世界観に魅了され、短大卒業後、製菓学校への入学を決意しました。

洗練されたデザインや素材の組み合わせに感動し、道具なども初めて目にするものばかり。レシピを読むためのフランス語の授業、独特の発音には毎回高揚し、楽しかったのを覚えています。

 

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最初にパリの地へ降り立ったのは、2005年。 

卒業研修旅行へ参加した時のことでした。 

パリ市内のパティスリー巡り、レッスン、マルシェや蚤の市へ足を運び 

「こんな生活ができたらいいなぁ」と密かに夢を抱き、 この時の滞在で私とフランスの距離はよりリアルに、ぐっと近づいたのを覚えています。 

 

その後、地元の洋菓子店に就職。多くの常連のお客様に支えられ、美味しいと評判の小さなお店でした。 

製菓学校で学んだことをすぐに実践できる現場は、体力的に大変ではありましたが充実した日々を送っていました。

 

仕事に慣れてきた頃、3歳から中学まで続けてきた書道を母の知り合いの教室で再開できることになりました。

文字を書くことがもともと好きだったのです。 

楽しいばかりではないパティシエという仕事を、メンタルバランスを保って続けられたのは、書という自分と向き合う時間があったから。何よりも心の支えでした。 

 

ワーキングホリデーで再び渡仏したのは2008年の終わり頃。 

働きながら、パリで生活できるなんてなんて素敵な制度なのだろうと 挑戦してみたい、経験してみたいという気持ちが日に日に膨らんでいき ヴィザ取得をきっかけに3年勤めた仕事を退職することに決めました。 

 

しかし、順調に思えた2度目のパリへの道のりは 

「留学斡旋会社の倒産」という形での厳しい幕開けとなりました。 

申し込んでいた滞在先、語学学校など、全てが水の泡。 

それまでの時間も、お金も戻っては来ず、振り出しに戻るという絶望を 出発まであと数週間という時に経験しました。 

 

鈍器で殴られたかのような強い衝撃で、しばらくは動けなくなりました。

「パリに行けなくなってしまった…」

夢が一瞬にして絶たれた時、人は思考回路が停止するのだとこの時初めて知ったのです。

 

ですが、立ち止まっていても状況は何も変わりません。

私の気持ちは既にパリにあったので 留学を断念するという選択肢はありませんでしたし、

こんな経験までして変更しなければならないこの先の“パリライフ”はさぞかし素晴らしものなのだろうと。

前向きに捉えて、フランスへ行けることだけを考え大急ぎで再出発に向けての準備にとりかかりました。

 

こうして無事にフランスに入国し、新しく登録した語学学校でフランス語を勉強。 

その後 研修なども含め約5年のレストラン勤務が始まります。 

ついに海外で好きなことをして働ける、生活ができる夢が叶ったのです。

製菓学校で得た知識や技術、語学学校で学んだフランス語を活かせる機会に恵まれ、この仕事をしなければ見ることのでなかったたくさんの景色。雑誌やテレビで観ていた何倍も眩しくてキラキラとした現実に酔いしれていたのは言うまでもありません。

 

しかし、楽しいだけの毎日ではありませんでした。

パティシエという職業は自分で決めた進路でしたが、ある時からセンスが無いことに気がつき、私には向いてないのかもしれないと精神的にも身体的にも限界を感じるようになりました。

メトロの終電がなくなりタクシーで帰るのは当たり前、数時間の睡眠の後、通勤ラッシュと呼ばれる時間から程遠い朝の時間帯に出勤。私の目に映るパリの街はいつ見ても暗く、当時はモノクロに見えていました。

でもそれは、大変な毎日から逃げたいという弱さからくるものなのだと、下積み時代というのはこれが当たり前。

突き進んで行けば、必ず“ゴール”に辿り着くはずだと心の声に耳を傾けることなく、 毎日を必死で過ごしてきました。 

一度決めたことは、諦めてはいけない。続けていれば成功できて、何者かになっているのかもしれないと。。。 

「パリに住めていいなぁ」「羨ましい」と言われては、とてもそうとは言えない現実にやりきれない思いでした。 

いつも自分に自信がなく、どこにいても居心地の良さを感じることが出来ず、すべては自分が引き起こしているとわかっているからこそ、悩んでいました。 

私にはパティシエとしての目標がなかったのです。 

 

辿りつくはずのゴールがないままがむしゃらに走り続ける私に、オーナーは仕事のやり方だけでなく、フランスで生きていく方法や幅が広がるようにとお茶や日本酒などの資格を取得するチャンスを与えてくださいました。 

今の私があるのはこの時の経験があったからだと確信しています。 

カリグラフィーをやってみたいと思うようになったのも、悶々としていたこの時期でした。 

 

それからパティシエという仕事から離れ、結婚など人生の大きな転機を迎えることとなりました。 

肩書も何もなくなった私はこれからどうやって生きていくのかと自問自答の日々。 

“挫折”という言葉が重くのしかかり、 

「仕事を辞めたんだね」

「何もなくなってしまったね」

「せっかくパリに来たのにね」

と 何度も囁く自分が勝手に作り上げた悪魔に飲み込まれそうになりました。 

でも逆を言えば何でもできる自由を手に入れた私は ふとやりたかったことを、損得考えずにやろうと決め、2014年にCalligraphisというサンジェルマンに界隈にあるカリグラフィー教室に通い始めました。 

1803年創業のパリ生まれのコスメブランドBulyへの転身までの2年半の間、ブリュノ・ジガレル氏に師事。その後、現在までローラン・レベナ氏に師事しています。 

 

カリグラフィーはイタリック体、ゴシック体、カッパープレート体と様々な書体があるのですが、教室ではアンティカ体(およそ15世紀のイタリア発祥の書体)、シャンセリエール体(日本ではイタリック体と呼ばれているもの)という幅のあるペン先で書いていく書体から始めていきました。 

 

ペン先のことをフランス語でプリュムPlumeと呼ぶのですが、先端をインクに付けて 書いていく動作、書くときに聴こえてくるカリカリという音や紙の上にぷっくりインクがのってキラキラと輝く様子は何度見ても胸が高まります。

今でこそ、パソコンで文字を打つというのが当たり前になりましたが、それと逆行して手書き文字というものに価値を感じてくださる人も増えているのも確かです。 

カリグラフィーは見る人にも、書く人にも、喜びや癒しを与えてくれる

そんな効果があると思っています。 

 

2016年頃からは少しずつ教えることを始めました。 

ブログにコツコツ記事を載せていたら、「教えてほしい」という依頼が入ってくるようになったのです。 

そこからは日本一時帰国に合わせて年に2回ワークショップを開催、 

通信レッスンなどは2017年からやっていましたが、コロナ禍でオンラインレッスンというものがスタンダードになり、私の仕事もその流れに乗って加速していきました。 

先日も3年振りに日本へ帰国、1dayレッスンも大盛況のうちに終わりました。 それまでオンライン上でしか交流のなかった受講生同士も対面で会えたことに興奮を隠しきれずにいる様子に、目を細めるばかりでした。

こうして人と人が繋がっていく瞬間には、何とも言えない歓びがあります。きっと、この気持ちを感じたくて仕事をしているのだと思います。

 

パリに行きたくてお菓子の道を選び、こうして辿り着いた先にカリグラフィーがありました。 

あの時絶望、挫折だと思っていた、留学斡旋会社の倒産、パティシエを辞めるという選択は、いま振り返ってみるとたったの一コマにしか過ぎませんでした。 

なぜなら、今パリでカリグラフィーに夢中になれていることは今までの出来事を経て、導かれた場所だからです。 

悪いと思っていた出来事が、「この出来事のお陰で・・・」と大逆転する瞬間は 正に、すべてのことに意味があるという言葉が綺麗事ではないことを教えてくれました。

フランス語が伸びたのも、仕事で不手際を起こしてしまった時。必死で辞書を引いて伝えた言葉は自分のものになっていくことを身をもって経験することができました。

ピンチはチャンスは本当だったのです。

 

全てが順調で望んでいないことが起こらない、ふり幅のない人生は起承転結のない映画やドラマと同じで面白くないのかもしれません。 

その幅が広ければ広いほど、印象的なシーンとなり深く心に刻まれるように思います。 

 

あの時パリ行きを諦めていたら、今の私は間違いなくいませんし、 夫とはその後申し込んだ語学学校で出会った ということからも、 

出来事のひとつひとつが貴重なパズルのピースであって、大切な構成要素だと感じずにはいられません。

一つでも欠けたら作品が完成しないと思うと、どんなことも一場面で良し悪し判断はできなくて、そもそも悪いできごとなんてないのでは…という気にさえなってきます。 

人生そのものがひとつの物語であると捉えると、どんな経験も愛おしく思え、すべての出会いと出来事に感謝の気持ちが湧いてきます。

 

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今はフランスの書体を中心としたカリグラフィーという形で、私の考え方などを発信していますが、 何らかの縁があり出会えたことで、人生がより豊かになる きっかけになってくれたらという想いでいます。 

「こんな書体がやりたい」「今の書体をもっと続けて学んでいきたい」という要望をいただくことはとても嬉しいことです。 

 

これからも、自分自身学びを深めていかなくてはいけませんが、それだけでなくこれからは更に誰かに必要とされる存在、多くを与える人でありたいと思います。

 

どんなことが起きても怖くない、全ての出来事に感謝することができたら、人生はもっと面白い方に展開されていくのかもしれない…!

そう信じてなりません。

 

これまでとこれから、そして今に

たくさんの「ありがとう」を込めて。

text and photo - Sawa

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カリグラファー

Sawa

1983年 愛知県生まれ

2008年よりフランス・パリ在住

2014年 カリグラフィーを始め、現在もアトリエに通いながら

フレンチスタイルのカリグラフィーを伝える活動をしている

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#28
December  2022
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PEOPLE

#44

STAY SALTY ...... people here

I got all my energy from Vietnam.

Masamichi Kurimoto

元気は全てベトナムからもらった

ベトナム料理店開業

 

「マサミチ!どうしたん?もうごはんの準備できとるよ。何時に帰るん?」

福岡で1人暮らしをする母からの電話に頭が真っ白になりました。

 

 

****


東京で会社員していた私。

生まれ故郷北九州市小倉で1人暮らししていた高齢の母。
以前から認知症の症状が出ており心配はしていました。
しかし、その時は突然来たのです。

(母からしたら急では無かったのですが…)

翌日小倉に帰り会った母は以前の母ではありませんせんでした。

母の認知症は休職をして様子を見るなどという状態ではなく、すぐに仕事を辞め実家小倉に戻る事になったのです。

小倉に戻ったものの仕事をしなくては生きていけません。

しかし、母の介護をしながらサラリーマンはとても無理そうでした。

考えついたのが会社員時代からの付き合いのあったベトナムです。

特に癖のないベトナム料理は世界中で認められています。

それなのに当時(10年前)は、政令指定都市北九州市にベトナム料理店が1軒もありませんでした。

という事はライバルがいないということ!

大きな売り上げは望めませんが母の介護をしながら細々と営んでいくのにちょうど良さそうだと、海外移住をしようと計画し貯めていた資金を使い、ベトナム料理店を始めることにしたのです。

料理は当時北九州市にも増え始めたベトナム人留学生達に交代で作ってもらえばいい、などと気楽に考えていました。

店名はベトナム人・日本人双方に覚えててもらいやすい『ChàoCafe(チャオカフェ)』に決定。

チャオはベトナム語で「こんにちは」です。
 

12.15 2022

栗本正道

キッチンカー・チャオカフェ

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リエンさんとの出会い

 

私のベトナム料理店人生は、調理人リエンさん無しには語れません。
彼女はチャオカフェのオープン時から支えてくれた人です。

大変真面目で努力家。

絶対に諦めず常に明るい人。

親子ほど歳は離れていますが尊敬、信頼しています。
実はリエンさん、最初のアルバイト面接前に落ちていました。

彼女からアルバイト応募電話が来た時、すでにアルバイト調理人2人が決まっていたため、その時点で定員越えだったのです。

ところが、アルバイトのうち1人に問題発生!

実はほとんど日本語がしゃべれなかったんです。

出来ない事でも「出来る!」と言ってしまう癖のあるベトナム人。

なんでも「はい!はい!わかった!」と言っていたので大丈夫、と信じて疑わなかった自分がバカだったです。

いざ作業練習に入ると全く私のいう事が理解できなかったのです。
この時点で開業1週間前!

焦った私はリエンさんに電話し「やっぱりアルバイトをお願いしたいです。」と恥を忍んでお願いしました。

「わかりました。どうすればいいですか?」

リエンさんの快い返事に安心しました。

「〇〇駅前で待っていてください、迎えに行きます。」

急いで車を走らせました。

この時リエンさんは弱冠20歳日本語学校1年生でした。

更に日本に来て5ヶ月しか経っていませんでした。

駅に迎えに行った時不安そうに立っているリエンさんの姿は今でも忘れられません。

 

****


開業から1年。

『チャオカフェ』は、なんとか営業も黒字で持ちこたえました。

しかし2年目に入り自宅で介護していた母の症状が急に悪くなり、朝晩が逆転し、深夜近隣徘徊が始まりました。

私自身生活荒れ、店の営業も出来る状態では無くなってしまったのでした。

当然ベトナム人アルバイトだけで店舗運営出来るはずもなく、売り上げはどんどん落ちていきました。

呆れたベトナム人アルバイト達は次々と店を辞めてしまい、最後はリエンさん1人になってしまったのです。

そこでリエンさんが言いました。

「チャオカフェは私の家みたいになった。それに日本も大好きでずっと暮らしたい。店長、私社員にしてください。」

この1語に全てに甘かった私は打ちのめされました。

20歳ちょっとの女の子がベトナムにいる家族の為、留学という名の出稼ぎに来ている。

彼女達の生活を支えているという考えが全くなった自分が恥ずかしくなりました。
すぐにリエンさんの就労ビザ取得と母の介護状態改善に奔走しました。

どちらも苦難の連続でした。

しかしリエンさん他ベトナム人留学生の姿を見ていると弱音など吐いている暇はありません。
なんとかリエンさんの就労ビザを取得し、母も公的機関の支援を借り施設に入居する事が出来ました。

リエンさんの頑張りもあり、開業3年目から黒字に転換。

更に5年目から食べログで福岡県ベトナム料理店中1位の地位が不動のものとなりました。

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店舗開業当時

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リエンさん結婚式

突然の閉店

 

順調にいっていたチャオカフェ営業。

リエンさんも在福ベトナム人男性と結婚し、安定した日々を送っていました。

リエンさん共々子供に関しても「私のあかちゃんはもうちょっと先かな。その時は私の代わりを探さないとね」と呑気に構えていたんです。

ところがある日定期健診にいっていたリエンさんから驚きの電話が来ました。

「店長!私妊娠してるってお医者さんに言われたよ!」

それでもまだ1年あるから、などと言い訳をし動かないでいると、ベトナム人実習生通訳の会社に勤めていたリエンさんの旦那さんが急な転勤で福岡市に引っ越すことになってしまったのです。

福岡市と北九州市、同じ県内ですが車で2時間の距離。

生まれたばかりの赤ちゃんもいるのにとても通える距離ではありません。
全てが急すぎて対応できず、色々考えた結果、小倉の実店舗は閉店する事にしました。

リエンさんの料理で人気だったチャオカフェです。

当然廃業を考えました。

その時私の頭にベトナムの風景が浮かびました。

天秤棒に食材と七輪をのせてトコトコ歩いてきて、道端に簡易露店を開いているおばあちゃん。
これも立派な商売です。
「なんだ!自分で作って自分で売ればいいんだ」

頭のもやもやが綺麗になりました。

それはとても簡単な事だったのです。

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リエンさんご家族

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キッチンカー登場!!

キッチンカー営業開始

 

恥ずかしながら私はその時まで料理は全くしていませんでした。

ベトナム料理なんて調味料の名前すらわかりません。

しかしベトナムへは会社員時代含め20年以上通っています。

ベトナムの風、ベトナムの味を伝える自信はありました。

思い立ってから3ヶ月。

リエンさんの家に通いベトナムフォーの作り方を特訓してもらいました。

同時にコロナ禍の新しい営業形態として注目されているキッチンカーへの業態変更を進めました。
しかし、キッチンカー開業後も失敗の連続です。

当たり前ですよね。

3か月前までは料理もしたことが無いのですから。笑

それでもチャオカフェ実店舗時代からのお客様に支えられ、なんとか1年営業する事が出来ております。

最後に

 

キッチンカーを始め、1人で調理・営業をする事になりお客様の暖かさが身に染みます。

北九州市は工業地帯です。

派手な福岡市と違いあまり良いイメージを持たれていません。

住んでいる人達も職人肌、人見知りが強く人当たりもキツイと言われます。

しかし一旦お気に入りになっていただくと、とことんお付き合いいただけます。

チャオカフェ実店舗を閉め、リエンさんがいない今でもほとんどが実店舗時代のお客様です。

リエンさんが料理できなくなった時、辞めなくて本当に良かったです。

諦めない気持ち!

これを教えてくれたのはリエンさんはじめベトナムの人々、ベトナムという国です。

心が苦しくなった人はベトナムに行かれる事をお勧めします。

必ず糸口が見つかるはずですから。笑

text and photo - Masamichi Kurimoto

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キッチンカー・チャオカフェ

栗本正道

福岡県北九州でベトナム料理のキッチンカーを営んでおります。

5時間コトコト煮込んだスープが自慢のフォー、レモングラス根茎をふんだんに使ったベトナムカレーをお出ししています。
お恥ずかしい話ですがキッチンカーを始めるまで調理した事がありませんでした。

キッチンカーもほぼ手作りのおんぼろです。

それでも暖かいお客さ様に包まれ毎日楽しく市内を走り回っております。

キッチンカー営業についての質問等はメールにてお願いします。なんでも聞いてください。

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#27
November  2022
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PEOPLE

#42

STAY SALTY ...... people here

Sweat and Stubbornness

Flower Life

Tamaki Kumagai

汗かきベソかき花人生

A moveable feast / 移動祝祭日

 

『もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、
その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。
パリは a moveable feast (移動祝祭日)だからだ。』

                 アーネスト・ヘミングウェイ

****

この巻頭エピグラフは、実際にヘミングウェイが若い友人に語った言葉でした。

その短編集は「移動祝祭日」と名付けられ、彼の遺作となりました。

 

1920年代、彼が小さなパリのアパルトマンに住み、空腹を抱えながら、情熱的に執筆活動を始めた頃の回想録の様な短編集です。

 

私も幸運なことに、若い頃パリで暮らした日々がありました。

1990年代、情熱的にフラワーデザインを学んだ頃のことです。

 

帰国後に、この本と出会ったのですが、パリの街の描写がそのまま私の思い出と重なっていました。

まるでヘミングウェイと同時期にパリにいた様な錯覚をして、私の移動祝祭日が輝き始めました。

汗かいてベソかいて、いつも飢えていた。

そんな日々を愛おしく回想します。

いつまでも昇らぬ太陽

 

私が最初に降り立ったパリは、真冬のどんよりとした、薄暗い灰色をしていた。
ヨーロッパの冬は、いつまでたっても太陽が昇らない、闇の中から1日が始まる。
メトロの駅まで歩く間にも、心が折れかかる。
なかなかフランス語が上達しない事や、何でも時間通りに進まないフランス社会へのフラストレーションがたまりに溜まっていたし、あまり良い精神状態ではなかった。

 

朝から花の学校へ行き、午後の実習を終えて、夕方から語学の学校へ通っていました。
どちらの学校でも、私は常に劣等感を抱えて周りの人たちと自分をつい比べてしまう。
さすが、アールドヴィーヴル(生活芸術)の国。
フランス人の感性は突き抜けていたし、夕方の語学学校は、日中働いているヨーロピアンばかりでフランス語の習得も日本人の私より有利だった。

フラワーアーティスト/花の活動家

熊谷珠樹

11.7 2022

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悪くないはかなり良い

「pas mal (パ マル)/ 悪くない。」

たいてい、先生は私の作品をそう評しました。

悪くなく、良くもない。

どーでもいい作品なんだなと下を向いた。
否定から入る表現は、あまり良い印象を抱けないものです。

しかしそれは、しばらくフランス語を勉強してみて、その言葉の深い意味を知るのでした。

 

「pas mal ~」の意味は、けっこうな~とか、かなりたくさんの~など、ポジティブな意味合いで使われます。

江戸っ子だって「悪くないね~」という時、かなり気に入っている様子が伺えますね。
遠回しに言うことが、ちょっと粋だったりする。
私の作品、結構良い評価をもらっていたんだ!

ずっと劣等感を大切に抱えていたなんて…
バカだね~と自分を笑い、暗がりに一筋の光がさした気分でした。

 

そのうち、先生は「トレ・ジョリー/とても綺麗」と評するようになって行きました。

どんなに嬉しかったことか。

 

自分の内側に闇を抱えることで、オリジナルの美学が生まれる。
外へ発散するよりも、グッと自分の内側に抱えてしまう。
そして、ただ黙って言いなりになるのではなく、暗がりの中で、手探りで試行錯誤を続けること。

その時に何かを掴む。
そんな境地に至ったのでした。
 

愛のない女にならない

 

Comme quoi une femme sans amour ? 
C'est comme un fleur sans soleil. Ca deperit.

愛の無い女っていうのは、お日様にあたらない花みたいなものよ。
萎(しお)れるの。
                          ー映画アメリよりー

 

灰色のパリから、小さな希望の光が差し込んで、季節は春へ。

 

ある日曜日の午後、学校の友達からホームパーティーのお誘いが来た。
早くパリの生活に慣れたいのと、語学の勉強になるから、そういうお誘いは喜んで伺います。
しかし、コンビニもないパリのこと、日曜日に気の利いたお店が開いているわけがない。

街は完全にクローズ状態。
さあ手土産に困った!
私は当時、日本代表の大和撫子を背負った心境で、素敵な手土産を持って行くことは外せない。

仕方がない…もうあれしかない。
手ぶらで行くより、いちおう日本製品だし、珍しがってくれるかもしれない。
ストックしてあった柿ピーを持って行くかあ。
大和撫子、大いに妥協である。

 

私は昔から柿の種が大好物で、ストックがないと不安になるくらいハマっていたのです。
それは、缶に入った、高級なものではなく、コンビニでも買える、いわゆる柿ピーというもの。
「日本から何か送って欲しいものある?」

と聞かれれば、すぐさま「柿ピー」とリクエストしていたから、パリにも沢山ストックしてあった。


そんな風にして、パリの屋根の下20代女子がひとり、ワインのお共に(ビールといきたいところ…

しかしフランスのビールはまずくて高い)柿ピーをポリポリなんて、全然オシャレじゃない。

誰にも見せられない裏の顔。

エレガントじゃない、ヘルシーじゃない!

わかっちゃいるけどやめられない。

そんなお年頃に特有の、後ろ暗さがありました。
疲れ過ぎた日には、柿ピーでディナー終了なんて日も結構ありましたね。

理想と現実の間に揺れる大和撫子であります。
 

そんなわけで、禁断の柿ピーを恐る恐る手土産に友人宅を訪ねました。
ところが、どっこい。
さすが、私が愛した柿ピーはたいしたもんです。
日本のおつまみは、質が高いね!と、みなさん、バクバク食べるのですよ。
ディナーの前なのに、全力で完食。
今では「旨み」はフランス料理界で注目されていますが、この柿ピーで彼らは初めて、旨み体験をしたのではないでしょうか。
カツオエキスの旨みに醤油がブレンドされ、ピーナッツがまたピースメーカー的な役割を果たしていて、スナック菓子なのにジャンキーとは程遠い味わい。
柿ピーが、美味しいと言われた事が死ぬほど嬉しかった。

後ろ暗い心が共感者を持ったことで自信をつけたのでした。

 

さらに、あの頃の私のフランス語ときたら、テレビとラジオから聞き取った言葉と、フラワースクールの校長先生が話す上流言葉(ざーます言葉的な)が混じって、ヘンテコで、おかしかったと思われます。
例えば、「お茶でもいかが?外は、馬の小便みたいに雨が降っていますわ」(土砂降りの雨と言いたい)と、ニッコリ話しているわけです。

気の利いたおつまみを持って来るおもしろい子だと、それ以来、ホームパーティーのお誘いが増えて

急にモテモテに。
何がうけるか分からないから、人生って愉快です。
 

私はこう思った。

劣等感を抱きしめてあげよう。
そして、柿ピーが好きなら愛を持って、美味しく食べればいいさ!
ジメジメした心をお日様にさらしてしまおう。

愛が枯れて、萎れてしまう前に。

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経済よりアムールの街

パリに来て半年くらいたって、段々と日常会話が成立するようになりました。

ヘンテコな言い回しでも、相手が笑ってくれたらそれでコミュニケーションは大成功。

そんな風に思えるようになったら、自然と劣等感も消えて行きました。


日本人は、言葉が通じるかどうかを気にし過ぎる。

それも、正しい言葉使いで。
もし、それで外へ飛び出すチャンスを掴めずにいるとしたら、なんて勿体ないこと。
私がパリ行きを決めた時、誰もが第一声、「フランス語話せるの?」と聞いてきました。

私は答える。

「ボンジュールとメルシーしか知らん」

愛を語るのに正しさはいらない

 

伝えたい思い、相手を知ろうとする情熱。
それがなければ、いくら語学を習得しても本当のコミュニケーションは生まれない。
自分は何のために今ここにいるのか?
という問いに、明確な答えを持たないと、使いもしないツールをたくさん増やしてしまい、人生は大混乱です。


私があの頃、パリに居続けた理由はひとつ。
目の前の人が喜んでくれるブーケを作りたいから。
学校から持ち帰った花をアレンジし直して、アパルトマンの管理人さんにプレゼントするのが喜びだった。
マルシェで花を買い、ブーケを作って友達の家へ持っていくのが楽しかった。
それは、シロツメグサで花冠を作り、母にプレゼントした幼い頃と何ひとつ変わっていない。
野原で花を摘むのは真剣勝負で、その余力で学校の勉強をしていたようなものです。
私にとって、目の前の人が笑顔になることにこそ、情熱を傾ける価値があるから。
人によって、その価値は違うでしょう。
それがオリジナリティーを生むのですから。

壁を壊せ

 

We can be heroes, just for one day

僕らはヒーローになれる 

たった一日だけなら

       「Heroes/ David Bowie」

 

***

人は、内と外を区別する境界線を引きたがる。
外からの侵入を防ぐために、または、外へ出さないために、壁を必要とする。

私たちは、知らずに自分の周りに壁を張り巡らせてしまいます。
外と内を隔てる思い込みの壁です。
だから、実在はしません。
実在しないから、気付かないことが多い。
創作とは、壊すことから始まります。
古いものを壊すから新しいものが生まれる。
生み出す力と破壊力のぶつかり合い。
歴史的な大作には、見る人の心を震わせ心の壁を打ち破るパワーを持つものがあります。
学校の教科書で見た名作の数々は、実物をその空気感と共に鑑賞してこそ本来の意味を持つことを思い知りました。

芸術作品に触れることで、私の心に、新しい創作の種が蒔かれる。
毎週末、通い続けた美術館巡りが、私に多くの種を植えつけてくれたのでした。
技術的なことや、デザイン的な事以上に、何を人々に与えられるのかということがアートのミッション。
アート作品は、壁に阻まれそうになる私のヒーロです。
そしてそこからインスピレーションを与えられた私たちは、日々の小さなチャレンジで、自分の壁を打ち壊して行きます。
そして、それを身近で見ている人たちのヒーローになれるのです。

メリーゴーランドに乗って

 

緊急事態宣言が発令された2020年。

私はしばらく対面レッスンを休止していました。

その間に、会えない人たちに向けて毎週メルマガを書いて送っていました。

それがこの「汗かきベソかき花人生」です。

今回は、初回から数号を書き直してこちらへ掲載させて頂きました。

 

この後、私は国家検定、国際コンクールと挑戦が続き、人生の激流にのみ込まれて行く…

というストーリー展開になるのですが、始まりの部分が全てを語っているように思います。

 

0からスタートを切るはずが、自分の思い込みでマイナス方向へと転がり落ちて行く。

ほんの小さなつまずきが重なっただけで、人は簡単に劣等感を抱いてしまうものです。

それをニュートラルな0地点へ振り戻すことで、ようやく物事は動いて行くのではないでしょうか。

 

さて、冒頭のヘミングウェイの言葉は、どんな時に語られたのでしょう。

ある作家志望の若者からこんな相談を受けました。
「今の仕事を辞めて、パリで暮らしてみたいと思う。そして、自分に作家になれる才能があるかどうか、見きわめたい」
それに対しヘミングウェイは、
「適切な助言を与えるのは難しいことだが、ひとつだけ、これだけは間違いないと、かねて思っていることがある。」

と前置きをしてこう言った。
『もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。パリは a moveable feast (移動祝祭日)だからだ。』

作家として成功するのかどうかを超越した世界観。
一度流れた電流の回路は、そう簡単になくならない。
しびれる電流が全身に流れ、一生消えない回線が確立してしまうかのように。
頭で考えることって、人生のほんの数パーセントの有効性しかないけれど、体験することは、一発で人生を変えてしまうほどの威力を持つのだろうと思います。
恐れず、それに手を伸ばせるのか。
ほんの一瞬間に決まってしまうこともあります。

正しさより楽しさを選べと、そうヘミングウェイは言っているように私には感じられます。

そして、誰にとっても、それぞれの移動祝祭日は人生にやって来ます。

 

ヘミングウェイの時代から70年後のパリに居た私は、同じ景色を見ていました。

通りの名前も番地も変わらない。

あの頃のままのカフェも、公園も。

オスマン様式のアパルトマンも。

それはパリジャンの頑固さに映ることもある。

 

東京という街は、たった数年で私を浦島太郎にしました。

道が変わり、新しいビルが街並みを変えて、時間に急かされて道に迷う。

そこが、しなやかでタフな東京の良さと映ることもある。

 

パリのあちこちで見かけたメリーゴーランド。

それは移動祝祭日にふさわしい遊具。

どこで暮らそうと、私は花で人々の移動祝祭日を彩りたい。

 

私にとって花はメリーゴーランド。

text and photo - Tamaki Kumagai

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フラワーアーティスト/花の活動家

熊谷珠樹

都内アトリエにて行う教室運営のほか、フローリストの枠を超えて、子どもたちに向ける花育活動や、

空間装飾、他業種コラボなどを積極的に行い、クリエイティブな活動を行っている。
花を軸とした名言を次々生み出す言葉の達人でもある。
花の世界を飛び越え幅広い年代の人々から支持を集めている

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#26
October  2022
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PEOPLE

#41

STAY SALTY ...... people here

I'm home. Welcome back.

ただいま、おかえり

我が家の次男のルーティン

 

15時過ぎになると、学校帰りの小学生の話し声が自宅に近づいてくる。

もうすぐ小学校3年生の次男が帰ってくる。私はこの子どもたちが帰宅する時間が好きだ。

 

「ただいまあ」。

 

と言いながら、彼はどさっと玄関にランドセルを放るとすぐにトイレへ行き(←学校から帰ってくると安心するのか大きい方が出るとのこと・笑)、“用”が済めば「お腹空いた、おやつない?」とおねだりしてくる。

 

彼からは、ふんわりと甘く優しい給食の匂いが漂ってきて、いくら忙しくてもその匂いを嗅ぎたくなってギュっと抱きしめてしまう。

最近は嫌がられることも増えて、終わりを感じて寂しいのだけど、ギュッ、までが我が家の次男の帰宅後のルーティン。

 

こうやって、顔を合わせて、「ただいま」「おかえり」が言えること、お互いの気配を感じながら宿題したり仕事をしたりする時間があることは、きっと私がおばあちゃんになったときに思い出す「しあわせな日常」なんじゃないかな。

 

仕事が立て込んでいて忙しいときは「もう少し一人の時間で集中したい!」と思うこともあるけれど、あと2~3年も経てば、この子どもたちの声が徐々にクレッシェンドしてくる時間が懐かしくなるに違いない。

 

じきに給食の残り香が嗅げなくなる日がくることを想像すると、のどの奥がぐっと熱くなってくるのです。

ライター/はぐくむ株式会社 代表取締役

高橋かずえ

10.7 2022

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Kazue Takahashi

 私の仕事

 

ここで少しだけ自己紹介を。

 

私は、2005年からライター業を軸に、企業向けのコンテンツをずっとつくり続けている。

 

執筆だけのときもあれば、編集者となってパンフレットもつくり、必要であればディレクターとなって映像を手掛けることもある。

とにかく制作の仕事が好きだ。

 

ライターというと、雑誌や書籍を思い浮かべる方が多いかもしれないが、私の仕事では本屋さんに並ぶような媒体のお仕事をするのはごくわずか。

仕事の9割が会社のマーケティングや採用に関わる部分のサポート業務になるため、あるときから自分の仕事に「マーケティング支援コンテンツ制作」と名前を付けて仕事をしている。

 

「何しているかよくわからないけどライターの人」と思われていそうだが、そう言われながらも仲間が増え、作れるコンテンツの幅は広がり2022年で独立してから17年が経った。

 

毎年、崖っぷちで、仕事とプライベートの境界のない毎日ですが(汗)、まぁまぁ長くこの道を歩み続けた今、『人生とはその「今日一日」の積み重ね、「いま」の連続にほかなりません。』という稲盛和夫さんの名言がぐっと身に沁みる。

 

まだまだですが、継続することで、独立15年を過ぎたあたりからやっと自分の仕事の価値や得意な部分を肯定できるようになりました。

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在宅ワーク、最高です!

 

仕事の内容はさておき、私の仕事人としての人生を振り返って、「これだけは絶対によかった!」と言えることをひとつ、ここでお伝えしたい。

 

それは、2005年からずっと在宅ワークを続けていることだ。

 

2022年9月現在、コロナ渦で在宅ワークがだいぶ浸透したが、それよりもはるか昔から在宅ワークをしてきた“プロ在宅ワーカー”の私からすると、在宅ワークは子育て中の人たちに全力でオススメできるとても都合のいい働き方である。

(3人の子育てをしてきた私がいうのだから、間違いない!)

 

だって、「ただいま」「おかえり」のひとことで、(今日の声の調子だと学校で楽しいことがあったなぁ)、(おや? 元気がないから何かあったのかな)、と、子どもの様子を察することができ、ほんの数年しかない貴重な子育ての時間を目の前で見守ることができるのだから。

 

学校で発熱すればお迎えに行ける。

子どもの習い事の送迎もやりくりすればできる。

我が家の次男に限っては、帰宅後にトイレに行くかどうかで健康チェックまでできちゃうのだ。

 

手がかかる子育て期間が終わろうとしている今だからこそ、紆余曲折はあったけれど在宅ワークを続けられてよかったと心から感じる。

 

何か特別なことができる母親ではないが「ママはパソコンばっかりだったけどさ、いつも一緒にいれたよね!」と胸を張って言えるのは、なかなか悪くないと思う。

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働きやすさも、働きがいも

 

2021年に「オンラインアシスタント」という仕事を小さくスタートしてみたところ、予想以上に反響が高くて驚いている。

ここでいう「反響」というのは、オンラインアシスタントの仕事をしていただいている周りのママたちからだ。

 

オンラインアシスタントとは、すでにお取引のある企業様から、日々の細々としたWeb周りの業務を切り出してご依頼いただく仕事だ。

おもにホームページやSNSの運用代行がメインの仕事になるが、お客様からも「本業に専念できる!」と非常に喜んでいただいている。

 

まずは私の周りのママたちに声をかけて、1日1~2時間くらいの仕事をお願いしてみたところ、「この仕事ができて本当によかった。ありがとう!」と感謝の声が届いた。

恐る恐る声をかけてスタートした仕事だったので、この予想外の言葉は、うれしくて涙がでた。

 

ちなみに、オンラインアシスタントの仕事は、これまで私が子育てをしながら在宅ワークで得たノウハウをもとに、「働きやすさ」と「働きがい」が得られるように、チームを組んで仕事をしていただいている。

 

万一のことがあってもサポートし合えるよう、ひとりにかかる負担は大きすぎず、スケジュールも余裕をもって、できるだけ似た業務をルーティンで回せるようにチーム編成を検討しているところだ。

 

よく、取材記事になるような、子育ても仕事も両立しているバリキャリはもちろん素晴らしいけれど、みんながみんなしたいわけではないし、他人には見せないだけで気持ちに折り合いをつけながら働いているのかもしれない。

 

ひと月に1~2万円分の少ない仕事量だったとしても、家で仕事ができる安心感、稼ぐことができる自信、働き続けることの誇りは大きな価値があるものだ。

 

子育て中は社会から切り離された孤独さもあるから、家族以外の誰かから「ありがとう」と言ってもらえることは、生き甲斐にもつながるだろう。

 

まだまだ小さな芽が出たばかりの仕事だが、私の4人目の子どものような存在として法人も設立したところだ。

もっと多くの人たちが「ただいま」「おかえり」が言えるように、私は在宅ワークを推進していきたい。

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プロ在宅ワーカーの反省点

 

ああ、予想以上に真面目な話が続いてしまった…!

 

在宅ワーク推進派の私が、在宅ワークをするなかで後悔していることがあるとすれば、働きすぎているところだ。

 

40歳を過ぎた今、無理な働き方は人生を短くしてしまいそうで、仕事をルーティン化できるよう業務効率を模索するようになった。

目の前の仕事をこなしていくことで精いっぱい…、というのが正直なところだけれど、オンラインアシスタントのママたちとも仕事をシェアしながら体制を整えていくことが次なる目標だ。

 

子育ては、成長の喜びと寂しさが隣り合わせだ。

 

色んな考えがあるのは承知の上で私の理想をお話すると、いずれ終わりが来てしまう子育て期間は、給食の残り香がかげるようなに近い距離で、ゆったりとした気持ちで、限りある子どもとの時間を過ごしてもらいたいものです。

もちろん、自分自身にも言い聞かせながら。

 

もうすぐ、「ただいま」「おかえり」の時間がやってくる。

text and photo - Kazue Takahashi

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ライター/はぐくむ株式会社 代表取締役

高橋かずえ

はぐくむ株式会社 代表取締役。富士山の麓、山梨県富士吉田市出身。

企業向けコンテンツ制作、ITママによる小さな会社向けのオンラインアシスタント、LINEマーケティング、住宅業界の専門ライターをしています。パラレルキャリアでシナジーを生みながら、私は私らしくやっていきます♪

photo - Tomoko Osada

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