01-2.jpg

DAYS

STAY SALTY ...... means column

Kaori Kawamura Column

人生は美しい  La Vita é Bella.

from  Yokohama / Japan

ライター/フォトグラファー
prof.jpg
川村香緒里

子供のころからずっと、絵(漫画)を描いたり文章を書いたり写真を撮ったりしながら、いつもなにかを発信してきました。

それが誰かの視点や気持ちを変えるスイッチになったらいい、と思いつつ、これからも言葉と絵や写真で表現していけたらと思っています。

  • ブラックInstagramのアイコン
  • note-bk
 

5.5.2025

DAYS /  Kaori Kawamura Column

人生は美しい

朝ごはん好き

IMG_5666.JPG

早起きは決して得意とはいえないのに、朝の時間が好きだ。

雨上がりや、空気が澄んで光が美しく斜めに差す朝は特に好きで、こんな日になぜ通勤しなければならないんだろうと、よく思っていた。

 

美味しいパンを買った翌日は、朝ごはんが楽しみになる。

家から徒歩だと20分くらいのところに美味しいパン屋さんがあって、国産小麦でマーガリン等のトランス脂肪酸はなし、生クリームなど余計なものも入っていない、しみじみと小麦の美味しさがわかる食パンを売っている。

そういうきちんと作られたパンを食べる時、小麦粉が身体に悪いとは思えない。

 

いつの頃からか、外で食べる朝ごはんの時間も好きになった。

以前はモーニングを出すような喫茶店が地元には無かったので、旅行以外で朝ごはんを外で食べるという発想もなかった。

でも、モーニングを出すコーヒーショップやパン屋さんができ始めて、わざわざ朝ごはんを食べに休日に駅の近くまで出かけてみた時、地元なのに日常から離れる感じがして、新鮮でワクワクした。

ちょうど名古屋のチェーン店が横浜にもでき始めた頃かもしれない。

 

もともと旅先の朝ごはんは好きなので、ホテルは大抵朝食付きにする。

といっても普通のシティーホテルであれば、朝食バイキングであっても内容はだいたい決まっているのだけど、朝の時間に会場になっているレストランやカフェに行くのが楽しいのだろう。

 

時々無性に懐かしくなるのがイタリアの朝で、4つ星ホテルでも泊まらない限り、朝ごはんは甘いパンとコーヒー。

私は大抵カプチーノだった。

パンはクロワッサンの形をしたコルネットで、粉砂糖がけかクリーム入りか、またはジャム入り。地方によってはブリオッシュとも呼ぶようだ。

ホテルによっては、小さな四角いラスクが2枚袋に入ったものが置いてあったり、他のパンを見かけることもあるが、いわゆる食パンのようなものは見たことがなかった。

ガイドブックを見ると、最近はコルネットを頼んでからピスタチオクリームなどをその場で詰めてくれるというオシャレな店もあるらしい。

つくづく時代は変わったのだな、と思う。

 

ただ私が懐かしいのは、2つ星くらいのこじんまりしたホテルののんびりとした朝食ルーム、もしくはよく泊まった宿の、大きな木の下のテーブルでの朝ごはん。

宿の人が持ってきてくれたカプチーノを啜り、コルネットを齧りながら、今日はあそことあそこに行こうかなと考える。

 

イタリア人の朝食は甘い、ということは、いまでは割と有名な話だけど、実際初めてイタリア人の家に泊まった時、朝のテーブルにはチョコがサンドされた袋入りビスケットが器にごそっと盛られて置いてあって、それを開けてつまんだ。

幸い私は朝から甘いものでも苦にならない。

 

海外の旅で最も素晴らしかった朝ごはんのひとつは、ウィーン西駅前のホテル。

12月始めだったせいかホテル料金が安くて、初めてのオーストリアだったので、安心のために4つ星にした。

朝食がいいというレビューが多かったので楽しみにしていたら、本当にその通りだった。

とにかくパンの種類が多い。

ふつうの食パンのようなものから、丸いパンの上に切り込みが入っていて、ひまわりの種やケシの実がまわりについているカイザーゼンメル、 ライ麦パン、モーニングケーキといったパウンドケーキのようなものもあった気がする。

カメラつきの携帯電話なんて無くて、一眼レフを朝食会場に持っていく気力も勇気もなかったから写真がないので思い出せないが、 全種類食べてみたくても食べきれない種類の多さだったと思う。

もちろん、卵料理やハムやソーセージなどもいろいろとあった。

でも、とにかくパンの美味しさに驚いたのは、オーストリアのパンが美味しいとまったく知らなかったからだった。

 

和食の朝ごはんも好きで、日本の朝食バイキングでは和食を選ぶことも多い。

京都の四条通りに泊まった時は、朝食なしにして、三条にあるおばんざい屋さんの朝ごはんを食べに行った。

早朝の、車も人も少ない四条通りはかなり気持ちが良かったのを覚えている。

 

ひとつだけ、心残りな朝ごはんがある。

東京ステーションホテルだ。

丸の内駅舎の中央、大屋根の屋根裏部分にゲストラウンジがあり、朝は宿泊者専用の朝食ビュッフェが用意される。

天窓があり、赤煉瓦の壁が一部むきだしになっているスペースに、洗練されたお料理やパンが並んでいる。

その時は多分、それほどお腹が空いていなかったのだと思うが、シェフが目の前で作ってくれるオムレツをつい頼んでしまったら、それである程度お腹がいっぱいになってしまい、いろいろなものが食べられなくなってしまった。

今でも残念だった~と思うけれども、もうなかなか泊まることはないだろう。

なにせ宿泊料金が、安い時期の京都のホテルと新幹線のパック料金近くする。

その時はたまたま部屋のグレードアップまでしてもらって、とても素敵なホテルだったけど、東京駅にいるのに旅立たないというのは、なんだかちょっモヤモヤする。

それならやっぱり旅に出たいので、あのモーニングラウンジの朝ごはんは、食べたことがあるにもかかわらず、なんとなく憧れが残っている。

 

4.5.2025

DAYS /  Kaori Kawamura Column

人生は美しい

桜 咲く

ソメイヨシノ1-2.jpg

 

3月、急に暖かい日が続いて春の花の成長が一気に進んだ。

気づけばコブシやハクモクレンの白い花々が、高い木の上で満開になっていて驚いた。

蕾にすら気づかなくて、数日であっというまに開いたようだ。

見渡せばスイセンや道端のスミレも咲いているし、桜の足元でもよく見る薄紫のハナニラも顔を出していた。

今年は春の花が早い。

 

私の住んでいる集合住宅は、道路から少し上がったところにバス通りを見下ろすように建っている。

通りは桜並木になっていて、春になるとソメイヨシノがまるで雲が広がるように咲く。

毎年桜が咲き始めるとそぞろ歩きの住民が増えて、皆なんとなく幸せそうだ。

 

数キロにわたる並木で、満開時にはところどころ花のアーチになった。

散り始める頃にバスに乗ってその下をくぐると、花びらがふわーっと舞い上がって後ろに流れていき、うっとりするくらい幻想的だった。

 

近くには歩道橋が2つあって、桜の木の上のほうを目の前で見ることができた。

歩道橋の手すりに花が覆いかぶさるように咲いて、夢のように綺麗だ。

毎年カメラを持って近所の桜を撮影して歩いたが、歩道橋の桜を撮るのが楽しみのひとつだった。

咲き始めのソメイヨシノは初々しくてピチピチしている。

ファインダー越しに見るその花たちは、女の子たちがクスクス笑っているように風に揺れて、あまりに可愛くて「こんにちはぁ。ようこそようこそ」と声をかけた。

 

2、3年前、この並木の桜は大きくなりすぎたせいなのか、かなり枝を切られてしまい、花の付き方もすっかりショボくなってしまった。

もうなかなかアーチにはならないかもしれない。

歩道橋にかかっていた桜の枝もだいぶ切られたり、下の方から切り倒されてしまったものがあり、手すりを越えて咲くことは無くなってしまった。

 

これを書いている月末、数日前はまだ家の前の桜は一分も咲いていなかったのに、今日は七、八分も開いてすっかり春の風景だ。

東京はもう満開らしいので、このStay Saltyが公開される頃はすっかり散って、八重桜が咲き始めているかもしれない。

 

ソメイヨシノは昔から日本にある山桜などと違って、人が挿木や接木をして作ったクローン桜として知られている。

寿命は60年程度と言われていて、植えられた時期が同じだと、同じくらいに弱るのだろう。

家の周りの桜も幹の内部がスカスカになった木が増えて、毎年どこかが切り倒されているようだ。

でも少し調べてみたら、寿命を延ばせないわけでもないらしい。

専門的なことはプロに任せて、一般人が気をつけられるのは、桜の根を踏まないことくらいだ。

 

もう10年以上前になると思うが、初めて夜行バスに乗って桜の時期の京都と奈良に行った。

奈良の吉野山の桜の撮影が主な目的で、その前に、人混みが嫌でずっと避けてきた京都の桜も巡ってみることにした。

 

朝の6時に京都駅前に到着。

通勤の人々に混ざって地下鉄に乗り、賀茂川沿いの半木の道(なからぎのみち)に紅色の枝垂れ桜を見に行った。

早朝で、神社仏閣ではないので、いるのはジョギングをしている人や犬の散歩の人だけ。

のんびりとした朝の光の中で初めて京の桜を見ることができた。

 

それから平安神宮の神苑、珍しい桜も多い平野神社、石庭が有名で桜苑もある龍安寺、遅咲きの御室桜がある仁和寺、西行法師ゆかりの勝持時、法金剛院など、たくさんの桜に迎えられた。

 

ソメイヨシノももちろんあったはずで、川面に映る姿と朱色の橋のコントラストは素敵だった。

でも思い返してみれば、京都で印象に残ったのは枝垂れ桜だったかもしれない。

半木の道、平安神宮、龍安寺も、風に揺れる紅色の枝垂れが優美で京らしかった。

また行きたいと思いつつ、それ以来、桜の季節の京都には行っていない。

 

ひとくちに「桜」といっても400種類はあるらしい。

形も色もすこしづつ違うのに、どの桜からも幸せを感じたり、切なくなったり、なにかしら琴線に触れるものがある。

それは桜という花の存在感からもあるだろうが、春が日本人にとって始まりと終わりの時期で、それぞれの人の節目のどこか片隅に桜があったからかもしれない、と思う。

 

最後に、一時期はまった西行法師の歌を一首。

 

散る花を 惜しむ心や とどまりて また来ん春の たねになるべき (西行)

京都ソメイヨシノ.jpg
半木の道.jpg
 

3.6.2025

DAYS /  Kaori Kawamura Column

人生は美しい

手紙

SS21.JPG

学生時代から手紙を書くことが好きだった。

送る相手は遠く引越してしまった友達の他に、いつも誰かしらペンフレンドがいた。

昔は雑誌にペンフレンド募集コーナーがあって、いまでは考えられないことだが個人の住所と氏名が載っていた。

それで特に問題もなかったのだから、つくづく日本は平和だったと思う。

 

手紙を書くときは好きなレターセットを使って、かわいいシールなど貼ったりしていた。

私の学生のころはサンリオ全盛期で、子供向けだったせいもあるだろうが便箋や封筒は今より買いやすい値段だったような気がする。

 

最近、ちゃんとした手紙や一言カードなどを書くとなると、なんだか手元がおぼつかないというか、まるで脳と手先がうまく繋がっていないようにフラフラする。

それくらい、手紙という形で文章を書く機会も、受け取ることも減ってしまった。

ポストに手紙が届いていると嬉しくてわくわくした、あの受け取る時のヨロコビの感覚は、もはや絶滅危機手前なのだろうか。

 

その一方で数年前から文通が流行っているらしく、以前テレビで特集のニュースがあった。

銀座の大手文具店で、文通のために便箋やカードを選ぶ人が案外多いのだという。

便箋やはがきの絵柄を季節に合わせたり、切手も相手の好みや雰囲気に合わせたりと、私も好きでやっていたが、そういった小さなこだわりは残っていってほしいと思う。

 

旅先から絵葉書を書くのも好きで、旅行に行くときは友人の住所を忘れずにメモしていった。

完全に自己満足で、もらう方はなんとも思っていなかったかもしれないが、インターネットがまだなかった頃は、夜ホテルの部屋で絵葉書を書くのが旅の楽しみのひとつだった。

 

最近、手紙というものは時を経ると別の性格が帯びるような気がしている。

はじめての海外旅行でヨーロッパを旅した時、家族にあてて送った絵葉書を、帰国後、親から渡された。

最近その絵葉書をひさしぶりに見つけたのだが、数十年経っているから、自分では細かなところまで覚えていなくて新鮮だ。
少しここに引用してみる。

 

「サウジアラビアのデュバイ(ドバイのこと)経由でロンドンに朝6時に着きました。入国審査で観光と言ったのに留学かなにかと疑われて、一瞬入国拒否されるかと思いました。ホテルはビクトリア駅から歩いて5分くらいのB&B(Bed&Breakfast)です。1日目からとにかく歩き回って、ピカデリーサーカス、ナショナルギャラリー、ビックベン、ロンドン塔、ロンドンブリッジ、バッキンガム宮殿、etc と歩き回っています。思ったより小さな町で歩こうと思えば歩けるので、1時間も2時間も歩き続けたり、地下鉄も日本の見本になっただけあって迷うことはありません。(中略)イギリスの食べ物は確かにまずい。デパートやスーパーでりんごやサンドイッチをかってかじったりしてます。予定を変更して30日に夜行でとりあえずパリに入ります。云々」

 

1988年当時はまだユーロスターがなくて、パリに行くには飛行機かドーバー海峡を船で渡るしかなかった。

イギリスの食べ物が美味しくなったと噂に聞いたのは、ロンドンとパリが直接繋がってからだ。

ドバイも今のような観光都市ではなく、名前も聞いたことがなかった。

給油で着陸した時、白い服を着た髭の男たちがドカドカ機内に入ってきて、まるで銃でも突きつけられそうな雰囲気だったが、彼らが手にしていたのは掃除道具だった。

 

自分が書いたハガキだけど、時代を経ると、誰かが書いたエッセイのように読めるのが面白い。

私という個人より、時代の空気のようなものが前面に出る感じがする。

 

以前の号で、親が残した写真が捨てられないと書いたことがある。

捨てられないのは写真だけではなく、手紙もだ。

個人的なものだから本当はもう捨てるべきなのだけど、どうもすんなり捨てられない。

読んではいけないなあと思いつつ、叔母が母に当てた手紙をちょっと開いてみる。

「姉上様・・・」で始まる手紙は言葉使いがとても丁寧で、なにか文学作品でも読んでいるような気分になる。

便箋はもちろん縦書きだ。

 

昭和、平成と、母のもとに届いて今や茶色くなったたくさんの手紙の束は、やはり個人というものを越えて、人が感じること考えることの普遍さや、時代の香りが立ち上るような気がする。

アンティークショップでセピア色の写真を見たとき、その人がどこの誰ということを超えた存在に感じるのと似ている。

 

手紙は時代を超えるけれど、次元も超える。

誰かを失って心の整理がつかない時、亡くなった人に手紙を書くことは癒しにつながるかもしれない。

自分の気持ちと向き合ってそれを文字にすること、伝えたいことを書き出すことは、豊かな時間になると思う。

 

静かな空間で手紙を書いて、それをお焚き上げしてくれる手紙寺という処が千葉の船橋や銀座にあるそうだ。

自分のラストレターも預かってくれるらしい。

気になるならば、調べてみるといいと思う。

 

2.5.2025

DAYS /  Kaori Kawamura Column

人生は美しい

内側を旅する

SS20(川村).JPG

 

2020年秋にパリとイタリアに行きたいと思っていたその旅が夢と消えて、さらに月日が流れた今、外国が遥か遠い場所になった。

そしてその間は、遠出をしたりあちこち出歩くのを控えめにして、あらためて自分と向き合う時間を持つことができた。

おそらくそういう人は多いのだろう。

 

日々の生活の中で「行動しなきゃ」という意識が強く、動かないでいると罪悪感のようなものを感じたものだったが、社会全体が自粛という状態になったおかげで、やみくもに動かずじっくり考えたり感じたりしていても「良し」とすることができた。

 

「自分探しの旅」なんて言葉があるが、外をうろついても自分は見つからない。

旅に出て目新しいものを見て気分が変わることで何かに気づくこともあるけれど、結局それはもともと自分の中にあったものだ。

だから時々、自分の内側を探ってみることが大事だと思う。

 

積極的に外に出ていかない間、好きなイメージをweb上でよく探していた。

Pinterest でいろいろ検索していると、関連画像がどんどん出てきて止まらなくなる。

自分はこんな雰囲気、空気感、デザイン、こんな空間が好きだったんだなとあらためて確認する。

 

もともと色が大好きで、人の感情や心の仕組みがどうなっているかにも興味があったので、色彩心理とアートセラピーの学校に通っていた。

そして、その学校の特別講座で初めてコラージュを体験した。

コラージュとは、collerというフランス語からきた言葉で「にかわで貼る」という意味らしい。

写真や絵や文字など好きなものを雑誌などから切り抜いて、台紙に貼ってひとつの作品にする。

20世紀初頭に生まれた美術表現だそうだ。

 

その後、心理分析としてのコラージュをやっている団体のワークショップにも一度参加してみた。

ハサミで雑誌からチョキチョキ切り出すその行為自体がいい刺激になるし、好きな写真やイラストを集めていき、画用紙やノートに配置していくのは単純に楽しい。

 

複数人数で行う場では、参加者それぞれできたものを見せてシェアをする。

人の作ったものを見ながら話を聞くのも興味深いし、自分との違いを見て逆に自分を知ることもある。

その時好きだと思うものを切って集める人が多いが、なかには特定の色ばかり鋭い形に切り出して貼ったりする人がいたりと、自分が思いつきもしない表現をする人もいるので面白い。

 

私自身も以前、アートセラピーを用いた日常レベルの気分転換を目的としたワークショップを主催していて、コラージュの会を催したことがある。

作品制作ではないので、綺麗に作ってもいいが、ぐちゃぐちゃにしたい気分ならそれでもいい。

できあがったものを分析することはしない。

出来たものを自分で見てなにか気づくことがあればいいし、見ていて気分がよくなるだけでもいいのだ。

そのときは平面ではなく、箱にコラージュしてもらった。

自分でもやってみて、内側と外側、上下左右後ろ、貼る場所の違いは何だろうと考える。

中に貼るのは大切なものなのか、周りに見せたくないものなのか。

 

たまに家でひとりでやりたくなることがあって、スクラップブックか画用紙に好きな写真を切って貼ることがある。

惹かれる写真にどんどんフォーカスしていくので楽しくなってくる。
いまの自分はこういう状態なんだなと思いながら、自分の中を探索していくような感じだ。

出来たものをしばらく目に入るところに飾っておけば、見るたびになんとなく気分が上がる。

 

先日、文房具屋さんの前を通ったら、カードのコーナーがピンクに染まっていた。

最近はピンクや黄色を雑貨や花屋さんで見ることが多くて、春が来るんだなぁと気持ちが明るくなる。

そういう時はカード1枚でも、ハンカチでも、花1輪でもいい、見ると胸のあたりに喜びを感じる色を視界に入るところに置いておくといい。

 

好きなイメージも惹かれる色も、旅することも会いたい人に会うことも心の栄養になるのに、

多くのことが不要不急といわれてしまう昨今、心が枯れると身体の免疫も落ちていく。

制限がかかっているなら、その時間を利用して自分の内側を探索し、整えておくのはおすすめだ。

いざ動けるようになった時、帆先をどこに向ければいいかインスピレーションを受け取ることができるかもしれない。

何より、内側が整うと外側に見える世界が変わってくる。

 

とりあえず私は、花を買って気分だけでも先に春を味わおうかなと思う。

 

12.5.2021

DAYS /  Kaori Kawamura Column

人生は美しい

ドルチェなクリスマス

インスブルック.jpg

11月も後半になって街にクリスマスの飾りが増え始めると、別に特別な計画があるわけでもないのに、なんとなく楽しい気持ちになってくる。

 

まだ早いなと思いつつもクリスマスのBGMを流して雰囲気を味わいたくなったり(これを打ちながらもインストゥルメンタルのクリスマス曲を流している)、赤い色に妙に惹かれたり、シュトレンとかクグロフとかパネットーネとか、各国のクリスマスのお菓子が気になり始めるのもこの時期だ。

 

子供の頃、クリスマスはご馳走とケーキを食べて、プレゼントをもらえる特別な日だった。

食べたいと思えばいつでもケーキを食べられる今とは違って、一年のうちでそんな日は限られていたから、特別感は比べようもない。

プレゼントはサンタさんが持ってきてくれる。

鈴の音が聞こえないかなあと、布団の中で耳を澄ませていた自分はなんと可愛かったことか。

クリスマスマーケット.jpg

父が貿易会社に勤めていて海外とのやりとりがあったので、外国からのクリスマスカードが毎年届いていた。

そのせいか、当時テープレコーダーがある家庭はまだ少なかったのに、幼いころからカセットテープつきの英語の絵本を与えられていたり、絵本付きのクリスマスのレコード(ソノシート)も持っていてクリスマスソングを聴いていた。

ソノシートとは赤や緑色のぺらぺらした薄いビニール製のレコード盤だ。

レコードの中には「赤鼻のトナカイ」も入っていて、「エスさまが守ってくれる。元気をだして」という歌詞があった。「エスさま」ってなんだろう? 誰?と、いつも不思議に感じていた。

「イエスさま」と同じ意味だろうとわかったのは、すこし後のことだった。

 

小学校3年生の頃、大の仲良しの誘いで教会の日曜学校に1年だけ通ったことがある。

彼女の家の目の前が小さな教会だったからで、日曜の午前中にミサに出て賛美歌を歌い、回ってくる献金箱に献金をし、そのあとはグループに分かれて輪になって椅子に座り、聖書の指定されたところを読んだ。

なにせ小学生だから内容なんてわからないけれど、そのときもらった聖書は今でもよれよれになって手元にある。

1度だけクリスマスのミサに参加したことがあって、覚えているのはいつもと違って聖堂の壁に何本ものキャンドルの火が灯され、ゆらゆらと輝くその光がとても綺麗で、うっとりと見ていたことだ。

 

仲良しが転校してしまって日曜学校には行かなくなってしまったが、それがキリスト教の世界と直に接した初めてのことだった。

思い返すと聖堂内には十字架しかなく、磔刑像もマリア像もなかったと思うので、プロテスタントの教会だったのだ。

80年代になると、雑誌の影響でクリスマスはカップルのイベントと化していき、その後バブルに突入して、キラキラというよりなんだかギラギラしていった。

そんな風潮は自分とは関係がないものだった。

 

あらためてクリスマスのことを調べ始めたのは、実際にヨーロッパに行くようになってからだ。

12月25日はイエス・キリストの誕生日ではなく、誕生を記念する日。

もともと古代ローマでは、キリスト教が広まる以前から12月25日に太陽神ミトラの祭りが行われていた。

キリスト教徒たちは、聖書のなかで「世の闇を照らす光」とされるキリストを、太陽神と関連させて、この日をキリストの誕生に結びつけていったそうだ。

万物が枯れ果て、闇の時間が一年で最も長い冬至。それを境にだんだんと日が長くなる。

死から再生へと移り変わるときがクリスマスだ。

お菓子屋さん.jpg

2003年の12月、ヨーロッパを最後に旅したのがアドベント(待降節)時期のオーストリアだった。

クリスマス・マーケットを撮影したくてドイツがいいかと思ったが、モーツァルトの街ザルツブルクは町のいたるところに本物のモミが飾られ「五感でクリスマスを体感できる町」と雑誌で見て、行き先を決めた。

ウィーン、ザルツブルク、チロル地方のインスブルック、そして「きよしこの夜」ゆかりの礼拝堂があるドイツ国境近くのオーバンドルフ村をフリーで巡った。

 

冬のヨーロッパは初めてで、ロングのダウンコートを着ていても外でずっと撮影していると寒さで膝が軋んだ。

夜明けは遅く、午後3時過ぎには暗くなってきてしまったけど、観光名所よりクリスマス・マーケットや町の雰囲気を撮るのに夢中で、冷えるとカフェに入ってメランジェ(カプチーノみたいなミルクコーヒー)とケーキを頼むのも楽しみだった。

 

ザルツブルクの旧市街ではあちこちの路地に入り込んで歩くのが楽しく、細い路地の先に小さな広場があって、そこにもクリスマスの屋台があったりする。

中心の広場からはモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が聞こえてきて、行ってみると市民のグループが合唱していた。

町のあちこちにはイルミネーションが散りばめられていて、でも決して子供っぽくはなく上品で落ち着いた光だった。

 

このときの旅の経験は、自分の記憶のなかで今でも暖かい光のようにともっている。

いつかドイツや、フランスのアルザス地方やイタリアのアドベントも旅してみたいと思いつつ、機会がないまま年月が流れてしまった。

 

私のクリスマスのイメージは、これまでの自分の経験や好んで見聞きしたものの影響が強い。

でも、原点はやはり子供のころのクリスマスだ。

夜中に目を覚まして枕元にプレゼントがあるのを見た瞬間の幸福感は、はるか昔になってしまった今も、うっすらと思い出すことができる。

そんな暖かい思い出を作ってくれた家族がいたことに、いまは感謝の念しかない。

 

今回のタイトルの「ドルチェ dolce」という言葉は、イタリア語で「甘い」とか「デザート」の他に、「優しい、穏やかな、愛情のこもった」といった意味がある。

年末のこの時期が、多くの人にとってあたたかく穏やかな気持ちで過ごせるよう、心から願いたい。

 

11.5.2021

DAYS /  Kaori Kawamura Column

人生は美しい

推し活の効能

SS18((川村).jpg

「 推し」という言葉が使われだしたのはいつの頃だろう。

 

調べてみると、AKB48が一世風靡したときに一般的に使われるようになったらしい。

私の周り(世代)ではほとんど使う人がいないので、耳にするようになったのはここ数年だ。

もともとは「推しメン」(イチオシのメンバー)の略で、それが人に薦めたいほど好きな人やモノ、ジャンルなどを意味するようになったという。

 

先日友人とやりとりしていて、「推し活」で病気が治る、という話を聞いた。

以前、毎日10分でも好きなことをするようにしたら持病の症状が改善した、という話も聞いたことがある。

 

好きなことをしたり考えたりすれば、その人の持つエネルギーが変わる。

人間も物も、すべては振動していて周波数を持っているから、楽しかったり幸せを感じたりすれば、乱れた周波数が整っていくのは当然なのだろう。

 

思い返せば、イタリア語を勉強して、イタリアに行って、イタリアの情報を発信していたことは立派な「イタリア推し活」だった。

インターネットが盛んになる前だから、イタリア好きの人たちと直接会ってよく交流していたし、NHKイタリア語講座に出演している講師の先生やイタリア人たちを招いての活動もあった。

初めて所属した写真クラブも、イタリア語学校の写真講座の修了生と講師の写真家の先生で作ったものだった。

 

歌手や俳優を、追っかけるほど好きになったことはないが、「推し活」当時、ほんのすこしだけイタリア人歌手を追っかけたことがある。

 

今はラジオやTV番組のBGMなどでもイタリアンポップスを耳にするようになったが、以前は日本でイタリアの曲といえばナポリ民謡などのカンツォーネくらいだった(ちなみに「カンツォーネ」は「歌」という意味)。

イタリアンポップスを初めて聞いたのは、ペンフレンドが送ってくれるカセットテープ(!)。

日本でイタリアのCDを売っていたのは、都内の古いマンションの一室みたいなイタリア専門の小さなCDショップくらいだった。

 

そんな時代、ミケーレ・ザリッロというイタリアのシンガーソングライターが来日公演することになった。

神奈川、東京、東北、九州と10箇所をまわるツアーで、フィアット・ジャパンが協賛。

 

予備知識ゼロで友人と初日のコンサートに行ってみたらハマってしまい、私は翌日の東京公演も別の人と当日券で見に行き、その数日後の長崎公演も、初日に一緒だった友人と行くことにしてしまった。

コンサートのために長崎に飛行機で飛ぶ、しかもいきなり決めるなんて、そんなことは初めてだ。

せっかく長崎に行くなら観光もしようと、空港を出て船でハウステンボスまで行った。

ヨーロッパの街並みが見えた時は、美しくて感動した。

 

コンサートの印象がないのはたぶん、3回目だったからだろう。

それより印象的だったのは、夕飯を食べようと行った長崎の中華街がとても小さかったこと(2人とも神奈川出身で比較対象は横浜中華街)、曜日が悪かったのかお店がほとんど閉まっていたこと。

それから、長崎の街と人がなんだかイタリアとダブったことだ。

 

街に路面電車が走っているのはなんとなくミラノを思い出させた。

電車の中で気軽に話しかけられる。停留所や道端で地図やガイドブックを見ていると、どこに行きたいの?と教えてくれる。

そして教えてくれる行き方が人によって違っていたりするのもイタリアみたいだ、と友人と笑った。

 

なにかで読んだ話だが、イタリア人は道を聞かれるとそれぞれ自分が一番いいと思う行き方を言うので、人によって違うという。

でも三者三様のその道は、進んでいくとやがてどこかで一本になるのだ。

 

コンサートの翌日、私たちはグラバー邸に向かった。

グラバー邸のある丘の坂道の上り口にホテルがあって、ふと、お土産コーナーでも見て行こうかと思い立ってロビーに入っていくと、なんとミケーレ・ザリッロのツアー・クルーがいた。

司会をしていたフィアット・ジャパンのイタリア人女性がいたので、思い切って話しかけると、関東から来たということに驚いていた。

ミケーレに会っていきなさい、彼はどこなの?!と探してくれようとしたが、残念ながら彼は不在だった。

 

本人には会えなかったけれど、スタッフとイタリア語で話せただけで十分満足で、こんな偶然(必然)のほうに私たちは興奮していた。

 

その後私は、イタリア好きの友人たちにミケーレ・ザリッロを推しまくった。

そのなかの何人かが同じようにハマっていたと思う。

いまこの記事を書くにあたり、ひさしぶりにCDを聴いてみたが、聴きすぎたせいなのか、そこまででもないかなと思ったりする。

ただ、「Strada di Roma ローマの道」という曲を聴くと、以前のようにローマの街角を懐かしく思い出す。

 

 

推し活していたころ、私は今よりもいろいろと重たいものを抱えていた。

具体的に目に見える問題というより、古い時代の観念にとらわれていたり、自己価値感が低かったりといった、ハタから見てもわからないもので、自分が重い状態にいるということも気づかなかった。

 

人は通常、自分の状態や気分がどうであるかを自覚しないことが多い。

特に不安や怒りやモヤモヤとした自己否定や無価値観などは、それと同化しすぎて、どんな状態に自分がいるかもわからないのだ。

 

そんな中で、なにかを好きになり、さまざまな活動をしている時間は自分を活性化させ、気分のいい状態に切り替わることができる。

夢中になっているときは、長崎行きの時のようにインスピレーションに導かれることも多い。

 

今振り返ると、イタリアが私を呼んでくれ、救ってくれていたのだなと思う。

 

去年、今年と、不安な時間を過ごしてきた人も多いだろう。
でも、人によっては人生を変える大きなきっかけになったはずだ。

変化の多い時期ほど、自分の中心に戻る時間が大切。

推したいほど好きなことがあって、そのことに意識を向けるだけで気持ちが明るくなるのなら、それはとても幸いなことだ。

 

10.5.2021

DAYS /  Kaori Kawamura Column

人生は美しい

聖フランチェスコとポルツィウンコラ

アッシジ全景.jpg

 

イタリア中部「緑のハート」と呼ばれるウンブリア州に、アッシジという小さな町がある。

中世イタリア最大の聖者、聖フランチェスコの生誕地として有名で、多くの巡礼者や観光客が訪れる。

 

サン(聖)フランチェスコというイタリア名にピンとこなくても、サンフランシスコというアメリカの町の名であれば、知らない人はほとんどいないだろう。

現ローマ教皇フランシスコの名前は、この聖人からとられている。

 

1226年10月3日、アッシジの丘の麓にある小屋で、フランチェスコは彼を慕う仲間や弟子たちに囲まれて亡くなった。44、または45歳だった。

その死の2年後、教皇グレゴリウス9世によって列聖され、のちにイタリアという国の守護聖人となった。

 

毎年命日の10月3日は、アッシジの主要な聖堂や教会で、トランジトゥスという帰天祭が行われ、翌4日は天国での誕生日ということで祝日として祝われるそうだ。

日本を含め世界中にあるフランチェスコ会の教会でも、この2日間は特別な日のはずだ。

 

1993年、私は初めてのイタリア一人旅でアッシジを訪れて、その3年後には3ヶ月滞在し語学学校に通い、その後も何度か旅行で訪れている。

面白いことに私のようなクリスチャンではない人間も、なぜかフランチェスコやアッシジという土地に惹かれ、訪ねてしまう人が多い。

人生の途中で立ち止まったり転機となる時期に来ている人もいる。

 

「サン・フランチェスコ聖堂と関連修道施設群」が世界遺産に登録されたのは2000年。

アペニン山脈の支脈、スバジオ山から下っていったところ、端から端までまっすぐ歩いてもちょうどいい散歩コースくらいの小さな丘に、大聖堂といくつもの教会、そして観光客にはわからない各国の修道施設が数多くある(らしい)。

でも今回は丘の下にある、ちょっと変わった礼拝堂ことを紹介してみようと思う。

サンタマリアデリアンジェリ.jpg

 

列車でアッシジに到着して駅舎を出ると、横長に広がる丘の上の旧市街が見える。

たいていの旅人は駅の売店でチケットを買ってバスで丘の上に向かい、ツアーならば町の入り口までツアーバスで上っていく。

 

でも実は、駅をはさんで丘とは反対側にとても重要な場所がある。

サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂だ。

「天使たちの聖母マリア」という意味で、アメリカのロサンジェルスの名前の元となっている。

かなり大きな建物で、丘の上からもその丸屋根が見える。

 

入り口を入ると、不思議な光景が目に入る。

正面に小さな礼拝堂が建っているのだ。

 

大きな聖堂のドームの下にぽつんと建つ御堂。

見るたびに、目を離すことができない不思議な空間。

御堂はポルツィウンコラといって、フランチェスコと彼の仲間たちが拠点にした場所。フランチェスコがこの世でもっとも愛し、息をひきとった地でもある。

サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂は、ポルツィウンコラをすっぽり覆って守るように建てられている。

 

フランチェスコはアッシジの裕福な商人の家に生まれたが、騎士に憧れて戦いに参加し、隣町のペルージャの捕虜として1年間囚われ身体を壊した。アッシジに戻って療養したのち、また戦争に行こうとするが、「私の家を建て直しなさい」という神の声を聞き、ついには親も財産も捨て、着ていた服も親に返して何も持たずにアッシジの丘を降りていった。

その当時、彼自身の手で石を積んで修復した教会や聖堂のうちのひとつが、ポルツィウンコラだった。

 

もともと4世紀頃に造られたものだそうが、長い間放置されていたらしい。今は正面にフレスコ画があって華やかなイメージがあるが、それは14~15世紀に飾られたようだ。

昔このあたりは森の中で、フランチェスコと仲間たちはポルツィウンコラのそばに、木の枝や葉や泥で小屋を造って住み、そこから布教の旅に出ていってはまた帰ってきたようだ。

私は旧市街にある古い石造りの建物の一部屋を借りていて、ときどき駅行きのバスに乗って、サンタ・マリア・デリ・アンジェリのある新市街地に散歩に行った。

丘の上には無いスーパーに行きたかったこともあるが、まずは聖堂に入ってポルツィウンコラの前の椅子に座ってしばらく眺めた後、中に入り、6つくらいしかない古い木の椅子に座るのが好きだった。

椅子は壁にぴったりと寄せてあり、そのでこぼこした石の壁を触ってみる。

狭い御堂の中は薄暗く静かで、フランチェスコたちが生きていた時代の空気に満ちていた。

 

右斜め後方には「神のお召しの礼拝堂」がある。

フランチェスコが亡くなった場所で、内部には彼が腰に巻いていた縄が収められ、外壁にはドメニコ・ブルスキによる「聖フランチェスコの死」が描かれている。

この礼拝堂の横にある椅子にも座って、よく絵を眺めていた。

聖堂内には他にも博物館などの見どころがあるが、イル・ロセートという中庭の小さなバラ園も知られている。行った時は外側からしか見られなかったが、ここはフランチェスコが欲望と戦うためにバラの茂みに裸で身を投げたと言われていて、その時からバラの棘がなくなったという。

本当に棘がないのだろうかと、じーっと探してみたことがあるが、少しだけ見つけてしまった。

ポルツィウンコラ.jpg

彼らの生き方でいまの時代に参考になることはあるだろうか、と考える。

 

当時は富める者と貧しい者の差が激しい時代で、伝記映画を観ると聖職者ですら豪華な聖衣を身につけている。

フランチェスコが聞いた神の声の「私の家・・」とは、建物ではなく教会組織だったという。

何かを所有すれば守る必要が出てくるし、それによって争いも起こる。

なにも持たなくても神様が面倒をみてくれるのだ、とフランチェスコは考えた。

「空の鳥を見よ、播きも刈りも、倉におさめもしないのに、あなたたちの天の父は、それを養ってくださる。・・・・だから何を食べ、何を飲み、何を着ようかと心配するな」(マタイ6章26~31節)という言葉のとおり。

 

今の時代、すべてを捨てるのは現実的ではないし、「天界にいる神様」を信じているわけではないけれど、私たちは何か大きなものに生かされていて、常に与えられ続けているということにもっと気がついたらいいのではないか、と最近は思っている。

 

そんなことはあり得ないと否定すると、流れてくるものを泥でせき止めることになる。

流れを信頼する。そうすれば流れてくる、きっと。

 

実は、ほんとうにそうかなと、いま実験しているところだ。

 

9.5.2021

DAYS /  Kaori Kawamura Column

人生は美しい

文字の世界へようこそ

kawamura.JPG

 

「文字の世界へようこそ!」

銀座のとあるスクールの体験レッスンに行った時のこと、はじめに先生からそう言われて、なんだか新鮮な気持ちになった。

文字の世界・・・そんな世界があったのか。

 

今からちょうど3年前の夏、私はカリグラフィー・スクールの通信講座の受講を決めた。

それで、その前に一度体験レッスンを受けるために銀座まで出かけていったのだ。

 

カリグラフィーとは、ギリシャ語の「美しい書きもの」という言葉が語源の英語。

日本では一般的に「ラテン・アルファベットの書道」と認識されているが、ご存知ない方もまだ多いと思う。

 

私はといえば、名前は知っていたが、“カラフルなペンでカードを書く習い事”という偏ったイメージしかなく、自分の趣味に合うものだとは思っていなかった。

それがたまたま、書店のデザイン関係の棚をぼーっと眺めていたとき、ものすごく素敵な本に出会ってしまった。

日本でも人気が出始めていたインドネシア人カリグラファーの、カリグラフィーを用いたスタイリングやグラフィックデザインの本で、決して大げさではなく「なんだこれは!」と衝撃を受けてレジに直行。

 

ちゃんと勉強したことはないけれど、デザイン的なことはもともと好きで、自分の写真と言葉を組み合わせることをよくやっていたし、フォントを選ぶのも楽しかった。

 

でも当たり前だが、フォントと手書き文字は違う。

地道な練習が必要で、それを続けられるだろうかとしばらく考えた。

小学校の時、習字を習っていたけど、練習がめんどくさくて、先生のオレンジ色のお手本に半紙をのっけてなぞって出したこともあるのだが。

 

でも、前述の本の中に書かれていたこんな文章に魅了されてしまった。

 

「書くときは心をひとつにして、目の前のことに集中する必要があります。その感覚はまるで“瞑想”のようでした。ペンを伝って生み出される美しい線や形は、どれもユニーク。それは、ゆるやかに交差する木の枝や草のうねりなど、自然との共通点がたくさんありました。カリグラフィーに没頭していると、森の中にいるような静けさが訪れ、それがインスピレーションとなって、指先からあふれてきます。なんともいえない至福の瞬間でした。」

「カリグラフィー・スタイリング」(ヴェロニカ・ハリム著 主婦の友社)より

 

植物が描く曲線や形と、文字は共通しているのか。

森の中で瞑想するように美しい文字が書けたらどんなにいいだろうと、その世界に足を踏み入れてみることにした。

 

そこは、予想以上に広くて深い世界だった。

イタリック.jpg

 

 

カリグラフィーにはクラシックスタイルとモダンスタイルがあって、私が申し込んだスクールはクラシックの書体を教える学校だった。

はじめに習うのはイタリック体がいいとのこと。

イタリックといえば、パソコン上ならば文字を斜めにすることだ。

なぜイタリアなんだろう、と考えるわけでもなく、そういうものだと思っていた。

 

MacにApple Chanceryという、よく見かける斜体のフォントがあって、私も好きでときどき使う。

Chanceryの読み方がわからなくて、センチュリーとかいい加減に読んでいた。

イタリック体はこれに似ているな、と思った。

好きな書体を手書きで書けるようになるなんて、と喜んだが、似ているのは当たり前。

イタリック体の別名は、チャンサリー(Chancery)というのだと知った。

 

14世紀後半にイタリアの学者によって生み出されたものが起源といわれるイタリック体は、15世紀にローマ教皇庁尚書院(=チャンサリー)の公式書体となった。

尚書院(しょうしょいん)とは、教皇庁の管理・運営を司る機関のことらしい。

 

ルネッサンス期に生きていた人たちと同じ文字を書いている!

そのことは、ヨーロッパが好きな私にとって、幸せ以外の何物でもなかった。

 

カリグラフィーの歴史は2000年を超える。

紀元前1世紀にすでに使われていたローマンキャピタルという大文字だけの書体は、ローマ皇帝の石碑などに使われていて、文字の中で最も格が高いそうだ。

文字に格があるなんてことも初めて知った。

 

3世紀ころ聖書の写本に用いられたアンシャル体、フランク王国のカール大帝の治世(8~9世紀)に広まったカロリンジャン体、13世紀頃から主流になったゴシック体・・・

その他さまざまな書体が時代や地域によっても枝分かれしていったらしい。

 

そんな広大な歴史があるなんて思ってもいなかった私は、最初のイタリック体で苦戦した。

 

マイペースで練習できる通信添削にしたものの、通学して先生に直接細かく指導してもらう機会が少ないので、予定よりずっと時間がかかってなんとか終了した。

もちろん文字の練習に終わりなんてない。

個々のアルファベットが書けるようになっても、字間の取り方が綺麗にできていない。

少しづつ自分らしいイタリック体にしていけたらと思う。

 

さて次は、もともと習いたかった“流れるようにくるくる飾りをつけられるカッパープレート体”だ・・・

と思ったところで、別のものに出会ってしまった。

 

パリ在住の先生に習うフランスの書体。

 

インスタグラムで見て、「なんだこれは!」とまた思ってしまった。

そう思ってしまうともう、なにがなんでもそちらに行ってしまう。

なぜなら、そのわくわくする感じが、自分にとっての道しるべだから。

 

その後、フレンチスタイルの書体を3つ教わった。

フレンチといっても、元を辿ればイタリアだったりと、さまざまな流れがあるらしい。

ナチュラルなブラウンのくるみインクと、フランスのcansonというメーカーの、ざらっとしたクロッキー用紙で練習するのが大好きで、書いている間は19世紀のパリにいる気分になれる。

これも、私にとっては至福の時間だった。

フレンチ書体.jpg

文字の世界の旅は、こつこつマイペースで続いている。

 

今は念願の“くるくるの飾りをつけられるカッパープレート体”を、ドイツのカリグラファーが書いた詳しい教則本を見ながら独習している。

どこまで独学でいけるかわからないが、少しづつ憧れの形が書けるようになっていくのが嬉しい。

ただ亀の歩みなので、“くるくるの飾り”が書けるのはまだ少し先だ。

 

これまで習った書体も練習しないと書けなくなるし、書いてみたい書体はいくらでもある。

残りの人生で、旅はどこまで行けるだろう。

 

おまけに、文字を書いているともうひとつ別の世界とも関わってくる。

 

「道具の世界」だ。

 

これについてはまた、別の機会に。

 

8.2.2021

DAYS /  Kaori Kawamura Column

人生は美しい

記憶のなかの沖縄

久高島.jpg

また夏が来てしまった。

 

日本の夏の風物詩は好きだったのに、この尋常じゃない暑さはなんなのだろう。

 

まだ梅雨に入る前のある日、ベランダに出たら湿気を含んだお日様の匂いがした。

うわ、夏がくるのかと思うと同時に、記憶の中にある懐かしい匂いを思い出した。

大学時代、初めて沖縄に行った時の日向の匂い、そして蒸し暑い空気の匂い。

 

那覇空港を出ると、経験したことのない湿気で一瞬身体が重くなって驚いた。

昼間の日差しは肌を突き刺すような強さ。

でも、日陰に入れば海からの風が涼しい。

 

空が広くて開放的で、海が見えればそれまで見たことのないくらい美しい色だった。

椰子の木が立ち並ぶ国道58号線を車で走っていると、英語の看板が増えてくる。

ハンバーガーのA&Wに立ち寄ったりすると、当時まだ日本から出たことがなかった私は、まるでアメリカにいるような気分になった。

 

初めて友人同士で飛行機に乗り、同じ学科の沖縄出身の友人の実家に泊めてもらい、あちこち案内してもらった。

激戦地だった南部にも行って、ひめゆりの塔などの戦跡を巡り、沖縄戦の悲惨さを感じることもあったが、美しい海と空と、琉球の独特な文化、紙のパラソルがささったカラフルなトロピカルドリンクや、夜中のディスコや、目の前で焼いてくれるステーキや、ブルーシールのアイスクリームといった、非日常に溢れた楽しい旅行だった。

 

それまでに行ったことのある国内の観光地のどことも似ていない。

思わず、本州に絵葉書送るのに切手いくらかな?と聞いたぐらいだ。

 

その時から沖縄は、他とは違う特別な場所になった。

 

社会人になってから数回、一人で、もしくは別の友人と一緒に、沖縄に戻った友人を訪ねたが、帰りの飛行機が那覇を離陸するたび、私はなぜだか泣くようになった。

友人と別れるから寂しいということも多少はあるものの、なぜか沖縄という土地から離れる時、魂を置いてくるような感覚になって、涙が出てくるのだ。

 

賑やかなリゾートよりも、静かな時間帯の浜辺や、観光地ではない海辺が好きになった。

夕暮れ時、ひとけの無くなった真っ白な砂浜は、別の惑星にいるようだったし、堤防に座って、遠くの雲の中に雷が光るのを見ながら、ずっとおしゃべりした時間も思い出に残っている。

 

そのうち、沖縄の独特な霊的世界のこともうっすらと知るようになった。

祖先崇拝や、ユタ(民間の霊媒師)やノロ(琉球神道における女性祭司)という存在、御嶽(うたき)や  拝所(うがんじゅ)という神聖な場所、ニライカナイ信仰など、本土の人間にはなかなかわからないことも多い。

ふと見るとコンビニの真裏に大きな亀甲墓があったりと、死者と生者の距離がとても近いような印象もあった。

 

**

 

沖縄に滞在しているある時、一人で久高島(くだかじま)に行ってみようと思い立った。
久高島は沖縄本島の東南にある島で、琉球の祖アマミキヨが天から舞い降り、ここから国づくりを始めたという聖地。

 

インターネットがなかった当時、手持ちのガイドブックの情報だけで、とりあえず那覇から安座真(あざま)港まで行き、そこから船に乗った。

 

久高島ではとにかく、アマミキヨが最初に降り立ったという突端のカベール岬に行こうと思っていた。

港を背にしてまっすぐまっすぐ進んでいくと辿り着くはず。

ちょうどお昼頃の強い日差しの下、観光客の姿は少ない。

港の近くで自転車を借りて漕ぎ出すと、前方から戻ってくる自転車1台とすれ違ったきり、あとはほぼ一人になった。

 

途中、島の東側にあるイシキ浜らしきところに寄ってみる。

イシキ浜は、五穀の種子の入った壺が漂着したという伝説のある浜。

なにせ一人なので、そこが本当にイシキ浜だったのかはわからない。

 

そこからまた、植物に囲まれた道を、ぐんぐん自転車を漕いでいく。

空の青と、道の白と、植物の緑しかない。

しばらく行くと空と海が視界に広がり、突端にたどり着いた。

 

そこは、あの世とこの世が接しているような場所だった。

誰ひとりいない。

遠くの雲を見ていると、自分もふわりふわりと浮いてしまいそうだ。

 

風に吹かれながら、来た道を振り返り、また目の前の水平線を見た。

海の彼方にある理想郷、神々の住む島・ニライカナイとは、どこにあるのだろうか。

 

私はそこからまた戻り、西側のロマンスロードと呼ばれるあたりに行ってみようとしたが、あまり散策しようと思わず、民家のあるあたりを少し歩いただけで、また港に戻っていった。

 

やみくもに島のあちこちに行こうと思わなかったのは、久高島は60年代まで風葬が行われていたと聞いたからだ。

西側の岸壁の風葬地は、いまはコンクリートで塞がれたそうだが、訳も分からず、そういった場所の近くに行ってしまうのが怖かった。

昔、同僚が沖縄旅行中に、外に置かれていた棺を知らずに触ってしまった、という話を聞いたことがあるからかもしれない。

カベール岬.jpg

沖縄が日本に返還されたとき、私は小学生だった。

担任の先生が「日本に新しい県が増えた」記念に、琉球舞踊の絵の1セント切手と、ゆうなの花の2セント切手をクラス全員に配ってくれた。それぞれ「琉球郵便」と書いてあって、今でも持っている。

それが何を意味するのかよくわかっていなかったし、自分が沖縄と縁があるとは思ってもみなかった。

 

今もまだ戦争の犠牲になり続けている沖縄。

古い文化やしきたり、独特な霊的世界が残る沖縄。

気楽な観光地の顔だけを持つ土地ではないけれど、思い出すのは空と海に向かって解放されるような自由な感覚ばかり。

 

もうずいぶん長いこと行っていない。

でもまた波長が合った時に、きっと呼ばれるに違いないと思っている。

沖縄01.jpg
 

7.2.2021

DAYS /  Kaori Kawamura Column

人生は美しい

写真はかつて宝物だった。

01.JPG

私の両親はすでに空の上に行ってしまったが、地上に遺していったものの中で処分できないものがある。
それは写真だ。

私たち子供が生まれてからのものだけでなく、独身時代の写真もあるし、母方の祖父母の若い頃のものまで出てきた。
中には、誰の写真なのかわからないものも結構ある。
裏に書いてある苗字は母の実家だが、写っているのが誰だかわからない。
祖父や父の友人と思われる他人の写真もある。

そんなのさっさと捨ててしまえばと思うかもしれないが、これがなかなかできない。
そこには、明治・大正時代から、戦後に生きていた人々の姿や当時の空気感が写っている。
同じ日本であっても、今はどこにも存在しない日本の記憶、いや記録の一部なのだ。

 

二つ折りのカードのような台紙に貼られた、学生服を着た青年の写真がある。
傷つかないようにハトロン紙のような薄い紙で覆われていて、その紙に「卒業記念 ○○(写っている人の名前)」「呈 ○○君(私の祖父の名)へ」と直筆で書かれており、和歌のようなものも添えられている。
撮影の日付は明治。台紙には札幌の写真館の名前が印刷されている。

 

当時、写真は写真館で撮る特別なものだったはずだ。
祖父は北海道の大学を出ているから、卒業の時、祖父とその人は記念に自分の写真を交換しあったのかもしれない。

 

ヨーロッパやアメリカでは、19世紀後半にカート・デ・ヴィジット(Carte de visite)という名刺サイズの小さなポートレイトを台紙に貼ったものが流行った時期がある。
名刺がわりに交換したり、収集するようになったそうだが、祖父たちの写真はちょうどそれに似ていると気づいた。
日本にも同じようなものがあったのだ。
自分の手元にも。

 


現在、写真と写真に関わる状況は、フィルム時代から一変してしまった。
メモリさえあれば好きなだけ撮れるから、多くがプリントされないまま、機械の内部に溜められ、ひっそりと忘れ去られている。
まあ昔も、プリントしてもアルバムに貼らず、缶や箱の中に入れたままのこともあったが・・・。

 

写真はかつて、もっと貴重で、宝物のようだった時代がある。
写っている人の分身のような存在だったことが。

02.jpg

もう何年も前に仕事で、古い時代のカメラや写真に接する機会に恵まれた。

これは私にとって、とても貴重な経験だった。

 

ここではカメラの歴史は辿らないけれど、16世紀からさまざまな科学者たちの研究を経て、実用的な写真術であるダゲレオタイプがフランスで誕生したのは1839年とされている。

 

このダゲレオタイプは、鉄板に焼き付けられた像を鑑賞するもので、焼き増しができない1点もの。

写されたのはポートレイトで、写ることができたのは、アメリカでは教育を受けられることができた裕福な人たちだったという。

 

1851年に発明されたアンブロタイプは、ガラス板の上に印画され、その頃には中産階級の人たちも写真に写るようになったそうだ。

 

この2つのタイプの時代、写真は美しいケースに入れられていた。

 

時代によっても異なるが、革のケースの表面にはエンボスのデザインが施された。

留め金を外して蓋を開くと内側が布張りになっており、そこにもエンボス加工された模様がついていた。

布はエンジ色や茶色、美しいグリーンのベルベットだったりする。

 

鉄板やガラス板に印画された人物写真のまわりには金属のフレームがはめられていて、それも美しい飾りになっている。

手の中に収まる大きさのものが多く、もう少し大きめのものもあるが、どれも写真立てになったり持ち歩いたりできる宝物のようで、すべて手仕事によるものだった。

 

当時は亡くなる子供も多かったのだろう。

棺に入った乳児の遺体の写真や、少女の写真と一緒に遺髪が入ったものもああるし、眠るように椅子にもたれている子と一緒の兄弟写真もある。

 

女性の写真が入ったペンダントのようなものは、裏返すと透明のガラスの中に金色の三つ編みが収められていて、思わず声をあげそうになった。

遺髪なのか、それともお別れの時に入れて誰かに渡したものなのかはわからない。でも、大切なものであることは確かだ。

 

幕末から明治初期にかけて、日本でもアンブロタイプの肖像写真が制作され、桐箱で装丁されてとても高価だったという。

 

その後、写真は薄いブリキ板や紙に定着されるようになり、市井の人々も写真に写ることができるようになっていく。

特に、ブリキ板のティンタイプは堅牢なので、アメリカの南北戦争に赴く兵士は、胸ポケットに大切な人の写真を入れていたそうだ。

 

そうして、写真はまるで写っている人の分身のように、家族や大切な人と共にあった。

 

仕事でたくさんのポートレイトに囲まれながら、ふと思う。

これら100年以上前の写真に写っている人たちは、もう誰もいない。

どんな人で、どんな人生を送ったのだろう。

その人生で経験したことも、そのとき抱いた感情も、風のようにその人とともに消えてしまう。

 

**

 

以前、通信で写真入門講座を主宰していたことがある。

やりとりは郵便で、課題で撮った写真は2Lサイズにプリントして提出してもらっていた。

 

その当時はフィルムからデジタルへの過渡期だったが、フィルムで撮る人はまだ多かった。

でも、撮ってもせいぜい小さなサービスサイズにプリントするだけだったから、わりと大きめの2Lに伸ばすと、同じ写真でも印象が違い、驚く人が多かった。

 

大切な写真は、たまには大きくプリントしてみるといい。

手に取ると、それはデータという空気みたいなものから、存在の重さのある宝物に変わるかもしれない。

 

6.2.2021

DAYS /  Kaori Kawamura Column

人生は美しい

縁のあるところには導かれる

フィレンツェ.jpg

 

人生の中で時々、自分が望む望まないに関わらず、ある方向に導かれてしまうことがある。

それは深いところではやはり自分が選んでいる現実なのだけど、流れに乗っかって進んでみないとわからないことがある。

イタリアとはそんな出会いだった。

 

大学時代、イタリアのイメージは「なんとなく血生臭い」だった。

だから卒論のテーマもイタリアは避けた。

初めてヨーロッパに行くことになった時も、イタリアはどちらでもよくて、スペインを楽しみにしていた。

 

1988年に友人と二人でヨーロッパを旅して回ったことは「STAY SALTY vol.11」に書かせていただいた。

イギリスからパリを経由してスイス、ドイツと旅をしてきた友人と私は、ドイツのミュンヘンの駅構内でどこに向かうか迷っていた。

イタリアのヴェネツィアか、フィレンツェか。
結局、ヴェネツィアに行ってからフィレンツェに下ることに決め、出発のホームを確認し、停車している列車を指して、近くにいた駅員に「これはヴェネツィアに停まるか?」と念のために確認してから乗り込んだ。

 

明け方、列車の簡易寝台から腕をのばしてカーテンを少しめくると、窓の外が一面オレンジ色に染まっていた。

それが初めて見たイタリアの風景だった。

 

「イタリアに入ったんだ。これがイタリアか~・・・」 

その情景を見ながら、なぜか目の前を流れる風景が日本と似ている、と感じていた。

それからトイレに行こうとコンパートメントを出て、車両の後方に歩いていって気が付いた。

出発の時にあった後ろの車両がない・・・。

 

どうやら夜中のうちに切り離されたようだ。

現在地を確認すると、列車はフィレンツェ方面に南下していた。

急遽目的地を変更し、私たちはフィレンツェに停まる列車に乗り換えた。

 

振り返ってみれば、ヴェネツィアよりもフィレンツェのほうが私にとって何倍も縁のある土地だった。

実際、フィレンツェの大聖堂の丸屋根のてっぺんまで上がって街を見下ろした時に初めて、ヨーロッパに来たことをはっきりと実感した。

それまでに4カ国を通ってきているにも関わらず、それらはどこか夢の中のようだったのかもしれない。

でも、フィレンツェの赤茶色の屋根が広がる街の風景は、どの場所よりもリアルにヨーロッパだった。

 

美術館に行けば、教科書で見たことがある名画が山のようにあった。

教会のなかでも突然巨匠の絵に出会う。

街中を歩いていると、みな彫りの深い顔立ちでとにかく美形が多い。

聞こえてくるイタリア語の響きは音楽のようで、そのリズムが意識に強く刻まれた。

 

日本に帰ってから、イタリア語を学んでみたい、とぼんやり思い始めたが、NHKでイタリア語講座が始まるのは1990年になってからだった。
80年代後半から90年代の初め、折しもイタ飯ブーム、ティラミスブームがあり、フレンチのレストランがどんどんイタリアンに変わっていった頃だ。

 

少しづつ複雑な文法を学びながら、これに慣れるには文通しかない、そう思った私は、銀座のマガジンハウス社に当時あったワールドマガジンギャラリーを訪ねた。世界中の雑誌が無料で閲覧できるスペースで、イタリアの女性雑誌を片っ端からめくり、読者の投稿ページらしきところにペンフレンド募集の手紙を送った。

 

イタリアのみならず世界各国から150通以上の手紙が舞い込み始めたのは、たぶん半年以上経った頃だ。

 

1993年春。

複数のイタリア人とイタリア語ができるヨーロッパの人たちと文通を始めてから半年くらい経って、そのうちの3人に会うため、私は初めて一人でイタリアに行くことに決めた。

まだろくにイタリア語を話せないのに。

その頃の自分を思い出すと、まるで弾丸のようだったと思う。

 

旅程としては、北イタリアでペンフレンド宅にお世話になってから、フィレンツェを再訪することにした。

そこからローマのペンフレンドの所まで南下する途中、どこか小さな町に泊まってみたい、と思った。

調べてみるとちょうど中間くらいの位置に、列車でいける中世の趣が残る町があると知り、そこに1泊することに決めた。

 

それが3年後、3ヶ月語学学校に通うことになる、アッシジという町との出会いだった。

 

私のDAYSのタイトル、La Vita e’ Bella.(ラ・ヴィータ・エ・ベッラ)という言葉は、アッシジの家の大家さんの口癖だ。
「ライフ イズ ビューティフル」。

イタリア映画のタイトルにもなった「人生は美しい」という意味。

なにか嬉しいことがあると、彼女は「ラ・ヴィータ・エ・ベッラ!」と言っていた。

でも、問題や難しいことがあると「La vita e’ difficile. ラ・ヴィータ・エ・ディフィーチレ(人生は難しい)」と肩を落とした。

 

明るいところに必ず濃い影ができるように、イタリアにもいろいろな社会問題があり、そればかり考えてもしょうがないから、今は楽しもう!
イタリアで感じたのは、そんな明るさでもあった。

 

インターネットが一般的になるころには、郵便でやり取りをしていたペンフレンドとは、ひとりをのぞいて縁が切れた。
でもインスタグラムを始めた時、切れていたイタリア人のひとりがメッセージを送ってきた。

家に2度遊びに行ったことがある人も、最近Messengerで話しかけてきて、ひさしぶりに繋がった。

今ではインスタグラムで気軽にコメントを入れたり、動画で声まで聞くことができる。

先日など、カリグラフィーで書いたイタリア語のスペルミスを指摘されてしまった。

 

人とも土地とも、離れたり、また繋がったりしながら流れは続いていく。

どの方向に流れてもOKと思っていると、自分では思いつかないところに導かれていくかもしれない。

いずれにしても、それは自分と縁の繋がるものなのだ。