


Kim Mina
半農半ライター
1982年九州生まれ、関西育ち。北海道大学教育学部卒。2006年、地域情報紙の編集記者1年目に初の海外旅行で韓国・釜山へ。2010年〜韓国語を学び始め、2012〜13年ソウルの延世大学語学堂に留学。帰国後、再び編集記者を経て2015年秋からフリーランス。食・農・芸術・韓国を通して人を描く「半農半ライター」の活動を始める。
2017年、韓国での農業体験取材を機に国際結婚し、韓国 へ移住。現在は半農半作家生活を模索しつつ、子育て・家業・日本語会話講師の仕事に励み、今しか書けない思いをエッセイや詩で表現することがライフワーク。



















2.8.2025
DAYS / Kim MIna Column
オンマと呼ばれる日々
小説を翻訳してみて

この冬、韓国の短編小説を2つ翻訳することに挑戦した。自分が読むためにじゃない。人に読んでもらえるよう、プロの翻訳家になったつもりで訳してみたのだ。どうしてそんなことをしようと思ったか?それは昨年、私が大きな信頼を置いている3人の女性たちに、こう言われたからだった。
「翻訳をやってみたらどう?」
ひとりは20代の頃、編集記者としてスタートした時からお世話になっている大先輩で、今でも現役のライターとして活躍している方だ。「書く仕事を続けていきたい」、「いつか本を書きたい」と言いながら、家業や子育てに片足を掴まれた状態で大きく動き出せないでいる私に、「自分で書くのもいいけどさ、翻訳がむいているんじゃない?」と助言してくれた。
もうひとりは、雑誌編集の経験があり、読書家で、今も本に関するお仕事をされている方だった。彼女はこれまで私が書いた文章を読み、週一で配信しているポッドキャストもまめに聞いてくださっているようで、2度目に会った時、別れ際に「翻訳をしてみたらどうですか?」と言ってくれたのだった。
そしてもうひとりは、今まさに現役で活躍しているプロの翻訳家の方だ。この数年、韓国語の勉強のために小説の翻訳をしかけては挫折しちゃって、という話をしていたら、「翻訳の学校へ通ったり、コンクールに挑戦してみたらどうかな」と提案してくださったのだ。
実は、夏から秋にかけてこの3人と再会する前に、初めて「リーディング」という仕事をさせてもらう機会があった。リーディングとは、ざっくり言うと「原書を読んでそのあらすじや感想をまとめる」というものなのだが、出版社ではそのリーディングを元に、自社で翻訳出版するかどうかを決めるそうなのだ。
ただの本好きで、いつも自分が読んで良かった本の話を記事やポッドキャストで伝えてきただけの私に、「ぜひリーディングを」と頼んでくださった方には感謝しかなかった。40数年の人生経験上、「実績がない人」にはなかなか仕事のチャンスがまわってこないし、今の時代「フォロワーが少ない人」だと、発信している中身すらじっくり見てもらえないだろう。
そんな中で、私を信じて仕事のチャンスを与えてくれた人がいたのだ。その直後に、信頼する3人の人から立て続けに「翻訳をやってみたらどう?」と言われたのだから、やらないと罰が当たりそうな気がした。…というのは冗談だが、単純な私は、天の神様・仏様・ご先祖さまに「あんたの進む道はこっちだよ」と言われているような気がしてしまったのだ。
それでもすぐには始められず、年の瀬も迫った昨年12月。フランスから夫の娘がやってくるクリスマス直前になってやっと、私は本を購入し、短編小説を2つ訳し始めた。どちらも今まで読んだことのないタイプの話で、訳し始めてすぐ挫折しそうになった。だけど、今回は必ず最後まで走りきってみたかった。夫と共に働く職場で、空き時間に少しずつ訳し始め、夫の娘がフランスに戻った1月初めからは、夜、息子が寝た後の22時から午前1時まで、毎日集中して訳し続けた。
ところが、完成予定まであと一週間という時に、息子から順にインフルエンザを発症してしまった。5日間何もできず、発症6日目からのどの痛みをこらえつつ翻訳を再開。時はすでに旧正月の6連休が始まる頃で、もし例年のように義実家を訪問するとなると、1月中には終わらない。だから私はおもいきって宣言した。「翻訳をやらせてほしい!」と。
運良く、今年の旧正月から夫の実家ではチャレ(旧暦元旦の朝に先祖の霊に膳を捧げる儀式)をやらないことになり、6連休は初めて義両親・義弟家族と一緒に地方を旅する予定だった。もしチャレの準備があったなら、長男の嫁が行かないなんてひんしゅくを買ったかもしれないが、旅に行くのだから私がいなくても特に問題はない。6歳の息子は「オンマ、ポゴシッポ(お母さんに会いたい)」と言った記憶がないほど、昔からアッパっ子(お父さんっ子)だし。
しかも、意外なことに夫を始め、義両親までもが応援ムードだったのだ。今回の翻訳は、別にお金をいただいてやっている仕事ではないし、私の単なる挑戦に過ぎないのに。「ご苦労さま。しっかり翻訳しなさいね」って言ってもらえるなんて…。これってやっぱり、天の神様・仏様・ご先祖さまのお導き?!
というわけで、ひとりきりになった病み上がりの5日間、私は2つの小説の世界にどっぷりと浸かり、プロの翻訳者の人たちがいかに調べものに時間を費やし、頭を使い、韓国語以上に日本語と向き合って翻訳作品を世に送り出しているのか、身を以って知ることとなった。知らない単語や表現は、辞書や文法書、WEBで検索すればだいたいわかる。だけど、それをいかに読みやすい日本語表現にして訳すか。その作品の世界観をそのままに訳せるか。それがとても難しく、おもしろく感じた部分でもあった。
語弊があるかもしれないが、翻訳とは塗り絵に似ているような気もした。最初は、原書という絵の下書きを眺めるだけで精一杯だったのが、一巡、二巡、三巡と翻訳を繰り返していくうち、絵に少しずつ色がついていき、最後に「ああ、こういう世界だったのか!」とすべての色が見えてきたからだ。原書には「ここは赤ですよ」、「青ですよ」とすべて指示が書いてあるわけだが、それが鮮やかな赤なのか、薄めの赤なのか、決めるのは訳者に託されている。だから、もし同じ作品を10人の人が訳したら、同じ絵なのに印象が違う10通りの絵が現れるはずだ。
これまで自分では読んでこなかったような作品を2つ訳し、物語に登場する音楽を聞いたり、映画を観たり、取り扱われているテーマに関する記事を探してたくさん読んだり。これまで気軽に読ませてもらっていた翻訳小説を何冊も参考にし、日本語の表記の仕方や言葉の選び方、訳注の書き方などを学ばせてもらったり。わからないなりに手探りで挑戦する毎日は、とにかく楽しくて、おもしろく、発見の連続だった。2つの作品に取り組んだことで、これまで知らなかった世界の扉が開き、見えなかったものがたくさん見えてきたことも嬉しかった。
「韓国にいると年末年始の年越し感がないし、旧正月までずっと家にこもってたら、私の年明けはいつやってくるんやろう…」
旧正月に一人で家に残ることを決めた夜、パソコンに向かいながらそうつぶやいた私に、息子が韓国語でこう言った。
「翻訳が終わったら、お母さんの新しい年が始まるよ!」
2025年1月末、約1か月にわたる挑戦が終わり、やっと私の新年が幕を開けた。荒れた家を片付けたら、早速次の作品の翻訳にとりかかろうと思う。その先にどんな未来が待っているかはわからないけれど、今はただ、信頼する3人の人の言葉を胸に、挑戦を続けていきたい。
12.5.2024
DAYS / Kim MIna Column
オンマと呼ばれる日々
イギリス人夫妻との14か月
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昨年春に掲載のエッセイ『40歳の終わりに始めたこと』の中で、「1日1語フランス語を学び100日経った」という話を書いた。その後、夏の日本帰省を機に1か月休み、また再開しようと思っていたある日。仕事から帰ってきた韓国人夫の思いがけない一言で、私はフランス語ではなく、突然英会話の練習を始めることになった。
「前からずっと英語が話せたらいいのにって言ってただろ?さっきブライアンに相談して、今日から週に1回、英会話の練習に付き合ってもらうことにしたから。月曜のこの時間なら大丈夫だって。さあ、今からテレビ電話つなぐよ」
「え?今から?!無理ムリ!そんなの急すぎる!せめて中学校の文法や単語くらい復習してからじゃないと何にも話せんし」と軽く拒否してみたものの、夫は右から左へ華麗にスルー。何事も思い立ったらすぐ、準備不足でもまずやってみるという〝速く速く〟文化の中で育ってきた彼の指は、すでにメッセンジャーの通話ボタンの上でスタンバイしていた。
「そんなこと言ってたらいつまで経っても始められないよ。もう今日からやるってことになってるから。いいね!」
そうして急に始まったイギリスと韓国をつなぐテレビ電話は、毎週月曜の22時頃から約1時間、14か月にわたり続いてきた。夫曰く、ブライアンは一度スケジュールやルーティンを決めたらそれを大切にして暮らすそうで、声が出ないとか家族旅行などよっぽどの事情がない限り、私たちは毎週顔を合わせている。

夫は20代の頃、テコンドーを通じて知り合ったイギリス人夫妻、ブライアンとクララの家に1年間ホームステイし、大学で英語を学びながらブライアンのテコンドー道場で師範としてアルバイトをしていた。帰国後も20年以上にわたり交流を続け、私たちが結婚した時にはクリスマス前後に5日ほど2人の家に泊めてもらったこともあった。
もともと小学校の先生だったブライアンは、先にテコンドーを始めていた息子の影響で自分も習い始め、すぐ夢中になり、早期退職してテコンドー道場を開いた人だった。義父と1歳違いで70代後半。まだまだ元気とはいえ少しずつ老いてきた「イギリスの父」であり「フレンド」でもある彼と、夫は頻繁に連絡を取る口実が欲しかったのだろう。要するに、私はだしにされたのである。
でも、そんな夫の突拍子もない提案に内心感謝している自分もいた。7年前の新婚旅行で初めてブライアンとクララに会って以来、私はずっと「2人といつか深い話ができるようになりたい」と密かに思ってきたのだから。これは良きチャンスじゃないか。まずは聞く練習をしてみよう、どんなにひどい片言でも話してみよう、と目標を低く設定し、風呂上がりのどすっぴんで「Hello!」と挨拶。ランチを食べたばかりという2人はとびきりの笑顔で「How are you?」と返してくれた。
2回目からは毎回「最近見たドラマ」、「最近読んだ本」などテーマを決め、翻訳機を使って話したいことを英文で準備。それを読み上げた後、フリートークする形を1年続けた。でも、それではやはり会話は上達しないので、この秋からは何も用意せず、その場で考えながら話す練習を始めたところだ。

私の英語力はイギリスの幼稚園児も聞いてびっくりのレベルで、文法も発音もめちゃくちゃ。単語もよく使う言葉しか覚えられないし、出てこない。ブライアンたちとのテレビ電話を始めてしばらく経った頃、Duolingoというアプリで1日数分の英語レッスンも始めてみたのだが、この14か月でできるようになったのは、前より少しだけ英語が聞き取れるようになったこと。LとRの違いなど英語の発音を意識するようになったこと。そして、アメリカ英語とイギリス英語の違いが少しわかるようになったことだけだ。
もし本気で英語を話せるようになりたいのなら、毎日聞いているラジオやYouTubeをすべて英語で発信されているものに変えたり、英語圏の映画やドラマを見たり、基本的な文法や単語を勉強し直したり、英文を声に出して多読したり。もっと効率的で効果的な学び方があることを私はなんとなく知っている。それらは韓国語を身につける過程で一度経験してきたことだからだ。でも、でも!私には、なぜかそれが長続きしなかった。
なぜなら、毎日韓国語を使って生活している私の脳には「外国語=韓国語」とインプットされていて、英語が入り込む隙がほとんどないようなのだ。ブライアンたちと話していても突然口から韓国語が飛び出てくるし、横で通訳してくれる夫とも韓国語で話してしまうので(彼は日本語ができない)、私の脳は「もう日本語と韓国語だけでええやん?英語は諦めな」と実にやる気がない。こんなこと、ブライアンとクララには申し訳なさすぎて言えないけれど。
しかし、残念なことばかりでもなかった。私はこの14か月間、2人のおかげでイギリスの人たちの暮らしや価値観、イギリスから見た韓国や日本の印象などたくさん話を聞くことができた。中でも、彼らが週1で開催しているシニア向けテコンドー教室の話や、ほぼ毎週ミュージシャンとして参加しているというオープンマイク(パブやカフェなどで誰でも演奏やパフォーマンスができるイベント)の話は、毎回聞くのが楽しみだった。

2人は私たちとのテレビ電話を機に、韓国や日本が舞台のドラマや映画、ドキュメンタリーをよく見るようになったそうで、ブライアンはアメリカのドラマ『SHOGUN 将軍』にはまり、小説まで読んだと教えてくれた。先日は「息子に薦められて」と初めて日本語小説の翻訳本に挑戦。柚木麻子の『バター』を読み始めたと言うので、私も積ん読していた『バター』を最後まで読み、感想を述べ合った。
その小説には温かいご飯の上にバターを乗せ、醤油をかけて食べるシーンがあるのだが、2人は実際にそうやって食べてみたらしい。「とてもおいしかったんだけど、日本ではこうやって食べるのが普通なの?」と聞かれたので、「私はご飯にバターを乗せて食べたことはないけど、時々魚をバターで焼いて醤油をかけて食べます」と言って笑った。
最近では毎日のように韓国ドラマを観ているようで、私たち以上に話題のドラマに詳しい2人は、ある日こんな疑問を投げかけてきた。
「どうして韓国のドラマには食べるシーンが良く出てくるの?いつも何かを食べたり飲んだりしているし、俳優たちは食べながらセリフを上手に話すよね。イギリスのドラマでは、食事のシーンで食べながら話すことってない気がするんだけど」
それから数日後、久しぶりに訪れたチムチルバン(温浴施設)でテレビの大画面に映し出されていた韓国ドラマを観て、私は驚いた。義父・義母・嫁役の役者3人がサムギョプサル(豚の三枚肉)を次々と焼き、焼けた肉をサンチュで巻いては嫁が義母に、義母が義父の口に入れ、しっかり食べながらも活舌良くセリフを発していたのだ。韓国のドラマを見慣れすぎて気づきもしなかったけれど、よく考えればこれはすごい。サンチュで巻いた肉を口に入れたら、すぐにはしゃべれたもんじゃないのに。
こんな風に、2人と話しているといつも、私たち日韓の日常や見慣れた風景が世界の当たり前ではない、ということに気づかされる。英語のみならず、世界史や地理、宗教や哲学、食文化、芸術などについて若い頃からもっと深く勉強していたら良かったなあと、ちょっぴり後悔することもある。だけど、それはこれから少しずつ楽しく学んでいけばいい。何事も「やろう!」と思い立った今日が一番若い日なんだから(ですよね?!)

実は、私が数年前にフランス語を始めたのは、新婚旅行の時にブライアンが口にした一言がきっかけでもあった。お互いに子どもがいる状態で再婚したという2人に、フランスで暮らす夫の娘との向き合い方を相談した時のことだ。当時夫の娘はまだ小学5年生でフランス語しか話せず、そんな彼女とどうやってコミュニケーションをとれば良いかと悩む私に、ブライアンはこう言った。
「英語も必要だろうけど、フランス語を学ぶといいかもしれないね」
彼はのちに「そんなこと言ってた?全然覚えていないや」と笑っていたけれど、あの時確かに彼から聞いた一言が、私に一歩踏み出す勇気をくれたのだ。そうして始めたフランス語は、残念ながら今やすっかり休止状態。でも、半年かじってみてなんとなく読めるようにはなったし、フランス語のわからなさのおかげで、今まで難しいと思っていた英語が「あれ?結構知ってる!少しなら話せるかも」と、光輝いて見えるようになったのは大きな収穫だった。
「大丈夫!君の英語は少しずつ上達しているよ」
どんなにめちゃくちゃでしどろもどろの会話でも、根気強く耳を傾け、わずかな進歩を見つけては褒めてくれる。そんな「イギリスの父と母」には、どんな自分も愛すること。家族や仲間を大切にすること。そして“Keep Smiling”、笑顔を忘れずいつも人生を楽しむこと。英語だけでなく、健やかに生きるコツもたくさん学ばせてもらっている。
この12月には夫の娘が2週間、韓国にやってくる。いつの間にか彼女も18歳。成人かつ大学生になった。夫が飛行機代を送ろうとしたら「アルバイト代でチケットを買うから送らなくていいよ」と言って、私たちを驚かせた。私はいくつか覚えたフランス語と、ブライアンとクララを困惑させてきた怪しい英語、そして韓国語を駆使し、2年ぶりの彼女といろいろ会話できることを楽しみにしている。
少し早いけれど、Merry Christmas & Happy new year ! ご縁があってこの文章を読んでくださったみなさんに、これからもたくさんの幸せが訪れますように。

9.10.2024
DAYS / Kim MIna Column
オンマと呼ばれる日々
見ます、見せます。韓国の家探し

ある日突然「10分後に行きます」という電話がかかってきて、知らない人たちがぞろぞろと家を見学しに来る。ご飯中でも、昼寝していても、あいにく外出していたとしても!日本で暮らしていた時、そんなことがあっただろうか?(いや、ない!)
韓国に移住して7年目。この夏、私は新しい異文化体験をした。実はまだその渦中にいるのでうまくまとめられないかもしれないが、日本から韓国へ戻ってきた3週間のあいだに起こった、家探しにまつわる話をぜひ聞いてほしい。

パリオリンピック開会式の日から2週間日本へ一時帰国し、5歳児と50kg超えの荷物と共に韓国へ戻った翌日。息子を幼稚園に送ったその足で、私と夫はあるアパート団地へ向かった(韓国ではマンションのことをアパートと呼ぶ)。
これでもかという蝉の大合唱の中、アパートの入口で不動産屋さんを待つ。約束の時間はもう過ぎていた。ポロシャツを着た不動産屋さんが来た頃にはもう汗だくで、「日本の夏もえぐかったけど韓国の夏も蒸し暑いな」と思いながらエレベーターに乗り込んだ。
最初の家は2階で、ドアの横に「赤ちゃんがいます。ベルを押さないで」という手書きのメモが貼られていた。不動産屋さんが何度かドアをノックしても反応がないのでベルを押すと、男性が一人出てきた。私たちは挨拶もそこそこに靴を脱ぎ、「これが噂に聞いていた突撃お宅拝見かあ…」と心の中でひとりごちながら部屋の中を見てまわる。そう、韓国では引っ越し先を探す時、まだ人が住んでいる部屋をこうして見せてもらうのが常なのだ。
何があったのかは知らないが玄関先の壁紙が無惨な形に破れていて、それを見た瞬間、他人の家を突然訪ねて見せてもらうのは、おもしろくもあり、なんだか切なくもあるなあという思いが込み上げてきた。「この壁紙は入居前に家主が張り替えてくれますから」と不動産屋さん。もし引っ越すならぜひともそうしていただきたい。
次に向かったのは19階。10代の頃、阪神淡路大震災を経験したこともあり、高層階に住むのはできれば避けたいと思い続けてきたのだが、5歳児が小学校へ入学する前に一刻も早く引っ越す必要がある今、選択の余地はない。もしこの家に決まったら、半分ヤケクソだけど「韓国は大きい地震が起こらないから大丈夫」という誰かの言葉を信じて暮らそうではないか。
その19階で待っていたのはご婦人と、寝起き間もない息子さんだった。ベランダから下を見ると一瞬クラクラ。やっぱり地面が遠すぎる。韓国には50階建てのアパートもあるのだが、みんな怖くないのだろうか?キッチン、バスルーム、寝室、子ども部屋。すみずみまで見てよいはずなのに、他人のプライベート空間に入り込むのはなんとまあ居心地の悪いものよ。心の中で「やっぱり19階は無理」とひとり決断を下し、逃げるようにして部屋を後にした。
続いて9階に降りると、真っ赤なシャツを着た女性が息を荒くしながら階段を上ってきた。この方も不動産屋さんらしい。あいにく9階の住人が不在で20分後に帰宅するというので、私たちは先に他の家を見に行くことにした。
赤シャツの不動産屋さんによると、9階の住人は家主さんらしい。ちなみに、この日見せてもらった他の家の住人は「チョンセ」で家を借りている人たちだった。このチョンセとは韓国独自の家賃制度で、大抵は2年契約。入居時に家主にチョンセ(場所によって金額はピンキリだが数千万円必要)を預けると月々の家賃は払わなくてよく、退去時には預けた全額が戻ってくるという仕組みだ。現金でチョンセを用意できれば一番良いが、できなければ銀行でお金を借りることになる。
「家主」という言葉に反応した私を振り返り、ポロシャツの不動産屋さんが力強くこう言った。「家を借りる時は、家主の性格もよく見なきゃいけませんよ」と。赤シャツさんもうんうん激しく頷いている。ほんの数分のお宅訪問で家主の性格を見極めるって、結構な玄人技だと思うんですが?!
赤シャツさんと別れ他の棟の19階に行くと、今度はメガネの男性が待っていた。また別の不動産屋さんだ。インターホンを押すと、なんとそこは仕事で知り合った方の家!その方と夫はお互い目を丸くして驚き、「引っ越しされるんですか?」と聞き合っている。私はその方の子どもさんをよく知っていたので、後で「僕の家見に来たんでしょ?」と言われるかなあと思いながら、またもやさっと見学し、そそくさと部屋を後にした。
メガネの男性と別れ、再び赤シャツさんと合流し、私たち4人は先ほど入り損ねた9階の部屋に向かった。玄関の壁には自転車が数台ディスプレイされており、昨年リモデリングしたとのことで他の家よりも明るく、きれいな印象だ。家主の男性はお孫さんの面倒を見るため、この家を人に貸してお孫さんの家の近くに引っ越す予定らしい。リビングには子どもさんの結婚式に撮ったと思われる大きな家族写真が飾られていた。

家を即決できないまま数日過ぎる間に、今度はわが家を見たいという人たちがやってきた。「10分後に行きます」と電話がかかってきたのは月曜の午前中、昼食の支度をし始めた時のことだ。
私は掃除で汗だくになりシャワーを浴びた直後だったので浴室はびちゃびちゃ。でも、そのまま見せるしかない。もしこの時5歳児が家にいて、急に「お母さん、お腹痛い」と浴室内にあるトイレに籠っていたりしたら…。彼は排便が終わると「うんこ出ーたよー」と言って私を呼ぶので、そんな姿も見られちゃうってことですよね!
女性の不動産屋さんの案内でやってきた男女は、子ども部屋、リビング、寝室と順に見てまわった。3人がベランダに向かったその時、私は心の中で叫んだ。「しまった~!下着が干しっぱなしやん!」と。しかし、ここ数年愛用しているのは日本の無印良品で買いだめしてきたオーガニックコットンパンツだ。あの素朴な形と色なら、家を見るのが目的の彼らの目には留まらぬであろう(そうであってほしい)。
再び「10分後に行きます」という連絡が来たのは、その日の夜。私と息子が2人で夕食を食べていた19時頃のことだった。やって来たのは20代と思われる男女で、男性の片腕にはびっしりとタトゥーが彫られていた。ここ数年、韓国では大なり小なりタトゥーをしている人が爆発的に増えた気がするのだが、これも流行なんだろうか?
息子は突然の来客が嬉しかったのか、「ここが僕の部屋です」と自分の部屋の電気をつけて案内し、興奮する子犬のように家中をくるくると飛び回っていた。男性は最後にリビングの電気をつけたり消したりした。それを見て、「ああ、こうやって触って確認しても良かったんだ」と学ぶ私。あとで知人から聞いた話だが、トイレやキッチンの水圧を確認する人もいるらしい(大事ですよね)。

この日から10日ほど経った頃、私たちはついに引っ越し先を見つけた。地面に近い2階で、子どもが3人いる家族が数年住んでいた家だ。ポロシャツの不動産屋さんと一緒にこの家を見学しに行った時、家の前で待っていたのはパッションピンクのシャツに身を包んだ不動産屋さんで、彼女はテキパキと家の不具合を確認しメモしながら、「傷んだ壁紙、滑りの悪い洋服ダンスの扉は全部家主さんに直してもらうよう掛け合います」と言ってくれた。
そして、ついに契約の時がやってきた。ボクシングの練習を終え、急いでシャワーを浴びて不動産屋さんに行くと、家主から委任状を託されたというご婦人が来ていた。家主はなんと30歳の会社員の女性で、このご婦人は家主のお母さんらしい!ご婦人はパッションピンクの不動産屋さんに絶大な信頼を寄せているようで、まるで姉妹のように親し気に会話を交わしていた。
諸々の契約が終わりご婦人とお別れした後、ポロシャツの不動産屋さんと残りの手続きを交わしている間、私が日本人であると知った不動屋さんがこう言った。
「実は僕、大学生の時に日本語専攻だったんですよ。30年以上前のことだから、今は全然話せませんが。妻とも日本語学院で知り合ったんです。日本語は彼女の方が上手でしたねえ」
なんとまあ!今回たまたま夫がネットで検索して電話した不動産屋さんが、日本に縁のある方だったとは。思いがけず馴れ初めまで聞かせてもらい、朝から緊張していた心がほっと緩んだ。不動産屋さんは「チャジャンミョン(韓国式ジャージャー麺)を出前するのでここで一緒に召し上がりませんか?」と言ってくださったのだが、残念ながら出勤時間が迫っていたので、手続きを終えてすぐ退散。こうして、韓国移住後初めての家探しは3週間で終わった。

あとはわが家に入居したい人が現れるのを待つばかりだ。これからしばらくは「今から行きます」という電話がいつかかってくるか、気にしながらの生活になる。
今日は外出中に「あと30分後に行きます」と電話がかかってきたので急いで家に戻ったら、見に来た人と不動産屋さんに「部屋の写真を撮ってもいいですか?」と尋ねられた。嫌とも言えず承諾すると、アイドルの撮影会さながら、休みなくシャッター音が聞こえてくるではないか~!後になって、家族写真や幼稚園からのお知らせとか、個人情報がむき出しになっているようなものは片付けておけばよかったなと後悔した。
きれいに片付いていようが、ぐちゃぐちゃであろうが、留守にしていようが見知らぬ人たちに家を見せ、私生活をさらけ出す。日本で長く暮らしてきた私にはなかなか受け入れ難いびっくりなシステムだが、韓国の家探しとはこういうものらしいので、もう慣れるっきゃない!
そう、人間は良くも悪くも慣れる生き物だから。今感じている驚きやとまどいも、10年後、20年後にはきっと笑い話になっていることだろう。2024年も残すところあと4か月。見知らぬ人たちを家に招き入れ、プライベートゾーンを大公開する日々はもう少し続きそうだ。

7.1.2024
DAYS / Kim MIna Column
オンマと呼ばれる日々
自分の身体を愛したい。私のボクシング日記

5月のある日、息子を幼稚園に送ったその足でボクシングジムへ向かった。ユニクロで買った薄手のストレッチパンツと大きめのTシャツを着て、とりあえず一度体験レッスンを受けてみようとジムの扉を叩いた。
これまで学校の体育の授業以外まともに運動をしてこなかったのに、いきなりボクシングだなんて。今までの自分なら「できっこないわ」とやる前から諦めていただろう。でも今回は「始めれば私も変われるかも」という小さな希望があった。その希望の光を見せてくれたのは、ひと足早くジムに通い始めていた韓国人夫だった。
結婚して7年の間、特にがんの手術をした4年前からは、毎日のように「身体が辛い」と言ってイライラしがちだった彼が、ボクシングのジムに行って来た日はとても機嫌がよく、家事を頼んでも嫌な顔をしなくなったのだ。数年前に始めた週1~2回のサッカーでは、ひざや腰を痛めて帰ってくることが多く、シャワーを浴びるなり寝転んで苦痛の表情を見せていたというのに。
夫の話によると、ジムでは毎回ボクシングの技を1つ教わり、30分練習。残り30分はみんなで筋力トレーニング。毎回女性たちも数名来ているという。彼は「きつい」と言いながらも、筋力トレーニングがとても気に入っているようだった。
ちょうどその時、夢中になって見ていた韓国ドラマ『涙の女王』の中で、ボクシングのパンチを決めるシーンが何度か登場した。それが妙に印象に残っていたこともあり、「私もやってみようかな」と口走ったら、本当にやる気になってきたというわけである。
こう書くとドラマの影響で始めたように聞こえるかもしれないし、別にそれでもいいのだが、実は今回突然運動を始めた理由は、「このままでは普通の生活もままならなくなる」という危機感を抱いていたからだった。

というのも、40歳を迎えた2年ほど前から体力が急低下し、毎朝目覚めてもすぐに起き上がれないし、身体は常にむくみ気味。首、肩、背中、腰の痛みを我慢してなんとか家事や仕事をこなしても、夕食前には電池切れ。そんな中、がんサバイバーで疲れがちなアラフィフの夫や、年がら年中反抗期のような息子と一緒にいるとこちらもイライラし、家族との衝突も増えていった。
さらに、今年はこれまで書いてきたものを編集し、1冊の本にまとめようと準備を始めていたのだが、机に向かえばむかうほど肩や背中が悲鳴をあげ、ふくらはぎが異常なほどむくんでいった。そして、気がつけば書くどころか、日常生活すら危うい状態になってしまっていたのだ。私は「ああ、またか…」と肩を落とし、自暴自棄になった。
思い返すと、幼稚園の頃から身体が異常に硬く、運動が苦手だった自分。若く元気なはずの10代の終わりから顎関節症や上半身のコリに悩まされていた自分。卒論を書く時も、編集記者として文章を書く時も、身体の痛みのせいで長く椅子に座っていられなかった自分。そして出産後、常に身体が疲れていてイライラしがちだった自分。私はずっと、そんな自分と、この身体が大嫌いだった。
私が抱える不調について唯一理解し、20代前半からおよそ10年間回復の手助けをしてくれた整体の先生は、海を越えた日本にいる。「先生、助けてください!」と泣きつきたくても、ここは韓国だ。はあーっとため息をついてうなだれる私に、しきりに運動を勧めてくる夫も憎かった。「そう言うならもっと家事を一緒にやってよ!あなたがご飯のひとつでも作ってくれたら、私はその間に他のことができるのに」と何度訴えてきたことだろう。
でも。ひと足はやくボクシングを始めた夫の前向きな変化を見てこう思ったのだ。「私も変わりたい!」と。もう自分の身体を恨んで生きるのは嫌だ。私はもっとこの身体を好きになりたい。私はもっと、自分で自分を愛おしんで生きていきたい、と。
そうしてエイっと飛び込んだ私をジムの方たちはにこやかに迎え入れてくれた。運動初心者でも大丈夫。その言葉に背中を押され、午前中に週2~3回、約1時間のトレーニングを始めて1か月。ガチガチだった私の身体と弱りきった心は、少しずつ少しずつ変わり始めていった。

1日目/2024年5月9日(木)
体験レッスンへ。基本姿勢とジャブ(左パンチ)、ストレート(右パンチ)、前後左右のステップを30分。筋力トレーニング30分。グローブと、拳や手首を保護するバンテージを借り、基本姿勢を習う。基本の構えをするだけで両太ももと右足のふくらはぎがすでに痛い。この姿勢でどうやって動きながらパンチができるのか?今は謎だらけだ。
館長は20代後半の元プロボクサーで、日本語の会話が少しできるらしい。ジムには女性の姿もちらほら。筋力トレーニングはきついけれど、みんなで一緒にやるから頑張れる。頭で考えるより先に身体が入会を決めていた。月14万Wの会費を支払い、グローブとバンテージを購入。夜、筋肉痛が始まる。
2日目/5月10日(金)
朝、息子を幼稚園に送ったその足で、夫と共にジムへ。「鉄は熱いうちに打て」ではないが、何事もやる気になった時にすぐ始めるのが最も楽しく、覚えも早い気がする。今日は左と右のアッパーを30分、筋力トレーニング30分。アッパーとは相手の顎を打つことと聞き、ここでようやくボクシングが相手の顔や身体を攻撃するスポーツだったことを思い出す。
夜、テレビでたまたまボクサーの井上尚弥選手の試合を目にする。まだ2回通っただけなのに、ボクシングというスポーツを見る目がすっかり変わっていることに気づいた。何事も自分が体験して初めて見えてくることがある。それはつまり、知らないことの数だけまだ見えていない世界がある、ということなのだろう。
3日目/5月14日(火)
横からパンチをする左右のフックを30分、筋力トレーニング30分。しんどいけれど、身体の動きに集中する時間は読書の時に感じる没入感にも似ていて、とても楽しい。練習中、鏡に映る自分を見ていると「私は他の誰でもなく自分自身に勝ちたい」という気持ちが湧いてきた。ボクシング用のシューズを注文。
夜、両腕の激しい筋肉痛が始まったので、YouTubeで見つけたリンパマッサージの動画をいくつかやってみる。
4日目/5月16日(木)
脇腹にパンチする左右のボディフックを30分、筋力トレーニング30分。ここ数日、夜寝る前に1時間リンパマッサージをしていたからか、筋肉痛がおさまってきて身体が少し楽に。
帰宅後、シャワーをして洗濯を畳んでいる間に、夫が昼食を用意。彼はこれまでずっと、出勤前の午前中は寝転んでばかりだったのに、ボクシングを始めて本当に変わった。練習した後は不思議と身体が動くらしい。
5日目/5月20日(月)
防御の仕方を2パターン30分、筋力トレーニング30分。骨盤や背中の動きが悪いので、素早く防御することができない。筋力トレーニングがきつすぎる時は、5歳の息子が「おかあさーん!がんばれー!」と応援してくれている姿を想像すると、少し力がわいてくる。
夜、下半身のストレッチ動画を探し、リンパマッサージの後にいくつかやってみる。
6日目/5月22日(水)
ステップを踏みながら相手を攻撃する練習30分、筋力トレーニング30分。動きながらのパンチやフックは疲れて息が上がってくるとめちゃくちゃになり、筋力不足を実感。なぜ筋力トレーニングが必須なのかがよくわかった。
7日目/5月24日(金)
初めてリングの上で攻撃練習30分、筋力トレーニング30分。対戦用の防具とグローブをつけてリングに上がると緊張し、習ったことをすべて忘れてしまった。最後は力任せにジタバタと動いて終わる。でも、身体を動かすのはとても楽しい!
ボクシングを始めて、ジムから戻って出勤するまでの1時間半の動きがとても軽やかになった。昼食や弁当作り、掃除機かけなど、家事をこなすスピードが明らかに速くなっている。
8日目/5月28日(火)
防御→攻撃を30分、筋力トレーニング30分。私にしきりにピラティスを勧めていた夫の従妹が、ボクシングに興味を示し体験レッスンへ。帰り際、ジムでよく一緒になる女性と初めて言葉を交わす。「やり続ければできるようになりますよ」と言われ、勇気づけられる。
最近、休日に山道を歩いたり職場で階段を上り降りする時に、息切れせず軽やかに足を踏み出せるようになってきた。
9日目/5月29日(水)
右左の防御→Uの字を書くように動くウィービングを30分、筋力トレーニングを30分。今日は筋力トレーニングを先にしたからか、その後の練習がいつもよりきつかった。
夜のリンパマッサージやストレッチが習慣になる。画面の向こうで「この動きが痛い人は伸びしろがあるということですよ〜!頑張って」と言われると、「そうか、私は伸びしろだらけなんだ!」と前向きな気持ちに。家にいながらいろんな先生に無料で身体のケアを教われるなんて、良い時代になったなあ。
10日目/6月3日(月)
足を一歩引く防御の練習を30分、筋力トレーニング30分。週末の疲れを引きずり身体が重く、休みたい気分だったけれど、気合いを入れて運動しに行くと少し楽になった。
11日目/6月5日(水)
防御→攻撃の3パターンを30分、筋力トレーニング30分。だんだん習ったことを忘れがちになり、新たな技も正確に覚えられなくなってきた。「下半身を鍛えると長生きできます」とコーチに励まされながらのスクワット。長生きしなくてもいいけど、息子が30になるまでは元気でピンピンしていたい。きつすぎて半泣き。
昨日はまだ身体がだるく腰に違和感があったので、ボクシングには行かず、近所の公園を歩いた後、少しランニングをした。そのせいか今日は身体がスッキリ。「運動しないと気持ち悪い」という、これまで一番理解しがたかった人たちの気持ちが、齢40を過ぎてようやく少しわかるようになってきた。
12日目/6月7日(金)
前後にステップしながらの攻撃を30分、筋力トレーニングを30分。軽やかにステップが踏めず、身体の重心がぶれまくる。腕立て伏せも全くできず。でも、なんとか1か月通い続けることができた!
夜、「大きくなったらボクシングしたい」と言うようになった息子に、「お母さん、今度お父さんと一緒に幼稚園でみんなにボクシング教えてあげてね」とお願いされる。

この1か月、心身の状態や家族との関係、日々の過ごし方が少しずつ良い方に変化していくのがわかり、とても楽しかった。身体はまだ痛いところもある。だけど、だからといって自分の身体に失望する気持ちは消え、今は「いつもありがとう。これまで無理させてきてごめんね」という思いでいっぱいだ。
運動をしながら、なぜ半農半ライターとして暮らしたいと思ったのか?その根底にある思いに気づいたりもした。私はただ単純に、身体を目一杯動かしたかったのだと思う。畑仕事をしてクタクタになった身体でご飯をおいしく食べ、クリアになり栄養が行き届いた脳で文章を紡ぎだす。そういう生活を欲していたのは、心じゃなくて身体の方だったのだ。
残念ながら半農生活への道はまだ遠そうだが、今はボクシングを楽しみながら、自分史上最高の身体作りに取り組むつもりだ。そして、その過程で心身がどんな風に変化していくのか?その詳細を記録して本にし、いつか日本と韓国で出版したい。
私のように、表には見えない身体の痛みのせいで生きるのが辛くなってしまった人や、もっと自分を丸ごと愛せるようになりたいと願っている人たちが、慰められ、癒され、勇気づけられるような。「この人にできるなら私にもできるはず!」と一歩前に踏み出したくなるような。そんな1冊をいつか必ず。
" It's time to show you."
私はまだ見ぬ自分に出会うため、明日もボクシングジムへ行く。

4.15.2024
DAYS / Kim MIna Column
オンマと呼ばれる日々
わからないまま、生きていく。

私より流暢に日本語を話し、私よりはるかに日本を愛する韓国人の友人がいる。彼女は「10年以上暮らした大好きな日本にいつか戻りたい」と願いながらも、パートナーの都合でアメリカ暮らしを数年経験し、今はソウルのど真ん中で小学生の子どもを2人育てている。
「Minaさん、私やっぱり韓国の生活は合わないのかも。最近子どもの学校のことでいろいろあって。日本に行きたい、やっぱり日本の方が合うんじゃないかって、そう思ってたとこだったの」
久々にかかってきた電話の中で、彼女は珍しく落ち込んでいた。聞けば、学校で起こった子どもの問題について、できるだけ穏便に解決しようと慎重に動いていたのに、家族や友人に「そんなやり方じゃだめだ。今すぐ学校に抗議しないと!」と責められてしまったのだという。
「韓国では『声が大きい人が勝つ』という言葉があるんですよ。強く言ったもん勝ち、というか。でも、私にはそれが合わなくて。今まで子どもたちに『感情的にならず落ち着いて自分の意見を伝えなさい』って教えてきたのに、ここではやっぱり強く主張しないと話を聞いてももらえない。韓国で生きていくためには私のやり方じゃ駄目なのかも…」
そう嘆く彼女の声を聞きながら、私は日本で過ごした日々を思い返していた。幼い頃、自己主張が強めだった私のような人間は、先生や友達から煙たがられ、意見を聞いてもらえるどころか無視されたり、逆にみんながやりたがらない面倒なことを押し付けられたりしていたなあ、と。
他人に迷惑をかけないこと。周りの人と足並みを揃えること。人に配慮することを小さな頃から叩き込まれがちな日本では、そもそも声が大きい人は生まれにくいし、そういう人たちは生きにくい。出る杭は打たれまくるうちに沈んでいく。私も10歳での転校を機に、徐々に自分を押し殺すようになってしまった。

そうやって抑え込んでいたものが一気に解放されたのが、語学習得のため韓国に留学した30の頃だった。
私はあの時生まれて初めて異国で暮らし、黙っていては何も始まらないのだと身を以って知った。外国人登録証が手元に届かず困っている、エアコンが壊れているので別の部屋に移りたい、携帯電話を契約したい…。つたない言葉でも自分の思いをちゃんと伝えなければ、生活が回らなかったのだ。
無理そうな事柄も、諦めず何度か交渉してみる。嫌なことは嫌、できないことはできないとはっきり言う。ここでの強い自己主張は生きるために必要なものであった。韓国語で主張できるようになればなるほど、30年の間に低くなりすぎていた自己肯定感が少しずつ上がっていった。
「私は私のままで良かったんだ。ちゃんと自分を出しても受け入れてもらえるんだ」。韓国での留学生活は私に大きな解放感を与えてくれた。
それから数年後、30半ばで韓国移住した後は、また別の解放感を味わうことになった。「ここでは私は外国人なんだし、わからないことが多くて当たり前」と開き直ることで、ありのままの自分でいられるようになったのだ。
例えば、韓国で生まれ育った人であれば皆知っているような一般常識が、私にはわからない。子ども時代によく歌う歌、みんなでする遊び、必ず習う昔話など知らないものを挙げればきりがない。
また、子どもが熱を出した時の看病の仕方も、箸の使い方も、友達や家族との距離感なども日本とは少し違う。「高熱が出たら服を脱がせ、ぬるま湯につけて絞ったタオルで拭きつづけなきゃ」とか、「ご飯はお箸じゃなくてスプーンで食べるもの」とか、「義両親にはまめに安否電話をし、必要なものがあれば買って差し上げるものだ」とか。これらは全て、こちらに来てから韓国の人たちに言われたことだ。
最初から全く異なる文化圏であれば「へえ、ここではそうするんですね」と素直に受け入れやすいかもしれない。だが、日本と韓国は人の外見も文化も何もかも似ているが故に、お互いの微妙な違いを受け入れるのが難しかったり、「え?何でこんなことも知らないの?できないの?」と思われたり、思ったりしてストレスを感じることもある。
だから私は、ある時から静かなる自己主張をすることにした。外国人なんだから知らなくて当然、違っていて当然、できなくて当然。「郷に入れば郷に従え」で合わせられることは合わせるけれど、変えたくないところは無理に変えず、知らなきゃいけないことは少しずつ知っていけばいいや、と。その結果、日本にいた時以上にマイペースで自分らしく暮らせるようになったというわけだ。

それから、無知であるが故に困ることもある一方で、知らないことやわからないことが多いからこそ気楽に暮らせている部分もある。
例えば、韓国人であれば自然に見聞きしているはずの情報の多くが、私には見えていないし聞こえていない。韓国語の力がまだまだネイティブには及ばないので、意識して読まないとハングルのニュースは目に入ってこないし、興味のない分野の話だと誰かの会話はBGMにしか聞こえないのだ。
それに加え、共働きのため幼稚園帰りに5歳児を公園で遊ばせたり、ママ友たちと交流したりする機会もなく、噂話や子育て情報がほとんど耳に入ってこない。韓国の主婦の9割が利用しているというマムカフェ(地域ごとにあるオンラインコミュニティ)も、うまく活用できそうにないので見ていない。
こうやって知らないことが多い暮らしはいろいろと損をしているのかもしれないが、情報過多により生まれるストレスはゼロだ。もし日本で暮らしていたら、きっとこうはいかなかっただろう。溢れかえる情報の中で何を信じ、何を選択したら良いのか?あれこれ見聞きしてわかることが多いからこそ、悩んだり、人と比べて不安になったりしていたに違いない。
アメリカ帰りの韓国人の友も、帰国当初こう語っていた。「むこうにいた時は生活に必要な英語しか目に入ってこなかったし、日本人の友達と過ごすことが多かったから楽だったけど、韓国に戻るとやっぱりいろんな情報が入ってきちゃうから、それが結構ストレスで」と。

わからないことが多いまま生きるというのは、そう悪くないものだ。
この先子どもに「お母さん、そんなことも知らないの?」と言われても、「うん。知らないことだらけだよ。韓国のことは特にね」と笑い飛ばせばいい。そしてひとつずつ子どもに教わりながら、一緒に学んでいくのだ。
どんなに頑張っても私は韓国で生まれ育った人のようにはなれないわけだから、潔くその事実を受け止め、「何年経っても知らないこと、わからないことがいっぱいあるねえ」と、異邦人としての自分を面白がりながら生きていきたいと思う。
これからまたいろんなことを経験し、ここでの生活を息苦しく思う日も来るかもしれないが、それでも私は大きな解放感を味わせてくれたこの国や、ありのままの自分を受け入れてくれた人たちへの感謝を忘れることはないだろう。
きっとアメリカ帰りの友人も、長く暮らした日本に対してそんな思いがあるんじゃないだろうか?いつか彼女の「日本で暮らしたい」という夢が叶いますように。彼女がより自分らしくいられる場所で過ごせますように。今はただ、そう願うばかりだ。

2.10.2024
DAYS / Kim MIna Column
オンマと呼ばれる日々
いつかまたJ.Y.Parkと話せたら

2014年1月、信じられないことが起こった。14年前、落ち込んだ自分に希望を持たせるため密かに描いていた妄想が、ついに現実化したのだ。その日私は確信した。「幸せな妄想っていつか本当に叶うんだ!」と。
チャンスはある日突然訪れた。朝目覚めてすぐInstagramを眺めていたら、韓国を代表する音楽事務所 JYPエンターテイメントのストーリーが更新されていた。開いて見た瞬間、私はベッドから跳び起きた。何とそれは、長らく応援してきた韓国の歌手、J.Y.Parkが200名限定のファンミーティングを開くという知らせだったからだ。
話を進める前に、簡単にJ.Y.Parkことパク・ジニョンの紹介をしたい。彼は1971年生まれ、52歳。今年デビュー30周年を迎えた韓国のシンガーソングライターだ。TWICEなど数多くのアーティストを生み出した音楽プロデューサーであり、JYPエンターテイメントの創設者でもある。日本では2020年にデビューした9人組ガールズグループ、NiziUの生みの親として彼のことを知った人も多いだろう。私は2010年、韓国語を勉強し始めた頃に彼が出演した韓国の音楽番組を見てファンになり、この14年間ずっと、一人で静かなる推し活を続けてきた。
そんな彼のファンミーティング 「FRIDAY NIGHT」が、金曜の夜20時から、ソウル市江南区のホールで開催されるという。私は隣で寝ていた夫を叩き起こし、金曜の夕方に仕事を抜けても良いか、5歳の息子の面倒を任せられるかを確認。一か八かで応募することにした。
当選の通知が届いたのは、発表予定日の夜23時を過ぎた頃だった。にわかには信じがたく、何度も韓国語で書かれた文章を読み返した。私はこの時初めて、「これは夢なのか」と頬をつねる人の気持ちがよくわかった。仕事終わりにサッカーの練習をしに行っていた夫に当選通知を転送すると、すぐ「行かなきゃね(笑)。おめでとう!」と返信が来た。そうしてようやく、私は現実を受け入れることができたのだった。

ファンミーティング当日。職場を慌ただしく抜け出して、地下鉄を乗り継ぎ1時間半。久々の江南に到着した。会場へ行ってみると、地下のホールへと続く階段に参加者が列をなしていた。
受付を済ませた後、愛蔵品を提出するコーナーに立ち寄り、私は裏表紙にJ.Y.Parkのサインが記された古びたノートを1冊預けた。それは、ソウルに語学留学したばかりの2012年7月、彼が初主演した映画『ミリオネア・オン・ザ・ラン』の舞台挨拶を観に行き、つたない韓国語であいさつして書いてもらったものだった。
ロビーにはJ.Y.Parkへの質問を書くコーナーがあったので、私も黄色の付せんに韓国語でこう書いた。「日本語がとてもお上手ですが、どうやって勉強されたのですか?私は今“AtoK(彼がアメリカで行っていたオーディション番組)”を観ながら英語を勉強しています」と。ボードに付せんを貼ろうとした時、他の観覧者が書いた日本語や英語、中国語が目に留まり、私も付せんの一番上にひと言だけ日本語を書き足した。

すると、奇跡が起こった。最後に書き添えたそのひと言のおかげで、質問コーナーの一番最初にJ.Y.Parkが私の付せんを読み上げてくれたのだ。「日本語が書いてあったのでこの質問が目に留まりました。でも僕は日本語が読めないんです。何と書いてあるんですか?」と。
咄嗟に「私です!」と言って手を挙げたものの、突然のことで頭が真っ白になっていた私は、自分で書いた日本語の一文も忘れてしまい…。「確か “いつも応援しています” と書いたように思いますが、忘れてしまいました」と答えると、会場に小さな笑いが起こった。
ここに来ているお客さんはほぼ韓国の方だし、日本に関する質問には答えてもらえないだろうと思いこんでいたのだが、彼はとても詳しく、どうやって日本語を学んだかについて話してくれた。
「オーディションの時、通訳してもらうだけでは参加者や視聴者と交流できないだろうと思ったんですね。でも、読み書きは追いつかないので諦めて、スピーキングとリスニングだけやろうと。これまでオーディションをたくさんやってきたので、オーディションで主によく使われる言葉や会話のかたまりを150ほど作りました。まず韓国語で “こんな状況ではこんな会話になりそうだな” と考えて会話文を作り、その下に日本語をハングルで書いたんです。“あなたは” なら “아나타와” という風にして。それを9か月間ずっと覚えました」
続けて彼は、その学習法を思いついたきっかけを教えてくれた。
「家で娘たちが韓国語を学んでいるのを見ていると、文法なんか教えていないんですよ。何度も言葉を口にしているうちに話し出すんです。それを見て、150の会話文を無条件に覚えれば、その中から自然に法則がわかってくるだろうと思って。娘たちの姿からヒントを得てやり続けたら、番組の撮影で話せる程度になりました」
会場からは感嘆の声と拍手が沸き起こった。彼は続けて「オーディション以外の状況で使う言葉は一切できないので、日本でファンから日本語で話しかけられても聞き取れないんです」と告白。「“音程が良くなかったです。自信を持つことが必要です”とかは言えるんですけどね」と言うと、会場が笑い声であふれた。
質問コーナーの他、ファンによるのど自慢・特技披露、愛蔵品の紹介、ファンが考えた歌詞を舞台上で選び即興で歌を作るなど、盛りだくさんの2時間はあっという間に過ぎていった。もちろん、これらの企画の前と後には数曲ずつ彼の生歌も披露された。「実は昨年末からずっと喉の調子が悪くて」と最後に告白したJ.Y.Parkだったが、そんなことを微塵も感じさせないパフォーマンスを見せてくれるとは。彼はやはりプロ中のプロだった。

こうして名残惜しくも終了したファンミーティングの後、「これが夢なら覚めないで」というファンの想いが通じたのか、J.Y.Parkがロビーに立ち、一人ひとりと話している姿が見えた。ハイタッチどころかファンの手をしっかり握り、思ったより長い時間言葉を交わしている。その様子を見て、とたんに緊張が走った。あと数十秒で14年前の妄想が現実になるなんて…!前にいた中国のファンが立ち去った後、ついに私の番がやってきた。
これまでテレビの前で、コンサートホールの会場で見つめてきたJ.Y.Parkが、にこやかに微笑みながら目の前で手を差し出している。私は彼の右手を握りしめたまま、咄嗟にサイン入りのノートを見せた。留学に来て間もない頃、映画の舞台挨拶を観に行きサインをいただいたこと。そして、2011年に埼玉スーパーアリーナで開かれたドラマ『ドリームハイ』のファンミーティングで、ファンレターを渡した日本人は私です、と告げた。
彼はうんうんと頷いたり、目を丸くさせたりしながら韓国語で「今は韓国に住んでいるんですか?」と尋ねた。「はい。結婚して娘さんと同じくらいの年の息子を育てています」と答えると、「韓国の方と結婚したんですか?」と聞かれたので頷いた。「これからもコンサートを観に行かせていただきます。ありがとうございました」と告げて一礼し、右手を離して会場を後にした。
地上に上がると、1階ロビーにファンたちが集い、興奮冷めやらぬ感じでおしゃべりしていた。その内の一人と目が合い、互いに軽く会釈を交わした。いつも一人で観に行っていたコンサートの会場で、最前列に座っている熱烈なファンたちの後ろ姿を見つめてきたのだが、この日ついに、彼女たちの仲間になれたような気がした。

帰りの地下鉄の中で、私は静かに14年前のことを思い返していた。20代半ばで結婚し、誰ひとり知る人のいない土地に引っ越して2年目だったあの頃。冬に韓国語を学び始め、春と初夏にソウルを旅し、秋に家を出て、職場の近くでひとり暮らしを始めた。
一人でいるのは辛かろうと、韓国語教室の先生とそのお母さんが毎週末家に泊めてくださったので、私はせめてものお礼にと、お母さんが経営する焼き肉屋さんの仕事を週に何度か手伝わせてもらっていた。J.Y.Parkのことを知ったのは、まさにそんな時だ。ある晩、お母さんが「この人とっても素敵なんよ。ぜひ見てみて」と言って、彼が出演した音楽番組の録画を見せてくれたのだ。
当時38歳だった彼は、歌詞を考える時、自分が書きたいように書くのではなく、その曲を歌う人のことをよく観察して書く、というようなことを語っていた。そのスマートな話し方の中に、人そのものへの関心と、隠しきれない音楽への情熱が見えた。その情熱はトーク後のライブで爆発した。舞台に上がると誰よりも大きく動き、激しく踊っているのに声は乱れない。歌、踊り、表情、どれをとっても10代や20代の歌手に負けない圧巻のパフォーマンスを前にして、私は思った。「わあ…この人は最高のエンターテイナーだ!」と。
その日から私は「もしいつかJ.Y.Parkに会えたら、韓国語でどうやって話そうか?」という幸せな妄想をするようになった。まだ留学の予定どころか、結婚生活の行く末もどうなるかわからない混沌とした時期だったのに。でもその幸せな妄想と、韓国語教室の先生たちとの交流のおかげで、しばし辛い現実を忘れ、一瞬一瞬を楽しみながら暮らせたのだと思う。
しかし、心はやはり無傷ではなかったようだ。昨年末のコンサートで、J.Y.Parkが『真昼の別れ(대낮에 한 이별)』というバラードを歌った時、私は一人で離婚届を出しに行った日のことを思い、静かに泣いた。韓国語を学び始めて2度目の春、桜が舞い散る昼下がり。市役所を出て乗り込んだバスの中で窓ガラスに顔を寄せ、陽のぬくもりを感じながら聞いたのが『真昼の別れ』だった。あれから長い月日が流れ、私はやっとこの曲を聞いて涙を流せるようになった。
本当はJ.Y.Parkと会えた時、そんな話をしてみたかった。いつだったか「真心をこめれば音楽は国境を越える」と話していたように、あなたの音楽は韓国語を知らなかった私の心にも届き、14年間ずっと進むべき道を照らしてくれました、とも。でもそれは、いつか叶えたい夢の一つとして胸に閉まっておこうと思う。時々引っ張り出してみては、また幸せな妄想に浸りながら。

12.10.2023
DAYS / Kim MIna Column
オンマと呼ばれる日々
分かち合うことで得られるもの

70代の義両親は毎年リンゴを育てながら、自家用の米や無農薬野菜も作っている。畑の片隅には梅や桃、柿、ブドウ、ナツメなどの木もあるので、季節の果物にも事欠かない。そんなわけで、私たちが会いにいくといつも、これでもかというくらい大量の食材を持たせてくれる。今回、11月末にキムジャン(家族総出で越冬用の白菜キムチを作る行事)のため義両親の家を訪れると、帰りの車はキムチ4箱に加え、リンゴ、柿、ニンジンなどでいっぱいになった。
しかし、農家と違って巨大な冷蔵庫や広いパントリーなどない集合住宅暮らしのわが家。「お義母さん、置くところがないんですよ〜!」と持ち帰る量を減らそうとしようものなら、義母からすぐこんなお小言が飛んでくる。「〇〇(次男の嫁)や△△(娘)はあげたら全部持って帰るのに、ミナ(長男の嫁)はいつも少しでいいって言うよねえ。たくさん持って帰って、どんどん食べたらいいのよ」と。
ここ数年物価が急上昇し、野菜1つ果物1つ買うのもため息が出てしまう韓国で、無農薬の野菜や果物を大量にいただけるなんて、普通に考えるとありがたいこと極まりない。「こんなにたくさんいらない」なんて言ってるとバチが当たりそう!でも、こちらにものっぴきならない理由があるんですよ、おっかさん…。

韓国では気前が良く、太っ腹な人のことを「손이 크다(手が大きい)」と表現するのだが、まさにそんな「手が大きい」義両親のおかげで、わが家の冷蔵庫はいつもパンパンだ。キムチ冷蔵庫もキムチやお米で常に埋まっている(韓国には一家に一台?冬に作ったキムチを年中保管できる冷蔵庫がある)。屋内ベランダの片隅に作った物置き場にもスペースがなくなると、食材は行き場を失い、夏は太陽熱、冬はオンドル(床暖房)で暖められた部屋の中でみるみるうちに傷んでしまう。そうなると最後は有料の生ゴミ専用袋を何枚も使い、捨てることになってしまうのだ。
また、義両親宅から持ち帰るのはスーパーで売っているような綺麗な野菜ではなく、土付き虫付き。傷みが激しかったり、大きすぎたり小さすぎたりするのも多いし、大量にもらったジャガイモの全てから長い芽がニョキニョキ出ていたこともあった。だから、いつも保存する前に食べられるものを選別し、料理の前にはしっかり洗う必要がある。大量のニンニクやショウガはもらったらさっさと皮をむき、叩き潰したりすりおろしたりして、冷凍しなきゃならない。

収穫したてのゴマなんていただいた日には、うれしさ半分、悲しさ半分だ。家で炒ってすったゴマは香ばしくて最高においしい。だけど、何度も水に浸して砂や石を取り除き、乾かしてからじっくりゴマを炒る作業は、毎日家事と育児をこなしながら夫と共に自営の仕事をしている私にとって、「誰かやってくれー!」と泣きたくなる作業なのです、今は。
というわけで、食材管理がうまくできずこれまでたくさん捨ててしまった野菜や果物のことを思うと、私にできるのはたった1つ。義両親にはっきりと「これだけでいいです」と伝え、適量を持ち帰ることなのだ。しかし、どんなに断っても食材が1箱2箱、勝手に車のトランクに積み込まれていることがある。ここまでされるともう四の五の言わずに持ち帰るしかない。なんてったって、ここは韓国。親に反発するなんてご法度の儒教の国ですから…。

さて、そうやって義両親宅から戻るたび、大量の食材を前に途方に暮れていた私を助けてくれたのは、ご近所さんの存在だった。移住して間もない頃は近所に友人知人もいなかったので、お隣さんや上の階・下の階の人におすそ分けをした。2年前に車の運転を始めてからは、親しくなった近隣の友人知人宅まで自分で届けられるようになった。もちろん、このときもらっていただくのは、状態の良い選り抜きのものだけに限る。
「ありがとう!」と気持ちよく受け取ってもらえるだけでも嬉しいのに、中には手作りのお菓子や焼き立てのパンをプレゼントしてくれたり、子ども服や絵本などを譲ってくれたりする方もいる。物の交換だけじゃない。顔を見て立ち話する数分間、「あそこにこんなお店ができてたよ」、「今度友人を紹介するね」など情報交換まで始まって、おしゃべりに花が咲くこともある。

そんな時、私はいつも母のことを思い出すのだ。転勤族の父と結婚し、二十歳そこそこで故郷を離れ各地を転々としてきた母が、行く先々で近所の人たちにおすそ分けしたり、されたりしていた姿を。母が親戚から送られてきたミカンやタマネギをおすそ分けしに行くと、「田舎から持ち帰った」という大根や白菜、手作りのチーズケーキをもらって帰ってくることがあった。こちらのおすそ分けがあろうとなかろうと、生まれ故郷に帰省したら必ず、その土地の名物菓子を買ってきてくれる人もいた。
自分の何かを誰かに分かつことで、人との交流が始まる。誰かの何かを受け取ることで、小さな絆が生まれる。何かを分かち合える人が身近にいるということはそれだけで幸せなことだったんだと、今すごく思うのだ。
10年前の語学留学中、韓国では引っ越しをしたら隣近所にお餅を配るという風習があると教わったことがあった。今の家に住んで6年の間、実際にお餅をもらった経験は1度しかないのだが、新たに越してきた人からおいしいお餅をいただいたことで、心の扉が大きく開かれたのは間違いなかった。
この12月で、韓国生活も7年目。考えてみると私は韓国移住するまで、同じ場所に3年以上留まったことがなかった。根なし草がついに居場所を見つけたと言うのは大げさかもしれないが、ここで6年暮らすうちに、今いる場所への愛着が生まれつつあるのは間違いない。何より、物や情報だけでなく、時に喜びや悲しみまで分かち合えるご近所さんたちに出会えて、とても感謝している。

10.15.2023
DAYS / Kim MIna Column
オンマと呼ばれる日々
日韓バイリンガル子育て 〜変身する4歳児〜

韓国人夫との間に生まれた息子が、この秋で5歳になる。産後、年々老いるスピードが加速している私とは対照的に、彼はこの5年で急成長し、今では日韓両国の言葉をペラペラと話すようになった。
お腹の中にいた時からずっと私は息子に日本語で話しかけてきたし、1歳半で保育園に行きだした頃から週に5日は日本の両親とテレビ電話をし、日本語で会話する機会を設けてきた。だから、彼が日韓のバイリンガルになるのは当たり前というか、ごく自然なこと。いつしか私はそう思うようになっていた。
ところが、この夏1年ぶりに日本へ帰省した時、弟が息子にこう話すのを聞いてハッとしたのである。
「T(息子の名前)が一生懸命日本語で話してくれるから、叔父ちゃんも、お祖父ちゃんお祖母ちゃんも、Tと会話ができるねんで。ほんまにありがとう。韓国語も日本語も話せるなんてすごいなあ。頑張ってるんよなあ」
褒め言葉のシャワーを浴びた息子は、わかっているのかいないのか、嬉しそうに弟に甘えていた。日本語で会話し、じゃれ合う二人を前にして、私はただひたすら心の中で謝り続けていた。「ごめん、ごめん。お母さん、今まで全然気づいてなかったわ」と。それから数日後、私は弟にこう言った。
「この前Tに『日本語を話してくれてありがとう』って言ってたやん? 私それ聞いてめっちゃ反省してん。Tが日本語を話すのは、うちの家庭環境上当たり前やと思ってたから、ありがとうなんて言ったことなかった。でも、よく考えたら韓国語もまだ習得中やのになあ。毎日2つの言語を使い分けるのは、本人にしたらしんどいことやったかもしれんって気づかされたわ」
息子はこれまで「日本語で話したくない」と訴えることはなかったけれど、今振り返ると「日本語を使うのは楽じゃない」というシグナルをいくつか発してはいた。
例えば、「お母さんはなんで僕には日本語で話して、お父さんとは韓国語で話すの?僕にも韓国語で話して!」と言われたことがあったし、息子の言葉が聞き取れなくて「今のは日本語?韓国語?」と尋ねると、「日本語なのに~!なんでわからないの!」と怒られたこともあった。
あの時、私が弟のように「日本語で話してくれてありがとう」って言えていたらなあ。「お母さんはTと日本語で話せて嬉しいよ」と言って、いっぱい抱きしめてあげていたらなあ。息子が日本語を話せるのは、私がそういう環境を作ってきたからでもあるけれど、彼自身が「お母さんや日本の家族とは日本語で話す」という事情を受け入れ、もどかしくても日本語で表現することを諦めなかったから、なんだよなあ。

韓国生まれ、韓国育ちの息子は、4歳でテコンドーを始め、最近では幼稚園で習ったという韓国の国歌を声高らかに歌っている。日本に攻め入られた歴史についても、すでに幼稚園で教わっているようだ。
入園したての頃は「日本が韓国を攻撃したのは、むかしむかーしの話なんだよ」と言っていたのに、最近では「日本は何で韓国を攻撃したの?日本は悪い!」と言うこともあり、日本人のオンマ(母親)としては少々複雑な心境だ。いつかこんな日が来るだろうと、覚悟してはいたけれど。
「ぼくは韓国人だけど、日本人に変身することもできるよ」
いつだったか2人で夕食を囲んでいた時、突然息子にこう言われたことがあった。フランス人と英語人(英語を使う人のことを彼はこう表現する)にも、ちょっとだけなれるらしい。その発想があまりにも可笑しくて「え!変身してたの?!」と目をパチパチさせる私に、彼は「うん!」と誇らしげに笑った。先日、再びこの話題について振ってみると、息子は真面目な顔をしてこう答えた。
「今は日本語で話しているから日本人なの。韓国人にも変身できるよ。ボンジュールって言うときはフランスの人なの」
1歳の頃から動物に関心を持ち、次に恐竜、昆虫、絶滅生物。最近では日本の祖父(私の父)の影響で、ゴジラやキングギドラなどの怪獣やウルトラマンにまで関心を持ち始めた4歳児。
「お母さん、世界で一番大きいカブトムシ知ってる?」
「お母さん、動物の名前を言って。僕が英語で答えるから」
「お母さん、ピカチュウが怒ったらどんな風になるかわかる?」
最近では私の知らない韓国語を話し、私の知らない怪獣や恐竜の話をし、私の知らない世界をたくさん教えてくれる。あと何年もしたら私の方が息子を頼り、「この韓国語、どういう意味?」なんて聞くことが増えるんじゃないだろうか。

この夏から彼は自分の部屋を持ち、一人で寝るようになった。何年も続けてきた寝かしつけに疲れ果てていた私は、前々から「フランスの子どもたちは赤ちゃんの時から一人で寝るんだって。Tも自分の部屋で寝てみる?」と持ちかけては断られてきたのだが、その日は突然訪れた。
夏の初めの日曜日、「蟻かクワガタムシを飼いたい」と言い出した彼に、「自分の部屋で一人で寝るならいいよ」と夫が提案し、あっさり交渉が成立したのだ。その日の内に物置きと化していた部屋を片付け、一人用ベッドを置き、一人寝チャレンジが始まった。クワガタムシも5匹、わが家にやって来た。
最初は息子が寝つくまで、何十分もベッドの横に座っていなければならなかった。彼もいろいろ不安だったのか、2日に一度おねしょをしたり、明け方私たちのベッドに潜り込んできたりすることがしばらく続いた。やっと落ち着いてきた今では、毎晩絵本を読んだら立ち上がり、「10分後にまた来るね」と告げて私は部屋の外に出る。彼はおねしょもしなくなり、朝までぐっすり夢の中だ。
息子が一人で寝るようになってから、これまで1時間ほどかかっていた寝かしつけの時間が短縮され、夜の家事や読書もはかどり、辛いと思うことの多かった子育てが少し楽になってきた。彼がなかなか寝ない時は「お願いだから早く一人で寝られるようになって」と思っていたのに、別々に寝だすと急に「寂しい」と思うのだから、親というのは、私という人間は、勝手な生き物である。
息子にはこの5年、自分の醜い姿も弱い姿も全部見せてきた。いっぱい怒ってしまった分、いっぱい謝ってきたし、いっぱい許してもらった。寝る前に強く叱ることがあっても翌朝にはケロッと忘れ、「お母さん、こちょこちょしてー」、「お母さん、恐竜の夢見たの」、「お母さん、お腹すいたー」と言って私の布団に潜り込んでくる。その姿に、何度救われる気持ちになったかわからない。間違いなく、育ててもらっているのは私の方だった。
いつの日か、息子は変身しなくなるかもしれない。近い将来「お母さん、日本語で話したくない」と言い出す日が来るかもしれない。その時私は広い心で「あなたの好きにしなさい」と言えるだろうか?今はまだ、その自信が全くない。息子にはいつまでも変身する人であってほしいし、できれば私が亡き後も、日本語をずっと忘れないでいてほしい。
親というのは、私という人間は、本当に勝手な生き物である。
