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DAYS

STAY SALTY ...... means column

Kim Mina Column

オンマと呼ばれる日々

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Kim Mina
半農半ライター

1982年九州生まれ、関西育ち。北海道大学教育学部卒。2006年、地域情報紙の編集記者1年目に初の海外旅行で韓国・釜山へ。2010年〜韓国語を学び始め、2012〜13年ソウルの延世大学語学堂に留学。帰国後、再び編集記者を経て2015年秋からフリーランス。食・農・芸術・韓国を通して人を描く「半農半ライター」の活動を始める。

2017年、韓国での農業体験取材を機に国際結婚し、韓国へ移住。現在は半農半作家生活を模索しつつ、子育て・家業・日本語会話講師の仕事に励み、今しか書けない思いをエッセイや詩で表現することがライフワーク。

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9.5.2022

DAYS /  Kim MIna Column

オンマと呼ばれる日々

日・韓・仏ステップファミリーの夏

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 2022年8月22日。朝5時半起きで1時間車を走らせ、7時に到着した仁川国際空港第2ターミナルは、車や人が行き交い、コロナ流行以前の賑わいを取り戻しているように見えた。

 駐車場から出発ロビーへ向かう途中、「歩くのイヤ。抱っこして」、「あっち!あっち!コンビニで何か買うー!」と相変わらず騒がしい3歳男児の後ろで、夫の娘、16歳のYはシクシクと泣きながらトランクを押していた。

 フランスの高校が夏休みに入ってすぐ、4年ぶりに韓国へやって来たYが、約2か月の滞在を終え、いよいよ国に帰る日のことである。

 見送り前日の夜、息子に「明日Yちゃんフランスに帰っちゃうんだよ」と告げると、彼はいかにも悲し気な表情で「Yちゃん帰るの寂しい」、「Yちゃんのこと好きなのに」と言い、私は思わず「へ?」と気の抜けた声を出してしまった。というのも、Yが来てからの2か月間、息子は彼女になつくどころか毛嫌いし、私をひどく困らせてきたからだ。

 車で外出するたびに「Yちゃんの横に座りたくない」、家族で食卓を囲むたびに「Yちゃんの顔を見ながら食べるのは嫌」、保育園へ迎えに行くたびに「今日はYちゃん、家にいる?いなかったらいいなー」と言い続けた3歳児。

 しかも、帰国3日前まで「Yちゃんはいつフランスに帰るの?早く帰ったらいいなー」とのたまっていたのだ。そんな彼が、明日お別れという時になって突然、Yのことを「好き」と言うなんて。なんじゃそりゃ!“ 3歳の男心と秋の空 ”ですか…

 「じゃあ明日お別れする時、『Yちゃん、また会おうね。サランヘヨー(韓国語で“ 愛してる ”の意味)』って言ってあげてね」という私に、息子は張りきった声で「うん!」と頷いた。「Yちゃん、アイラビューって言うね!」

 そしていよいよ別れの時。私たちが見送れるのは保安検査場の入り口までだ。元々口数の少ないYは検査場に着いても涙腺を崩壊させるだけで、最後まで「さようなら」とか「ありがとう」とか「元気でね」といった別れの言葉は口にしなかった。  

 3歳児は父親に抱かれたままYをぎゅっとハグしたものの、彼女の目からあふれる涙を見た瞬間、くるっと顔をそむけてしまった。その後、Yと別れの挨拶をしている父親の足にしがみつき、彼女の膝小僧に向かって「アイラビュー!」を連呼。イヒヒと笑っておちゃらけている。

 私はそんな3歳児に苦笑しつつ、Yの肩を抱き、韓国語で「元気でね。勉強頑張るんだよ」と告げた。「また来年おいで。待ってるね」とは、とても言えなかった。最初からわかっちゃいたけれど、私は微笑んでそう言えるほど出来たステップマザー(継母)ではなかったということだ。

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 韓国人の夫とフランス人の前妻との間に生まれたYとの生活は、4年前の妊婦時代、2か月同居した時に比べるとはるかに楽になった。前はフランス語しかできない彼女との意思疎通に苦労したけれど、今回はYが1か月間、韓国語の個人レッスンを受けたので、徐々に簡単な韓国語なら意思疏通ができるようになった。やはり共通言語があるのとないのでは大違いだ。

 また、12歳のYはスマホやパソコンの使用を母親に禁止された上に、フランス語の書籍すら持ってきていなかったので、暇を持て余しているのがいつも気がかりだった。でも、16歳のYは自分でやりたいことを探し、一人でも楽しむ術を身につけていた。スマホでドラマや映画を観たり、Instagramのリール動画を見続けたり。宿題の哲学書を読んだり、韓国語の勉強をしたり。音楽を聴いたり、コントラバスの練習をしに音楽教室へ通ったり、という風に。

 ただ、今回「食」と「お金」に関しては頭が痛かった。まずは「食」の問題。前もそうだったので覚悟はしていたが、パンやパスタをよく食べる文化圏から来たYは、滞在1か月を過ぎた頃「米以外のものが食べたい」と言い出したのである。

 それまでYは朝食にパンかシリアル、昼食はほぼ外食(韓国料理、日本食、ハンバーガーなど)、夕食は最初2週間は家で私の手料理を食べていたけれど、その後は夫と一緒に職場で私の手製弁当を食べていた。しかし、彼女に弁当を持たせた翌日職場へ行くと、ゴミ袋にご飯や焼き魚、口に合わなかったおかずが捨ててある。

 そんな日が何度も続くと、やはり私も人間なので心が痛んだ。「せめて誰にも見えないように捨ててくれたらいいのに」という気持ちが、配慮の足りない夫への怒りに変わっていく。ああ、もうだめだ。宣言しよう。「Yがいる間、昼食と夕食用弁当は作りません。2人で口に合うものを探して食べて下さい」と。そう告げた日から、夫と娘は昼・夜ともに外食するようになった。

 ところがだ。外食にはお金がかかる。ここ数年、韓国の物価はじわじわと上がり続け、外で食べると1人当たり1万W(約千円)は軽く超えることが増えてきた。6,000W(約600円)くらいで何種類ものおかず(お替り無料)とスープ料理が食べられる昔ながらの食堂なんて、あと数年後にはなくなってしまうんじゃないだろうか?そんなわけで、夫と娘が昼・夜外食すると1日で3~4万W(約3~4千円)のお金がパッと飛んでいった。

 出費はそれだけじゃない。飛行機の往復代160万Wから始まって、韓国語レッスンに30万W、音楽教室に13万W。「眼鏡をかけてもよく見えない。フランスで新しい眼鏡を作るには半年かかる」と言うので、眼鏡店に連れて行き、数時間でレンズを取り換え13万W。

 水着を持参するように伝えていたものの、「持ってきたものは小さくて着られない」と言うので、ラッシュガード主流の韓国でYが希望するビキニを探して駆けずり回り、やっと見つけた百貨店で16万W。サイズの合わない着古した下着しか持ってきておらず、新しいものが必要だと言うので、下着店に連れて行き8万W。

 「フランスで洋服を買ったら高い」と言うので、Tシャツや短パンなどもちょこちょこ(夫が)買い与え20万W。他にも脱毛クリームやら交通費やら、まあいろいろ。「16歳ってこんなにお金がかかるんやー!」と心の中で泣きながら身銭を切り、彼女が帰った後に強いられる超節約生活の日々を思い、小さくため息をつくのであった。

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 そんな風に頭の痛い問題があったとはいえ、夫とYと私だけの生活なら前よりはるかにうまくやっていけただろう。しかし、4年前と大きく違ったのは、わが家にキャンキャンと吠えまわる子犬のような3歳児がいることだった。

 彼はある日突然目の前に現れ、自分のおもちゃを触ったり、自分のお菓子を食べたりするYに対し、敵対心や嫉妬心をむき出しにした。おまけに日本語も韓国語も通じないので「Y ちゃんは何でフランス語で話すの!」とプンプン怒っている。犬を飼っている夫婦に赤ちゃんができると、犬は赤ちゃんに嫉妬することがあると聞いていたけれど、息子の態度はまさにそれ。

 そして16歳のYも、そんな3歳児を大きな心で受け入れられるほど、まだ大人ではなかった。3人で一緒にいると「息子が吠える→私がなだめる→息子が吠える→私が怒る→Yが疲れた表情を見せる」という負のスパイラル。(帰国直前、Yはそんな3歳児との生活を「おもしろかったです」と韓国語で言ってはくれたけど…)

 私はどちらにも申し訳ない気持ちを抱くと同時に、「ああ…いつ終わる?この生活」と逃げ出したい気持ちになり、正直Yがフランスへ帰る日を指折り数えた夜もあった。そういうわけで、別れ際、Yに笑顔で「来年またおいでね」とはとても言えなかったのである。

 Yは何も悪くない。遠く離れて暮らす父親や韓国の親戚に会いに来ただけだ。しかし、Yがわが家に来て以来、想像もしていなかった3歳児の変化があり、私はひどくとまどった。毎日のように息子を叱るのも、行き場のない怒りを夫にぶつけるのも辛かった。そんな姿を何度かYに見せてしまったことも。

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 帰国の1週間前、Yは初めて一人で電車に乗り、3泊4日義両親の家を訪れた。4年前はあまりにもやることがなさすぎて、3日目に「帰りたい」と電話してきたYも、今回は祖父母との時間をそれなりに楽しめたらしい。彼女が無事家に戻り、ほっと一息ついていると、義父からの電話が鳴った。

「Yはフランスに帰りたくない、韓国の暮らしが楽しい、minaがよくしてくれるって言ってたぞ。世話するのは苦労が多かっただろう?本当にありがとう」

 それは思わぬひと言だった。いつも最小限の喜怒哀楽で、アンニュイな表情を見せることが多かったYが、韓国生活を「楽しい」と思っていたとは。それを聞いてホッとした。その後すぐ、義母からも電話がかかってきた。

「Yと数日一緒に暮らしてわかったんだけど、あの子身体は大人なのに、まだ子どもなのよね。お手伝いもしないし、朝も起きないし。私は孫だから仕方ないわねって思えるけど、あなたは自分の子どもじゃないでしょ? 一緒に暮らしてどれほど気苦労が多かったことか…。よくやってくれたよ。ありがとう」

 なんとまあ。まさか義父母から慰労の言葉をいただけるなんて。こんなことを言われたら、「いや~お義父さん、お義母さん、この2か月わが家のお財布は『同情するなら金をくれー!』という状態なんですよ。ワハハ」とは口が裂けても言えないわ。

 Yとはこの夏、北朝鮮に最も近い遊園地で遊んだり、プールや海で泳いだり、親戚の家に泊まったり、キャンプに行ったりした。そう、そのキャンプの時だけは、息子とYがなぜか仲良くなったのだ。一緒にかくれんぼをしたり、散歩をしたり。2人の距離がぐっと近づき、最も心を通わせたであろう2日間のことを私はずっと忘れない。

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 Yを見送ったその夜、夫が私にこう告げた。

「きのう『Yが韓国で楽しく過ごせたのは、minaが2か月間、居心地よく暮らせるように気を配ってくれたからなんだよ』ってYに話したら、韓国語で『パパ、わかってるよ』って言ったんだ。『フランスで初めてminaに会った時、とても印象が良かった。前に韓国へ来た時も親切にしてくれた』って」

 ああ、涙腺ゆるゆるの四十路のわたくし。ちょっと泣いてもいいですか? 3歳児は今頃になって「Yちゃんに会いたいなー」、「このおもちゃ今度Yちゃんにあげるね」とか言ってるよ(遅いよ!)

 日•韓•仏のステップファミリー、2度目の夏もいろいろあったけれど、みんな元気に過ごせたことが何よりなにより。Yは韓国語、夫は(やっと)日本語の勉強を始め、3歳児はフランス語のあいさつを1つ覚えることもできたし。(私は早々に投げ出してしまったフランス語の勉強をいつ再開するのだろうか…)

 フランスに戻ったYからは、夫宛てに、残りのバカンスを海辺で楽しむ写真が送られてきた。私と一緒に駆けずり回って買ったビキニを着て、友人とポーズを決めている。私は写真の彼女に念を送った。「Y、頼むから次はサイズが合った水着を持ってくるんだよ。あたしゃ、ビキニ探しはもう懲り懲りだ〜!」と。また会えるその日まで、Yよ、アンニョン!

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7.11.2022

DAYS /  Kim MIna Column

オンマと呼ばれる日々

3歳の君と日本に帰って

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5月の終わり、3年ぶりに日本へ一時帰国した。決めたのは突然だった。日本に着いたらいろんな思いが込み上げて、きっと泣いてしまうだろう。仁川国際空港を飛び立つまではそう思っていた。

ところがだ。やんちゃざかりの3歳男児を連れての帰省は、想像以上に体力と気力を使うものだった。関西国際空港から高速バスと電車を乗り継ぎ、実家へ着いた頃には疲労困憊。ついに日本へ帰って来られたという安堵感からではなく、別の意味で涙が出そうになった。

関西国際空港では、外国人を含む多くのスタッフがPCR検査から入国までのサポートをしてくれたものの、検査に必要な量の唾を3歳児に吐かせるのは至難の業だった。「ぺっぺっ」と音だけ出してふざける息子に、「ほら、この前レモン食べたでしょ?あの時みたいに、今大好きなレモンを食べてると思ってみて!」と言いながら、唾を吐かせようと格闘する四十路女…。

やっと「唾の量、OKです!」の声をいただいた時には、スタッフ以外、もう誰もいなくなっていた。今度は案内されるがまま、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。すると、息子が両手を広げ「抱っこ」と訴えてきた。気持ちはよくわかる。でも10キロ近い荷物を背負いながら、17キロを超える彼を抱いて歩く自信はなかった。要望を却下すると、3歳児は次の手に出た。「お菓子ちょーだい」攻撃だ。

検査結果が出るまでの間、待機所で小出しにお菓子を与えると、そのたびに彼は最上級の笑みを浮かべた。ところが、お菓子がなくなったらすぐに「もっと食べたい」とごね始める。その顔はまるでデビル。さっきの笑みはどこへ行ったんやー!

勝利するまで諦めない3歳児と、昼食前にお菓子をいっぱい与えたくない四十路女の格闘が、静かなる待機所で繰り広げられ…。陰性とわかる頃にはもうすでに、息子と一緒に帰省したことを後悔し始めていた。

しかし、それはまだ序章だったのだ。3週間の滞在中、息子のやんちゃぶりは日増しにひどくなり、それに比例して私が雷を落とす回数も増えていった。振り返ると、日本にいる間、私はずっと怒ってばかりだった。

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きっと彼は、新しい環境に置かれ、ハイテンションになっていたのだろう。

韓国語が8割の生活をしていたのに、いきなり日本語だけの生活になり、疲れもあったはずだ。頭ではそうわかっていたものの、息子の変化を受け止める余裕が私にはなかった。

なぜなら、やっと日本に帰省できたのに、何をするにも彼の存在が足かせとなり、心が晴れなかったからだ。一緒に楽しめる場所を探し、動物園や水族館、パン作り体験に連れていったりしたものの、この3年間夢見ていたこと―――温泉に行くことや、大好きなレストランや居酒屋に行くこと、一人で丸1日ぼーっと過ごすことは次回以降にお預けとなった。

「3年ぶりに帰ってきたのに」、「日本でやりたいことがたくさんあったのに…」。息子が一緒にいると、やりたいことの半分もできないという現実。わかってはいたけれど、日本帰省への期待が大きかった分、悲しさもふくらんだ。

それでも、両親の協力を得て、3週間のうち何日かは数時間だけ買い物や美容室、そして友人に会いに行くことができた。

高校時代の旧友とカフェで待ち合わせたのは、実に10数年ぶりのことだった。地元を離れ、子育てしながらフルタイムで働く彼女は、息子との帰省にちょっぴり失望し疲れ果てていた私に、こう言ってくれた。

「子どもを連れて実家に帰ったら、夫や周りの人には『実家でゆっくりできたやろ』って思われるやん?でも、実際にゆっくりしてたのは、家で一人残ってた夫の方やねん。子どもが一緒やったら、実家に帰っても全然休まれへんよなあ」と。

彼女と別れた後、私は韓国に移住してから4年半の間に経験した出来事を思い返していた。妊娠・出産・育児、夫の手術と闘病、コロナによる経営悪化と経済不安、息子の入院や度重なる病気、家業の手伝いと自分の仕事...。

保育園以外、頼れる場所や子育てを支え合える仲間もなく、その結果、休みたくても休めない日が続いた。コロナ禍も重なって、どこへ行っても何をしていても「解放された」という実感が持てなくなっていった。子どもを産んでから、ずっとそうやって暮らしてきたので、「日本に帰ったら、たった一日でも自分を取り戻す時間を持ちたい」と期待していたのだが、丸一日は無理だった。息子も両親も、半日が限界だった。

「好きで子どもを産んだんだから、今は仕方ないんじゃない?」って考えられる人であれたら、もっと楽だったのかな?「母親ではない“自分”に戻れる自由な時間が欲しい」と思う私は、母親になるべきじゃなかったのかな? そんな思いが頭の中を駆け巡り、毎晩息子の寝顔を見ながら「ごめんね」とつぶやく。そんな日々が続いた。

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3週間の日本滞在を終えた翌日から、息子は保育園へ行き、私は夫と出勤する毎日が始まった。翌週にはフランスから夫の娘もやって来る。家の片づけ、冷蔵庫の整理、たまった洗濯などなど、毎日やることが山盛りで、全然身体を休めることができないまま時間だけが過ぎていった。

でもそんな中、どうしても映画館で観たい韓国映画があった。日本の是枝裕和監督が韓国で制作した『ベイビー・ブローカー』という作品だ。

日本で言う「赤ちゃんポスト」に子どもを預けた母親と、その子どもを他人に売ろうとしていたブローカー2人が、一緒に養父母探しの旅をすることになり…というストーリー。

妊娠・出産・育児は女性だけの問題ではないはずなのに、生まれる前に中絶しても、出産してから子を手放しても、まず女性側が非難される。女性が男性と同じように働いていても、多くの人たちは未だに「子どもの世話や家庭教育は母親がするもの」という固定観念で母親たちを苦しめる。

日本でも韓国でも10くらい若い夫婦の話を見聞きすると、「週末は女性が一人で自由に過ごし、男性が家事育児を担当する」なんて、随分事情が変わってきているのを感じるけれど、どちらの国もまだまだ母性神話が根強く残っているのは間違いなくて。

だけど、女性が子どもを産んだからといって、急に何かが変わるわけではなく、誰もが絵に描いたような母親になれるわけでもない。少なくとも私は、出産して3年以上の時が経ってもまだ、子どもと共に暮らすということに、毎日難しさととまどいを感じながら生きている。

私は息子を手放したいと思ったことはないけれど、一瞬でも「お母さんを辞めたい」、「一日でも子どもから離れたい」と思ったことはある。だけどそれは、息子が悪いんじゃない。その時、私がとても苦しくて辛かったからだ。

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映画を観たその日の夜、少し早く仕事を終えられたので、いつもより30分早く保育園へ迎えに行けた。

そうしたら、せかせかとしていた夕食から寝かしつけまでの時間に余裕が生まれ、息子に優しく接することができた。

保育園から帰ってすぐ、息子が突然私を見上げ、日本語でこう言った。

「お母さん、大好き」

私は彼の汗ばんだ頭をなでながら、「お母さんも大好きだよ」と言った。その時ふと、関西国際空港で、小さなトランクを一生懸命押していた彼の姿が思い出された。

「痛い」と言えば、心配そうな顔をしてすぐに駆けつけ、フーフーと優しい息を吹きかけてくれることも。

「お母さんの言葉で話して」と言うと、知っている限りの日本語で話そうとしてくれることも。

夜寝る前「もうすぐお化けがくるよ」と言うと、「僕が守ってあげるね」と言ってくれることも。

そうやって、すごくかわいいな、愛おしいなと思う瞬間もいっぱいあるのに、何で私は時々「子どもから離れたい」、「一人になりたい」と強く切望してしまうのだろう?

母は「疲れているからよ」と言った。「この4年半、大変なことがいっぱいあったやろう?だからやわ。次はみんなで温泉に行こうね」と。父は「一緒に来るのは大変やったろうけど、一番かわいい時に連れてきてくれてありがとう」と言った。

韓国に戻ってきてから「日本でのあれは何だったの?」と拍子抜けするくらい、息子のやんちゃぶりは急に落ちついた。と同時に、3週間ストレスMAXだった私も、保育園のおかげで心の平穏を取り戻した。

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今回の帰省では、息子のことに加えコロナ禍ということもあり、身動きがとりづらかったものの、両親や弟家族を始め、わざわざ遠くから会いにきてくれたり、車で連れ出したりしてくれた友人や先輩たちのおかげで、忘れられない思い出がいっぱいできた。「故郷はやっぱりいいな」と感じる一方で、「自分のホームはもう韓国なんだ」と実感することも多々あり、ちょっぴり切なくなったりもした。

これから少しずつ、私は母国に自分の居場所がなくなっていくのだろう。それは寂しくもあるけれど、韓国で生きることを選んだのだから。ここで自分の道を切り開き、楽しく暮らしていくしかない。家族と一緒に笑ったり泣いたり、怒ったり仲直りしたりしながら。

「お母さん、いっぱいいーっぱい寝たら、福井県にある恐竜博物館に行こうね!」

3週間の日本滞在で、急に日本語をペラペラ話せるようになった3歳児の横顔が、今日はとても頼もしく見えた。

いつまでもぎゅっと抱きしめていたいと思うほどに。

息子よ。お母さん、時々疲れてまた「一人になりたい」って言うかもしれないけれど...これからはもっと一緒に遊ぼうね。そしていつか、恐竜博物館に行こうね。

3歳の君と、一緒に日本へ帰れて良かった。生まれる前から、ずっとお母さんのそばにいてくれてありがとう。

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5.5.2022

DAYS /  Kim MIna Column

オンマと呼ばれる日々

フランスにいる娘のこと

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私にはフランスで暮らす娘が1人いる。
と言っても、私が産んだのではない。
5年前に結婚した韓国人の夫と、彼の前妻であるフランス人との間に産まれた子どもだ。

名前はY。
秋には高校2年生になる(日本や韓国では高校1年生)。
Yの母親は、Yが幼児期の頃に新たなパートナーと家庭を築いたので、Yには新しい父親と弟がいる。

夫はイギリス留学中にYの母親と出会い、彼女との結婚を機に韓国からフランスへ移住。
6年余り暮らした後、韓国に戻り、それ以来ずっと一人で暮らしてきた。
Yとは1〜2年に一度、お互いに行き来して交流を続けてきたという。

私と出会った当初、彼はとても自然に、過去の結婚や自分の娘について話してくれた。
Yは父親である自分の韓国姓を名乗っているということ。
7歳の頃、一人で飛行機に乗って韓国まで遊びに来たこと。
小さい頃はイタズラが大好きだったこと。
韓国の分厚いピザはあまり好きじゃないこと。
どうやら最近、思春期が始まったみたいだということ。

そして「今は街のジュニアオーケストラでコントラバスを演奏しているんだ」と言い、彼女が演奏する動画を見せてくれた。
その瞬間、私はこの不思議な縁に心から感謝した。

「私も弾いてたんだよ!コントラバス。中学から高校まで6年間」

国籍も言葉も、生まれ育った文化も何もかも違う少女なのに、「コントラバスが弾ける」という共通点があったなんて。
バイオリンやフルートといったメジャーどころではなく、大きい割にはとっても地味でマイナー。
だけど、オーケストラや吹奏楽の要である楽器を彼の娘が弾いているなんて。

やっててよかった、コントラバス。
取ってて良かった、昔の杵柄!音楽に言葉はいらないもの。
フランス語ができなくても、コントラバスという共通点さえあれば、彼女とは何とかうまくやっていけそうな気がした。

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夫との出会いから8か月後の、2017年12月。
日本で両家の親兄弟だけ招いた小さな結婚式を開き、私は韓国へ移住。
それから1週間後、私と夫はソウルの仁川国際空港からイギリス経由で、フランスの南、マルセイユへ飛び立った。
空港から車を走らせ約1時間。
お世話になる夫の友人A夫妻の家で、いよいよYと対面する瞬間が訪れた。

初めて会ったYは、明るくてハツラツとした少女というより、おとなしく、どこか少しかげりがある少女という印象だった。
多分、私がそうだったように、少し緊張していたのかもしれない。
だけど、A夫妻の家で何日か一緒に食事を重ねるうちに、少しずつあどけない姿などが見えてきた。

私がカレーライスと海苔巻きを作った日には、目をキラキラさせて写真を撮り始め、ひと口食べては「セボン(おいしい)」とにっこり。
どうやら日本の味は彼女の口に合うらしい。
食事の後、私と夫とYは初めて3人で記念写真を撮った。
「セボン」のひと言を聞けたあの瞬間。
それが私にとっては、新しい家族———“日・韓・仏のステップファミリー”始まりの日となった。

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それから半年後の、2018年夏。
Yは一人で韓国にやって来た。
「夏休みの2か月間は韓国で過ごしたい」という、彼女の強い希望があってのことだった。

 

Yが来るのは大歓迎だったものの、当時私は妊娠7か月。
韓国での初出産を控え、これから自分の身体がどうなっていくかわからない中、言葉が通じず食文化も違うYと、2か月も一緒に暮らせるんだろうか…。
一抹の不安を抱えながら、Yとの同居生活が始まった。

 

当時のことを振り返ると、「雨とブルーベリー」、「教会と涙」、「少女から女性へ」という言葉が思い浮かぶ。

 

6月末、梅雨の始まりと共に韓国へやって来たYは、雨が降りしきる夜、ブルーベリーを3パック抱えて夫と帰宅した。
冷房の効いたリビングの床に座り、3人で夢中になってブルーベリーを頬張ったことは、なぜか一番の思い出としてよみがえってくる。

 

8月の初め、「2週間うちにおいで」とYを預かってくれた義妹の前で、Yは初めて涙をこぼした。
従兄弟たちと一緒に教会のサマーキャンプに参加し、よっぽど楽しい時間を過ごしたらしい。
教会の人たちとの別れの日、ずっと泣いていたそうだ。

 

冬に会った頃は、まだ幼さをにじませていたのに、たった半年で背がぐんと伸び、少女から女性へと変わりつつあったYは、娘というより、年の離れた妹のように思える時があった。
異性である父親には頼めないことを翻訳機を使って私にそっと伝えてきたり、妊婦の私を気遣ってトマトパスタを作ってくれたり。

 

何度か私がコントラバスを教える機会もあった。
「秋の演奏会に向けて練習したい」というので、音楽塾を経営する知人に楽器を借りたら、弓の形がフランスと違ったらしく、持ち方と弾き方を教えることになったのだ。
共通の言語を持たない私たちの間で交わされるのは、アイコンタクトとジェスチャーだけ。
それでもなんとか心が通じた。
やっぱり、音楽に言葉はいらないみたいだ。

 

彼女は私を「Mina」と呼んだ。
彼女が生まれ育った国では普通のことなんだろうけど、「お義母さん」でも「おばさん」でもなく名前で呼んでもらえることが、私にはとても嬉しかった。

 

8月の終わり、仁川国際空港まで見送りにいった時、Yは「さようなら」のかわりに、私の大きなお腹を優しくなでてくれた。
その時は1〜2年以内にまた会えると思っていたのに、世界がこんなにも変わってしまうなんて。
お腹にいた息子はフランスの姉に一度も会えないまま3歳になり、Yは中学を卒業して高校生になった。

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そんなYが、今年4年ぶりに韓国へやって来る。
夏休みの2か月間丸々、韓国で過ごしたいのだという。
すでに飛行機のチケットは予約した。
今は少しずつ、彼女が使う部屋を片付け始めている。

 

4年前はフランス語しかできなかったYも、今では父親に英語でメッセージを送ってくるようになったので、英語の苦手な私は、日常生活でよく使う言葉をノートにまとめ始めたところだ。
それから、今までやろうやろうと思いながら後回しにしてきたフランス語も、少しずつかじり始めている。
Yも韓国語を勉強したいそうなので、今年の夏は、家族が使う言葉をお互いに学びながらコミュニケーションをとる、そんな時間になりそうだ。

 

一番楽しみであり、少し気がかりでもあるのは、3歳の息子の反応だ。
Yとは赤ちゃんの頃からテレビ電話を使って交流してきたとはいえ、フランスから来た姉の存在を彼はどう受け止めるだろうか?
韓国や日本で生まれ育つと「国際結婚+ステップファミリー」という概念をなかなか受け入れにくいかもしれないが、息子にはいつか、こういう家庭に生まれたことを面白がってもらえたら母は嬉しい。

 

お互いに、遠く離れた国に弟や姉がいるということを心強く思い、親なき後も交流を持ち続けていってくれたら…。
そんな願いを抱きつつ、今年の夏は子どもたちに、楽しい思い出をたくさん作ってあげたいと思っている。

 

4.5.2022

DAYS /  Kim MIna Column

オンマと呼ばれる日々

ただ、あるがままに生きる

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北朝鮮との軍事境界線に近いソウル近郊の街で暮らし、今年で5年目を迎えた。

暮らしに必要なものを自分で作りながら、人が生きる姿を書き残していきたい。
そう思い、7年前に「半農半ライター」として活動を始めたものの、国際結婚を機に韓国へ移り住み、すぐ妊娠・出産。
あれよあれよという間に、自分を取り巻く環境や生活がガラッと変わってしまった。

 

そこへ突然始まったコロナ禍。
わが家は自営業で、多くの子どもたちと接する仕事をしているため、私たち家族がコロナに感染してしまうと、仕事はしばらくストップ。
それはつまり、休んだ分だけ全く収入が入ってこないということを意味する。
たとえ仕事に復帰したとしても、保護者からの信頼を失ったり、風評被害を受けたりすれば、今の仕事で生計を立てるのが難しくなる可能性もあった。

だからこの2年間は「コロナに感染しないように」と、保育園・職場・公園などの屋外施設・病院・月1~2回の買い物以外はできるだけ出歩かず、公共交通機関も利用せず、離れて暮らす家族と会うことすら控え、日本への帰国も諦めてきた。

 

ところが、2月下旬のある日。
3歳の息子が通う保育園で発生した集団感染により、家族全員、あっという間にコロナに感染してしまったのだ。

 

39度熱が出た息子はひと晩ですっかり元気になり、韓国人の相方は喉が少し痛い程度。
ところが私は、40度近い高熱が数日続き、喉の激痛、筋肉痛、頭痛、咳に襲われるというフルコース。
発症から1か月以上たった今も、味覚・嗅覚・聴覚が少し劣った状態が続いている。

 

集中力や思考力が欠けた上に、忘れっぽさにも拍車がかかり、身体のさまざまな感覚が劣った感じがする。
でも、それらをすべて「コロナ後遺症」と言って良いのか? 
単なる老化現象なのか?
とにかく、感染前の自分とは身体も心も何かが変わってしまった気がするのだ。

 

コロナに感染する直前、韓国移住後に積もり積もっていた疲れやストレスが極限に達し、「もう消えてしまいたい」と追いつめられた瞬間が何度かあった。
でも、コロナに感染して40度近い高熱にうなされながら思ったのは、「まだここで死にたくない」「もっと生きたい」ということだった。

隔離の最中、ウクライナとロシアの間で戦争が始まった。
「うちらの若い時は戦争一色。最悪やった」と嘆いていた、昭和初期生まれの祖母の顔が浮かんだ。
目を閉じると、米軍の攻撃に備え、鹿児島の海岸で待機していた戦車の中で終戦を迎えたという祖父が、深いため息をついているように思えた。

 

息子と同じ年頃の子どもたちが地下シェルターに逃げ込み、何日も暮らしている。
父親と別れ、母親と国境を越えようとしている。
馴染みのない国で避難生活を続けている…。
身体が辛い時はその現実をとても直視できずにいたけれど、困難な状況の中で生き抜こうとしている人々の姿を見て、私も「生きなきゃ」と思わずにはいられなかった。

 

とはいえ、身体の機能がいろいろと劣ってしまったせいか、今まで興味や関心を持っていたことになかなか気持ちが向かない。
実は、こうしてパソコンの前に向かって文章を書くことも、ハードルがグンと上がってしまった。
書きかけの文章や、やりかけの作業もいくつかあるのに、ずっと放置状態のままだ。

 

でも今は、仕方がないというか、それでいいのだと思っている。
目標に向かって努力したり、コツコツ何かを続けたり、そういう人たちを見ると「素敵だな。わたしも頑張らなきゃ」と思いがちだったけれど、コロナ感染から生還した今は、これまでの思考回路が急に嫌になり、「そうできる人、そうやりたい人がやればいい。できない人、やりたくない人は、別に生きてるだけで、あるがままでいいやん」と思うようになった。

 

思うように身体や心が動かないのだから、今はただ、毎日を生きる。
できないことは家族や誰かに助けてもらい、無理をせず、目の前のことに集中して生きる。
それでいいのだと。

子育てしながらでも畑で農作業をするとか、味噌を手作りするとか、丁寧に料理するとか、仕事をしながらでも人と出会って語らって、言葉でそれを書き残すとか。
そんな夢見ていた生活すら、今の私にはなんだかとても「大変な暮らし」に思える。
なので、毎日できる範囲で家事をして、相方と一緒に仕事をし、息子を育て、その一日に感謝して眠る。
今はただ、それで十分だ。

家族全員で2週間の隔離を終えた翌日、相方の友人であるイギリス人ギタリストから招待を受け、約2年ぶりにコンサートホールへ出かけた。
感染前は人が集まるところが怖くて、ライブを聴きにいこうなんて思いもしなかったけれど、ここに来ている人たちは怖くないんだろうか? 
周りを見渡すと、全員マスクを着用し、声を出さず、間隔を空けて座ることを徹底した空間の中で、ロックバンドの歌声に酔いしれる観客の姿があった。

 

ライブ中、ボーカルの男性が「コロナに加えて戦争まで始まってしまいました。ここ数年、日常生活の中でも人が人を攻撃したり非難することが増えた気がします」と語り始めた時、私は聞こえ辛い耳を傾け、身を乗り出した。

 

「こんな大変なことばかり起こる世界の中で、音楽の役割って何なんだろうと考えるんですが、僕は1曲の歌で誰かの人生が変わることがある、音楽にはそういう力があると信じているんですね。僕自身、これまで歌いながら、そういうことを何度も経験してきました。だから今日は、日常から少し離れて、音楽を存分に楽しんでいただけたらと思います」

 

コロナに感染しないようにという、2年にわたるものすごく重いプレッシャーからしばし解放された夜、ボーカルの男性の言葉は深く心に沁みていった。
その日から私は、昔好きだった曲を1つずつ思い出し、久しぶりに聞いては口ずさみ、日常のさまざまな心配事からしばし離れる時間を持つようにしている。

 

今朝もまた何人かの保護者から「コロナに感染しました。一週間お休みします」と職場に電話があった。
最近毎日、ずっとこんな調子だ。
みんなもう「うちはいつ感染するかしら…」と、その日が来るのを仕方なく待っているような雰囲気さえ漂っている。

3月時点で、1日の新規感染者数が30万人以上(最高62万人を記録)の韓国では、今や「5人に1人が感染した」と言われている。
そんな風に、年明けから爆発的に感染者が増えていたからだろうか。
私たち家族が陽性になった時、保護者のみなさんは非難するどころか、

「もう誰がどこで感染してもおかしくない毎日ですから。どうかお大事にしてください」

と、たくさん気遣ってくださった。

 

今は反対に私たちが、「症状が軽くすむことを祈っています」と伝える毎日だ。
こんな日々があとどれくらい続くのだろう。
それはまだ誰にもわからない。

 

再感染する可能性もあるので、引き続き感染対策をして過ごさねばならないが、今年は好きな音楽を口ずさみながら、目の前のやるべきことに集中し、この4年間我慢してきたことや、できなかったことをできる範囲で1つずつ楽しんでいきたい。

 

心の赴くままに、あるがままの自分で。

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