


Kim Mina/高瀬美菜
半農半ライター
1982年九州生まれ、関西育ち。北海道大学教育学部卒。2006年、地域情報紙の編集記者1年目に初の海外旅行で韓国・釜山へ。2010年〜韓国語を学び始め、2012〜13年ソウルの延世大学語学堂に留学。帰国後、再び編集記者を経て2015年秋からフリーランス。食・農・芸術・韓国を通して人を描く「半農半ライター」の活動を始める。
2017年、韓国での農業体験取材を機に国際結婚し、韓国へ移住。現在は半農半作家生活を模索しつつ、子育て・家業・日本語会話講師の仕事に励み、今しか書けない思いをエッセイや詩で表現することがライフワーク。

4.14.2026
DAYS / Kim MIna Column
オンマと呼ばれる日々
ひとりでできること

今、絵本作りのワークショップに通っている。家から車で30分圏内の独立書店で、週1回、午前中2時間、全10回。韓国で著名な絵本作家さんに教わりながら、1冊の絵本を作ってみるという試みだ。
「絵本が大好きで」とか、「絵本作家になりたくて」という理由ではなく、息子と一緒に『くさい、くさい、くさい』という絵本を作ろうと約束しながら、何もしないまま2年も経ってしまい、もはやなぜこんなタイトルの本を作ろうとしていたのか親子ともども忘れてしまった今。彼がこれ以上大きくなって、「お母さんと絵本作り?めんどくせー」とか言い出さないうちに、『くさい、くさい、くさい』とやらを形にしてみようではないかと思い、申し込んだのだった。
ところが、数回の授業が終わり、いざ自分の絵本を作る段階になると、『くさい、くさい、くさい』というタイトルにはまったく当てはまらない話ばかりが頭に浮かんできて、困惑した。私は息子にではなく、「過去の自分に読ませてあげたい」と思う絵本を作ろうとしていたのだ。でも、まだ結末をどうしたらいいかわからずにいる。

「私自身、生きていくために共同体を必要としているし、共同体に助けられてもいるんですが、でも本当はひとりが好きだし、ひとりでいたいと思う、自分勝手な人間なんです」。
いつかの授業中、先生がそんな風に話すのを聞いて、私は心の中で激しく頷いていた。何を隠そう、私もまったく同じ種類の人間だからだ。
取材して記事を書いたり、自分の考えなどを文章や音声配信で発信していると、「すごく外向的な人」だと思われることがあるのだが、実は幼い頃から内向的で、集団やグループで何かをするのがとても苦手。だから文章を書いたり、本を読んだり、絵を描いたり、ひとりでもできることを探してやってきたし、未だにそれしかできずにいる。
ただ、先生が言うように「生きていくために共同体が必要」だから、時に勇気を出して人の輪に飛び込んだりもする。でも、ずっとそこにいないといけないと言われたら、私はきっと絶望するだろう。「ひとりでいたい」とはつまり、どんなに寂しくても自由でいたいという、心の叫びなのかもしれない。

私が今取り組んでいる「翻訳」は、原書とパソコン、または原書とノートとペンがあれば、どこにいてもひとりでできてしまう。本にする段階では編集者、デザイナーなど関わる人も増えていくけれど、基本的にひとりでコツコツと訳していく。そういう点で、私にはとても合っているんじゃないか、と思っていた。
ところが先日、オンライン上で複数の人たちと話す機会があった時、私のようにあれこれ発信している人はやはり外向的に見えるらしく、話の流れでなんとなく「外向的な人より、内向的な人の方がより小説の翻訳に向いているのかも?」という空気が漂う瞬間があった。
別に誰かがはっきりそう言ったわけではない。なのに、私はその時ちょっとだけ、泣きたい気持ちになってしまったのだ。なぜならこの1年数か月、私がずっと取り組んできたのは、実用書でもエッセイでもなく小説の翻訳だったから。
「だけど翻訳者にもいろいろなタイプの人がいますからね」という誰かのひと言で、「ですよね!」と気を取り直したものの、ぬぐいきれない思いがあって、今ここに書きながら気持ちを整理しているという有様だ(春だから!?それとも年のせい?)。
内向的だと自認する私にとって、オンライン上での会話や、複数人での会話はとても苦手とすることの一つで、いつも話している途中に、自分が何を言っているのかわからなくなってしまう。話し終わった後は毎回、「ああ、言いたかったのはあんなことじゃなかったのに」と、後悔することも多い。だけど人には、言葉にして伝えない限り、そんな悩みは見えないだろう。
不思議なことに、壁に向かって話す音声配信はそこまで苦手じゃない。それはやっぱり、企画・収録・編集・配信まで、全部ひとりでやっているからだと思う。

『くさい、くさい、くさい』という絵本は、いつ完成するのだろう。一体何がそんなにくさいのか、くさくないといけないのか。言い出しっぺの息子の意図は全然わからないけれど、この言葉が2人だけにしかわからない秘密の暗号みたいになってしまう前に、ワークショップで学んだことを生かして、本当に形にしてみたい。
そして、いつか息子が巣立っていくまでに、一緒に絵本を見返しながらこんな話ができればと思う。
小さな頃から内向的だったオンマが、何かを表現することで間接的にでも人と交わろうとしてきたこと。いつも、生きづらさを感じてきた自分や、自分と似たような思いを抱えて生きている人に届けたくて、発信を続けていること。言葉で思いを表現してきた韓国の人たちの文章を日本語に訳し、広く広く届けたいと願っていること。
そして誰もが、人には見えない一面を持っていて、多面的であるということを。
創作や翻訳。ひとりでできることをやり続けるために、人の輪に入って学び、そこからたくさんの気づきを得ている春。人生の危機となるか転機となるかわからないことも同時進行中で、泣きたい夜もあるけれど、ひとりでできることの数々が、やっぱり今も、私を支えてくれている。

2.10.2026
DAYS / Kim MIna Column
オンマと呼ばれる日々
村上春樹、神戸、タイムトラベル

2026年1月、1年半ぶりに日本へ帰省した。これまではインフルエンザの流行期に気管支が弱い息子を連れ歩くのが怖くて、夏に帰るようにしていたのだが、彼も小学生になり、たいぶ体が丈夫になってきた。そこで韓国生活9年目にして初めて、冬の日本へ飛び立った。
「これからしばらく韓国に行けないかもしれないし、会ってゆっくり話したいから、私が近くまで行ってもいいですか?」
私の帰省を知ってそう言ってくれたのは、韓国移住後に仕事を通じて知り合い、仲良くなった韓国人の友達だった。彼女は数年前、パートナーの仕事の都合で日本に移住。その後は近況報告のメッセージを送り合ったり、年1~2回彼女が韓国に帰省中、会えそうな時はお茶したりしてきた。
彼女の家から私の実家がある兵庫県までは、電車や新幹線を乗り継いで数時間。せっかく関西まで来てくれるのに、世界遺産の姫路城だけ見て帰るのはもったいないなと思っていたら、後日連絡が届いた。
「三ノ宮のホテルを予約しました。村上春樹が好きで、前から一度神戸に行ってみたいと思ってたんです」。
小説『ノルウェイの森』以外、彼の作品を読んだり読まなかったりしてきた私には、神戸と聞いて村上春樹を連想する頭がなかったが、そうか!ファンにとっては神戸といえばハルキ、ハルキといえば神戸だ。若き日に兵庫県の阪神間で暮らしていた村上春樹の作品には、時々神戸の街が登場する。
韓国で30~50代の本好き、日本文化が好きな人と話していると、みんな私よりはるかに村上春樹の作品を読んでいる。彼女もまさにその一人だ。それに私たちは、何かと苦しかったコロナ禍の子育て中、わずかな合間をぬっておしゃべりし、本の話を通して親しくなった仲だった。「村上春樹の神戸ね!そういうことなら」と私ははりきり、姫路城と神戸を満喫できる1泊2日のプランをたて、私も半日ずつお供することにした。

白く美しい姫路城を足早に見学し、約40分電車に揺られていざ神戸へ。韓国移住前、大阪まで通勤するために乗っていた電車に彼女と並んで座り、きらめく瀬戸内の海と淡路島を眺めながらおしゃべりしていると、とても不思議な気持ちになった。最近のことから私たちが出会うもっと前のことまで、思いつくままに話していたからかもしれない。福岡や東京、大阪や北海道、韓国、台湾、カナダ、オーストラリア、バリと話の舞台があちこち移り、過去や現在を行ったり来たりしながら三ノ宮に到着した。
夕食をしに訪れたのは、村上春樹のファン “ハルキスト”の聖地のひとつであるイタリアンレストラン。この店は、村上春樹が若き日に何度かガールフレンドと訪れた場所で、毎年ノーベル文学賞の発表日にファンたちが集う場所としても知られている。
この店で出されるピザには、1962年の創業時から数えて何枚目に焼いたものかを示すシリアルナンバーが添えられている。私たちのピザはNo.1,468,570。村上春樹の紀行『辺境・近境』には、1997年にこの店を訪れた時に頼んだピザがNo.958,816だったと書かれているので、29年の間に50万枚以上のピザが焼かれてきた、というわけだ。

次に訪れたのは、ジャズの生演奏が楽しめる老舗レストラン。私の中では昔から、ハルキといえばジャズなのだが、それは彼が小説家になる前、ジャズバーを経営していたからだ。神戸じゃなくて東京でだけど。まあそんな細かいことは置いといて、日本ジャズ発祥の地と言われる神戸で、ワイン片手にしっぽりと生演奏を楽しもうではないか。
その夜、目の前に大学教授に連れられてきたと思われる学生たちが座っていたからか、私たちは自然にお互いの大学時代についてぽつぽつと語り始めた。私は広島や北海道で、彼女はソウルで過ごし、二人とも「いつか小説が書けたら」と思っていた。その頃読んだ村上春樹の小説『ノルウェイの森』は、韓国では『喪失の時代』というタイトルで翻訳出版されていたらしい。
ピアノ、ドラム、コントラバス、そしてボーカルの歌声は、私たちを一気に忘れかけていた過去へと連れ戻していった。「10代の頃はずっとコントラバスを弾いていて、音楽家になりたかったんだ」と彼女に話したのは、この時が初めてだったかもしれない。札幌の大学でジャズ研究会に入りかけた話も。しばらくして、彼女が私の鼻にそっと手首をかざして言った。「匂いわかる?この香水の名前、ジャズクラブっていうの」。私たちは目を合わせ、噴き出しそうになるのを堪えて笑った。

神戸は夜景が美しい街だ。せっかくなので三ノ宮からゆっくり西側へ歩き、ライトアップされた居留地や中華街を見学しながら、赤く光る神戸のシンボル、ポートタワーがある海辺まで向かった。メリケンパークのカフェでひといきついた後、対岸のハーバーランドへ行くと、平日の夜だからか人がおらず、神戸の夜景を一人占め状態だった。
1995年の阪神淡路大震災から2年後。高校1年生の頃、初めて電車に乗って遊びにきて以来、何度も訪れ、何度も目にしてきた神戸のこの風景。そこに今、彼女がいて、一緒に旅をしていることが本当に不思議でならなかった。人生とは予測不可能なことの連続だ。7年ほど前、韓国で出会った時には、こんな日が来るなんて想像もしていなかったのだから。

翌日は昼から合流し、中華を食べ、神戸市立博物館で開催中の大ゴッホ展へ行く前にイタリアンバールでカフェラテを飲むことにした。テラスに座ると、彼女がおもむろに包みを取り出した。開けると中には万年筆と手紙が入っていた。
「お誕生日おめでとう。私、最近書くことが楽しくて。だから、万年筆はどうかなと思って」
誕生日が2か月違いで同じ年の私たちは、この旅の途中からため口で話すようになった。仕事を通じて知り合ったということもあったし、私がため口で話すと関西弁になるので彼女が聞き取れないかも、という心配もあり、これまでお互い敬語を使っていたのだが、それをやめることにしたのだ。
神戸の街角のカフェに座り、ため口で語り合っていると、学生時代の友達に再会しているような錯覚に陥った。でもそれは、私だけじゃなかったようだ。
「なんか若い頃の美菜ちゃんに会ったような気がするし、若い頃の私にも会ったような気がするし。なんだか時間旅行をしたような気分だね」
三ノ宮で別れた後、しばらくして届いたハングルのメッセージに「時間旅行」と書かれていて、「ああ、それそれ」と頷いた私。そう、私たちは2日間、村上春樹ゆかりの地を巡りながらタイムトラベルをしていたのだ。そのおかげで、彼女についてもっと深く知ることができたし、心がぐっと近づけた気がする。
韓国で暮らす私と、日本で暮らす彼女。次はいつ、どこで会えるだろうか。2026年1月、冬の神戸で一緒にタイムトラベルした思い出を胸に、それぞれの場所で挑戦を続け、また笑顔で再会できますように!

12.10.2025
DAYS / Kim MIna Column
オンマと呼ばれる日々
「家」と「仕事」のはざまで

この秋、時間と技術を要する仕事が舞い込んだ。技術の方はなんとかするとして、問題は「時間をどう確保するか」だった。
7歳児を子育て中のわが家には、助けてくれる「ばあや」や「じいや」はおらず、「ちょっとお願いします」と預けられる先もない。だから、私が忙しくなると、おのずと夫と息子に負荷がかかっていく。
たとえば、私が取材で夜遅くなる日は、21時過ぎに夫の仕事が終わるまで、息子は職場で待つ。午前中に原稿を書かないといけない時は、夫が洗濯をし、昼食の準備をする。息子を寝かしつけた後、22時前から深夜まで原稿を書く時は、翌朝の息子の世話は率先して夫がやる、という風に。
そんな毎日は、思いのほかうまくいっているように見えていたが、私の仕事が大詰めを迎え、3時間も寝られなかった朝。息子のぐずりをきっかけに、夫婦ともども何かがぷつっと切れてしまい、大喧嘩になりかけた。
それまで機嫌よくサポートしてくれていた夫の残念な姿を前にし、私はひどく落胆した。「今が山場なのに…あともうちょっとの辛抱なのに…」と。だけど、疲れすぎていて涙も出ない。泣いたところで目の前にはやるべき仕事が残っているし、息子を学校に送らないといけないし、午後からは夫の仕事を手伝いにいかなきゃならないのだ。
ピリピリとした空気はそのまま三日三晩続いた。仕事で感じるストレスよりも、唯一の頼りである家族から受けるストレスの方がダメージが大きくて、一気に白髪が増えた(気がした)。
今回私は小説を書いていたわけではなく、取材した内容を元にずっと文書を書いたり、書き直したりしていたのだが、その最中に何度も何度も思い浮かんだのは、イギリスの小説家、ヴァージニア・ウルフが残したこの言葉だった。
「女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない」
ほんまそれな!結局100年前と何にも変わってないやんか~!そうひとりごちながら、パソコンの前でキーボードを打ち続けた日々が終わると、外はもう紅葉が散り始めていた。

仕事がひと段落したら、今度は義実家の一大行事が待っていた。山の中にあった夫の祖父母のお墓を義両親のリンゴ畑の一角に移動させる、というものだ。この行事のために、普段は会うことのない義父の兄妹やその子どもたちが一堂に集うことになった。
でもその週末は東京で、K-BOOKフェスティバルという韓国にまつわる本のお祭りが予定されていた。そこには毎年、韓日翻訳者や出版関係者、日韓の作家などたくさんの人たちが集まる。
「息子も1年生になったことだし、キムジャン(越冬用のキムチを家族総出で作る行事)さえ重ならなければ行けるかも…」と淡い期待を抱いていたのだが、見事にお墓移動の日と重なった。日程を告げる義父からの一声で、東京行きの夢は儚く消えた。
いや、別に「絶対来なさい」と強制されたわけじゃないので、「ちょっと東京で仕事があって…」と嘘をついても良かったのだけれど、今年は翻訳の締め切りを理由に旧正月の家族旅行をキャンセルし、息子の手足口病がうつって秋夕の家族旅行をキャンセルし、原稿の締め切りを理由に法事もキャンセルしてしまっていた。
それに、今回私が行かないと、義母と義弟の奥さん(次男の嫁)が食事作りや片付けで苦労するのは目に見えている。なのでもう四の五の言わず、おとなしく義実家に向かったのだった。

梨の木があった場所に新しく移されたお墓には、義祖母が1908年生まれ、義祖父は1909年生まれ、と書いてあった。お墓の前で、足が震えている96歳の義父の姉を支えながら、私は今年お参りに行けなかった大阪の祖父母と、ずっとお参りに行けていない熊本の祖父母のことを想った。そして、日韓の祖父母たちが生きてきた時代に想いを馳せた。
義祖父母の墓には12人分の遺骨を納めることができ、どうやら私もここに入ることになるらしい。でも、どんなにこの家に尽くしたとしても、義母や次男の嫁、そして長男の嫁である私は、夫の祖父の子孫たちの名前が刻まれた石碑に名前が載ることはない。
個人的には昔から、自分の骨など海にまいてくれたらいい、と思っていたし、「国」や「家」や「出身地」に対する愛着や執着がもともと少ない人間なので、石碑だとか家系図だとか、血のつながりを表すものに自分の名を残してほしいとも全然思わないのだけれど。
だが、韓国の女性たちの中には、こういう家父長制や家族のあり方に嫌悪感を示して非婚を宣言したり、自分のキャリアを中断したくない、経済的にも仕事は辞められないという理由で、結婚しても子どもを持たない選択をしたりする人がいる(もちろん事情は人それぞれ違うので、一概には言えないが)。
そういう生き方を選んだ人たちが書いたエッセイや小説が注目され、日本でも翻訳出版されている。いつの時代も、新しい生き方をしている女性たちが社会の先頭に立って積極的に発言したり、次々と仕事をこなしているのだ。
そんな様子を見て「女性が声をあげやすい世の中になってきて良かった」と思う一方で、いつも少しばかりのもどかしさと、切なさも感じてしまうのはなぜだろう。
それはたぶん私が、祖母や母、義母たちが女性として生まれて味わってきた苦労を見聞きしてきた人間で、自分自身もその苦労の半分くらいを経験してきてしまったからだと思う。
母世代のように生きたかったわけじゃないのに、気づけば同じようになりかけて、最初の結婚生活は自分から立ち去ったし、二度目の今もまだ、仕事や締め切りを理由に義実家の集まりに行かないと、どこか後ろめたさを感じてしまう始末だ。
だから今は、新しい生き方を選択した人たちの話よりも、大変な過去を生き抜いてきた女性たちの話をたくさん知りたいし、今の自分のように「母」「嫁」「妻」などの社会的役割と自分の仕事の間で、もどかしさを抱えながら生きている人たちの話を読みたい、と強く思う。
自分が選んだ場所で誰かをケアしながらも、表現することや自分らしく生きることを諦めなかった人、今まさに模索しながら生きている人たちの物語を。
そういう本をどんどん翻訳してみたいし、いつか自分もそんな物語を書いてみたい。残された人生で私にそれをやりきる力があるのなら。どうかそんなチャンスをください。神様、仏様、ご先祖さま。
新しいお墓の前でそう祈った秋の夜。この1年、何度も励まされてきたある翻訳家の言葉を思い出した。
「学校で勉強してすぐ翻訳の仕事を始めるよりも、就職してまったく違う分野の仕事を経験したり、子育てしたり、人と別れたり…いろんな経験があればあるほどいいです、翻訳は。あとですべて回収されますから」
同じ韓国で、2人の子どもを育てながら翻訳してきた方がそうおっしゃるのだから。私が今日まで味わってきたすべての経験は、いつか必ず翻訳や文章を書くことに生かされ、良い形で世の中に還元していけるはず。いや、絶対そうするんだ!薄暗いリビングでパン、パンッと洗濯物のシワを伸ばしながら、静かな決意を胸に刻み込んだ。

墓移動の2週間後、私は再び義両親の家に行く。今度は大量のキムチを漬けるために。
ゴルフの予定があるという義弟のスケジュールに合わせ、3週間後になりかけたけれど、あいにくその日は年に一度、私が長年推している歌手がコンサートを開く日だった。「3週間後だと予定があるので来られません!」と笑顔で宣言すると、キムジャンは2週間後に決行されることになった。
日本から海を渡ってきてもうすぐ9年。最初は何もわからず遠慮がちだった「嫁」も、推しのコンサートへ行くためにキムジャンの日程を譲らないという、当たり前の自己主張ができるようになった、というわけだ。「嫁の立場でこんなことを言ったらだめかも」と勝手に思い込んでいたのは私の方で、ちゃんと理由があれば、義父も義母も親戚も、ただただそれを受け入れてくれる。それがよくわかった1年だった。
韓国のハラボジ(おじいさん)、ハルモニ(おばあさん)が眠るお墓に私も一緒に入るのか、海やら山に散るのか。それはまだわからないけれど、あと何十年かはこの世でいろんな経験を積み、それを翻訳や文章に生かしながら生きていきたい。そして来年こそは、絶対に東京へ行くぞー!

ここまで読んでくださったみなさん、今年も一年ありがとうございました。このエッセイを通して出会えた方々に、いつも感謝しています。毎日いろいろなことがありますが、今日までたどりつけたことにまずは乾杯!みなさん、どうかどうか、良いお年を。























