


Kim Mina/高瀬美菜
半農半ライター
1982年九州生まれ、関西育ち。北海道大学教育学部卒。2006年、地域情報紙の編集記者1年目に初の海外旅行で韓国・釜山へ。2010年〜韓国語を学び始め、2012〜13年ソウルの延世大学語学堂に留学。帰国後、再び編集記者を経て2015年秋からフリーランス。食・農・芸術・韓国を通して人を描く「半農半ライター」の活動を始める。
2017年、韓国での農業体験取材を機に国際結婚し、韓国へ移住。現在は半農半作家生活を模索しつつ、子育て・家業・日本語会話講師の仕事に励み、今しか書けない思いをエッセイや詩で表現することがライフワーク。

9.10.2025
DAYS / Kim MIna Column
オンマと呼ばれる日々
自分という雲を突き抜けた夏

noteに「韓国の本屋をめぐる旅」という独立系書店の訪問記を書き始めて8か月が経った。そして、2023年4月に配信を始めたポッドキャスト「韓国に住んだらこうなった」は、この夏100回目を迎えた。
こうして自分が楽しいと思うことや、今の環境でもできることを探しマイペースに続けていると、少しずつ同じ興味・関心を持つ人たちに出会えるようになってきた。
この夏はおもいがけず、日本で書店やひとり出版社を営む方たちから連絡をいただき、ソウルの書店やパジュの出版都市を一緒に訪ねる機会に恵まれた。他にも、となり街の書店でスタッフのみなさんと一緒にランチを持ちよって語り合ったり、大好きな作家さんたちのブックトークを聞く機会を得たり。「嬉しい」を通り越して「生きててよかった!」と感じる、そんな熱い時を過ごした。
「日本語でたくさん話したい」
「大好きな本を通じて人と出会っていきたい」
そんな切実な思いから始めた本屋めぐりやポッドキャストが、自分だけでなく、まわりの人を良い意味で巻き込んでいく…。そういうものに変わりつつあることを感じたこの夏。韓国生活8年目にしてやっと、失われた時を取り戻せたような、トンネルから抜け出しておもいきり息が吸えるようになったような、そんな気がしている。

私が韓国の書店を訪れる時は、いつも場所と営業時間を確認し、書店のインスタグラムやホームページがあればさっと見るくらいで、あまり調べ過ぎずに行く。たまたま書店の前を通りがかったお客さんの目線で、純粋に本のある空間を楽しんでみたいからだ。
また、本を購入する時に店員さんに話しかけはするが、仕事の邪魔をしない程度に短く、と決めている。取材なら根掘り葉掘り聞くところだが、私はあくまでも「お客さん」だから(ただし、ゆっくり話せそうな状況ならいろいろ質問することもある)。本はできるだけ一冊以上買う。ブックカフェなら本は買わず、コーヒーだけ飲むこともある。店内写真を撮る時は必ず許可をとっている。
だけど、日本で書店を営む方たちはやはり、ただの「お客さん」ではいられない。書店の立地や広さ、どんな本棚を使っているか、そこには何冊くらい本が置けるのか?どんな本をどんな風に並べているのか?イベントや読書会の頻度など、書店を運営する人ならではの視点でぐるっと見渡し、観察したり、分析したり。目を輝かせながら店主さんやスタッフの方に質問してみたり。
言葉の壁はあるといえども、同じ仕事をしている人同士、通じるものがたくさんあるのだろう。韓国の書店の方たちは、日本からやって来た書店の店主さんたちを歓迎し、飲み物をサービスしてくださったり、たくさん質問に答えてくださったりした。
「東京に行ったら、ぜひ寄らせていただきますね」
「はい、ぜひ!お待ちしています」
そんなやりとりを間に立って通訳していた私は、日本と韓国のあたたかな交わりを目の当たりにし、「この場に立ち合えて本当に良かったなあ。生きていてよかった!」と、また思ったのだった。

「最初は自分から始まったんです。自分のことばかり見つめ、考えていた。でも絵を描き続けるうちに、まわりのことをよく見て描いていきたいと思うようになりました」
先日参加したブックトークでそう語っていたのは、もうすぐ活動10周年を迎える30代のイラストレーターで、絵本も出版している作家さんだった。その言葉を聞いた時、私ははっとした。ここ数か月なんとなく感じていたことを作家さんが言語化してくれたからだ。
私も今、自分ではなく、まわりに視点が移りつつある。そのせいだろうか?自分の内側にあるものをどう表現すればよいか考えていた時よりも、今の方がやりたいことや人に伝えたいことが明確になり、楽しさや幸せを感じることが増えてきたなあ、と思っていたところだったのだ。
自分の内側ばかり見つめていた時は、とても苦しかった。
20歳の頃から「畑を耕しつつ、本を書いて暮らしていきたい」と夢見ていた私は、20代前半にいくつか小説を書いたものの、自分の作品のつまらなさにげんなりし、「もっと広い世界、人を知らなければ」という思いから、名刺一枚でたくさんの人に出会える編集記者の職を選んだ。
やむを得ず書くこと以外の仕事をしていた時期も、「いつか必ずこの経験を自分の文章に、作品に生かすんだ」と思ってやってきた。どこにいても、何をしていても、私にとっては毎日が取材だった。
だけど、そうやっていくら取材するように生きても、人に伝えたいことを言葉や何らかの形で表現しなければ、一生誰にも伝わらない。
さらに、私は気心知れた人たちにも、長年自分の夢について正直に語ってはこなかった。「才能があれば、もう作家として活動してるよね」なんて、そんな意地悪を言う人はいないとわかっていたけれど、すでに私が自分自身にそんな言葉をいっぱい投げかけていたので、それ以上誰かからけなされるのが怖かったのだ。

その壁をガツンと壊してきたのは、パートナーである韓国人夫だった。昨年大喧嘩した時、彼は私にこんな一撃をくわえた。「今まで書いてきたものをいつ本にまとめるの?その道の才能がある人なら、もう本の1冊や2冊出せているはずだ。できないのを家族のせいにするな」と。それを聞いた瞬間、「この人、私のことなんて何もわかってなかったんやな」と悲しくなったし、ものすごく悔しかった。
結婚して8年間、毎日職場で夫の仕事を手伝いながら、10~15分座る時間ができたらパソコンやスマホで文章を書く。息子が寝た後は睡眠時間を削って本を読み、また文章を書く。でも時々「こんなことをして何になる」と落ち込み、書いてきたものをすべて消し去りたい衝動にかられ、深夜のリビングでひとり涙する…。そんな私の切実さについて、彼は知っているようで何も理解していなかったんだな、と。
「夫の仕事を手伝わなくてもよくて、自分のためだけに使える時間がたくさんあって、『夫が先立ったらこの国でどうやって子どもを育てていけばいいのだろう』とか、『一刻もはやく自分の仕事を確立して経済的に自立したい』なんて悩まなくてよくて、大病をした夫や病気がちな子どものケアや心配ごとを一人で背負わなくてよくて、本作りや仕事の相談ができる仲間が近くにいて、『4~5時間寝れば充分です』なんて言えるタフな身体があって、『うちは夫が料理担当なんです。ウフッ』なんて言えるような状況だったなら、出来はともかく、本の1冊や2冊は出せていたかもね!」と、言い返してやりたかった。
でも、その日を境に私の中で何かが変わった。自分の内側を見つめて表現する。そのことにばかりに目が向いていた気持ちをいったん横に置くようになったのだ。諦めるのではなく、捨てるでもなく、ただ横に下ろす。そして、信頼する女性たちから立て続けに「ぜひやってみたら」と勧められた韓日翻訳に、本気で取り組み始めた。いつもなら自分を後回しにして家事をする時間に、黙ってパソコンの前に座り続けた。
旧正月の連休にも「翻訳させてほしい」と言って、義実家の集まりに行かなかった。週末は土日のどちらかに「半日だけでも翻訳したい」と言って、ひとりパソコン向かい続けた。韓国の本や出版事情について学ぶため、月に1~2度、朝からひとりで本屋めぐりに出かけた。
そんな時、家族に申し訳ないと思ったり、「ごめんね」と言ったりはしないようにした。そのかわり、「翻訳めっちゃ楽しいわ。お母さん、がんばるね」と言い、ご飯とキムチ、海苔と卵焼きしかない食卓でも、夫が進んで準備してくれたなら「ありがとう!」と大げさに喜んで見せた。
すると、気づけば家族が応援してくれるようになっていたのだ。ある日突然、夫は私に頭をさげてきた。「振り返ってみると、minaはずっと何かを書いて、読んで、試して、いつも自分にできることを積み重ねていた。ひどいことを言ってごめん」と。ある時は照れくさかったのか、翻訳中の私にフランス語の走り書きをわたし、笑って静かに立ち去っていたこともあった。翻訳機で調べると、それは「あなたを誇りに思います」という一文だった。
韓国語の小説を日本語に訳す。その時間も私にたくさんの気づきを与えてくれた。翻訳中はどこまでもその作家や作品、読む人のことを考え、両国の言葉と向き合っていく。自分ではなく、まわりに目を向けて。私のことはいったん横に置き、作品の世界に集中する。作家の脳内に深く入り込み、一番の読者かつ理解者として思考の森を駆け抜けられるという喜び。翻訳は難しい。まだわからないことだらけ。だけど、私は一生の楽しみを見つけてしまった!

そして、今。翻訳の修行を続けながら、私は長らくパソコンの中にしまいこんでいた詩を一冊の本にまとめようとしている。「あれ?自分よりまわり、とか言ってたばかりなのに?」と思うかもしれないが、まわりに目を向けていたら、一周してまた自分が見えるようになってきたのだ。「まわりの人と共にある自分」の姿が。
そんな時、20代の頃に書いた80編ほどの詩を読み返してみたら、読んでもらえたらいいなと思う人の顔や、こういう人に届けたいなというイメージが次々とわいてきて、未熟ながらも40数編からなる詩の編集ができた。
先日、日本語が読める韓国人の友人に詩集の原稿を見せると、彼女は目次と最初の一編を読んで泣いていた。
「これ絶対、はやく本にしてね」。
その涙を見て、私は彼女や彼女のような読者の姿を想像しながら、日韓どちらの国でも読んでもらえる詩集を必ず完成させるぞ、と心に決めた。
「お客さんに喜んでもらう。それが一番大事ですから」
この夏、日本の書店の方が熱くそう語っていたように、私も「この人の言葉、この人の本に出会えて良かった」と読者に喜んでもらいたい。衣食住以外で人が生きていくために必要なもの―――私にとってそれは音楽や本だった―――を提供できる人になりたいのだ。
その思いは、書く道を志した20歳の頃からずっと変わっていない。だけど「まわりの人と共にある自分」という視点が生まれたことで、私ははるかに自由になった。ひとりだけど、ひとりじゃない気がしてきた。人からどう思われるかはどうでもよくなり、書く時も話す時も、あるがままの私でいいのだと思えるようになった。すると不思議なことに、思いもしなかったスピードで、思いもしていなかった人たちにまで、伝えたいメッセージが届くようになっていた。
いつかそれが、訪問記やポッドキャスト、このエッセイを通してだけでなく、1冊の本を通してできるようになればもっといいなと思う。本は、100年前に生きていた人たちや、100年後に生きる人たちともゆるやかにつながっていけるものだから。私は過去に生きた人、今を生きている人たちから、本を通してたくさん生きる力をもらってきたのだから。
長い間、先が見えない雲の中を飛び続け、やっと青空のもとに突き抜けられた2025年の夏。これからも書いて、訳して、表現して、本を通して人と出会う。ずっと、ずっと、そんな人生を歩んでいけたらと思う。

6.20.2025
DAYS / Kim MIna Column
オンマと呼ばれる日々
「ひとり」から始まる

2025年6月3日。韓国では選挙が行われ、新しい大統領が誕生した。外国人の私には選挙権がないので、新聞やテレビの前で「ほ~」とか「へ~」と声を上げるしかできなかったのだが、3年前の選挙時と比べ大きな違いを感じたのは、小学1年生の息子の反応だった。
彼は、期日前投票を済ませた夫に「アッパ(お父さん)、誰に投票したの?」としきりに尋ねたり、「1番はイ・ジェミョン、2番はキム・ムンス、3番はなくて、4番はイ・ジュンソク」と、各党に振り分けられた番号や候補者たちの名前を突然言い出したりして、私たちを驚かせた。
聞けばどうやら学校で、何番が誰かを言い当てるゲームをして遊んだり、家で親から聞いた話―――「うちのオンマ(お母さん)は、誰も信じられないからどこにも投票したくないって言ってた」という類のもの―――を友達同士でしていたらしい。
私たちが運営する施設に通う小学生の子どもたちも、似たようなものだった。まるでオーディション番組の視聴者投票について話すかのように、「先生は誰に入れるんですか?」と無邪気に聞いてくる子がいたり、自分の親はどの党を支持しているとか、どの候補者を嫌っているとか、家で聞いた話をペラペラと話しだす子がいたのだ。
韓国でも日本と同じく、政治や宗教に関する話を人前でおおっぴらにするのはNGだ。だけど、家族・親戚や気心の知れた人たちが集まれば、「あのドラマ見た?」と聞くのと同じノリで自然に政治の話題が出るし、大抵みんな自分の意見をはっきりと言う。
大統領選が終わった数日後、義実家に親戚一同が集った時も、ごく自然に今回の選挙の話になった。「誰に投票した?」と探り合い、ひとりを除きみんな同じ人に投票したとわかると、前政権の何が問題で、これからどこを変えていく必要があるのか?それぞれ自分の意見を熱く、時にユーモラスに語り始めた。
大人たちがこんな調子なので、それを横で見ている子どもたちが家の外で選挙について話すのは、当然の流れなんだろう。韓国の人たちは国のトップを直接選べるし、誰が大統領になるかによって生活が大きく変わることを実感しやすいからかもしれないが、日本に比べ政治への興味や関心を持つ人が多いのは間違いない。
少なくとも息子は今、「きのうアッパがみんなの前で大きなおならしてオンマに怒られたんだ~。ヒヒヒ」という話と地続きに、「1番はイ・ジェミョン、じゃあ2番は?3番は?」なんて、突然クイズが始まる世界で生きている。

投票には行くものの、その一票が自分の生活にどう直結しているのか?実感を得にくかった私は、30数年日本で暮らすうちに「自分ひとりが声をあげたって、きっと何も変わらない」と諦める、そんな人間に成り下がっていったように思う。
それでも中学生の頃までは、まだ「この世界は私たちの手で良い風に変えていける」と信じていた。だから、「髪の一つくくり禁止」というわけのわからない校則をなくすため、全校生徒に呼びかけて投票を行い、自分たちの手で校則を変えたこともあった。
おかしいと思うことを「おかしいよ」と叫び、じゃあどう変えていけばいいのか考え、周りの人に提案し、みんなで一緒に変えていく。そういうことが自分にもできるんだとあの時実感したはずなのに、私はいつから、何がきっかけで、声をあげるのをためらう人間になってしまったのだろう。
昨年12月の深夜、前大統領が突然の戒厳令を発令した時、テレビの前で身体を震わせながら「今すぐ国会議事堂の前に駆けつけたい!」と言っていた韓国人夫のような気概が、私にも少しはあったはずなのに。前大統領の弾劾デモに行っていた友人たちや作家たちのような気概が、自分にも昔、確かにあったはずなのに。

そうやって大統領選にむけ世間がざわついていたさなか、読み始めた本があった。昨年一時帰国した際、神戸の書店「1003」で購入した上川多実さんのエッセイ『〈寝た子〉なんているの?見えづらい部落差別と私の日常』だ。私がこの本を手にとったのはその内容に興味があったからだが、この本が福岡のひとり出版社である里山社から刊行されたから、でもある。
私が里山社を知ったのは、今から10年ほど前。大阪のブックカフェで本棚を眺めていた時、突然背表紙の文字が光り輝くように見えた1冊があった。西山雅子さん著『〝ひとり出版社〟という働き方』という本だ。その中で紹介されていた里山社の代表、清田麻衣子さんのインタビューがなぜかずっと心に残り、韓国移住の際にもこの本を日本から持ってきて、大事にしていた。
すると、移住から数年経ったある日、里山社から韓国書籍の翻訳本が出版されたのだ。韓国独立運動家夫妻の子育て日記『ウジュとソナ 独立運動家夫婦の子育て日記』を皮切りに、イ・グミ著『そこに私が行ってもいいですか?』、イ・ジュへ著『その猫の名前は長い』といった小説も順々に刊行されていった。そうして里山社の新刊をチェックする中で出会ったのが、上川さんのエッセイだった。

この本は、関西の被差別部落出身で解放運動をする両親のもと、東京の部落ではない町で生まれ育った著者のエッセイだ。幼い頃から家では「差別に負けるな」と言われ、外では「部落なんて知らない」と言われ、混乱しながら自分なりの部落差別との向き合い方を探ってきた著者。大人になり、2児のシングルマザーになった彼女は、「今日の夕ご飯何にしようか」と話すいつものトーンで、ママ友や子どもたちに部落について話し始める。
私はこのエッセイを読み、日常の中であれこれ会話するのと同じトーンで部落問題について話していく、という上川さんの姿勢に好感を持った。そして、この本には部落についてだけでなく、上川さんが暮らしの中で「あれ?」と気づいた社会の問題についてもつづられており、何度もハッとさせられた。
例えば、ママ友たちとの会話から「この社会には、お金を稼ぐことが社会に参加することだという価値観が強く根付いているのだ」と痛感した話や、セクシャルマイノリティの友達との出会いがきっかけで、自分が無意識に人を傷つけてきたかもしれないと気づいた話。幼稚園や小学校選びで、子どもの気持ちにとことん寄り添っていく上川さんの姿勢には、つい大人の都合を優先しがちな自分の子育てを振り返り、反省した。
“この社会には、「自分は差別されていない」と思い込まされて苦しみを抱えたままの人がきっとたくさんいるのだと思う。差別や人権について考えるのはネガティブなことではまったくないし、向き合うからこその幸せが確実にある。だから私は、部落差別なんてもうないと思っている人たちに「〈寝た子〉なんているの?本当に?」と問いたい。それをきっかけに一緒に現実をしっかり見つめて、可能ならば少しずつでもいいから社会を変えていこうと言い続けたい。” ―――「おわりに」より引用
この半年間、韓国の人たちがSNSでの発信や、デモへの参加など自分にできる方法で「社会を変えていこう」と行動する姿を見てきた私には、上川さんのメッセージが深く心に響いたし、韓国で暮らす日本人としてこれから自分に何ができるだろうかと、改めて考える機会をいただいた気がした。

この本の中でもうひとつ大きく心に残ったのは、彼女が部落問題と向き合う過程で「何か問題を解決するには仲間が必要だ」と実感し、出産後も自分から人の輪に飛び込み、考えを共有できる仲間と出会っていく姿だった。それは、8年の韓国生活ですっかり孤独慣れしてしまった私にはうらやましく、まぶしく思えるほどだった。
どう考えても1人より2人、2人より3人、助け合い理解し合える仲間がいたほうが、仕事や子育てや社会の問題はするっと解決できそうだ。生きるのももっと楽しくなるだろう。でも、この世にはそういう仲間がなかなか得られない人もいる。仲間は欲しくとも密につながるのが苦手な人もいる。そんな人たちは一体どうしたらいいのだろう?
思えばこの8年、私はずっと試行錯誤しながらその問いの答えを探し求めてきたように思う。そうして最近やっと気づき、腑に落ちたのが「自分にできる方法でゆるりと人とつながっていけばいい」という考え方だった。
ありがたいことに今の世の中にはインターネットがあり、こうして文章を書いて発信したり、ポッドキャストを配信したりすることができる。私の場合それらを続けるうちに、物理的に遠く離れてしまったかつての仲間や見知らぬ方から少しずつレスポンスが届くようになり、「ひとりだけど、ひとりじゃないんだ」と実感することが増えてきた。
ある時、「1人の時間ができるとminaさんの文章を読んで、ときどき泣いてることもあるんですよ」とメッセージをくれた同世代の女性とは、子育てしながら、仕事をしながら翻訳に取り組むことについて、時々互いに励まし合ったり、応援し合ったりしている。まだ一度しか会えたことがないし、遠く離れているれど、「韓国の本や人や文化を、翻訳や自分にできる形で日本のみなさんに伝えていきたい」という思いが一緒だから、私は勝手に「仲間に出会えた!」という気持ちでいる。
この文章がどれだけの人に読んでもらえるのかはわからない。だけど、世界を少しずつ良い方に変えていく小さな一歩として、私が今たった一人でもできるのは、やっぱり「書くこと」や「話すこと」なんじゃないかと思うから。これからも、ここ韓国で見聞きして学んだことや、私が悩み、試行錯誤した末に発見したものを出し惜しみせず人に伝えていきたい。
そうすることで、ゆるくつながれた誰かが孤独の渦から抜け出せたり、自分にできる一歩を踏み出せたり、またゆるくつながれる仲間に出会っていけることを、私はいつも心から願っている。






















