


麻耶
ITプログラマー/通訳
米国、中国滞在後、新世紀の幕開けからスウェーデンストックホルム在住。
本業 ITプログラマー、不定期に海外ロケ補助、リサーチ、通訳。
プライベート パンデミック関連のボランティア活動。

























2.8.2025
DAYS / Maya Column
バルト海をヒールで闊歩して
北欧の冬の通勤

朝、五時の目覚ましが鳴る。ストックホルムの窓の外はまだ暗い。人間、子供でなければ七時間の睡眠を要する。ということは十分理解しているが、世界一睡眠時間の短い日本民族としては、五、六時間の睡眠にも甘んじなければならない。
なんとか重い腰をあげて起床したらまず、オメガ3のサプリをかみ砕き、カフェオレを飲み干し、ヨーグルトにムスリを混ぜて搔きいれる。昨日からは、日本から来瑞した友人に頂いた真菰(まこも)パウダーと呼ばれる代物も混ぜ入れている。口にしたことのない代物だったので、最初は不安であったが、24時間経過した今でも体調に異状は感じられない。
軽くシャワーを浴びて、長い髪にベットリとムースとジェルを刷り込んで、バス停に急ぐ、とは言っても、地面に氷の張っている現在は走るわけにもいかない。

夏、秋季は自転車通勤をしていた。片道45分ほどで良い運動にもなったが、路面に氷や雪が張っている現在では自転車で通勤するのは危険すぎる。一昨年の大晦日に自転車で転倒して、二か月もリハビリに通った、という苦い経験は繰り返したくない。
バスと地下鉄を利用したら会社には30分以内程度で着く。住居は街中であるため、地下鉄は頻繁に走っている。
電車通勤に対しては多少の楽しみもあった、自転車通勤では経験できない車内の人間ウオッチングが出来ることである。
例えば一昨日は、私の正面に座っていた女性が非常に印象に残った。彼女は、横に座った小学校低学年程度の息子とパディントン・ベアの話をしていた。ロンドンで観劇したことがある、というような内容であった。女性に関しては横顔しか見ていないが、このような女性を気品のある人と呼ぶのか、という横顔の持ち主であった。髪は女優のように纏め上げてあり、身に着けているものも、一目で高質なものであることがわかる。
何か称賛の言葉を掛けてみたい衝動に駆られた。「素敵なコートですね」、のような言葉を。
見惚れてしまうようなオーラを放つ人と言うものは存在するものなのだと、つくづく実感した。

今日は、これといって注意を惹いた人はいなかったが、誰もかしこも携帯電話を手にしている様相は不気味に感じられた。かくいう自分もそうであるが。以前、日本に帰国をしたとき、電車に横に並んで座っていた四人家族を見掛けた。四人ともおのおの自分の携帯に食い入り、ゲームに耽っていた。その様相を傍観しながら、なんとなく世も終わりかな、と憂慮に堪えなかった。
通勤中に携帯ゲームをしている人は、今のところ、さほど見掛けない。大抵の場合はメールを読んだり、SNSを追っていたり、ニュースを追っているようだ。私もその然り。車内で通話をしている人も、さほど大音声ではないが、時々見掛ける。長距離電車で、一時間話し続けていた女性もいた。お陰で同じ車両に座っていた人々は彼女に関する事情を全て把握してしまった。
車内、バスのマナーの悪さでは日本とこちらではどちらに勝旗をあげるべきか、よくわからない。いずれの国も比較的安全であり、マナーもさほど悪くはないと感じる。治安の悪いと言われる国と比較して、遅い時間帯に乗ってもさほど危機感はない。
転職して一番残念だったのは、何と言っても勤務先までの距離である。以前の勤務先は自転車で2分程度であったため、我が家の近くである、という安心感と心地良さがあった。朝もギリギリに出勤をしており、気が向けば昼食を取るために家に帰ることも可能であった。
しかし、多少遠くなる街中に転職を決めたのは自身である。せめて通勤という行為に何かの意義を見つけようと、周りで起きている事象に注意を向けるようにしている。
お世辞にも楽しいとは言えない職場における業務を終わらせ、帰宅をする。
ここ数週間は、健康のためにしばらくは徒歩で帰ることにしている。会社のビルを出た瞬間、溜息を付く。帰路には徒歩で一時間以上掛かる。家に帰る路は数通りあるため、それほど飽きることはないであろう、とは思う。

湖畔の通り、お城の敷地、レストラン街の喧騒、住宅地、一時間もあればいろいろとバリエーションが楽しめる。
といってもやはり飽きる。
帰り道にユーチューブでも聞きながら帰ろうか、しかし、その場合、データ通信量をかなり使ってしまうのでそれも困る、などと退屈の帰途を救済し得る方法をあれこれと思案していた。
そんな時、ポッドキャストという代物の存在を知った。巷の人々は随分と昔から利用しているようである。私にとっては、ポッドキャストというものはトレンディな人種のみが利用出来るものであると信じていた。
というわけで、ポッドキャストと呼ばれる代物を聴くようになった。15分から20分ぐらいものを3-4記事聴いていればなんとか家に着く。私がポッドキャストで聞いているのは有用な記事であり、おそらく多少は脳トレにも役立っている。さらに、一日一時間以上歩くことは健康に良いとも謳われている。
対岸の灯りが湖畔に反映するストックホルムの美しい夜景を眺めながら、あるいは賑やかなレストラン街を通りながら食事をしている人達、北欧らしいインテリアを堪能しながら帰途を辿る、贅沢なひと時である。しばしの間、仕事のストレスから解放されることも出来る。
いつの間にか閉店していたレストラン、その後に開店したレストラン、その店のアフターワークのメニューなどを確認しながらゆっくりと歩く。外を歩くだけで新しい社会的傾向、あるいは情報に触れることも出来る。
ずっと家で仕事をしているよりはよほど変化がある。
と、通勤に何かしらの素晴らしい意義をこじつけて自分を納得させようとする。
しかし、
本音を漏らさせて頂くとしたら、
やはり我が家の近くで働きたかった。
12.5.2024
DAYS / Maya Column
バルト海をヒールで闊歩して
帰国は突然強行に

来年の四月に有給休暇を申請していたが、時期尚早だ、と言うことで却下されていた。
「2024年は春と秋の二回、日本に帰国しようね」、などと楽しみにしていたが、二回どころか、2024年は一度も帰国出来ない羽目になった。さらに、来年の帰国の目途も付いていない。と、半ば投げやりな心情に陥っていた。
知人達と話をしていると、「来週、帰国する」、「先週、帰国したばかりだ」、というような話題が織り交ざっている。
何故、私は友人達と同じ頻度で帰国出来ないのか、と自問自答をしていたこともあったが、その解答を出せる間もなく、日々はせわしく過ぎて行く。
なんのことはない、コンピュータを開いて、航空会社のページを検索し、希望予定日を記入し、お金を払うだけのことだ、それだけで帰国が可能になるのだ。ひと昔と異なり、ヴィールス検査が課されているわけでもない。
今週の水曜日、私は思い立って、日本行きを予定し始めた。
まず、母に連絡した。
「何かあったの?」、母は訝る。
次に、子供達と友人達に連絡した。
「ご家族に何かあったの?」、子供および友人達は訝る。
私の場合、急に帰国を決行すると、このようにまわりに訝られてしまう。
一応、何でもない、ただ帰国したいだけだ、と釈明する。
大抵、日本へ帰国する際には一年前から航空券を購入するようにしている、少しでも航空券の価格を抑えたいからである。昨年購入した航空券は日本円で17万程度であった。土壇場のチケットであれば確実に高額であるはずである。
この際、航空会社にはあまり拘らないことにした。
英国航空、オランダ航空では日本への便が無いこともなかったが、価格も高額なうえに飛行も長時間であった。個人的には全日空が推しであるが、今回は諦めた。通常利用する航空会社は、英国航空よりもかなり高額であるはずだと危惧していたが、一応、参考のために価格を検索してみた。
果して価格は18万円程度であった。
すなわち、一年前に購入する場合とさほど変わらないということになる。ローシーズンだからであろうか。インバウンド旅行者に溢れる日本にローシーズンというものがあるのかも疑問であるが。
航空券は出発日の55日前に購入するのが一番安い、などという話を小耳に挟んだことはあるが。すなわち、購入時期が早ければ早いほど安いとは、限らない、ということである。少なくとも日本行きの場合はそういうことになる。
ただし、欧州旅行の場合は、早めに買っておかないと快適なチケットがなくなってしまう、という印象は否めない。LCC等ではその限りではないかもしれないが。
価格が最終的な決め手となり、私は即断し、航空券を購入した。
さて、帰国をするとなるとやらなくてはいけないことが山ほどある。
今週中に、業務をある程度終わらせなければならない。
日本で使うWifiをレンタルしなければならない。
留守中、ストックホルムのマンションに住む人を探さなければならない。
日本の知人達に連絡して、再会の場所と日程をアレンジしなければならない。
知人への手土産を購入する時間も必要となる。
こちらへ戻る日の前日は、空港近くのホテルを予約しなければならない。
六回しか使用していないスーツケースが前回の旅行にて大破したため、新しいものを購入しなけばならない。
前回日本で使用したPCには日本語がインストール出来ず、さらにインターネットにも繋げなくなったため、PCをなんとか入手しなければならない。

こちらに長年住んでいると、忘れがちになることがある。
日本の木造家屋の中は、冬は寒いのだ。
非常に寒い。
通常は冷暖房を付けないポリシーであるが、前回訪問した日本ではついに断念した。外よりも家の中のほうが寒く感じられる。
こちらのマンションでは、動き回っている時は、タンクトップ姿でも寒くないのだ。マンションの壁も分厚く、窓ガラスも三層になっている。シャワー室には床暖房が設置されているようであるが、今まで、一度も使ったことがない。その必要が無かった。
さきほど、日本人の友人の飛び入り訪問があった。彼女のバンド仲間が私の家の近くに住んでいて、その友人の楽器かアンプを直しに来たのでついでに寄った、とかなんとか言っていた。
私は、パッキングをしながら、彼女に昨晩作ったビーフシチューを振舞った。彼女は非常に喜んでくれたので、私は彼女の娘用に少し持たせた。このような日常は、まるで日本の習慣のようだと錯覚した。すなわち、スウェーデンに居ても、疑似日本を体験することは出来るということだ。
いざ、日本に帰れる、となるとこの国の良いところも認識出来るようになってくる、不思議なことである。
アラブ国出身の同僚に、深慮もせずに質問を投げ掛けた。
「貴方も、私のように思い切って、帰国してみれば?」
彼は、一瞬、渇いた笑顔を向けると、感情を抑えながら答えた。
「帰りたくとも帰れない。レバノンを経由しなくてはならないからね」
「西側からは入れないの?モロッコとか、アルジェリアとか?」
彼は無言で首を横に振った。
この国は、完璧からはほど遠く、電車も頻繁に遅れ、物価も高いが、自然災害に見舞われることは非常に稀で、電車以外のインフラもある程度整っている。それでも、戻りたい時に、祖国に戻れるということは、実はそれほど嘆かわしいことではないのかもしれない。

9.10.2024
DAYS / Maya Column
バルト海をヒールで闊歩して
季節外れの転職

「お前、その分野に関する技能も知識はゼロだろ。そんなお前がなんでリクルートされるんだよ、二十歳でもないのに」
半年前に、ある企業からリクルートされた時、もと同僚にそう訝られた。
彼は日本人ではないので「お前」と言われたわけではないが、私にはそのように響いた。
くだんの同僚とは、決して仲が良いわけではなかったが、嫌い合っているわけではなく、いまいち波長が合わない、という程度であった。
しかし、さすがに二十歳ではない、という年齢に言及されたことは気に障った。
彼は私よりも多少年下ではあったが、私同様、二十歳ではない。
彼の任務に対する姿勢は真剣ではあったが、新しいテクニックに対しては、他の同僚達と同様、腰が重いタイプであった。
しかし、それは私も同様である。
LINEという人気アプリさえインストールをしていないため、友人達に頻繁に苦情を垂れられる。
「その分野に関しては、まったく経験がありません。でも習う意欲はあります」
面接の時には、私は正直にそう答えた。
履歴書にもその分野の経験があるとは記載していない。
嘘はったりを履歴書に記載して就職の至りになっても、実際に仕事を始めたら即座に暴かれる。
プログラマーの友人はこう宣う。
「同僚がプログラムに向いているか否かは、三か月も一緒に働いていたらすぐにわかるわよ。貴方と一緒に働いたことはないけれど、貴方にはどちらかというとプログラマーよりもプロジェクト・リーダーのような纏め役が向いていると思う。その方が報酬もいいはずだし」
友人の推察した通り、私にはプログラマーよりも適している職があるはずである。
しかし、私が従事したいのはプログラミングなのである。
もと同僚の言及した通り、私にはその分野に関する知識は皆無であった。
リクルータから声が掛るまでは、そのようなIT分野があるという知識にも欠けていた。
私は、若い男性リクルーターに訊ねた。
「教えてください。この分野における経験が皆無の私が、何故リクルートされたのかわかりますか?」
「さあ、僕にも本当の理由はわからないけど、この分野のプロとなると相当の報酬を払わないといけないからじゃないかなあ」
リクルーターのこの推察が正確か否かは不明であるが、納得出来る根拠ではあった。
この分野に関する素人を雇って社内で教育した場合、若い人であれば、教育を受けて熟練者になったらすぐに高給取りのコンサルタントに転身してしまう可能性もある。
そうなると企業としての投資が無駄になる。
逆に、さほど若くない人であれば、数年間は残ってくれる可能性が高い。
雇用される理由など、私には関係はないのかもしれないが、納得出来たほうが、自身の気持ちの整理も出来る。

以前の勤務先までは、自宅から徒歩十分程度の通勤距離であった。
勤務時間に関してもさほど厳しくもなく、知り合いも多く、気楽な職場であった。
社内にはブッフェ・ランチレストランもあり、年に10回ぐらいは自社ビルにて、アフターワークもあった。
自分の任務さえ遂行していれば比較的居心地のよい職場であったし、業種が金融なので比較的知名度も信用度も高い。
辞表を提出する時には非常に勇気を要した。
五年以上も勤務した会社であるため愛着もあるうえ、上述の利点を全て捨てなければいけない。
勤務している人の中には勤続三十年というような人も少なくない。
それだけ長く勤めている人が多いのであれば、よほど待遇が良いか、居心地が良いのであろう。
往々にして金融関係は待遇が良い。
「転職するって、本気かよ?ここには優遇的な年金制度もあるし、老後も安泰だよ」
仲の良かった同僚は驚いてそう訊き返した。
老後?
十年間以上の就学を経て、ようやくフルタイムの職に就いた私は、これからキャリアを積み上げてゆく予定なのだ。
私にとっては老後の生活を考慮することなどまだまだ先のことだ。
「先日、ふだん通ってるヘアーサロンに寄ったらさ、馴染みの理髪師がいなくてさ。どうしたのかと訊ねたら病気で急逝されたっていうんだよな。まだ55歳だったらしい。人生って短いよな。それで俺決めたんだよ、60歳で退職しようって。実は前から漠然とは考えてはいたんだけど、それが決め手となってさあ」
その同僚はそう続けた。
私の新しい転職先は、給料に関してはほぼ同等か、あるいは多少下がる。
勤務時間も増え、通勤距離も長くなる。
人間関係に関してはまったく未知であった。
それならば何故、わざわざ転職をすることにしたのか。
一言で纏めれば、最先端の技術を駆使して働きたかったのだ。
過去五年間、毎日毎日、同じ作業を繰り返しているような錯覚を受けていた。
以前の勤務先に関しては、業務内容自体は決して容易なものではなかった。
しかし、難易度の高いアサインメントが回って来ても、ベテランのテクニシャンが即座に担当に付いてしまうため、私のところには比較的簡単な業務しか回って来なかった。
これでは、自分の技能及び知識がまったく上達しないと危惧したのだ。
このまま簡単な業務を続けながら、悶々とした心情で、数十年間、ぬるま湯に浸かってゆくか。
あるいは、多少勤務条件は落ちても新しい分野に挑戦をしてみるべきか。
新開地はいばらの道かもしれない。
この転職が私にとって賭けであると同様、新しい雇用主からしても、この分野の経験がゼロである人材を雇用するするということは賭けなのである。
もっとも雇用主にとっては、この賭けが失敗したら人材を交換すれば良いだけであるが。
果して私はどちらを選択すべきなのか。
そのような岐路に立たされた。
しかし、自分の中では答えは既に出ていた。
冒頭の同僚の言及した通り、私は20歳ではない。
そしてその分野に関する知識も技能もない。
しかし、その私に取りあえず賭けてみようとしてくれる企業がある。
私は新しい雇用先との電子契約書にサインをした。

7.1.2024
DAYS / Maya Column
バルト海をヒールで闊歩して
なっちゃんと一緒に過ごす北欧の夏

「私、今年の夏、スウェーデンに行きます」
メールを開いたら、もと親友から、このような連絡が入っていた。
読み進めて行くと、「二か月間滞在する」、とある。
二か月も日本を離れるとは、どういうことだろう、と一瞬考えた。彼女はもしかしたら離婚をしたのでは、それが私の脳裏に浮かんだ危惧であった。
私がストックホルムに引っ越したばかりの頃、最初に知り合ったのが彼女、なっちゃんであった。
彼女とは年齢は近かったが、出身地も、価値観もまったく異なる。彼女に言わせれば、私達が日本で知り合っていれば、絶対に友人関係にはなっていなかったはず、であるらしい。
そんな私達が何故か親友同士になった。
元来、私には友人が多い。長い人生の中では、親友と呼べる友人も多い。しかし、なっちゃんの場合は、親友というよりは、むしろ家族であった。海外における日本人同士の結束は往々にして強い。
当時の私たちは、時間にそれほど追われていなかった。電話の通話代金は安価ではなかったが、私たちは毎日、一時間以上話をしていた。とりとめのない話である。それほど事件の多くなかった当時のストックホルムにて、どのような話をしていたのかは、皆目記憶にない。

この国に移住してから十年間、なっちゃんは、私同様、ストックホルムにて自分の場所を探し続けていた。彼女は、コンピュータのコースに通ってみたり、様々なことにトライはしていたが、レストラン勤務をしていた期間が一番長かった。
近いうちに、スポンサーを見つけて自分のレストランを持つのではないかと、まわりには期待されていたが、最終的には日本に帰国した。それと同時にスウェーデン人との婚姻生活も終止符を打った。
あるいは、婚姻生活が破綻したため、日本に帰国をしたのかもしれない。その頃になったら、親友と呼べるほど頻繁に連絡を取っていなかったため、詳細はわかりかねる。レストラン勤務のなっちゃんと勉強三昧の私、私たちは接点を見つけることが次第に難しくなっていたのだ。
「またすぐに遊びに来ます」
帰国をする間際、彼女はこう言った。そして、その「すぐ」は15年後の今年、ようやく実現した。
彼女は15年間、一度も海外旅行をしなかったと言う。帰国後の数年間は日本の生活が楽しすぎたため、海外には興味が持てなかったこともその理由の一つであったという。
その浦島太郎になったなっちゃんが、15年後に再会するスウェーデン。私たちは、共通の友人の別荘へ向かうために、遠距離電車のホームで待ち合わせをした。髪を短くカットしていた彼女を探すのはそれほど容易ではなかった。
「昨日、カフェで菓子パンを一個買ったんだけど、その値段、想像出来る?」、と開口一番、質問を投げ掛けて来る。 私が、40クローナぐらいか、と答えると、彼女は、その通りだと答える。
「菓子パンが一個、600円なんてあり得る!?」、なっちゃんは驚愕している。
例えば、レストランのランチの価格は、彼女の記憶の中では千円程度であった、と言う。現在は、ほぼ二千円程度である。ランチが千円程度だった当時の記憶は私の脳裏からは既に欠落している。
「私がバイトしていたお寿司屋さん、二年前に無くなっちゃったんだって。今はお洒落なカフェになってた」、なっちゃんは寂しげに漏らす。彼女のお寿司屋さんはパンデミックの荒波を乗り切れなかったのであろう。彼女の記憶の中のストックホルムがまた一つ消えてゆく。
「その時の店長さんと連絡は取れたの?」「彼は消息不明、帰国してからもしばらくは連絡を取っていたんだけど、途中で連絡が途切れてそれっきり」と、彼女は首を振った。「知り合いのつてを辿って行けば見つかるんじゃない?狭い外国人社会だし」「多分ね。その気になれば手立てはあると思うけど、敢えて探そうとも思わない」、なっちゃんは電車の外へ視線を向ける。
一瞬、彼を探す協力をしてあげようか、とも考えたが、たとえ、昔の店長と再会したところで、どうするということでもないであろう。
消息不明の昔の知人、日本に帰国してしまった友人達、目新しいマンションに建て替えられた以前の建物。ストックホルムはまったく馴染みのないものとなってしまった、と、あたかも初めてこの国を訪れる旅行者のように、なっちゃんは首を傾げていた。

地下鉄、電車、バスを乗り継いで二時間、ようやく友人の別荘に到着した。目前にバルト海を望む、絶好の立地である。
別荘を所有するこの友人も、なっちゃんと私と同時期に渡瑞をして来ている。出発地点では皆、裸一貫であった。十年間自分の場所を探し続けて、最終的には日本にて人生をリセットしたなっちゃん、バルト海の目前に立派な別荘を所有出来るほどガムシャラに働いて来た友人、ITと語学職一筋で地味に働き続けながら、街中の小さいマンションに暮らすミニマリストの私。
結局、いずれの生き方が一番幸せであったのか。
この疑問に正解はない。
バルト海からの風を背中に感じながらなっちゃんと昔話をしていたら、スウェーデンに移住したばかりの、新鮮な、なんとなく甘酸っぱい、何もかもが目新しく珍しい、希望に胸膨らましていた、若かった頃の自身を思い出した。
それと同時に、私の中では眠っていた友情も次第に目を覚まして来た。
「スウェーデンに来たら一番最初に会いたかったのに」、と言う彼女の声調には、「親友なのに」というようなニュアンスの軽い責めが含まれていた。
時計の針が15時を打った時、私たちは波止場近くの夏至祭りに参加した。マイポールの周りで、花輪を被った大人子供が、夏至祭の音楽に合わせて楽しそうに踊っている。
それを懐かしそうに眺めているなっちゃんの表情を、傍から仰ぎながら、私は考えた。
今度会えるのはまた15年後かもしれない、あるいは、これが最後になるかもしれない。それならば、この二か月間、彼女の北欧の想い出の中に、出来るだけ登場させてもらおう、と。そして、彼女の記憶の中のスウェーデンを一緒に辿りながら、希望に溢れていた移住当初の自身を取り戻してゆこう、と。

4.15.2024
DAYS / Maya Column
バルト海をヒールで闊歩して
北欧の冬のささやかな愉しみ

フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャなどでは、太陽が燦燦と照りつけている時期も多く、冬でも南のほうでは凍える、ということは滅多にないであろう。観光する場所にも飽きないであろう。
それと比較してスウェーデンは!などと隣の芝生の青さを羨んでしまうことがないと言ったら嘘となる。
スウェーデン人は往々にして明るい日が好きである。太陽が顔を出すと同時にスウェーデン人も、何処からかぞろぞろと湧き出てくる。そのような国民性なので、南国に移住する人達もさぞかし多いであろう、と想像する。昨年スペインに移住をしたスウェーデン人は七万人強と記されている。ちなみに、この数値はマレーシアに在住する日本人数のおよそ三倍である。スウェーデン人口を鑑みたら比較的多いとも言える。
しかし、この国には愛国主義者も多い。スウェーデンの森と湖とバルト海を愛して止まず、海外にはさほど興味はない、そのような人達である。週末、あるいは長期休暇ごとにサマーハウスに赴き、外装あるいは内装のあちらこちらを修理したり、木陰にて本を読んだり、地平線の裏側に吸い込まれてゆく太陽の残影を惜しみながら、ワインの盃を掲げる。中庭には多種類の薔薇の花、新鮮な野菜、そしてお昼にはそれらを積んでまとめたサラダ、それを囲みながら友人達と昔ばなしを交わす。
もっとも、そのような光景は南欧でも見掛けられることが多く、むしろ、南欧のほうが多いかもしれない。それではこの北の国における醍醐味とはなんであろう。ウィンタースポーツ、サウナ、そんなところであろうか。

ところで、この国に関して特記することがある。
近代史において、メガヒットを生んだミュージシャンたちを輩出した国であるということである。ABBA、ヨーロッパなどのグループに関してはご存知のかたも多いと想像される。他にも、国際的知名度が高くなくても、スウェーデン国民からは愛されているミュージシャンも多い。
私の音楽の嗜好はどちらかというと欧米よりであり、通常は、スウェーデン人ミュージシャンを好んで聴くということは無かったが、一人だけ好きなミュージシャンがいる。
そのミュージシャン、マグナスが歴史の古い町の古城にてコンサートを開催することを知り、さっそく申し込んだ。修道院を改装したホテルに一泊し、フルコースの夕食のあと、古城まで歩き、コンサートに参加するというパッケージであった。日時は二月中旬とある。
二月中旬、何故、そのような時期に開催するのであろう。寒く、空はどんよりと陰鬱で、私が一番苦手な時期である。修道院を改装したホテルなど、室内も寒そうではないか。何故、もう少し暖かい時期を選ばないのであろうか、当初はそう疑問した。

この町は、巨大な湖のほとりに位置している。夏には遊泳客、ボート客等でこのホテルもさぞ賑わうであろう、と想像される。
しかし、冬は?冬の間は集客は難しいであろう。なるほど、コンサートを呼び物としての冬の集客、なかなか相乗的なプランではないか。
その町の第一印象は、こじんまりと可愛い街並みであったということ。第二印象は、その街並みがどんより空の下にて蒼白になっていたということ。第三印象は、雪解け水が道の泥に溶け込み道が足場が悪く、靴が汚れてしまうことを危惧したこと。
すなわち、それほどウキウキする印象ではなかった。
修道院ホテルの目前に広がる巨大な湖は氷に覆われていた。そして、その景観が体感的な寒さをさらに増幅させていた。
私達が割り当てられた部屋のある建物は、中世の修道院からは似ても似つかない1980年代の建築様式であった。部屋は広く、シャワー室にはジャクシーが備えてあったことは有難いが、出来れば修道院ホテルのほうに宿泊してみたかった。
とりあえず気を取り直して、修道院ホテルにて提供される夕食に出向いた。レストランの天井の形がその当時の様相を残していた。おそらく当時の礼拝堂であろう。レストランで食事をしていた客の大半はコンサートパッケージを購入した人達であるため、私達同様、ソワソワとしながらと食事をしていた。
食事のあと、私たちは湖畔沿いを歩きながら、コンサート会場である古城へ向かった。午後に眺めた時は氷に覆われていた巨大な湖、日没後の湖はどこまで続いているのか、どこで終わっているものか、まったく見当もつかなった。
その景観は、ひたすら静謐で、幻想的であった。氷が摩擦する不気味な音が湖のあちらこちらから響いていた。是非写真を撮りたかったが、その暗さでは、私のカメラではシャッターは押せない。
アザラシの鳴き声の如く、唸り続ける湖のほとりにて、幻想的な景観の一部と化して古城へ向かう人達のシルエットを私は目で追っていた。
これがスウェーデンの冬なのだ、と再認識をした。
太陽はない、底抜けの笑顔で騒ぐ人たちの影もない、そして気温はひたすら冷たいが、空気は澄み切っている。
古城におけるコンサート、300人ほどの観客が所狭しとその簡易椅子に座っていた。長身の人の多い国にて、ほぼ真ん中に座った私には、マグナスの姿はあまり見えなかったが、歌声とウィットの利いた小話だけは聴こえて来た。テレビでしか拝んだことのないマグナスと同じ城に居る、不思議な感覚であった。コンサートの後、終わったら一緒に写真を撮らせて頂こうかと目論んでいたが、一回目のアンコールのあと、彼は楽屋の方へ消え、再び出て来ることはなかった。

翌日の朝、修道院のほうに朝食を取りに行った。食事をしながら、ふと斜め後ろの席を振り返ってみたら、マグナスと専属ピアニストのグンナルが座って食事をしていた。想像はしていたことだが、彼らも同じホテルに宿泊していたのだ。
話し掛けるべきか?
と、しばらく自問自答を続けた。この国では、著名人を往来で見掛けても、通常、ファンたちは騒がない。著名人のプライバシーを重んじるからであろう。
暫しの思索の末、称賛されて嫌がる人はいないであろう、という結論に達した。メガヒットを飛ばすミュージシャンであれば、称賛の言葉など聞き飽きているであろうが、彼らは国際スターというわけでもない。
逆に、今、話し掛けて置かないとおそらく後悔する、その判断が私の背中を押した。迷い過ぎてタイミングを逃して後悔したことが多すぎる。
私は、席を立って、彼らのテーブルへ近寄った。
「邪魔してすみません。でも貴方達のコンサートはファンタスティックだった、と伝えたくて」、と、グンナルの横から声を掛けた。
グンナルは驚いた様子で私を見上げ、マグナスはゆっくりと顔を上げて、「どうも有難う」と丁重に礼を述べた。
「ゆっくりと休めましたか?」、と私が訊ねると、マグナスはゆっくりと頷いた。
歴史的な街にて、幻想的かつ得体の知れない巨大な湖に魅惑されながら、古城にてコンサートに臨む。そしてそのミュージシャンと直接言葉を交わす。
これが、私の、今年の冬の一イベントであった。
スウェーデンの冬も悪くないかもしれない。
2.10.2024
DAYS / Maya Column
バルト海をヒールで闊歩して
私達の時間

「フロッピーディスクって知ってる?」
と、若い人たちに問い掛けてみる。
彼らはひよこのような表情で首を横に振る。
「カセットテープは?」
彼らは宇宙人に遭遇したような表情で私を見る。
カセットテープなど見たことも触ったこともないのである。
しかし、私達の一つ上の世代の人が、「コンピュータのパンチホールを見たことある?」、などと質問して来たら、私自身も、やはりひよこの如く瞬きをしているかもしれない。どのような形状のものか、まったく想像も付かない。
そのコンピューターもディスクも容量は年々増え、サイズは年々小型化する。初期の頃の米国の某国家機関のコンピューターの容量は4キロバイトであったとも聞く。今では一般家庭でもテラバイト級の容量のコンピュータが使用されている。その進化の目覚ましさにはかろうじて付いて来ていたつもりであった。よくわからない三文字のIT用語も年々増えてきている。
にも拘わらず、
「需要の多いIT職を選んで正解だったね」、と言われ続けて安心していた十年間であった。すなわち十年間、知識の更新をして来なかった。
しかし、最近になって初めて気が付いたことがある。いや、最近というわけではない。ときおり「貴方の従事しているアンティーク型のIT職を必要としているところも沢山あるから焦らないで大丈夫よ」、とのコメントを頂いたこともあったのだ。
それでも、どっしりと構えていた、焦る必要があるなどと考えてもいなかった。私の担っている職種は「需要の多いIT職」であると信じて疑っていなかった。
しかし、ある時、目が醒めた。
「私の知っている技術は時代遅れだったのだ」
世間におけるAIだとかChatGPTだとかの喧騒を横目で、私もいずれもその分野に目を向けなければいけないのかなあ、と漠然と考えていた程度であった。
しかし、私の職種に関しては、「目を向けなければいけないのかなあ」、というレベルではなく、その方面に関する造詣、技術がなければ生き延びて行けないという状況であった。
まったく悠長に構えていたものである。
そうなったら、迷わずに学習をするのみである。エンジンが掛かるのが十年間遅かったが、取り敢えず出来ることからやってゆくしかない。
そして、数週間もドップリとIT用語に浸かってみたら、アンティーク型でないほう、すなわちモダンITの用語の意味が少し分かって来た。そして、同僚のモダンITに対する関心も次第に理解出来てきた。ある種のIT用語を口にした時、分かる人にはすぐ分かる。分からない人はひよこのような表情で寡黙になる。
以前の私がそうであったように、自分には関係のないテクノロジーの話をしているのだろう、という表情である。
そして、今になって初めて、「微分解析」等、高校時代は、私にはまったく関連のないものだと思い込んでいた教科の必要性を認識した。
それでも時々、弱気になる時もある。
赤ちゃんの時からコンピュータに触れて来た世代とどうやって競合出来ると言うのだ?私が通訳からIT職に転向したのは、ほんの数年前である。
付いてゆけなくて挫折してしまったらどうするのだろう、そうなったら、いっそのこと日本へ帰国して母と一緒に慎ましく暮らそうか、などと誘惑に駆られることも多々ある。
しかし、自分に逃げ道を作ってしまってはいけないのだ。
日本の教育制度に関して、こちらの教育制度と較べて良いと思われるものがある。逃げ道があまりないことである。すなわち、脇目を振らずに直進出来ることである。
こちらの教育制度には逃げ道があり過ぎるような印象を受ける。あくまで印象である。すなわち選択肢があり過ぎるのである。自分の意志がある程度確立している大人の場合、選択肢があることは喜ばしいことであろう。しかし、幼少時には、ある程度大人が道標を示してくれたほうが脇目を振らずに前進できて楽なのではないか、あくまで持論である。
同僚の中には、数か月後に定年退職をするという人もいる。非常に優秀な方々だが、新しい技術を習得しようという意欲は見られない。それどころかそれらに懐疑的な態度を示している。これは無理もないことであるが、ITの世界では数か月の間においても変化があり、たとえそれが数か月後に退職する人であっても適応を余儀なくされる。
この国の一般的な退職年齢は、現在は66歳である。以前所属していたIT企業にて69歳まで就業している人がいると知り、驚嘆した。自分から辞職をするか、何か失敗をして解雇をされるまでは一生働けるのだ、というようなことを小耳にした。私はその人物と一緒に働いたことがある。非常に優秀な人ではあったが、新しい技術を採り入れようという意欲は見られなかった。それでも彼は、69歳の現在でも仕事を維持している。この国の寛容さであろうか。
というわけで、私も長い間のぬるま湯から立ち上がり、現実の中へ歩いてゆく覚悟がようやく付いた。
現在は、私がITを学習していた時代と異なり、以前のように学費の高い大学、および専門学校に通わずしても、すべてオンラインの教材で学習出来てしまう。その教材も自分のレベルに合ったものが溢れている。「この教本、高額のわりには、ほんの数ページしか使わない、とてもわかりにくい」、などと苦情を垂れる必要もない。
ITに関しては働き続ける限り、常に新しい技術を学んでいかなければ弾き出される。そして、そのような業界を敢えて選んだのは自分である。移民の立場でネイティブと対等に就業が出来る職種の一つである。
だから、2024年のITに追いつけるまで、しばらくは学習を優先させて頂くことになる。
ITも何もかも目まぐるしく進化する私達の時間であるが、せめて、友人達は変わらずに居てくれるであろうか?
変わらずに待って居て欲しい。

12.10.2023
DAYS / Maya Column
バルト海をヒールで闊歩して
星屑のステージ 羽田空港ふたたび

「長いようで短く、短いようで長い」
これは、日本を離れてから再び日本を訪れるまでの期間を形容することである。
今回の帰国は、ほぼ11か月ぶりであった。
本来なら、休日の多い12月に帰国をしたほうがそれほど有給を取らずに済むのであるが、日本の木造建築は冬季には室内が寒すぎる。
休暇が比較的簡単に取れるのは夏なのであるが、日本の夏は、北欧の気候に慣れてしまった人間にとっては殺人的なのである。
というわけで今回は10月中旬から一か月の滞在となった。
北欧から日本へ飛ぶときには、合計飛行時間の短いフィンエアーが人気があるのであるが、私は大きい機体で飛ぶほうが落ち着けるため、フィンエアーにて飛ぶことは滅多にない。
最も最近では、欧州のどの航空会社を選んでも東京までの直行は13時間を超えることも多いため、それほど大差は無いように感じられる。
さて、11か月ぶりのストックホルムのアーランダ空港、いつの間に工事をしていたのかはわからないが、まったく新しい開放感のある装いになっており、あたかも欧州本土の空港に居るようであった。
セキュリティーシステムに関しても変化があった。
液体物もコンピュータも取り出す必要は無いと言う。
ほんの11ヶ月の間に随分と変化があったものである。
セキュリティーにおいては、大抵の場合は、髪飾りを外して、ブーツを脱ぐように要請されるのだが、今回はそれさえも無かった。
まったく浦島太郎感覚である。
パンデミックが落ち着いて旅行業界が急に動き出したということであろうか。
そんなことを考えている間にも、幻想的な碧い山脈の上空を飛びながら、私達を乗せたボーイング機は東へ東へと進んでいた。
その時は飛行地図を追っていなかったので、雪に覆われた青い山脈は北極のものであると勘違いしていたのが、実際にはトルコ辺りの上空であったのであろう。
あれほど苦手であった飛行も最近ではそれほど苦には感じられない。
機窓からの景観を眺めて居ると飽きないからであろうか。
また、機内サービスの映画を数本鑑賞していればじきに到着してしまうからかもしれない。
それならば、もっと頻繁に帰国出来るはずではないか、と思うが、先立つものも無く、いつでも長期休暇が取れるわけでもなく、時差ぼけから回復するのにも数日間を要するため、そう簡単に帰国を出来るわけでもない。
「間もなく着陸、ベルト装着」なんたらのサインが機内に流れる時、形容し難い感動を覚える、毎度のことである。
今回、着陸寸前の機窓から臨んだ東京は、大都会であった。
欧州の都市に着陸する時には感じたことの無い迫力である。
そしてその大都会は果てしなく続いていた。
「私は、この大国を飛び出してしまったのだ」、強度の後悔と誇りが混在した複雑な心情を抱える私を乗せてANA便は次第に高度を下げて行った。

一時帰国をする日本人は、大抵の場合は非常に多忙である。
私の場合も、一か月間に一年分の用事を詰め込もうとするため多忙になる。
出来るだけ家族と一緒に過ごして、家族の手助けをして、出来るだけ多くの友人と会って、出来るだけ多くの観光をして、出来るだけ頻繁に温泉に浸り、出来るだけ多く寿司を食べて、出来るだけ多くの日本食を買って帰る。
今回に関しては、スウェーデンからの客人が訪れていたので、滞在の半分の期間は客人のアテンドがフォーカスとなっていた。
そうこうしていると一か月などすぐに過ぎてしまうような印象を受けるが、そういうわけでもない。
一日一日に変化があり密度が高かったためか多少長く感じられる一か月であった。
一時帰国をする時には、常に日本の素晴らしさを再認識してしまう。
しかし、それは旅行者として短期間のみ日本を訪れているからであろうか。
生活基盤を日本へ移して、日本にて日常を過ごすことになったら、果たして今ほど素晴らしく感じられるであろうか。
そもそも日本で仕事は見つかるのであろうか。
同年代の知人は、電話によるカスタマーサービス、介護の仕事等を担っている人が多い。
自分で会社を立てた友人、会社の重役になっている友人もいないこともないが、彼女たちは多忙過ぎて、一時帰国をする私の希望日程には都合を付けられないため事情を伺うことは儘ならない。
仮に良い仕事が見つかったとして東京に通勤することになったとする。
しかし、私が日本を離れた理由の一つは電車に依る長距離通勤に辟易したからであった。
その事情は今も変わらないはずである。
子供達と離れて暮らして淋しくならないであろうか。
近くに居てもお互い忙しく、滅多に子供達に会うことはない。
しかし、会おうと思えば会える距離に住んでいるということは安堵出来る。
自然災害も日本を離れた理由の一つではなかったのか。
これは減少するどころか、却って増える傾向にあるように感じられる。
夏の酷暑自体が災害レベルであるとも聞く。
日本で暮らしたいという願望は、帰国をする度に強まるが、今回も結論が出ないまま羽田空港に到着した。
「星屑のステージ」との謳いの羽田空港の展望デッキ。デッキ上にも多くのLED照明が埋め込んであり、それが幻想的に点灯する。
そのデッキから展望出来る飛行機の離着陸はひたすら瀟洒であった。
これが、日本で眺める今回最後の夜景であった。
「今宵が日本から離陸する晩ではなくて、着陸した日の晩だったら良かったのにね」と、毎年毎年同じことを言いながら嘆息している。
そして今、北欧に戻り一週間が経った。
こちらの生活は日本へ帰国した時から何も変わっていない。
変わったことがあるとしたら、地表が、飛行時に機窓から眺めた山の表面のごとく、一面銀色に覆われていることぐらいである。
この国はこれから長く暗く寒い冬に突入する。

10.15.2023
DAYS / Maya Column
バルト海をヒールで闊歩して
二十五年ごとの再会

正午の針が少し動いた頃に、マンションのドア近くでガサっと音がする。
それと同時にドアまで走っていた二十五年前のあの頃。
ドアの下には青い封筒が何通か投げ入れられていた。
日本の家族、日本の友人、海外の友人から届いたエアーメールであった。
こちらに移民してからしばらくは、やりたい事も、やるべき事も、出来ることもわからず、毎日、散歩したり、こちらの友人と食事会をしたり、家族と友人達に手紙を書いたりしていた。
手書きの手紙を封筒に入れて切手を貼って送っていたのだ。
手紙を手書きでしたためるのには時間は掛かったが、それでも精魂を込めて書いていた。
そして家族と友人達も心を込めて書いて下さっていた。そんな時代もあったのだ。
しかし、箱一杯に詰まった想い出を引っ越す度ににゾロゾロと引き連れて行くわけにはいかない。
背に腹は代えられず、一通一通開いて、写真を撮っては処理することにした。
とは言っても、これがなかなか難しい。
特に、故人から戴いたものは捨てられない。
再生が出来ないからである。
それでも心を鬼にして、一通一通を処理し始めた。
捨てる前に知人達の手紙を一読をしながら驚いたことがあった。
私がこちらに移民した直後、多くの友人達と親戚達は、来瑞して私を訪ねることを約束していたのだ。
さらに、文中には具体的な訪問時期まで提案されていた。
果たしてその中の何組の親戚と友人が私を訪ねて下さったのか。
今までに訪ねて下さったのは、父方の親戚一組、母方の親戚二組、友人が五組であった。
しかし、いずれも二十五年前に来瑞を提案して下さった方々ではない。
来瑞を提案していた友人の中には、既に連絡先さえもわからなくなっている人達もいる。
今年の夏、従姉妹の一人が来瑞して私を訊ねたい、と打診して来た。
従姉妹の中では、ほとんど付き合いのないグループに属する。
その直後であろうか、断捨離の手紙処理をしている途中、彼女からのエアーメールが見つかった。
日付はやはり二十五年前のものである。
「来年の秋に、ねーちゃんを訪れて行きます」、と手紙には記されている。
「ようこそスウェーデンへ。二十五年目の正直だね。本来は20年前に来る予定だったみたいよ」、マンションの前で、彼女とその夫に出逢った時、私は開口一番、彼女の手紙を見せた。
彼女は、まったく記憶に無い、と言って笑った。
彼女の夫にはお会いしたこともなかった。
日本に残してきた子供達の面倒は一体誰が看ているのか、と私が訊ねると、「何言ってるの、うちの息子たちはもう大学生よ。両親がいなくて却って羽を伸ばしてるわよ」、と従姉妹は吹き出した。
彼女の子供が二人の息子であることも、大学生であることもまったく知るところではなかった。
彼女の私の娘達に会ったことはない。
お互い地球の裏側にて、自分たちの生活に忙殺されている間に、人生は進んでいた。
マンションの前で再会した時、お互い、すぐに相手を認識出来た。
彼女は子供の頃の面影を残していたが、現在は責任のある地位に付いており、年齢相応の表情になっていた。
血縁とは不思議なものである。
二十五年以上の空白の時代があっても、親戚は親戚なのだ。
私たちは、一緒にレバノン料理のレストランにて昼食を取り、ストックホルム中心の島々を歩き回った。
私達が、社会人になってからの昔話を語ることはなかった。
社会人になってからの私たちには共通の過去は無かったからである。
従姉妹は、私のことを夫にこう説明していた。
「ねーちゃんはね、私達の親分だったの。いつもいろいろなことを企画して、私達に命令していたの。でもそれがとても面白かったから、私たちはみんな従っていたのよ」
私には何の記憶が無いことであった。
私の記憶にあった彼女は、たんなる鼻を垂らしていた幼い女の子、であった。
その彼女がそれほどはるか昔のことを覚えていたということに感嘆した。
その鼻を垂らしていた従兄弟は、今では美しい女性に成長している。
叔母、すなわち彼女の母は、私のことをいじめっ子であったと形容しており、それを反芻していた。
そのため、私もそのような記憶を植え付けられていた。
しかし、それにも拘わらず、従姉妹は私に好意的な感情を抱いてくれていたようである。
三人でストックホルム中心の島々を数時間も歩いていると、私達の距離は徐々に狭まって来た。
この日まで会ったことも無かった彼女の夫とも、友人のように話が出来るようになっていた。
夕食は我が家で召し上がって頂いた。
スウェーデンらしいものを試したいと言うので、ザリガニを買ってきておいた。
チーズパイ、ポテトと頂くものであるが、楽しんで頂いたようである。
夜も更けて来たころに、彼らは私のマンションを後にした。
滞在中のホテルに戻るためである。
「今度はいつ会えるんだろうね?」
「二十五年以内には再会したいね」
などという言葉を交わし、私は彼らの背中を見送った。
次回彼らの背中を見送るのはいつのことであろうか。
最近では、親戚に会える機会は、冠婚葬祭の時のみである。
残念ながら葬の機会が多くなって来たが、大抵の場合、私はその葬にさえ参加も出来ない。
血縁の方が亡くなったことを知らされるのは、大抵の場合、かなりあとのことになる。
祖母が亡くなったことを知ったのは没後の三年後であった。
私には従兄弟が比較的多いが、彼らの子女もそろそろ婚姻の年齢に達する。
しかし、彼らにははお会いしたことさえないので、彼らの婚姻に招待されることもない。
それが、祖国を離れる、ということを意味することかもしれない。
しょせん、友人でも血縁のある人々でも、それほど頻繁に会えるわけではない。
しかし今回、この街にて、従姉妹に会ったことによって、お互いに対して抱いていた記憶の断片は塗り替えられた。
「鼻垂れ小僧」から、「美しいキャリア・ウーマン」へ。
「親分」から、「異国にて苦労しているねーちゃん」へ。
今度はいつ会えるのであろうか。
おそらく、それほどすぐには会えないであろう。
彼女は今後も東京における生活に忙殺されることになる。
しかし、ある秋晴れの午後に、従姉妹のねーちゃんと一緒に小高い丘を歩いてストックホルムの街を一望したことを、時々ふっと思い出してくれたら、などと願う。

8.5.2023
DAYS / Maya Column
バルト海をヒールで闊歩して
アロさんに押された背中
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アロさんが新曲を発表された。
アロさんとは、この美しいウェブマガジンの火付け役である。
面識のない方をいきなり「アロさん」とニックネームで呼ぶことは、招待もされていないのに、強引にメンバーズクラブに入るような感覚で苦手なのだが、このエッセイにては便宜上そう呼ばせて頂こう。
何故なら、正式名の木ノ下さんを木の下さんと綴ってしまったことがあるからである。
エッセイにおいて、木ノ下さんと何度も言及させて頂いたら、木之下さん、木下さん、揚げ句の果てには、山下さんなどと誤記してしまう危険もある。
文章にニコニコマーク等を付けて下さる方であるが、実は、こだわりもプライドもかなり高い方だと理解している。
よって、そのような基礎的ミスで気を悪くさせてしまうことは回避したい。
ということで、今だけはアロさんと呼ばせて頂くことにしよう。
アロさんの新曲、「Hollow Pain」、ノリが良いのでPCで何度か拝聴させて頂いていたら、いつの間にか、Youtubeの連想Mixの中に入っていた。
考えてみたらアロさんとの出会いは、やはり音楽が関係していた。
「僕のマガジンに寄稿をしてくれませんか?」、と、お声が掛かった時、どのような方なのかと、同氏の綴られている記事を拝読させて頂いた。音楽の記事であった。
太陽の下でキラキラとダイナミックに歌われている方、それが第一印象であったであろうか。
その後、デザイナーとしての影が音楽家としての影を代替して来た。
このマガジンに執筆されていらっしゃる方々も、それぞれキラキラとされていらっしゃる。
キラキラばかりをリクルートされていらっしゃるアロさんが何故私を、と疑問には感じたが、快諾をさせて頂いた。
一か月に一回、という頻度は少ないようで多い。
というのは、自宅からリモートで働いた頃などは、人と接触する機会がさほどない。
よってエッセイに書きつけたいような事象が発生しない。
スーパーマーケットぐらいへは足を延ばしたが、そこで発生するような事件と言えば、会計を間違えられたとか、自動ドアが空かずに外に出られなかった人が、大音声で怒っていた、とか、国営酒店でアルコール中毒の女性が、男性従業員三人に向かってイチャモンを付けていて、その従業員達が怖がって後ずさっていたとか、せいぜいその程度のものである。
ここには、笑いもドラマもない。
それでも毎回、乏しい体験から何かしらを絞り出し、「こんな記事でええんかな?」、などと頭を下げながらアロさんに提出してみる。
アロさんは、それでも毎回原稿を「有難う御座います」、と受け取り、美しくレイアウトして下さる。
私の原稿だけではない、皆様の原稿である。
夥しい数である。
一人一人の原稿を御高覧をされる時間的余裕など無いであろうと思っていたが、時々、記事の内容に関して感想を述べて下さる時もあるので、一応検閲は入れられているのかもしれない。
今月に関しては、話題が皆無であったわけではないが、書き始めていた時、なんとなくアロさんのことを書きたくなってしまい、締め切り日の今日になって急遽進路を変えた。
しかし、このマガジンに寄せさせて頂くべき記事は、私自身の生活を綴らせて頂くもので、アロさんを讃えるものではない。
何故にアロさんに関する考察を千文字近くも綴らせて頂いたのか、しかも「貴方、僕のこと全然わかっていませんよ」、と諭される危険も冒して。
アロさんの私の生活における効能とは何であろうか。
私の単調な生活に、湘南の爽やかな風を吹き込んで下さったことであろうか、などと気障なことは言わない。
私のエッセイには詩はない。
あまり気障なことを言ったり書いたりすると、歯が浮きそうな錯覚を起こすからである。
というわけで具体的に述べさせて頂くと、
「僕のマガジンに寄稿してくれませんか?」、と打診されて悪い気がする人はあまりいないのではないかと思われる。
美しいマガジンである。
そこに自身の活字が並ぶということは喜ばしいことである。
また、締め切りがある、という寄稿にもメリハリが付く。
私たち、特に海外に在住する人間は、定期的に書かなければ日本語を確実に失ってゆく。
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最近、小説を書いてみたくなった。
無性に書いてみたくなったのである。
こちらに移住したばかりのころは、少し小説を書いていた。
こちらから一番最初に小説コンテストに参加したサイコミステリー小説は、難関と呼ばれた予選を通過した。
小冊子に、この町の歴史的事件の記事を、数年間掲載させて頂いたこともあった。
単に楽しかったので書いていたのである。
こちらの著名な歴史小説第一人者に連絡をして、翻訳の企画等も持ち込んだりしていた。
スウェーデンの歴史小説など、果たして需要があるものか、と、知り合いの日本人小説家に質問してみた。
テレビ等にも時々出演されている著名な小説家である。
大昔に旅行先で知り合い、彼が難儀しているところを私が多少助けたことがある。
同氏からの返答は果して、
「貴方にはお世話になったので、一回だけお礼をします。貴方が原稿を書いたら出版社に持って行ってあげます。でも一回だけですよ」、と不機嫌そうなものであった。
「スウェーデンの歴史小説など、果たして日本で需要があるのか?」、という単純な質問の返答が、何故上記になるのか理解不能であったが、その返答は私の志気を下げるには十分すぎる一言であった。
何故なら、それからは一切小説は書いていないからである。
しかし、最近はまた少しづつ筆を持ち始めることが出来た。
「僕のマガジンに寄稿をしてくれませんか?」
その一言が、おそらく大きなきっかけになっていたのだ。
アロさんは詩人である。
そしてその詩はHollow Painの中で粋に踊る。
何年間も詩を書いて作曲をしていなかった彼が30年ぶりに曲を発表した。
そしてそれはまったく色褪せていない。
私も、かつて好きだった小説をふたたび書いてみよう。
と背中を押して下さったアロさんありがとう。
分野は異なっていても自分の世界を創造したい心情は同じ、一緒に頑張って行きたい。
さて、この原稿は アロさんの検閲無しでそのまま掲載して頂けると良いのだが。
6.10.2023
DAYS / Maya Column
バルト海をヒールで闊歩して
期間限定だから

娘を乗せた空港バスが出発した。
金曜日の事であった。
火曜日に海岸にて待ち合わせ、森の中を一緒に散歩をした。繁華街へ続く交差点にて別れの言葉を述べた。
私は彼女の後ろ姿が見えなくなるまでずっと見送っていたが、彼女は後ろを振り向かない。
いつもの事だ。
一つの行事が終わった途端に次の行事のことで頭が一杯になっている。
彼女がストックホルムを発つのは金曜日であったので、会おうと思えば、水曜日も木曜日も会えたはずであった。
しかし、会ってどうなるというのであろう。
何度会ってみたところで彼女は金曜日に発ってしまう。
未練がましいにもほどがある。
しかし、空港バスの発車時刻が近付くに連れ、居ても立っても居られなくなり、勤務中であったが、自転車に飛び乗った。
「ママ、ちょっと異常じゃない?」
娘は呆れた。
自分が親になってみないと、この心情は理解出来ないのであろう、と実感した。
娘は、ストックホルムの空が明るくなりつつある時に南から到着した。
自分が一体どの国で生活すべきであるのかを検証するためであった。
「私、スウェーデン人大好き、世界で一番優しい国民だと思う」、娘は言う。
ロンドン、ニューヨーク、世界各国で仕事をして来た彼女は今、スウェーデンが一番好きだと言う。
以前、冬に帰国した時は、「スウェーデンは平和過ぎて。シニアにはとてもいい国だとは思うけど」、との感想を述べていた。
彼女はベジタリアンであり、スウェーデンはベジタリアンには優しい国である。
彼女の住む国はグルメでは有名ではあるが、決してベジタリアンには優しい国ではない。
「この国の言語は、日常会話に関しては苦労しないけれど、ビジネスにおいて対等に扱ってもらえるようになるには何十年も掛かるかも、あるいは、永久に不可能かもしれない」
彼女は、寂し気に呟く。
言語に関しては、私と状況が酷似している。
同じ趣旨のことを言っていても、まわりの人々は流暢なスウェーデン語を駆使するネイティブの同僚の意見へ耳を傾ける。
社の方針が変わったとしても、私はかなり時間が経ったあとで初めて理解する。
複雑な技術会議に同席すると、理解不足のため、いつの間にか集中力が欠けている。
だからといって、日本語が母国語である日本にて働こう、という気持ちは起こらない。
再び日本にて暮らすことは渇望しているが、就業となると事情は異なる。
私が日本で就業していた時の状況は、現在は数段改善されている可能性もある。
「働き方改革」、と呼ばれる試みも実施されたようである。
しかし、女性イコールお茶くみ、という風習が残っていた勤務先もあった。
タイムカードがある勤務先も残っているようである。
娘は、外国にて暮らすことを渇望していた。
パンデミックが最初に下火になったと同時に外国にて駐在を開始した。
最初は一年間の予定であったが、それが一年間半になった。
今回、彼女は一か月ストックホルムにて働いた。
ほぼ毎日18時には帰宅していた。
駐在先にては18時に帰宅出来たことなど滅多に無かったと言う。
勤務日に友人に会う時間があることなど無かったということである。
帰国した時は大抵父親の家に住んでいる彼女は、土曜日の昼はいつも私の家に来て私の手作り料理を平らげる。
私の手料理が一番好きだと言う。
私にとっての毎週土曜日は、料理作りに始まり、その片づけに終わっていた。
それでも、娘と過ごす時間は至福の一時であった。
このルーティンが永遠に続けば嬉しい、と感じたこともあるが、それは儘ならないこともわかっていた。
彼女は、おそらく一か月が経ったら再びスウェーデンを離れる。
ストックホルムが初夏の兆しに染まる頃、人々の気持ちも自ずと浮き立つ。
今年の春、彼女はストックホルムの生活を、一か月間心底満喫していた。
期間限定の滞在が終わるころ彼女は決心を固めた。
「一年間だけ外国で頑張ってみる」
彼女がどう考えているかは知る由もないが、私には何となく想像が付く。
一年ではおそらく終わらない。
おそらく今回の駐在は数年に亘るのではないか。
父が健在の時、父母は時折、ボソッと本音を漏らした。
「そろそろ帰って来てくれないかな、孫たちとも一緒に暮らしたいし。日本で仕事をしなくとも、贅沢をしなければ退職金で暮らしていけるから」
父母の心情も理解出来た。
しかし、私は志半ばで頓挫するわけには行かなかった。
大志と言うものでもないが、海外にてフルタイムの仕事を得るために私は多大な努力を積んで来た。
途中で全てを投げ出して振り出しに戻る、両親を幸福にすることは出来たかもしれないが、私にとっては燃焼仕切れない人生になっていたであろう。
娘がストックホルムを発って数日間が過ぎた。
毎週土曜日に早起きして彼女のために昼食を作る。
楽しいひとときではあったが、永遠に出来ることでもなかった。
期間限定であったから出来たことである。私にも私の生活がある。
そして、彼女にとってストックホルムがバラ色に感じられたのは、もう当分ストックホルムに戻ることはないという、期間限定の滞在であったからではなかろうか。
彼女は異国にて彼女の生活を再開し、私も少しづつ通常の生活習慣を取り戻しつつある。
4.10.2023
DAYS / Maya Column
バルト海をヒールで闊歩して
巷の人々の話題にのぼることは

ある日のアフターワークにて知人と話す機会があった。
67歳を迎え、晴れて退職をされた男性であった。
あるいは、「一旦退職はされたが再び戻られた」、と表現するほうが正確かもしれない。
週に一日だけ出勤される、という話である。
「僕は銀行に一千万円相当あるんだ」
と、彼は抑揚の無い口調でそう宣った。
アフターワークなので多少アルコールも入っていたのであろう。
一千万円。
67歳、健康かつ独身の男性にとって、一千万円という金額は果して十分なのであろうか。
郊外のマンション住まい、田舎に小さい別荘、平均的な乗用車を所有する極平均的なスウェーデン人である。
特に高級な時計をしているわけでもなく、高額な趣味に投財しているという印象もない。
「一千万円しかないので退職後も働かなくてはいけない」、という意味合いであった場合、辻褄は合う。
67歳になった現在でも週一回出勤をしているのであるから。
上司の一人が64歳を迎えた。
「65歳を迎えたその日からは、一切働かないつもりだ」
と、彼は日頃から宣言しており、65歳の誕生までの月日をカウントダウンしていた。
しかし、
最近はどうも雲行きが怪しくなって来た。
彼は、定年後も三年間ほど勤務を継続するという選択肢を考慮し始めたようであった。
定年退職を心底望んでいた人であったため、彼の方針変更はまわりを困惑させた。
彼は、その理由をこのように説いた。
「定年退職をしたいことはやまやまだが、難しくなって来たんだよ、経済的に」
私に記憶違いが無ければ、彼は少なく見積もって半億円相当の資産を擁しているはずである。
それにも拘わらず、老後の経済には不安を感じている。
この国には裕福な人々も多いが、あらゆる世帯が彼ほど資産を擁しているわけではない。
半億円ほどの財産を擁していても経済的に難しいのであれば、銀行に一千万円を残す知人の場合はどうであろう。
また、ごく平均的なサラリーマンである私の場合は如何であろう。
私の場合は、さらに、外国人であるという様々なハンディもある。
いざとなった時、親族の助けを借りるというような恩恵にも預かれない。
昨年、一時帰国していた日本からこちらに戻ってきてスーパーマーケットに出向いた時のことである。
物価の安い日本から、直接、物価の高い北欧に戻って来る時は、常に多少の衝撃を受ける。
しかし、今回の衝撃は通常のものよりは強烈であった。
品物によっては二倍に跳ね上がっているものもあったからである。
日本のニュースを追っていると、「XX商品は25年ぶりに値上げが決定されました」、などというニュースを頻繁に耳にした。
しかし、その値上げの金額は4円、20円という程度であった。
しかし、こちらのスーパーに関しては、一週間ごとに価格が顕著に上昇している印象を受ける。
以前は二リットル250円程度であったオレンジジュースは270円、290円、310円、350円と店を訪れる度に上昇している。
23年ぶりに4円上げる、というだけでニュースになっている日本とは勝手が相当異なる。
今後、オレンジジュースの価格が再び200円台までに下がることはあり得るのであろうか。
10個入りの卵の価格は500円から300円に戻るのであろうか。
さいわい私の場合は、別荘も車も所有していないため、別荘の電気料金、車のガソリン代、駐車場費用、諸々の保険料等のコストからは免れている。
しかし、マンションの共益費用は、この半年ぐらいで1,5倍になっている。
今後もさらに上げなくては収支が合わない、との報告を受けている。
今はまさに、「インフレ」、という現象を目の当たりにしている日々である。
私の消費を見直してみる。
私は大安売りの時に食料を大量に買い込む。
期間内に消費が間に合わず、結局捨てる羽目になる。
また、価格に拘わらず、いつか使うであろうと見込んで購入するもの。
珍しいからと購入しても結局使い方を把握出来ずに捨ててしまう食材も多い。
また、生活費用に関しては、大半を占めるのは水道料金である。
お湯の料金は冷水の八倍である。
私は手を洗う時はかなり大量の高温水を使用するため、水道料金は驚愕するほど高額になる。
このように、冷静に自身の消費を分析してみると、比較的無駄が多い。
当面必要のないものは購入を控える。
限られた資源は大切に使う。
そんな些細な努力でも、地道に続けてゆけば当面は辛うじて暮らしてゆけるであろう。
「バターと油と卵がまた値上がりした」、「住宅ローンの利息が急激に上がったから生活がかなり苦しくなった」、「65歳になっても定年退職出来ない」
巷ではそのような悲嘆が聞こえる。
しかし、その一方の巷では、
輸送手段を省くための野菜等の室内栽培、近場での魚の養殖等が推奨され、増えて来ている。
人間とは、
大昔から順応性のある生物であったため、今後も、あらゆる逆境に対して何らかの打開策を打ち出して行くことであろう。
日本においては、老後の二千万円問題なるものが話題になっていた。
半億円の資産を擁しながらも、65歳退職を諦めつつある上司。
そして、銀行に一千万円相当あると酔いの席で告白した67歳の知人。
果たしてこの国において老後に必要となってくる資産はいくらぐらいなのであろうか。
結局のところ、
一千万円か半億円か、という議論は用をなさない。
肝心なことは、私が定年退職に至る頃にはいくら必要になっているか、である。
果たして、現在の生活レベルは維持できるであろうか。
十年以上も先の経済に関しては全く予測が付かない。
しかし、おそらく一千万円という数値は微妙なところである。
どちらにせよ足りなくなる可能性があるのであれば、お金は、この刹那を楽しむために使うべきかもしれない。

2.8.2023
DAYS / Maya Column
バルト海をヒールで闊歩して
日本恋しい病

「これからどうするつもり?」
流行病で配偶者を失った友人に、こう問いかけた。配偶者は日本人であった。
「大阪に帰るかもしれん」
彼女はこう答える。
ストックホルムにて寿司を握っていた日本人青年と結婚した彼女は、彼が亡くなったあとも、一人で寿司を握り続けていた。
配偶者が日本人であるため、スウェーデンには親戚もいない。子供達もそれぞれ独立している。
「寿司だって、いつまで握れるかわからへん、立ち仕事やし」
海外から日本のニュースを追っていると、日本はこの先大丈夫なのであろうか、と危惧する機会が多い。
隣国からはいろいろなものがビュンビュン飛んでくる。円の価値は落ち続けていた。
南海トラフ巨大地震は懸念されている。
その他、憂慮すべきことは数え切れない。
しかし、いざ日本に到着してみると、空港を出た瞬間から、日本が如何に機能する国であるかを再認識した。
ほぼ四年間も帰国していなかったため忘れていたものだ。
バス会社は懇切丁寧にバスの乗り場を説明してくれる。
空港バスは待つべきところで、時間通りに到着して居り、係りの方が荷物を丁寧に積んでくれる。
そして街の喧騒。
バスを降りたところには、飲食店がひしめき合っており、街には活気がある。
東京等の大都市の中心部ではなく、神奈川の地方都市の駅前である。
どの飲食店も美味しそうなメニューを提示している。
スウェーデンにおける食生活が特別に侘しい、というわけではない。
寿司握りのコンテストで優勝したスウェーデン人なども輩出されている。
しかし、飲食店、食材の数は日本の比ではない。
日本の食文化が豊か過ぎるのである。
そして、日本人の私は、その食文化を享受してきた。
こちらに移住してから「いずれは日本に帰りたい」、と思い始めたのはいつ頃からであろうか。
我武者羅に子育てをして、勉強をしていた時は、おそらく一点の目標しか見えていなかった。
この国にて経済的に独立すること。
そして、それは十年前に実現した。
仮に、くだんの友人が、最終的に日本に帰ることに腹を決めたとしたら、「それじゃあ、私も」、と強く背中を押されそうである。
しかし、私は今は日本には帰れない。
理由はいくかある。
まずは、
定年まではまだ20年近くを余す。
「日本でも働けるでしょう?」、と時々質問される。
しかし、こちらで働いていた日本人が、数年間日本にて働いた後、こちらへ舞い戻って来たケースを知っている。
「日本では働けないわ」、と彼女は言う。
詳細は分りかねるが、ある程度の推察は可能である。
タイムカードもなく、自主管理が重視されるこの国の労働スタイルに慣れてしまっていると、日本における労働スタイルに再び組み込まれてゆくことは至難の業に感じられる。
長時間、満員電車に揺られて通勤することに関しても今となっては現実味がない。
もう一つの理由は、
日本への憧れが単なる幻影であった場合、生活基盤を日本に移してしまったあとでは後戻りが難しいことである。
両親の抱く寂寥感に後ろ髪を引かれながらも日本を去ることに決めた当時には、自分なりの理由があった筈である。
その理由が現在消失したわけではないであろう。
当時、欧州への憧れは存在していたであろうか。
米国かぶれであった私にとって、欧州は憧れのそれほどの土地ではなかったはずである。
しかし海外に住むことは所望していた。
「幸福度」云々、というコンセプトが往々に国際比較において引き合いにされる。
スウェーデンも、北欧の中では最下位とは言え、一応上位二十位以内には入っている。
確かに、食文化を比較しなければ住みやすい国ではある。
今後、日本に住むべきなのか、スウェーデンに住むべきなのか。
あたかも花占いをするように、この質問を頻繁に反芻している。
そしてその花占いは、いずれの結果になっても納得は出来ない。
高校時代の友人達と日本にて再会した。
皆、「日本は食べ物も美味しいし、何でも手に入るし最高の国だ」、と、日本への満足度を語る。
私もつくづく共感した。
やはり、人間の生理的欲求の多くを占めるのは食事なのである。
「和食ならこちらでも作れるでしょう?」
同僚が宥めようとする。
日本食イコール寿司と思い込んでいる欧州出身の同僚である。
日本へ一時帰国をするつど、50キロ以上の日本食材をこちらへ持ち込む。
日本のカレールー、ふりかけ、和食の出汁等である。
それで何とか次の帰国まで持ちこたえさせる。
こちらにも舌鼓を打つような握り寿司を出してくれる寿司屋もある。
フライマシーンがあるので、豚カツも天ぷらも簡単に出来る。
お好み焼きなども難なく材料が揃う。
パスタおよびピザに関してはこちらには美味しい店が多い。
タイ料理、ベトナム料理、タパス等も評判が良く、美味のところが多いではないか。
このように悶々と日本を偲び、日本食を渇望しながらも、スウェーデンにおける食文化の発展をも歓迎している。
そうこうしているうちに、こちらに戻ってから一か月が経過しようとしている。
その間、日常の雑多に追われ、日本への想いは脳裏の奥深くに押し込まれてゆく。
これが、私が日本への一時帰国後に患う「日本恋しい病」とその恢復プロセスである。
これに罹患する海外在住邦人は、どうやら私のみではないようである。

11.7.2022
DAYS / Maya Column
バルト海をヒールで闊歩して
石橋を叩きながら生きて来たけれど

先日、久しぶりに講習会というものに参加をさせて頂いた。
六時間の講習に、昼食が含まれて、費用は高級ホテルの二、三泊分程度である。
すなわち非常に高額なものであった。
参加者が15人ほどの少人数制の講習会であったが、他の人の自己紹介を聞いていると、私以外の全ての人には「長」が付いている。
はて、私の職務タイトルのどこかに「長」は付いているであろうか。
考えてみても思い付かない。
開発者、と言えば多少聞こえは良いが、「長」はついてない。
そういえば、最近、一つのITシステムの責任者を担うことになった。
そう紹介すれば良かった、などと多少後悔もしたが、責任者でも「長」ではない。
いずれにせよ、他のメンバーに再会することはないであろうし、再会したところでなんらかの難があるわけでもない。
結局、肩書などは、特にこの国においては、それほど差別的な意味をもたない。
その14人の参加者の「長」の中で、一人だけ印象に残った女性が居た。
若いアジア人女性であったが、流暢なスウェーデン語を駆使していた。
こちらで生まれた人であろう。
漆黒の長い髪、二センチほどもありそうな重そうな人工まつげ。
不自然に膨らんでいた唇にもおそらく手を加えていたのであろう。
人工的とはいえ、完璧な外見を演出していた。
どちらかというとお堅い雰囲気の参加者の中で、彼女の存在は確実に浮いていた。
知識層のなかにはそのような風貌の女性を敬遠する傾向もある。
それはこの国に限った事ではないかもしれないが。
しかし、他の人が彼女に対してどのような感情を抱こうと、彼女には気に掛ける理由もなかった。
おそらく、参加者の中では彼女が事業的には一番成功しているのであろうから。
その漲る自信が彼女を輝かせていた。
彼女は一人手で事業を起こした。
その事業が軌道に乗るまでは相当の下積み努力を要したと推察される。
私は彼女の名刺を求めた。
残業、残業と仕事に忙殺され、ストレスに支配される直前に短い旅行を遂行する。
そのような現実逃避をすることにより、なんとか心の安寧を保つ。
パンデミック期以前と以降はそのような日常を、私は十年以上も継続して来ている。
学生時代には一つの理想があった。
フルタイムの技術職を獲得し、経済的に自立するという理想であった。
現在、その理想は叶っている。
果して、この現状が私にとっての理想、永年求めていたものであったのであろうか。
一旦、理想が叶ってしまうとその有難みを忘れてしまう。
昔話等を読んでいると、そのような人の性が揶揄されているような寓話も多い。
私の場合、その有難みを忘れたわけではないが、その理想が実現するまでの過程が懐かしく感じられることも多々ある。