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DAYS

STAY SALTY ...... means column

バルト海をヒールで闊歩して

Maya Column

from  Stockholm / Sweden

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麻耶
ITプログラマー/通訳

米国、中国滞在後、新世紀の幕開けからスウェーデンストックホルム在住。
本業 ITプログラマー、不定期に海外ロケ補助、リサーチ、通訳。
プライベート パンデミック関連のボランティア活動。

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期間限定だから

6.10.2023

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

期間限定だから

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娘を乗せた空港バスが出発した。 
金曜日の事であった。  
火曜日に海岸にて待ち合わせ、森の中を一緒に散歩をした。繁華街へ続く交差点にて別れの言葉を述べた。

私は彼女の後ろ姿が見えなくなるまでずっと見送っていたが、彼女は後ろを振り向かない。
いつもの事だ。
一つの行事が終わった途端に次の行事のことで頭が一杯になっている。

彼女がストックホルムを発つのは金曜日であったので、会おうと思えば、水曜日も木曜日も会えたはずであった。

しかし、会ってどうなるというのであろう。
何度会ってみたところで彼女は金曜日に発ってしまう。
未練がましいにもほどがある。

しかし、空港バスの発車時刻が近付くに連れ、居ても立っても居られなくなり、勤務中であったが、自転車に飛び乗った。

「ママ、ちょっと異常じゃない?」

娘は呆れた。

自分が親になってみないと、この心情は理解出来ないのであろう、と実感した。

娘は、ストックホルムの空が明るくなりつつある時に南から到着した。

自分が一体どの国で生活すべきであるのかを検証するためであった。

「私、スウェーデン人大好き、世界で一番優しい国民だと思う」、娘は言う。

ロンドン、ニューヨーク、世界各国で仕事をして来た彼女は今、スウェーデンが一番好きだと言う。

以前、冬に帰国した時は、「スウェーデンは平和過ぎて。シニアにはとてもいい国だとは思うけど」、との感想を述べていた。

彼女はベジタリアンであり、スウェーデンはベジタリアンには優しい国である。
彼女の住む国はグルメでは有名ではあるが、決してベジタリアンには優しい国ではない。

「この国の言語は、日常会話に関しては苦労しないけれど、ビジネスにおいて対等に扱ってもらえるようになるには何十年も掛かるかも、あるいは、永久に不可能かもしれない」

彼女は、寂し気に呟く。

言語に関しては、私と状況が酷似している。

同じ趣旨のことを言っていても、まわりの人々は流暢なスウェーデン語を駆使するネイティブの同僚の意見へ耳を傾ける。
社の方針が変わったとしても、私はかなり時間が経ったあとで初めて理解する。
複雑な技術会議に同席すると、理解不足のため、いつの間にか集中力が欠けている。

だからといって、日本語が母国語である日本にて働こう、という気持ちは起こらない。
再び日本にて暮らすことは渇望しているが、就業となると事情は異なる。

私が日本で就業していた時の状況は、現在は数段改善されている可能性もある。
「働き方改革」、と呼ばれる試みも実施されたようである。 
しかし、女性イコールお茶くみ、という風習が残っていた勤務先もあった。
タイムカードがある勤務先も残っているようである。

娘は、外国にて暮らすことを渇望していた。
パンデミックが最初に下火になったと同時に外国にて駐在を開始した。
最初は一年間の予定であったが、それが一年間半になった。

今回、彼女は一か月ストックホルムにて働いた。 
ほぼ毎日18時には帰宅していた。 
駐在先にては18時に帰宅出来たことなど滅多に無かったと言う。
勤務日に友人に会う時間があることなど無かったということである。

帰国した時は大抵父親の家に住んでいる彼女は、土曜日の昼はいつも私の家に来て私の手作り料理を平らげる。
私の手料理が一番好きだと言う。

私にとっての毎週土曜日は、料理作りに始まり、その片づけに終わっていた。
それでも、娘と過ごす時間は至福の一時であった。
このルーティンが永遠に続けば嬉しい、と感じたこともあるが、それは儘ならないこともわかっていた。
彼女は、おそらく一か月が経ったら再びスウェーデンを離れる。

ストックホルムが初夏の兆しに染まる頃、人々の気持ちも自ずと浮き立つ。

今年の春、彼女はストックホルムの生活を、一か月間心底満喫していた。

期間限定の滞在が終わるころ彼女は決心を固めた。

「一年間だけ外国で頑張ってみる」

彼女がどう考えているかは知る由もないが、私には何となく想像が付く。

一年ではおそらく終わらない。

おそらく今回の駐在は数年に亘るのではないか。

父が健在の時、父母は時折、ボソッと本音を漏らした。

「そろそろ帰って来てくれないかな、孫たちとも一緒に暮らしたいし。日本で仕事をしなくとも、贅沢をしなければ退職金で暮らしていけるから」

父母の心情も理解出来た。

しかし、私は志半ばで頓挫するわけには行かなかった。
大志と言うものでもないが、海外にてフルタイムの仕事を得るために私は多大な努力を積んで来た。
途中で全てを投げ出して振り出しに戻る、両親を幸福にすることは出来たかもしれないが、私にとっては燃焼仕切れない人生になっていたであろう。

娘がストックホルムを発って数日間が過ぎた。

毎週土曜日に早起きして彼女のために昼食を作る。
楽しいひとときではあったが、永遠に出来ることでもなかった。
期間限定であったから出来たことである。私にも私の生活がある。

そして、彼女にとってストックホルムがバラ色に感じられたのは、もう当分ストックホルムに戻ることはないという、期間限定の滞在であったからではなかろうか。

彼女は異国にて彼女の生活を再開し、私も少しづつ通常の生活習慣を取り戻しつつある。

巷の人々の話題にのぼることは

4.10.2023

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

巷の人々の話題にのぼることは

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ある日のアフターワークにて知人と話す機会があった。

67歳を迎え、晴れて退職をされた男性であった。

あるいは、「一旦退職はされたが再び戻られた」、と表現するほうが正確かもしれない。

週に一日だけ出勤される、という話である。

「僕は銀行に一千万円相当あるんだ」

と、彼は抑揚の無い口調でそう宣った。

アフターワークなので多少アルコールも入っていたのであろう。 


一千万円。 


67歳、健康かつ独身の男性にとって、一千万円という金額は果して十分なのであろうか。

郊外のマンション住まい、田舎に小さい別荘、平均的な乗用車を所有する極平均的なスウェーデン人である。

特に高級な時計をしているわけでもなく、高額な趣味に投財しているという印象もない。

「一千万円しかないので退職後も働かなくてはいけない」、という意味合いであった場合、辻褄は合う。

67歳になった現在でも週一回出勤をしているのであるから。

 
上司の一人が64歳を迎えた。  

「65歳を迎えたその日からは、一切働かないつもりだ」

と、彼は日頃から宣言しており、65歳の誕生までの月日をカウントダウンしていた。


しかし、


最近はどうも雲行きが怪しくなって来た。

彼は、定年後も三年間ほど勤務を継続するという選択肢を考慮し始めたようであった。

定年退職を心底望んでいた人であったため、彼の方針変更はまわりを困惑させた。

彼は、その理由をこのように説いた。

 

「定年退職をしたいことはやまやまだが、難しくなって来たんだよ、経済的に」

 
私に記憶違いが無ければ、彼は少なく見積もって半億円相当の資産を擁しているはずである。

それにも拘わらず、老後の経済には不安を感じている。

この国には裕福な人々も多いが、あらゆる世帯が彼ほど資産を擁しているわけではない。

半億円ほどの財産を擁していても経済的に難しいのであれば、銀行に一千万円を残す知人の場合はどうであろう。

 

また、ごく平均的なサラリーマンである私の場合は如何であろう。

私の場合は、さらに、外国人であるという様々なハンディもある。

いざとなった時、親族の助けを借りるというような恩恵にも預かれない。

 
昨年、一時帰国していた日本からこちらに戻ってきてスーパーマーケットに出向いた時のことである。

物価の安い日本から、直接、物価の高い北欧に戻って来る時は、常に多少の衝撃を受ける。

しかし、今回の衝撃は通常のものよりは強烈であった。

品物によっては二倍に跳ね上がっているものもあったからである。

 

日本のニュースを追っていると、「XX商品は25年ぶりに値上げが決定されました」、などというニュースを頻繁に耳にした。

しかし、その値上げの金額は4円、20円という程度であった。

しかし、こちらのスーパーに関しては、一週間ごとに価格が顕著に上昇している印象を受ける。

以前は二リットル250円程度であったオレンジジュースは270円、290円、310円、350円と店を訪れる度に上昇している。

23年ぶりに4円上げる、というだけでニュースになっている日本とは勝手が相当異なる。

今後、オレンジジュースの価格が再び200円台までに下がることはあり得るのであろうか。

10個入りの卵の価格は500円から300円に戻るのであろうか。

さいわい私の場合は、別荘も車も所有していないため、別荘の電気料金、車のガソリン代、駐車場費用、諸々の保険料等のコストからは免れている。

 
しかし、マンションの共益費用は、この半年ぐらいで1,5倍になっている。

今後もさらに上げなくては収支が合わない、との報告を受けている。


今はまさに、「インフレ」、という現象を目の当たりにしている日々である。

 
私の消費を見直してみる。

私は大安売りの時に食料を大量に買い込む。

期間内に消費が間に合わず、結局捨てる羽目になる。

また、価格に拘わらず、いつか使うであろうと見込んで購入するもの。

珍しいからと購入しても結局使い方を把握出来ずに捨ててしまう食材も多い。

 

また、生活費用に関しては、大半を占めるのは水道料金である。

お湯の料金は冷水の八倍である。

私は手を洗う時はかなり大量の高温水を使用するため、水道料金は驚愕するほど高額になる。

 
このように、冷静に自身の消費を分析してみると、比較的無駄が多い。 

当面必要のないものは購入を控える。

限られた資源は大切に使う。

そんな些細な努力でも、地道に続けてゆけば当面は辛うじて暮らしてゆけるであろう。


「バターと油と卵がまた値上がりした」、「住宅ローンの利息が急激に上がったから生活がかなり苦しくなった」、「65歳になっても定年退職出来ない」

巷ではそのような悲嘆が聞こえる。


しかし、その一方の巷では、

輸送手段を省くための野菜等の室内栽培、近場での魚の養殖等が推奨され、増えて来ている。


人間とは、

大昔から順応性のある生物であったため、今後も、あらゆる逆境に対して何らかの打開策を打ち出して行くことであろう。


日本においては、老後の二千万円問題なるものが話題になっていた。

半億円の資産を擁しながらも、65歳退職を諦めつつある上司。

そして、銀行に一千万円相当あると酔いの席で告白した67歳の知人。

果たしてこの国において老後に必要となってくる資産はいくらぐらいなのであろうか。

 

結局のところ、

一千万円か半億円か、という議論は用をなさない。

肝心なことは、私が定年退職に至る頃にはいくら必要になっているか、である。

果たして、現在の生活レベルは維持できるであろうか。

十年以上も先の経済に関しては全く予測が付かない。

しかし、おそらく一千万円という数値は微妙なところである。

どちらにせよ足りなくなる可能性があるのであれば、お金は、この刹那を楽しむために使うべきかもしれない。

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日本恋しい病

2.8.2023

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

日本恋しい病

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「これからどうするつもり?」

 
流行病で配偶者を失った友人に、こう問いかけた。配偶者は日本人であった。 

 
「大阪に帰るかもしれん」 

 
彼女はこう答える。

ストックホルムにて寿司を握っていた日本人青年と結婚した彼女は、彼が亡くなったあとも、一人で寿司を握り続けていた。

配偶者が日本人であるため、スウェーデンには親戚もいない。子供達もそれぞれ独立している。


「寿司だって、いつまで握れるかわからへん、立ち仕事やし」


海外から日本のニュースを追っていると、日本はこの先大丈夫なのであろうか、と危惧する機会が多い。 
隣国からはいろいろなものがビュンビュン飛んでくる。円の価値は落ち続けていた。
南海トラフ巨大地震は懸念されている。
その他、憂慮すべきことは数え切れない。


しかし、いざ日本に到着してみると、空港を出た瞬間から、日本が如何に機能する国であるかを再認識した。

ほぼ四年間も帰国していなかったため忘れていたものだ。

バス会社は懇切丁寧にバスの乗り場を説明してくれる。
空港バスは待つべきところで、時間通りに到着して居り、係りの方が荷物を丁寧に積んでくれる。


そして街の喧騒。

バスを降りたところには、飲食店がひしめき合っており、街には活気がある。
東京等の大都市の中心部ではなく、神奈川の地方都市の駅前である。
どの飲食店も美味しそうなメニューを提示している。

スウェーデンにおける食生活が特別に侘しい、というわけではない。
寿司握りのコンテストで優勝したスウェーデン人なども輩出されている。
しかし、飲食店、食材の数は日本の比ではない。
日本の食文化が豊か過ぎるのである。

そして、日本人の私は、その食文化を享受してきた。

 

こちらに移住してから「いずれは日本に帰りたい」、と思い始めたのはいつ頃からであろうか。

我武者羅に子育てをして、勉強をしていた時は、おそらく一点の目標しか見えていなかった。

この国にて経済的に独立すること。

そして、それは十年前に実現した。

仮に、くだんの友人が、最終的に日本に帰ることに腹を決めたとしたら、「それじゃあ、私も」、と強く背中を押されそうである。


しかし、私は今は日本には帰れない。

理由はいくかある。

まずは、

定年まではまだ20年近くを余す。

 

「日本でも働けるでしょう?」、と時々質問される。

 

しかし、こちらで働いていた日本人が、数年間日本にて働いた後、こちらへ舞い戻って来たケースを知っている。

 

「日本では働けないわ」、と彼女は言う。


詳細は分りかねるが、ある程度の推察は可能である。

タイムカードもなく、自主管理が重視されるこの国の労働スタイルに慣れてしまっていると、日本における労働スタイルに再び組み込まれてゆくことは至難の業に感じられる。
長時間、満員電車に揺られて通勤することに関しても今となっては現実味がない。


もう一つの理由は、

日本への憧れが単なる幻影であった場合、生活基盤を日本に移してしまったあとでは後戻りが難しいことである。

両親の抱く寂寥感に後ろ髪を引かれながらも日本を去ることに決めた当時には、自分なりの理由があった筈である。
その理由が現在消失したわけではないであろう。

当時、欧州への憧れは存在していたであろうか。 
米国かぶれであった私にとって、欧州は憧れのそれほどの土地ではなかったはずである。
しかし海外に住むことは所望していた。

「幸福度」云々、というコンセプトが往々に国際比較において引き合いにされる。
スウェーデンも、北欧の中では最下位とは言え、一応上位二十位以内には入っている。

確かに、食文化を比較しなければ住みやすい国ではある。


今後、日本に住むべきなのか、スウェーデンに住むべきなのか。

あたかも花占いをするように、この質問を頻繁に反芻している。
そしてその花占いは、いずれの結果になっても納得は出来ない。


高校時代の友人達と日本にて再会した。 
皆、「日本は食べ物も美味しいし、何でも手に入るし最高の国だ」、と、日本への満足度を語る。 
私もつくづく共感した。 
やはり、人間の生理的欲求の多くを占めるのは食事なのである。


「和食ならこちらでも作れるでしょう?」

同僚が宥めようとする。

日本食イコール寿司と思い込んでいる欧州出身の同僚である。

日本へ一時帰国をするつど、50キロ以上の日本食材をこちらへ持ち込む。
日本のカレールー、ふりかけ、和食の出汁等である。
それで何とか次の帰国まで持ちこたえさせる。

こちらにも舌鼓を打つような握り寿司を出してくれる寿司屋もある。
フライマシーンがあるので、豚カツも天ぷらも簡単に出来る。
お好み焼きなども難なく材料が揃う。

パスタおよびピザに関してはこちらには美味しい店が多い。
タイ料理、ベトナム料理、タパス等も評判が良く、美味のところが多いではないか。

このように悶々と日本を偲び、日本食を渇望しながらも、スウェーデンにおける食文化の発展をも歓迎している。

 

そうこうしているうちに、こちらに戻ってから一か月が経過しようとしている。
その間、日常の雑多に追われ、日本への想いは脳裏の奥深くに押し込まれてゆく。

これが、私が日本への一時帰国後に患う「日本恋しい病」とその恢復プロセスである。
これに罹患する海外在住邦人は、どうやら私のみではないようである。

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石橋を叩きながら生きて来たけれど

11.7.2022

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

石橋を叩きながら生きて来たけれど

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先日、久しぶりに講習会というものに参加をさせて頂いた。

六時間の講習に、昼食が含まれて、費用は高級ホテルの二、三泊分程度である。

すなわち非常に高額なものであった。

参加者が15人ほどの少人数制の講習会であったが、他の人の自己紹介を聞いていると、私以外の全ての人には「長」が付いている。

 はて、私の職務タイトルのどこかに「長」は付いているであろうか。

考えてみても思い付かない。

開発者、と言えば多少聞こえは良いが、「長」はついてない。

そういえば、最近、一つのITシステムの責任者を担うことになった。

そう紹介すれば良かった、などと多少後悔もしたが、責任者でも「長」ではない。

いずれにせよ、他のメンバーに再会することはないであろうし、再会したところでなんらかの難があるわけでもない。

結局、肩書などは、特にこの国においては、それほど差別的な意味をもたない。

その14人の参加者の「長」の中で、一人だけ印象に残った女性が居た。

 

若いアジア人女性であったが、流暢なスウェーデン語を駆使していた。

こちらで生まれた人であろう。

漆黒の長い髪、二センチほどもありそうな重そうな人工まつげ。

不自然に膨らんでいた唇にもおそらく手を加えていたのであろう。

人工的とはいえ、完璧な外見を演出していた。

どちらかというとお堅い雰囲気の参加者の中で、彼女の存在は確実に浮いていた。

知識層のなかにはそのような風貌の女性を敬遠する傾向もある。

それはこの国に限った事ではないかもしれないが。

 

しかし、他の人が彼女に対してどのような感情を抱こうと、彼女には気に掛ける理由もなかった。

おそらく、参加者の中では彼女が事業的には一番成功しているのであろうから。

その漲る自信が彼女を輝かせていた。

 

彼女は一人手で事業を起こした。

その事業が軌道に乗るまでは相当の下積み努力を要したと推察される。

 

私は彼女の名刺を求めた。

 

残業、残業と仕事に忙殺され、ストレスに支配される直前に短い旅行を遂行する。

そのような現実逃避をすることにより、なんとか心の安寧を保つ。

パンデミック期以前と以降はそのような日常を、私は十年以上も継続して来ている。

 

学生時代には一つの理想があった。

フルタイムの技術職を獲得し、経済的に自立するという理想であった。

 

現在、その理想は叶っている。

 

果して、この現状が私にとっての理想、永年求めていたものであったのであろうか。

 

一旦、理想が叶ってしまうとその有難みを忘れてしまう。

昔話等を読んでいると、そのような人の性が揶揄されているような寓話も多い。

 

私の場合、その有難みを忘れたわけではないが、その理想が実現するまでの過程が懐かしく感じられることも多々ある。

 

職を得るために、朝も昼も夜も、家中に暗記用シートを貼り付け猛勉強していたあの頃、暗中模索なりにも努力をしていた自分の情熱は、一体どこへいってしまったのであろうか。

 

真面目だ、慎重だ、石橋を叩いて渡る人だ、などと形容され続け、自分でも、お堅い仕事が適職である、と認識していた。

 

そしてこのお堅く安定した仕事のお陰で、パンデミック時勢においても辛うじて乗り切って行くことが出来た。

 

私の選択は間違ってはいなかったはずだ。

 

先日、娘の一人がウェブショップを始めたい、との希望を告げた。

 

私は、「そんなこと、もう皆やってるでしょう」、「どこにそんなことを始めるお金があるの?」、「ちゃんと事業の勉強をしなきゃ難しいでしょう」、と即座に反論態勢に入ろうとした。

 

しかし、すんでのところでそれらの言葉を飲みこんだ。

 

自身の幼少時代を追憶したからだ。

 

子供なりに漫画を描くのが好きで、漫画家になりたいと親に告げたことがある。

 

親からは反対された。

「有名になって自立できる人はほんの一握りだから、苦労は目に見えている」、という理由であった。

 

十代の後半には、フライトアテンダントになりたい、と親に告げた。

 

親からは反対された。「体力的に大変だから」、という理由であった。

 

そのため、結局、双方とも諦めた。最も反対されて諦めるほどであればそれほど本気ではなかったということであろうが。

 

親が反対をした理由は、娘に苦労をさせたくない、というものであったことは理解している。

 

しかし、

もし晴れて漫画家として自立していたら、フライトアテンダントとして世界中の空を飛んでいたら、今頃はどのような人生を送っていたのであろうか、と想像してみることもある。 

今、私は自分の子供に対して同じことをしようとしていた。

 

すなわち、「大変だから、無理だから止めた方が良い」、と(諭す)構えをしていたのだ。

一人でウェブショップを構築することは確かに大変なことであろう。

しかし大変であるがために努力をする甲斐もあるはずである。

失敗して挫折するかもしれない。

しかし失敗や挫折が一つもない人生など果たして存在するのであろうか。

 

人生はたったの一度のみである。

 

「大変そうだから」、と言って蓋も開けずにすべてを諦めてしまっていたら、果たして人生にはどのような意味があるのであろうか。

 

「簡単ではないけれど、やるだけやってみたら。技術面ではサポートするから」

 

私は、娘の希望に対して、このように呼応することした。

異国で得た朋友

10.7.2022

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

異国で得た朋友

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「状況が許す時にやりたいことをやっておかなければ」、との焦燥感に駆られ始めてからは、ほぼ毎月のように洋行を達している。

お陰様で銀行口座の数字は一向に上昇しない。

しかし、現在のところは大きな出費をする予定もないため、今年のところはなんとかやっていけそうである。

のちに、何らかの理由にて再び洋行が制限されたときに後悔するよりは数段ましである。  

六月にパリへの個人旅行を遂行した。 

パリから戻った時、何となくやり残したことがあったように感じた。

そのため私は、性懲りもなく、再度パリ行きの航空券をブッキングしてしまった。

同じ年に同じ国を二回訪問することは初めてであった。

 

ふと思い立ったことがあった。

今回は友人と一緒に旅行してみようか、と。

時々一緒に散歩をしたりする日本人女性の友人がいる。

感情の起伏がほぼ皆無である面においては私と相似している女性である。

私よりも多少年上ではあるが、彼女は敏腕のプログラマであり、仕事の話においても、ある程度理解をし合える。

仕事から離れるための旅行であるため、仕事の話をするつもりはないが、相互理解が出来るため、気心が知れている、と私は勝手に感じている。

相手がどのように感じているのかは疑問であるが。

 

「駄目もとで打診するのだけど、一緒にパリに行かない?」

 

文字通り駄目もとで彼女に伺いを立ててみた。

翌日、彼女から快諾が戻って来た。

 

「いいよ。パリは随分長い間訪れてない。前回訪問した時は、ずっと雨が降っていたし」、と。

 

こうして私は、晴れて女友達と一緒に洋行をすることになった。

なんの問題もなければ数日後に出発することになる。

現在まで、女友達と一緒に洋行をしたことは二回である。

いずれも、女同士の旅行特有の醍醐味もあり、苛立ちもあった。

 

最初の旅は、高校時代の同級生と、卒業後に一緒にハワイに旅したことであった。

随分、昔のことではあるが、それほど残念な記憶はない。

 

二回目の洋行は、ストックホルムから、イタリアのミラノに出掛けた時であった。

この時は、ストックホルムに同時期に移民してきた日本人の友人と一緒に出掛けた。

女優の中谷美紀さんと顔の雰囲気が相似しており、器用で溌剌とした女性であった。

移民当時は二人とも特に何もしていなかったため、お互いに毎日一時間近くも取り留めのない長電話で費やした。

さらに、一週間に最低一回は、一緒にご飯を作って団欒をしていた。

また、お互いに、家庭内にて辛いことが起きると、相手のところに駆け込んで長時間話し込んでいた。

これほどの家族のように腹を割って付きあうことの出来る大親友は、かつて存在していたであろうか。

 

ある冬、某航空会社がイタリア・ミラノ行きの航空券のキャンペーンを行っていた。

私は大親友を誘って一緒にミラノを訪れることにした。

その際、当時乳児であった次女も、面倒を看てくれる人がいなかったため、連れて行くこととした。

 

私は彼女に提案した。

「私が二人分の航空券を買うから、買い物をしている時などに、時々赤ちゃんの面倒を看てくれないか」、と。

私達の友情が破綻し始めたのは、この旅行のあたりであろうか。

私としては、彼女にほとんど頼み事はしなかった、と記憶している。

彼女は華奢なサンダルを履いて来ていたため、時々ベビーカーを押して頂くことも難儀であると感じたからである。 

結局、彼女に子守りのお願いをしたのは、買い物をしている時の一回だけであると記憶しているが、彼女がどのように感じていたのかは、今となってはわかり得ない。

ほんの三泊四日の旅行であったが、友情に亀裂が生ずるには十分であったのあろう。

 

この旅行のあと、お互い忙しくなり始めたことも起因するが、徐々に会う回数が減少し、彼女が帰国する頃には、数か月に一回電話で時候の挨拶をする程度になった。

私が二人分の航空券を負担し、その代替として子守りをお願いしたことにより、結果的には、目に見えない主従関係が形成されてしまったのであろう。

スウェーデンという土地柄が合う人も居れば、また合わない人も居る。

彼女はこの国にて、十年間努力をし続けたが、最終的には、日本に帰国し鹿児島にて再婚した。

パンデミックの蔓延し始める数年前の夏に、私と娘達は日本に一時帰国した。

もと大親友は、東京を訪れる用事が出来たため、鹿児島から上京する、会えないだろうか、と打診して来た。

彼女は横濱を知らないと言う。

私達は、横濱の関内で待ち合わせをした。

何年かぶりで会う友人であった。

かつて日本で会ったことは無かったが、私達はすぐに打ち解けることが出来た。

 

私達は中華街で昼食を取ったあと、山手の方を散歩し始めた。 

彼女に私の横濱を案内してみたかった。

その日も暑い日であった。 

元町公園近くの急坂を登る時、暑さの勢いはさらに増していた。

彼女はこの日も華奢なサンダルを履いていた。

港の見える丘公園の高台に立って、一緒に海を見ていた時彼女は静かに呟いた。

 

「私達、日本で知り合っていたら、きっと友人にはなってなかったね。貴方って、私が通常仲良くする友人のタイプとまったく違うから」

 

さりげなくそう呟いた彼女の言葉が、数年間を経た現在でも、私の心のどこかに蟠りを残している。

彼女は、それ以上、その発言を掘り下げなかったので、私は、彼女の意図するところを自分で想像するしかなかった。

彼女の発言には、どちらかというと負のニュアンスが含まれていた。

すなわち、彼女が私と交友を深めたの理由は、同じ年齢の日本人の少ない特殊な環境であったからであり、他に友人の選択肢が無かったから、ということであろう。

それが、永年、何でも語り合えていた「大親友」から残された言葉であった。

かりそめの友情という言葉が脳裏に浮かんだ。

  

今回、友人と一緒に訪れるパリ、蓋を開けたらどのような旅になるかは未知である。

友情を温存してゆきたい友人と一緒に洋行に出掛けるということは、一種の賭けである。

旅を通して、友情がさらに深まることもあれば、前回のように顕著な亀裂が入り得る危惧もある。

私達は、この異国にあと何年、何十年暮らしてゆくかはわからない。

異国にて年輪を重ねた時、おそらく一番渇望するものは、腹を割って母国語で一緒に話を出来るような真の友人であろう。

 

「少しでも不満があったら、お互い抱え込まずに即座に相手に伝えようね」

私は、一緒に旅をする友人にそう伝えた。

 

「大丈夫よ」、彼女はそう言って微笑んだ。

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プロポーズの終着駅

9.5.2022

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

プロポーズの終着駅

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「あゝ結婚」、というソフィア・ローレン女史主演の映画があった。
私が生まれる前の映画であり、鑑賞したこともないが、動画で予告編をおさらいしてみた。
結婚後のてんやわんや喜劇であると長年思い込んでいたが、実際のストーリーはどちらかというと複雑なものであった。

この国においては、プロポーズを受けてから結婚に漕ぎつけるまでの期間が長い。
漕ぎつける前に破局する例も少なくはなく、あるいは、婚約したまま結婚をせずに一生寄り添い続けるというようなカップルもいる。

私は往々にして、諸々の勧誘を断ることが苦手なのではあるが、プロポーズを断ることはさらに苦手である。

 

プロポーズをして下さる男性は、みな、ロマンチックなシチュエーションを演出し、真摯な表情にてプロポーズをして下さる。
それを拒絶するということは非常に酷なことに感じらるので、勇気に欠けていた私は、首を縦に振ってしまっていた。

 

そして、そのまま具体的なアクションからは話を逸らしながら、時期を延ばし延ばしにしてきた。
すなわち、「煮え切らない輩」と称されるような種類の人間を演じて来たのだ。そのため求婚者たちは愛想を尽かし、去って行った。

 

しかし今回は、

とうとう腹を括った。

 

すなわち、再婚をする決断をした、ということである。

欧州の最近の気候の傾向として、猛暑の晴天が数日間続いたあと大雨が降る。
今朝は、ほぼ不穏な雰囲気を醸し出すほどの曇り空が、ストックホルムを暗く覆っていた。

 

考えてみれば、人生も、この変化の激しい気候の如く、浮き沈みしている。
一路順風にものごとが運んでいる日もあれば、どんよりとした暗黒の空のように、不安かつ、無性に寂しくなる日もある。
そのような時は、一人で過ごすよりは、誰かが一緒に寄り添ってくれる方が有難い、

などと、センチメンタルな雰囲気にて結婚に踏み切ることが出来れば正当であり、ロマンチックである。

しかし、「花より団子」の無骨な私の場合は、未だそのような心境には達することが出来ない。

 

再婚をする理由は一重に、日本への帰国を可能にするための決断である。

私には苦手なものが山ほどあるが、その中でも重度なものの一つが飛行である。
フットワークが軽いと誤解される時もあるが、私は、飛行機を利用した旅の場合、大概一人では飛行をしない。

パンデミックのためフライトをキャンセルをされた2020年の日本行きは、一人の若い男性と一緒に飛ぶことにしていた。

 

その直前にプロポーズをしてくれた青年である。

 

2022年、今年こそ帰国を叶える、と意気込んでみた。
しかし、日本側の入国規制に依ると、私が日本に連れて行けるのは、正式に籍を入れた配偶者のみである。
自分の子供でさえ連れて行くことが出来ない。

 

という事情で、その青年のプロポーズを受け、彼を配偶者として受け入れることにしたのだ。
プロポーズの有効期限は、さいわいまだ切れていなかった。

 

ところで、結婚とはどのようにするものなのか。

 

初婚は日本にて登録し、こちらでは簡易書類を提出しただけであると記憶している。
あるいは馴れ初め等に関するインタビューを受けたかもしれないが、二十年前のことであるため、記憶が定かではない

 

しかし、現在はデジタル化が非常に進んだ2022年である。
そのため、今回は書類を提出するだけで十分であろう、と高を括っていた。

 

しかし、認識は全く甘かった。

 

まずは、お互いに結婚をしていないという証明書を頂くために、二週間以上を費やした。
その後、その証明書を提示して、簡易結婚式所を予約しなければならない。

 

簡易結婚式所としては、ストックホルムではノーベル賞授賞式晩餐会の開催される市庁舎が人気であるが、11月の末まで空きがないため、帰国日までには間に合わない。

 

ドロップ・イン結婚式場というものも見つかったので、片っ端から電話をしてみたが、空きはなかった。
いずれにせよ、現段階では大勢を招待する宴会を計画している時間はない。
帰国予定日が迫っているため、早急に籍を入れることが最優先である。

 

結婚執行人と直接談判をするという方法もあるが、その場合も式を執行する場所は自分で見つけなければならなく、結婚執行人の一人一人にメール連絡をし、都合を伺わなければならない点も時間を要する。
さらに、結婚執行人とは大抵の場合、政治家であるため、秋の選挙までは多忙であり、それどころではないであろうと想像される。

 

それならば教会はどうだ、と教会を当たり始めようと思ったが、私はクリスチャンではないため、その点が問題になりつつある。

 

ストックホルム以外の町はどうだ、と近郊の町の市庁舎を探し始めたら、さいわい、隣町の市庁舎に空きがあった。
その日の担当の執行人に関して、ネット検索をしてみたら、以前にスキャンダルを起こした政治家であることが判明した。

 

あまりに何もかも上手く行かないもので、お互い不機嫌になり、口論も多くなって来た。
結婚手続きが面倒で婚約解消をする人たちはいるのであろうか。あり得ることであろう。

 

ソフィア・ローレンの映画ではないが、「あゝ結婚」というフレーズが脳裏を反芻する。私の場合は、

「あゝ結婚、面倒くさい」、であるが。

 

こんなことを綴っていると、夢見心地にて結婚を考慮をされている方々には不愉快に感じられるかもしれないが、面倒なのは、あくまで書類と手続きの煩雑さである。

 

それでも、プロポーズをしてくれた青年は、「煮え切らない輩」の私がついに決断をしたため、歓喜して家族には連絡したらしい、彼の家族からは早速、お祝いのメッセージが届いた。

 

くだんの青年は躾が良く、世の中の負の部分には目を背けていたいタイプの若い青年である。
世の中の負の部分から目を背けられ得ず、何かと複雑な状況に立たされることの多い私を、この若い青年はどこまで支えて行くことが出来るのであろうか、ということがプロポーズ当初の疑問であった。

 

しかし、人間の強さと思いやりの深さは、年齢になど関わらず、一見では理解し得ない。
病弱でもある年上の私と結婚して一緒に暮らしてゆくということは、彼にとっても相当の覚悟を要したことであるに違いない。

 

私が緊急病院に行く羽目になった時などは、たとえそれが夜中で、帰りの電車が無くなると知っていても、隣町から飛んで来てくれた。

 

信頼をしてみるべきであろうか。

 

この際、「あゝ結婚、面倒くさい」、はこのように変更してみようか。

 

「あゝ結婚、面倒くさいけど、二回ぐらいしても悪くはない」

スウェーデンの国境を越えた日々

7.11.2022

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スウェーデンの国境を越えた日々

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先週末は夏至祭であった。 

昨年は知人の別荘に招待を頂いた。 

今年も知人の別荘に招待を頂いた。 

夏至祭の日はたいてい、にわか雨に見舞われる。

しかし、今年は雲一つない晴天の夏日であり、近所の湖畔では水着あるいは露出度の多い服にかろうじて身を包んだ人たちが横たわり、あるいは、夏至祭の食事を愉しんでいた。

しかし、2018年まで、私はスウェーデンにて夏至祭を過ごすということが久しくなかった。

六月は日本に過ごすことにしていたからである。

今年の五月、ほぼ二年半ぶりにスウェーデンを出国した。 

最初の越境は電車にて成就し、二回目の越境はレンタルカーにて橋を渡り、三回目はついに空路に依り、国境をいくつか越えた。 

いずれの場合も国境を越えた瞬間は、感慨深かった。 

しかし、越境を重ねるたびにその感動は次第に薄れて行った。

一年に何回か越境をしていた日常が戻って来た、ということであろうか。 

越境が難しかった時期、毎日毎日ストックホルムにて、ほぼ同じ場所を散歩していた。 

そのような生活に不満が無かったと言えば嘘になるが、人間と言うものは慣れてしまう動物であるようで、無理なのだ、と諭されれば諦めるのも早い。

少なくとも自分の場合はそうであった。

もう以前のように海外に出掛けられるとは思えなくなっていた。

外国への入国規制がかなり緩和されていたことを認識したのもまわりの人たちと比較して遅かった。

 

その反動であるのか、今年は、五月から夏至祭の先週末に掛けて、二か月の間に既に三回も出国をしている。

パンデミック前でさえこれほどの頻度で海外旅行をしたことはなかった。

やはり、遠くに行きたいという願望があったことは否めない。

三回続けて海外旅行をしたのだから、いい加減満腹になったでしょう、と訊ねられたとしたら、おそらく返答に困窮する。

世界の現時勢を鑑みると、いつまた不自由を強いられる日々が訪れるか予測が出来ない。

それまでに出来ることをやっておきたい、観れるものを観て置きたい、感動出来ることに感動しておきたい、今は、そのような焦燥感に駆られている。

 

三回目の旅行の目的地は、欧州でも観光客数においては一二を争う大都会であった。

大都会であるため刺激にも富み、街は観光客で溢れ、レストラン・カフェは流行り、デパートに並ぶ品物も目眩がするほど豊富である。

中欧の太陽は燦燦と照りつけ、脚が棒になるまで歩き続け、歩いても歩いても町の全容は見えてはこない。

町中に地下鉄が張り巡らされており、これも複雑に入り乱れている。

巨大な町である。

多くの若者は刺激とチャンスを求めてこの国に一時でも住み着く。

 

もしも、スウェーデンではなくこの国に移住していたならば、私の人生は今頃、果してどのようであったのであろうか、と現実味のないことを考えてみる。

私の住むストックホルムは、一国の首都にありながらにして把握できないほど大きい都市ではない。

カフェもレストランもそこそこ存在するがこの大都市の比ではなく、地下鉄の路線も理路整然としており、頭をぶつけてしまいそうなほど天井が低くなっている駅もない。

スウェーデンは面積的には小国ではないが、何せ人口が少ない。

北欧の中では最多数であるが。

それでもパンデミックが蔓延していた時期には、ロックダウン一意の傾向にあった世界において、スウェーデンはロックダウンをしないという選択を主張し物議を醸した。

この選択は激しい賛否両論を呼び起こし、その解答は未だに出ていないが、パンデミック期間には規制の少ないスウェーデンを訪れることを希望している人も多かったはずである。

先日訪れた大都市の喧騒、多くの人々が燃焼していたエネルギー、色とりどりの品物、これらは帰国後二週間を経た今でも時々脳裏を反芻する。

あの町にて観光客としてやっていないことは、まだまだ沢山あるであろう。

また近いうちに再び大都会のエネルギーを肌で感じてみたい。

 

ストックホルムに戻り、自分のマンションにて静かに執筆していると、開け放しのテラスから聞こえて来るものは、時折り流れて来る赤子の泣き声と、カモメの鳴き声のみである。

それがなくなると再び静寂が辺りを包む。

大都市特有のサイレンの音なども聞いたことがない。

大都会から帰国した日の夕刻、機体が雲中から抜け出た時、地上には森と湖の広がる幻想的な土地が広がっていた。

まわりの乗客からはひっきりなしにシャッターを切る音が響いていた。 

二年半ぶりに上空から臨んだストックホルムであった。

この美しい土地が私自身の暮らす土地であることを再認識した時、まわりから響くシャッターの音が心地よく感じられていた。

 

海外旅行に出掛けて刺激を受けることは非常に楽しい。

しかし、たとえ刺激には欠如していても、それほど緊張感を感じることもなく、東西南北どちらへ散歩しても水景のある澄んだ空気の中にて暮らせる、という恩恵も得難く有難い。

先週、この町にもとうとう夏が訪れた。 

短くも美しい北欧の夏だ。

千篇一律かつ平和な日々から胡坐を解く時

5.5.2022

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千篇一律かつ平和な日々から胡坐を解く時

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戦争時代の文学を好んで読んでいた時期があった。

戦いを好んでいたわけではない。

戦禍における人間同士の助け合い、命の尊さの再認識、その状況にも負けずに生きていた人たちの逞しさ、戦地から生還して来た兵たちとその家族の喜び、九死に一生を得て来た人達の懸命な生き方。
その一つに一つ垣間見られる人間ドラマを好んでいた。

 

この時分は、自身が戦争に巻き込まれてゆく可能性があるとは思っていなかったため、あくまで傍観者としての戦争時代の文学であった。

 

大人になってから私はヨーロッパに移住をした。
地震もなく、内戦もなく、自然災害も少なく、治安も悪くない。
社会福祉制度も比較的先導している。

 

私の移り住んだこの国は、概ねそのような国であった。

 

確かに、最近までの状況はそうであった。
未だに内戦はない。
しかし、現在はどの新聞を斜め読みしてみても、この国が外部からの危機に脅かされていることは否めない。

 

長い人生の節々にて、様々な国にて数年づつ暮らしてみた。
この国はその中でも比較的安全であった。
コーヒータイムの際に盛り上がる話題も、私にとってはほぼ退屈と呼べるほど千篇一律に感じられるものが多かった。
しかし今、その時期を振り返ってみると、それが平和という現象であったことを再認識させられる。
その安全であったはずの国にて、現在コーヒータイムで盛り上がる話題は、シェルターの場所、規模、充実度。
さらに、各家庭ではどのようなものを買置きしてあるか、等の話題である。

 

しかし核兵器の話題になると皆首を横に振る、その話題をそれ以上展開することが不可能になるからである。

 

田舎に別荘を所有する人たちの一部は、いざという時は田舎に避難しようと計画しているようであるが、最近は、田舎の方が安全である先入観も覆されつつある。

 

どなたかが、日本は長い間平和のうえで胡坐をかいていた、と仰っていらした。
私がこの国の言葉を学んでいた時、クラスメートのほとんどは戦難を逃れるためにこの国に渡って来た人々であった。
爆撃音で聴力を失った若い人とも知り合った。

 

彼らは一様に日本が好きで、平和な日本に憧れていた。
私自身も、長い年月、平和の上で胡坐をかいていた。
自分が戦難に遭う可能性など考えたこともなかった。

 

しかし、今は身の振り方を考え始めている。

 

世界の安全都市インデックスに依ると、ここ最近は、どの資料を選んでも首都の安全度は東京が世界一となっている。

 

おそらく現在の状況においては日本に帰国するという選択肢が最善かもしれない。
パンデミックの時代を通して日本に居ながらにして遠隔勤務を行うことも可能である。
勤務先が存続していたらの場合であるが。

 

しかし、現時点では、日本に帰国を許可されているのは私だけである。
パンデミックの入国規制に依り、家族は未だに日本に入国出来ない。
そのため私も帰国するわけにはいかない。
家族の居るところが自分の居場所なのであるから。

 

と、この土地のもろものの緊迫した状況を綴らせては頂いたが、窓から外の世界を臨いてみると、街は普段通りに機能している。
乳母車を押している男性、犬の散歩をする年配の男性、スーツを着こなして職場に向かう人達、自転車を飛ばしてゆく人々、バスに急ぐ人々。
スーパーマーケットに買い物に行っても、保存食は品薄にはなっているが、それ以外には特に不便はしていない。
レストランも通常に開店しており、人気のあるレストランは常に満席になっている。
太陽の光を受けて輝くバルト海のほとりは散歩をする人たちの散歩道になっている。
これらは、記憶の底に残っていた2019年の光景とさほど変わらない。
違いと言えば、往来でマスクをしている人々の姿がちらほら見られるという点であろうか。


2020年には、日本の東北地方を初めて訪れる予定を立てていた。それがまったく予期しないことのために変更せざるを得なくなった。さらに、その二年後の現在、まったく想像不可能であった奇妙な状況に置かれている。
昨晩は非常用ラジオを物色していた。
そのようなものを購入する予定などは2020年には皆無であった。


遠くに聳える高層マンションの窓に写る太陽の光を眺める時、冬の長いこの街にも春が訪れていることを実感する。
桜の花も満開になっている。
日没時間も徐々に遅くなってきている。
昨日の日没は20時30分であった。


「このまま、日照時間が長い日々とともに平和が訪れてくれれば良い」


と、戦難に遭った人々も切望していたはずである。
そして、彼らのその想いは惜しくも叶わなかった。


現在、一寸先のまったく予想できない状態が続いている。 
今出来ることは、毎日をひたすら大切に生きて行くことである。

スウェーデンへの移住は学校から始まった

4.5.2022

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スウェーデンへの移住は学校から始まった

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スウェーデンは比較的住みやすい国である。 
現在はそのことを理解しているが、移住当初は英語圏に移住しなかったことを悔やんだことも多々ある。 

 

日本においては語学屋であった私は、海外に移住しても語学で苦労をすることは無かろうと高を括っていた。

言語的に少数民族の国であれば話は異なって来るが、スウェーデンはヨーロッパの一国であり、教育水準も高度である。
そのため、移住してから即座に、何かしらのオフィスワークにはありつけると楽観的に構えていた。
しかし、その「即座」が数か月に亘って来た時は、焦燥を感じ始めた。

スウェーデンに移住して、私が最初に根を下ろしたのは某地方の町であった。  
その町で私は、カルチャースクールにて、常勤の英語の先生が都合が悪い時に、代役として教鞭を執ったりしていたこともある。
しかし、それは一週間に一回のコース、その代役である。
フルタイムの就業形態からは程遠い。 
職業安定所にも登録してみたところ、提案された職種は飲食業であった。
そして、どこへ行っても同じ質問を受けた。

「スウェーデン語は話せるの?」
「少しは話せますけど」

とたどたどしく返答しても、話にならないと出口を指さされる。

 

そのようなことを繰り返していた最中、知り合いから提案を受けた。

「本格的にスウェーデン語の勉強をしたら?この街でも無料のスウェーデン語コースが開催されているよ」

移住した直後にフルタイムで働く予定であった私の将来的展望は、ここで大幅に軌道修正することになった。
このあと何年も勉強をする羽目になったからである。

私は、地元の小学校の一室で開催されていた「移民のためのスウェーデン語コース」というものを履修することにした。
そのクラスは、私と一人の英国人女性以外は、南欧と中近東出身の生徒たちで構成されていた。

クラスメートたちと過ごす日々は和気藹々としてそれなりに楽しかった。
私も含めて皆、ド貧であったが、若かった。 
放課後にはクラブ室に集まり、遠足に連れて行って頂いたり、一緒にピザを作ってディナーをしたことなどもある。

その町には、日本人は私の他にはいなかった。
ストックホルム、ヨーテボリ、マルメ等の都市では日本人でもバリバリと働いていらっしゃる方々が存在していたことは、当時の私には知る由もなく、その町と学校生活の中で、私の日々は静かに悠々と過ぎて行った。

放課後には、当時の配偶者の車を借りて街外れの湖畔に出掛けていたこともある。 
湖畔のベンチに佇んで沈みゆく夕陽を眺めて居たら後悔の念が強く押し寄せて来る。
その町には日本米を購入出来る店さえも無かった。

「私は一生この町で、外国人として暮らしてゆくのであろうか」

 

日本においては、語学屋としてそれなりに尊敬も受け、定収入もあった。ほぼ毎金曜日には友人たちと東京で落ち合い、新しいレストランを物色していた。

日本の都会の喧騒が懐かしかった。

 

最近は、スウェーデンの田舎町から日常を綴られていらっしゃる日本の方々のブログ等を見掛けることもある。
往々として彼らは逞しく前向きに生きていらっしゃる。

しかし、当時の私は、静かすぎる町の生活を享受出来るようになるには若すぎた。 
静かすぎるとは形容しても、クラブ、ディスコ等が存在していなかったわけではない。
しかし、クラブ、ディスコ等に出掛けても、スウェーデン人の輪の中に入ることは至難の業であった。 
地方、田舎の傾向に違わず、余所者は受け入れてもらえるまで時間が掛かる。
さらに、スウェーデン語が流暢に話せるようになるまで私は英語で話していたため、英語を話すことを不得手とする田舎の保守的なスウェーデン人達には荷が重かったようである。

 

クラスメートの中には、内戦のために国から避難して来た人々も少なからずいた。
彼らは表面上は明るく振舞っていたが、ふとした瞬間に、戦敵への憎しみが垣間見えることがあった。 
そのような時は、普段剽軽で優しいクラスメートがあたかも別人のように感じられた。
彼らの憎しみは非常に根強いものである。

憎しみの矛先には憎しみしかないことを実感した一年間であった。
これは現在進行形になりつつあるのであろうか。  

 

日本にて会社勤めをしていたごく平均的日本人であった私は、社会人になったあとに再び学校の門をくぐる羽目になった。
そして、日本で暮らしていればニュースのみに依ってしか知り得なかった戦争難民の人々と机を並べて勉強をする。

この世界が、私がスウェーデンに移住をしてから最初に体験したものであった。

スウェーデン語の学習はこの一年のみで終わらず、スウェーデンに関しては、この後数年間も学校に通い相当の努力をすることになる。
言語というものは熱い情熱を注いで学習しない限り上達しないものらしい。

スウェーデン語初心者コースの一年目を終了した時、私達はストックホルムにて新しい生活を開始した。

 

 

北欧就職 振り出しに戻って

3.6.2022

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北欧就職 振り出しに戻って

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海外移住、海外就職、国際結婚。

なんと甘く輝かしい響きの言葉であろうか、と学生時代には考えていた。

私が憧れていたのは米国であり、大人になったら米国に移住するのであろう、と漠然と考えていた。

しかし、人生とは予定していた航路通りに運ぶものではなく、英語を好み、得意としていた私は第三言語を話す国へ移住した。

就業においても、その国の言語を話すことを条件とされていた国である。

英語が社用語となっている企業もあったが、それは、なんらかの特殊技能を有している場合であり、私のように、もと英日通訳ではなんの潰しも効かなかった。

それでも生活のために何かをしなければいけないとなったら、この国にて最初に比較的職を求めやすい場所と言えばレストラン業界であった。

従って、私もその例に違わず、レストランにてアルバイトを求めた。

適材適所とは良く言われたもので、レストランという場所は機敏な性質の人でなければ、給仕する人、される人、両方が難儀をする場所らしい。

「機敏」という性質は私の性格からはかけ離れたものである。

厳寒の日に客のコートにお冷を溢してしまったり、注文を間違えたりしながら、繁忙期の一週間を乗り越えた。

昼だけのバイトではあったが、一週間で三千円相当ほどの、北欧においての初任給を戴いた。

その前に最後にレストランでアルバイトをしたのは何時であったのであろうか。

おそらく十六の時であっただろう。

最寄り駅前のカフェである。

まだ二十歳を過ぎてそれほど年月も経っていなかったので、当時はそれほど悲観していたわけではないが。

しかし、例えば二十年間を経た現在もレストランで給仕をしていたとしたら、非常に複雑な心境になっていたであろう。

私は日本において、通訳として、その金額なら一時間で稼ぐことが出来ていた。

レストラン業界において、経営者になるという場合はまた状況が異なってくる。

レストランでもカフェでも、自らの裁量に依って切り盛りできる経営は大変遣り甲斐があるはずである。

もし、私がレストラン経営に関わることを希望していたのであれば、修行の一環として、最初は給仕の業務に専念していたであろう。

しかし、私は機敏な性格でもなく、専門は語学屋であり、出来ればその専門を生かして行きたかった。

従って、私にとって、レストラン業界における仕事は腰掛けの域を超えなかった。

こちらに移住して来たばかりの頃、レストランにて給仕をしていた日本人は、知る限りでは私の他に二人いる。

おそらく他にも多くいるであろう。

その二人がどのような航路を辿って行ったかを、こちらで紹介させて頂こう。


一人目の知人の場合はどうであろうか。

彼女はレストラン業界にて活躍するために生まれて来たような方であった。

レストランで仕事をされていらっしゃる時は、つねに満面の笑みにて客と接し、機敏な動きと機転の速さにてどこのレストランにおいても即座に重宝される人材となっていた。

将来的には、ストックホルムのいずれかのレストランの共同経営者になることも考慮し、何件かを物色し始めていた。

しかし、結婚相手と離縁をしたあとは、彼女の人生航路は変更を余儀なくさせられた。

お菓子作りが非常に得意であった彼女は、北欧カフェを開く、という大志を抱いて日本へ帰国した。

しかし、日本に戻って周りを見回したら、彼女が理想に描いていたようなカフェは既に、いたるところに存在していた。

彼女がレストラン・カフェ業界をあとにしたのはその直後であった。


二人目は、結婚はしていなかったが、ボーイフレンドに誘われてこの国へ移住した。

彼女にとってもレストランにおけるアルバイトは一時的なものであり、リクルートフェア等には積極に出掛け、フルタイムのデスクワークを求めていた。

ボーイフレンドと別れてから彼女の採った航路はまわりを驚嘆させた。

日本人形のように華奢で儚く可憐に見えた彼女は、国際支援団体に連結してアフリカへ赴いた。

以前は激しい内戦が繰り広げられていた国であった。

その国に数年ほど滞在したあと、博士号を取得するために英国に渡った。


そして、この私は、この二人がこの国を去ったあと、何年間も残り続け、一介のサラリーマンとなった。

同じ時期に、長短に拘わらず、同じレストランで働いた私達は、それぞれみな各々の航路へと旅立って行った。

今でも時々、そのレストランの前を通ることがある。

当時の経営者からは既に何代も替わって来ているのであろう。

しかし、その前を通ると、こちらに移住した頃のことを、甘さと苦さが交錯したような心情とともに想起する。

当時は、レストランにおけるアルバイトからの先、私にとってどのような未来が拡がっているのか想像もし得なかった。

サラリーマンという身分が私の終着港であるかはまだわからない。

しかしある程度の経済的安定は獲得することが出来た。

 

奇妙なことであるが、最近になってレストラン経営に携わってみたい、などと考えることがある。

腰掛けであったはずのレストラン業における業務が、憧れとさえ感じられる境地になって来た。

人間の価値観とは変化してゆくものである。


海外生活を腰掛の仕事にて始めた同胞たち、もし彼女たちが未だに中途の駅で足踏みしているのであれば、伝えたい言葉がある。

 

目的は最後まで見失わないでね、と。

完璧な保険屋さんの掌(てのひら)にて

2.5.2022

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完璧な保険屋さんの掌(てのひら)にて

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昨年までの十年間は、病気欠勤したことは皆無であった。
健康上において警戒すべきものは、パンデミックのみだと思っていた。

 

昨年の年始は仕事に忙殺されていた。
毎晩22時まで机に座ってコードと、睨み合っていた。

それは週末も同様であった。
私は同僚と比較してまだ若く健康である、との自負が私にさらなる無理を強いていた。

朝日の美しいある春の朝、ついに倒れた。
そして、倒れたら、どのようなことが起こったのか。
私が加入している健康保険の会社が連絡をして来たのだ。
それ以降、私のカレンダーはアポでギッシリと詰まった。

アポというのはそれはデート等の華やかなものではない。
筋肉の引き締まった男性に会っていたことは会っていたのであるが 特に心浮き立つ出会いというわけでもない。


すなわち、月曜日のアポは、筋肉の引き締まった男性の理学療法士の施術。
その方はそろそろ年金退職をされる年齢であっただろうか。
そのような職業に就いていらっしゃるかたは、いろいろな患者と話をしているため、話題も豊富で楽しかった。
その男性が、私が痛めた肩甲骨をほぐそうとしている間は落ち着ける一時であった。

火曜日のアポは、他の理学療法士とのビデオ対話。
彼女は、開口一番、このように尋問する。

「前回、一緒にトレーニングした呼吸法、もちろん、何回も練習したでしょう?」

「当然です」、とは返答できなかった。
まったく練習していない、それどころか、すっかり失念していた。
さらに、私はその理学療法士の名前さえ憶えていなかった。
「それでは反復しますよ」、と彼女が始めたのは呼吸法であった。
「はい、それではベッドに横になって、ゆっくりと息を吐いて。温かい熱が下から上って来る感覚がわかるでしょう?」、と画面の向こうで指示している彼女の声が徐々に遠のいてゆく。
そのまま熟睡してしまった。

水曜日のアポは、自宅の就業環境スペシャリストとのビデオ対話。
ビデオ電話にて、室内を見せなければいけないため、大掃除をしなければいけなかった。
とりあえず見えるところだけ掃除をして、スペシャリストとの会話に臨む。
彼女はひとしきり私の部屋の就業環境を点検すると、チェックリストを作っていた。

- 高さの調節できる机。

- 27インチのコンピューターモニター。

- エルゴノミックなキーボード。

- エルゴノミックな椅子。

「勧めて下さった伸縮自在の机に関してですが、私の小さい部屋には80センチx120センチの机を置く場所はないです」
「それじゃあ、他のタイプを探してみてね。最近は倒産している企業も多いから、そのようなところから机を購入するという可能性もあるわよ」
「それはどうやって探すんですか?大体、オフィスの机ならば80センチx120センチよりもさらに大きいのではないですか?」
「オフィスが多い地区で検索してみて。そうね、かなり大きいかもしれないわね」

木曜日のアポは、私の就業中の姿勢を点検するスペシャリストとのビデオ対話。
「家の中にクッションか何かあるかしら?」
私は居間からクッションを二枚持ってくる。
「それをお尻の下に敷いてみて。それで腕の高さとキーボードの高さのバランスがとれるかしら、椅子をもっと前に引いてみてくれる?」
「椅子の脚が机にぶつかるので無理です」
「それではクッションをもう一枚持って来て背中に当ててくれる?」
指示の通り、クッションを背中とお尻の下に置いて数時間PCで作業をして立ち上がった時、しばらく極度の腰痛に苦しんだ。

 

木曜日のアポは、針鍼灸専門の理学療法士を訪問。
この方とは数回お会いしたが、毎回健康面に関する雑談に終わり、結局、針鍼灸の施術は一度も行われなかった。

金曜日のアポは、他の鍼専門の理学療法士との対面であった。
その診療所はかなり遠方であったため、訪問するためにほぼ半日掛かったため、結局こちらからお断りさせて頂いた。
そもそも何故、二人の異なる鍼灸専門師にアポが入れられていたのかも疑問であった。

その女性は開口一番、このように訊ねた。

「ようこそ、ところで貴方はどなたの紹介でいらしたの?」

私は、「わかりません」と返答するしかなかった。

医者あるいは理学療法士への招待状は、機関によっては郵便ポストにて送られる。
ある時はメール、ある時は携帯電話のアプリ、またある時は携帯メッセージ、ついにはどこの紹介であるかもわからなくなっていた。
健康保険の中にも管轄しているところが何種類かあり、そのうえ、ホームドクターからも招待状が送られていたようで、これらを私がすべて管理するための秘書が必要なほどであった。

 


理学療法士の方々が私に課していたことは多かった。

「先週、教えた呼吸法、覚えているわね?」

「PCスクリーンの位置を変更するように言ったでしょう?」

「伸縮自在な机、まだ会社に購入してもらっていないの?」

「PCで作業している時は20分ごとに20メートル先にあるものを20秒見るようにしてる?」

「このストレッチ運動を一回、20分づつやってるかい?」

エトセトラ・エトセトラ・エトセトラ

 

そもそも、これらの指示をすべて行使していたら、働く時間はどのように確保するのであろうか。

然り、昼間は働く時間が確保出来なかったため、私は自ずと夜間に働く羽目になっていた。


さらに、これほど毎日予定が入っていると、どのような弊害があるのであろうか?

ダブル・ブッキングである。

一度、理学療法士のところを訪問している時に、他の理学療法士が、「さあ、セッションの時間ですよ」とビデオ電話をして来た。
その時になって初めて、ダブル・ブッキングになってしまったことに気が付いた。
ビデオ電話で予約をしたほうにはひたすら謝罪をする羽目になった。

また、あまりに予約が多く、一度、訪問の予定を完全に失念していたことがある。
こちらでは、予約時間の24時間前に連絡をせずに姿を現さなかった場合は、5千円相当の罰金が課される。
不本意の出費であった。
過度のストレスのため倒れ、健康保険に助けを請いた結果、結局、ストレスレベルがさらにエスカレートしたという羽目になった。
本末転倒である。
通常に生きてゆくために、就業するために、これほどの設備を整え、食生活を改善し、就業する態勢を改善し、トレーニングをしなければならないのであろうか。

数か月、このフルブッキングの生活を継続したが、リハビリトレーニングはほとんど行使することなく、呼吸法に関しても何も覚えてはいない。
何度も催促された新しい机も購入していない、私の部屋に合うものが見つからなかった。

それでは、果たして、この数か月の対話の時間は無駄であったのであろうか?

パンデミック期間には、パンデミック患者のみにあらず、普段とは異なる生活習慣に起因して体調を崩す人は後を絶たず、それも医療財政を圧迫している、と聞く。
そのような切羽詰まった時勢に、私たった一人のために、十名近くの医療従事者が数か月間も真摯に向き合ってくれていた。
結果はどうであれ、これほど至れり尽くせりの健康保険を提供して下さったことには感嘆しかない。

 


決して模範的な患者ではなかったが、あれほど多くの方々と対話をしたことは決して無駄ではなかったのであろう。
私の生活習慣は昨年の今頃と比較すると多少は改善されている。
何よりも食生活はかなり変化した。
以前は、鳥の餌のような穀物を主食としていた人たちを横目で眺めていたけれど、現在は、その鳥の餌を食している自分が居る。

しかし、何よりも今は、以前のように健康を過信することは止めた。
如何に若くとも、病歴がなくとも、無理を長期間続けているとやがて身体が悲鳴を上げる。
そして一度失われた健康はもとに戻せるとは限らない、ということを若い方々にも再認識して頂きたい。

とにかく今の私は、当分は保険屋さんのお世話になることのないように心掛けている。

早めに就寝するはずだったあの晩

12.5.2021

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

早めに就寝するはずだったあの晩

ALEX HENRY FOSTER.jpg

ある週のこと、体調はすこぶる優れず、仕事もあまり捗らず、せめて日曜日の夜は早めに就寝しようと決心していた。


夕方、前触れもなく、携帯メッセージが鳴った。

「今晩、このコンサートに一緒に行かない?ゲストのチケット(枠)があるんで」

誘いのメッセージは、暫くご無沙汰になっていたミュージシャンの友人からのものであった。

 

ゲストチケットは「ただよー」、ということなのでお礼に花でも持っていくべきかと訊いたら、

「花なんかいらんしー(爆笑絵文字)、なんもいらんよ」、と返答された。

コンサートあるいはギグに関する私の理解はこの程度であった。

 

早めに就寝するはずであった決心は一瞬のうちに覆された。

私はベッドから飛び起き、青白かった顔にベタベタと色を付け始めた。

なかなか会う機会がなく残念だと思っていた友人から、ようやく連絡を頂いた。

断わってしまったら、いつ再会出来るかわからない。

 

久々に拝んだ彼女の表情は明るかった。

彼女自身もミュージシャンなのであるが、外国で女手一人で音楽で身を立てるのはそうそう容易な事ではない。

頻繁に会っていた頃の彼女の表情には、どことなく陰があるように感じられていた。

   

前回、彼女にコンサートに誘われた時は、教会のチャリティーコンサートであった。

ふと気が付いたら、私達は、大きなIKEAの袋に全財産を持ち歩くホームレスの人たちに囲まれて座っていた。

そのコンサートはホームレスの人たちを救済するためのチャリティーコンサートであった。

 

彼女は、いつも前触れなしに、私を非日常に巻き込んでくれていた。

 

その晩のコンサートは、カナダ人のアレックス・ヘンリー・フォスター氏の率いるバンドのコンサートであった。

彼女は彼と、ミュージシャン同士のメディアで知り合ったらしい。

 

指定席などがあるコンサートホールだと思いこんでいたので、多少ドレスアップして出掛けた。

会場に入って驚いた。

立ち見であった。
前回訪れたコンサートはFrank Zappa氏の息子、Dweezil Zappa氏のコンサートであり、その時には指定席があった、会場も観客の数も大規模であったが。

本来なら父親の方のコンサートにも行きたかったのだが、生まれてくる時代を間違えた。


コンサートは盛り上がっていた。

周りを見回したら、誰もかしこも頷くように、リズムに沿って首を前後に振っている。

老若男女が混じり合っていた。

私もそのように陶酔してみたらストレス発散にもなるかと考えたが、始めて聞いた音楽なのでそれほど感情移入も出来ず、しかも片頭痛も残っており、頭を振ったらあまりよろしくないので、もっぱら振り振りの観客を見て楽しむ側にまわった。

 

私達は、昭和後期の平均的日本人女性の身長であるが、長身スウェーデン人男性達の後ろに立ったら何も見えなくなってしまうので一番前のスピーカーの横に立っていた。

そのうち、あることが心配になった。

ここに数時間立って居たら聴覚に支障をきたすのではないか?

音量が尋常ではない。

しかし、心臓に響くような音響に囲まれるのがコンサートの醍醐味なのであろう、と自分を納得させようと思っていたが、ふと周りを見てみたら、半数以上の人は耳栓を使用していた。

コンサートを聴きに来て耳栓とはどのようなモラルなのだ、と疑問したが、コンサートやギグで耳栓を使用することはかなり常識らしいことを後から知った。

そのことを知らなかったため、しばらく耳栓無しで堪えていたが、そのうちかなりつらくなってきた。

すると友人がティッシュペーパーを一枚くれた。

丸めて耳に詰めろと言う。

勉強嫌い、音楽一本、というタイプの彼女と、ガリ勉タイプで特技も無い私では、共通の話題は、ほぼ皆無である。しかし、私達の付き合いは長い。

彼女は器用なので、化粧品も髪の染粉等も全て自分で作っている。

彼女の食事は全てエコロジー食で、甘い物が苦手な私の為に甘くない自然食お菓子などを作ってくれたこともある。

話し方に抑揚がなく、傍からは無感情にも思えるのであるが、思いやりとはつねに外見に現れるとは限らない。

「この音楽、なんていうジャンル?デスメタル?」

「よくわからん、違うと思う」

 

あとからチラシを見たら下のように書いてあった。

For Fans of

Post-Rock, Progressive, Nu Gaze, Psych

Nick Cave、 Radiohead、 Sonic Youth、Mogwai、Swans、 Godspeed You! 、Black Emperor、 King Crimson

 

それではPost-Rockとは何かとネットで検索したら

「説明するのが面倒くさいジャンルの音楽」

のような説明を見つけた。

何回か聴いてみたら好きになれるかもしれない。

興味のあるかたはAlex Henry Fosterで検索すれば動画が数点見つかる。

その晩は前座であった彼は、コンサートを終えたあと、私達のところに両腕を広げてやってきた。

ラーメンのように縮れた髪と顔面からは汗が滴り落ちていた。

「We met finally! Nice to see you!」、と友人にハグをした。

その後、友人だと紹介された私にまでついでにハグをくれたので、私の頬までびっしょりに濡れた。

 

次のコンサートも終わりに近づき、ぼちぼち帰って寝るか、と思っていた時のことである。

アレックスが、再び私達のところに来て、私達は休憩室のようなところに通され、バンドのメンバー全員に紹介された。

「Are you a musician as well?」、とバンドのメンバーに質問されたため、

「Well, I write code」、と返答した。

コードはコードでもプログラミングだが嘘ではない。
バンドのメンバーには日本語が流暢に話せる人もいたので、アレックスに日本が好きなのかと訊ねると、

「Oh, it's a long story」、とアレックスはサイン会もそっちのけで語り始めた。

彼の警告に違わず、彼の話は本当に長い話であったのでここでは割愛させて頂く。

彼らは、かなりの親日家で、東北大地震の三週間あとには慰問のために三陸海岸を訪れたこともあるらしい。

被災地の人達にはクリスマスカードを送ったりもしていると聞く。

 「アレックスちゃん、本当にいい子やね、スウェーデンにもあんな子おらんかな」

と友人も感動していた。

彼の年齢はかなり不詳であったので「子」、という表現が妥当であるかどうかは疑問であるが。

この日はなんとも奇妙な一日になった。

朝起きた時は、このような展開は全く想定外であった。

ご無沙汰になっていた彼女と再会出来たことも有意義であったが、世界中をツアーで周っているミュージシャンと知り合い、旧知の友のように扱ってもらった。

友人に、私を何故、誘ってくれたのかと訊ねた。

 「貴方はフットワーク軽いから。

日曜日の夜に、前触れなくコンサート行こうって誘ってみても、大抵は誰も来ないって」

 

私は非常に出不精なもので、フットワークが軽いなどとは、かつて自覚したことも言われたこともないが、誘われたイベントには、先約がない限り、断らないようにしている。

そこでどのような素晴らしい人に会えるのか、未知の世界に遭遇できるかわからない。

あるいは運命を変えるような経験をするかもしれない。

人生というものは、明日、あるいは今晩、どのような出来事が待ち受けているか全く予想できないものであるから継続する意義がある。

一夜にして大富豪になった友人のその後

11.5.2021

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バルト海をヒールで闊歩して

一夜にして大富豪になった友人のその後

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ストックホルムが脆弱な太陽の日差しに包まれたある冬の昼さがり、ストックホルム郊外の森にある小さな木造の教会で知人の葬儀が行われた。

故人は、誠実な夫として、子供達の良き父として、信頼される上司として愛され、静かに逝った。

 
葬儀が終わって最前列の席から教会の外に出ようとした時、後方列の席から腕を強く掴まれた。

予期していなかったことなので驚いて掴んだ腕の主を振り返った。

 

その手の主は、古くからの友人トムであった。

「一体どうしたの?」

泣き腫らしたであろう彼の涙袋は赤みを帯びており、顔には血の気がなかった。
髪はかなり薄くなっており、肌は荒れていた。

彼は切羽詰まった様子でこう言った。

「いつか、僕の話を聞いてくれないか?」

 

トムは15年前ほどにIT企業を設立したのだが、その会社が大手のIT企業に買収され、文字通り、一夜にして大富豪になった友人であった。
私よりも年齢はかなり上であったが、彼の、誰とでも対等に話をする態度が心地よかった。

彼の妻、リサの姿は見えなかった。

「リサは?」

トムは返答する代わりに首を振った。

私は聞き返す代わりに、彼女は病気なのであろうと勝手に解釈した。

彼女が「病気」がちになったのは、彼らが大富豪になってから間もなくのことであると記憶している。

 


大富豪になって間もなく彼らは、親戚一同と私達友人を保養地のホテルに招待して感謝の意を示した。
実に百人以上の招待客であった。


そして二回目の大イベントは、トムがリサの40歳を祝った時であった。

その際にも、百人以上の招待客、仔馬のポニーとそれを引く人、バーテンダーを雇い入れ、大型トランポリンまで借り入れ、大掛かりな誕生会を催した。

ブルーネットでショートヘアの愛くるしい女性リサはなんと幸せな女性だろうと感じた。


「今日の主役登場です!」

と、トムが発表した。

そこでリサが普段着風のワンピースで登場した。

舞台にはブルーネットでショートヘアの愛くるしい女性が立っていた、はずであった。

「あら?」、何か違和感が感じられた。

彼女は相変わらず愛らしかった。

しかし、彼女の顔には憔悴が現れていた。
そしてワンピースの上からは彼女の肋骨が浮き彫りにされていた。

 

その後しばらくして、再びトムに遭った。

リサが最近、滅多に家に居ないため、子供二人の家族生活が尋常に回らないと言う。

非常に裕福な家庭である。

必要があれば家事手伝いをしてくれる人を雇用する経済的余裕もあるはずである。

しかし、トムの意図していたところは、夫と子供達に愛情を注ぐ母としてのリサの存在と役割のことであると理解した。

リサは、一か月間のうち二週間は、地方都市で開催される自己啓発セミナーに出掛けており、そこで合宿をしていたそうだ。

トムの表情は暗かった。


トムもリサも二十歳前後の時に、場所と状況は異なるが、不慮の事故で、非常に大切な人達を亡くしている。
そのためかどうかはわからないが、二人からは底抜けに明るい、という印象は受けられなかった。

失われた命はお金には引き換えられない。

しかし、彼らが大富豪になった時、その喜びで、せめて僅かでも悲しみが軽減されることがあれば良い、と正直なところ望んでいた。

 


リサは長く勤めていた金融関係の企業を去り、かわりに大学で理系プログラムを履修し始めた。

スウェーデンにおいては、40歳を過ぎてから大学に入ると言うことはさほど珍しい事ではないため、私は、特にその理由も気には留めていなかった。

一度、彼女の大学の近くで偶然、出遭った。

彼女は大学のプログラムの履修テンポを落とすと言う。

何故か、と訊ねると、彼女は眉をしかめて神経質そうにこう答えた。

「私の複雑な状況では通常のテンポで履修していくことは難しいから」

 

私の複雑な状況?

私はその一言が不可解で仕方がなかった。


彼女は、私の知っている限りは健康であり、優しくて真面目な夫の庇護を一途に受けている。
二人の可愛い子供も衆知の限りでは素直に育っている。

子供の送迎が大変というのであれば送迎をしてくれる人を雇用する経済的余裕もある。働く必要もない。

「私の複雑な状況」の解答を得ることもなくあれから数年間が経ってしまった。

現在はなおさら訊ねることが出来ない。


「そんなに全てを持っている貴方に一体なんの不満があるというの?」

と疑問してしまうのが人間かもしれないが、傍から見て幸せに思えることと実際に幸せである、ということが比例しない場合は往々にしてある。

   

私はトムとリサが若くてまだ貧乏だったころを思い出した。

彼らはボロボロの汗臭い服を着て、履きくたびれたスニーカーを引きずりながら大きく小汚いバックパックを担ぎ、横浜のアパートに住んでいた私を、日本に訪ねに来た。

貧乏くさかったが二人の仲は睦まじかった。

リサはベランダに出て煙草を吸っていた。

「リサには煙草は出来れば止めて欲しいな」、とトムは心中をそっと吐露した。

しかし、自己啓発セミナーに関しては「止めて欲しい」、とは言えない事情があったのであろう。


さて、その自己啓発セミナーというは非常に高額なものらしい。

もし、彼らが裕福になっていなかったら、セミナーに参加する経済的余裕がなかったのであれば、状況はどうなっていたのであろうか。

そのようなセミナーに参加する代わりに、トムと、あるいは家族で温かく手を取り合って、リサの心の拠り所になることが出来たのであろうか。

  

「僕の話を聞いてくれないか」と教会で腕を掴まれてからしばらくトムからは連絡が無かった。

話というのはおそらくリサのことであると思う。
女の私の方がリサの心情がわかると考えたのかもしれない。

深い知り合いでないほうが話を打ち明けやすい、という心情も何となくわかる。
機内で隣に座り合わせた赤の他人に、知人には打ち明けたこともない話をしてしまうことがある、そのような心情であろうか。

リサの心情なら実は私の方が知りたいほどであるが。

葬儀のあとトムから連絡がなかったのは、おそらくその直後にパンデミック予防のための規制が出たためであろう。


在宅勤務が奨励されていた期間、トムとリサはおそらく子供達と一緒に家族で団欒する時間が増えたのではないかと思った。

家族で過ごす時間が増えたことにより、トムが相談しようとしていたことがおのずと解決していれば良い、と期待をしていた。 


しかし、

「葬儀の時以来だけど、時間あるかな」

ついにトムから連絡があった。

やはり、問題はおそらくまだ解決していないのであろう。
私は重い腰をあげてトムの話を聞きに行くことにした。

私には本当に話を「聞くこと」しか出来ないが。


世の中にはお金では解決出来ないことが多くある。

あたかも古き良き時代の如く

10.5.2021

DAYS /  Maya Column

バルト海をヒールで闊歩して

あたかも古き良き時代の如く

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朝の光の眩しい日のことであった。
所用があったため、珍しく7時30分前にマンションの外の世界へ出た。

階段を使って一階に降りた時、ちょうどエレベーターから出て来た若い青年と衝突しそうになった。
彼は、短く謝罪の言葉を投げるとマンションの扉から走り出て、道路の反対側に走り向かった。
その彼の姿を遮るかのように、赤色の市バスが私の視界を右から左へ瞬く間に移動した。

青年はバスに乗り遅れそうだったため走っていたのだ。
見覚えのない青年であった。

そのまま通りを歩いていたら、トレンチコートを一糸乱れなく着こなした若い女性が、黒いアタッシュケースを抱え、ハイヒールにて颯爽と闊歩して来る。
この女性もまた通勤途中なのであろう。

途中で、大通りから脇道に入り暫く歩いてゆくと、右手の建物内に人の気配を感じた。
中を覗いてみたら、調理師の白い服を来た若者達が、何人かのグループに分かれて調理台の上にある野菜および肉を切っていた。

その隣の教室では大勢の生徒たちが長テーブルに肩を並べて講義に耳を傾けていた。
大きな講堂というわけではなく、二十名の座椅子を辛うじて擁している程度のセミナー室であった。

その後も歩き続けているとスーツ姿の男女と時々すれ違う。

 

私は湧き上がってくる違和感で叫びだしたくなる衝動を抑えるのに苦労した。

これは、まったく特記する価値もない超日常である。

何故、これがこれほどまでの違和感を呼び起こすのであろうか?

何故なら、これは2021年の日常ではなく、2019年の日常と変わりばえのないものであったからである。

仮に、これが2019年であったのであれば、窓から物珍しそうに中を覗き込むこともなく、無関心に通り過ぎていた光景なのである。

果たして、2020年は一体どこに行ったのであろうか、2021年の春は?

あたかもこの二年間、何事も起きなかったかの如く、往来の人々は自然体で、普段通り、すなわち、パンデミックが勃発するまえの様子で人生を継続している。

 

先週、全く思いがけず、「Welcome back!」で始まる社内メールを受け取った。
すなわち、10月の始めからは、オフィスに戻ってくるように、との勧告メールである。

ついに勧告が出た。ということは、待ちに待ったパンデミックの終焉なのであろうか。

しかし、果たして、同僚達は、あるいは他社の従業員達は、オフィスに戻ることを望んで居るのであろうか。

この点に関しては、2020年には数回アンケートを取った。
その時点では、戻りたい人、引き続き自宅から勤務を継続したい人が半数づつであったと記憶する。
戻りたい、という人の理由は主に、人恋しい、実際に会って話したほうが効率的である、家には小さい子供がいるため集中しにくい等であった。

私の場合、2020年の初夏は自宅から勤務をしていたが、秋に一旦オフィスに戻った。
そして冬に突入する前に再び自宅勤務に戻った。
その次の週に、隣の席にて勤務をしていた同僚がパンデミックに罹患した。
すなわち私は自宅勤務に戻るタイミングが一週間早かったため、パンデミックに罹患する危険を回避できたわけだ。

 

2021年の現在、アンケートを取ってみる。

「貴方はオフィスに戻りたいですか?」

大多数の回答は「否」、である。

自宅で勤務するための基盤が出来てしまったからである。
ペットを飼うことにした同僚達も居る。
オフィスに戻ってしまえばペットの世話が難しくなる。

果たして、私の場合はどうであろうか。

自宅勤務になってからは、夜遅く就寝して、朝遅く起きるというパターンが定着しつつある。
カチリとしたスーツに身を包んでいて、時間に追われていたころと比較すると随分楽である。

しかし、私はオフィスのあるインテリジェンスビルの中でスーツに身を包んだ社員たちが、上下左右に颯爽と移動していた頃の活気が好きであった。
それが、私の夢見ていた海外就職の光景でもあった。
いずれはその世界に戻ることになるのであろう、と漠然と信じていた。
2019年の末に買い込んだ就業用の服の中には袖さえ通していない服も何着かある。

 

私は避難誘導班というものに組み込まれている。

スウェーデンには一般的に地震はないが、火事が発生した場合、オフィスにいる人員を速やかに避難させる誘導員である。

私たち避難誘導員にとっての最大の課題は何であろうか?

緊急時が勃発した場合、身体が不自由な同僚達をどのように安全に非難させるか、ということである。
身体が不自由な人達は通常の場合よりも危険に晒される可能性が高い。

何かしらの不自由を抱えている人にとっては、緊急時の避難のみに限らず、エレベーターの昇降を繰り返して遠方から地下鉄にて通勤する、という行為自体はかなり労力と精神的負担を要することのはずである。

もしも彼らがそれを望むのであれば、彼らには出来るだけ自宅勤務を継続出来る機会を提供してもよいはずである。
私達は、一年以上、自宅からの勤務を継続し、多少不便はあっても、それが可能であることを証明したのであるから。

勤務場所に関しては、合理的に鑑みてみたらこのような方程式になるのではないか。

オフィスで勤務した方が、業務達成率が高く、社会的欲求が満たされ、健康面においても良好な場合はオフィスに戻れば良い。

その逆の場合は自宅勤務を続けていれば良い。
米国の一部では自宅勤務を推奨するところもあると聞く。

 

この日の朝、眩しい朝日の中、暫く歩いてみたが、往来の光景は相変わらず2019年であった。
スーツ姿にて足早に歩く人々、グループになって連れ立つ金髪の学生達、大勢の群れになって先生に引きつられてゆく児童達。

もしかしたら、本当にもしかしたら、あたかも何事も起こらなかったの如く、昔のような日々が戻って来るかもしれない。

 

そのような期待を抱きながら横断歩道に差し掛かった。

一人の女性が、近くの男性に近付いてゆく様子に関心が向いた。

「すみません、ICAスーパーマーケットにはここからどのように行けばよいのでしょう?」

道順を尋ねられた男性は、返答をするまえに、さりげなく一メートル半ほど後ずさりした様子が私には見えた。

そうなのだ。
「Welcome back!」とオフィスへ戻る勧告を促されても、一夜にして古き良き時代に戻れるわけではない。
過渡期にはいろいろと解決してゆくべき課題が多く挙がってくるはずである。

一人の上司の言葉が脳裏に浮かんだ。

「2020年の春、オフィスから自宅勤務へとなった過渡期には、慣れるのに時間が掛ったでしょう。今度は自宅からオフィス、過渡期にはいろいろと大変なことがあると思うの。でもいずれは慣れるはずよ、私たち人類は何百年も新しい環境に順応し続けて来たのだから」

幾度幾度も歩いた道

8.2.2021

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幾度幾度も歩いた道

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夕陽の照り返しを受けて輝く湖を左手に、家路に就く。

普段よりも緩慢に歩いてゆくと、左右から通行人に追い抜かされる。

長身の人間の多い国である。

歩幅も広い。

決して盗聴をするわけではないが、狭い通路なので彼らの会話の一片は自ずと聞こえてくる。

「テストどうだった?」

「まあまあだったよ。それにしてもこの辺のアパートに住めたら最高だな」

「そうだな。毎晩、テラスに座ってこの景観を眺められるのは贅沢だな」

私の背後でその会話をしていた青年たちは、そう言いながら私を通り越して行った。

そのうちの一人はズボンを非常に低くまで下ろしていた、おそらく若い学生達であろう。

その直後、電話をしながら私の横を通り過ぎて行った女性がいた。

「私のプレゼンが長引いちゃってまたストップが掛けられちゃった。プレゼン制限時間の方が短すぎるのよね」

この女性は自分と携帯電話の世界に完全に入り込んでいる。

彼女にとって外の世界は存在しない。

どの会話も学校、住宅、仕事、すなわち生活一般に関する、たわいのない話題であった。

 

しかし違和感があった。

何故か?

昨年の今時分、頻繁に耳にした会話はこれであった「こんな生活にはもう堪えられない。パンデミックが早く終息して欲しい」。

すなわち絶望的な心情であった。それが今年に入ってからはあまり聞かれない。

人間とは慣れる動物であるからなのか、諦めたのか、絶望感を口に出すとさらに落ちて行くと感じているのか、もうすぐ終息すると信じているのか、あるいは、そのようなことを口にしたところで不毛であると感じているためか。

しかし、

一番打たれ強いと思っていた友人がついに、一昨日、弱音を吐露した。

「同じ道を毎日毎日歩くのもいい加減飽きたよ」

その友人も、私同様、昨年の三月から、地下鉄、バス等の公共機関は一切利用していない。従って行動範囲はかなり狭くなっている。

私の住んでいるところは島であるため、東西南北どちらへ歩いても美しい海と湖が臨める。この一年間、この東西南北への散歩を繰り返してきた。どの道を選んでも、春夏秋冬、それぞれの色彩を惜しみなく披露してくれている。

春、夏、秋はサイクリングをすることも可能であるため、隣の島までも足を延ばせる。さらに、雨雪が降っていない時は、隣の隣の島あたりまでサイクリングで足を延ばすことも可能である。

それでも多少飽きが来ていることは私にも否めない。

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パンデミックが蔓延し始める直前に新しい趣味を得た。

動画作りである。

それまでは美しい景観に遭遇しても携帯電話のカメラで気軽に撮り、ある程度満足をしていた。

それらは楽しむための画像ではなく、何時何処で何をしたかを思い出すための記録動画であった。

スウェーデンの冬は長い。

そして各家庭の窓際を飾る光の饗宴は眩く美しい。

湖の対岸の水面に映るマンションの灯りは非常に幻想的である。

しかし、私の所持していた携帯電話のカメラでは、私の視界に入るものをそのまま再現することは不可能であった。カメラを購入することにした一番の理由は、すなわち夜景が撮りたかったことである。

しかし、この決断がこの翌年を襲うことになる苦悩を緩和してくれることになるとは、購入した時点では想像だに出来なかった。

 

カメラを購入すると三脚が欲しくなる。

三脚を購入すると、さらに大きい三脚が欲しくなる。

動画を撮るときのジンバルが欲しくなる。

ジンバルを購入すると、ジンバル内臓のビデオカメラも欲しくなる…

編集ソフトを購入すると、という調子で機材と写真と動画の数は急速に増えて行く。

そのわりには撮影技能はまったく進歩していないが