


中村桃子
フリーライター/構成作家
大阪在住
関西大学社会学部マスコミ学専攻卒
学生劇団「学園座」演出・役者OG
喜劇作家・檀上茂氏に師事
「大阪シナリオ学校 演芸台本科」卒
ラジオ番組ADから大阪の制作会社勤務を経てフリーのライターとして活動
ストリップ劇場と旅芝居の芝居小屋と酒場に通い、とある書籍化に向けた原稿企画2本に取り組む日々。
ウェブマガジン「tabistory」にて酒場の話と誰かにとってのHomeの話、2種類を連載中。note「桃花舞台」も(ほぼ)1日1note、1日1エッセイ更新中。
東京・湯島の「Bookstore & Gallery 出発点」で5月から2箱「本屋・桃花舞台」をスタート。
SNS以外に、SNSを超えての〝繋がりの場所〟を、と、おすすめ本と、フリーペーパー、置いています。
過去の仕事など詳しいプロフィールは
https://momohanabutai1122.seesaa.net/article/202011article_1.html








4.12.2025
DAYS / Momoko Nakamura Column
Fly Me to the Moon
花の顔

この号が出ている頃、全国の桜はどのような状態なんだろう。
時に寒さが戻ったりもするが、あたたかすぎる日が続いている。
今年は例年より5日ほど開花が早かったとも言うし、
種類や地域にもよるが、散ったり、葉桜のところもあるのかもしれない。
先日思いたって名刺をあたらしいデザインのものにした。
花びらをすこし散らしてみた。
春だから? 西行? 大杉栄?
ずっと屋号のように使っているフレーズ「桃花舞台」を意識したのはあるかも。
本名がありきたりというか同姓同名の人も結構居るため、
この屋号? ハンドルネーム? いまだに何か自分でもわかっていないものを、
使い出したという話はvol.33 PEOPLEの際にも書かせていただいた。
書くことを志しインターネット上のBlogを始めた際になんとなく付けた名だ。
あまり深い気持ちではなく、思い付きで。
とは云え、だから、不思議なもんやなおもろいな、と笑ったりもする。

「人間って、花やねん」
いつも思うし、言うし、書きがちなこのことは、
それこそ古今東西のありとあらゆる文化人や風流人たちが感じ、口にしてきたこと。
今更わたしがどや顔で言うことでもなんでもない。
でもね、旅芝居・大衆演劇の芝居小屋やストリップ劇場、人間だらけ人間まみれの、
熱や力やにおいまで伝わってくる舞台と模様のそれらを長年見、追っていると、
やはり思う。思わされる。歳を重ねるにつれより一層だ。
咲いて散る桜、尊厳の象徴のようなバラ、
それらを含む、日々あちこちに咲くいろんないろんなすぎる花たちみたい、なんて。

「舞台は人間で、人間は花で、皆、花。皆、きれい。
きれいじゃないことやものもあるけど、でも、きれいじゃないから(も含め)皆きれい」
というようなことを書いたら、言葉を続けてくれた人が居る。
「かたちは綺麗じゃないけどパッと咲きたいねん。
皆一生懸命生きててそれを咲かせる舞台が欲しいねん。
それをさがして一生懸命生きてんねん」
本名も知らない劇場仲間のおっちゃんだ。
劇場通い歴40年ほどになるらしいそのひとは、
ほんとうは、というか、素の顔は超人見知りで、
インテリ、つまり、めっちゃカシコ(高学歴)で、
会社では実はめっちゃ〝偉いさん〟で、家ではパパでじいちゃん。
でも、そんな風には見せない。見せない? 見せていない。
陽気でアホなおっちゃんだと思われている、思わせている?

わたしも言葉を続けた。
「みんな主役やねん。ここでは」
「諦めたやつ、諦めかけたやつ、希望をもってさがしてるやつ、それぞれ咲く花や。
舞台で咲かせた華、勇気をもろてんねん」
ああ、やっぱり劇場は、芝居小屋は、ええな、ええよなあ。
同じく劇場で知り合った粋人のにいちゃんもこんなことを言っていた。
「劇場へはね、肩書は置いてくるもんなんですよ。皆、等しくアホなんです」
ほんま、ほんまやで。
舞台の上の顔。客席のたくさんの顔。
皆が笑っていたり、いい表情(かお)をしていると、グッとくる。
瞬間と空気と、熱と力、言葉ではない気持ちのやりとりみたいなもの。
その中の一部に自分も居るということも、いや、いうことも、感覚で感じる。
「ああ、にんげんって(ややこしいけれど)いいな」
そんな中で、ふと、いや、こうも思う。
人は一体幾つ顔を持っているんだろう、って。
「ひとつや!」というツッコミは勘弁していただくとして。

今ここで見せている顔。
例えば職場や家での顔。
同じかもしれないし、違うかもしれない。
場所や環境だけじゃない。
例えば同じ今でも、
誰かがあなたに見せている顔とわたしに見せている顔は、違うかもしれない。
幾つなんやろ。
それも年齢や人生経験によっても変わりもするのかな。
1個のままのひともおるんかな。
顔。お面。マスク。
「人にはそれぞれ役や係があるねん」
というようなことを中島らもだった。
映画化もされたプロレスをモチーフにした小説で、
悪役レスラーをやっているお父ちゃんが息子に言うセリフ。
日々は仮面舞踏会で、この世は覆面レスラーたちの試合かな。
旅芝居の舞踊ショーにもお面を使う舞踊は結構ある。
私的には「面をとっかえひっかえするだけの時間」などとつい思ってしまうのだが、
客席からは「わぁ」と歓声が上がることも多い。
能面の般若は勿論、翁の面など使う者も居て、意味深。
変面ショーというのは中国四川省の伝統芸能だ。
というか、面の前に、そもそも、化粧がある訳で。
化粧もまた「もうひとつの顔」。
我々一般の者もするが、芝居小屋のそれはこってりとした白塗りなどで、印象深い。
元々は明るくない芝居小屋で少しの光でも見えやすいように白く塗って
そこに隈取などで立体感を出した、という説を読んだことがある。
前衛舞踊でも白塗りはあり、こちらは「見る・見られる」者として、
自意識などの個性、つまり「我」を隠すための様式美として、という説も読んだ。

お面(マスク)と顔。化粧顔と顔。
人と人は近くて遠く、遠くて、近い。
ケとハレとか、現実と虚構とか、演じることやときと普段のときとか。
あなたとわたし、わたしとわたし、でもどれも「ほんとう」で「私」。
うつろうもの、変わるもの、いろんな顔を持ち、
でもたぶん全部つながっていて、ナカミは「ひとつ」。
不完全かも、不完全だからややこしいけど、でも愛しいのかも。
例えば今日の今の顔がしんどかったり無理したりしても、次は明日はまた別の顔、
どんな顔も、どれも「私(あなた)」、全部いろいろ、大丈夫。
みんな咲いている。咲いて散る。日々、「今」、めっちゃ、咲いている。
生きることは綺麗だけではない。でも綺麗。
皆それぞれに、脇役でもあるが、いつも、誰もが主役なのだ。

春、花見のできる期間は結構短い。
でも、だから、いいのかな。
あの花もこの花も見ていたいし、咲いていたい。
缶ビールなど片手に、もうすこし。
今年はどこでどんな花。
もう見た? これから? また来年?
咲く中を走るのも、結構好きだ。
わたしは自転車が好きで、
走りながら、いろんなことを考えたり思い出したり、整理したりをする。
先日、ふと思い出したのは「走る覆面ヒーロー」のことだった。
ライダー。そして、月光仮面。
生まれてもいない頃のヒーローまで頭に浮かんだ理由はわからない。
でも、彼らもまた、走りながら、今日のバトルのことや対峙した悪のことを考えたりしていたのかな、って。
面の下、誰にも見せない顔、ヒーローじゃない顔で、ひとり反省会とか、していたのかも。
走るのっていい。飛ぶのもいい。
二十面相や摩天郎みたいにひらりマントをひるがえし、花びらみたいに飛べたらいい。
皆、主役。皆、ヒーロー。善と悪は表裏一体。誰もが誰かのスーパースター。
わたしも、花たちと共に今日も明日も「いい仕事」をすべく励みたい。
仕事。いい仕事。ということも、最近よく考えるのだが、この話は、またいずれ。
と、今回のところはひらりと花道を走り去る、なんてね。

2.8.2025
DAYS / Momoko Nakamura Column
Fly Me to the Moon
春夏秋冬とing

あれは春のことだった。
春の嵐のような夜だった。
劇場に通っていると、
言葉には出来ない瞬間というか、
肌で何かを感じるようなことがあって、
それは個人的にという場合も少なくないが、
「今、この場に居る皆がそう感じてる!」と、
なぜか確信めいて思うことがある。
あの夜はそれだった。
舞台には踊子がひとり。
見つめる無数の目。
たくさんの目と体と彼女の体と皆の心と音楽が、
すぅっと一緒一体になるような、
しん……っと、けれど、熱くシンクロして、
でも、最後の最後で、音響が止まった、切れた、ぷちっ、え、えーっ!
でもそれでも一体となった劇場の空気は止まらず切れなかった。
静寂の中、手拍子が続く中、彼女は花道をゆっくりと歩いて、戻っていった。
拍手が起こった。ぞくぞくした。
「よかった! めっちゃよかった!!」「のに!!(笑)」
「のに!!(笑)」
笑顔で返してくれた2文字と笑顔はまだ頭に心に残ってる。

勿論いい夜いい舞台いい瞬間はたくさんある。
いいと感じる感じ方やときは人それぞれだ。
わたしが勝手に意味付けをしているだけだという自覚はある。
でもその夜のことは、うん、やはり春の夜だったからかな。
今でもふと思い出す。昨年4月、京都の劇場での出来事。
翌日、声が出なくなった。
花粉症からのアレルギーをこじらせ、数日咳が出てはいた。
でも嵐から一夜明け、
大声を出した訳でも喋り過ぎた訳でもないのにおかしくなった。
コロナでもインフルでもなかったが、医師に怒られ、笑われ、
5月の連休までしばらくずっと家にこもることとなる。
それもあっていまだに思い出すのかもしれない。

夏、この夜の話題が出た、偶然。
同じ場に居た、ちょっと尊敬もする方(の、ひとり)とだ。
おっしゃった。盛り上がった。
「あれはね、劇場の神様が居たんですよ」
わたしは神様やおばけを信じない。
スピリチュアルや宗教はあまり好きじゃない。
寺や神社は好きだ。好きだから行く。
でも興味はあるが信仰心はあつくない。
信じたり支えにしている人のことは否定しないばかにしない。
ただ、わたしは、そういう感じ。
でも、なんだ、なんだろう、なぜだろう。
科学的というかゲンジツというか、
そんなでは言い表せないようなことやときやものって、
日々や世に、生きていく中で、結構あって、
なんやろう、ほんまなんやろ、思い込みかな、
でもそうやけどそうじゃないそれだけじゃないねん、みたいに感じることは年々増えた。
まるくなったのか。弱くなったんか。いや、ただ単に歳をとった? かもしれない。
が、それだけじゃないようにも思うのは、やはり、こじつけか。

夏、いや夏前から、
身内数名の年齢などからによる体調不良もとい心身不良で駆け回っていた。
過去形ではなく、現在進行形。
でも、あの時期は本当に自分が何者かとか
どこの人で誰やねんどないすんねんと結構気持ちに、ずーん、どーん。
で、なぜか盆踊りによく行っていたのは前前号にも書かせていただいた通りだが、
そのような夏を経て、秋は地に足を付けてこちらの世界に戻ってきたような、
「日々」「心身」「生活」「リアル」を考えたり噛みしめたりもしていた。
気付けばよく口に出していた。
「いちにちいちにち」
世も人も一秒後の世界がわからない。
不確かで混沌とした昨今だ。
世の中は澄みきるどころかますます複雑になっている。ざわざわする。
でもだから、ひとつひとつ、いちにちいちにちをやっていくことや大切さを思う。
そうしていく他ない。
そうしていけることの有難さや、
一日、一秒、「今」、目の前に居る人、居てくれる人、居続けてくれる人の存在を尊く思う。

冬、とあるテレビドラマにハマった。
TBS日曜劇場『海に眠るダイヤモンド』。
長崎は端島、通称「軍艦島」とも呼ばれる地を舞台にした物語。
『アンナチュラル』『MIU404』でもお馴染みの野木亜紀子の脚本は、
情があって、骨太で、つよく、やさしい。
刻を、人間を、人生を、人が生きることを描き、描き切った作品で、
すごい物語や、すごいチームやな、なんでこんなん作れるん?
なんて毎回ひとりつぶやきながら、涙し、何度も観た。
ネタバレはしない。
でもすこし言うと「あの頃と今」「あなたと私、私たち」「そして、今」の話だ。
物語の中の人にも、現実の人にも、思いを馳せた。
これまで出会った人びとのことも、今関わってくれる人たちのことも、考えた。
人と人は出会い、すれ違いもする。
人の気持ちはひとつじゃない。ひとつでは言えない。
他者の気持ちなんてわからない。いや、わかりきることなど、ない、ないに近い。
でもそれでも、人間の心の中には「芯」「核」、
つまりそのひと自身とでもいうようなものがあって、きらきらしていて、
それは、それが、たぶん「生」で「今」だ。

わたしたちはただ生きてゆく。
反省や後悔やいろんな冷や汗と共に積み重ねてゆくことしか出来ない。
そこに、誰かとの思いや人生が交錯したり、
そもそもばらばらなそれらが重なったり。
理屈や理由や都合のいい物語付けでは説明できないことは日々の中で結構起こる。
なぜだか理由はわからない。
でも、そういったものやことたちを、おおきな意味や捉え方にすると、
「縁」だなんて人は言ったりしてきたのかもしれない。
とか、また思ったり考えたりしていたら、
年が明けて、SNSに偶然流れてきた、禅僧の言葉たちに「!」となる。
「だいたい、自己責任でできるような決断にはね、大したことは、一つもないです。
そうでしょう。頭の中で解決できる話は所詮、些事しかない。
決定的な判断をせざるを得ないときには、違う力が働きます。
自分とは別の、力。するのではなく、むしろ、決定させられる」
違う力とは、何か。
運命……?
「わかりません。われわれはそれを、『縁』といいます」
(“無理に夢や希望を持つ必要はない、正解なんて出なくていい――
恐山の禅僧が語る、「人生の重荷」との向き合い方より”
Yahoo!ニュース オリジナル 2024年8月17日配信)
ぎゃー!
神はおらん。おるんやったらもっと頑張れ。「仕事」せえ。
極楽はどこだ。そんなんたぶんどこにもない。
でも、例えば、この不確かな世と時代、
生き抜く自信やいい意味での勘違い力はなくても、
己がやってきたことに(失敗はあれども)(あるから)
責任と矜持みたいなものもありもして、
それらを持って日々を重ねると、
なにかやいろいろが重なったり繋がったり、
次へまた次へと、進むのかな。
己がやってきたこと、いいことも悪いことも、
自分ではどうかわからないことも、すべて「それが自分」だからこそ。
そうして引き寄せたり、結われてもゆくんかもな。そうかもな。どうやろな。

すべては、日々、進行形(ing)。
先程のドラマでは、
主人公が日々を記録したノート(日記)が、
現在と過去を繋ぐ重要アイテムとして登場する。
わたしも、昨年、引っ張り出してきた。
20年ほど前(から)の劇場記録だ。
舞台の感想、寄席のネタ、舞踊の曲目リスト、
芝居のあらすじ、プロレスの技名、そしてその日、話したこと、
笑い、時にちょっと涙も出た。
自分も、まわりの皆も、変わったけれど変わらへん、変わらへんけど変わった。
わたしはわたしでしかないし、あなたはあなたでしかない。
でもわたしを私たらしめてくれるのはあなたやあなただ。
先日、このノートにも登場する方に言った。言ってしまった。
「年をとるのも悪くないね、悪いことだけじゃないかもね、って思ったよ、思うよ」
日々恥ばかり晒している。書く。暴れる。嵐はわたし、わたしとあなた、あなたと皆、皆。どうぞ今年も、よろしくね。

12.5.2024
DAYS / Momoko Nakamura Column
Fly Me to the Moon
おばけと氷壺秋月

ひとはなぜ劇場に行くのだろう。
ひとはなぜ舞台に立つのだろう。
大きすぎる問いである。
けれど、敢えて言葉にするなら〝さびしさのようなもの〟もあるんじゃないか。
いつからかそのように考えるようになった。
言葉にすることは難しい。
でも、生きていく、生きている、その上での、その中の、さびしさ、とでもいうような。

長い長いメールのやりとりをしていたのは秋のはじめのことだった。
「あんたは喋り過ぎ、親父は喋らな過ぎ、2人を足して割るとちょうどいい」
と、「ずっと言われてきた」と語る人とである。
日々たいへん多くの人に会い興行にたずさわる仕事柄、
時に本音、時に腹の探り合いのようなやりとりを常にされているだろう彼のことを、
わたしは勝手にちょっとソウルメイトの一人だとも思っていて、理由もある。
時折「極めてパーソナルな」やりとりをする。
「共に影響を受けたひと」「でもそれは過去のこと」
「でもだから(それでも)私はわたし」ということや、
共に「書く者」として読んだ本や芝居のことなどなどの話だ。
いつも自身の核というか芯とを振り返り、前を向く気持ちをいただきもしている。
この度のひさしぶりのやりとりは
「あるエッセイストの本を読んでいたらあなたを思い出して」からだった。
偶然も重なり、いくつかのやりとりが続いた。
前号でも触れた業界の大先輩ジャーナリストが亡くなったことも大きなきっかけとなる。
文字数2000字越えのときもあって、すげー楽しく、考えさせられ、ちょっと笑い、思った。
「やっぱり喋りすぎやなあ」
お互い、ほんとうに。

この頃、とあるドキュメンタリーを観ていた。
『Mr.マクマホン 悪のオーナー』
アメリカのプロレス団体であり、
世界最強のエンタメとも言われるWWEの元オーナー、
ビンス・マクマホンのナカミに迫るドキュメンタリー番組である。
レスラーたちや関係者たちが「彼がどんな人間であるか」を語る。
ビンス自身も語る。語りすぎるほど、語る、めっちゃ語る。
同じくネットフリックスのプロレスドラマ『極悪女王』があちこちでとても高い評価を得ていた頃でもあった。
こちらはわたしも配信前からずっと楽しみにしていた。
配信当日はこの作品のために一日あけて一気に観て、
ニタリともゾクリとも、はらはらともしたし、ぼろぼろ泣いた。
いろんな視点からいろんな人がハマっているのをも知り、
どの意見や感想にも頷いたし、ますますまだまだハマる人も増えるだろう。
一方、悪のオーナーは、そうでもないやろうな、だ。
ビンス自体がよくないでは済まされないことがありすぎる。
番組ではこの点も隠さずに語られる。テロップでも触れられる。
だから、よかった。でも、よかった、か。
ドキュメンタリーの力を感じ、プロレス、興行、時代、いや、人間を考えさせられた。
いいことも悪いこともいろんなことをだ。
ひとがつくり、ひとが演じ、ひとが観る。
現実と虚構が、曖昧というか、ないまぜに、なってゆく。
まざって、そのないまぜの中にほんとうがあるというか、
いや、ないまぜは、全部ほんとうで嘘じゃない、嘘じゃないけど、ほんとうでもない?
みせる人とみる人、攻める人と受ける人。自分と相手。
重なりの層のように膜のようなところに、
ほんとうとほんとうのようなものがあり、ほんとうになる。
役と演じる人、役と演じる人、善も悪も聖も俗も、あって、ある。
人間って、なんやろ、なんなんやろう。

なんで「過ぎて」しまうんだろう。
私たちは、人は、つい「過ぎる」。
不安? 得も言われぬさびしさから?
これまでに「伝わらなかった」ことや経験から?
無駄に過剰なサービス精神からか。
飢えもある? 心の飢餓。
「よく見られたい」という欲やプライドも。
人によって大小や多い少ないはあれども、きっと誰もの中にあるそれ。
欠けていたり、多すぎたり、ちゃんとしたバランスをとれていなくなっている、もの。
だから盛るのかな。やってしまうのかな。やり過ぎるのかな。
他者を意識したり自分を意識したり、蓋をしたり、漏れたり、押し付けたり。
人は、人というものは、わたしは私たちは、まことにややこしい。面倒臭い。人間はこわい。
過剰になったりバランスが悪くなったそれは〝おばけ〟だ。
うん、みんな、心の中におばけが居るんじゃないか。
普段はそいつを封じ込めている。
でも、ふとしたときにひょろっとひょっこり顔を出したりして、
何かが「過ぎる」状態というのはつまりそれなのかもしれない。
我。欲。善と悪。聖と俗。実と虚。バランス。皆、自分。
おばけの正体こそ業? つまり我? 皆、おばけに操られる。おばけになる。

夏の終わりに凄い舞台を観た。
旅芝居界一ストイックと言っても過言ではない役者による舞踊だ。
〝足りない。足りない足りない。足りない〟
映画『The Greatest Showman』の中で歌われる『Never Enough』。
ふわっとした衣装の裾がひらひらと舞った。
下町の芝居小屋が彼の気でいっぱいになった。
帰り道、ふとその劇場収録された古いドラマのタイトルを思い出した。
「淋しいのはお前だけじゃない」
お化けを飼いならし、体と心のバランスを取ることは、難しい。
いいことも。わるいことも。嫌なことも、いいことも。
もしかしたら、とれていないことが、もが、人間かも? しれない。
操られているおばけとうまく付き合い、
空気と気持ちを操り他者と「ええ塩梅」で付き合い自身も満たす。
むずかしいね。でも、やらなきゃね。

「着流し一枚の美学」という言葉がある。
生きていくことそのものである舞台、旅芝居。
そこでは見た目も年齢も芸歴も生きてき方もさまざまな役者たちが
「今、目の前の舞台」で観客たちを魅了する。
他の芸能と比べても距離の近さを魅力となり、
だからこそ舞台に加え、サービス精神や愛嬌やいろいろな気持ちが求められがちで、
「盛って、盛って」、芸術と風俗がごちゃ混ぜな舞台となる。
その中で十年以上ずっとトップを走り続けている座長が言っていた。
「でも究極は、着流し一枚じゃないかと思うんです」
「盛るんじゃなく、身ひとつ、それで勝負できる役者になりたい」
削いで、極めて、己が身ひとつ。グレイテストなショーマンへの道のりだ。

先の往復書簡の中で「(あなたは)危ういほど無防備な(で居たい)人だから」と言われた。
褒められているのかそうでないのかわからない。でも、ありがとう、と思った。
その後、全くの別件でこのことをまた振り返らされもしたとても。
キザでやさしいその人も、日々きっとしんどいことがいっぱいあるんやろう。
だから、やさしく、過ぎるけれど、過ぎるからこそ、言葉をくれるのだろう。
わたしにも、いろんなひとにも。時に誤解されたりしながらも、いつも、真摯に。
皆、やさしい。強くないかもやが、強くて、優しい。
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おばけはいっぱい。鬼もいっぱい。
世の中にも居る。自分の中にも居る。
おばけと共に生きていこう。気を付けながら。皆と共に、生きていこう。
やっぱり世界は劇場じゃないかと思ってる。
