中村桃子
フリーライター/構成作家
大阪在住
関西大学社会学部マスコミ学専攻卒
学生劇団「学園座」演出・役者OG
喜劇作家・檀上茂氏に師事
「大阪シナリオ学校 演芸台本科」卒
ラジオ番組ADから大阪の制作会社勤務を経てフリーのライターとして活動
ストリップ劇場と旅芝居の芝居小屋と酒場に通い、とある書籍化に向けた原稿企画2本に取り組む日々。
ウェブマガジン「tabistory」にて酒場の話と誰かにとってのHomeの話、2種類を連載中。note「桃花舞台」も(ほぼ)1日1note、1日1エッセイ更新中。
東京・湯島の「Bookstore & Gallery 出発点」で5月から2箱「本屋・桃花舞台」をスタート。
SNS以外に、SNSを超えての〝繋がりの場所〟を、と、おすすめ本と、フリーペーパー、置いています。
過去の仕事など詳しいプロフィールは
https://momohanabutai1122.seesaa.net/article/202011article_1.html
9.10.2024
DAYS / Momoko Nakamura Column
Fly Me to the Moon
祭りの灯り
夏は生を感じるシーズンだと思う。
照りつく陽。貼りつく汗。喉をすーっと通る水。
でも、同じくらいその反対をも強く感じるシーズンでもあるんじゃないか。
居なくなった人やもう会えなくなった人に想いを馳せる。祭りの灯りと共に。
若い頃、夏にお化け屋敷の仕事をしたことがある。
書き仕事や勉強のかたわらバイトしていた昭和コンセプトショーレストラン、
劇場型こてこてフードテーマパークの中のちいさな芝居小屋が期間限定お化け屋敷になる。
部署は違うも駆り出され、受付や呼び込みを手伝わされた。
企画・演出をしていたのは席亭だった劇作家だ。
偶然にも同じ大学卒、学内に今も存在する劇団の創始者だと知る。
わたしが所属していた劇団とは代々ライバル関係にあった劇団の。
「おまえのとこの劇団は泥臭いねん。かわいい女子がおらん。代々伝統的に」
「おっちゃんとこの劇団は見た目だけやん代々伝統的に」
お化け屋敷の仕事中は勿論、小屋の舞台を観に行ったり、休憩時間に会いに行ったり。
劇作家賞を受賞したという作品を借りて読ませていただき、惚れ惚れとしたのだが、
なぜかいつも邪険にされていた。逃げられることも多々だった。
でも時に駅まで一緒に帰ったりもした。
今思うと好きな人に見た目がちょっと似ていたのも懐いた理由かもしれない。
そのせいか変な誤解をされたりもしたけれど。
「俺はただの寂しいおっちゃんちゃうぞ! 尊敬しろいじめるな労われ!」
「なあ、おっちゃん。また書いて下さい!」
「いや、俺はもうええ俺みたいなもんの出番やない。おまえが頑張れ」
テーマパークのアルバイトをわたしは数年でやめた。
ラジオ番組のADを経て制作会社への勤務が決まったからだ。
おっちゃんはテーマパークが閉館するまで席亭とプロデュースをやっていた。
閉館の前か後かメールが来た。後にも先にも一度きりのこと。
「ひさしぶり。元気ですか。これでやっと僕も楽になれます。また書いていこうと思う」
なかなか会いに行けなくなり、時に思い出したりもしていた、
新しく出来たちいさな劇場で若手芸人の指導をしているとも聞いていたが、
風の噂に亡くなったことを知った。あれも夏のこと。
暑さに倒れ、何日もしてから見つかったのだと知った。
その後、娘さんという人から御礼のメールが来た。
「化けて出てこい」
この夏もある訃報を受け取った。
お世話になり尊敬もしていた方だった。
正直実感がわかなかったし今もわかない。
あちこちの広場や公園に櫓が立てられ提灯が吊られ、
全国の花火大会のニュースなどを見聞きしだしての朝、思った。
「ああ、もう、居はらへんのや」
またふらっと電話がかかってきそうな気がする。
真面目で熱い話の最後にいつも言うギャグと笑顔。
「手ぇ握らせてくれたらこの続き話そかな(笑)」
あほほどおもろなくて笑えへんけど笑っていたセリフを言われそうな気もする。
行きつけだというカラオケスナックのママ手作りの小鉢の味。
薄い水割りを片手に歌っていたちあきなおみや村田英雄。
でも、やっぱり、祭りの思い出がたくさんだ。
踊る楽しそうな顔、櫓の下でのめっちゃ真面目な話、
共通の知人となったイケメン音頭取りに櫓の下から一緒に手を振ったこと。
知らせはわたしが今すこし距離を置いている方がくれた。
向こうもその距離感のようだった。
だから感謝した。心から礼を言った。
でもお別れには行かなかった。行けなかったし行かなかった。
ひとり献杯し、祭りに足を運んだ。
夏前から身の回りのことでいつも以上に自分のことだけに時間をとれなくもある。
そんな中それでも知らない街の知らない祭りにたくさん行った。
ふらふらと引き寄せられるように灯りの下知らない人たちの踊りの渦を見た。
幼い頃の祭りの思い出はない。
踊ったこともない。
そもそも故郷らしい故郷がない気もするし、
家族のあたたかさだとか団らんとかその笑顔だとか、
そのようなものに浸ったりそのような感覚になることや場所がなぜかあまりない。
テレビCMのような満面笑顔の団らん風景なんて嘘やろうとか
どこにも誰にもないんちゃうかと思ったりするときもある。
いいとか悪いじゃない。それが嫌だとか悲しいとかでもない。
でも、だからなのかもしれない。
あの灯りと熱に引き寄せられるのは。
劇場で、皆の笑顔と熱に、時に涙しもするのは。
いろんな皆が心身共に一緒になれるなっている瞬間が嬉しいのかもしれない、訳がわからなくも。
暑い暑い中、音に乗って、声を出し、
自己と他者が曖昧になるほどの輪の一部となる祭りはすごい祭りはこわい。
あの熱とグルーブ感は世のさまざまな災いに抗える力を感じる。
同時に、誰かや何かを消したり滅ぼす力も感じる。
ものすごい力、人間の力だ。
と、思うこともわたしの勝手な感傷でありこじつけかもしれない。
片手に持ったビールのせいかもしれない。
広場や寺や斎場の中、提灯の下、決して清潔でもきれいでもない屋台の、黄金色。
テーマパークも中の芝居小屋もお化け屋敷もなくなって随分と経つ。
この夏もひとつの劇場が閉館をした。いろんなことを考えた。
すべてのことにとって「また」や「いつか」は奇跡だと改めて思う。
亡くなった方とは呑みながら芸や舞台や芝居の話をよくした。
うつくしさや力と表裏一体のそれらについて。
「人間のなんとも言えないどろどろとした部分っていうのがな、滲むよな」
「綺麗なもんだけ見たいんですけどねえ(笑)」
いつも気持ちよさそうに歌っておられたカラオケの十八番も思い出した。
歌い出しは「どうせ人生、お芝居よ」だ。
「化けて出てこい」は劇作家の野田秀樹による『パンドラの鐘』のセリフ。
この芝居もまた、暑い暑いときの、古代と現代と未来の話。
鐘とは79年前の8.9の象徴、芝居の冒頭で流れるのはキヨシローの『パンク君が代』。
オリンピックは全く見なかった。『クックロビン音頭』などの盆踊り動画ばかり観ていた。
「古代の心は、どちらに賭けます? 俺は、届くに賭けますよ」これも鐘の最後のセリフ。
残るもの。残すもの。陽。汗。水。遠い昔から続いてる祭りの灯りが届く続く。
あのひともこのひともわたしもあなたもまた皆櫓の下に集うし帰ってくる。
暑くてうるさいビールを呑む。
7.1.2024
DAYS / Momoko Nakamura Column
Fly Me to the Moon
鏡と日々
『Somebody To Love』(QUEEN)のことを思い出したのは
好きな劇団の過去の公演DVDを観ていたからかもしれない。
4月半ばから大型連休前までひょんなことから体調を壊してしまった。
だいぶ長い間メンタルと体力が下がった後、なんとか復活した。
と、思ったら、まわりにも心身不良を訴える人が増えている。皆も大丈夫?
そんなこんなでいつも以上に? 身内事たちにちょっと振り回されていたりもする昨今。
己がということはまわりも皆歳を重ねる。自然の成り行きだ。
でも、ずーん、とか、うーんとか、あーっ、とか、なったりね。
とはいえ、仕事も私事も待ってはくれないのも当たり前の話。
両方ともなんとかやれていたのはDVDたちのおかげもあるかもしれない。
しかもだ。持っているものたちを観終えたら知人がわたしの持っていないものを貸してくれた。
『劇団☆新感線 20th Century BOX』
「20世紀の集大成」という名の通り1995年から2001年の公演が収録されている。
1989年からの公演やライブやイベントのダイジェスト、
作家や演出家へのインタビューや劇団員の座談会などもたっぷり。
わたしが当時劇場やテレビ放送で何度も観てきた時代の芝居や話ばかりだ。
観てきただけじゃない。
あの頃のわたしは劇団員がアルバイト講師をしていた歌唱教室にも遊びに行っていた。
先生は劇団の音楽監督を今も務める〝Japaneseフレディ・マーキュリー〟。
ミュージカル役者たちとのバンド「クイーンマニア」のボーカルもやっていた。
今も劇団活動を並行してシャンソンの和訳などを手掛け、ライブを行う。ブレない。
『Keep Yourself Alive』を『生き続けろ』と訳しシャウトしまくったライブの翌日、
衣裳であるフレディ的きらきらレオタードについて「これは手洗いじゃないとあかんねん」と笑っていた頃からね。
『Somebody To Love』は、公演の際に歌っていた。亀の格好で。
名作漫画『ガラスの仮面』をパロディにした芝居で
北島マヤ的天才演劇少女が落ち込んだシーンに現れる紫のバラの人役(亀姿)だった。
すべての人の心には脆くて壊れやすいガラスの亀が居るらしい。
あなた(主人公)の芝居を観て力をもらう。そんな人たちが増えそれは大きな力となる。
「あなたの亀は世界一~~!!!」しょうもな!
でもこのパロディとしての『Somebody To Love』ってなんか洒落てるよなあ。
まさに「推し」へ捧げるメッセージみたいやなあ。
93歳の祖母にも推しが出来た。
年齢のせいで思うように体は動かないが頭はまあしっかりしている。
今は訳あってひとり暮らしなので身内で交代に会いに行っているのだが、
この人は我が身内の中ではよくもわるくもよくも俗っぽい。
サンバじゃなく上様時代の松平健のサインをもらっていた。
演歌歌手福田こうへいにはファンサでベタ惚れとなった。
そして、この度、あたらしい推しとなったのは大相撲・大の里。
デイサービスでも大人気だという彼を「勝たしたりたいねん」身内か。
夏場所での優勝を見たときはわたしがほろっときた。
ばあちゃんを通り越してたくさんの人の気持ちをみた気がしたから。
彼の父や地元の人びとの喜びの様子にちょっと涙ぐんだりも。
死んだじいちゃんも相撲が好きだった。
相撲とボクシングとプロレスと歌とドキュメンタリー番組をこよなく愛したじいちゃんは、
時代と住むその地域故に苦労人で叩き上げの人である。
晩年は地域の小学校に戦争体験や地域の話を語りに行ったり自治会長的なものもしていたのだが、呑むと血の気の多さが目立った。
夕方になるとランニング姿でデッカい湯呑みに紙パックの日本酒をどぼとぼ注いで呑みながら「また負けかい」「なんや。しっかりせぇ」。酔うと声が大きくなった。
母はこの地と時代故に歌舞音曲とスポーツを嫌って勉学だけに打ち込んだ。
でも孫は確実に俗な血を継いでいる。
ヒーロー。スター。アイドル。
自分自身の日々を送る中、遠い世界もしくは身近な誰かに対して、
願いのような祈りのような想いを抱き、「支え」にしている人は少なくないのだろう。
ファンの側が気持ちを込めての「推し」という言葉も出来、広まり、使われる。
わたしたちは、日々を過ごす。歳を重ねる。
容れものである体には不具合や故障が生じもするし老いもする心は乱れる。
そんな中、日々をやっていく上で、「推し」は力になり、も、する。
現実逃避という意味では悪い意味かもしれない。でも、きっと、よい意味でもだ。
偶像崇拝かもしれない? そうやろう。そうだ。でも。
実体を知らないから脳内での理想化も大きい。その通り。
勝手に思うその人はほんとうのその人じゃないのかもしれない。そうなんだろうな。
でも、嘘ってなんやろ。本当ってなんやろう。とも、思ったりする。
だって、「私」が居るのは、あなたが居るからで、皆が居るから。
誰かが生きていることが、誰かの日々に繋がっている。
きっとそれは(おおきく言うと)双方向の。
例えば互いに一生会えなかったり近しくなれないようなものだとしても。
しばらく会えていなかったりもしかしたらもう会えない存在だとしても。
何か特別なすごい才能を持っていなくても。
めちゃめちゃすごい活動をしているとかじゃなくたって。
めっちゃ頑張ってるとかすごいとかじゃなくたって。人間的に「?」だったとしても。
誰かが、ううん、その人が居てあなたが居て、あなたが居てその人が存在している。
はず。いや、ぜったい。
そこに居てる、ただ居る居てる。日々をやってる。
それがそのことがそのものが誰かのわたしの日々の気持ちに……とは大袈裟かもだが、日々「もう嫌やなあ」とか「なんかなんだかなー」とか、でも、「ま、せやけどなんかなんとかやってみよかね」とかに繋がったり、も、する。するのだ。たぶん。絶対。
うそとほんと。ほんとうのうそ。肉体があって感情がある。
うそもほんと。ほんとうと嘘はもしかしたら入り混じっているのかもしれない。
紙や皮一重で紙や皮から漏れ滲むものがあるもの。
その滲みや漏れ、におい、血であり気持ち、
いい悪いすら超えたそれらが「ほんとう」なのかもしれない。
とは、わたしの見方であり考え方なのだが、
時に合わせ鏡であり、時にちょっとした万華鏡のようなものかもしれない。
私の人生、私の推しは私。
でも全然きれいじゃない世や人間というものの中、お互い、信じ、皆で、進むためにも。
わたしの現在の推しは宙を舞う舞台人である。
このコラムでも何度か話させていただいたが、
生きづらいこの世と時代に劇場からステージを通して人間の心と生きることを思わせてくれる。
そして、永遠の推し(殿堂入り)は元舞台人で現在トラック運転手だ。
若き日は抜き身の刀のようだったその人は今はふつうのおじさんなのだが、
永遠のスーパースターでわたしの心の恋人、って、ちょっと言いすぎた。
よければあなたの話も聞かせて下さい。
誰かの「好きなもの」の話を聞くのがほんとうに好きだ。
その人自身でありその人の日々であり生きてることそのものだと思うから。
いつもうぜぇほどうるせぇほどきらきらしてるから。
そうして会うたびにいろんな話を聞かせてくれるあなたは、あなたに、
わたしはいつも力をいただいている。その熱に気持ちに言葉にきらきらにだ。
だからまた会いましょう。会えていない、会ったことないあなたもね。
「あなたの中のガラスの亀を信じなさい」そして「すべての道は舞台に通ず」だから。
4.15.2024
DAYS / Momoko Nakamura Column
Fly Me to the Moon
卵とピタゴラ装置
春先2月3月、わたしはずっと酔っていたような気がする。
終電前の電車を反対方向に乗ってしまったり、
路上ミュージシャンとめっちゃ喋ったり、
旅先の知らない道を2キロ歩いて花を見たりした。
劇場仲間と「しょうもな(笑)」「キモ(笑)」を連発して笑ったり、
隠れ家にしているカフェでコーヒーではなくハイボールを呑んだりもした。
誰かに気持ちを伝えること、
言葉やその伝え方について、以前に増して考えるようになった。
例えば「綺麗」という言葉をわたしはすごく考えて使っている。つもり。
口にする際は何よりの褒め言葉として使っている。つもり。
でも綺麗ってなんだ。綺麗って、どういう意味やろう。
綺麗だけじゃない。「やさしい」とか「強い」とか「ブレない」とか「格好いい」とか。
あかん、こんなん考え出すともう難しすぎて口開けへんようになる。
「他者に気持ちを伝えるって、なんて難しいことなんだろう」
わたしたちは普段言葉をなにげなく使っている。
すごすぎる。当たり前やけど、やのに。
大事なときや嬉しいときほどわたしは言葉が出ないことが多い。
いや、出すし出している。ぺらぺらベラベラしょうもないことをたくさん喋っている。
でも言葉にすればするほど嘘くさい気がして仕方がない。
後悔や自己嫌悪からの一人反省会は止まらない。
最近は大事な時ほど〝よかったbot〟 & 〝ありがとうbot〟化してきた。
botならbotとして大人しくしていればいい。
でも、いい歳をしてエブリデイAlways前のめりな性格は変わらず、
言葉に出来ないから手と体が前に出る挙動不審も直らない。
もどかしさや歯痒さから逆にぶっきらぼうや格好つけや無言にもなる。
とはいえ、伝える伝わることは「言葉だけじゃない」ということにも気付かされた。
必ずしも言葉が言葉だから大事な訳じゃない。
言葉にこだわりすぎることは必ずしも正しいことではない。
無言は時に百言にも優るし、
言葉じゃなく行動や態度や顔や背中や生き方が伝える伝わることはめっちゃある。
という、これも当たり前すぎることを改めて思いもした。見せてもらいもした。
そんなこんなで、よく呑んでいた。
嫌なことがあったとき辛いとき?
そんなときじゃない。楽しいとき嬉しいときに(も)だ。
「呑むと(逆に)頭が冴える」
健康的にも人道的にも不適切なことを書いていたのは、
好きなジャーナリストでありエッセイストだった。
わたしも呑むと、いや、呑まなくてもだが、冴えもする。気がする。
気付けば口癖な言葉を人前でも笑いながら出している。
「しょうもな(笑)」「キモ(笑)」「ゴミか」「ゴミやなあ(笑)」
口悪っ。でもこれらは必ずしも決して悪口やディスリ言葉(だけ)ではない。
時に鏡でもあるかもしれない。向き合うべきだけれど逃げていることや、
「自分とは違う」と思い込んだり遠ざけたり排除しようとしてしまうこととも
直結しているかもしれない。いいも悪いも、人間の人間な、そのひとや自分自身、
つまり人間そのもののことじゃないか、と考えたりもする。
「しょうもな」「ゴミか」でもだから「わかり合えないけれどわかり合おうとすること」
途方もない難しさと、でもきっと大事さと、愛しさのようなものも、思う。
誰もが「今」を生きなあかん。皆、今を生きている。
花の命は短いどころかノー・フューチャー。今は今だけれど今でしかない。
今と現実、この世は楽しいこともあるけれど、
むちゃくちゃ理不尽なことやしんどいことや怒りだらけだ。
ピースフルでラブリーな物語なんてないことの方が多い。
皆苦しみや孤独と共に生きている笑いながらも。
わたしたちは日々を積み重ね、積み重なりは人を変えもする。
人は人であるからまわりにより自分自身により心も体も変わってゆくし変えてもゆく。
変わらなくてはいけないこと、自然と変わってゆくことは、も、少なくない。
その中で、その中にも、良い悪いではなく、「変わってゆくが変わらない」ものやところがあって、もしかしたらそれがそれこそが〝自分(その人)自身〟なのかもしれない。
と、微苦笑したりもする。
思い出に酔っていてはいけない。
いや酔ってもいい。でもずっとそこに居るのはたぶんしょうもない。
点と点を結び付け自分に都合のいい気持ちいい物語を作って酔い続けることは結構キモい。時には必要だ。先へ進むための気持ちの支えにもなる。気持ちよくもなる。
でも二日酔いは気持ち悪いし汚い。ぜんぜんきれいじゃない。
ピタゴラ装置は、ぶつかり、転がり、作用し合い、「そのように」先へと流れてゆく。
玉はぶつかり、糸はもつれはすれども、ほどけたり、
人は出会ったり別れたり、また戻ったり、でも繋がっていたり、
皆、あの日やあの頃を経て、そうして日々は先へと続いてゆく。
先にあるのは自他共の老いや死かもしれない。
でも死は実は今も目の前にあるし必ずしも遠いものでもない。だから、だけど、今なんだ。
綺麗であること、生きること、綺麗でいること、生き続けること。綺麗ってなんやろ。
歳を重ねれば重ねるほどその両立は不可能に限りなく近いほど難しい。
でも、皆、綺麗だと思う。綺麗じゃないも含めてね。
「壁と卵」の例えもなぜか思い出したりした。
「もしここに硬い大きな壁があり、
そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」
15年前に作家・村上春樹がエルサレム賞を受賞した際の記念スピーチだ。
「どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしてもそれでもなお私は卵の側に立ちます」
痺れる。でもやっぱりなんか「いけすかねえ」とも思う。
っていうか、ぶっちゃけわかるようでよくわからん。
壁は、壁も、その硬さで、誰かの心身を傷つけているかもしれない。
卵の振りをした壁もいるかもしれないし壁の振りをした卵だってあるし居る。
と散々言うた上で言う。わたしは、わたしも「そういう人」でありたい。
ただし、エブリデイAlways自問自答と吐き気と「うわー」を繰り返しながらだ。
吐きながら、呑みながら、口悪く、だ。
間違っているかも、いや、間違っているのだろう、けれど、考えてゆきたい。
例えば決めつけや押しつけなそれらは否定をしたいし、否定は否定したい。
卵や玉や糸、割れたり転がったりもつれたりしてしまうものや目の前の人を肯定したい。
そうして伝えたり伝えなかったりしていきたい。自分のため(だけ)じゃなく。
「しょうもないな。キモいな。でも共にやってこ。その術を考えるわ、無理かもやけど」
ずっと酔っていた気がするこの期間、久々の人に会える機会もあった。
20年程前に出会って以来、物書きとして、いや、人として、
生きていく上での価値観に影響を……とは大袈裟か。
「最初が悪かったな(笑)」「せやで(笑)」
書いて生きているわたしをあの頃も今も笑ってくれる。
相変わらず不器用に器用に生き歳を重ねておられた。格好ええやんと思った。
昔も今もチョケたりクソ生意気なことしか言ってきていない。
でもまだ言葉が見つからず「愛してるよー(笑)」しか言えなかった。キモいな。
そんなこんなで好きなプロレスラーのTシャツを改めて買い直したりもした。
このコラムのアイコンでも着ているTシャツの別バージョンである。
背中にプリントされているロゴをしつこく皆に見せたい。
「STAY ALIVE TODAY」!
2.10.2024
DAYS / Momoko Nakamura Column
Fly Me to the Moon
ただいま、おかえり、いってらっしゃい
「旅って何だろう? と考える。
「自分の居場所から離れて、滞在あるいは移動中であること」と杓子定規に考えてみる。
そう仮定すれば、旅を続けることは難しい。
どんな場所だって、たとえそれが、飛行機の窮屈な座席だとしても、
そこで長い時間を過ごしてしまえば、やがて自分の居場所になってしまうだろう。
自分を取り囲む環境に対して、「ここは自分のいるべき場所ではない」と意地を張り続けることは、並大抵の意思の力ではできないと思う。
だから、多くの場合、旅はどこかで終わりを迎える」
『未必のマクベス』(早瀬耕著、ハヤカワ文庫、2017)。
「現実ばっかり見てるんやから夢見させてくれや(笑)」
昨年12月の頭に行った温泉地の劇場で、
とても楽しそうにしていた一見さんが、同行のお仲間にツッコまれて、言っていた。
10何年かぶり? に出演する大好きな踊り子さんを観に出かけた地でのことだ。
名も知らないもしかしたらこの先一生会わないかもしれないお客さんの言葉がなぜかとても胸に残った。
一か月後、年の初め最初の日に、この劇場がある地を含む一帯が、そのようなこと、になるなんて、誰が想像しただろう。
年明け、元旦に起こったこと、年があけて事の真相があきらかになったたくさんのこと。
年があけても終わらず続いていること、次々にあたらしい事実が出てくること。
目を覆いたくなること、でも、もう目を瞑ったり瞑った振りをしたりは出来ないこと。
天災も、人災も。
今まで目の前にあったけれど、見すごしたり、
見てみぬふりをしてきたかもしれないたくさんのことが目の前にある2024の始まりだ。
あまりのことに、これまで以上に言葉が出ない。
という人は、わたしを含め、今、多いのではないかと思う。
自分たちになにが出来るのか。力のなさ不甲斐なさにやきもきした・している人も少なくないのではないか。もどかしいこと、くやしいことは、多すぎる。
この気持ちすら、傲慢なのかもしれない。
けれど、もっと、考えたり、動いたり、そのためには。
まずはもっと知ること、知ろうとしなくては、と改めて思わされた、思わされている。
あの温泉地の夜は、思い出すたび、ふしぎな心地になる。
行ったのは初めてではない。何年も前に人に連れられて訪れたし、
旅芝居・大衆演劇の公演先としても、各地の温泉とセンターは馴染み深い。
もう閉館してしまったものも少なくないが、幾つも足を運んだことがある。
笑えることも、笑わなしゃあないことも、たくさんあった。
でも、なんだ、なんやろう。
その舞台を「ほんとうに好きだ」と思った人を追いかけて行く、地方の温泉地の劇場。
ばたばたと行って、観て、ばたばたと帰るとしても、一泊の旅。
馴染みのない地。ローカル鉄道。湯けむりの町。
足湯。屋台村(一人でよぉ入られへんかったけど)。老舗のデッカい寂れた旅館。
ドキドキと、そわそわと、緊張と、わくわくを感じるのは、何度どこへ行っても、きっと旅の醍醐味だろう。
熱と酔い、酒があっても、酒がなくても、ふわふわと。
わいわいとがやがやと、シン……ッと。
追っかけさん、一見の「ちょっと入って観てみよう」なお客さん、
地元の人、さまざまな人が集う劇場は、都会(という言い方はおかしいけれど)のそれとは、また違う雰囲気で、不思議な夜だった。
あったかさやふしぎな懐かしさのようなものもあって、ほんとうに「夢みたいだな」と思った。
夢じゃない。
「夢だけど、夢じゃなかった」
御存じ、宮崎駿監督作品『となりのトトロ』の名台詞。
「夜の夢ことまことなり」
これは、江戸川乱歩が好んで色紙に書いたと言われるフレーズ。
正確には「うつし世はゆめ、夜の夢こそまこと」。元はポーの「A Dream Within A Dream」。
夢であってほしいようなことも、夢じゃなくて。夢のようなことも、現実で。
その境界線があいまいになるのが旅なんかなあ。
旅ってなんや。
旅って旅だけど日々、生きることそのことそのものかもしれへん。
人生かもしれへん。
って、なんやそれ。
年が明けて、立て続けに身内が亡くなった。
どちらも名も知らぬ思い出も出てこないような間柄の年上の者だったが、
うち一件はとある遠くの島にまで行ってのお別れで、もう一件は地元である大阪だった。
こういったことが続くと、日々や人生とやらに想いを馳せざるをえない。
日々は旅。のようなもの?
柄にもなく感傷的になってしまうのは、日々低空飛行気味になる冬やからかな。
そんなこんなで、冒頭の引用が、飛び出した。
昨年末、新幹線の乗車前に立ち寄った新大阪駅の書店でPOPに目が釘付けになった。
≪どうか最初の1ページだけでも立ち読みして欲しい≫
言うたな? そこまで言うたな? いつ何時誰の挑戦でも受けるわたしは読むことにした。
1ページ立ち読んで、ちゃんと買うた。
内容はなんだかまるでビッグコミック系漫画みたいだった。
ハードボイルド、経済、恋愛(初恋の人だのなんだの)、犯罪、アクション、旅。
主人公もまわりもなんだか気取っていて、もとい美学があって、
なんや、これ、ちょっとお洒落な島耕作?! 文体はハルキというかチャンドラー風?
つまりはなんだかいけすかない。
でも、表紙をめくって、まず最初にあらわれるこのフレーズが、なぜだか、頭を離れない。さすが。POP。なるほど。冒頭。
旅ってなんや。
ただいま、おかえり、いってらっしゃい、おつかれさま。
東海道新幹線のチャイムが昨年7月21日から変わったことはご存じの方も多いだろう。
『AMBITIOUS JAPAN!』から、なぜかUAの歌となった。
初めて聴いたのは昨年劇場へ向かう際のことで、「わぁ」となったが、もう慣れた。
でも、もうひとつ、旅に出かける際の「わぁ」がある。
10月31日に終了となった車内販売サービスの代わりなのか、
コーヒーの自動販売機がホームに設置されたことだ。年明けに気付いた。
SHINKANSEN COFFEE。って名前そのまんまやん。しかもこいつが、クセモノやねん。
購入ボタンを押してから、豆が挽かれ、抽出され、カップを手にするまで、1分半かかる。
発車時間ぎりぎりにホームに上がってきた人が、購入ボタンを押すも、放ったまま乗ってしまうのも何度か見た。
「1分半かかりますよご注意下さい」的な説明書きが貼られるようになったのも見た。
しかも、1分半の間、新チャイムとなった歌が爆音で流れる。
「会いにいーこう」
なんの罰ゲームや。
隣の自販機で気まずそうな顔や真顔になっている初めてさんと目が合うことも少なくない。
そこまでの過程を経て提供された味は美味しくもなければ不味くもない。
ぼーっとした頭に、苦みと旨味、夢と現実、with爆音。知らない人と笑い合う。
あなたはどちらへ? 春は目の前。よい旅を。
12.10.2023
DAYS / Momoko Nakamura Column
Fly Me to the Moon
月と靴下
それは満月の翌日のことだった。
わたしにとって11月は大事な月だ。
大好きな劇場で大事な興行がある。
大好きで大尊敬する踊り子が出演して8年目となる。
京都にある劇場の開館記念興行、「金銀銅杯」と名付けられたこの公演は、
昭和40年代から続くらしい。
実力も人気も兼ね備えた踊り子たちが出演し、
全国からの熱いファンがそのステージを楽しみに訪れる。
ここで彼女を観たことがきっかけで追いかけるようになった。
舞台や劇場、人間やその尊厳、人が生きることについてより考えるようになり、
人間が、より一層、嫌いだけど、好きになった、愛しく思えるようになった。
と、いうことは前号vol.33「PEOPLE」でも語らせていただいた。
楽しい日々というか週を過ごしながらもいろんなことはある。
仕事も私事も日々わんさか。働かざる者推すべからず。
親だのなんだの絡みのこともわんさか。若くなくなった者の「あるある」だろう。
俗世の諸々から逃れられる人は誰も居ない。
頭の中は観た・観る舞台のことでいつもいっぱい。でも日々いろんなこともいっぱい。
無事に迎えられた楽日、大好きな踊り子さんや共演の踊り子さんが、それぞれのステージを終え、皆、拍手、喝采、「おつかれさま~!」。
各地の劇場へ旅もしくは帰っていかれるだろう笑顔を見て、ホッ&ストンと人心地。
たまった仕事やそぞろになった私事を片付けたり、
でも、次の週も推しである彼女が出演する劇場に行き、さあ次の予定も考えななあ。
そんな日々を過ごし、所用や仕事関係で東にも行った。
見たかった絵を展示最終日に駆け込んで見た。
東の知人に頼まれていた「阪神タイガース優勝記念五紙セット」などを渡した。
渡すついでに一杯じゃない一杯をやったりもした。
帰り道、ほろ酔いの頭でふと見上げると、大きな月がまぁるく出ていた。
ビーバー・ムーン。
この数年、月を見るようになった。
ジャズや俳句を愛する粋人からの受け売りである。
各月の満月には名前があることも知り、面白くなった。
11月の〝ビーバー〟には、狩猟の月など、いろんな説があるようで、
齧歯類なあいつらの、獰猛なのに惚けた顔が頭に浮かび、笑ってしまう。
スピリチュアルや信心深さとは縁遠いし好きではない。
でも少々酒の入ったアタマで見上げた月は、妙におおきく、
凄味さえ感じられるような気がして、笑いながらも、じぃんとなった。
「DAYS」へのお誘いをいただいたのは、その翌日だ。
先にも触れた前号の「PEOPLE」には不思議で嬉しい縁から寄稿した。
大好きな一枚の絵と、舞台と劇場、人と人びと、つまりは、自己紹介の文を、
絵と、劇場にちなんだ、いや彷彿とさせるような雰囲気と余韻あるデザインの中に入れて下さり、縁や人間のおもしろさ、かけがえのなさとありがたさ嬉しさを思った。
そんな同Webマガジンの不定期連載コラム「DAYS」は、さまざまな国や地域で暮らす素敵な皆さんの想いと記録だ。ええの?! こんなアナーキーな大阪の物書きが参加して?!
せやけど嬉しい。めっちゃ、嬉しい。
ちょうど件の絵を見た、2日後のことだったのだ。
絵は想像していたものよりずっとちいさかった。
展示最終日の館内には人が群がっていて、待ちきれずに、皆の頭の後ろから覗いた。
ちいさいから、ゾクリとした。陰影に。「漫画みたい」褒め言葉。
帰り道に考えた。「彼女は、どんな気持ちでこの絵を描いたんやろ?」
もしかしたら「すげぇ絵を描いてやろう」とかじゃなかったかも?
彼女にとって光と影は自然と見えていたもので、「え? なんで皆描かんの?」だったのかも?
かの絵を目当てに集う人、絵の中の光景とシンクロするような、不思議で、俗で、人間すぎる光景と、そこに居る己へのツッコミと笑いからか、考えた。
タイムマシーンはない。彼女には会えない。
仮にもし会えたとしても人の心の中は、わからない。でも、ふと。
まるで、月を見ているときみたい。
誰もが見る。見上げたらある。
見えたり隠れたりするけれど、いつも自然とそこにあって、
その日その日で「かたち」が変わる。
太陽みたいにいつも明るく元気にぱあーっとじゃない。
ぼんやりしていたり、主張していたり、雲に隠れたり、また出たり。
まるくなったり欠けていったり。明るかったり暗かったり。妖しかったり、優しかったり。
だから古来より様々な人の想像力を掻き立ててきたのだろう。
皆が日々や想いを乗せて見てきたのだろう。
当たり前やけど、不思議で、不思議やけど当たり前な、「そこにあるもの」。
光と陰は表裏一体、どちらもいっしょで、どっちもどっち。
そうして、1日は始まり、終わり、続いていく。
わたしは、美しいものが好きだ。
「究極」や「完璧」やそれに近い(と思う)ものに憧れ、惹かれる。
でも、同じくらい、「どうしようもないもの」や「俗っぽいもの」にもまた惹かれてならない。
「厄介やなあ、あほやなあ、しゃあないなあ」「ああ、もう、なんか、なんなんや」
不完全だけれど完全を目指そうとすること、理解し合えないものが例え出来なくても無理だったとしても、しようとする、ことや姿。
完璧じゃないけど、ないから、完璧を目指そうとすることまたも美なんじゃないか。
例えばそのあがきやもがき、悩みも苦しみも、まるいものも、欠けているものも、陰るものも、あほなものも、それもきっと、美しさであり、人間だと思ったりする。
前回は「花」で今度は「月」。大阪弁で言うと「いきってる」?!
でも、「何を書こうかな」と考えたときに浮かんだのは、このようなことで、
ちょうど、きれいな、月だった。
花月という言葉をご存じだろうか。
大阪・吉本興業の劇場「なんばグランド花月」の名にも使われている。
由来を、若き日に師事していた、吉本新喜劇の創始者である老作家が教えてくれた。
「人生というのはな、花と咲くか月と陰るか、いちかばちかの勝負っちゅうこっちゃ」
血の気の多いわたしは今も時折思い出す。でも、ちょっとアレンジしたい気持ちもある。
「花と咲こか、月いっしょに見よか」
アレンジちゃうし。粋さもないし。でもなんだか「Let's」の気持ちなのだ。
いろんな場所で、それぞれの今いる場所で。同じ気持ちになったり、違ったりしながら。
そんなゆるゆるつながる「Let's」って、なんかちょっと素敵やない?
12月、今年最後の満月は27日の「コールド・ムーン」。
どうぞあったかくして「Let's」である。
身体冷やさんように。靴下とか大事やで。もこもこのとか、二重履きとかでね。
これも、美。美じゃないけど、美やねん、きっと。