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DAYS

STAY SALTY ...... means column

Momoko Nakamura Column

花と月

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中村桃子
フリーライター/構成作家

旅芝居・大衆演劇の芝居小屋、

ストリップ劇場、プロレス、酒場、

人の熱とにおいを感じる場所に惹かれ足を運び、

人間の「生」と「今」を見、感じ、書く大阪の物書き

 

子どもの頃観たミュージカルと歌舞伎に魅了され、

大舞台、小劇場、寄席、あらゆるジャンルの舞台の客席へ

学生時代には劇団で役者・演出・制作として活動

喜劇作家の私塾で師事しながらテーマパークでのアルバイトを経て、

芸人やアイドルへの台本提供やミニコミ誌での取材原稿執筆

ラジオ番組AD・ブレーンを経て制作会社/広告代理店勤務の後、

現在はフリーのライター/構成作家/エッセイストとして活動中

 

初のエッセイ集『桃花日和』好評発売中

シェア本棚2箱+α「本屋・桃花日和」

note「桃花舞台」(つれづれエッセイやお知らせなど)

 

プロフィールやSNSや寄稿一覧は

https://lit.link/momohanabutai

 

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その席から

9.10.2026

DAYS /  Momoko Nakamura Column

花と月

その席から

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劇場で、好きな席がある。

一等席でもスペシャルシートでもかぶりつきでもない。

どちらかというと一番後ろの隅っこの方がいい。

必ずしも絶対というわけではない。

でも、どんなジャンルの、どんな劇場でも、

自然とそうなっているというか〝端っこ〟がしっくりくることは多い。

指定席など自分で席を選べない場合はしょうがないから、

自分で選べる場合は、だけれど。

なんてことの理由や思い出を、その日、

フェスティバルホールの三階席で開演を待ちながらふと思った。

10代の頃から好きで影響を受けている、

今や「日本で一番チケットの取れない劇団」とも言われている劇団公演の

開演10分くらい前のこと。

幕が上がるのを待ちながらいろんなことが頭に浮かんで消えた。

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学生の頃、劇場のバルコニーを居場所にしていた。

所属していた劇団で演出を担当していたときのこと。

開演10分前ではなく、30~20分前くらいの時間。

本番前、役者たちが衣裳をつけ鏡に向かってメイクをしたり

それぞれのやり方で集中している時間、

そこから来場するお客様の様子を眺めるのが好きだった。

緊張感と高揚感、ざわめき、たくさんのひとの息遣いと足音を感じることが。

言葉で説明するのはちょっと難しいのだが、

当時公演を行っていたのは学生が使うにしては結構な広さのホールで、

でも時折、そのホールのロビーを舞台にしていた。

ロビーにいろんな道具を建て込み、

大きな劇場の中にちょっとアングラ感漂うちいさな劇場を作るのである。

ちいさく、ぎゅっとした、その期間だけ現れて消える小屋。

(それでも100人弱は入った気もする)

お客さんは我々が用意した黒座布団や黒ウレタンのクッションの桟敷席に座る。

役者たちはそのぎゅっとした空間で、近い近い距離の中、熱と汗の舞台を見せる。

昔はアングラ演劇なども行っていた(らしい)伝統ある劇団の不思議な風習だった。

そのちいさな劇場の上からバルコニーから覗いていた。

時に準備を早めに終わらせた役者が来て並んで見下ろす。

「今日、お客さん多いですかね」「あ、あのひと来てはりますね」

間もなく幕が上がる。

舞台上と客席がひとときの間同じ時間と物語を共有する。

舞台の上の物語が生身の人間によって演じられ浮かび上がりそして消える。

虚と実のあわいの、その前の、更なるあわいのような時間。

なんだかいろいろなものの「あいまのあいま」みたいな場所と時間。

在学中、演出したのは2作品で、

どちらも上演許可を頂いての既成台本だがバックステージものだった。

女剣劇の一座と『ガラスの仮面』風の一作と、

戦前戦中の浅草レビューや喜劇をモチーフにした人間讃歌の一作。

どちらの際も、公演期間の開演前、バルコニーから眺めていた。

あの場所でのあの時間は、あわあわとした、でも鮮明な記憶として思い出すことが出来る。

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だからかな、などと考える。

あの感覚があるのかな。いつも、ずっと。

いや、もっと前か。

記憶は、舞台というもの、おおきなものにも、ちいさなものにも、魅了され、

わくわくと通い出した高校生やそこらの頃にも遡る。

お金なんて(今よりずっと)ないから一回一回を本当に大事に観ていた。

観に行く前からうきうきして、何日も前からカウントダウンをして、

観終わって数日はずっと頭の中でセリフやシーンを繰り返していた。

決して頭の使い方も性格も器用ではないわたしが、

芝居や舞台のシーンやセリフや演出、歌などを覚えることだけは得意なのは、

ここからだと思っている。

そんな初心からの、「作る」「届ける」側になりたくて入った劇団でのあのバルコニー。

ひとつの原点かもしれない。

劇場に行き続け、通い続ける今のわたしの。

お客さんだけれど、曲がりなりにも物書きという生業で(なんとか)生きるわたしの。

(劇場では敢えて生業をひけらかすような野暮はしたくないから、

ご機嫌な一客に徹するようにしているけれど)

 

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大きな舞台や商業演劇にも行く。

あれが観たいこれも観たいは常にある。

でも、今、わたしがどうしようもなく魅了されてやまないのは、

聖と俗、猥雑さ、生きることすべてが舞台から化粧から滲む芝居小屋、

そして踊るお姐さんたちをおっちゃんたちをはじめとした

さまざまなお客さんがステージを観るちいさな劇場だ。

圧倒的な生のエネルギーを感じるそれらの劇場にいいも悪いもを感じながら通っている。

舞台が好きだから、力をもらい生きてきたから、ここに辿り着いたのかな。

それはこじつけの綺麗事か。かもな。

でも、熱と汗の小屋で劇場で、その〝端っこ〟で、

いろんなことを感じるのが、嫌いじゃない。

美も、正解正論だけじゃない様々も、笑いも、ツッコミどころも。

いいも悪いも、理解できることも出来ないことも、好きも嫌いも、何もかもが滲む。見る。

「生きること」のすべてが匂う場所と時間と空気。

とんでもない。とてつもない。美しくない。あ、違う。美しい。だけじゃ、ない。

「人間」を思わされる。突き付けられる。

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受け取りたいな、といつも思っている。そこで。そこから。

送り手(たち)の身体や心やメッセージを。ひとつでも。一ミリでも。

そのためにこちらも心身や感性を磨き、精進したい。日々思っている。

こちらも日々や人生ををひとつひとつ積み重ねながら。

あなたやあなたたちと生きられるよう。生きていけるよう。邁進したい。本当に。

舞台で演じる物語。物語魂(ものがたりだま)。

そこから浮かんだり浮き彫りになるもの。

たくさんのお客さんひとりひとりの気(のようなもの)。

他ならぬ「今」「ここ」というかけがえのなさ。

一期一会、二度と同じものはないその空間と空気をその場所で受け取りたい。

虚も実も、劇場まるごとを、片隅から、大切に。皆と。皆で。

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今まで行ったことがなかったり、

もう行くことなんてないと思っていた芝居小屋に、

まさかの行く機会をいただき、「生きること」を想う昨今。

20年前や5年前には想像もすらしなかった嘘みたいな、でも嘘じゃない、

清濁混合の想いと舞台を浴びる日々。

頭でっかちだった若い頃では感じられなかったことや観方も、

すこし、すこしずつ、出来るようになった気もする。

良いも悪いも合わせ鏡のような自分自身にも向き合わされたりもする。

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心のHomeだと思っている劇場にも通い続けている。

どうしようもなさと、でもだから光を感じる劇場、

踊るお姐さんたちもといダンサーたちと見入る皆の劇場。

先日まさかの再会もあった。

「お姐さん、2年前のこの劇場のこの日にお話させていただいた方ですよね?」

あのとき隣り合って、

「私、初めてきたけど、今日めっちゃよかった。この劇場に来てよかった」

と話してくれた彼女。「推し」の存在と語りを聞き、

「またしばらくぶりにここに乗ったら(出演したら)いいね。また会おうね」

と伝えたら、ほんとうに。まさかの。

普段おっちゃんたちに仲良くしていただき、仲間にしていただいて、

わたしもそのバトンというかやり方を習い、何かを繋げてもいるのかな。

まだまだだけれど。じーんとしたり。

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皆、日々、それぞれの舞台に生き、演じている、生きている。

人は一人として同じ人は居ない。

いろんないろんなひとの人生と物語。「今」とこれからに続く(ことを祈る)物語。

感じ、受け取りたい。今日も劇場の片隅から。学びながら。考えながら。

そうして、観、書き、書き続け、生きてゆきたい。

 

今日も舞台の幕が上がる。

 

あなたの舞台が始まる。続く。

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旅と0.5ミリ

7.10.2026

DAYS /  Momoko Nakamura Column

花と月

旅と0.5ミリ

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春から初夏にかけて

知らない街を旅する機会がしばしばあった。

 

身内に年配の者や気持ちの弱い者が少なくなく、

そんなことにはずっと慣れてもいるのだけれど、

こちらが年齢を重ねると共に勿論あちらたちも重ねてゆく訳で。

各方面からいつ連絡が来ても(来たら)……

なんてことを考えると長期間や長距離の旅はむずかしくもなり始めた。

出来ないことはないのかもしれない。

しかし小心者で悪い意味でも生真面目なわたしは

気になったり、気がひけもしたり。

にも関わらず、不思議なことにありがたいことに、

特別な用で数度短い旅に出ることが出来た。

馴染みのない街の馴染みのない芝居小屋たちはどれもよかった。

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わたしは旅上手ではない。

キャリーなんか持たない。

リュックひとつだ。

着替えなど入れるとぱんぱんになるけれど、

でもそれが、いや、それでいいや。

とある旅の途中には服を買った。

持ってきたスカートがなんだかガーリー過ぎて気恥ずかしくなって、

駅の洒落た店に入り楽で派手でアガる柄物パンツを買って履き替えた。

ガーリーなそれはぐるぐる巻いてリュックの奥にしまって歩いた。

土地の美味しいものをひとりで食べるとか名所に赴くとかにはあまり興味がない。

どこにだって見知ったファーストフード店やファミレスがある。

自分で拵えたものを食べないことが続くと調子が悪くなる軟弱体質だけれど、

たまにはジャンキーなフードもいい。

これらの店は店もテーブルも広いのがいい。

紙とペンを取り出せるのでゆっくり過ごせる。

どんな街にもコンビニがあるということもありがたいこと。

コンビニのない土地には地元のスーパーがある。

それすらなければ何でも置いてるドラッグストアが見つかる。

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安い缶酒を買えればいい。

数本リュックに入れるとやっぱり重くなるけれど仕方がない。

目的である場所で目的を果たせたらわたしはいいのだ。

旅費はそこに使いたいし注ぎ込みたいのだ。

芝居小屋、安宿、ふらふらふわふわ、そうして夜またひとり呑む。

時に友人とLineでアホ話をしたり、

時に会ったこともないけれど繋がっている同士とDMで盛り上がったりしながら、

別に居場所の報告はしないまま共通の話題で遠隔で呑む。

仕事や私事は常に気になる。でも、忘れたりもする。

うん、やはり、旅上手ではない。

でも、この、日常と地続きの不思議な時間と空気が、

うれしく、ほんとうに、贅沢だと思う。

 

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旅先ではいろんな気持ちにさせられる。

先々のことなんてわからないし、

でも、それは誰にも己にもどのようなことにも言えること。

だからこそ、こういったケの中のハレをふわふわとゆらゆらと揺蕩うのが気持ちいい。

その時々はいっぱいいっぱいなのだが、でもどこかふわりと。

気持ちが上がったり、じぃんとしたり、むかしを思い出したり、笑ったり。

いそいそと高揚しながらも同時になにかを噛みしめたり。

ぎらぎらのライトの下や、広い空の下や、歩く知らない夜の街の中で、

心の中は常に両極端の静と動の気持ちになる。

わたしは旅に出るととにかく歩く。

歩きたいとか歩くのが好きだとかそういったことはない。

でもバスで移動するのがふつうな距離とか、

知らないちょっと賑やかすぎる夜の街の中とか、

知らない芝居小屋周りの商店街とかを気付けばとても歩いている。

街にはその街の匂いがある。

それはきっとその街の人の匂いだ。

同じにおいはひとつとしてない。

同じ〝舞台〟もひとつもない。

同じ人間も、同じ人生もひとつもない。

すごいこと。

そんな空間空気時間の中、

過去とか、変わったこととか変わらないこととか、自分の芯とか、

続いてきて続いてゆく線上の点、つまり「今」とか、

いろんなことが頭に浮かんでは消えたり気付かされたり。

阿呆な己とそれでもつかず離れず縁をくれる人びとに

照れて口には出せないけれど心の中で「ありがとう」を言ったり。

明日は口に出して伝えようかなとか、

連絡してみようかなと酔った頭で考えたりもする。しないことも多い。

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そんなこの期間に、印象深い映画にも出会うことが出来た。

映画館での最新作とかじゃなく、Amazonプライムで鑑賞したものだ。

不思議な空気の、血と熱の通ったロードムービー。

タイトルは、『0.5ミリ』。

主人公は決して聖人君主ではない謎の女。

派遣会社からのヘルパーとして働いていたのだが

とある事件に巻き込まれてクビになった。無一文。

そこで思いついたのが「おしかけヘルパー」業。

クセの強いジーサンたちの元へ行き、

泣いたり笑ったり叫んだり走ったり、いろんなことに巻き込まれたり。

まるで寅さんみたい。旅せずには生きていけないフーテンの寅さんだ。

決して善だけじゃない人間み溢れるさすらいのヘルパーを

安藤サクラがとびきりキュートにでもハードボイルドに演じる。

飄々と、小狡く、元気に、でも抱えるものを抱えながら走る彼女がめちゃくちゃいい。

ジジイたちもいい。キャストがいい。

我らが大阪人にとってもはや心の親戚みたいな吉本新喜劇のベテラン、

今は亡き井上竜夫や坂田利夫の両師匠が頑固で孤独で面倒くさいジーサンを迷演熱演。

東のジーサン役者も負けていない。

元は海軍に属していた、でも老いて人間の脆さやスケベ心を覗かせまくり

人生の滲む長台詞を朗々と述べる津川雅彦は圧巻だったし、

柄本明のいつもながらの嬉しいほどのクセ強芝居も説得力しかなかった。

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作中の幾つかの台詞にドキリともした。

 

「赤は血の色、生きるという色」

 

「今日生まれた子も明日死ぬジーサンもみんな一緒に生きてんだよ。

お互いにちょっとずつだけ目に見えない距離を歩み寄ってさ」

 

女であることのかなしさおもろさ。男であることのかなしさおもろさ。

人間であることの、おもろさ愛しさ。

生まれて育って重ねる、短くも長く、長くも短い、それぞれの旅と道。

皆のそれは重なったりずれたりまた重なったりする、

微妙で絶妙な距離、〝0.5ミリ〟

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安藤桃子監督(サクラの実姉)がインタビューで

タイトルにこめた想いを語っているのも読んだ。

 

「この社会には当たり前だけど色んな世代の人間が、

皆それぞれ違う尺度を持って生きている。

主人公のサワはほんのちょっと背伸びして、おじいさん達に歩み寄るんです。

0.5ミリは、違う世代の人たちが歩みよれる、

ちょうど真ん中にある尺度、心の尺度なんです」

 

いいことばかりじゃない。でも、たくさんあるいいことの中を、中で。

皆、人に迷惑をかけたりかけられたりしながら自身の道を歩いている。

そこで見える景色、出会う人すれ違う人。

距離、距離感、バランス、人の色、生きることの匂い。

人生という旅には限りがないようで確かにある。

その中を皆、生きている。人には人それぞれの人生と匂いがある。

 

ああ、やっぱり酒がすすんでしまうな。

 

勿論、いい酒が。

 

そう、旅先ではひとつ問題がある。

これは私的にかなり由々しき問題。

旅に出るとつい、いつも、やっぱり、嬉しく楽しく、呑みすぎる。

歩いて歩いて、日々旅をして、目の前に来ている夏も続く秋も冬も、

いい酒を呑めたらいいな。勿論、呑みすぎないようにしながら。

ふわりふわりと。そうしてケとハレを生きたいな。生きましょう。

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拓郎とマグナムワイン

4.14.2026

DAYS /  Momoko Nakamura Column

花と月

拓郎とマグナムワイン

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そこはどこにでもあるなんてことのないイタリアンファミレス。

向かいの席で女の子がぜったいに彼氏じゃない、

たぶんお客さんなのであろう男の子に人生を語っていた。

メディアにも出演する某人気キャバ嬢似の彼女は、

延々と「自分の世界を大事にすること」を説いていた。

目の前にはマグナムサイズのワインボトル。

でもそう酔いもしていない様子。

人生、感性、自分の世界、尊敬することやもの。

振り返ったというか目がいってしまったのは、

切れ味鋭いその話が全てなんというかブレない感じだったことと、

彼女が今ハマっている漫画かドラマの中の登場人物について

「この世界線のどっかにあいつ居るんやーって」

なんて言っていたことが、印象深かったからかもしれない。

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とある有名な詩を思い出しもした。

 

「自分の感受性くらい自分で守ればかものよ」

 

SNS上でも度々取り上げられ、

いいねなどがたくさん付いたりもしている詩だ。

SNSの海の中で見ると胡散臭さしか感じない。

でもその詩の説得力を彼女に感じた。

作者である茨木のり子と同じくらいに。とは言い過ぎだけれど。

インドの詩人のタゴールも似たようなこと言っていたな、とも思い出した。

 

「ひとりで進め」

 

「本当の言葉をひとりで語れ」

 

その夜、帰宅して、仕事や私事などをし、更に思い出したのは拓郎のこと。

 

世代でもないのにこの人の歌に惹かれてならない。

知人である小劇場の作・演出家が作品の中で好んで使っていた影響もある。

我が尊敬する表現者が舞台で使っていたこともとても大きい。

『今日までそして明日から』の凄さを挙げる人は多いがわたしも感銘を受けた。

『おやじの唄』がグサリと刺さるのは、

亡くなって14年、困った弱いひとだったが、だからこそ思い出すことも多いから。

『流星』は俳優や芸人の多くが「俺に下さい」と言うほど惚れたと何かで読んだ。

わたしも欲しい。

『落陽』も沁みる。アガる。

このところなぜかなんだか「流浪のライター」などと言われるようになったからか。

いや、それ以前からずっと。いろいろ重なるし重ねる。絵が浮かぶ。

日本のアーティストで最もロックでパンクなのは吉田拓郎だと、

本気で思っていた時期があって、最もかどうかはわからないけれど今も思う。

感情を、中でも怒りや寂しさや虚しさをぶつけるようなその歌たちは、

とことん泥くさく、だから「人間」が伝わるようで、

時代や世代を超えてファンが多いことも頷ける。

冷たく、やさしく、人間臭い。

そんな歌手であり歌だと思うからこそ、

個人的な思い出や思い入れも含めて、『唇をかみしめて』もとても好きだ。

ああ、人間だ。人間が居る、と思う。

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その夜思い出したのも不朽の名作。

まるで突き放すようにでもエールを送るかのように歌う。

 

〝今はまだ人生を 人生を語らず〟

 

人生って語れるんかな。

語ってるけど。皆。あちこちで。

日々。毎日。いつも。それぞれ自分のそれを。

でも語れるんかな語りきれるんかな。わかんないな。デカすぎて。

 

最近なぜかなぜだかよく考える。

きっかけはわからない、が、より強く思うようになったことがある。

 

人は、人って、ほんまにいろんなことを「決めつけ」すぎじゃないかな、ということ。

 

相手や他人のことを「こういう人」(だから)、なんて。

そうして思い込んでしまい、

押しつけたり、「聞く」「考える」をおざなりにしてしまったり。

世の中の困りごとや事件事故のほとんどはこれが理由というのも多いんじゃないか。

でもそれだけじゃない、相手や他人のことだけじゃなく、

わたしたちは自分自身のこともいつかいつからかどこかで決めつけてはいないか。

変に歳や経験を重ねているからこその「私はこうだから」。

そうしてよくもわるくも止めて止まっていやしないか。

思うことで自分を縛ってしまってはいやしない?

わたしたちはたぶん自分の物差しを信用しすぎている。

年齢や経験を重ねるうちに過信しすぎてはいる。

ねぇ、もう語っちゃってはいない?

自分で自分を決めつけて自分を押し込めた人生にしていない?

人生、感性、自分の世界、尊敬、マグナムサイズのワインボトル。

誰からも自分自身からも決められてしまう「私(あなた)」なんて

たぶん違うし狭いしおもろないしそんなんぜんぜん自由に「生」出来てへんかも。

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自他を「こう」と決めつけない。

それはたぶんとても難しいかもしれない。

固定観念や自身の経験を重ねて積み重ねてきたものを疑い続けること、

人に見せている姿見せたい見せようとしている姿や、

見たくないもの、見ようともしていないこと、環境、歳、まわり、

いつのまにか上手くなった言い訳や他人のためのようで自分のための言葉を

「よし」とせず自身を疑い甘んじずにいることって、なかなかだ。

でも、「語ったつもり」で気持ちよくなって、

そこで止まったり終わったりは、たぶんしょうもないし、あまり格好良くない。

 

茨木のり子もタゴールもファミレスのあの女の子も、

たぶんまだ押し込めて固めた石や岩みたいにはなっていない。

常に転がり続けているんじゃないか。

同じ自分だとしても今日の自分と明日の自分は違っている。

そんな自分自身が会ったり接したりする他者や相手もまた変わっている変わっていく。

人は一人として同じ人は居ない。同じ自分も居ない、変わってゆく。

体も気持ちも加齢などに伴い弱ったり落ちたりはしてはゆく。

他人とも比べるしするし「出来ていた」ときの自分と比べたりもある。

でも「自分って、こう」「自分とは、こう」と思い込んでいるとそこまででしかない。

やってみたら、いや、「やろうとしてみたら」出来るかも。

そんなことを考えると、明日がもっと、ちょっと、面白いような気もする。

 

「この世界線のどっかにいろんな「私」居るんやーって」

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わたしたちはいつになったら「人生を語れ」るのだろう。

そもそも語れるんかな。

語ったつもりになってるだけ?

人生って、なんか、デカい。

言葉って無限でちいさい、ちいさいが無限だ。

『人生を語らず』というタイトルの曲を作り歌っていた吉田拓郎は、

歳をとってからインタビューか何かで「語れますか?」と質問され、言ったらしい。

「今は語れる」

語れるんかい。

4年前に「音楽活動を引退」と宣言した。

でも、今年ラジオ番組で、7年ぶりにライブを行うと発表した。

「ミュージシャンに引退なんてない」

「リタイアすると言ったが、音楽はやめないと言った」

語れない。語りきれない。まだまだ。いつも。

いつだって超えてゆけそれをそこを。

ありがとね、あの日出会ったマグナムワインの女の子。

また会ったときは乾杯しよう。

なんて、心の中で語りかけた。

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リングとミラーボール

2.10.2026

DAYS /  Momoko Nakamura Column

Fly Me to the Moon

リングとミラーボール

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プロレスを観ていると居もしない神様の存在を考えることがある。

神になったような気持ちになった気がする。

誰かと誰かの勝敗や真剣勝負を観るということ。

人生や運命や明暗を見ているような感覚。

勿論、これは他の格闘技だったり舞台の際にも言える。

でも、プロレスという「底が丸見えの底なし沼」、

他のスポーツなどと比べても、リアルとショービジネスの両者が混ぜこぜの、

「何が本当で、何が本当ではないかわからない、その合間」

「本当と嘘、でもすべて本当」「目の前の、すべて本当」

というジャンルを観ると、より、そのようなこと感じる気がするのだ。

 

勿論、わたしは神なんて存在はいっさい信じていないけれど。

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なぜかプロレス話をよくする年の始まりだった。

1月は話題の多い月で、メジャー団体のビッグマッチがあったり、

サプライズが起こったり、各団体の選手の入団や退団も話題になる。

元旦から目上の方に新年の挨拶メッセージを送ると

いつもと変わらぬ濃いプロレス談義となった。

月末には近所で開催された野外プロレスに行ったりもした。

そのような中、とあるドキュメンタリーに痺れる。

アメリカのプロレス団体、

全世界で10億人が熱狂する世界最高のエンターテインメントとも称される

WWEを追ったNetflixドキュメンタリー『WWE “壮大なるドラマ”の裏側』だ。

今年に入って第2シーズンが放送されて話題となっている。

第1シーズンの存在もこのきっかけで知り、すっかりヤラレた。

「興行を作るということ」

「最高のショーに向けて全員がプロの仕事をすること」

「エンターテイメントとは!」

観ながら何度もつぶやいた。

「おもしろいなあ」「ほんまにおもしろいなあ」

「わたしもこのチームに入りたい、入れてくれ(笑)」

 

チーム?

 

うん。

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ある「部屋」が存在する。

さながらコックピットだ。

演出家、軍師、コンダクター、

つまり指揮者のような存在とグループが居て、

リングに上がる者、それを裁く者、映し流す者、実況する者、

そして息を呑みまたは熱狂して叫ぶ客席、全体を「つかさどる」。

最高の「ショー」は一秒一角度一呼吸ずれただけでもバランスが崩れて成り立たない。

リングに上がる者たちが最も輝くように、

会場に足を運んだ者たちやテレビカメラの向こうで見守る者たちが最も楽しめるように、

全てのタイミング、角度、息、「見せ方」、全てを「仕掛け」る。

指揮棒を振る者と関わる皆が共にメロディーを奏でる。

皆が「面白かった!」と心いっぱいに出来る最高のショーをゲームを興行を作る。

最高で、最強。

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「この世は劇場」とは、このコラムにも何度か書いてきたわたしの考え方だ。

さまざまな舞台を観てきて、関わる人々に影響を受けてきたり、

自分もそれに関わって来たりしたことで、いつからか思うようになった。

でも、同じくらい思うのは、

世の中はリングで、生きていくことはプロレスじゃないか、ということ。

私たちは皆、世間や世界というリングに立つ1人のレスラー。

そのときそのときの対戦相手が居て、レフェリーのようなものも居て、

セコンドは居たり居なかったりはするが、

味方が居て敵が居て、味方が敵になったり敵が味方になったり、

タッグを組んだり仲間割れしたり軍団抗争があったり、

マイクで叫んだり、バックステージで想いを語ったり、

日々は生きることは試合の連続だ。人生というストーリーが続く。

望み通りにはならないことだってあるし、救われないこともある。

悩んでもがいて、笑ったり泣いたり、勝ったり負けたりしている。

あなたにも私にもみんなみんなにそれぞれの物語がある。

さまざまな物語が交錯したり重なったりする世界という舞台において

おおきな物語の中にあってはひとりの登場人物やひとつのストーリーかもしれないが、

それぞれの感情があって、日々がある。皆必死に生きている。

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時に神様のようなものがいたずらをしたりもする。

 

日々や人生の中には自分でコントロールできるものもあればそうでないこともある。

理屈や常識や言葉では言い表せないようなこともたくさん起こる。

無理矢理名を付けると、運だとか縁だとかなのかもしれないそれらは、

もしかしたら「神さま」の仕業なのかもしれない。

気まぐれで駒が妙なところに動かされたり、ズラされたり、混線したり。

あいつは相当性格が悪い、ひとりで上に居るから退屈なのかもしれない。

いや、それとも、それすら、大きな物語の中で必要だったり、

なにかの伏線やサイドストーリーなんだろうか。

目には見えないオーディエンスに向けてのものなんだろうか。

日々のリングに立つ我々はたまったもんじゃない。

でも、そんな不思議なことやものに遭うことは日々や人生の中で少なくはなく、

世界はいつもよくもわるくも勧善懲悪ではないし、

思わぬところでのどんてん返しや予期せぬところで伏線回収がされたりもする。

台本はある……かもしれない。

でも台本は、ない。

作って行くのだ、相手役と、共演者たちと、日々、物語を、気持ちと体で。

そうしてショーは続いてゆく。

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役割(キャラ)のようなものがあったりもする。

人はみんな等しく平等(であるはず)。

けれど、今このシーン、今のこの舞台、今この劇場のこの景では

主役だったり、脇にまわったり、時にはヒール(悪役)だったりもする。

おおきな物語の中でシーンや景によって役割が変わったり入れ替わったりもする。

勝者が居るということは敗者もいる。みんなみんな試合に出ている。

リングに立ち、「今」の試合、「生」の試合をしている。

「もう一回」とか「まさかの、また」とか「まだ」とかもある。

そんなリングで、いや舞台であなたの役はなんだろう。今の役どころは、なんだろう。

成長したり、生まれ変わったり、よくもわるくもブレない自分が居たり、

時に失敗したり、うまくいかなかったり、休業したり、引退したり、帰ってきたり、

でも、生まれ変わったり、勝ったり負けたり、優勝したり。

目に見える観客も見えない観客も居るしずっと応援してくれている人も居る。

プロとして仕事として、いや「役」として、出会いと人生が重なっていく。

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そんなすべての人にライトが当たる。

 

人生の最後のライトはもしかしたら、

ゆらゆらと火が揺れるろうそく一本かもしれない。

でも、日々の舞台に立つ間は、

ピンスポットだったり、下からのフットライトだったり、

いろんな灯りがすべての人を照らす。

おおきな世界ではいつもミラーボールが回っている。

眩いきらきらのミラーボール、あれもまた、単独では光らない。

光を当てられ反射して光る。

太陽と月のように、相手の光を受けて、だから、光る。

きらきらの光の中、今日もあなたや私の名前がコールされる。

ゲートから入場をする。

観客の声援を受け、花道を歩き、リングに立ち日々試合をする。

人と人の肉体と心がぶつかる。スウィングしたりしなかったりする。

汗と涙と血とどろどろと、

でもきらきらと、むきだしのセッションは日々繰り返される。

嘘とほんとの世界で、自分と相手、主役と脇役、演者と観客が居て、

むかしと今とこれからがあって、みんな主役、それぞれの舞台で皆懸命に生きている。

すべての物語には紆余曲折がある。だから美しい。

WWEのチーフ・コンテンツ・オフィサーであるトリプルHは言う。

「シナリオは作れるが観客の反応だけは誰も予想できない」

好きな芝居のセリフもふと思い出す。

「芝居とは、嘘を真に変えること。

芝居者とは、嘘を真に変える者たち。夢を真に変える者たち」

『WWE “壮大なるドラマ”の裏側』のキャッチコピーも、とても、よかった。

「ITS MORE REAL THAN YOU THINK」

ミラーボールの下でわたしたちは今日も試合をしている踊っている。

皆で生きよう。観客も神様さえも物語の向こう側へ連れて行こう。

光を受け、笑おう。嘘とほんとと、でも、すべて本当の世界で。

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華とハレ

12.10.2025

DAYS /  Momoko Nakamura Column

Fly Me to the Moon

華とハレ

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今年の花火は秋に見た。

雨の中、ずぶ濡れになりながら、

真下で、知らない多くのひとたちと。

 

相変わらずぼちぼちいそいそと劇場や祭に通ったり足を運んでいた秋だった。

去年から嬉しい縁がほんとうに奇跡のように続く芝居小屋、

大事なストリップ劇場の記念興行、

近所の城の庭であった薪能、神社やお寺や野外での祭、

仕事や私事の中、いろいろ行った。

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大好きな劇団の結成45周年記念の祭り興行も出かけた。

劇団☆新感線の『爆烈忠臣蔵~桜吹雪 THUNDERSTRUCK』って、なんちゅうタイトル!

江戸は天保、お上による贅沢禁止や歌舞音曲自粛の世に、

芝居者たちが弾圧に負けず、意地と粋と(全力のおフザケ)で天下御免の大歌舞伎!

私たち俺たちの忠臣蔵を! 上演する! という、エンタメ時代劇もので、

物語の中に劇団や役者たち自身の想いを投影したような、

アツさと肉体と人間臭さてんこもりの4時間芝居だった。

10代、高校生の頃、演劇にのめりこむきっかけとなった劇団である。

間はあいたり、観ない時期はあれども、ずっと大事で好きで、

作品たちから人間観や好きなものやスピリットなど、とても影響を受けている。

懐かしさや、劇団員が全員50代になっても、

それでも変わらず全力でばかなことをしながら格好いいさまを眩しく思ったり、

笑い泣き、いや、やっぱりずっと笑わされたり。

ブレないままにもアップデートしてゆくこと、

でも芯はブレないことの大事さを思わされたり、

やはり、わたしの核というかナカミはこの劇団から出来ているな、なんて、

わくわくしながら、笑いながら、熱くなった。

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芝居者たちを描いた作品を観ていて、

同劇団による過去の芝居をいくつか思い出しもした。

「すべての道は舞台へ通ず!」という名台詞を生み出した

女剣劇の劇団と漫画『ガラスの仮面』やミュージカルをパロディにした

『花の紅天狗』(初演1996年、再演2003年)。この作品には思い出が多い。

そして、もうひとつ、頭に浮かんだ作品がある。

この度の忠臣蔵モチーフ作品同様に江戸は天保時代を舞台にした、

江戸の職人たちとかぐや姫の物語『大江戸ロケット』(2001年)。

花火師と職人ちが、空から落ちてきた女の子を

月へと還すために御法度ご禁制の花火を打ち上げる。

花火の筒を逆さにして打ち上げてロケットに、いや、大きな龍にして天に昇らせる!

この公演にはちょっとした事件(詳しくは書かない)も起きたりもして、

観たひとや覚えているひとも少ないかもしれないが、わたしは好きな作品のひとつだ。

窮屈な時代に、心意気と技量で、「でっけぇ花火を」! 

いいな。劇団も、わたしも、ブレないな。物語や台詞を思い出しながら、また笑う。

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窮屈な世と日常、ハレの場やカブくこと、

アナーキズムや反骨精神、日常と非日常。

「劇場とは日常に仕掛けられた祝祭」とは、友人である粋人の名言なのだが、

舞台や劇場やそこに集まる人びとが、大事で、育ててもらってきて、

だからこそ、最近は、改めて、そんなことについて考えたり、感じたりすることが多い。

ケとハレの空間、熱、想いと灯り、歴史や継承、それぞれの意味や、こめられた願い。

いろんなことを、もっと聞いたり学んだり知ったりしてゆきたいな。

人びとの想いを感じ、書いたり書かなかったりしてゆきたいな。

今まで以上に思う昨今だ。

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なんて言っていたら、偶然、いや、必然なのだろうか、ありがたい機会にも恵まれた。

大阪名物(?)「なにわ淀川花火大会」。

いつもは夏の暑い暑い盛りに開催されるこのイベントが、

今年は万博の影響で10月半ばの土曜日に行われた。

人の多い場所は実はあまり得意じゃない。いつもは家の近所から見る。

自転車を飛ばして近くの公園に行くと結構おおきくきれいに見えるので、

打ち上がった音を聞いてからふらっと出て行っていたりもする。

しかし、である。

前日、突然、関係者の方からエキサイティングシートなる観覧席のチケットが回ってきた。

どうしようかな、なんてぐずぐず迷うも、

「お茶とお弁当付きやで」というフレーズに負け、出向くことに決めたのが当日昼のこと。

正直に言う。実際に足を運んでみないとわからないなということをたくさん見た感じた。

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向かう阪急電車や会場へ歩く道の、想像した以上の混み具合。

阪急「十三」駅の駅員たちの必死な、でも、きちんと仕事するさま。

会場までの行く道にある飲食店やコンビニが頑張って酒や物を売る様子。

花火が打ち上がる前に謎の歌手のライブが行われ、爆音で流れる会場。

え、ちょっと、これ、ちゃんと美味しいやん、なシノブフーズのお弁当と伊藤園の缶入茶。

秋なのに頑張って浴衣を着ている楽しそうなカップルたち。

花火前の「万博ありがとうございました」という偉いおじさんたちの無粋な長い挨拶。

警備や誘導担当のアルバイトスタッフによるいい態度、悪い態度。

観覧態度の良いファミリー、悪いファミリー。粋なカップル、そうじゃないカップル。

そんな中で感じる、川べりの草の匂い土の匂い、風の匂い、頬や体を撫でる風。

すごい情報量の多さで、持参した角ハイがいい意味で進まない。

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そんなカオスの中、どーんッと上がる。

おおきなおおきな、秋の花火が。

詰めかけたいろんないろんなすぎる人たちが見上げる中、どん、どーんッと。

圧倒された。ほんま、「考えるな、感じろ」。って、これは言いたいだけ。

見え方も、音も、なんておおきく、なんて、迫力。そして、カラフル。圧巻だ。

しかも打ち上がる花火にはBGMがついている。

スピーカーから爆音で流れるのはAdoとかミセスとか椎名林檎とかKing Gnuなど。

何これ。カップルのデート用のBGM?! エモい感じ?! 要らん。集中させて。

でも、でも、これも会場に来てみて知ったことわかったこと、じわじわと来る。

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見惚れながらも頭の中を忙しくしていたら、雨が降ってきた。

ぽつりぽつりと、風情の感じられる、なんてのとは、真逆の豪雨だ。

花火のクライマックス、一番いいときに、降ってきやがる。

そうか。だから会場前の道にあったコンビニたちが店頭で簡易レインコートを売っていたのか。買ったり、持って来たりしている人は、賢いな、慣れているな。

着ていない人びと(わたしを含む)はびしょ濡れである。鞄の中まで浸水していく。

でもそんな大雨豪雨みたいな中、爆音のエモい曲たちは流れ続け、

花火は止まることなくどんどん上がる。打ち上がっては消え、また打ち上がる。

身体は冷えるし、服は体にへばりつくし、これはヤバい。

だから終わりまで観ずにゲートへ向かい、なんとか会場の外に出た。

でも、駅まで歩く中も、ずっと、ずっと、花火は打ち上げられいて、

大会は、滞りなく、予定通りの最後まで華やかに開催された。

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「なんか、なんかすごかったな。すごい体験をしたなあ」

 

嘘みたいな、でもほんとうの、幻みたいな、時間と場所と空気。

今思い出しても、なんかそんな不思議な感慨深い気持ちになる。

でも、びしょ濡れの気持ち悪さは今も鮮明な記憶。

この話を数日後、行きつけの美容院の店長にしたら、

「行ってたんすか。大雨の中(笑)」という爆笑と、

「あれ、浴衣で行ってた女の子、かわいそうすぎますよね。

彼氏なんとかしたれよ、って思いますわ」

というさすが仕事人目線だな、というコメントがきたりもして。

浴衣でもカップルででもないが、わたしもめっちゃ濡れた。

とてもとても電車には乗れないくらい服が濡れ肌に貼りつきすぎていたので、

仕方がないからもうひとつの最寄り駅から自宅まで歩いて帰った。

その道中、毎年家から花火を見慣れているのであろう子どもが、

マンションの一室から叫んでいたことも忘れ難い。

「皆さん! この後最後にもうひとつデッカい花火が来まーす!」

嘘つくな。狼少年。こっちはそれどころじゃない。帰りたい。着替えたい。

と思うのはわたしだけじゃないのか、歩いている人たちはほぼ半笑いや無視だ。

でも子どもは面白がっているのか、いや、真剣に、更に叫んだ。

「ほんとうですよー!!」

はいはい。

 

どーんッ!!

 

あ!!!

 

「だから言ったでしょー!」

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濡れ鼠のまま駅近くのコンビニに入った。

もう一本角ハイを買って飲みながら結構な道のりを歩いて帰った。

帰り着いてから、そして、今、思い出しながらも、笑ってしまった。

ああ、「ケとハレ」やな、「祭りと日々」やな、めっちゃ「生」。

あの少年の叫びは、雨は、ハイボールは、よかった。

雨のち晴れ。日々ハレ。打ち上げ花火。ああ、皆、生きてるな。おもろいなあ。

どうぞ皆さま、そしてあなたも、今日も明日もどうか元気で。来年も元気に、よろしくね。

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業と生

9.10.2025

DAYS /  Momoko Nakamura Column

Fly Me to the Moon

業と生

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業と書いて「ぎょう」とも「ごう」とも読む。

仕事、行為、行い、技、カルマ、それが「ぎょう」。

善悪の行為とその結果として生じる報いが「ごう」。

この夏観た「言葉」を扱うテレビドラマで知った言葉が印象深い。

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今年6月に「完結」をした韓国ドラマ『イカゲーム』にとてもハマっていた。

ちょっとした社会現象的な流行り方をしていたこの作品のことは、

ご存じの方も多いだろう。

借金をはじめとするそれぞれの理由を抱えた人たちが

賞金と生き残りをかけた「ゲーム」に参加をする。

いわゆるデスゲームものだ。

この手の作品は日本のドラマでも少なくないが、特に好きでもなかった。

でも、『イカゲーム』は昨今の社会情勢を見事に描いていたから舌を巻いた。

格差、分断、競争、戦争、「この世界に未来はあるのか」、風刺と皮肉を効かせ、

「考えないといけないこと」「みてみぬふりをしてはいけないこと」を

てんこもりに詰め込み、メッセージを突き付けてきた。

「おまえならどうする」「おまえはどうだ」

生きることとエゴイズム。二元論では語り切れない「人間」。

極限状態における人間の〝ナカミ〟からの言動。

信じられないことばかりの世界の中、それでも「人間」を信じたいなどと

常日頃から言っているわたしには強烈で、震えながら、唸りながら、

汗なのか冷や汗なのかなんなのかわからない汗をたらしながら観終えた。

2021年に配信が開始したシーズン1からハマっていたのだが、

この夏前に配信された完結編ではこれでもかというほどに感情を揺れ動かされた。

生きることはゲーム? 人間とは。人間って? 直視したくないほどの「生きるということ」。

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映画、本、ドラマや芝居、舞台、創作や表現が伝えてくれることはたくさんある。

それらを受け取ること、受け取り切れていないかもしれないが、

考えたり、感じたり、受け取ろうとしてみることは、本当にしあわせなこと、

ありがたく尊いことや時間だととても思う昨今だ。

作品のメッセージを自分なりに考えること。

送り手(演じ手)の意図を考えること。

作品の作り手から直接話を聞いたり、

同じ作品を観た者同士で「私はこう感じた」を話し合ったり、

わたしはこういったことや時間が本当に好きで、作品や表現、創作物の持つ「力」を思う。

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この夏、芝居小屋に通う機会にも恵まれた。

暑い暑い中、酒を数本持って足を運んでいた。

この世で最も尊敬し憧れる役者は、現役を退いた今も、舞台に立つ機会がある。

舞台上から様々なことを「仕事」「姿」で伝えてくれる。

「その様」を見せて頂き、改めて舞台や芝居の面白さを改めて教わっている。

中でも、役のこと、物語を見せること、考えること、その仕事を思う。

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旅芝居・大衆演劇の芝居は、

いい意味で「THE 時代劇」「(結構大半が)勧善懲悪」であることが多い。

「スター(座長や花形役者)(善玉)が格好いいさまを見せる

(内容よりも)型や様式美の芝居」が少なくない。

それ故、正直、ストーリーが破綻していたり、

登場人物たちの筋や理由や設定が通っていないというものも結構ある。

悪いことではない。

しかし、よくも悪くも旅芝居からではなく、

一般的な演劇(小劇場など)から入ったわたしには

どうにもこうにも「?」となってしまうことも少なくない。

単にわたしの好みだ。でもそのような見方故に、時に「むむ」「うーん」。

しかし、かの役者は、悪い親分だったり、斬られて死ぬ役や、ちいさな役の際も

「自分で裏設定とか考えるの」「勝手に作ってそれを演じたりするの」と言う。

筋が通らないどころか設定すらされていないような役の際も。

だから、役が、物語の中の役が、生きている。めっちゃ、本当に、生きている。

だから、踊りでも、曲の中の人物が、所作の中に、とても、めちゃくちゃ生きている。

ひたすら一人、異質なほど真摯に「役」で「仕事」だ。

唸らされ、惚れ惚れとしながらも、はっとする。

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どんなちいさな役も、いや、すべての人が、生きていること。

 

どんな人だって、生きている、生かされているということ。

 

主人公は勿論、物語に登場するすべての役の人は生きている。

さまざまな「その人」の立場や考え方。

その立場に立ってみて、見えるものや、考え方。

どの役どのサイドからの目線も、って、きっと大事なんだ。

フィクション(虚)の世界には「勧善懲悪」がある。(ことが多い)

悪が退治され、正義が勝つ。拍手喝采。幕が下りる。

けれど、現実(実)の世界では、そうじゃないことが多い。

さまざまな人の立場やさまざまな視点で考えてみる、ってきっと、大事。

例えば加害者側、敵や悪い役側、共感は出来ない者の気持ちをもだ。

その人が「そうした」にも理由がある(かも)ということに想い馳ることの重要性。

作品を通して、演じる側も、演じる側だけじゃなく見る側受け取る側も、

様々な役の気持ちになってみることやそのような体験をさせて頂くって、すごいこと。

それが出来る、体験できる舞台って、演じるって、観て受け取るって、面白い、深い。

人間は簡単じゃない。だからこそ、「次」「これから」「明日」のためへの「いろんな視点」。

さまざまな人が生き生かされる、この現実世界という劇場で。

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戦後80年の夏でもあった。「語り継ぐこと」という言葉をよく耳にした。

ちょうど夏前に演劇博物館にて特別展を見たばかり。

先のドラマや、「いろんな役(人)」の気持ちということと併せて、考えさせられた。

「演劇は戦争体験を語り得るのか ——戦後 80 年の日本の演劇から」

「戦争という現実を前に、芸術は何ができるのか」

わたしが観てきた数々の舞台がそのセリフたちが紹介されもしており、

中には学生時代役者として演じた舞台もあった。

蝶々夫人と天皇制と長崎の原子爆弾をモチーフにした一本、『パンドラの鐘』だ。

この芝居でわたしが演じたのは〝もう一つの太陽〟を「落とし、爆発させる側」だった。

伝えること、受け取ること、語り継ぐこと。

聞くこと、聞こうとすること、考え、考え続けること。

行われてはいけないゲームが日々行われるこの世の中で、「皆で生きる」に想いを馳せる。

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そんな夏もまだまだ終わらないが終わろうともする中、

改めて、姿勢を正す、しゃんとしていたいと思わされる。

書き手として、人として。

人間をあきらめず、人間をばかにせず、皆で生きることを考えてゆきたい。

皆が「自分らしく」生きる、そんな社会のため。

でも残念にも悔しくもそうでないことが多すぎる世の中において、皆と、皆で。

相変わらず血の気は多い。口も悪い。酒も呑む。

でも、日々、悩みながら、もがきながら、汗も冷や汗もかきながら、

書くこと人と接すること対話することで、考えたり伝えたりを続けてゆきたい。

世の中にsuperstarは居ない。完全無欠のヒーローなんて居ない。皆、生きてる。

人間はややこしいしむずかしい。でも、めっちゃおもろいし、めっちゃ愛しい。

と、アホなわたしは心から思うし思いたいし、信じているからこそ、

今日も明日も、あなたと、皆と。

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纏と刀

6.20.2025

DAYS /  Momoko Nakamura Column

Fly Me to the Moon

纏と刀

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「仕事」

いい仕事とは?

よく考える。

考え、思い返しては、しゃんとなる。

 

昔も今もずっと変わらず尊敬し憧れる人が居る。

20年ほど前に言っていた言葉があって、

声も言い方もずっと頭の中に残っている。

「俺は職人さんなの。せっせこ作ってせっせこ見せるの」

勿論、こちらも日々歳や何かを重ねていく訳で、

生きること生きてゆくことは決してきれいなこと(だけ)じゃなく、

むしろそうじゃないことの方が多いかも、という現実を身を持って学んできた。

でもね、だからこそ、核や芯のようなものを思い出し、噛みしめたりする。

曲がりなりとも「書き屋」としてこちらも仕事をする上でいつも胸に置くようにしている。

まだまだ全然だし、それが、いや、それだけが正しい訳じゃないと思いながらもだ。

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このところ、毎月20日頃、市に行く楽しみが出来た。

蚤の市。古道具や和雑貨や着物を集めたフリーマーケット。

何年も前からちょくちょく足を運んでいたのだが、

昨年末から毎月のように行っているのはいい出会いがあったから。

着物や前掛けをリメイクした鞄を作り売るその店は、最初に知人が見つけた。

「絶対好きやで」と幾つか買ってきてくれた。SNSのアカウントをフォローした。

昨年末、ある新作写真に目が釘付けになる。

江戸のとあるモチーフがデザインされた鞄! ぜったい欲しい!

しかしわたしが行ったときはもう売り切れていた。

がっかりしていると店の兄さんと姉さんはするりとおっしゃる。

「布まだあるし、作りますよ」「マジですか?!」

翌月、まさかのサイズ違いの2種類を作って下さる。迷わず両方共お迎え。大満足。

また翌月、またしても好きな別モチーフの新作がSNSにアップされる。

江戸じゃない。プロレス。古布のプロレス柄。すごい。

悩むも連絡をすると「まだあります!」「みてみますか?」またGET。

さらにその後も「嘘やん」と思うような新作があらわれ、

毎回「そんな値段?」なので、楽しく買わせていただいている。

ちょくちょくと会話などするようにもなった。

お礼がわりにアントニオ猪木の本をネタで差し上げたところ、

こちらが嬉しくなるほど喜んで下さったり。

ちなみにプロレス鞄は考えた末に我が戦友に差し上げることにした。

「これは俺にしか使えんな(笑)」と喜んでくれた。

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好きなものやスタイルが偶然ぴたりと合う。その嬉しさはある。

でもね、なにより、「作品」が気持ちいいなと思うのだ嬉しいのだ。

会話はする。でも店の兄さんも姐さんも必要以上のちゃらちゃらした喋りはしない。

誰に対しても媚びない。でも、ちょこちょこと話してくれることはぐっとくる。

「これね、僕もええの出来たって思ってね」

「ここのポケットいいでしょ。別の布を2種類合わせたのよ」

「新しくこんなんも作ろうと思っててね」

「わかって下さる方に買ってもらえて嬉しいです」

作品ひとつひとつにちゃんとこだわりと矜持のようなものを持っておられ、

ちゃんと「仕事」をされているさまが伝わってくる。そのさまが気持ちがいい。

どんなジャンルやどのような人でも仕事への向き合い方ややり方や思い入れはそれぞれだ。

どれかやなにかを「正しい」とか「間違ってる」だとかというのはおかしいし傲慢だ。

でも「わたしは」、こういった人ややり方が、とても好きで、嬉しくなる。

 

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お店と縁が出来るきっかけとなった江戸のモチーフは火消しの纏だった。

め組の辰五郎とかのあれ。いろは47組(後に48組)のあれ。

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江戸や江戸時代には子どもの頃からずっと興味があった。

理由やきっかけは寄稿したvol.33 PEOPLEにも書かせていただいたのだが、

憧れの文筆家・杉浦日向子の影響も大きい。

「江戸は遠い昔じゃない、愛しき昔の私ら、今に生きる私らだ」

彼女のエッセイにたくさんふれてきて、江戸や人々のソウルのようなものがずっと愛しい。

住んだこともないし行ったこともないけれど懐かしい。

私の中にも生きているような気がしてならない。

浮世絵、戯作、歌舞伎、相撲。洒落と滑稽。粋と情。

お上に屈しない町人魂。職人の矜持と心意気。

大河ドラマの影響で今多くの人が興味を持っている絵師や戯作者たちも好きだ。

でも同じくらい、憧れ、痺れるのは、町火消という、おあにいさんたち。

火事と喧嘩は江戸の華。江戸では火事が日常茶飯事だった。

その際、まっさきに飛んでいく彼らの仕事は「壊すこと」。

江戸の火消はとにかく壊す。燃え広がらないよう、食い止めるための「破壊消火」。

天井や屋根は鳶口で柱は大きな刺又で壊す。守るために壊す。

死ぬこととぎりぎりのSEEK AND DESTROY!

その「仕事」のシンボルとなるものこそが纏。

「ここは俺たちが仕事をする」

それぞれの組の旗印。心意気。命がけの仕事のシンボルだ。

そのような纏をモチーフにしたこだわりのバッグを手に出来、

共に日々を過ごすことはなんだか勝手にいろんな力をいただく気がする。

仕事に精が出る。うん、こじつけだ思い込みだ。でも、ええやん。

ということで、「消防博物館」(東京消防庁内)に「ほんもの」も見に行った。

しばらくずーっと眺めていた。

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職人は「その仕事」のことしか考えない。考えられない? 考えていない。

目の前の仕事、自分の仕事を、頑固なほどに不器用なほどにやる。

時に誤解されたりしながらもそれでもブレずに。

常に目の前のことに相対し、努力をする。努力は見せない。

ひとつひとつの仕事に人生が凝縮する。ひとつひとつが真剣勝負。

世の中でそのやり方はもしかしたら古いと言われたり損をしたり、

しんどいこともあるかもしれない。器用で不器用? 不器用で器用?

でも、そう思えるものや人に出会えることは嬉しいし、己もそうありたい。

媚びず、ブレず、群れず、自分の「仕事」。

先程の友人と話していて、気付けばこんなことも言っていた。

相も変わらず芝居小屋とプロレス、仕事の話。

「ヒリヒリしたい。わたしはずっとガチで居ます。ガチで見ますし観ますし、書きます」

ヒリヒリしながら笑顔で返して下さった。

「俺らはずっと、そう居よう」

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先月は刀も見た。

なぜかわからないがたくさん行った。

七支刀。百済が大和に献上したという古代の鉄剣は奈良国立博物館で見た。

丙子椒林剣や七星剣。聖徳太子が持ったという刀も大阪市立美術館で見た。

「全日本刀匠会50周年記念-日本刀1000年の軌跡」(大阪歴史博物館)

こちらも気になり最終日に駆け込んだ。

時代ごとの刀がずらりと並ぶ。現在の刀匠たちの作品も展示されていた。

ガラスケースの中には彼らの作品と共に丁寧なキャプション。

匠たちがどのような思いで作ったかがよくわかる。

QRコードもあった。読み込むと作成中の動画が見られるらしい。イマドキだ。

動画は見ていない。でも全てのキャプションをじっくり読んでいった。

その、ひとつに、ぐっときた。

「言葉よりも作品が全てですので、自由に感じ、見ていただき、

少しでも心に響き、残るようでしたら嬉しいです」

ぎらぎらしてる!

纏。刀。いい仕事が出来ますように。いや、してゆきたい。今日も明日も。しゃんとなる。

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花の顔

4.12.2025

DAYS /  Momoko Nakamura Column

Fly Me to the Moon

花の顔

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この号が出ている頃、全国の桜はどのような状態なんだろう。

時に寒さが戻ったりもするが、あたたかすぎる日が続いている。

今年は例年より5日ほど開花が早かったとも言うし、

種類や地域にもよるが、散ったり、葉桜のところもあるのかもしれない。

 

先日思いたって名刺をあたらしいデザインのものにした。

花びらをすこし散らしてみた。

春だから? 西行? 大杉栄?

ずっと屋号のように使っているフレーズ「桃花舞台」を意識したのはあるかも。

本名がありきたりというか同姓同名の人も結構居るため、

この屋号? ハンドルネーム? いまだに何か自分でもわかっていないものを、

使い出したという話はvol.33 PEOPLEの際にも書かせていただいた。

書くことを志しインターネット上のBlogを始めた際になんとなく付けた名だ。

あまり深い気持ちではなく、思い付きで。

とは云え、だから、不思議なもんやなおもろいな、と笑ったりもする。

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「人間って、花やねん」

 

いつも思うし、言うし、書きがちなこのことは、

それこそ古今東西のありとあらゆる文化人や風流人たちが感じ、口にしてきたこと。

今更わたしがどや顔で言うことでもなんでもない。

でもね、旅芝居・大衆演劇の芝居小屋やストリップ劇場、人間だらけ人間まみれの、

熱や力やにおいまで伝わってくる舞台と模様のそれらを長年見、追っていると、

やはり思う。思わされる。歳を重ねるにつれより一層だ。

咲いて散る桜、尊厳の象徴のようなバラ、

それらを含む、日々あちこちに咲くいろんないろんなすぎる花たちみたい、なんて。

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「舞台は人間で、人間は花で、皆、花。皆、きれい。

きれいじゃないことやものもあるけど、でも、きれいじゃないから(も含め)皆きれい」

 

というようなことを書いたら、言葉を続けてくれた人が居る。

 

「かたちは綺麗じゃないけどパッと咲きたいねん。

 皆一生懸命生きててそれを咲かせる舞台が欲しいねん。

 それをさがして一生懸命生きてんねん」

 

本名も知らない劇場仲間のおっちゃんだ。

劇場通い歴40年ほどになるらしいそのひとは、

ほんとうは、というか、素の顔は超人見知りで、

インテリ、つまり、めっちゃカシコ(高学歴)で、

会社では実はめっちゃ〝偉いさん〟で、家ではパパでじいちゃん。

でも、そんな風には見せない。見せない? 見せていない。

陽気でアホなおっちゃんだと思われている、思わせている?

 

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わたしも言葉を続けた。

 

「みんな主役やねん。ここでは」

 

「諦めたやつ、諦めかけたやつ、希望をもってさがしてるやつ、それぞれ咲く花や。

舞台で咲かせた華、勇気をもろてんねん」

 

ああ、やっぱり劇場は、芝居小屋は、ええな、ええよなあ。

 

同じく劇場で知り合った粋人のにいちゃんもこんなことを言っていた。

 

「劇場へはね、肩書は置いてくるもんなんですよ。皆、等しくアホなんです」

 

ほんま、ほんまやで。

 

舞台の上の顔。客席のたくさんの顔。

皆が笑っていたり、いい表情(かお)をしていると、グッとくる。

瞬間と空気と、熱と力、言葉ではない気持ちのやりとりみたいなもの。

その中の一部に自分も居るということも、いや、いうことも、感覚で感じる。

 

「ああ、にんげんって(ややこしいけれど)いいな」

 

そんな中で、ふと、いや、こうも思う。

 

人は一体幾つ顔を持っているんだろう、って。

 

「ひとつや!」というツッコミは勘弁していただくとして。

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今ここで見せている顔。

例えば職場や家での顔。

同じかもしれないし、違うかもしれない。

場所や環境だけじゃない。

例えば同じ今でも、

誰かがあなたに見せている顔とわたしに見せている顔は、違うかもしれない。

幾つなんやろ。

それも年齢や人生経験によっても変わりもするのかな。

1個のままのひともおるんかな。

 

顔。お面。マスク。

 

「人にはそれぞれ役や係があるねん」

というようなことを中島らもだった。

映画化もされたプロレスをモチーフにした小説で、

悪役レスラーをやっているお父ちゃんが息子に言うセリフ。

日々は仮面舞踏会で、この世は覆面レスラーたちの試合かな。

旅芝居の舞踊ショーにもお面を使う舞踊は結構ある。

私的には「面をとっかえひっかえするだけの時間」などとつい思ってしまうのだが、

客席からは「わぁ」と歓声が上がることも多い。

能面の般若は勿論、翁の面など使う者も居て、意味深。

変面ショーというのは中国四川省の伝統芸能だ。

というか、面の前に、そもそも、化粧がある訳で。

化粧もまた「もうひとつの顔」。

我々一般の者もするが、芝居小屋のそれはこってりとした白塗りなどで、印象深い。

元々は明るくない芝居小屋で少しの光でも見えやすいように白く塗って

そこに隈取などで立体感を出した、という説を読んだことがある。

前衛舞踊でも白塗りはあり、こちらは「見る・見られる」者として、

自意識などの個性、つまり「我」を隠すための様式美として、という説も読んだ。

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お面(マスク)と顔。化粧顔と顔。

人と人は近くて遠く、遠くて、近い。

ケとハレとか、現実と虚構とか、演じることやときと普段のときとか。

あなたとわたし、わたしとわたし、でもどれも「ほんとう」で「私」。

うつろうもの、変わるもの、いろんな顔を持ち、

でもたぶん全部つながっていて、ナカミは「ひとつ」。

不完全かも、不完全だからややこしいけど、でも愛しいのかも。

例えば今日の今の顔がしんどかったり無理したりしても、次は明日はまた別の顔、

どんな顔も、どれも「私(あなた)」、全部いろいろ、大丈夫。

みんな咲いている。咲いて散る。日々、「今」、めっちゃ、咲いている。

生きることは綺麗だけではない。でも綺麗。

皆それぞれに、脇役でもあるが、いつも、誰もが主役なのだ。

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春、花見のできる期間は結構短い。

でも、だから、いいのかな。

あの花もこの花も見ていたいし、咲いていたい。

缶ビールなど片手に、もうすこし。

今年はどこでどんな花。

もう見た? これから? また来年?

咲く中を走るのも、結構好きだ。

わたしは自転車が好きで、

走りながら、いろんなことを考えたり思い出したり、整理したりをする。

先日、ふと思い出したのは「走る覆面ヒーロー」のことだった。

ライダー。そして、月光仮面。

生まれてもいない頃のヒーローまで頭に浮かんだ理由はわからない。

でも、彼らもまた、走りながら、今日のバトルのことや対峙した悪のことを考えたりしていたのかな、って。

面の下、誰にも見せない顔、ヒーローじゃない顔で、ひとり反省会とか、していたのかも。

走るのっていい。飛ぶのもいい。

二十面相や摩天郎みたいにひらりマントをひるがえし、花びらみたいに飛べたらいい。

皆、主役。皆、ヒーロー。善と悪は表裏一体。誰もが誰かのスーパースター。

わたしも、花たちと共に今日も明日も「いい仕事」をすべく励みたい。

仕事。いい仕事。ということも、最近よく考えるのだが、この話は、またいずれ。

と、今回のところはひらりと花道を走り去る、なんてね。

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春夏秋冬とing

2.8.2025

DAYS /  Momoko Nakamura Column

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春夏秋冬とing

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あれは春のことだった。

春の嵐のような夜だった。

 

劇場に通っていると、

言葉には出来ない瞬間というか、

肌で何かを感じるようなことがあって、

それは個人的にという場合も少なくないが、

「今、この場に居る皆がそう感じてる!」と、

なぜか確信めいて思うことがある。

あの夜はそれだった。

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舞台には踊子がひとり。

見つめる無数の目。

たくさんの目と体と彼女の体と皆の心と音楽が、

すぅっと一緒一体になるような、

しん……っと、けれど、熱くシンクロして、

でも、最後の最後で、音響が止まった、切れた、ぷちっ、え、えーっ!

でもそれでも一体となった劇場の空気は止まらず切れなかった。

静寂の中、手拍子が続く中、彼女は花道をゆっくりと歩いて、戻っていった。

拍手が起こった。ぞくぞくした。

「よかった! めっちゃよかった!!」「のに!!(笑)」

「のに!!(笑)」

笑顔で返してくれた2文字と笑顔はまだ頭に心に残ってる。

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勿論いい夜いい舞台いい瞬間はたくさんある。

いいと感じる感じ方やときは人それぞれだ。

わたしが勝手に意味付けをしているだけだという自覚はある。

でもその夜のことは、うん、やはり春の夜だったからかな。

今でもふと思い出す。昨年4月、京都の劇場での出来事。

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翌日、声が出なくなった。

花粉症からのアレルギーをこじらせ、数日咳が出てはいた。

でも嵐から一夜明け、

大声を出した訳でも喋り過ぎた訳でもないのにおかしくなった。

コロナでもインフルでもなかったが、医師に怒られ、笑われ、

5月の連休までしばらくずっと家にこもることとなる。

それもあっていまだに思い出すのかもしれない。

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夏、この夜の話題が出た、偶然。

同じ場に居た、ちょっと尊敬もする方(の、ひとり)とだ。

おっしゃった。盛り上がった。

 

「あれはね、劇場の神様が居たんですよ」

 

わたしは神様やおばけを信じない。

スピリチュアルや宗教はあまり好きじゃない。

寺や神社は好きだ。好きだから行く。

でも興味はあるが信仰心はあつくない。

信じたり支えにしている人のことは否定しないばかにしない。

ただ、わたしは、そういう感じ。

でも、なんだ、なんだろう、なぜだろう。

科学的というかゲンジツというか、

そんなでは言い表せないようなことやときやものって、

日々や世に、生きていく中で、結構あって、

なんやろう、ほんまなんやろ、思い込みかな、

でもそうやけどそうじゃないそれだけじゃないねん、みたいに感じることは年々増えた。

まるくなったのか。弱くなったんか。いや、ただ単に歳をとった? かもしれない。

が、それだけじゃないようにも思うのは、やはり、こじつけか。

 

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夏、いや夏前から、

身内数名の年齢などからによる体調不良もとい心身不良で駆け回っていた。

過去形ではなく、現在進行形。

でも、あの時期は本当に自分が何者かとか

どこの人で誰やねんどないすんねんと結構気持ちに、ずーん、どーん。

で、なぜか盆踊りによく行っていたのは前前号にも書かせていただいた通りだが、

そのような夏を経て、秋は地に足を付けてこちらの世界に戻ってきたような、

「日々」「心身」「生活」「リアル」を考えたり噛みしめたりもしていた。

気付けばよく口に出していた。

「いちにちいちにち」

世も人も一秒後の世界がわからない。

不確かで混沌とした昨今だ。

世の中は澄みきるどころかますます複雑になっている。ざわざわする。

でもだから、ひとつひとつ、いちにちいちにちをやっていくことや大切さを思う。

そうしていく他ない。

そうしていけることの有難さや、

一日、一秒、「今」、目の前に居る人、居てくれる人、居続けてくれる人の存在を尊く思う。

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冬、とあるテレビドラマにハマった。

TBS日曜劇場『海に眠るダイヤモンド』。

長崎は端島、通称「軍艦島」とも呼ばれる地を舞台にした物語。

『アンナチュラル』『MIU404』でもお馴染みの野木亜紀子の脚本は、

情があって、骨太で、つよく、やさしい。

刻を、人間を、人生を、人が生きることを描き、描き切った作品で、

すごい物語や、すごいチームやな、なんでこんなん作れるん?

なんて毎回ひとりつぶやきながら、涙し、何度も観た。

ネタバレはしない。

でもすこし言うと「あの頃と今」「あなたと私、私たち」「そして、今」の話だ。

物語の中の人にも、現実の人にも、思いを馳せた。

これまで出会った人びとのことも、今関わってくれる人たちのことも、考えた。

 

人と人は出会い、すれ違いもする。

人の気持ちはひとつじゃない。ひとつでは言えない。

他者の気持ちなんてわからない。いや、わかりきることなど、ない、ないに近い。

でもそれでも、人間の心の中には「芯」「核」、

つまりそのひと自身とでもいうようなものがあって、きらきらしていて、

それは、それが、たぶん「生」で「今」だ。

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わたしたちはただ生きてゆく。

反省や後悔やいろんな冷や汗と共に積み重ねてゆくことしか出来ない。

そこに、誰かとの思いや人生が交錯したり、

そもそもばらばらなそれらが重なったり。

理屈や理由や都合のいい物語付けでは説明できないことは日々の中で結構起こる。

なぜだか理由はわからない。

でも、そういったものやことたちを、おおきな意味や捉え方にすると、

「縁」だなんて人は言ったりしてきたのかもしれない。

とか、また思ったり考えたりしていたら、

年が明けて、SNSに偶然流れてきた、禅僧の言葉たちに「!」となる。

 

「だいたい、自己責任でできるような決断にはね、大したことは、一つもないです。

そうでしょう。頭の中で解決できる話は所詮、些事しかない。

決定的な判断をせざるを得ないときには、違う力が働きます。

自分とは別の、力。するのではなく、むしろ、決定させられる」

 

違う力とは、何か。

運命……?

 

「わかりません。われわれはそれを、『縁』といいます」

 

(“無理に夢や希望を持つ必要はない、正解なんて出なくていい――

恐山の禅僧が語る、「人生の重荷」との向き合い方より”

Yahoo!ニュース オリジナル 2024年8月17日配信)

 

ぎゃー!

 

神はおらん。おるんやったらもっと頑張れ。「仕事」せえ。

極楽はどこだ。そんなんたぶんどこにもない。

でも、例えば、この不確かな世と時代、

生き抜く自信やいい意味での勘違い力はなくても、

己がやってきたことに(失敗はあれども)(あるから)

責任と矜持みたいなものもありもして、

それらを持って日々を重ねると、

なにかやいろいろが重なったり繋がったり、

次へまた次へと、進むのかな。

己がやってきたこと、いいことも悪いことも、

自分ではどうかわからないことも、すべて「それが自分」だからこそ。

そうして引き寄せたり、結われてもゆくんかもな。そうかもな。どうやろな。

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すべては、日々、進行形(ing)。

 

先程のドラマでは、

主人公が日々を記録したノート(日記)が、

現在と過去を繋ぐ重要アイテムとして登場する。

わたしも、昨年、引っ張り出してきた。

20年ほど前(から)の劇場記録だ。

舞台の感想、寄席のネタ、舞踊の曲目リスト、

芝居のあらすじ、プロレスの技名、そしてその日、話したこと、

笑い、時にちょっと涙も出た。

自分も、まわりの皆も、変わったけれど変わらへん、変わらへんけど変わった。

わたしはわたしでしかないし、あなたはあなたでしかない。

でもわたしを私たらしめてくれるのはあなたやあなただ。

先日、このノートにも登場する方に言った。言ってしまった。

「年をとるのも悪くないね、悪いことだけじゃないかもね、って思ったよ、思うよ」

日々恥ばかり晒している。書く。暴れる。嵐はわたし、わたしとあなた、あなたと皆、皆。どうぞ今年も、よろしくね。

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おばけと氷壺秋月

12.5.2024

DAYS /  Momoko Nakamura Column

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おばけと氷壺秋月

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ひとはなぜ劇場に行くのだろう。

ひとはなぜ舞台に立つのだろう。

大きすぎる問いである。

けれど、敢えて言葉にするなら〝さびしさのようなもの〟もあるんじゃないか。

いつからかそのように考えるようになった。

言葉にすることは難しい。

でも、生きていく、生きている、その上での、その中の、さびしさ、とでもいうような。

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長い長いメールのやりとりをしていたのは秋のはじめのことだった。

「あんたは喋り過ぎ、親父は喋らな過ぎ、2人を足して割るとちょうどいい」

と、「ずっと言われてきた」と語る人とである。

日々たいへん多くの人に会い興行にたずさわる仕事柄、

時に本音、時に腹の探り合いのようなやりとりを常にされているだろう彼のことを、

わたしは勝手にちょっとソウルメイトの一人だとも思っていて、理由もある。

時折「極めてパーソナルな」やりとりをする。

「共に影響を受けたひと」「でもそれは過去のこと」

「でもだから(それでも)私はわたし」ということや、

共に「書く者」として読んだ本や芝居のことなどなどの話だ。

いつも自身の核というか芯とを振り返り、前を向く気持ちをいただきもしている。

この度のひさしぶりのやりとりは

「あるエッセイストの本を読んでいたらあなたを思い出して」からだった。

偶然も重なり、いくつかのやりとりが続いた。

前号でも触れた業界の大先輩ジャーナリストが亡くなったことも大きなきっかけとなる。

文字数2000字越えのときもあって、すげー楽しく、考えさせられ、ちょっと笑い、思った。

「やっぱり喋りすぎやなあ」

お互い、ほんとうに。

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この頃、とあるドキュメンタリーを観ていた。

『Mr.マクマホン 悪のオーナー』

アメリカのプロレス団体であり、

世界最強のエンタメとも言われるWWEの元オーナー、

ビンス・マクマホンのナカミに迫るドキュメンタリー番組である。

レスラーたちや関係者たちが「彼がどんな人間であるか」を語る。

ビンス自身も語る。語りすぎるほど、語る、めっちゃ語る。

同じくネットフリックスのプロレスドラマ『極悪女王』があちこちでとても高い評価を得ていた頃でもあった。

こちらはわたしも配信前からずっと楽しみにしていた。

配信当日はこの作品のために一日あけて一気に観て、

ニタリともゾクリとも、はらはらともしたし、ぼろぼろ泣いた。

いろんな視点からいろんな人がハマっているのをも知り、

どの意見や感想にも頷いたし、ますますまだまだハマる人も増えるだろう。

一方、悪のオーナーは、そうでもないやろうな、だ。

ビンス自体がよくないでは済まされないことがありすぎる。

番組ではこの点も隠さずに語られる。テロップでも触れられる。

だから、よかった。でも、よかった、か。

ドキュメンタリーの力を感じ、プロレス、興行、時代、いや、人間を考えさせられた。

いいことも悪いこともいろんなことをだ。

ひとがつくり、ひとが演じ、ひとが観る。

現実と虚構が、曖昧というか、ないまぜに、なってゆく。

まざって、そのないまぜの中にほんとうがあるというか、

いや、ないまぜは、全部ほんとうで嘘じゃない、嘘じゃないけど、ほんとうでもない?

みせる人とみる人、攻める人と受ける人。自分と相手。

重なりの層のように膜のようなところに、

ほんとうとほんとうのようなものがあり、ほんとうになる。

役と演じる人、役と演じる人、善も悪も聖も俗も、あって、ある。

人間って、なんやろ、なんなんやろう。

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なんで「過ぎて」しまうんだろう。

私たちは、人は、つい「過ぎる」。

不安? 得も言われぬさびしさから?

これまでに「伝わらなかった」ことや経験から?

無駄に過剰なサービス精神からか。

飢えもある? 心の飢餓。

「よく見られたい」という欲やプライドも。

人によって大小や多い少ないはあれども、きっと誰もの中にあるそれ。

欠けていたり、多すぎたり、ちゃんとしたバランスをとれていなくなっている、もの。

だから盛るのかな。やってしまうのかな。やり過ぎるのかな。

他者を意識したり自分を意識したり、蓋をしたり、漏れたり、押し付けたり。

人は、人というものは、わたしは私たちは、まことにややこしい。面倒臭い。人間はこわい。

過剰になったりバランスが悪くなったそれは〝おばけ〟だ。

うん、みんな、心の中におばけが居るんじゃないか。

普段はそいつを封じ込めている。

でも、ふとしたときにひょろっとひょっこり顔を出したりして、

何かが「過ぎる」状態というのはつまりそれなのかもしれない。

我。欲。善と悪。聖と俗。実と虚。バランス。皆、自分。

おばけの正体こそ業? つまり我? 皆、おばけに操られる。おばけになる。

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夏の終わりに凄い舞台を観た。

旅芝居界一ストイックと言っても過言ではない役者による舞踊だ。

〝足りない。足りない足りない。足りない〟

映画『The Greatest Showman』の中で歌われる『Never Enough』。

ふわっとした衣装の裾がひらひらと舞った。

下町の芝居小屋が彼の気でいっぱいになった。

帰り道、ふとその劇場収録された古いドラマのタイトルを思い出した。

「淋しいのはお前だけじゃない」

お化けを飼いならし、体と心のバランスを取ることは、難しい。

いいことも。わるいことも。嫌なことも、いいことも。

もしかしたら、とれていないことが、もが、人間かも? しれない。

操られているおばけとうまく付き合い、

空気と気持ちを操り他者と「ええ塩梅」で付き合い自身も満たす。

むずかしいね。でも、やらなきゃね。

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「着流し一枚の美学」という言葉がある。

生きていくことそのものである舞台、旅芝居。

そこでは見た目も年齢も芸歴も生きてき方もさまざまな役者たちが

「今、目の前の舞台」で観客たちを魅了する。

他の芸能と比べても距離の近さを魅力となり、

だからこそ舞台に加え、サービス精神や愛嬌やいろいろな気持ちが求められがちで、

「盛って、盛って」、芸術と風俗がごちゃ混ぜな舞台となる。

その中で十年以上ずっとトップを走り続けている座長が言っていた。

「でも究極は、着流し一枚じゃないかと思うんです」

「盛るんじゃなく、身ひとつ、それで勝負できる役者になりたい」

削いで、極めて、己が身ひとつ。グレイテストなショーマンへの道のりだ。

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先の往復書簡の中で「(あなたは)危ういほど無防備な(で居たい)人だから」と言われた。

褒められているのかそうでないのかわからない。でも、ありがとう、と思った。

その後、全くの別件でこのことをまた振り返らされもしたとても。

キザでやさしいその人も、日々きっとしんどいことがいっぱいあるんやろう。

だから、やさしく、過ぎるけれど、過ぎるからこそ、言葉をくれるのだろう。

わたしにも、いろんなひとにも。時に誤解されたりしながらも、いつも、真摯に。

皆、やさしい。強くないかもやが、強くて、優しい。

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おばけはいっぱい。鬼もいっぱい。

世の中にも居る。自分の中にも居る。

おばけと共に生きていこう。気を付けながら。皆と共に、生きていこう。

やっぱり世界は劇場じゃないかと思ってる。

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祭りの灯り

9.10.2024

DAYS /  Momoko Nakamura Column

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祭りの灯り

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夏は生を感じるシーズンだと思う。

照りつく陽。貼りつく汗。喉をすーっと通る水。

でも、同じくらいその反対をも強く感じるシーズンでもあるんじゃないか。

居なくなった人やもう会えなくなった人に想いを馳せる。祭りの灯りと共に。

 

若い頃、夏にお化け屋敷の仕事をしたことがある。

書き仕事や勉強のかたわらバイトしていた昭和コンセプトショーレストラン、

劇場型こてこてフードテーマパークの中のちいさな芝居小屋が期間限定お化け屋敷になる。

部署は違うも駆り出され、受付や呼び込みを手伝わされた。

企画・演出をしていたのは席亭だった劇作家だ。

偶然にも同じ大学卒、学内に今も存在する劇団の創始者だと知る。

わたしが所属していた劇団とは代々ライバル関係にあった劇団の。

「おまえのとこの劇団は泥臭いねん。かわいい女子がおらん。代々伝統的に」

「おっちゃんとこの劇団は見た目だけやん代々伝統的に」

お化け屋敷の仕事中は勿論、小屋の舞台を観に行ったり、休憩時間に会いに行ったり。

劇作家賞を受賞したという作品を借りて読ませていただき、惚れ惚れとしたのだが、

なぜかいつも邪険にされていた。逃げられることも多々だった。

でも時に駅まで一緒に帰ったりもした。

今思うと好きな人に見た目がちょっと似ていたのも懐いた理由かもしれない。

そのせいか変な誤解をされたりもしたけれど。

「俺はただの寂しいおっちゃんちゃうぞ! 尊敬しろいじめるな労われ!」

「なあ、おっちゃん。また書いて下さい!」

「いや、俺はもうええ俺みたいなもんの出番やない。おまえが頑張れ」

テーマパークのアルバイトをわたしは数年でやめた。

ラジオ番組のADを経て制作会社への勤務が決まったからだ。

おっちゃんはテーマパークが閉館するまで席亭とプロデュースをやっていた。

閉館の前か後かメールが来た。後にも先にも一度きりのこと。

「ひさしぶり。元気ですか。これでやっと僕も楽になれます。また書いていこうと思う」

なかなか会いに行けなくなり、時に思い出したりもしていた、

新しく出来たちいさな劇場で若手芸人の指導をしているとも聞いていたが、

風の噂に亡くなったことを知った。あれも夏のこと。

暑さに倒れ、何日もしてから見つかったのだと知った。

その後、娘さんという人から御礼のメールが来た。

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「化けて出てこい」

 

この夏もある訃報を受け取った。

お世話になり尊敬もしていた方だった。

正直実感がわかなかったし今もわかない。

あちこちの広場や公園に櫓が立てられ提灯が吊られ、

全国の花火大会のニュースなどを見聞きしだしての朝、思った。

「ああ、もう、居はらへんのや」

またふらっと電話がかかってきそうな気がする。

真面目で熱い話の最後にいつも言うギャグと笑顔。

「手ぇ握らせてくれたらこの続き話そかな(笑)」

あほほどおもろなくて笑えへんけど笑っていたセリフを言われそうな気もする。

行きつけだというカラオケスナックのママ手作りの小鉢の味。

薄い水割りを片手に歌っていたちあきなおみや村田英雄。

でも、やっぱり、祭りの思い出がたくさんだ。

踊る楽しそうな顔、櫓の下でのめっちゃ真面目な話、

共通の知人となったイケメン音頭取りに櫓の下から一緒に手を振ったこと。

知らせはわたしが今すこし距離を置いている方がくれた。

向こうもその距離感のようだった。

だから感謝した。心から礼を言った。

でもお別れには行かなかった。行けなかったし行かなかった。

ひとり献杯し、祭りに足を運んだ。

夏前から身の回りのことでいつも以上に自分のことだけに時間をとれなくもある。

そんな中それでも知らない街の知らない祭りにたくさん行った。

ふらふらと引き寄せられるように灯りの下知らない人たちの踊りの渦を見た。

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幼い頃の祭りの思い出はない。

踊ったこともない。

そもそも故郷らしい故郷がない気もするし、

家族のあたたかさだとか団らんとかその笑顔だとか、

そのようなものに浸ったりそのような感覚になることや場所がなぜかあまりない。

テレビCMのような満面笑顔の団らん風景なんて嘘やろうとか

どこにも誰にもないんちゃうかと思ったりするときもある。

いいとか悪いじゃない。それが嫌だとか悲しいとかでもない。

でも、だからなのかもしれない。

あの灯りと熱に引き寄せられるのは。

劇場で、皆の笑顔と熱に、時に涙しもするのは。

いろんな皆が心身共に一緒になれるなっている瞬間が嬉しいのかもしれない、訳がわからなくも。

暑い暑い中、音に乗って、声を出し、

自己と他者が曖昧になるほどの輪の一部となる祭りはすごい祭りはこわい。

あの熱とグルーブ感は世のさまざまな災いに抗える力を感じる。

同時に、誰かや何かを消したり滅ぼす力も感じる。

ものすごい力、人間の力だ。

と、思うこともわたしの勝手な感傷でありこじつけかもしれない。

片手に持ったビールのせいかもしれない。

広場や寺や斎場の中、提灯の下、決して清潔でもきれいでもない屋台の、黄金色。

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テーマパークも中の芝居小屋もお化け屋敷もなくなって随分と経つ。

この夏もひとつの劇場が閉館をした。いろんなことを考えた。

すべてのことにとって「また」や「いつか」は奇跡だと改めて思う。

亡くなった方とは呑みながら芸や舞台や芝居の話をよくした。

うつくしさや力と表裏一体のそれらについて。

「人間のなんとも言えないどろどろとした部分っていうのがな、滲むよな」

「綺麗なもんだけ見たいんですけどねえ(笑)」

いつも気持ちよさそうに歌っておられたカラオケの十八番も思い出した。

歌い出しは「どうせ人生、お芝居よ」だ。

「化けて出てこい」は劇作家の野田秀樹による『パンドラの鐘』のセリフ。

この芝居もまた、暑い暑いときの、古代と現代と未来の話。

鐘とは79年前の8.9の象徴、芝居の冒頭で流れるのはキヨシローの『パンク君が代』。

オリンピックは全く見なかった。『クックロビン音頭』などの盆踊り動画ばかり観ていた。

「古代の心は、どちらに賭けます? 俺は、届くに賭けますよ」これも鐘の最後のセリフ。

残るもの。残すもの。陽。汗。水。遠い昔から続いてる祭りの灯りが届く続く。

あのひともこのひともわたしもあなたもまた皆櫓の下に集うし帰ってくる。

暑くてうるさいビールを呑む。

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鏡と日々

7.1.2024

DAYS /  Momoko Nakamura Column

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鏡と日々

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『Somebody To Love』(QUEEN)のことを思い出したのは

好きな劇団の過去の公演DVDを観ていたからかもしれない。

4月半ばから大型連休前までひょんなことから体調を壊してしまった。

だいぶ長い間メンタルと体力が下がった後、なんとか復活した。

と、思ったら、まわりにも心身不良を訴える人が増えている。皆も大丈夫?

そんなこんなでいつも以上に? 身内事たちにちょっと振り回されていたりもする昨今。

己がということはまわりも皆歳を重ねる。自然の成り行きだ。

でも、ずーん、とか、うーんとか、あーっ、とか、なったりね。

とはいえ、仕事も私事も待ってはくれないのも当たり前の話。

両方ともなんとかやれていたのはDVDたちのおかげもあるかもしれない。

しかもだ。持っているものたちを観終えたら知人がわたしの持っていないものを貸してくれた。

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『劇団☆新感線 20th Century BOX』

「20世紀の集大成」という名の通り1995年から2001年の公演が収録されている。

1989年からの公演やライブやイベントのダイジェスト、

作家や演出家へのインタビューや劇団員の座談会などもたっぷり。

わたしが当時劇場やテレビ放送で何度も観てきた時代の芝居や話ばかりだ。

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観てきただけじゃない。

あの頃のわたしは劇団員がアルバイト講師をしていた歌唱教室にも遊びに行っていた。

先生は劇団の音楽監督を今も務める〝Japaneseフレディ・マーキュリー〟。

ミュージカル役者たちとのバンド「クイーンマニア」のボーカルもやっていた。

今も劇団活動を並行してシャンソンの和訳などを手掛け、ライブを行う。ブレない。

『Keep Yourself Alive』を『生き続けろ』と訳しシャウトしまくったライブの翌日、

衣裳であるフレディ的きらきらレオタードについて「これは手洗いじゃないとあかんねん」と笑っていた頃からね。

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『Somebody To Love』は、公演の際に歌っていた。亀の格好で。

名作漫画『ガラスの仮面』をパロディにした芝居で

北島マヤ的天才演劇少女が落ち込んだシーンに現れる紫のバラの人役(亀姿)だった。

すべての人の心には脆くて壊れやすいガラスの亀が居るらしい。

あなた(主人公)の芝居を観て力をもらう。そんな人たちが増えそれは大きな力となる。

「あなたの亀は世界一~~!!!」しょうもな!

でもこのパロディとしての『Somebody To Love』ってなんか洒落てるよなあ。

まさに「推し」へ捧げるメッセージみたいやなあ。

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93歳の祖母にも推しが出来た。

年齢のせいで思うように体は動かないが頭はまあしっかりしている。

今は訳あってひとり暮らしなので身内で交代に会いに行っているのだが、

この人は我が身内の中ではよくもわるくもよくも俗っぽい。

サンバじゃなく上様時代の松平健のサインをもらっていた。

演歌歌手福田こうへいにはファンサでベタ惚れとなった。

そして、この度、あたらしい推しとなったのは大相撲・大の里。

デイサービスでも大人気だという彼を「勝たしたりたいねん」身内か。

夏場所での優勝を見たときはわたしがほろっときた。

ばあちゃんを通り越してたくさんの人の気持ちをみた気がしたから。

彼の父や地元の人びとの喜びの様子にちょっと涙ぐんだりも。

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死んだじいちゃんも相撲が好きだった。

相撲とボクシングとプロレスと歌とドキュメンタリー番組をこよなく愛したじいちゃんは、

時代と住むその地域故に苦労人で叩き上げの人である。

晩年は地域の小学校に戦争体験や地域の話を語りに行ったり自治会長的なものもしていたのだが、呑むと血の気の多さが目立った。

夕方になるとランニング姿でデッカい湯呑みに紙パックの日本酒をどぼとぼ注いで呑みながら「また負けかい」「なんや。しっかりせぇ」。酔うと声が大きくなった。

母はこの地と時代故に歌舞音曲とスポーツを嫌って勉学だけに打ち込んだ。

でも孫は確実に俗な血を継いでいる。

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ヒーロー。スター。アイドル。

自分自身の日々を送る中、遠い世界もしくは身近な誰かに対して、

願いのような祈りのような想いを抱き、「支え」にしている人は少なくないのだろう。

ファンの側が気持ちを込めての「推し」という言葉も出来、広まり、使われる。

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わたしたちは、日々を過ごす。歳を重ねる。

容れものである体には不具合や故障が生じもするし老いもする心は乱れる。

そんな中、日々をやっていく上で、「推し」は力になり、も、する。

現実逃避という意味では悪い意味かもしれない。でも、きっと、よい意味でもだ。

偶像崇拝かもしれない? そうやろう。そうだ。でも。

実体を知らないから脳内での理想化も大きい。その通り。

勝手に思うその人はほんとうのその人じゃないのかもしれない。そうなんだろうな。

でも、嘘ってなんやろ。本当ってなんやろう。とも、思ったりする。

だって、「私」が居るのは、あなたが居るからで、皆が居るから。

誰かが生きていることが、誰かの日々に繋がっている。

きっとそれは(おおきく言うと)双方向の。

例えば互いに一生会えなかったり近しくなれないようなものだとしても。

しばらく会えていなかったりもしかしたらもう会えない存在だとしても。

何か特別なすごい才能を持っていなくても。

めちゃめちゃすごい活動をしているとかじゃなくたって。

めっちゃ頑張ってるとかすごいとかじゃなくたって。人間的に「?」だったとしても。

誰かが、ううん、その人が居てあなたが居て、あなたが居てその人が存在している。

はず。いや、ぜったい。

そこに居てる、ただ居る居てる。日々をやってる。

それがそのことがそのものが誰かのわたしの日々の気持ちに……とは大袈裟かもだが、日々「もう嫌やなあ」とか「なんかなんだかなー」とか、でも、「ま、せやけどなんかなんとかやってみよかね」とかに繋がったり、も、する。するのだ。たぶん。絶対。

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うそとほんと。ほんとうのうそ。肉体があって感情がある。

うそもほんと。ほんとうと嘘はもしかしたら入り混じっているのかもしれない。

紙や皮一重で紙や皮から漏れ滲むものがあるもの。

その滲みや漏れ、におい、血であり気持ち、

いい悪いすら超えたそれらが「ほんとう」なのかもしれない。

とは、わたしの見方であり考え方なのだが、

時に合わせ鏡であり、時にちょっとした万華鏡のようなものかもしれない。

私の人生、私の推しは私。

でも全然きれいじゃない世や人間というものの中、お互い、信じ、皆で、進むためにも。

 

わたしの現在の推しは宙を舞う舞台人である。

このコラムでも何度か話させていただいたが、

生きづらいこの世と時代に劇場からステージを通して人間の心と生きることを思わせてくれる。

そして、永遠の推し(殿堂入り)は元舞台人で現在トラック運転手だ。

若き日は抜き身の刀のようだったその人は今はふつうのおじさんなのだが、

永遠のスーパースターでわたしの心の恋人、って、ちょっと言いすぎた。

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よければあなたの話も聞かせて下さい。

誰かの「好きなもの」の話を聞くのがほんとうに好きだ。

その人自身でありその人の日々であり生きてることそのものだと思うから。

いつもうぜぇほどうるせぇほどきらきらしてるから。

そうして会うたびにいろんな話を聞かせてくれるあなたは、あなたに、

わたしはいつも力をいただいている。その熱に気持ちに言葉にきらきらにだ。

だからまた会いましょう。会えていない、会ったことないあなたもね。

「あなたの中のガラスの亀を信じなさい」そして「すべての道は舞台に通ず」だから。

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卵とピタゴラ装置

4.15.2024

DAYS /  Momoko Nakamura Column

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卵とピタゴラ装置

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春先2月3月、わたしはずっと酔っていたような気がする。

 

終電前の電車を反対方向に乗ってしまったり、

路上ミュージシャンとめっちゃ喋ったり、

旅先の知らない道を2キロ歩いて花を見たりした。

劇場仲間と「しょうもな(笑)」「キモ(笑)」を連発して笑ったり、

隠れ家にしているカフェでコーヒーではなくハイボールを呑んだりもした。

 

誰かに気持ちを伝えること、

言葉やその伝え方について、以前に増して考えるようになった。

 

例えば「綺麗」という言葉をわたしはすごく考えて使っている。つもり。

口にする際は何よりの褒め言葉として使っている。つもり。

でも綺麗ってなんだ。綺麗って、どういう意味やろう。

綺麗だけじゃない。「やさしい」とか「強い」とか「ブレない」とか「格好いい」とか。

あかん、こんなん考え出すともう難しすぎて口開けへんようになる。

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「他者に気持ちを伝えるって、なんて難しいことなんだろう」

 

わたしたちは普段言葉をなにげなく使っている。

すごすぎる。当たり前やけど、やのに。

大事なときや嬉しいときほどわたしは言葉が出ないことが多い。

いや、出すし出している。ぺらぺらベラベラしょうもないことをたくさん喋っている。

でも言葉にすればするほど嘘くさい気がして仕方がない。

後悔や自己嫌悪からの一人反省会は止まらない。

最近は大事な時ほど〝よかったbot〟 & 〝ありがとうbot〟化してきた。

botならbotとして大人しくしていればいい。

でも、いい歳をしてエブリデイAlways前のめりな性格は変わらず、

言葉に出来ないから手と体が前に出る挙動不審も直らない。

もどかしさや歯痒さから逆にぶっきらぼうや格好つけや無言にもなる。

とはいえ、伝える伝わることは「言葉だけじゃない」ということにも気付かされた。

必ずしも言葉が言葉だから大事な訳じゃない。

言葉にこだわりすぎることは必ずしも正しいことではない。

無言は時に百言にも優るし、

言葉じゃなく行動や態度や顔や背中や生き方が伝える伝わることはめっちゃある。

という、これも当たり前すぎることを改めて思いもした。見せてもらいもした。

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そんなこんなで、よく呑んでいた。

嫌なことがあったとき辛いとき?

そんなときじゃない。楽しいとき嬉しいときに(も)だ。

 

「呑むと(逆に)頭が冴える」

健康的にも人道的にも不適切なことを書いていたのは、

好きなジャーナリストでありエッセイストだった。

わたしも呑むと、いや、呑まなくてもだが、冴えもする。気がする。

気付けば口癖な言葉を人前でも笑いながら出している。

「しょうもな(笑)」「キモ(笑)」「ゴミか」「ゴミやなあ(笑)」

口悪っ。でもこれらは必ずしも決して悪口やディスリ言葉(だけ)ではない。

時に鏡でもあるかもしれない。向き合うべきだけれど逃げていることや、

「自分とは違う」と思い込んだり遠ざけたり排除しようとしてしまうこととも

直結しているかもしれない。いいも悪いも、人間の人間な、そのひとや自分自身、

つまり人間そのもののことじゃないか、と考えたりもする。

「しょうもな」「ゴミか」でもだから「わかり合えないけれどわかり合おうとすること」

途方もない難しさと、でもきっと大事さと、愛しさのようなものも、思う。

 

誰もが「今」を生きなあかん。皆、今を生きている。

花の命は短いどころかノー・フューチャー。今は今だけれど今でしかない。

今と現実、この世は楽しいこともあるけれど、

むちゃくちゃ理不尽なことやしんどいことや怒りだらけだ。

ピースフルでラブリーな物語なんてないことの方が多い。

皆苦しみや孤独と共に生きている笑いながらも。

 

わたしたちは日々を積み重ね、積み重なりは人を変えもする。

人は人であるからまわりにより自分自身により心も体も変わってゆくし変えてもゆく。

変わらなくてはいけないこと、自然と変わってゆくことは、も、少なくない。

その中で、その中にも、良い悪いではなく、「変わってゆくが変わらない」ものやところがあって、もしかしたらそれがそれこそが〝自分(その人)自身〟なのかもしれない。

と、微苦笑したりもする。

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思い出に酔っていてはいけない。

いや酔ってもいい。でもずっとそこに居るのはたぶんしょうもない。

点と点を結び付け自分に都合のいい気持ちいい物語を作って酔い続けることは結構キモい。時には必要だ。先へ進むための気持ちの支えにもなる。気持ちよくもなる。

でも二日酔いは気持ち悪いし汚い。ぜんぜんきれいじゃない。

 

ピタゴラ装置は、ぶつかり、転がり、作用し合い、「そのように」先へと流れてゆく。

玉はぶつかり、糸はもつれはすれども、ほどけたり、

人は出会ったり別れたり、また戻ったり、でも繋がっていたり、

皆、あの日やあの頃を経て、そうして日々は先へと続いてゆく。

先にあるのは自他共の老いや死かもしれない。

でも死は実は今も目の前にあるし必ずしも遠いものでもない。だから、だけど、今なんだ。

綺麗であること、生きること、綺麗でいること、生き続けること。綺麗ってなんやろ。

歳を重ねれば重ねるほどその両立は不可能に限りなく近いほど難しい。

でも、皆、綺麗だと思う。綺麗じゃないも含めてね。

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「壁と卵」の例えもなぜか思い出したりした。

 

「もしここに硬い大きな壁があり、

そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」

15年前に作家・村上春樹がエルサレム賞を受賞した際の記念スピーチだ。

「どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしてもそれでもなお私は卵の側に立ちます」

痺れる。でもやっぱりなんか「いけすかねえ」とも思う。

っていうか、ぶっちゃけわかるようでよくわからん。

壁は、壁も、その硬さで、誰かの心身を傷つけているかもしれない。

卵の振りをした壁もいるかもしれないし壁の振りをした卵だってあるし居る。

と散々言うた上で言う。わたしは、わたしも「そういう人」でありたい。

ただし、エブリデイAlways自問自答と吐き気と「うわー」を繰り返しながらだ。

吐きながら、呑みながら、口悪く、だ。

間違っているかも、いや、間違っているのだろう、けれど、考えてゆきたい。

例えば決めつけや押しつけなそれらは否定をしたいし、否定は否定したい。

卵や玉や糸、割れたり転がったりもつれたりしてしまうものや目の前の人を肯定したい。

そうして伝えたり伝えなかったりしていきたい。自分のため(だけ)じゃなく。

 

「しょうもないな。キモいな。でも共にやってこ。その術を考えるわ、無理かもやけど」

 

ずっと酔っていた気がするこの期間、久々の人に会える機会もあった。

20年程前に出会って以来、物書きとして、いや、人として、

生きていく上での価値観に影響を……とは大袈裟か。

「最初が悪かったな(笑)」「せやで(笑)」

書いて生きているわたしをあの頃も今も笑ってくれる。

相変わらず不器用に器用に生き歳を重ねておられた。格好ええやんと思った。

昔も今もチョケたりクソ生意気なことしか言ってきていない。

でもまだ言葉が見つからず「愛してるよー(笑)」しか言えなかった。キモいな。

 

そんなこんなで好きなプロレスラーのTシャツを改めて買い直したりもした。

このコラムのアイコンでも着ているTシャツの別バージョンである。

背中にプリントされているロゴをしつこく皆に見せたい。

 

「STAY ALIVE TODAY」!

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ただいま、おかえり、いってらっしゃい

2.10.2024

DAYS /  Momoko Nakamura Column

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ただいま、おかえり、いってらっしゃい

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「旅って何だろう? と考える。

「自分の居場所から離れて、滞在あるいは移動中であること」と杓子定規に考えてみる。

そう仮定すれば、旅を続けることは難しい。

どんな場所だって、たとえそれが、飛行機の窮屈な座席だとしても、

そこで長い時間を過ごしてしまえば、やがて自分の居場所になってしまうだろう。

自分を取り囲む環境に対して、「ここは自分のいるべき場所ではない」と意地を張り続けることは、並大抵の意思の力ではできないと思う。

だから、多くの場合、旅はどこかで終わりを迎える」

『未必のマクベス』(早瀬耕著、ハヤカワ文庫、2017)。

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「現実ばっかり見てるんやから夢見させてくれや(笑)」

昨年12月の頭に行った温泉地の劇場で、

とても楽しそうにしていた一見さんが、同行のお仲間にツッコまれて、言っていた。

10何年かぶり? に出演する大好きな踊り子さんを観に出かけた地でのことだ。

名も知らないもしかしたらこの先一生会わないかもしれないお客さんの言葉がなぜかとても胸に残った。

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一か月後、年の初め最初の日に、この劇場がある地を含む一帯が、そのようなこと、になるなんて、誰が想像しただろう。

年明け、元旦に起こったこと、年があけて事の真相があきらかになったたくさんのこと。

年があけても終わらず続いていること、次々にあたらしい事実が出てくること。

目を覆いたくなること、でも、もう目を瞑ったり瞑った振りをしたりは出来ないこと。

天災も、人災も。

今まで目の前にあったけれど、見すごしたり、

見てみぬふりをしてきたかもしれないたくさんのことが目の前にある2024の始まりだ。

あまりのことに、これまで以上に言葉が出ない。

という人は、わたしを含め、今、多いのではないかと思う。

自分たちになにが出来るのか。力のなさ不甲斐なさにやきもきした・している人も少なくないのではないか。もどかしいこと、くやしいことは、多すぎる。

この気持ちすら、傲慢なのかもしれない。

けれど、もっと、考えたり、動いたり、そのためには。

まずはもっと知ること、知ろうとしなくては、と改めて思わされた、思わされている。

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あの温泉地の夜は、思い出すたび、ふしぎな心地になる。

行ったのは初めてではない。何年も前に人に連れられて訪れたし、

旅芝居・大衆演劇の公演先としても、各地の温泉とセンターは馴染み深い。

もう閉館してしまったものも少なくないが、幾つも足を運んだことがある。

笑えることも、笑わなしゃあないことも、たくさんあった。

でも、なんだ、なんやろう。

その舞台を「ほんとうに好きだ」と思った人を追いかけて行く、地方の温泉地の劇場。

ばたばたと行って、観て、ばたばたと帰るとしても、一泊の旅。

馴染みのない地。ローカル鉄道。湯けむりの町。

足湯。屋台村(一人でよぉ入られへんかったけど)。老舗のデッカい寂れた旅館。

ドキドキと、そわそわと、緊張と、わくわくを感じるのは、何度どこへ行っても、きっと旅の醍醐味だろう。

熱と酔い、酒があっても、酒がなくても、ふわふわと。

わいわいとがやがやと、シン……ッと。

追っかけさん、一見の「ちょっと入って観てみよう」なお客さん、

地元の人、さまざまな人が集う劇場は、都会(という言い方はおかしいけれど)のそれとは、また違う雰囲気で、不思議な夜だった。

あったかさやふしぎな懐かしさのようなものもあって、ほんとうに「夢みたいだな」と思った。

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夢じゃない。

「夢だけど、夢じゃなかった」

御存じ、宮崎駿監督作品『となりのトトロ』の名台詞。

「夜の夢ことまことなり」

これは、江戸川乱歩が好んで色紙に書いたと言われるフレーズ。

正確には「うつし世はゆめ、夜の夢こそまこと」。元はポーの「A Dream Within A Dream」。

夢であってほしいようなことも、夢じゃなくて。夢のようなことも、現実で。

その境界線があいまいになるのが旅なんかなあ。

旅ってなんや。

旅って旅だけど日々、生きることそのことそのものかもしれへん。

人生かもしれへん。

って、なんやそれ。

年が明けて、立て続けに身内が亡くなった。

どちらも名も知らぬ思い出も出てこないような間柄の年上の者だったが、

うち一件はとある遠くの島にまで行ってのお別れで、もう一件は地元である大阪だった。

こういったことが続くと、日々や人生とやらに想いを馳せざるをえない。

日々は旅。のようなもの?

柄にもなく感傷的になってしまうのは、日々低空飛行気味になる冬やからかな。

 

そんなこんなで、冒頭の引用が、飛び出した。

昨年末、新幹線の乗車前に立ち寄った新大阪駅の書店でPOPに目が釘付けになった。

≪どうか最初の1ページだけでも立ち読みして欲しい≫

言うたな? そこまで言うたな? いつ何時誰の挑戦でも受けるわたしは読むことにした。

1ページ立ち読んで、ちゃんと買うた。

内容はなんだかまるでビッグコミック系漫画みたいだった。

ハードボイルド、経済、恋愛(初恋の人だのなんだの)、犯罪、アクション、旅。

主人公もまわりもなんだか気取っていて、もとい美学があって、

なんや、これ、ちょっとお洒落な島耕作?! 文体はハルキというかチャンドラー風?

つまりはなんだかいけすかない。

でも、表紙をめくって、まず最初にあらわれるこのフレーズが、なぜだか、頭を離れない。さすが。POP。なるほど。冒頭。

 

旅ってなんや。

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ただいま、おかえり、いってらっしゃい、おつかれさま。

 

東海道新幹線のチャイムが昨年7月21日から変わったことはご存じの方も多いだろう。

『AMBITIOUS JAPAN!』から、なぜかUAの歌となった。

初めて聴いたのは昨年劇場へ向かう際のことで、「わぁ」となったが、もう慣れた。

でも、もうひとつ、旅に出かける際の「わぁ」がある。

10月31日に終了となった車内販売サービスの代わりなのか、

コーヒーの自動販売機がホームに設置されたことだ。年明けに気付いた。

SHINKANSEN COFFEE。って名前そのまんまやん。しかもこいつが、クセモノやねん。

購入ボタンを押してから、豆が挽かれ、抽出され、カップを手にするまで、1分半かかる。

発車時間ぎりぎりにホームに上がってきた人が、購入ボタンを押すも、放ったまま乗ってしまうのも何度か見た。

「1分半かかりますよご注意下さい」的な説明書きが貼られるようになったのも見た。

しかも、1分半の間、新チャイムとなった歌が爆音で流れる。

「会いにいーこう」

なんの罰ゲームや。

隣の自販機で気まずそうな顔や真顔になっている初めてさんと目が合うことも少なくない。

そこまでの過程を経て提供された味は美味しくもなければ不味くもない。

ぼーっとした頭に、苦みと旨味、夢と現実、with爆音。知らない人と笑い合う。

 

あなたはどちらへ? 春は目の前。よい旅を。

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月と靴下

12.10.2023

DAYS /  Momoko Nakamura Column

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月と靴下

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それは満月の翌日のことだった。

 

わたしにとって11月は大事な月だ。

大好きな劇場で大事な興行がある。

大好きで大尊敬する踊り子が出演して8年目となる。

京都にある劇場の開館記念興行、「金銀銅杯」と名付けられたこの公演は、

昭和40年代から続くらしい。

実力も人気も兼ね備えた踊り子たちが出演し、

全国からの熱いファンがそのステージを楽しみに訪れる。

ここで彼女を観たことがきっかけで追いかけるようになった。

舞台や劇場、人間やその尊厳、人が生きることについてより考えるようになり、

人間が、より一層、嫌いだけど、好きになった、愛しく思えるようになった。

と、いうことは前号vol.33「PEOPLE」でも語らせていただいた。

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楽しい日々というか週を過ごしながらもいろんなことはある。

仕事も私事も日々わんさか。働かざる者推すべからず。

親だのなんだの絡みのこともわんさか。若くなくなった者の「あるある」だろう。

俗世の諸々から逃れられる人は誰も居ない。

頭の中は観た・観る舞台のことでいつもいっぱい。でも日々いろんなこともいっぱい。

無事に迎えられた楽日、大好きな踊り子さんや共演の踊り子さんが、それぞれのステージを終え、皆、拍手、喝采、「おつかれさま~!」。

各地の劇場へ旅もしくは帰っていかれるだろう笑顔を見て、ホッ&ストンと人心地。

たまった仕事やそぞろになった私事を片付けたり、

でも、次の週も推しである彼女が出演する劇場に行き、さあ次の予定も考えななあ。

そんな日々を過ごし、所用や仕事関係で東にも行った。

見たかった絵を展示最終日に駆け込んで見た。

東の知人に頼まれていた「阪神タイガース優勝記念五紙セット」などを渡した。

渡すついでに一杯じゃない一杯をやったりもした。

帰り道、ほろ酔いの頭でふと見上げると、大きな月がまぁるく出ていた。

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ビーバー・ムーン。

 

この数年、月を見るようになった。

ジャズや俳句を愛する粋人からの受け売りである。

各月の満月には名前があることも知り、面白くなった。

11月の〝ビーバー〟には、狩猟の月など、いろんな説があるようで、

齧歯類なあいつらの、獰猛なのに惚けた顔が頭に浮かび、笑ってしまう。

スピリチュアルや信心深さとは縁遠いし好きではない。

でも少々酒の入ったアタマで見上げた月は、妙におおきく、

凄味さえ感じられるような気がして、笑いながらも、じぃんとなった。

 

「DAYS」へのお誘いをいただいたのは、その翌日だ。

 

先にも触れた前号の「PEOPLE」には不思議で嬉しい縁から寄稿した。

大好きな一枚の絵と、舞台と劇場、人と人びと、つまりは、自己紹介の文を、

絵と、劇場にちなんだ、いや彷彿とさせるような雰囲気と余韻あるデザインの中に入れて下さり、縁や人間のおもしろさ、かけがえのなさとありがたさ嬉しさを思った。

そんな同Webマガジンの不定期連載コラム「DAYS」は、さまざまな国や地域で暮らす素敵な皆さんの想いと記録だ。ええの?! こんなアナーキーな大阪の物書きが参加して?!

せやけど嬉しい。めっちゃ、嬉しい。

 

ちょうど件の絵を見た、2日後のことだったのだ。

 

絵は想像していたものよりずっとちいさかった。

展示最終日の館内には人が群がっていて、待ちきれずに、皆の頭の後ろから覗いた。

ちいさいから、ゾクリとした。陰影に。「漫画みたい」褒め言葉。

帰り道に考えた。「彼女は、どんな気持ちでこの絵を描いたんやろ?」

もしかしたら「すげぇ絵を描いてやろう」とかじゃなかったかも?

彼女にとって光と影は自然と見えていたもので、「え? なんで皆描かんの?」だったのかも?

かの絵を目当てに集う人、絵の中の光景とシンクロするような、不思議で、俗で、人間すぎる光景と、そこに居る己へのツッコミと笑いからか、考えた。

タイムマシーンはない。彼女には会えない。

仮にもし会えたとしても人の心の中は、わからない。でも、ふと。

 

まるで、月を見ているときみたい。

 

誰もが見る。見上げたらある。

見えたり隠れたりするけれど、いつも自然とそこにあって、

その日その日で「かたち」が変わる。

太陽みたいにいつも明るく元気にぱあーっとじゃない。

ぼんやりしていたり、主張していたり、雲に隠れたり、また出たり。

まるくなったり欠けていったり。明るかったり暗かったり。妖しかったり、優しかったり。

だから古来より様々な人の想像力を掻き立ててきたのだろう。

皆が日々や想いを乗せて見てきたのだろう。

当たり前やけど、不思議で、不思議やけど当たり前な、「そこにあるもの」。

光と陰は表裏一体、どちらもいっしょで、どっちもどっち。

そうして、1日は始まり、終わり、続いていく。

​

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​

わたしは、美しいものが好きだ。

「究極」や「完璧」やそれに近い(と思う)ものに憧れ、惹かれる。

でも、同じくらい、「どうしようもないもの」や「俗っぽいもの」にもまた惹かれてならない。

「厄介やなあ、あほやなあ、しゃあないなあ」「ああ、もう、なんか、なんなんや」

不完全だけれど完全を目指そうとすること、理解し合えないものが例え出来なくても無理だったとしても、しようとする、ことや姿。

完璧じゃないけど、ないから、完璧を目指そうとすることまたも美なんじゃないか。

例えばそのあがきやもがき、悩みも苦しみも、まるいものも、欠けているものも、陰るものも、あほなものも、それもきっと、美しさであり、人間だと思ったりする。

 

前回は「花」で今度は「月」。大阪弁で言うと「いきってる」?!

でも、「何を書こうかな」と考えたときに浮かんだのは、このようなことで、

ちょうど、きれいな、月だった。

 

花月という言葉をご存じだろうか。

大阪・吉本興業の劇場「なんばグランド花月」の名にも使われている。

由来を、若き日に師事していた、吉本新喜劇の創始者である老作家が教えてくれた。

「人生というのはな、花と咲くか月と陰るか、いちかばちかの勝負っちゅうこっちゃ」

血の気の多いわたしは今も時折思い出す。でも、ちょっとアレンジしたい気持ちもある。

「花と咲こか、月いっしょに見よか」

アレンジちゃうし。粋さもないし。でもなんだか「Let's」の気持ちなのだ。

いろんな場所で、それぞれの今いる場所で。同じ気持ちになったり、違ったりしながら。

そんなゆるゆるつながる「Let's」って、なんかちょっと素敵やない?

12月、今年最後の満月は27日の「コールド・ムーン」。

どうぞあったかくして「Let's」である。

身体冷やさんように。靴下とか大事やで。もこもこのとか、二重履きとかでね。

これも、美。美じゃないけど、美やねん、きっと。

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