


パーリーメイ
ライター/カリグラファー
高校時代をバンコクで過ごす。早稲田大学にて文化人類学専攻、タイのブランド学を研究。
卒業後、タイ現地の地場ホテルにて広報、バンケット宴会(ウェディング・各種パーティー)企画手配、
旅客・旅行、一般企業向け法人営業のかたわら政府要人、著名人、法人VIP顧客の対応案内に従事。
帰国後、在京タイ政府機関の職員として公使付き通訳、日タイ間の通商促進に関するマーケティ ング・ブランドを担当。
退職、子育てに専念中、夫の赴任に伴い2017年より英国在住。
ライターとして旅、生活、時事情報などを取り上げ現地より発信。
滞在中、手描きの美しさに魅了され、サットン・カレッジにてカリグラフィーを学び始める。
魅力を 伝えるため、2020年「Surreymay Calligraphy」を立ち上げ、
グラフィック・デザイナー、アーティスト、英語教師といった異業種間での合作に勤しむ。
画家KENTA AOKI氏による塗り絵本『Colorful Animals』では、表紙タイトル担当として制作に加わる。
英国カリグラフィー・レタリングアート協会(CLAS)会員













10.15.2023
DAYS / Purleymay Column
イギリスで朝食を
ローカル列車

外国人からしてみれば日本の鉄道事情や地下鉄表など、めまいを起こしそうなほど複雑で、日本を離れて久しい私にですら難解である。
が、それは鉄道発祥の地であるイギリスにおいても同じこと。わが家の地元近辺にはトラムという路面電車のほかに、ナショナル・レイルというロンドン都心部と結ばれている列車があるのだが、私自身、来た当初はしばらく勘違いしていたことがある。
ナショナルと名がつくくらいなので、てっきり国鉄なのかと思いきや、どうやら違うらしい。ロンドン都心部と、それ以外の郊外や地方都市を結ぶ、各社をまとめた総称、つまりブランド名なんだとか。
国鉄はブリティッシュ・レイルといい1994年までイギリスで列車を運行していたが、その後はナショナル・レイルがその鉄道網を引き継ぎ、現在は複数の民間会社でそれらを分散して運営している。ナショナル・レイルとはその統一ブランドであり、現在のイギリスにおける旅客列車の主要なブランドでもある。

利用するにはバスと同じくオイスターカードというプリペイドサービスか、非接触型クレジットカードが便利だ。
ロンドンを縦横無尽に網羅する地下鉄は東京と似たような雰囲気で、乗客同士目を合わせるなんてことはせず、車内はよそよそしいドライな空気が流れている。その点いわゆるローカル列車的なナショナル・レールは、朝夕のラッシュアワーは別として、全体的に緩やかな雰囲気がかもし出されている。
まず座席からして、旅気分が煽られる。向かい合わせのゆったりしたシートに、真ん中にはテーブルまでついているタイプが多く、日本の長距離列車などでもおなじみの、“ツマミ片手に缶ビール”という客もときおり見られる。
なかには完全にできあがっている団体客もおり、秋ですでに寒いなか上半身裸で大声で笑い合い、もはや迷惑行為になりかねない輩までいる。かと思えば今度はパーティーの帰りなのか、着飾った男女が乗車前の駅ホームどころか、駅の入り口からシャンパン片手に車座になり、ハシャいでいる場面にも遭遇した。
はたまた帰宅途中なのか、都心部から下る列車内ではひとり酒でワインをチビリチビリやってるお疲れ気味もいる。かと思えばいかにも旅行者風、リュックを背中にドレッドっぽいヘアの女の子が話しかけてきて、てっきり旅行者かと思いきや、見掛けによらず、フランスからやってきたシェフという立派な肩書きを持つ乗客だったり。
対して上り列車では、通勤ラッシュ後の午前中など特に、ソワソワと浮かれ気分で楽しそうな乗客が多い。ある日など、通路を挟んで反対側の席に女性がひとりで静かに座っていると思ったら、途中の駅から乗り込んできた、友人らしき別の女性が現れると豹変した。
「キャー、久しぶり〜‼︎どうしてたー⁈」と、アクセル全開の大ハシャギ。その後すぐになんと、またしてもここで登場、シャンパンボトルにグラスで乾杯!さすがにミニボトルにプラスチック製だったが、わざわざそんな手間までかけて、それもローカル列車と言っても終点のターミナル駅まで、わずか20分程度である。
そんなわずかな時間ですらも惜しむように乾杯し、道中を楽しむという旅根性に心から感心する。単なるワインじゃなく、泡ってとこがまたオシャレだが……
準備よすぎだな。

6.10.2023
DAYS / Purleymay Column
イギリスで朝食を
誕生日会

イギリスで子供を持つ親の避けては通れない道、それは子供の誕生日会。
送別会同様、その規模スタイルは三者三様、多岐にわたるがある一定の年齢までは、年齢が上がるにつれ規模も比例して大きくなる傾向が。
各家庭、学校、地域によってパターンが違うので一概には言えないのだが、日本のそれとは大きく違い、初めは驚いたイギリス式の誕生日会について紹介する。
なお、これは我が子が通う小規模な現地校でのケースなので、生徒数が多い大規模な学校の場合は事情が違ってくるようだ。
招待方法
イギリスで誕生日会を開く場合、まずは日本と同じように招待したい人(親)に招待したい旨を伝える。
最近は現代らしく、ITを駆使したLINEのようなSNSを介してグループ全体に一斉送信で招待を知らせることが多いが、我が子の記念すべき誕生日会デビューは、正統派の紙によるものだった。
幼稚園から小学校低学年ぐらいまでは、男女問わずクラス全員を招待することが多い。
ただし、幼稚園前の未就学児が対象の場合や、本当に親しい子だけを呼ぶ内輪でアットホームな場合は全員とは限らず、会った時に口頭で直接誘われるなど、カジュアルに行われる。
また、逆に小学校に入り年齢が上がるにつれ(我が校の場合は2年生の頃)、男女別に呼ぶようになった。
招待状はSNS上のみの場合と、別途きちんとしたカードや自分で印刷した紙、あるいは誕生会施設から(おそらく料金に含まれている)貰う詳細が書かれた用紙が配られる。
会場の種類
日本では小さい子の場合、自宅もしくは飲食店で開催されることが多いのではと思われるが、イギリスの場合もう少し範囲が広がる。
未就学児や内輪だけの場合は自宅のケースもあるが、それ以外になると人数的にも難しいので、子供が楽しめるレジャー施設やスポーツ施設、あるいは場所だけを借り上げる公民館や教会の一室といった場合が多くなる。
小学校低学年頃までは親が付き添うことが多いので、年下の兄弟や親自身(両親とも来る場合も普通にアリ)を含めると20〜30人から100人いてもおかしくない会まである。
自宅開催の場合はホストの負担を考慮して、ホストからの許可がない限りは、招待された子本人のみを参加させることが暗黙の了解になっている。
余興は必須
日本だと普段のお遊び会の延長のような、お菓子や軽食を出して適当に遊ばせ、最後にはケーキを出してお終い、というパターンが妥当だが、こちらではとにかく子供を飽きさせないよう、余興による過剰なまでのもてなしが必要となる。
空気圧式大型トランポリンやフェイス・ペインティング、様々な遊びで子供達を楽しませる余興者などを外注。
年齢が上がるにつれ、この「遊ばせる」アクティビティはより高度になっていき、(施設費も上がっていくはず・・)サッカーやボルダリング、ボーリング、水泳、射撃ゲームなど、種類も豊富になっていくのである。
牧場体験や着物パーティーといったユニークな会を開くホストもいる。
ケーキの出し方
会の終わりにバースデーソングと共に、ケーキが出てくるのは日本と共通したイベントだが、出た後が日本と大きく違い、これまたカルチャーショックであった。
ケーキはその場で食べずに親が必死でその場で切って、各家庭にお持ち帰り。
これは、主に自宅以外の会場を利用する場合によく起こりがち。
施設にはタイトな時間制限があり(2時間ほどが多く、時には1時間半だけの事も)、悠長にケーキを切り分けて食べさせる暇がないことと、子供達がケーキ登場の段階で既に満腹であることに起因しているのでは、と推測される。
ちなみに、切られたケーキはジップロックの袋や使い捨て容器に入れられることもあるが、ペーパーナプキンにくるまれただけの場合もあり、家に着く頃にはぐちゃぐちゃになってしまい、衝撃的だった。
年齢が上がるにつれお腹の余裕も増えるせいか、小学生になると施設でもその場で食べてくることが増えたが。
親の分まで準備
小学生になると、誕生日会には子供だけ(車から)降ろして親は終了間際に再度お迎え、というパターンが増えてくるが、特に幼稚園以下が対象の場合は場所に関わらず、親も付き添うことを考えて親向けの飲食を用意しておく必要がある。
この親向けの飲食とは、大抵ソフトドリンクやコーヒー紅茶といった温かい飲み物の他に、茶菓子やサンドイッチがあったりする。
これがまたホストによって用意するものが千差万別で、子供達に出したものとまったく同じにビュッフェ形式の食事が振る舞われたり、シャンパンやワイン、ビールまで用意されている場合もある。
会によっては、もはや規模的にも結婚式の1.5次会並びに2次会に劣らないレベルのものも存在して圧倒される。
土産で見送り
日本で結婚式に参列すると、帰り際に「プチギフト」が手渡されることが多いかと思うが、イギリスでは誕生日会の終わりにこれと同じような習慣がある。
クライマックスのケーキお披露目も終わり、ついに御開き、となる帰り際にちょっとした手土産袋を持たせてくれることが多い。中は様々だが、よくあるのは上で述べた切り分けられたケーキや駄菓子、縁日で見かけるようなチープなオモチャや文房具、薄い絵本などが入ったもの。
ただこれも、学年が上がるに従ってお母さん方も正直不要だと思うのか?お菓子だけや、はたまた一切なく、省略されるようになってきた。
以上が一連の流れであるが、一般的に言って子供が小さい時の方が細々とした手配が多く、手間がかかりそうだ。
それに加え、ホスト自身もまだ慣れない経験なので気合が入り過ぎてしまうことがありそう。
付き添いの親もいるので、つい見栄を張ってしまう可能性もあるのではないか。
私が一番初めに、イギリス式誕生日会について教えを請うたお母さんからの一言が印象深いので以下に紹介する。
「これは競争ではない」
全く彼女の言う通りで、そもそも誕生日会を開かない人もいるし、皆それぞれホストによってこだわりポイントが違い、会場の種類、規模、余興内容、ケーキ、食事、手土産など、力の入れ具合がおのおのだ。
ただ一つ共通していることは、どの親も子供の喜ぶ姿を見る、そのたった一つや二つのためだけに全力を注ぎ、時には親の親、兄弟親戚までサポートに据え、家族総出で会を成功させようと力を合わせる点だ。
これは、万国共通である。

12.15.2022
DAYS / Purleymay Column
イギリスで朝食を
ベルギー

イギリスに来て初めて向かった国外旅行先は、ベルギーだった。
ビールはさほど好きでもないが、さすがドイツと並ぶビール大国、飲みやすい味で気に入った。
土産用のロゴもかわいい。
日本と同じ島国ではあるものの、海を越えて国際特急電車、ユーロスターがあるので大陸欧州圏もかなりご近所感覚。
ロンドンの発着駅セント・ パンクラスから車内に乗り込むと、わが家と同じような4人組の別の家族が乗車してきた。
これからいざ、「楽しい旅のはじまりはじまり〜!」といった様子で、子供も親もウキウキしてた。
が、しばらくするとなんだか様子がおかしい。
夫婦であたりをキョロキョロ見回し、緊迫した不穏な空気が漂いはじめた。
しまいには床に這いつくばるありさま。
明らかに「アレ」だ。
私たちも一緒になって探したが、透明の「アレ」を見つけるのは至難の業ということを私自身、よく知っている。
床に落としたコンタクトレンズを探すのは、かなり、難しい。
落としてしまった張本人の母親は、パニックになって顔を覆い、ついには泣きだしてしまった。
まだ旅は始まったばかりだというのに、帰り道ならまだしも、これから行く先々で観るものすべてが薄ボンヤリしてしまうのだ。
絶望的な気分になるのもよくわかる。
ついさっきまではしゃいでいた子供たちはすっかり静かになり、気まずそうにゲームを始めた。

途中フランスのリールという町を通るのだが、本当にフランスまで、あまりの近さに驚いた。
知り合いのフランス人一家が、いつも帰省するときはフェリーと車だと言っていたのにも納得だ。
ロンドン出発から2時間強、ほぼ定刻通りにブリュッセル南駅へ到着した。
宿に荷物を置いてまず向かったのが、1998年に世界遺産に登録され、ベルギーで1番人気の観光名所「グラン・プラス」。
中世の建物に囲まれた石畳の広場で、もともとは市場の開かれる場所として栄えた。
そのためか、絵描きが作品を広げていたりと、なんとなくマーケットっぽい雰囲気アリ。
ちょうどビール博物館があったので、さっそく入って駆けつけ1杯。
とても小さいので映像と資料の展示をほんのちょこっと見たら終わり、記念すべき本場での初ベルギービールを飲みに入るようなもんだ。
本場といえば、ベルギーはチョコレートも有名だ。
日本でも大いに知られている、かのゴディバチョコのお店の前でもしっかりパチリ。
そして広場から少し離れたところにあった、これまた小さなチョコレート工場も見学。
着くなり早々「ベルギーっぽいこと」を、もうこんなにもしてしまった。
シーフード屋台で食べた、海鮮スープにタップリの削りチーズとバゲットもおいしかった。
フランス語圏でもあるベルギーは、イギリス住民からしたらうらやましい、美食の国でもあるのだ。
ブリュッセル中心部の東側、シューマンにはヨーロッパの主要な機関が多く置かれているが、EU本部もあり、迫力のある変わったデザインの建物の前に、3本の欧州旗が風にはためいていた。
チョコレートの国のなかでもとりわけ甘い香りを漂わせ、いたるところにチョコショップが軒を連ねるのが、「チョコレートの町」ことブルージュだ。
翌日は、この中世の風情が残る小さな運河の町、ブルージュに小1時間かけて電車で移動した。
ここでもやはり石畳の道が広がり、ヨーロッパの街並みそのものだ。
ひときわ高い尖塔がシンボルの聖母教会を目印に、チョコレート屋めぐりをし、お隣さんへのお土産も無事ゲット。

と、ここまででベルギーの名物がかなり豊富にあることを知ったわけだが、なかでもそのひとつにムール貝を挙げる人は少なくない。
なんでもベルギー人のムール貝好きは相当なものらしく、「ムール貝の白ワイン蒸し」はイチオシなようだ。
たしかに、テラスで食事している人たちが頼んでいるのはバケツいっぱいの黒いムール貝という場合が多かった。
この日の夕食は、間違いなくこの料理でキマリだ。
ベルギービールとの相性も抜群で、貝の山を前に黙々と殻を外しながらチビリ、剥き身を食べる、チビリ、いや、ゴクゴクか。
あぁベルギーよ、小さなキミが、こんなにも幅広く引き出しを持っているとは知らなかったよ。
近くておいしい体験が、たくさんできた小旅行であった。
7.11.2022
DAYS / Purleymay Column
イギリスで朝食を
りんごの木

たわわに実るりんご。
今年もこの季節がやってきた。
わが家の庭のど真ん中に鎮座するりんごの木は、いま頃青い実をたくさんつけ始める。
スーパーに通年ならんで季節感のないりんごとは違い、わが家のりんごの木は季節の移り変わりをはっきりと示してくれる。日本よりも冷たく長い冬が終わり、春になると見事な薄もも色の花を咲かせ、ひらひらと舞い散った後は小さな硬い実ができ、夏の食べ頃になれば青いまま枝からボタボタ落ち、涼しい風が吹く秋になると紅葉した実の最後のひとつまで落ちきり、冬にはついに葉っぱすらも落ちて寂しくなる。
このりんごの木は、ちょうど台所の窓から真正面に見える。

息子は、5歳でイギリスの現地校に入った。
英語をまったく解しない日本の子供を受け入れてくれる、それだけを重点に学校探しをした。
「定員枠や条件などの関係で、すぐには入れなかった」という話も聞いていたが、幸い、適応度、学習面においては年齢が小さければ小さいほど入りやすいとの噂だ。
目星をつけた学校に問い合わせ、面談の予約を取りつける。
当日は、校内を案内してもらってから、校長と面談というのがお決まりだ。
ときおり、母も同じことをしたのか、と思うとまるで自分が母の姿になり変わったかのような、デジャブを感じた。
私のときに比べたら、息子の歳などなんらハードルにもならず、あっとういう間に順応するであろう。
そう、楽観していた。
「学年をひとつ下げて、はじめましょう。」
予想もしていなかった展開に、内心動揺しながらも学校生活が始まった。
教室に送り届けると、涙目でこちらを強く見つめる息子。
イエスかノーかも答えれず、話しかける先生に激しく首を振り、諦めたようにその場を離れる先生。
「宿題は、毎日20分までで十分です。それ以降は切り上げましょう。」
終わらない。
全然、足りない。
18時、19時、ときに20時・・
横に座って息子の答えを待っているうちに、猛烈な眠気に誘われ、意識が白濁してくる。
私がタイのインターナショナル・スクールに通っていたのは高校だったから、宿題はひとり、静まり返ったリビングのテーブルで、毎晩深夜までかかってやっていた。
カチカチと時を刻む時計の音に焦りながら、窓にふと目をやると夜景がきれいだった。
バンコクは、都会だったのだ。
それに比べたら、息子はまだ小さいから英語なんて、自然に、勝手にできるようになるんじゃなかったのか?
「そんな深刻に考えなくていいわよ。ウチはかなりテキトーにやってるわ。」
それは、英語ができるから・・
「クリスマスになったら突然話し始めたの」
やはりスペインから英語ゼロで転入してきた、女の子のお母さんが言った言葉だ。
クリスマスまで、あと何日残されてる?

母からは、私のしていることは「親のエゴだ」とまで言われた。
そこまで時間をかけて、息子を苦しませていいのか。
単に自分が、英語の学校に入れたいだけじゃないのか、とも。
それは・・そうかもしれない。
なぜなら、自分自身が、海外で英語を学ぶことによって、その後の人生が変わったから。
息子にも、同じ世界を見させてあげたい。
けれど、それは母も同じではなかったのか?
だから、弟と妹には日本人学校という選択肢があったにも関わらず、わざわざ私と同じインター校に入れたのではないのか?
少なくとも、息子の場合はほかに選択の余地がなくて現地校に入った。
それとも、片道何時間もかけて、ロンドンの日本人学校にまで通わせるのが、親としての務めなのか?
たまらず台所へかけ込み、流しのシンクに手をつくと、目の前にはりんごの木があった。
暗闇の中、紅葉しかけている実がほのかに蒼白く、光り輝いている。
その年も、私はまだまだ残るりんごをせっせとジャムにし、ゼリーにし、パイにし、ソースにすべく黙々と作業を続けた。

クリスマスはやってきた。
学校では毎年するのだという、イエス・キリストが生まれるまでを演じる聖誕劇があった。
息子の役は、キリストの父であるヨセフだ。
「おめでとう!」
父兄のひとりにそう、声をかけられた。羊や星の役など、歌が中心で個人のセリフがほとんどないものと比べ、ヨセフは本来であれば花形の役だったのか。
それとも、私の弟もやはり息子とまったく同じ状況で、まだ喋れなかった年にはタイでヨセフ役を当てがわれたから、ヨセフとは一見中心的で目立つ存在ながら、実はさほど発言せずとも成り立つという、便利な役なのだろうか。
いずれにせよ、担任の配慮を感じた。
舞台には、黙ったまま一度も声を発することなく、聖母マリア役の女の子に手を引かれ、右へ左へとはにかみながら歩く息子の姿があった。
翌年りんごの花が咲く頃、息子は校長の署名入り「勉強がんばったで賞」を手に、本来の学年へ「飛び級」した。
しばらくして、りんごの花はその年も満開になった。
4.5.2022
DAYS / Purleymay Column
イギリスで朝食を
チャリティ

イギリスの家には基本、どの家にもインターホンがついていない。
電子音のブザーか、金具など取手のようなものを扉にガンガンガン!と打ちつけて来訪を告げるのだ。
どちらも両方ついている家もあるが、結構な割合でブザーが壊れていることがあるので、結局はガンガンガン!の手動が確実だ。
私は日本でも、インターホンがない田舎の一軒家に住んでいたことがあり、そこでは玄関の小窓を開けて対応していたが、いまの家にはそれすらない。
来た当初はどうやって返事をすればいいのか、声を張り上げるだけか、
でもなんて? と、英語で言う言葉が見つからない。
「は〜い」「お待ちくださーい」みたいな言葉を部屋の中から発したいのだが、これまで海外でそういう状態に置かれたことがないので、およそ思いつかない。
結果「イェース?」とか、間抜けなことを口にしていたのだが、ある日ほかの日本人在住者に聞いてみたら皆一様に
「・・・」
黙り込んで、一瞬考えている。結果、
「べつに・・なにも言わない?」
確かに、ほかの外国人でも、なんか言いながら出てくるところは見たことがない。
私としては特に配達員など、留守かと思われて荷物を受け取れないと困るなどと思い、ノックがあると焦るのだが、こちらでは来訪者の方でも心得ていて、誰か出てくるまで普通に待っているだけだ。
まぁ、それもこのコロナ禍で、荷物も通常のものはガンガンガン!とノックだけして、ドアが開く前にそのまま玄関先に置いていくことが基本になったから関係ないのだけど。
頻繁な宗教勧誘
日本であれば自宅まで訪問してくる宗教の勧誘には、インターホン越しに断れるのだが、繰り返すように、こちらにはそんなもんないので、ドアを開けて対応せざるを得ない。
コロナ後はむしろ訪れる方が感染を警戒し、めっきり姿を見せるもこともなくなったが、その前は心象をよくするためか、やけに小綺麗なサマーワンピースに帽子、なんてまるで映画から飛び出してきたかのような爽やかな出立ちの御婦人が、ふたり組で現れたりしていた。
ある日はベビーカーの赤ちゃんを連れたママが来たので、引っ越しの挨拶?なんて思ったら、教会関係のイベントのチラシを配るためだったり、「寄付強化週間なのですが、もう済まされましたか」と、お歳を召した紳士が現れたり、イギリスは多宗教な国だが、キリスト教が過半数を超える国教なんで、やはりキリスト系の勧誘が多い。
定番の「神の冊子」を置いていったりするのには、受け取ればいいだけだからこちらもそれなりに対応できるのだが、(それでも、もちろん制服など着てないないので毎回、「誰⁈」と戸惑うのだが)来訪の意図も告げずにいきなり話し始めるのには閉口する。
日本でもたまに遭遇するが、ドアを開けるなり
「あのね、私、マリーって言うんですけどね。悩みごととかあったときはあなた、どうされます?」
と、言葉にも不慣れなのに、突然想定外の言葉を浴びせられると、状況が理解できずにタジタジとなってしまう。
いったい全体、何者でなんの話⁈ 用件は⁈ と、頭の中に無数の質問が渦巻き、しばしの混乱がもたらされる。
話を聴きながらようやく徐々に訪問の意図に気づき、いまはもうそんなこと言わないけれど、はじめは無下に断るのも悪いかと思い、相手が喜びそうな「近くに教会があるので、そちらへ行くのもいいですよねぇ」なんて応じていると、向こうは俄然調子を上げてきて突然
「では、聖書の何章にあるこちらの御言葉はもうご存知?あなたのいまのお悩みですと、この章が打ってつけだと思われます」などと押しつけられたりする。
や、特に悩んでないんですけど・・。
日本でもこれと似たような場面に遭遇したことが、何度かある。友達との待ち合わせ時などに、勝手に寄ってきて勝手に同情し、勝手に私のために祈り始めるのだが、それと同じ光景が海を越えて、デジャヴのように蘇ってきたこともあった。
コロナでさすがにそれもなくなったのだが、今度はまた見知らぬ団体からなにやら手書きのお手紙がきた!中にはパンフレットもあってソレとわかるのだが、封筒は普通の白封筒、宛名は「居住者様」となってはいるがそれもホンワカする手書きで(やはりこの時代、レトロな手書きは目立つ!)、びっしりと書かれた親しげな文調に一瞬知り合いなのかと思ったほどだ。
盛んなチャリティ活動
と、なにかとお騒がせな存在でもあるのだが、イギリスの人たちはキリスト教という宗旨上、博愛主義が広く見られるのか、チャリティ精神が旺盛だとはもともと耳にしていた。
実際、リサイクル・ショップのことはチャリティ・ショップという名で、売上金は支援団体にそのまま寄付されたり、学校でもしょっちゅ寄付事業があったりと、寄付文化が確かに根づいている。
子供ではなく、お母さんが自分の誕生日パーティーを開いて、プレゼントは受けとらない代わりに、彼女が支持するいずれかの団体に寄付を促したり、クラスのお茶会を自宅で開催し、ゲームなどのアクティビティを用意、「参加費」と称して集めたお金をガン患者へ寄付したりする熱心な人もいる。
子供たちが通う学校やボーイスカウトでも、定期的に保存食や缶詰といった食品の提供を呼びかけ、諸団体に届けたり、学校行事のときは普段の制服ではなく、コスチュームや私服で来てもよい代わりに、提携支援団体へ1ポンドの寄付をするなど、年がら年中チャリティ活動が繰り広げられる。
クリスマスには、靴の空き箱にクリスマスプレゼントを詰めて東欧の恵まれない家庭へ送る、という恒例チャリティが毎年ある。
私などは1箱用意するのがせいぜいなのに、一家庭で子供の人数分ちゃんと用意する家もあって本当に感心する。
これから迎える春のイースターには、毎年異なる寄付先を設定するのだが、今年はロシアのウクライナ侵攻を受け、急きょ予定していた団体から変更し、ウクライナ支援に充てられた。
資金での援助と物資の2タイプがあり、私は求められていたリストの中からいくつかの物資を用意して寄付した。
ちょっと変わった話としては、あるお母さんが夫婦喧嘩をして家を飛び出し、公園で野宿をしているとホームレス支援団体らしき人たちが現れ、食べ物を恵んでくれたという。
そのときのありがたさが心に染み入ったというそのお母さんは以来、寄付活動に目覚めたそうだ。
「恵まれない人は世の中沢山いて、少しぐらい自分が動いたところでなにか影響があるのだろうか」と、これまで思いがちだった私も、洋服などの不用品は重くて大変でも、チャリティ・ショップに持ち込むようになった。
よき習慣は、できる範囲で見習いたい。

2.5.2022
DAYS / Purleymay Column
イギリスで朝食を
ガレット・デ・ロワ

近年、日本でも知られてきて今年もいろいろな場所でお目見えしたけれど、私がフランスの伝統菓子「ガレット・デ・ロワ」を知ったのは、たしか2009年ぐらい、母がある日買ってきたからだ。
アーモンドクリームがつまったこのパイには、フェーブ(そら豆)と呼ばれる陶器製の人形が仕込まれており、「これを当てた人はその日王冠をかぶり、終日王様になれる」というしきたりも、このとき一緒に母から教わった。
ベツレヘムを訪れた東方の三賢人によって、イエス・キリストが神の子として見い出されたエピファニー(公現祭)の日、1月6日に食べるというこのお菓子は、フランスでは新年の祝いに欠かせないものだそうな。
そんな予備知識も人並みには持ち合わせていたので、とあるフランス人宅で「誕生日ケーキ」として登場したのには驚いた。それも、見たことのない長四角、かつ特大級。
たしかに、彼女の誕生日はそこらへんの日にちで、いわく、「作るのも簡単だし皆で分けられるから、私の誕生日は毎年コレなの」と。クリスマスと誕生日を一緒に祝われてしまう、そんな感じだろうか。
納得したような、普段からなかなかの豪快っぷりに、彼女らしいというか。
もともとは、別のフランス人ママに紹介されたのだけども、当時はお互いの子供も同じ学年になく共通項がなかった。
そのせいか、彼女ははじめ「あっそ」といった感じですぐに私を抜きにして会話を続け、正直感じ悪かった。
きっと、完全に興味がなかったのだろう。
それか、彼女のことだから、そんなつもりもなかった?
真意は不明だが、皮肉なことに彼女とは、はじめ紹介してくれたママよりもその後ずっと長く、それも家族ぐるみでおつき合いさせてもらうことになるのであった。
当時はそんなことともつゆ知らず、それっきりであったが、事態が急展開したのは下の子が入園した頃。
彼女の子と、同じクラスになったのだ。
すると彼女は、それ以来道ですれ違っても急にニコニコし始め、ある日などはまだ学校が始まって間もないというのに、放課後のおウチへのお誘いまでくれた。
まるで、手のひらをいい方向に返したかのような変わりっぷりに驚き、
「こ、コレが・・世に言うフランス人の「仲良くなったらとことん深くまで」ってヤツかい?。。。にしても・・あまりにも噂どおりで典型的すぎやしないか?」
と、当初はかなり疑心暗鬼だった。
けれども、そもそも私はなぜだか初対面の印象が悪い人との方が、仲良くなりやすいのだ。
それに、「アメリカ人は一見メチャメチャ明るくてフレンドリーだけど、社交辞令的で意外に懐には入れない。それに対してヨーロッパ人なんかは、はじめはよそよそしくても真の友情を築きやすい」なんてことを、昔からよく耳にする。
たしかに、私が行った高校はアメリカ式だったから、アメリカ人が当然割合的にもっとも幅を利かせていたのだけれども、私の拙い英語でもつき合って仲良くしてくれたのは、オランダ人やフランス人だった。
フランス人なんて、学年でその子ひとりしかいなかったのに。
そしてときを超え、またしてもこうしてフランス人ママと交流があるとは、それこそフランス語で「デジャヴ」とでも言いたくなってくる。
正確には、「これと同じことが前にもあったような気がする」という既体験感の、deja vecuなんだろうけど。
仮に、モニカとしよう。
モニカは、天然が入っている。
つき合いが長い分だけ、ガクっと肩すかしのように拍子抜けすることがけっこうあったけれども、なんと言っても彼女のもはや、天然なんだか執念なんだか見分けがつかないこと代表、がコレだろう。
私の名前を、間違って(わざと⁈)覚えている
モニカの携帯メッセージは、ほかに類を見ない丁寧な出だしでいつも始まる。
「親愛なるメイジーへ」
私の名前はメイ、パーリーメイである。
はじめこそ、あー、間違ってんなー。あ、まぁた間違えたままだなぁ。
などと悠長に構え、気づいてもらえるよう、わざわざ返信の末尾には
「メイより」
と記しているのだが・・
口頭はもちろん、挨拶カードも、そして携帯でも、引き続き、いまだもって
「親愛なるメイジー」
である。
ここまでくると、自分の方が間違っていた気がしてくる。
なんてことは冗談だが、最近もまた極めて痛快なできごとを起こしてくれた。
娘の誕生日にプレゼントを持ってきてくれたのだが、差し出されたのは封筒1通のみ。
こちらではとりあえず当日は誕生日カードのみ、プレゼントは後日の場合もあると聞いていたので、そのパターンかと思ったのだが、中を確かめるとなぜか
ユーロ札が1枚、ヒラリと登場した
モニカは、天然が入っている。
10秒ぐらい、「〜と、かけまして・・」
その心は⁉︎
と、さまざまな思いが去就したが、きっとこれは「フランスに行った時に使ってね♪」と、愛する母国をアピールした、熱烈な想いが込められているのだろう、と思うことにした。
お礼メッセージに「フランスでオモチャを買える日を楽しみにしてます♪」と送ったら、めずらしく即座に返信が来、
「待って。いや、待って、待って」
と、真摯に3度もWAITが書かれていたので、これは本気で間違えた模様だ。
ポンドと交換すると申し出てくれたけど、お断りした。
娘には今後日本に帰っても、いつでもこのユーロを取りだして、この愉快なフランス人一家を想い出してほしいと願っている。
愉快なのはモニカだけかもしれないけど・・。
さぁ、そろそろ私も、ガレット・デ・ロワ焼くか、また来年・・。

12.5.2021
DAYS / Purleymay Column
イギリスで朝食を
12月マリオン

マリオンという名前に出逢ったのは、フランス人の留学生が最初。
華奢なからだに栗色のロングヘア、マニュキュアは淡いピンクで洋服はいつも優等生のお嬢様風。
まるでフランス語かのように、ソフトな口調で英語を話す様は日本人、いや、私が勝手に思い描く「いかにも」なフランス人の典型。
そういえば、渋谷と原宿にあるクレープ屋も「マリオンクレープ」だ。
やはり、フランス発祥にちなんだ名前なようだ。
だから、イギリスの「マリオン」に出逢ったときは、ちょっとびっくりした。
フランス系なのかな・・?って。
こちらのマリオンは、小柄なのは同じだけど栗色はだいぶシルバーに近い毛色。
話し方は、年齢特有のちょっとしわがれた早口で、聴き取れないこともしばしば。
私の娘は見知らぬ人にも手を振ったりする、なかなかの人たらしだ。
コロナ禍以降、バス通学から完全なる徒歩通学に変えて以来、彼女はとある場所になると立ち止まり、通り沿いの家に向かってバイバイするのが日課になった。
こちらの住宅街では、窓が歩道に向いて家の中が丸見えでもあまり気にしない。
むしろ、見せるためかきれいなお花やキャンドル、置き物、カードなどを飾っている家が多い。
かなり暗くなって、灯りをつけると昼間以上に部屋の様子がよくわかるというのに、カーテンは開いたまま。
食卓で宿題をする子供たち、リビングで巨大なスクリーンを前にテレビを見てくつろぐ大人、はたまたおばあさんは編み物やパズルをしている。
治安がいい、ここら辺りだけのことかもしれない。
娘が手を振るお宅には窓際に水槽が置いてあり、いつしか私たちは「水槽の家」と呼ぶようになっていた。
毎日行きに帰りにと、結構な頻度で顔を見合っていたけれど、初めて言葉を交わしたのはふた月ほどたってから。
珍しく、マリオンが通り沿いの前庭で作業していたのだ。
奇しくも、翌日は娘の誕生日。
次の日、いつものように帰り道に前を通ると、マリオンがなにやら手にして家の中から出てきた。
スーパーの袋から、無造作に取り出したものは青い恐竜のぬいぐるみと誕生日カード。
恐竜には値札がしっかりついたままだ。
Lots of LOVE
たくさんの、愛を頂戴した。
娘のためにわざわざ、急遽1日で用意してくれたのかと思ったら、ありがたいやら申し訳ないやら・・。
クリスマス休暇に入る直前、最終登校日には、朝夕ともマリオンに会えなかった。
そのしばらく前に、お礼も兼ねてクリスマスカードとささやかなプレゼントを渡しに行った時も、留守だったので玄関先に置いてきた。
このまま来年までしばらく会えないな、と思いながら帰宅した。
すると、あるはずのないノックが。
普段、夕方以降わが家を訪れる人は郵便配達と言えど、ない。
不審に思いながらもドアを開けると、そこにはダウンに身を包んで寒そうなマリオンが立っていた。
「メリークリスマス」
くしゃくしゃのラッピングペーパーに包まれたクリスマスプレゼントと、カードを持ってきてくれたのだった。
私たちを帰り道で待ち受けるはずが、見過ごしてしまったようだ。
なかには、孫が遊んでいたというカードのゲームや絵本が入っていた。
私の母も、孫のためにと昔私たちが読んだ絵本やら服を取っておいてくれていたので、日本にいる母を思い出した。
年を越えても、こうしてマリオンとの「バイバイ交流」は続き、その後もやはり孫の絵本をもらったりした。
チューリップが見頃を迎えた春の日の午後、またマリオンが外に立っていた。
「私たち、結構もう見知った仲でしょう。
ほら、だから、ちょっと言っておきたくて、ねぇ・・」
と、イギリス人らしく前置きが長い。
にじり寄りながらつと顔を上げたマリオンは、どこが目なのかわからないほど顔半分が赤く腫れていた。
「息子がね、シンデシマッタノヨ」
その後もなにやら、写真を見せるだの言いながら落ちつきなく動いている。
てっきり、外まで息子さんの写真を持ってくるのかとボーッと突っ立ってたら、中まで入れと言う。
玄関に入ってすぐ右が、「水槽の間」だ。
正面の台所で、今朝届いたという手紙と、新聞記事のカラーコピーを見せられた。
私に読む時間を与えるためか、マリオンは娘に、今日の学校生活について質問していた。
が、あいにくただでさえ英語の読解力に欠けるというのに、さらにその上個人の手書きの手紙では、判読も理解もできるわけがない。
そもそもなぜわが子の死を手紙と新聞で知るのか、その状況からしてよくわからず、突然の展開に頭は混乱するばかりだ。
合間合間に「こんなことってある?なんて悲劇なの。
そう思わない?」と、tragedyを繰り返すマリオンに、「イエス」と「アイムソーリー」を繰り返すしかない自分の英語力を呪った。
ここ最近は、頻繁に会うこともなかったようだ。
「けれど、とってもラブリーで3人の子供がいるいい父親でね・・」と、この日はテレビをつけては消し、ウロウロして泣いてばかりいたので誰かにこの辛さを伝えたかったのだ、と言う。
「あなたはいくつ?こんな想いをしたことがある?」
と、早口でまくしたて、わが子へは「パパとママからいつもいっぱいハグしてもらってる?してるわよね。そうであると願うわ」と、自己完結している。
玄関まで送ってくれた時にようやく、これは、教えてくれた時に真っ先に抱擁してあげるべきだったのか、欧米式だとそれがよかっただろうか、でも、コロナだし・・
などと、さまざまな思いが駆けめぐり、ギュッと手を握った。
すると、どこにそんな力があるのかと思うほどの怪力で握り返してき、あぁ、やっぱり肩を抱くとか、よくテレビや映画で観るようなことをすべきだったのだ、と激しい後悔に襲われた。
「子供たちとの時間を大切にしてあげて」
そうさいごに言い、マリオンは扉を閉めた。

11.5.2021
DAYS / Purleymay Column
イギリスで朝食を
ポピー

今年もイギリスが赤く染まる月がやってきた。
なに、紅葉ではない。
クリスマスにはまだちょっとばかし早い。
ポピーなのだ。
「あぁ、なるほどね。そりゃ赤だ。」
と思った人はすごい。
私なんぞはポピーと言われても、赤などとんと思いもつかない。
こちらに来たはじめの年、テレビをつけて怪訝に思った。
黒人のイカちい男性ニュースキャスターの胸に、なにやら奇妙な赤い、丸っこいものが刺さっていた。
別のチャンネルの金髪女性キャスターも、レポーターも、トークショーの司会も
つまり、出てくる人間誰もがなんかつけてる。
あの赤いのなに。
形からして、そもそもソレがなんなのか想像すらつかない。
その、得体の知れない物体が、ある日を境に突然イギリスの街で、メディアで、そこいらで、国中が赤に染まり始めたのだ。
な、なんで?
なんか、皆が揃って同じもの身につけるだなんて、自由の国、民主主義国家とは思えない光景に、正直不気味ささえ感じる。そもそも皆、アレ、どっから手に入れたんだ・・・。
そんなことを考えながら子供の学校に送り迎えをしに行くと、球場のビールの売り子か赤い羽根募金の子供たちのように、なにやら四角い箱を持った生徒たちが盛んに声をあげている。
子供が「あれ買って」と。
近づいてよく見てみると、あぁ、アレは!!
出た!謎の赤い未確認物体!
買うの?なんのために?そもそもアレ、なに?
テレビなどそれまで見かけたものには、ピンバッジのように金属製らしきものから布製に見えるものなどあったが、そこで売られていたのはなにやら赤い画用紙を小さい丸型2枚に切り抜いて、真ん中を黒い丸で留めた、雪だるまのような形の紙製である。
す、すぐに破れそうだな。
子供が、まだせがんでる。
あとで知ったことだが、これは第一次世界大戦の、戦没者を追悼するためのグッズであった。
終戦後の焼け野原にポピーだけが力強く生き残り、一面花畑になるほどの花を咲かせたことに由来するそう。
以降、戦争犠牲者を慰霊する象徴となり、ブローチなどのグッズが売られ始めるのだが、これは英国在郷軍人会による募金活動のひとつで、売上は英軍関係者の支援に使われる。
終戦100周年に当たる2018年は、例年よりさらに大々的に、式典などが各地で催された。わが家も息子のボーイスカウトの行事として、教会での追悼式に参加してきた。
1918年11月11日午前11時、敗戦国ドイツと勝者となった連合国の間で、休戦協定が結ばれた。
こちらの式典もその時刻に合わせ、10時58分からテレビ中継の画面がスクリーンに映し出され、起立して待機。11時ピッタリに1分間黙祷してから着席した。
その後は、休戦協定当日の様子などについての話があり、その当時、11時を目前にして、大戦最後の戦死者となってしまった各国の兵士が、何時何分、どのようにして犠牲になったかという話が披露された。
停戦実施前、わずか60秒前にドイツ兵に撃たれてしまったアメリカ兵、実施後だったにも関わらず、それをまだ知らなかったアメリカ兵に撃たれてしまったドイツ兵、なんともったいないことか。
最後に牧師が「忘れてしまうと悲劇はまた繰り返される。
だから私達は決して忘れない。」と言ったことが胸に響いた。
そうか、犯罪や災害なども、だから風化させてはならないのか。
「同じ過ちを繰り返さぬよう・・」、日頃なにかと耳にするこの類の言葉は、そのためにあるのか、とすんなり腑に落ちた。
私はここでは外国人なので該当しないはずだが、これらの時期は街中が赤色に染まり、ブローチをつけていないと非国民のような気がし、まるで誰かに試されているかのようだ。
そう感じるのはイギリス人でも同じようで、どのようなポリシーなのか、あえてブローチを身につけない人もいるようだ。
ちなみにこの関連グッズは、ほかにポピー柄のスカーフにアクセサリー、マグカップと、戦争もの博物館なんかでは時期を問わず売られている。
また、ボーイスカウトでもそうだが、学校行事として丸い小石にポピーをペイントして飾る、という習慣もあるようで、作ったそれはどうやら通りに見えるよう、自宅の玄関先などに置いておくようだ。
出先でも、ふと通りがかった教会の一角にひっそりと控えめにポピーのリースが飾られていたり、旅先の公園や観光施設で戦没者の記念碑に巨大なものが供えられていたりする。
なんとなく、日本で言えば8月の原爆の式典にとても近い雰囲気だな、と感じた。
そう考えればこちらとしても自然と気持ちが引き締まり、英国在住者のひとりとして、今後もこの慣習を尊重しなければ、と思った。
10.5.2021
DAYS / Purleymay Column
イギリスで朝食を
ハロウィン・ラン

「スポーツの秋」なのは日本だけでなく、ここイギリスでも同じだ。
運動会は夏休みに入る前の6、7月にやるのが定番だが、今年はまたコロナ規制が怪しかったので、補習校のは休み明けの9月に行われた。
そして今月10月は、例年各地でマラソン大会など、ランニング関連のイベントが多く開かれるように思う。ハロウィンの月でもあるが、「イギリスの様子ってどんなのだろう」と思う間もなく、わが子が通う学校は毎年その頃「ハーフターム」と言う夏と秋の中休み期間なため、少なくとも学校行事については、いまだもってまったく知ることのないままである。
イギリスのハロウィン
そもそもキリスト教が多いイギリスでは、ケルト人が起源と言われるハロウィンなどは異教徒の祭りとして、特段なにをするでもない、普通の日としてスルーされているほどだ。
もちろんスーパーに行けば、商売なのでカボチャ型のお菓子やら仮装グッズがいくらでも並んでいるし、ロンドンや観光地に行けば異教徒の客もたくさんいることもあって、それなりにハロウィンの雰囲気は感じられるだろう。
けれど少なくとも日常生活において、近所の子供たちが「トリック・オア・トリート」でお菓子をもらいに仮装しながら各戸を回るなんて光景は、この5年近く1度も見かけたことがない。
ハロウィン・ラン
それもちょっと寂しいということで、わが家はコロナ前に「仮装してブドウ園を走る」という、ランニング・イベントに参加したことがある。当日は、思い思いの格好に変装した大人や子供が集まり、地面の草がまだ朝露に濡れているような、けっこうな早い時間からスタートし、2キロを走るのだ。
距離もさほど長くなく、遠くに広がる丘陵を眺めながら、収穫期のブドウが実った低木の間を走り抜けるのは、さぞかし気持ちのいいことであろう。ゴール後はワイナリーならではのお楽しみ、そのままガーデンで屋外ワインの乾杯である。
わが家はまだ朝だったので、かわりにガラス張りの天井がうつくしいカフェで、スコーンに紅茶の「クリームティー」のセットを頼んだ。その後はワイナリーツアーと、走らない私も一緒に十分楽しめた。
ダブリン・マラソン
翻ってイギリスの隣国アイルランドには、もともとケルト人の国であることもあり、ハロウィンを祝う習慣がもっとも純粋な形で色濃く残っているそうだ。別の年のこの頃、わが家はまたしてもランニング関連のイベントに参加すべく、今度は飛行機でアイルランドの首都、ダブリンまで飛んだのであった。
確かに滞在したホテルのロビーや街中のパブなどは、ハロウィンの飾りであったが、当日というわけでもなかったからか、やはり仮装して騒いでいるようなことはなかった。
けれど公園に行くとお祭りがやっており、ガイコツの操り人形を動かす大道芸人や、顔を白塗りにして真っ黒なマントやドレスといった衣装で楽器を奏で、歌うパフォーマーがいたりと、それなりにハロウィンの雰囲気を感じることができて満足だった。
大会前日祭
数日間にわたって行われる日本の文化祭のようだが、このとき夫が参加したダブリンのマラソン大会には、レースの前日に相当な規模の会場でさまざまな催しが開かれ、あたかも前日祭のようであった。
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マラソン大会参加者が当日つけるゼッケンは、通常事前に郵送されてくる場合が多いのだが、どういうわけかこのときは前日この会場に取りに行かなければならず、それで家族揃って出向いたのであった。
単にゼッケンもらってハイおわり、とばかり思っていたのだが、会場に到着して驚いた。ダブリン・マラソンは、ヨーロッパで4番目に大きい規模と言われているだけあり、前述したとおりこのときの会場自体も大きく、かつ人でごった返していた。
各スポンサー企業によるブースが設けられており、試食用サンプルが多数配られていたり、子供用に風船やフェイス・ペインティングのコーナーがあったりと、同伴した家族も楽しめるイベントと化していたのだ。
参加者本人である夫にとってはあり得ない話だが、このお祭り騒ぎにのぼせて肝心の受付、エントリーを忘れてはならない。カウンターに向かうと、ピエロのようなアイルランド風のデザインの帽子をかぶったスタッフがおり、初参加者には周囲へ大声で周知し、拍手と声援で激励してくれる。
なんて陽気で楽しいんだ!
正直アイルランドは、イギリスのさらに北なので、天気はどんよりと曇り、うす暗い冴えない町かとまたいつもの悪い癖で偏見を持っていた。
それが、大会当日の翌朝はスッキリ晴れ渡り、夫は紺碧の空の下、最高のコンディションでレースに挑むことができた。
こちらも無事ゴールを見届け、終了後はもちろん、アイルランド生まれのギネスビールで乾杯だ。
あぁ、またこの雰囲気を味わいたくなってきた。
日本はまだまだ緊張した状態で残念だが、幸いイギリスは今年の7月よりコロナ規制がほぼ完全に撤廃され、比較的また自由に娯楽を享受できるようになった。
ブドウ園でのランニング・イベントも、しっかり復活したようだ。ここはひとつ、再訪とすべきか否や・・。