


黒岩幸子
ヴァイオリニスト/教師
パリ在住。ミラノ交響楽団第一ヴァイオリン奏者を経て渡仏。
フランス内外のオーケストラ及び室内楽奏者として活動を続ける。
近年ではパリで後進の指導にも情熱を燃やす。noteで様々な考えを発信している。

9.10.2026
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
8月が私に残したもの

いくつもの台風に取り巻かれながら、今年も8月が終わりに近づいている。
8月の終わりは毎年の事ながら名残り惜しい。
それは日本で過ごす貴重な日々に、一時的に別れを告げる印であるし、
よくも悪くも、一つの環境に対してすぐ馴染んで感情移入し易い私の性質からしても、8月の終わりは精神的負荷が大きい。
特にこの夏は私にとって一生忘れられないものになるだろう。

それは生まれて初めて手術と入院を経験した夏だからだ。
とは言っても生死の間を彷徨うような病気ではなく、単純に子宮にできた巨大筋腫を取り除いただけであるが、それでも私にとってこの経験は改めて自分の死生観というか、それまで未知の世界だったことに現実的な手触りを与えてくれたと思う。
9日間の入院生活は、私にとって発見の連続だった。
初めて自分の身体にメスを入れるという事に対する恐怖感との闘い。
それから自らの生命力と治癒力の発見。
手術から3日目、身体がほんの少し楽になってきた頃は、意識がだんだんと自分の内側から外側へと向いて行き、そういえばあのドラマの続きはどうなったかな、とか本が読みたいなと思うようになった。
5日目、初めて病棟から出て売店でコーヒーや新聞を買った日は、まだお腹の傷の痛みを感じながらではあったが、ようやく普通のことができるようになった嬉しさを噛み締めた。
病院の丁寧に手入れされた中庭(この環境にどれほど癒されたことか!)を眺めながらぼうっとコーヒーを飲んでいたら、なぜか幸せすぎて涙がこぼれてきた。
手術を終えて5日しか経ってないというのに、そこには5日前とは全く違う自分がいた。 夏の庭の生き生きと輝く緑を目にした時、それらを生まれて初めて見たような気がしたのだ。
木は、葉っぱは、ここまで生命力に満ちて美しいものだっただろうか?まるでこちらに向かって必死にことばを発しているかのようだ。

ふと私は、これまで薄々感じていたことを確信した。
つまり幸せというのは、物質的なものとは一線を画するどこか別の場所にあり、理屈で折り合いをつけるものでも、目で確認できる状況でもないということだ(勿論、ヒステリックな興奮状態とも違う)。
それは身体というセンサーでじんわりと感知し得る、力強く確信に満ちていると同時に、とても静かなエネルギーなのだと思う。
このエネルギーに対して素直に体を開き、耳を傾けた時に幸福で体中を満たすことができる。
「身体のどこにも痛みを感じずに、健やかにただ生きていること」
これは決して当たり前のことなんかではない。
よく、幸せになるために何かを頑張ろうとか言うけれど、 頑張るというのはこの物質世界を無事に生き抜くためであり、幸せはその「過程」で度々「感知」するものだと思う。
それはちょうど1杯の香り高いコーヒーを前にして、 今という時間を優しく心に書き留めようとする瞬間のように。
だから「今この瞬間」を感知するセンサーが鈍ければ、幸せはあれこれと頭で想像するだけの、手の届かないものとなってしまう。
私達の目の前に、本当は過去も未来もない。
いま、という瞬間があるだけだ。
やっぱりそうなんだ、と改めて思う。

4.14.2026
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
無事でいてくれてありがとう

時々、自分がこの世に生まれてきた意味をふと自分に問いかける時がある。
大抵は「う〜む、分からん!」となるのだが、ジャンヌ・ダルク じゃあるまいし、 国を救うような大きなミッションなどないはずだ。だとすれば 周りの人を幸せにするというミッションか?
そのためには自分は何かを成し遂げなければならないだろうか? お金持ちにならなければいけないのだろうか?
う〜ん、、、これもハードルはなかなか高そうだ。
今日もホームにいる母と電話でお喋りをした。
今年89歳を迎えた母の麻痺した右足は、彼女のたゆまぬ努力の甲斐あってか、この8年で驚くほど動くようになったのだが、まだ自分で立つことはできない。
「ごめんね 、あんたに何もできなくて」という母。
まだ私のために努力しようとしてくれているのだろうか?
私は思わず母に「もう散々私の為にしてくれたじゃない。今はこうやってママが元気に私とお喋りしてくれることが一番嬉しいんだよ」と伝えた。

以前は、日本から本当にたくさんの小包を送ってくれた。その中身は私のお気に入りの雑誌やお気に入りのお菓子。
とにかく私が笑顔になるものでいっぱいだった。時には特上の鰻まで入っていた。
あの頃はなんと当たり前のようにその小包を受け取っていた事だろう。
ヨーロッパの郵便事情で、時々遠い郵便局まで受け取りに行かなきゃいけないなんていう時、こんなに頻繁に重たい荷物を送られたら私の方が大変だ、ぐらいに思ったりしたこともあった。
だけど今となればそんなことを一瞬でも思った私はなんと罰当たりだったのだろうか?
私は母が私にしてくれた半分も今の母にしてあげられないというのに。
(あらら、また涙が転がり落ちてきた!)

コロナの外出禁止令が敷かれていたフランスで、私が家に閉じ込められていたときは、母がホームから毎日電話で元気付けてくれた。
「右手なんか動かなくたって、左手だけでもうすぐあんたにきんぴらごぼうを作ってあげられるんだから待ってなさい」と言って。
こんな頼りない娘でごめんなさい、と心のなかで頭を下げる。
私がお金持ちだったらスーパーマンみたいに今すぐ母を迎えに行ってジェット機に乗せ、パリの広いアパルトマンで日本語の話せる看護師さんを24時間常駐させてあげられるのに。
母は、離れている私にもしものことがあったらとそれだけが恐ろしいのだと言う。
この前の電話では母に「無事でいてくれて有難う」と言われた。
私がアホみたいに地球のどこかで無事に生きているだけで感謝してくれる人がこの世の中にいるという有り難さ。
母のために無事でいること。これこそが紛れもなく私のミッションなのだ。
そしてどんな境遇にあっても将来への希望を絶対に手放さないこの母の強さが私には眩しい。

2.10.2026
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
再会

長年の友人マリー・ピエールがパリに移住してきた。
10年ぶりに年末のパリで再会した彼女は50歳に近づいて、 前よりもずっと美しく活き活きとして見えた。
日本人の母とコルシカ人の父の間に産まれた彼女の外見は、ほりが深くて意思の強い顔立ちだが、後ろ姿はがらりと雰囲気が変わって華奢な日本女性に見える。
そんな彼女が去年、夫(2人はどこから見てもオシドリ夫婦だった)と離婚し、20年以上も子供たちと暮らした家と北部の小さな街を去って単身パリへやってきた事は私にとって驚きでしかなかった。
私がマリー・ピエールと出会ったのは今から約20年前。フランスに来て間もない頃だ。私は当時パリで演奏の仕事を探していて、持っていたのは学生ヴィザだった。私はヴァランシエンヌというフランス北部の、ベルギー国境からもそう遠くない街のコンセルヴァトワール(音楽学校)にとりあえず籍を置き(ヴィザの書類上の住所もこの街にしなければならなかったので)、住所を貸してくれる人を探していたのだが、その時に快く承諾してくれたのが マリー・ピエールの 一家だった。
その後暫くして私はパリオペラ座オーケストラにエキストラ奏者として雇用されることになるのだが、それまでの数年間は私にとって精神の修行みたいな日々だった。
それまで住んでいたミラノに親しんだ友人達や仕事を置いて裸一貫(?)ヴァイオリン一本携えてパリにやってきた私にとって、優しい夫と3人の愛らしい子どもたちに囲まれ、地方都市とはいえども広々とした家に住む彼女の暮らしは完成形に見えた。

それから20年という時間が流れ、 今度はマリー ・ ピエール がたった一人で パリにやってきたのだ。
もっとも彼女は仕事を手放したわけではなく、パリから北部の街へ今でも仕事に通っているし、フランス人がフランス内で引っ越しただけという見方もできるけれど、50に手が届こうという年齢で夫と離婚し、大きな家も潔く夫に譲り渡してひとりパリのワンルームのアパルトマンから再出発を決意するのはどう考えても容易なことではないだろう。
そんな彼女と大晦日の夕方、セーヌの川岸を肩を並べて歩きながら、私は過ぎ去った20年の驚くべき速さと、私にとって過去の物語の中の住人だったはずの彼女が、また新たな存在として私の人生に現れたこの縁の不思議さを想った。
ここでボードレールの詩を持ち出すのはちょっぴりキザなのでやめておくけれど、人生は本当にセーヌ河みたいに、終着点などには目もくれず気ままに流れてゆくものなのだ。
時間も行き先も 人それぞれに。
どこにも完成形など存在せず、常に諸行無常で。

12.10.2025
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
1985年からのメッセージ

偶然、 YouTube のおすすめにビートルズのLet it be が上がってきた。
ビートルズ・ スーツを着たお人形さんみたいな姿からは程遠い、 真っ黒な髭を蓄えたポールのサムネをクリックすると、40年間押されたままになっていたポーズ・ボタンが急に解除されたかのように1985年から時が繋がった。
気がつくと私は13歳の頃の風景に立ち返っていた。
音高受験を間近に控えながら、発見したばかりのビートルズの魅力に夢中になっていたあの頃。
1日に何時間もヴァイオリンを練習する傍ら、 通学やレッスンの移動時間でひたすらビートルズを聴いていた。
ティーンエイジャーで反抗期真っ盛りだった私は、彼らの曲 一つ一つの中に自分だけの揺るぎない世界を、勤勉な蟻のようにせっせと構築していた。
あの頃は外の世界と内の世界が今よりももっと厳格に分かれていた。
内の世界は神聖な領域で、そこが私にとって本物の世界だった。
内側のリアルな世界があるからこそ、 外の世界に耐えられるという時代。
学校とか、友達のいる世界で何とかうまく自分を演じた後、 一目散にこの内なる世界に帰っていく感じは誰かに恋をしている時とよく似ていた。

私が明らかに ビートルズにのめり込んでいく様子を母は心配そうに眺めていた。
私が受けようとしていた音高は、東京でもトップ・レヴェルの音大の付属で、 弦楽奏者のエリート養成所みたいな場所だったのに、私が本格的に受験準備を始めたのは他のライバルたちよりも数年遅かったのだ。
でも、そのような多感な時代に ビートルズと出会ったことはいわば 避けられない運命を課せられたようなものだ。
私はポール・マッカートニーとジョン・レノンの写真を家のいたるところに貼り付けた。母がそれらの写真を片っ端から外し、私が再び元の位置に貼り付けるというイタチごっこが3年近くも続いた。
結局そんなふうに毎日ビートルズに恋をしながら受験勉強に励んだ結果、私は無事に合格した。
実技試験の当日、順番を待ちながら私は儀式のようにそっと、 Let It Be の歌詞を唇の間で繰り返した。
「全てあるがままに」
あの時代の気持ちの高揚は、今こそ自分に必要なものだと感じる。
大人になればなるほど 新しい経験が減り、むしろそれまでの経験が災いして自分を守ろうという方向に動きやすくなる。
でもそんな風に守りに入ると人生は途端につまらなくなってしまう。
私はコロナ以降完全に内向きになってしまっていた。 そこから毎日 1cm ずつでも抜け出そうとしてきたつもりだが、今はいよいよその最終段階にいるという気がしている。
外側の世界が変わるのは内側の世界が変化した時だけだ。
今再びビートルズを聴く私の中で、何かがぱきぱきと音を立て始めている。





















