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DAYS

STAY SALTY ...... means column

Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

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黒岩幸子
ヴァイオリニスト/教師

パリ在住。ミラノ交響楽団第一ヴァイオリン奏者を経て渡仏。

フランス内外のオーケストラ及び室内楽奏者として活動を続ける。

近年ではパリで後進の指導にも情熱を燃やす。noteで様々な考えを発信している。

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パリにいてウィーンを想う

12.5.2024

DAYS /  Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

パリにいてウィーンを想う

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1995年の夏。 私はウィーンで音楽学生としての生活を始めたばかりだった。

その頃のオーストリア通貨はまだシリングで日本は円高。ウィーン国立オペラやウィーン・フィル、そしてブレンデルやポリーニといった巨匠のリサイタルですら、立ち見席であればほんの500~600円で聴くことができた。今ならまさに耳を疑う金額である。

 

私は自分のアパートの壁に、ウィーンを代表する3つの劇場(国立オペラ座、そしてコンツェルトハウスとムジークフェライン)の毎月のプログラムを貼り、毎晩のようにオペラやコンサートへ出かけた。

私がそんなウィーンでの日常はいたって特別で、他の都市においては実現不可能なのだということに気づいたのは、ウィーンを出てミラノやパリといった他のヨーロッパの都市に住むことになってからだった。

ヨーロッパと言えどもあのように恵まれた音楽生活はウィーンを離れるともうどこにもなかったのだ。

 

時は流れ、ユーロになりグローバル化が進んでからは、あのスターバックスがウィーンにも進出したとか(他の都市なら当たり前でも、ウィーンの街ほどスタバが似合わない街はないという意味である)、古き良きカフェハウスに観光客が列をなしているといったことを風の便りに聞く度にがっかりした気分になった。

 

昨今の経済グローバル化は猛スピードで進み、初めは便利だと思っていても、こうして結果的に変わり果てた世の中の姿を俯瞰して眺めると、 結局世の中には変わった方がいいことと変わらない方がいいことがあるのだなという認識に至る。

 

私がウィーンという街をこの上なく好きな理由は、良い環境や師に恵まれただけではなく、この街が良い意味で極めて保守的であり、とりわけその芸術文化を今に伝えることに並々ならぬ力を注いでいる点にある。

私もウィーンでは物欲は全くと言っていいほど刺激されなかったけれど、コンサートや美術展には日々目を輝かせて通った。

 

実にこの都市ほど、その固有の魅力と音楽の歴史が切っても切れない関係にある街はヨーロッパ広しと言えどもそう多くはないだろう。

その理由はやはりベートーヴェンやシューベルトのようなクラシック音楽を代表する作曲家たちの多くがこの街に暮らして名作を書き、この地で認められるという事が彼らにとっても大きなステイタスとなるなど、ウィーンが紛れもなく18~19世紀にかけて音楽のメッカであったからだ。

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面白いのは、パリにもそうした19世紀のショパンを中心とした音楽サロン文化 みたいなものが存在したにも関わらず、そうしたことは今日ではプロの音楽家と音楽好きのマニアの間でしか知られていない事である。

 

ウィーンの人々に音楽文化が浸透していることは、音楽学生だった時代にウィーンでバイオリンケースを持って街を歩くと、人々が私に声をかけたり親切にしてくれたという経験が度々あった事にもよく現れている。 

 

例えば「君はバイオリンを弾くんだね?」という一見何でもない質問と表情のどこかに、ちょっと安心したような、 警戒心を解いたような不思議なニュアンスを感じたものだ(これがパリであれば、しょっちゅうバイオリンはスーツケースだと間違われたり、 当たってたらいいなという感じでそれは楽器ですか?と聞かれることになる)。

 

ウィーンにおいて音楽家であることは一目置かれる存在であり、フランスなどに比べ外国人に対しては保守的なこの国において、最も簡単に相手の警戒を解くことの出来る便利な身分証明書みたいなものだった。

 

またウィーン特有の魅力を語るのに、街の至る所にある古い建物を活かした天井の高いカフェハウス(Kaffeehaus)に触れないわけにはいかないだろう。ウィーンのカフェこそ私がこの世で最も愛するものの一つだ。

 

私の通っていたウィーン国立音大のあるヨハネス・ガッセからほど近いところにあるカフェ・フラウエンフーバー(Frauen Huber)では、ベートーヴェンがピアノ演奏をしたと言われている。私はこの店の雰囲気が大好きで度々通っていた。ここは食事も安くて美味しく、当時料理も満足にできなかった私は、栄養不足を補うためにここでよくほうれん草のシュトゥルーデルを注文し、エレガントな給仕さんはそれを必ず覚えていてくれた。

 

一方で、カフェ・ハヴェルカ(cafe Hawelka)のように19世紀からボヘミアンの芸術家たちが集う親密な雰囲気の小さなカフェもある。

店内は少し薄暗くて古いけれど、ウィーンのコンサートや展覧会のポスターが壁中に張り巡らされているようなエッジの効いた店で、当時ご高齢のマダムが店に出ている時は、夜中の12時になると揚げたてのウィーン風ドーナツ、 クラプフェン(klapfen)がお客に振る舞われることでも知られていた。

 

ウィーンのカフェではライブ演奏を除き音楽は一切なく、人々はそれぞれに新聞や本を読みながら静かな時間を過ごし、皆マナー良く低い声で会話している。一言で言えばカフェ文化というものが確立しており、コンサートホールと同様にそこでの民度が高い感じだった。

 

このような繊細なカフェの雰囲気は、やはりパリでもミラノでも見つけられないものだ。だからこそ当時のこのようなウィーンの街を、私は手放してしまった素敵な恋人のように今でも恋しくなる時がある。大手のカフェやブティックが、世界中の都市にまんべんなく行き渡り、どこに行こうと似たような風景に出くわす今日、こうした固有の文化や場所がいつまでも大切に受け継がれてほしいと願うばかりだ。

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デパートの中の散歩道

9.10.2024

DAYS /  Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

デパートの中の散歩道

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私たちは 多かれ少なかれ、ルーティンに陥りがちな毎日を送っている。

皆さんの散歩のルートはいくつあるだろう?

私は恥ずかしながら20年パリに住んでいても、いつも同じである。

言い訳したい訳では無いが、この散歩ルートは美味しくて安いコーヒーが飲める場所を目的地として決めたので自然とそうなった。

つまり裏を返せば、パリではなかなか美味しいコーヒーにありつけないという意味でもある。

さて、私の散歩のルートは少し変わっていて、まずメトロで10分足らずの駅、オテル・ド・ヴィルまで行く。

それから目の前のデパート、「BHV」に入るところから始まる。

せっかくピカソ美術館などがあるマレ地区の入口なのに、外を散策しないのはおかしいのでは?と思われる方。

私もあなたの意見に大賛成!

自分でも「外を散策しようよ」と自分に言ってやりたいのだけれど、これがなかなかそういう気持ちにはならない。なぜならこのあたりの店は、一見お洒落でも高くて不味いコーヒーを出すカフェとかアイスクリーム屋を含め、何故かコスパが悪い店ばかりでどうもトキメかない。

それに比べるともともとデパートが大好きな私は、デパートの中を散策する方が何倍もわくわくするのである。

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まずこのBHVというデパートはパリの他のデパートとは大分異なり、ドアの取っ手ひとつからファッションまで、ありとあらゆる種類のものが各階に詰め込まれている、まさに宝物を探す感覚だ。

地下はDIYやアウトドアのかなりプロっぽい道具から、フランスで昔から使われているオールドファッションな掃除用具の類まで見事な品揃え。

2階ではパリ発のファッションブランドを試着して、3階では種類の豊富な本屋さんでしばし時間を忘れて過ごし、スピリチュアル系の店にずらりと並ぶパワーストーンやタロットカードに目配せをしてから、今度は日本から遥々やって来た見覚えのある文房具の数々の前で思い切り郷愁に浸る。

その郷愁を受けて、足は自ずと美しいスーツケースが並べられた売り場へと惹きつけられてゆく。

5階の家具売り場では、映画のワンシーンのように完璧にレイアウトされたインテリアを見ながら自分の理想の部屋を思い描く。

ところが1番目を惹くシックな薔薇色の長椅子に座ってみると、見た目ほど座り心地は良くないなあ、なんて思ったりする。

はっとコーヒーが飲みたくなっている自分に気づくのはそんなときだ。

即座にバラ色の長椅子は頭から消えてなくなり、いそいそと6階にあるカフェへと向かう。

さあいよいよ散歩の締めだ!

ドトールみたいに気楽なセルフサービスだけど、見晴らしの良い大きな窓と、リヴォリ通りやセーヌ河、そしてサン・ジャック塔も見渡せる細長いテラスのあるカフェが、子供服売り場の奥で私を待っているのである。

今日も来たよ!と心のなかで呟きながらカフェの中へ真っ直ぐに入ってゆくとシュ~ッという楽しげなスキューマの音と香ばしいコーヒーの香りに包まれる。

ここではちっちゃなエスプレッソしか頼んでなくても店員さんが機嫌良く、昔のパリみたいにカップの脇に小さなチョコレートを置いてくれる(パリではいつの頃からか、食事を注文したお客さんのコーヒーにしかチョコレートを付けてくれなくなった)。思わず心の底から笑みがこぼれるのはこんな瞬間だ。

デパートの最上階で目を閉じてコーヒーを啜る自分が、あのSempéの絵の中のユーモラスな人々の一員になったかのような気がしてしまう。

 

こんな気楽な気分転換が私はスキだ。

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誰かを幸せにする音

7.1.2024

DAYS /  Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

誰かを幸せにする音

今年の春、私がその存在を知って以来ずっと心の中で共に歩いてきた一人のピアニストが92年の生涯に幕を降ろした。

ネットニュースで目に飛び込んできた彼女の死は、私にとって他人とは思えないほど受け入れ難いものだった。でも心の何処かでは、ああついにその日が彼女にもやってきたんだなと諦めに近い感情で受け止める自分がいた。

 

フジコ・ヘミング。

 

日本人の母とスウェーデン人の父のもとにベルリンで生まれ、フジコが幼い時に家族で越してきた日本に馴染めなかった父は、ふたりを残して日本を後にした。

20代の時に留学先のウィーンでレナード・バーンスタインにその稀有な才能を認められ、彼のバックアップで実現したリサイタルが彼女の輝かしいウィーン・デビューとなるはずだった。ところが、こじらせた風邪が悪化し耳が聞こえなくなるという悲劇に見舞われることになるのだ。もちろん治療するお金もなかった。

そしてその後の長い人生は、彼女がその頃掴み取ろうとしていたものから少しづつ外れていく。神様はフジコを見捨てたかのように思えた。

 

でも、「遅くなっても待っておれ」

これが彼女の信じた聖書の言葉だった。

彼女の才能はいったん封印されたように見えたが、それは決して輝きを失わなかった。フジコは自分の才能を諦めずに磨き続けたのだ。

晩年における彼女の活躍は日本では多くの人が知っているかもしれない。そこがこのピアニストの独特なところだ。つまり彼女の本格的なキャリアは60代から始まったのである。

 

多くの人達と同じように、私も彼女を初めて知ったのはNHKが1999年に放送した一本のドキュメンタリーだった。

あのときの衝撃は今でも昨日のことのように覚えている。

 

私が衝撃を受けたのは、彼女の独特の衣装のせいでも、小説家なら飛びつきたくなるほどドラマティックな経緯を辿ったその半生の物語でもなくそれはただ、彼女の指先からこぼれ落ちる音がそれまで一度も聴いたことのない音だったからだ。

 

透明なクリスタルを想起させるその音は、川の水のようにテレビ画面から溢れ出した。さらに驚きだったのは、その音がまるで彼女自身の言葉のように物語を語りだしたことだった。

母と一緒に東京の実家でその放送を見ていた私はその数年前からウィーンに留学していた。

そして母と共に、このような演奏が存在するなんてと思わず画面に釘付けになった。

 

同時に、このピアニストが持つこのように大きな音楽性の、たとえその片鱗でも演奏者として身に着けられる可能性があるのなら、自分は日本の音大で一体何を学んでいたのだろうか?という思いがいつものように私の脳裏をかすめた。

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私が通ったエリート養成所みたいな音大では、きっちり楽譜通りという名のもとに、いくつかのお手本のような曲の解釈や、マシーンの様にばりばりと演奏することばかりが重要視されていた。

 

それに加えコンクールで優勝したり、学内で勝ち上がっていくためにはクルト・ワイルの三文オペラではないけれど、センシティブな心は石になるまで鍛え上げる必要があった。

結果、上手くても皆均一の無難な演奏になるのだった。工場でマニュアル通りに作られた美しいお菓子のように。

 

そうした環境の中、音大にいた頃はずっと悩んでいた。でも、日本を一歩出てウィーンという都にたどり着いた時にやっと息ができた。

ウィーンは音楽の世界においても非常に保守的で知られているのに、そこで聴く音はとても人間味に溢れていたのだ。

 

一方でウィーンの先生達は、日本の音大のレッスンが生易しく思えてくるくらいに「曲の様式と解釈」にはうるさかった。

それに加えて、自分があたかもベートーヴェンから直接指導を受けたかのように自信たっぷりに曲の解釈を述べるのだった。それが私が直面した次の問題だった。私にはなぜ先生方が小さなフレーズひとつ自由に弾かせてくれないのか本当に分からなかった。これでは言われたとおりにガチガチに仕上げるしかない。

日本の音大で私が学べなかったのは、まさにこうした伝統に裏付けされた音楽的解釈だったはずなのに。

 

楽譜に書いてあることを作曲家の意思を汲み取りながら正確に伝えるなんてことはある程度までは可能だとしても、自分という存在を忘れてそればかりを考えていたら三流の翻訳家になってしまう。なぜなら演奏者はその曲を書いた本人ではないのだから、本当の解釈を探したところでわかるはずもない。

 

そんなふうに考えに行き詰まる時、自身の音楽の化身のような個性的なフジコの姿が頭をよぎることがあった。

 

彼女は錬金術師のように鍛錬し、磨き上げたその音で星のない夜空を星で一杯にした。

私たちが聴きたい音はそんな音なのだ。

みんなを幸せにする音。

 

するとそれまでの頭の中だけの長い議論がすうっと蜘蛛の子を散らすように収束し、ひとつの答えが見えてくる。

 

それは、誰かに一瞬だけ辛い日常を忘れさせ、この世にはこんなに素敵なこともあるんだよと希望を与える演奏をすることだ。

 

パリにも活動の拠点があったフジコの演奏をいつでも聴きに行けると思っていたが、それは叶わなかった。「いつかしよう」という言葉とはこれを教訓にサヨナラすることに決めた。

 

今たくさんの愛した猫たちと共に天国にいるフジコは、あの素晴らしい音で神様をうっとりさせているに違いない。

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祭りの後に想うこと。

2.10.2024

DAYS /  Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

祭りの後に想うこと。

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心のどこかで子どものように待ち侘びていたクリスマスもお正月も、いつものようにやってきたと思ったら あっという間に過ぎ去って行った。

 

12月から1月というのは不思議な時間だ。

クリスマスとそれに続く「これから正月だ」という壮大な時間が流れるイメージがあるので、あたかも時間の単位までもが大きく引き伸ばされるような印象がある。

 

フランスには「お正月」という日本人の持つ特別な時間の流れはないけれど、 クリスマスがそれに代わっての大イベントである。

なのでクリスマスの少し前ぐらいから始まるクリスマス休暇を境に、パリからだんだん人がいなくなってゆく。

そのたびに、「ああ、やはりここは東京のように地方出身者達に支えられている街なのだな」と思う。

なんだか日本の年末が少し早まったかのような雰囲気で、それはそれで楽しい。

しかもこのがらんとした雰囲気は年始の2日頃まで続くのだ。

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「年末」という曖昧でいながら他のどの月にも存在しない祝祭のムードを帯びた時間の流れは今更ながら不思議だ。

カレンダーに並ぶ12月後半の日々は、全く別の時空に属しているのだろうか。

命の短い私たち人間が勝手に区切った小さな1年は、壮大な宇宙にとってはひとつ咳をしたような軽さしかないかもしれないけれど、そんなちっぽけな存在たちが必死に生きた1年という時間の重さに対して神様が労いの魔法をかけてくれるのがこの時期なのかもしれない。

だから人間の哀れな脳はつい、この魔法が終わる時のことを忘れてしまう。

 

夏休みが永遠に続くと信じてしまう子供たちのように、この祭りの終わりも遥か彼方にあると信じてしまうのだ。

ところが神様は私達の脳に「休みなさい」と少しだけ魔法はかけても、時間を倍にはしてくださらない。

私もクリスマス頃にはこの年末、優しい時間という長椅子にゆったりと寝そべり、あの映画を観よう、この本を読破しようなどとあれこれ夢想したのだが、不思議にもなかなかこの「優雅な長椅子」に辿り着かなかった。

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クリスマスから大晦日、元旦にかけて食べるものの買い出しに始まって部屋の大掃除。

それが終わると今度は新年の挨拶合戦である。

電話をかけたりメッセージに返信したりするうちにだんだんと疲れがたまってくる。

スマホの見過ぎで、肩までコッてくると流石にもう本を開く気力もない有様だ。

呑気に明日でもいいやなんて思えば既にもう日付は1月2日に変わっていることに気がつく。

 

残念ながらフランスには「三が日」という感覚がないので、元旦さえ過ぎれば間もなく周りの世界は元通りになる。

そこではたと気がつく。

本を片手に「優雅な長椅子」に座っていたと記憶しているのは何時間くらいだったんだろうと。

そこで自分の中に自然と今年の教訓が生まれた。

それは「最もやりたいと思うことを一番先にすること」だ。

今週からパリはいっとき寒さが和らぎ、明らかに少しだけ日も長くなった。

それだけでも何だか勇気づけられる。生きているだけでも重労働な冬の出口はもうすぐそこだ。

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鍵穴からメリー・クリスマス

12.10.2023

DAYS /  Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

鍵穴からメリー・クリスマス

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パリは11月に入った途端に極端に冷え込むようになった。
穏やかな秋は殆どなく
窓を開ける度に震え上がりながら公園の紅葉を見つめる毎日。
今日などは朝起きて、いやに寒いので温度計を見ると3度しかなかったので驚いてしまった。
もう真冬ですか?と。


それで今年もまたこの時期になると
クリスマスが目の前に迫っていることに気付かされる。
それもこれも、テレビやYouTubeが今年も不気味に笑うサンタとか
大量生産の添加物にまみれたチョコレートの山を前に
幸せいっぱい微笑む家族のイメージなどを、これでもかと繰り出して
クリスマス商戦を繰り広げているからである。


去年くらいまでなら私もそんなコマーシャルを見た後に
ふと楽しい時間を想像して暖かい気分になった瞬間もあっただろう。
でも今年はどういうわけかそうした宣伝が甚だ鬱陶しく思える。
別にクリスマスが悪いわけではない。
ひとたび現在世界で起きているおぞましい戦争に思いを馳せれば
幸せなクリスマスのイメージなんて絵に描いた餅でしかなく
家の周りがすべて火事なのに家の中だけで皆が「幸せだねえ」と言っているようなものである。


そもそも人間という種族が問題なのだ。


清貧を心掛け信心深い人々がいる一方で
腹黒い人間たちは何千年もの間宗教を道具に金を儲け、殺戮を正当化してきた。
そこでわたしはまた、10歳の時からのあの疑問を因縁のように繰り返す。


「なぜここまで科学やテクノロジーが進化しても戦争だけは太古の昔からなくならないのか?」


ダブルスタンダード(二重規範)という言葉がよく聞かれる今日
どの国の政府にもこれが当てはまる気がして
正義なんていうものはもう何処にも存在しないんだという絶望感に苛まれる。
だからこんなご時世において、もしまだ本物の聖夜というものが存在し
神様が哀れな人間たちを見放さずにいて下さるというのなら
こちらもただ浮かれて消費するだけのクリスマスを過ごすのでは
あまりに軽率だという気がしてしまう。


少なくとも私はクリスマスで賑わうパリのショッピングセンターで
子豚の群れよろしく彷徨い歩いている最中に
テロリストのひとりに頭を撃ち抜かれて死ぬなんていうアホな結末だけはごめんだ(これでは断腸の思いで一人娘をヨーロッパに送り出してくれた親に申し訳が立たないというものだ)。

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そこで私が思いつくのは世にもネクラなクリスマスの過ごし方。
朝からひとり禅の本を読んで過ごすとか、にわか茶室を作るといったものである。
部屋の一角を茶室に見立てて、弱い冬の光の中で瞑想をしてみるのも良いかもしれない。


そういえば、私にとって生まれてから今日に至るまで
楽しく過ごすということは必ずしも誰かと一緒にいることを意味してこなかった。


むしろ一番ワクワクするのはひとりで何をしようかなと考えた時なのだ。

自分の中に強くコミットすることによって
逆に世界全体が活き活きと見渡せる時のあの清々しさが何より好きなのである。


だからと言ってはなんだが、パリによくありがちな人でいっぱいの小さなレストランで
知らない人と同じテーブル(しかも四人座りの席!)に着席させられ
隣の人の口から飛ぶ唾とか大声に耐えながらする食事ほど辛いものはないし
パーティなんかもガヤガヤ声に耐えられなくて
「この騒音はヘリコプターに換算すると何ヘルツになるだろう?」なんて考え始めたら最後。

必ず途中で逃げ出してしまう。


こんなふうに極めて非社交的な、私という人間は家のドアを開けて中へ飛び込み
錠を下ろした途端にほっとする。さあひとときの間、混沌とした世界よさらば。


世界に一分でも一秒でも早く優しさと新しい秩序が戻りますようにと願いつつも、鍵穴からメリー・クリスマス。

素敵な偶然

10.15.2023

DAYS /  Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

素敵な偶然

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誕生日の朝、パリの新しい仕事場で初ミーティングがあった。

前の日の夜にグーグルマップでその地区を見ていると、仕事場から徒歩3分くらいのところに見覚えのある名前を見つけた。

Le Pure Café(ル・ピュアカフェ)。

あれ、もしかするとこのカフェはいつか行ってみたいと思っていた、あの映画に出てきたカフェではないだろうか?
「あの映画」とは、95年頃にジュリー・デルピーとイーサン・ホーク主演で第一作目が発表された、ラブストーリー三部作のうちの二作目「ビフォア・サンセット」のことである。

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一作目のビフォア・サンライズ(タイトルの酷似がなんとなくキッチュで可笑しい)は発表当時、主人公達の年代が自分と同じなうえ、舞台も当時留学していたウィーンだった。

スクリーンのあちこちに、よく知っているカフェや通りを見つける楽しさに加え、抜け感のあるリアルな雰囲気やセンスのいい音楽など、どこをとっても自分好みで大のお気に入り作品となった。
今観ると、自分自身の若過ぎる日々を綴った愛おしい日記のようにも思える作品だ。
第二作目は9年後、私がパリに移住した年に発表され、これまた不思議な偶然で映画の舞台はパリだ(私を追っかけてくるみたいに)。

長距離列車のなかで知り合った若い男女がウィーンで途中下車し、束の間の短く夢のような時間を過ごして別れていく第一作目は本当に甘酸っぱい青春の香りに満ちているのに対して、この二作目では仕事や家庭を持ち少し大人になったふたりが偶然パリで再会を果たすというものだ。
パリの街を歩きながら、もしくはカフェで、ふたりは9年間の空白を埋めるかのように果てしない対話を展開する。

そんな映画の重要な舞台の一つとなったのが先に書いた 「Le Pure café」なのだ(ヌーヴェルバーグの脱力感を感じさせるこの三部作の舞台にパリのカフェはまさにぴったりだ)。

私は即座に今年の誕生日の朝ごはんはこのカフェにしようと決めた。

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大好きな映画のシーンが撮影された場所が仕事場の直ぐそばにあるなんて、嬉しい偶然ではないか?
すると途端に数々の忘れられないシーンが脳裏に蘇ってきて、早くもこの場所に縁みたいなものを感じ始めた。

次の日仕事のミーティングは10時だったので、私は少し早めに家を出ることにし、降りたことのないシャロンヌ駅で地下鉄を降りた。

パリというのはほんの少し地区が違うだけで雰囲気がガラリと変わる。

11区にあるこの店はグーグルマップを頼りに駅から3分ほど歩き、角を曲がったところで姿を表した。

パリにおける多くの映画の撮影場所の例に漏れず、ほんとうに特別なところは何もない、地元に溶け込んだこのカフェの姿はスクリーンの中で見たよりもずっと古ぼけて見えた(もう撮影から20年近く経っているのだから当たり前だけれど)。
でもアパルトマンの斜めになった角に位置する入口の雰囲気は、映画で見た姿と何も変わらず、テラスにはまだそんなに人はいなかった。
どこか戦前の雰囲気が漂うレトロな店内に入りカフェ・オ・レと、カウンターの上のパン・オ・ショコラを注文してからテラスに座った。
しばらく座っていると、11区風の個性的な人々がチラホラと顔を見せ始めた。
彼らのクリエイティブでありながらリラックスした服装と、サン・ジェルマンあたりでお茶をする裕福なマダム達の控えめな、それでいて思いきり質の良さが滲み出るファッションとは本当に対照的だ。

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コーヒーと一緒に運ばれてきたパン・オ・ショコラは見栄えこそ地味だったけれど、ここ数年食べた中でもトップと言えるほどの美味しさだった。


初めて入ったカフェから眺める普段と違う景色はサプリメントのように心の風景をも変えてくれる。

すっかり忘れていたこの映画の恋人たちが不意にわたしの心に戻ってきたことで、もう一度この三部作をじっくりと観直したいという欲求が芽生えた。

不思議なくらい幸せな予感を伴って。

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父の好物を探して

8.5.2023

DAYS /  Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

父の好物を探して

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航空券の異常な高騰の中、奇跡的に乗り継ぎ便よりも安価な値段で直行便を見つけた私は幸運にもこの夏、病から回復した父が待つ家に帰ることができた。

去年の夏心不全で倒れた父は、10月にめでたく退院し、それ以来ヘルパーさんたちの力を借りながら新しい住まいで一人暮らしをしてきた。

家の中は1年近く経ったわりには片付いていて、インドの修行僧みたいに細くなった父は、私が兄と選んだ折りたたみ式の食卓ではなくキッチンの端っこに置いた丸いガラスのコーヒーテーブルの前を主な居場所にして暮らしていた。

父の部屋を覗くと、壁には若い時の雑誌のインタビュー記事とか新聞の切り抜きとかが何枚もも貼られていた。

ベッドの周りには不可解なひもが張り巡らされ、そこにも紙片とかあらゆるものがぶら下げられていてまさに「父の城」がそこに出来上がっていた。

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印象的だったのは、父が食べ物に対する興味そのものを失いかけているように見えたことだった。

「俺は何でもいいんだ」

と言い切る父は、1日に2回配達されるお弁当をゆっくりゆっくり 午後中かけて食べ、 私が何かを買ってきたり 作ったりしてもさほど興味を示さなかった。

 

それはどこか 拗ねているようでもあり、自分で遠くまで美味しいものを買いに行けない現状を諦めるために自分に課した約束事のようにも見えた。

 

それでも私がフランスから買って来たチョコレートに関しては例外だったようで毎食後口にし、挙句の果てにいそいそと仏壇にまで持って行った。

毎度食事が終わる度に、私はこれらの個別包装された色々な種類のチョコレートをタロットカードのようにテーブルの上に並べ、じっとその上に視線を注いでいる父の方を見ながら「今日はどれにする?」と尋ねるのが小さな日課となったが、私自身はパリで高級な 「雪見だいふく」とか、キットカットの抹茶味を早く買いに行きたいと思っていた。

 

私はお寿司も好きだが日本の B 級グルメとか昭和の洋食みたいなものに目がない。

嬉しいことに今回そうした食費は円安の影響で驚くほど安く済んでしまった。

日野駅前にある フレッシュネスバーガーとやよい軒にも楽しくて何度か通った(やよい軒でお味噌汁やバランスの取れたおかず付きの定食が1000円以下で食べられるのに対し、ハンバーガーとポテトのセットが1000円以上するのがなんとも不思議だった)。

 

父はまだ一人では外出できないので、私は用事のついでとか、たまに友人とのランチで外出した時を除いては極力家で父と食事を取るようにした。

父のお弁当はバランスが良くはあったが、やはり生野菜や果物、お味噌汁などを付け足す必要があった。

 私は 自分用にパスタを作り、もくもくとお弁当を食べる父の横でそれを食べた。

そのうちパルミジャーノなしのパスタに飽き飽きした私は大好きな納豆を買い込み、それと焼き魚でご飯を食べることが多くなった。

するとやはり日本ではこういう食事が一番美味しいことに改めて気がついた。

 

フランスでは2切れで1500円もする鮭が日本ではたったの数百円なのだから堪能しない手はない。

スーパーでは他にもアジの開きや天然のブリを小躍りしながらカゴに入れた。

母が家にいた時によく食卓に上がったアジの開きを焼くと、父も珍しく食べたがった。

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ある日、父の日課であるアパートの敷地内の散歩に付き合おうと家を出ると、父は突然すぐ目の前のバス停からバスに乗ってみたいと言い出した。

倒れて以来1人でバスに乗ったことなど一度もないし、杖をついた父を連れて行けるか心配になったが、ちょうどバスが到着したので一緒に近くのショッピングセンターまで行ってみることにした。

ショッピングセンターに着くと、私は父に久しぶりにアイスクリームを食べることを提案した。

風が出てきて少し涼しくなったので、父は外のテラスでベンチに座って待ちたいと言った。

私がアイスクリームを持ってベンチに近づくと 一瞬 父の姿が見えなかった。

さらに近づくと杖の先だけが見えた。

10分も経っていないのに、父はもう疲れて枯れ木のようにベンチの上に横になっていたのだ。

私が声を掛けるとアリのように手足をバタバタさせて起き上がり、アイスクリームを受け取った。

そして待ちきれないと言った様子で口に運ぶとつい心から「ウマイ!」と本音を漏らしてしまった。

 

自動車レースをやっていた若い頃から様々な事故に遭い、その度に不死鳥のように蘇った父は今84歳で確実に歳老いていた。 老いとは一体どこからやってくるのだろうか?

 7月の鮮やかな夕焼けに空が包まれていくのを見ながら一年前、 医者にお父さんは二度と家に戻ることはないだろうと言われた日のことを思い出した。

それから数ヶ月後見事に回復し、8ヶ月も 一人暮らしを続けて来た父。

子供のように夢中でアイスクリームを食べる 姿を横目で見ながら、父にはこれからも世の常識を何食わぬ顔で覆して行って欲しいと願わずにはいられなかった。

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音楽を演奏するのにプライドなんていらない

6.10.2023

DAYS /  Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

音楽を演奏するのにプライドなんていらない

夜20時過ぎ、シャルル・ドゴール空港へ向かうバスの窓からぼんやりと外を見ていると不思議な違和感に襲われた。

まだまだ昼間のように明るい風景が突然音を失っていくように感じられたのだ。

 

水に浮かぶ美しいオフィーリアのように、外見はまだバラ色の頬をしているけれど内側では確実に死が一秒ごとに広がっているのにどこか似た不気味さで、明るく見える風景はその内側で確実に暗い夜を広げていた。

そんなふうにして、見えないところで終わってしまった一日をそうっと沈黙で包み込むかのように明るい夜が更けていくのを見るのは不思議だった。

 

今日のバイオリンのレッスンで、生徒のカミーユが自分の演奏を誇りに思えないから発表会で演奏したくないと言ったとき、自分自身を誇りに思うことが音楽にとって一番余計なことなのだと説明している自分の声を聞いて思わずびっくりした。

何かが私に乗り移ったのか?

それはまさに自分に向けられた言葉だと思ったからだ。

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自分を誇りなんかに思えば思うほど、ありもしない完璧の檻の中に閉じ込められて何もできなくなる。

例えば人の前で演奏するのが増々怖くなったり、失敗したかしないかということだけが大切に思えてくる。

誇りに思ったりするのは芸術家の仕事ではないのに、わたしは何を勘違いして生きてきたのだろう?

音楽を心から愛して楽しむことができるのならタダの馬鹿でもいいとなぜ思えなかったのだろう?

人前で演奏するたびに、ずっと自分で自分を誇りに思える演奏をしたいと願っていた。

誇りに思える演奏って一体どんな演奏なんだろう?

音を外さない演奏のことだろうか?

 

10代の頃に読んだフランソワーズ・サガンのインタビューの中のひとつのフレーズが、不思議なくらいその後の人生で度々心に浮かんでくるようになった。

それは「火事になった時に私たちは差し出された手を選ばない」というもので、火事のような非常事態のときには私たちに一流の手だけを選ぶような猶予はないということなのである。

 

芸術もそれと同じで、音楽や言葉が人を勇気づける時にそれが ヴィクトル ・ユーゴーの言葉やウィーン・フィルの音でなければならないとは限らないだろう。

それは学校の先生の言葉 かもしれないし、もしかしたら道路工事のおじさんの言葉 かもしれない。

 

蜃気楼のように眼の前に立ちはだかる名声や完璧(に見えるもの)には実体がないのだから、そんなものを目標にしたって裏切られてしまう。

だからむしろ精一杯自分自身が幸せな気持ちになるための努力(これだって途方もなく難しい!)をしたほうがいいと思うようになった。

多分それこそが本当の自分自身に到達するための唯一の方法なのだろう。

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数日前から名前を聞いたことのない昔のピアニストが演奏するブラームスに夢中になっている。

RCAレーヴェルから出ているので決して無名ということはないのだろうけど、なにせ録音が古いので音質は悪く、高音に行くとアグレッシブなまでにキーッという音の感触で、お世辞にも完璧とは言い難い録音である。

でも私はそれを繰り返し聴いてしまう。

荒削りと言えるほど振り切った演奏から見えてくるのはかつて感じたことのないほどリアルなブラームスの音楽の本質。

 

まるで戦場とか、被災地などで偶然見つけたピアノを全身全霊で演奏しているかのような不思議な情熱と「素」の迫力がそこにあるのだ。

そんなライブ感がこちらの心を掴んで離さない。

 

完璧とか有名という言葉の持つ響きはゴージャスで、ひとの心を狂わせるのは事実だ。

でもこうした幻想を人々に抱かせるのは本来芸術の目的ではない。

芸術はそれが必要な時には一番の親友よりも先に心のそばにいてくれるものなのだ。

 

私達がもう夢も希望もない虚ろな気分でいる時ですら、ふと明日もう一度新しい人生をやり直せるかもしれないという一筋の希望を与えてくれるのが音楽なのだとすれば、音楽家としてのわたしはもっとその事を真摯に受け止めて行動しなければならないのだろう。

自分の自己満足のためではなく、その音楽を今まさに必要としている人のために。

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19回目の春

4.10.2023

DAYS /  Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

19回目の春

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今年も桜の季節。
パリで迎える19回目の春だ。

嬉しいことに、私が教えているコンセルヴァトワールの教室のふたつの窓からも可憐な桜の木が見える。
桜という花は不思議で、ただ美しいだけでなく日本を象徴する花であることから、私のように長い逃亡生活(?)で母国を長く留守にしている者にとっては望郷の念を哀しいまでに掻き立てる存在だ。
それと同時に "ああ、私は20年近くもこんなところで何をしているんだろう"とか、"やはり数年以内に完全帰国して自国にもう一度根付く準備をしなくては"などと深刻に考え始めるトリガーにもなっていることも事実だ。
だから単純に望郷の念を伴った美しさに目を潤ませるだけでは終わらない桜という存在は、どこか心のなかで後回しにしてきた問題を会う度にしつこく思い出させようとする面倒臭い親戚のおじさんにも似ている気がする。

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そんな桜の季節に入ったパリはいつになく不穏な空気に包まれている。
年金問題に関するストライキに次ぐストライキで、まともにどこかへ行く計画一つ立てられない。

いやそれどころか普通に出勤することすら阻まれている状態である。

ゴミ収集車までもがやって来なくなり、道端にはうず高く積まれたゴミがパリの景観をぶち壊している。
そんな中、皮肉にもストライキではなくインフルエンザが原因で仕事を休むことになってしまった。

食べることはもちろん、薬を飲むことや起き上がることもままならなかった二日間、床に伏した私は頭痛と吐き気に苦しみながら朦朧とした頭の中でひっきりなしに無数の夢を見ていた。

コンセルヴァトワールの教え子たちの顔が次々と夢の中に現れ、大人になってそれぞれの仕事についていく夢はあまりにもリアルでとても夢とは思えないほどだった。
夢の中で彼らはさらにもっと歳をとってゆき、お爺さんお婆さんになった顔までもはっきりと見ることができた。
例えばハンサムでピアノが上手な11歳のアルテュールは案の定人気アーティストになっていたし、名家の出身で既にキャリア・ウーマンみたいに頭の切れる12歳のシャルロットはそのままの姿で弁護士になっていた。

そこに何の違和感もなかった!
前に何かの本で読んだことでもあるが、たしかに人間は生まれた瞬間から全てを内包しているのだ。

赤ちゃんであると言う事は、既におじいさんおばあさんをその中に内包しているとも言える。

夢の中に出てきた無邪気な生徒たちには申し訳ないが、改めてこの逃れられない一個体としての人間の宿命、命の短さみたいなものを感じずにはいられない思いでその時目覚めた。
と同時に私達が未来を内包している存在なのだとすれば、やはり現在から既に垣間見えるそれぞれの未来のイメージが強ければ強いほど、そこにぐいぐいと現在は引きつけられてゆくのではないかと強く感じた。
私たちが コントロール可能な未来をイメージによって作り出すというのは「引き寄せ」的な話の中でもさんざん言われ続けている事だけれど、はたと考えてみるとごく自然なことのような気もする。

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地獄のような2日間が過ぎ、再び春の光の恩恵を感じることのできる身体に戻った私は古い蛹を脱ぎ捨てた気分で目覚めた。

そして再び楽な身体で息をしている事の、そしてまた普通に朝ご飯を食べられることの驚きと素晴らしさに気付いた時、ふらふらの身体が安堵と感謝の念で満たされていった。
そんな尊い朝に、まだ少し夢と現実の境目を彷徨っていたわたしの脳がふと自分に投げかけた 問いがある。

それは “私は人にどんなイメージを与えているだろう?というものだ。
普段私自身がイメージしている私と、他の人が持つ私のイメージとの間にどれほどの乖離があるのか?
私がリアルに見た、生徒たちの人生をコンパクトに凝縮した夢のせいだろうか?

この時ばかりは、どうせなら自分がなりたい未来のイメージを他人にも与えるような人になりたいと強く思った。
一度しかない人生、自分の望む未来のイメージに相応しい自分でいたい。

少しづつでもそうなっていくようにするためには、まず今の自分がその姿を信じなければ。

とまるで元旦みたいに強く自分に言い聞かせた。

それから、人というのはどんな体験からも「何らかの教え」を得るものなのだな、とひとりでニヤリとした。

ハルキとニンジン

2.8.2023

DAYS /  Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

ハルキとニンジン

18年間パリに住んでだんだんと見えてきたものがある。
中でも最近になってわかってきたのは「ここは村みたいな楽しさがある都会なんだな」ということである。 
フランスでは小売店みたいなものが今日もまだしっかりと機能していて、例えばスーパーに行かずともチーズはチーズ屋。
野菜は八百屋。魚は魚屋みたいなところで買い物ができるうえ、何度も足を運ぶうちに気が合う店員さんもできて、短い立ち話を楽しんだりすることもある(なんとなく昭和の商店街を彷彿とさせる)。

とは言え、住んでみてパリの良さというものを実感するには長い年月がかかることも確かだ。 
なにしろパリに住み始めて一番最初にぶち当たるのは、多かれ少なかれ誇大妄想的なイメージ(とは言えそれは私たち外国人が勝手に作り出すものなのだが)と現実の間のギャップである。
カフェに入ったってすぐには見つけてもらえず、15分ぐらい過ぎた頃にこちらも痺れを切らして絶望的に手を振り回すなんてことや、店やスーパーで店員の不機嫌を直で食らうなんてことに慣れっこになるまでには相当な時間がかかるし、 その他にも 日常的に起こる交通機関の延滞や終わりの見えないストライキ、人との距離感や衛生観念の違いなど数え上げたらキリがないほどフランスの生活は日本人のあたりまえを次から次へと爆破するに十分である。

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そんなお世辞にも心静かとは言えない日常を送る中で、少しづつ自分の居場所を見い出していく楽しさがあることもまた事実だ。
その方法が先程に述べた「村の付き合い」なのである。
そこに行けばその日どんなに腹が立つことがあっても笑顔になれる、自分の話に笑ったり共感してくれる人がいる店。
私にもようやくそんな店ができた。
家を出て数歩のところにある、オーガニック専門の八百屋がその一つ。
ここで私がいつも立ち話をする男の店員さんは大の親日家で、村上春樹作品を熱愛し、パリの美味しくて安い日本食レストランなどに精通していて、私の方が彼から情報を仕入れなければならないほどである。
日本文化センターの中に、おトクに日本食が食べられる食堂があるよと教えてくれたり、最近ひそかにパリでブームの餅菓子が彼の大好物で、高級なショコラのごとく美しい箱に詰められた人気店のお餅を時々買うと言うから驚いた。
なんと言ってもその店の商品は餅菓子に目がない私ですら、やっぱり帰国まで我慢しようと思うくらいの厳しいお値段がついている。

でもそんな彼がほんとうに話したいのは「最愛のハルキ」についてである。
店で私と目が合うと、目を輝かせて近付いてきて満面の笑顔で話し始める。

「この間話したハルキのIQ84についてだけど…」

「えっ…?」

今夜の献立に使う野菜のことで頭が一杯だったわたしは慌ててそれらの野菜を一旦思考の中で消滅させ、思考モードを本の世界へと切り替えようとするのだが何だかうまく行かない。
手に泥付きのニンジンをぶら下げたまま、私は仕方なく「あ~、それまだ読んでいないんです。。」と絞り出すように言う。
春樹作品を読破しているこのフランス人の前では、いくら日本人といえども知ったかぶりは許されない。
するとまだまだ引き出しのある彼は「海辺のカフカ」は?と切り込んでくる。
わたしはそれなら数年前に読んでいたのでほっとしながらも、ストーリーをすっかり忘れてしまっていることに気づく。

「読んだんだけれど、ストーリーを忘れちゃった。確かに面白い小説ではあったんだけれど、あまり私にはピンと来なかったというのかな」とわたしは正直に白状した。

うんうんと頷く彼はそれでも物凄く嬉しそうだ。
私が、なぜ村上春樹はフランスではこうも人気があるのかと尋ねようとしたとき、レジの方から彼を呼ぶ声が聞こえた。
ニンジンの棚の前で立ち話をしているうちにレジの前には長い行列ができていた。
慌ててその場から立ち去る彼の後ろ姿を見ながら、私は少し不思議な気持ちになった。

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言語も文化も自国のものとは全く違う作品が誰かの心をつかむ時、そのルートはどうなっているのだろう、と思う時がある。
翻訳されれば当然ながら作品のリズムは変わるし、リズムが変わるということは雰囲気も変わるのであるが、面白いことに作品の持つ本質は必ず伝わる。むかし自分がサガンやデュラスの作品に衝撃を受けた時も、私が直接受け取った文章は日本語だったにも関わらず、私は日本語の文章からフランス語を聴いていたし、行間からは日本的なものから遥かにかけ離れたものを感じ取っていた。
勿論そこには翻訳家の優れた仕事や読者の感性、想像力などの力が働いているのだが、ひとつの作品がそのひとの糧となるということは、作品とその人自身との間に何か運命的な波動が生じているのだろう。
本を読む人は必ず「自分」という独自の発展を遂げた自身のカルチャーの中に新しい本の世界観や雰囲気を招き入れる過程で、無意識に自分と響き合う波長を探している。

店を出た後、無事に買い終えた野菜を手にアパートへ続く坂道を上がりながらふと私は、あの店員さんはもしかしたらフランス人仲間と集って騒いだりするよりも、自分の静かな部屋で春樹的登場人物に共感する時間が好きなのかもしれないなあ、と想像した。
すると自分の中でまたひとつ細胞分裂が起きて、ちいさな物語が産まれた気がした。

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幸せな源泉

12.15.2022

DAYS /  Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

幸せな源泉

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今年のパリの冬は本当に突然やってきた。
9月がやたらと寒いまま終わり、10月はなんと春のように暖かかった。
それから少し油断していると突然温度計はまさかの一桁台に。
18年暮らしたパリで、今年ほど秋が短かった年はない。
11月半ば、ふとリヴォリ通りへ行ってみるとすでに街はクリスマスムード。
早々とデパートのクリスマスの飾り付けが終わっていて驚いた。
そうか。もう年末なのだ!
今年はいろいろあった。
わたしにとってはいつもと大分違った種類の大変なこと、うれしいことが次々とふりかかってきたような、どこか未知との遭遇のような一年だったと思う。
それでいながら,「やっぱり大切なのって根処のない自信かもしれないなぁ」なんて思ったりする。

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私のこれまでの人生の中でも、数えるほどしかないと思われる位にさまざまな事が起きた今年の夏。
父が到れ、命をとりとめ,実家の引越しも兄夫婦に手伝ってもらいながら終えることができた。
そんな東京での怒涛のような日々の中で、小学校時代の恩師と共にした数回の食事はわたしにとって心からほっとする時間だった。
あるとき私が「不思議なんだけれども、ひどく落ち込む時があってもどうやら自分の中には根拠のない自信があるみたいなの」と言うと、先生は「それこそがうちの学校の生徒たちの特徴ですよ」と笑った。

わたしが先生と出会った都内私立の小学校は、高校まで合わせて12年生と呼ぶとてもユニークな学校だった(私は9年生で転校した)。
いつの頃からか日本のあらゆるところで聞かれるようになった「ひとりひとり違って当たり前」というキャッチフレーズは、今もまだ完全には日本に根付いておらず、私にはどこか無理をしているように聞こえる。
でも私達の学校においては100年前の創立以来それが当たり前であり、「そうであってこそ」一人一人の可能性が広がるのだいう考えのもとに私たちは育った。

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私が小学校時代を過ごした80年代初頭は、日本にまだ厳しい校則や先生の暴力などが残っていた時代で、戸塚ヨットスクール事件などを除いては今ほどメディアで取り沙汰されていなかったように思う。
だからこの「人と違って当たり前」が骨の髄まで染み付いたわが校の生徒たちは、その後の受験やら就職やらで日本の社会に放り出された時ににどれほど違和感を感じたことだろうと今は思う。
なんと言っても日本の規律とか調和を重んじる社会において、私たちのような集団はおそらくマイノリティーだったのだ。
朝礼もなければ制服も校則もない。
私たちに求められていたのは平等の考え方と、自由に発想し各々の得意なことを伸ばすことであり、その得意なことを人生でまず最初に賞賛してくれたのが担任の先生とクラスメートだった。

そのような学校生活のなかで、ハッピーに生きていくために最低限必要な自己肯定感みたいなものは自然と培われた。
うまくいかないことがあっても、今はだめだけどいつかきっとうまくいくんだろうなという思考が自然と身についてしまった。
つまりどこか不思議な大人になったわけだ。
これは幸せな洗脳とも言えるしノーテンキとも言えるが、まあどちらでも同じようなものだろう。
わたしはこの根拠のない自己肯定感のおかげで生き馬の目を抜くような世界でも割に幸せに生きてこられたのだと思う。

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ただそんな私でも、やはり時としてもうだめだ!と思う瞬間がある。
そんな時は不思議と、あの懐かしい小学校の教室でせっせと作文を書いていたもう一人の自分に気づく。
それはまるですべてが可能に思えたあの時代に戻ることで、源泉から膨大なパワーを得ることができるとDNAにプログラミングされているかのようではないか。
だからなのか、私はなかなか人生を諦めることができない。
人生というゲームが大好きなミルフィーユの甘さからは程遠いとわかってはいても、それ自体を楽しもうと思っている。競争社会の中で例いったんビリッケツになったとしても自分の中の無限の可能性を信じられる大人でありたいなあなんて思う。

ウィーンとパリ。2つの時間を繋ぐココシュカの絵

11.7.2022

DAYS /  Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

ウィーンとパリ。2つの時間を繋ぐココシュカの絵

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今週からフランスの学校は万聖節の大型休暇に入った。
初めての音楽学校での教職のおかげでかなり疲れが溜まっていたけれど、この時とばかりパリでこの秋から開催されているココシュカの展覧会へ行くことにした。
コロナやその他諸々の心配事で、何年間か展覧会へ足を運ぶ機会が遠退いていたがようやくそのような心の余裕が蘇ってきた。
メトロでココシュカの展覧会のポスターを見つけた日から、必ず行くと心に決めていたのだ。

ココシュカといえばあの絢爛たる世紀末ウィーンのアートシーンを賑わせた革命児。
そしてあの作曲家グスタフ·マーラーの妻、アルマ·マーラーとのドラマティックなラブストーリーが有名だが、私はウィーンで暮していた頃ココシュカの絵がどこか苦手だった。

観る者の心を不安にざわつかせるような色彩とタッチ。
苦脳の中に潜り込んでいくような痛々しさを感じさせる彼の絵は、この世のものとは思えぬ美女たちが眩い金箔の中で退廃的に微笑むクリムトの世界ほど魅力的には感じられなかったのである。

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一方でココシュカを含め、アルマに魅せられた数多くの才能ある芸術家たちの話に私は目がなかった。
クリムト、バウ・ハウスの創立者であるグロピウス、そして支配的な夫マーラー。
彼等の話は様々な書籍で語られているが、それらはどれも、アルマ·マーラーという女性がいかに魅力的で才能に溢れ、当時の保守的な世界のなかで驚くべき現代性を秘めた女性であったのかということを私達に教えてくれる。
星の数ほどもあるエピソードの中には、アルマが10代ですでにニーチェとワグナーを心の糧としていたなんていう話もあるのだが、それは学生時代に彼女に関する本を読んで以来、今日に至るまで熱烈なアルマ支持者である私からすればひどく納得のいく話であるし、よりいっそうこの人物像に対するイマジネーションを掻き立てられるエピソードなのではないか。


話をココシュカに戻すと、自らも作曲家であり自身の欲望に忠実なアルマが、おそらくどの愛人達よりも深く彼女の刻印を刻み付けた相手がこの画家である。
彼等の愛人関係は公式には非常に短いのだが、アルマに魂を奪われていたココシュカにとって、この恋の喪失は壮絶な痛みを伴うものだったという。
別れた後も彼女を忘れられない画家は、自ら志願した前線で2度も深刻な傷を負ったにも関わらず生還し、療養期間を終えた後にアルマにそっくり似せた等身大の人形を作らせた。
人形を至る所へと連れまわした挙げ句、数年後にパーティーで人形の首を落とし赤ワインを浴びせるという奇行に走る(この展覧会ではこの時の人形の写真も見ることができる)。


なんとか彼女を忘れようとして行った奇行、一つの儀式だったのかもしれないが、この有名なエピソードはココシュカとアルマの間に交わされた情熱的な書簡の他に、地球軸が変わるほどの情熱的な時間を共有した彼らの関係を最も良く表していると思う。

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またこのような話を私が思い出すのも20年ぶりなのだが、長い時を経てこのエッフェル塔の近くの美術館で再び見い出すこれらの作品群は、即座に私を学生時代の4年間を過ごしたあの美しい都に連れ戻した。
作品のあちこちに散りばめられたアルマという暗号を読み解きながら、またよく知っているエピソードを味わい直し、時にほころびた記憶を補いながら、私は心から魅了されたウィーンの街の隙のない様式美と夜のリング·シュトラーセ、恩師が活躍していたオペラ座や、夢中になったウィーン世紀末文化のすべてに取り囲まれているのを感じ、もう少しで目の前の作品すべてに口づけをして回るところだった。


展覧会の最後の部屋を出ると、壁一面に大きく引き伸ばした一枚の写真があった。
それは精力的に仕事をしている壮年期のココシュカの写真で、彼は大きなカンヴァスに向かっていた。
彼の体重を支えている木の踏み台が軋む音が聞こえてきそうなこの写真が捉えたのは、大きな失恋に続いて悲惨な大戦の記憶と亡命、ナチによる作品への冒涜といった困難を乗り越え、常に不当な権力に抵抗し続けた94年の人生の真っ只中において、そうした出来事とは全く別の次元で伸び伸びと仕事に没頭している画家の姿だった。


それは過酷な過去や未来と切り離されたところで彼が自由に現在を生きている写真であり、まさにそれこそが容赦のない時間の流れから自由になる唯一の方法なのだった。
その事に気が付いた瞬間、私はひどく神聖な事実に触れた気がして胸が一杯になった。


するとその写真の中でココシュカはかつて自分のユダヤ人の仲間を思いやったように、泣きそうになっている私に向かってそっと語りはじめた。
私が必死に耳を澄ますとその声は、なにか一つのこと,本当に一つのことでいいからすべてを忘れて没頭できるものがある以上、人生はもちろん死すらも恐れることはないんだと言っているように聞こえた。

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49 ( Quarante- neuf )

10.7.2022

DAYS /  Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

49 ( Quarante- neuf )

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自分が50歳の誕生日をフランスで迎える日が(本当に)来るとは想像したこともなかった。

少なくとも一年前までは。

それはどこか遠いところにふわふわ浮いている雲のように、もしくはいつかやって来るはずの死のように、すべての現実味を持たない存在や言葉と同様に自分とは無関係に感じられたからだ。

なのにそれがもう2日後に迫っていた。

そこでわたしは思った。

そうか。

死ぬ時もきっとこんな感じなんだな、と。

それは気がついたらすぐ目の前にいるという感じなのだろう。

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40歳になる時もかなりショックだったが、今回はさらにそれよりも強烈な感覚だ。

人よりも大分遅くやって来た私の青春。

そしてそんな青春への別れを少しづつ惜しみながら過ごした10年から、さらに新たな10年へと飛び立つときが来たのだ。

しかもその10年が、せいぜい6年くらいにしか感じられないくらいの速さで過ぎていったことを考えれば、次の10年は一体どれほどの爆速で過ぎていくのだろう?

人生100年時代と言えど、やはり周りを見ても100歳まで生きた知人は一人もいない。

でも自分は既にその半分まで来てしまったことになる。

 

私がもっとも自分に対して恐怖を感じる瞬間は、老化云々といった表面的なことよりも、むしろこの年齢に到達した自分がこれまでの人生でどれほど[他の人のためになることを為し遂げたのか]ということを考え始める瞬間である。

わたしは相変わらず自分のことを、20歳の時のようにどこか無責任に感じているし、子供を持たないので内面が子供のまま(つまりいつでも主役は自分のまま)半世紀も生きてしまった。

どこにいても日常でちいさな幸せを見つけ出すのが得意な私は、考えてみるとそこまで壮大な夢も持たず、フランスの音楽界という言わば閉じられたちいさな競争世界の中で、さらにちっぽけな地位を勝ち取ることだけに夢中なっているうちに30代と40代が過ぎていったというのが正直な感想である。

だからほんとうに自分が人生で成すべき事は何か、というふうに考えたことはなかった。

いつ果てるとも知れぬロックダウンの日々、私は初めて人生で人のために自分ができることは何かについて本気で考え続けた。

でも自分のミッションについて、自分の才能の使い方についてなどいくら考えてもどこかふんわりとしていた。

それは、私がそれまでどれほど近視眼的に生きてきたかの証拠だった。

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今年の夏、帰国してまもなく父が病に倒れ、ようやく私は自分が長い子供時代から大人の時代への移行を余儀なくさせられたと感じている。

気が付くと私はもう両親から守られる側ではなく守る側に立たされていたからだ。

複雑な思いを抱えて9月にパリに戻った私に、突然神様から27人のフランスの子供達が差し出された。

これは私が9月から教えることになったコンセルヴァトワール(音楽学校)で、バイオリンのクラスの他にソルフェージュのクラス(子供達に音楽の基礎全般を教えるクラス)も任されることになったからである。

週に一度、最年少で8歳くらいから14歳くらいまでの子供達を8クラスに分けて一日で教えきるというかなりハードな一日だが、私は彼等を一目で好きになってしまった。

痩せっぽっちでふわふわの金髪の子。

日に焼けて元気一杯の子。

おとなしくて聡明な子。彼等は映画や漫画に出てくる子供達そのものだ。

そんな彼等と接しながら、私は大学の教育実習の時に出会った東京の子供達(14歳)の姿を重ねていた。

 

国は違えど彼等は皆、搾りたてのフルーツ·ジュースのごとく新鮮で生き生きしているとともに、時として薔薇のトゲのように鋭どい。

純粋なエネルギーの塊だ。

そんな子供達に会うのが楽しくて、毎日寝坊もせずにせっせと母校に通った日々が思い出された。

実習の最後の日、私は彼等のためにブラームスのヴァイオリン·ソナタを演奏した。

普段どんなおしゃべりな子も、その時は一生懸命聴いてくれた。

その後校門の前で待っていてくれた、いわゆる問題児グループの男の子のひとりが、私にどこか助けを求めるように尋ねてきた。

 

[また学校に戻ってきてくれる?]

 

わたしはその年ウィーンに留学する予定だったので、それが不可能なことは解っていたが思わず[うん]と答えてしまったことへのちいさな後悔の味も一緒に蘇った。

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言語が違うこと、そして私のフランス語をちゃんと理解してもらえるのかという心配は大きかったが、むしろ彼らのエネルギーが、私の中で忘れていたものを揺り動かしてくれるような不思議な体験をしている。

この子供達との出会いも偶然ではなく必然なのだとしたら、神様は何という素敵な方法で私を新しい学びへと導いてくださったのだろう、と驚きが止まらない。

いつまでこの仕事を続けることになるのか今の時点ではわからないけれど、ここは一つ50歳の奇跡を信じて運命に身を委ねてみようと思っている。

そしてこの体験がさらに10年後の自分にとってかけがえのない成長を促してくれたと思えるようにしたい。

父の家

9.5.2022

DAYS /  Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

父の家

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6月の初め、予期せぬニュースが2つ舞い込んできた。

1つ目はパリ近郊の静かな街のコンセルヴァトワール(音楽学校)でヴァイオリン教師のポストを任されたこと。

2つ目は東京で一人暮らしの父のためのバリアフリーのアパートがついに見つかり、引っ越しが7月上旬に決まったことであった。

窓の外の燃えるような新緑を見つめながら、私はひとつの新しいサイクルがどこかでようやく音を立てて動き出すのを感じながらほっと胸を撫で下ろした。

 

それから二週間後、猛暑が訪れる一歩手前の東京に、私は父の引っ越しを手伝うため帰国した。

最後の帰国からもう一年半が過ぎていた。

もともと物を捨てられない性質の父と、既に溜め込まれた物の数々。

それらとどう対峙しながら引っ越しを進めていけばよいのか。

そんなことを考え始めると、せっかく東京に帰ってきたことも忘れて気分はどんどんブルーになってゆくのだった。

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ところがそんな私の心配は3日で終わってしまった。

 

帰国して3日目の朝、なんと父は心不全で病院に担ぎ込まれたのである。

早朝、奇跡的にも父の異変にいち早く気付くことができたお陰で一命は取り留めたものの、退院はまだ先になりそうだった。

突然私は古い家にたったひとり残され、引っ越しまでの2週間を手伝いに来てくれる兄とふたりで乗り切らなければならなくなった(とは言え少なくとも片付けの際、父に横からいちいち口出しをされない分、断捨離をしやすいということはあった)。

 

兄はほぼ毎日、片道一時間をかけてゴミ捨て用の少トラックでやって来た。

兄と毎日顔を会わせるのはどこか不思議だった。

考えてみれば兄とこんなふうに一緒に何かをしたことはこれまで一度も一度もなかったのである。

家の中を整理しながらつくづく思ったのは、人間がほぼ一生かけて貯め続けるもののうち50%ぐらいは写真と手紙なのだということだ。

今のようにクラウドなど存在しない時代、写真を撮り丁寧にアルバムに収めるということは、家族にとって行事や祝い事といった人生で二度と繰り返されることのない瞬間を保存するための神聖とも言える行為だったことを思い出した。

それらの写真は皆、モノクロであっても妙にリアルな空気感を持っていて、私は現在とアルバムの中の時代を隔てる膨大な時間が目の前で一瞬歪み、自分がその歪みの中に吸い込まれてゆくのを感じた。

 

それから、それらの写真に引けを取らないくらいの量の手紙が出てきた。

今は亡き祖母や祖父からのものは、今読んでも彼らの温かい声やぬくもりがリアルに伝わってくるし、幼なじみの親友が小学校時代にくれた山のような手紙は、いくつかのフレーズを今も覚えていた。

それらは自分の一部のように感じられ、ダンボールに入れてもかなりの量になるにも関わらず、捨てることは叶わずに結局梱包された。

古い記憶はそんな風に一度掘り返された後に再び箱の中に封印されたが、一旦私の頭の中に色濃く蘇った古い記憶の断片は、それからしばらくの間私とともに眠りにつき、私と共に目覚めることになった。

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この世の中は絶妙なバランスに支配されているらしい。

命を取り留めた者は歩くことができなくなったり、何か小さな幸せが生まれたかと思うと、今度は小さな悲劇がドアをノックしてきたりする。

結局人生はプラスマイナス、イコールゼロ。ということなのかもしれない。

 

「そうだ。父が無事に退院してきた日に困らないよう、何がどこにあるかをシールに書いて貼っておこう」

 

父や母の元気な姿を思い浮かべながら、今日も私はひとりで家を整え続ける。

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そして数週間後、私はバリアフリーの新居で再びひとりぼっちになった。

一人暮らしでもなく、ましてや新婚でもない。

父と、そしていつか帰宅するかもしれない母のための家。彼等の新居。

前とは打って代わり清々しくガランとした家で、私はパリに戻る日が来るまで一人で暮らしながら、父がいつ退院してきてもいいようにせっせと家を整えていた。

カーテンを吊るし、電球を取り付け、本棚の中に元あったように本を並べる。

少しずつ、よそよそしい空間が消えて誰かの家らしくなってゆく。

それでもなお、この家がまだ誰のものでもないという宙に浮かんだ感覚が心から消えない。

 

兄と一緒に選んだテーブルは、前に家にあったどっしりとした樫木のテーブルとは違い、軽くてコンパクトで、レバーひとつで高さの調節もできるのでソファーに座ったまま食事もできる。

父のこれからの一人暮らしにはぴったりだと思って選んだテーブルだったが、部屋に置いてみるとどこか味気ない。

「利便性」に特化しすぎて色にも素材にも深みがなく、悲しいほど情緒が欠けているのである。

 

そんな事を考えながらそのテーブルにコーヒーを運んだ。

そして我ながら頑張ったなと思いながら部屋を見回していると、ふと四年前に脳溢血の後遺症で特養に入居した母の言葉が浮かんだ。

 

「早く、歩いて家に戻りたい」

シュールな現実、濃密な仮想空間。

5.5.2022

DAYS /  Sachiko Kuroiwa Column

パリの屋根とバイオリン

シュールな現実、濃密な仮想空間。

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2022年の春は思いのほか早くやって来た。

パリではワクチンパスが取り下げられて、既にひと月以上が過ぎ、特定の場所を除いてはもう3年前のイースター休暇と何ら変わらない賑やかさが街に戻っている。

何事もなかったかのようにカフェのテラスで笑いさざめく人々や、人気のパン屋の前にできる夕方の行列、メトロのホームで抱きしめ合う恋人たち。

 

これらの情景はクラピッシュの映画に出てくるワンシーンような、私達のよく知っているパリの姿に【とてもよく似て】いる。

でも何かが違う。それらはすべて【質量】みたいなものを失っていて、どこか透明に見える。

変わったのはパリか?それとも私か? 

たぶんその両方だ。

もしかすると私は今日もパラレル・ワールドに来てしまっているのかもしれない。

でも一方で、今【現実】と呼ばれているこの混沌として油断を許さない世界よりも、もっと味の濃い現実というものが自分の中に存在している。

それは音や自分の気持ち、感触といった感覚の世界の現実のことである。

 

私は音楽家なので、音と対話することが仕事である。

つまりウンザリするほど自分の内部を見つめ、いつもイメージの中に答えを探している。

【音】は肉眼でこそ見ることはできないが、臨場感をもって感じとることができる存在だ。

もっと言うと、演奏者は音の場所すら正確にイメージすることができる。

それは自分自身の中にしか存在しない【仮想空間】みたいなもので、その空間の中で私はヴァイオリンを弾いているというよりは、ゆったりと運転席に座ってフロントガラスをひっきりなしに横切っていく映像(音)を眺めながらハンドルを操作しているイメージだ。

 

〈我に返ってはいけない〉

 

これはプロの演奏者なら誰もが知っているステージの上での教訓である。

緊張して我に帰ったら最後、次の音符が記憶から消えてしまう恐れすらある。

それは【気がつく】ことで【考える事】が始まるからである。

これはまさに〈感じること〉と〈考えること〉が別物だということを表している。

そして一旦考えてしまえば、そこで仮想空間は途切れ、音のイメージも途切れてしまう。

だから演奏者は曲が終わるまでずっと、いわば仮想空間(イメージの世界)に居続けなければならないのだが、これを理想的な状態で実現するにはかなりの意識的訓練が必要になる。

 

興味本位にYouTube で量子力学の二重スリット実験の解説動画なんかを見ていたところ、理系の脳を1ミリ も持ち合わせていない私でも気がついたことがある。

それは、ひとが【観察】を始めた途端にそれまで【波動】だったものが【粒子】に変化し物質化してしまうという実験のプロセスが、同様に【観察】することで大きく本質を変化させてしまう演奏のメカニズムを彷彿とさせはしないか?ということだった。

 

かの有名な【引き寄せの法則】は、すでに量子力学の分野でも科学的に証明されつつあるらしいが、この【引き寄せ】で最も重要と言われているのもまたイメージする力である。

イメージするということは、間違いなく何かを具現化するための第一歩だ。

 

それが芸術の分野であれば、頭の中の見取り図が実際の建築になったり、彫刻になったり、又は音になったりする。

逆に言えばイメージがないところに何も起きないし、何も作り出されない。だから引き寄せの法則が常に言うところの〈臨場感をもってイメージする〉ことが、人生における夢の実現と密接に関係しているということは、アーティストにとってみればなんら驚くに値しないことなのかもしれない。

 

ちなみに素晴らしいものをイメージをしやすくする方法が一つある。

それは気分を良くすることだ。

これは音楽でも同じで、自分の理想の演奏をイメージしようとすると暗い気持ちではかなり難しくなる。

ポジティブな気分、ほとんど楽しいとすら言える気分になると素晴らしいイメージの力は増す。

 

今の私の人生が私が過去にイメージしたものの結果であるとするならなんと奇妙なことだろう!

東京やミラノに生活していた時代は、映画や音楽を通して飽きることなくパリのイメージの中で生活していた。

パリという街は当時の私のなりたいもの、求めているもの、憧れているもの全てを凝縮した世界以外の何ものでもなかった。

そんなふうにパリのことばかり考え続けた結果、今日私はその都市のど真ん中で毎日を送っている。

その意味においては、私は見事にパリを引き寄せたと言えるだろう。

 

3年後の自分は一体何を引き寄せて暮らしているのだろうか?

そのヒントはまさにこの瞬間、私が【活き活きと】イメージしているものがいったい何かということだろう。

未来へと繋がるパイプは今この瞬間も休むことなく形成されているのだから。

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