


黒岩幸子
ヴァイオリニスト/教師
パリ在住。ミラノ交響楽団第一ヴァイオリン奏者を経て渡仏。
フランス内外のオーケストラ及び室内楽奏者として活動を続ける。
近年ではパリで後進の指導にも情熱を燃やす。noteで様々な考えを発信している。

4.14.2026
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
無事でいてくれてありがとう

時々、自分がこの世に生まれてきた意味をふと自分に問いかける時がある。
大抵は「う〜む、分からん!」となるのだが、ジャンヌ・ダルク じゃあるまいし、 国を救うような大きなミッションなどないはずだ。だとすれば 周りの人を幸せにするというミッションか?
そのためには自分は何かを成し遂げなければならないだろうか? お金持ちにならなければいけないのだろうか?
う〜ん、、、これもハードルはなかなか高そうだ。
今日もホームにいる母と電話でお喋りをした。
今年89歳を迎えた母の麻痺した右足は、彼女のたゆまぬ努力の甲斐あってか、この8年で驚くほど動くようになったのだが、まだ自分で立つことはできない。
「ごめんね 、あんたに何もできなくて」という母。
まだ私のために努力しようとしてくれているのだろうか?
私は思わず母に「もう散々私の為にしてくれたじゃない。今はこうやってママが元気に私とお喋りしてくれることが一番嬉しいんだよ」と伝えた。

以前は、日本から本当にたくさんの小包を送ってくれた。その中身は私のお気に入りの雑誌やお気に入りのお菓子。
とにかく私が笑顔になるものでいっぱいだった。時には特上の鰻まで入っていた。
あの頃はなんと当たり前のようにその小包を受け取っていた事だろう。
ヨーロッパの郵便事情で、時々遠い郵便局まで受け取りに行かなきゃいけないなんていう時、こんなに頻繁に重たい荷物を送られたら私の方が大変だ、ぐらいに思ったりしたこともあった。
だけど今となればそんなことを一瞬でも思った私はなんと罰当たりだったのだろうか?
私は母が私にしてくれた半分も今の母にしてあげられないというのに。
(あらら、また涙が転がり落ちてきた!)

コロナの外出禁止令が敷かれていたフランスで、私が家に閉じ込められていたときは、母がホームから毎日電話で元気付けてくれた。
「右手なんか動かなくたって、左手だけでもうすぐあんたにきんぴらごぼうを作ってあげられるんだから待ってなさい」と言って。
こんな頼りない娘でごめんなさい、と心のなかで頭を下げる。
私がお金持ちだったらスーパーマンみたいに今すぐ母を迎えに行ってジェット機に乗せ、パリの広いアパルトマンで日本語の話せる看護師さんを24時間常駐させてあげられるのに。
母は、離れている私にもしものことがあったらとそれだけが恐ろしいのだと言う。
この前の電話では母に「無事でいてくれて有難う」と言われた。
私がアホみたいに地球のどこかで無事に生きているだけで感謝してくれる人がこの世の中にいるという有り難さ。
母のために無事でいること。これこそが紛れもなく私のミッションなのだ。
そしてどんな境遇にあっても将来への希望を絶対に手放さないこの母の強さが私には眩しい。

2.10.2026
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
再会

長年の友人マリー・ピエールがパリに移住してきた。
10年ぶりに年末のパリで再会した彼女は50歳に近づいて、 前よりもずっと美しく活き活きとして見えた。
日本人の母とコルシカ人の父の間に産まれた彼女の外見は、ほりが深くて意思の強い顔立ちだが、後ろ姿はがらりと雰囲気が変わって華奢な日本女性に見える。
そんな彼女が去年、夫(2人はどこから見てもオシドリ夫婦だった)と離婚し、20年以上も子供たちと暮らした家と北部の小さな街を去って単身パリへやってきた事は私にとって驚きでしかなかった。
私がマリー・ピエールと出会ったのは今から約20年前。フランスに来て間もない頃だ。私は当時パリで演奏の仕事を探していて、持っていたのは学生ヴィザだった。私はヴァランシエンヌというフランス北部の、ベルギー国境からもそう遠くない街のコンセルヴァトワール(音楽学校)にとりあえず籍を置き(ヴィザの書類上の住所もこの街にしなければならなかったので)、住所を貸してくれる人を探していたのだが、その時に快く承諾してくれたのが マリー・ピエールの 一家だった。
その後暫くして私はパリオペラ座オーケストラにエキストラ奏者として雇用されることになるのだが、それまでの数年間は私にとって精神の修行みたいな日々だった。
それまで住んでいたミラノに親しんだ友人達や仕事を置いて裸一貫(?)ヴァイオリン一本携えてパリにやってきた私にとって、優しい夫と3人の愛らしい子どもたちに囲まれ、地方都市とはいえども広々とした家に住む彼女の暮らしは完成形に見えた。

それから20年という時間が流れ、 今度はマリー ・ ピエール がたった一人で パリにやってきたのだ。
もっとも彼女は仕事を手放したわけではなく、パリから北部の街へ今でも仕事に通っているし、フランス人がフランス内で引っ越しただけという見方もできるけれど、50に手が届こうという年齢で夫と離婚し、大きな家も潔く夫に譲り渡してひとりパリのワンルームのアパルトマンから再出発を決意するのはどう考えても容易なことではないだろう。
そんな彼女と大晦日の夕方、セーヌの川岸を肩を並べて歩きながら、私は過ぎ去った20年の驚くべき速さと、私にとって過去の物語の中の住人だったはずの彼女が、また新たな存在として私の人生に現れたこの縁の不思議さを想った。
ここでボードレールの詩を持ち出すのはちょっぴりキザなのでやめておくけれど、人生は本当にセーヌ河みたいに、終着点などには目もくれず気ままに流れてゆくものなのだ。
時間も行き先も 人それぞれに。
どこにも完成形など存在せず、常に諸行無常で。

12.10.2025
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
1985年からのメッセージ

偶然、 YouTube のおすすめにビートルズのLet it be が上がってきた。
ビートルズ・ スーツを着たお人形さんみたいな姿からは程遠い、 真っ黒な髭を蓄えたポールのサムネをクリックすると、40年間押されたままになっていたポーズ・ボタンが急に解除されたかのように1985年から時が繋がった。
気がつくと私は13歳の頃の風景に立ち返っていた。
音高受験を間近に控えながら、発見したばかりのビートルズの魅力に夢中になっていたあの頃。
1日に何時間もヴァイオリンを練習する傍ら、 通学やレッスンの移動時間でひたすらビートルズを聴いていた。
ティーンエイジャーで反抗期真っ盛りだった私は、彼らの曲 一つ一つの中に自分だけの揺るぎない世界を、勤勉な蟻のようにせっせと構築していた。
あの頃は外の世界と内の世界が今よりももっと厳格に分かれていた。
内の世界は神聖な領域で、そこが私にとって本物の世界だった。
内側のリアルな世界があるからこそ、 外の世界に耐えられるという時代。
学校とか、友達のいる世界で何とかうまく自分を演じた後、 一目散にこの内なる世界に帰っていく感じは誰かに恋をしている時とよく似ていた。

私が明らかに ビートルズにのめり込んでいく様子を母は心配そうに眺めていた。
私が受けようとしていた音高は、東京でもトップ・レヴェルの音大の付属で、 弦楽奏者のエリート養成所みたいな場所だったのに、私が本格的に受験準備を始めたのは他のライバルたちよりも数年遅かったのだ。
でも、そのような多感な時代に ビートルズと出会ったことはいわば 避けられない運命を課せられたようなものだ。
私はポール・マッカートニーとジョン・レノンの写真を家のいたるところに貼り付けた。母がそれらの写真を片っ端から外し、私が再び元の位置に貼り付けるというイタチごっこが3年近くも続いた。
結局そんなふうに毎日ビートルズに恋をしながら受験勉強に励んだ結果、私は無事に合格した。
実技試験の当日、順番を待ちながら私は儀式のようにそっと、 Let It Be の歌詞を唇の間で繰り返した。
「全てあるがままに」
あの時代の気持ちの高揚は、今こそ自分に必要なものだと感じる。
大人になればなるほど 新しい経験が減り、むしろそれまでの経験が災いして自分を守ろうという方向に動きやすくなる。
でもそんな風に守りに入ると人生は途端につまらなくなってしまう。
私はコロナ以降完全に内向きになってしまっていた。 そこから毎日 1cm ずつでも抜け出そうとしてきたつもりだが、今はいよいよその最終段階にいるという気がしている。
外側の世界が変わるのは内側の世界が変化した時だけだ。
今再びビートルズを聴く私の中で、何かがぱきぱきと音を立て始めている。
9.10.2025
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
夏の終わりに。

そうか。もう明後日が出発なのか。
9月1日。8:00p.m.
数日前、急に胸が痛いと言い出した父はドクターヘリで病院へと運び去られ、その後元気になったもののまだ入院している。父を中心に回っていた夏休みがここへ来て一転したわけだ。
私は家で毎日ひとりになり、つまり急に自由になった。
夜は必ず父と食事をするようにしていたので20時を過ぎて家に帰ることはほぼなかったのだが今は違う。どうせあと数日しか日本にいられないのだから慌てて家に帰る必要もない。
そうだ、「夜コーヒー」でもしようと立ち寄ったのが眺めの良い立川の星乃珈琲。
長いと思っていたけどあっという間だったなあと、改めて怒涛のように過ぎたこの2ヶ月を振り返った。
入院中の父のこと。早く父と暮らしたい母のこと。
そしていつもの事ながら、なぜフランスにいなきゃできないような仕事を選んでしまったのか(実際は選ぶ余地などなかった)、といったことについてぼんやり考えた。

ほんとうは、パリへなんか帰りたくない。
でも帰らなきゃ。仕事があるんだし。
母のいる特養でのチャリティーコンサート、北海道へのリレー墓参り、そしてヴァイオリンのマスタークラスetc. いくつかの事は無事にやり遂げた。
でも2ヶ月という時間は、私が日本でやりたかった事を全てやり遂げるには余りに短かかった。
特に両親に関しては、常に胸の中で後悔とセンチメンタルなつぶやきが止まらない。
センチメンタルになったついでに、自分は本当は一体どこに属する人間なんだ?と自分に対してイジワルなボールを投げてみる。
毎度のごとく、投げたボールは返ってこなかった。投げたボールはぽとんと地に落ちて、そのまま困ったように力なくこちらへ転がって来た。

パリに移り住んでもう21年目。ヨーロッパに暮らして今年で30年。
私自身はこんなに見た目も感性も日本人なのに、明らかに自分の国では外国人みたいに外側にいる。
老後は絶対に日本で暮らしたい私は、もうそろそろ日本に生活の土台を移し始めても良いのではないか?と思い始めている。でも。。
違うんだ。何かが私の中で抵抗する。
なぜ真夏にこの国の人たちはマスクを付けて歩いているんだろう?
それぞれが自分で判断しているのならまだいいとして、レストランやほぼ全ての接客業に携わる人達はなぜマスクをしているの?科学的根拠のないことをこの国では仕事の場で強いられているのだろうか。
テレビでは女性アナウンサー達に明らかに襟ぐりの深さの規制があるらしい。酷いときには幼稚園児が着るような襟の付いた服を着ているアナウンサーまでいる。このように公の場で女性がほんの少しでもセクシーに装うことは忌み嫌われているのに、巷に溢れるアニメのキャラクターの女性達の身体つきはどれも胸やお尻が極端にセクシーに誇張されている。この矛盾は一体何?
この2つの事柄は、どうでもいいようでいて実は凄く大切な社会の本質に結びついている、と私は思う。
マスクの問題は、「自己犠牲」を良きものとみなすこの国の悪しき慣習の象徴のようであるし、幼稚、又はアニメの極端にセクシーな女性の装いは、何が何でも自立した女性を遠ざけたいという我が国独特の男性社会が生み出した、歪んだ風潮を反映しているように思えるからだ。

日本社会の中にどっぷりと浸かっていると当たり前の事が、フランスに住んでいるととんでもなく受け入れがたいものに見えることがよくある。こんな自分が完全帰国しても、果たして日本で無事に暮らしていけるのか?と思う。
反対に、日本には大好きな人達が待っていてくれる。幼馴染みと恩師、そして高校からの同級生。彼等はどんな時にも味方でいてくれたし、それは何十年経っても変わらない。いくらお金を積んだって得られない財宝である。
そうか!彼等の側にいられるなら、私みたいに異論ばかり述べるヘンな日本人が仕事で毎週クビになったとて案外幸せに暮らしていけるのかもしれない。などと妄想しながら星乃珈琲での夜は更けていった。

6.20.2025
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
秘密の家

私は家が好きだ。
家と言っても、必ずしも自分の家というわけではない。家というプライベートスペースが持つある種の不思議さとか自由さに強く惹かれるのである。
カフェのような公の場であっても、テーブルとテーブルの間にちいさな壁一つあるだけでそこにはプライベートな空間が生まれる。
ひとつの壁のおかげで、私たちは人目を気にせず物思いに耽ったり、一緒にいる誰かとの距離を縮めたり、コーヒーの味をより深く自分の思い出に結びつけたりできる。
だから私はもしかすると区切られた空間そのものを愛しているのかもしれない。

10歳ぐらいの時、母が与えてくれた多くの本の中に「マンディ」という本があった。
それは映画、サウンド・オブ・ミュージックで知られる女優ジュリー・アンドリュースが書いた児童文学で、孤児院に暮らすマンディという少女が偶然森の中に荒れ果てた空き家を見つけ、その家に強く惹かれた彼女は孤児院からこっそり抜け出してそこに通いながら、少しづつ自分だけの自由な居場所を創り上げてゆく様子が生き生きと描かれている。
私はこの本に強く想像力を刺激され、森の中に誰も知らない自分だけの秘密基地を作るというアイデアにすっかり心を奪われた。
そして大人になったら、マンディのように自分だけの秘密の家を作るんだ、と固く決心した。
今思うと、自分だけの神聖な空間に対する情熱を、わたしは家の中だけではなくあらゆる場所に見出していた気がする。

小学校の校舎の敷地内にある猫の額ほどの小さな空き地に生えていた、大きな金木犀の木の下とか、雨の降る日に忍び込むと静謐な時の流れを感じることができる、教室の隅っこの三角形の小さな物置場などは特にお気に入りの場所だった。
ちょうどそのぐらいの時、家が引っ越しをすることになり、親と一緒に物件の見学に行ったことがある。その家は今でも時々思い出すくらい わくわくする家だった。
日が落ちてからの見学だったので、周りの景色は全く覚えていないのだが、その家はなんと崖に向かって建っていた。今思えばあのような場所に建つ家は、風水から見れば最悪の立地だろうから、両親がそこにしなかったのも無理はないとわかるのだが、子供の私は勿論「家の中」にしか興味がなかった。
家は童話にでてきそうな洋風のトンガリ屋根で、内装は全てが新しかった。当時まだ、昭和ド真ん中な一軒家に住んでいた私は、好奇心に任せてキョロキョロと、爽やかな塗装の匂いのするモダンな家の中を歩き回り、ある場所の前で釘付けになった。
その家には屋根裏部屋があり、そこへ続くちいさな階段が床から伸びていた。
屋根裏部屋がある家なんて夢のようだった。言うまでもなく外国の絵本の中にはよく屋根裏部屋が登場したので、私はその存在を本の中だけで知っていた。私は胸をときめかせながらその階段の下に立ち、上に広がるちいさな空間にいる自分を想像した。

パリに来てから、屋根裏部屋を貸しているアパルトマンがたくさんある事を知ったが、いわゆる「お洒落な物置」としてではなく住居としてのそれらは必ずしも快適とは言い難い事も分かった。 昔はアパルトマンの女中さん(chambre de bonne)などが暮らしていたそうなのだが、ただでさえ動きにくい事に加え、最近の厳しい夏には地獄とも成り得る。
とはいえそんな現実を知ったところで私の中に深く根付いた屋根裏部屋への憧れは全く別の次元に存在しているようだ。
現在の私も自分だけの空間を作ることには非常にこだわりがあり、例えばインテリアを考えたりすることには間違いなく情熱がある。インスタやピンタレストといったアプリで自分好みの室内写真を探してはダウンロードしたりスクショしたりして保存する習慣があるのだが、ある日理想の家のイメージボードを作ろうと思い立ち、それまで長い間に保存した写真の数々を並べてみて、おやっと思った。
どの写真も色や雰囲気がとてもよく似ていたのだ。キッチンには、似たようなちいさなテラスが付いていて、リビングには必ず大きな本棚があり、その脇にダイニング・テーブル。
いくつかの写真のバスルームとリビングルームには、同じように傾斜した屋根の部分があるというのも面白かった。これこそ子供の頃からの屋根裏部屋への憧れの名残りであろう。
ブロック宇宙論曰く未来と過去が同列に並んでいるとすれば、これはもしかすると将来ほんとうにこれらによく似た家に住むことになる私からの目配せなのだろうか?なんて本気で思ってしまうほど脳天気な私であった。
4.12.2025
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
桃の節句

春というにはまだ少し早い、3月3日は桃の節句だ 。
小さい時から22歳でウィーンに留学するまで毎年母と一緒に雛人形を飾った。
ひんやりとした畳の上で、1年間眠っていたお雛様とお内裏様とを小道具を大きな箱から取り出す作業はどこか儀式めいていて、毎回少しだけ緊張した。そして不思議にも箱を開けると中から京都のお香みたいな古めかしい香りがふんわりと立ち上り、1年ぶりですねと囁くのだった。
ふたつの人形の身体と顔には緩くティッシュが巻かれており、 ぼんぼりや小道具類もそれぞれ優しくティッシュで保護されている。まず小道具を一つずつ取り出してから最後にゆっくりとお雛人形に巻かれたティッシュを取り外してゆく。
白くて繊細に描かれたちいさなお顔が手の中に現れる瞬間、 母は決まって感嘆のため息を漏らしながら「なんて可愛らしいお顔でしょう!」 と呟やいた。

確かに愛らしいと言われればその通りかもしれないが、小さな時から学校でもアメリカのお菓子に映画、ファッションなどの影響を強く受けて育った子どもからすると、お雛様の顔に対しては「超日本的なお顔だな」くらいの感覚しかなく、母のように感動する気持ちが分からなかったが、母の雛人形に対するある種の「信仰」にも似た気持ちは確実に私にも影響を及ぼし、わたしにとってこの雛人形はいつしか神聖な存在となった。
母の話によればもともとこの雛人形は、祖母が私が生まれた年に銀座で購入し、 自分で背中に背負って私達の暮らす調布の家まで持ってきたということであるが、もともと疲れやすかった祖母がその頃まだ50代だったとは言え、よくあんなに大きなケースを一人で運んできたなあとにわかには信じがたい思いを抱くのである。
雛人形を 定位置であるタンスの上に設置し終わると、母はホッとしたようにちらし寿司の準備にかかる。我が家では毎年3月3日にお雛様のある部屋で母の作ったちらし寿司を食べる習慣があって、時には叔父も遊びに来た。
私が家を出た後も、2018年に脳溢血で倒れる年の春まで母は毎年雛人形を飾っていたようである。
今年わたしの雛人形は、父がひとりで暮らすアパートの暗い物入れの中に封じ込められたまま3回目の春を迎えたと思う。母の手で飾られなくなってからはもう7年目になる。
それでも今は特養で元気に暮らしている母と私は、お人形やちらし寿司はなくてもLINEでこの日をお祝いすることにしている。
そしてその度に私は「もう一度お雛様を母と一緒に飾る日が来ますように」と密かに願う。

2.8.2025
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
フランスと日本。民度の高さとは?

パリは不思議な街だ。
観光客の愛して止まない虚構の物語的な面と、雑多な人々が押し合い圧し合いしながら必死に生き延びようとする、世界のどの大都市とも変わらない面との2つの全く異なる世界が同居している。狭い歩道に所狭しと並べられたカフェのテーブルで人々は、たとえ目の前の歩道に押し潰された犬の糞があっても、そしてすぐ近くにホームレスが寝ていたとしても全く気にする様子もなく涼しい顔でコーヒーを飲んでいる。
こんなちょっとしたディテールは、ロマンティックなフランス映画にこそ描かれていないが、実際に日本人的な眼差しで見るとギョッとする光景である。飲食店やお店では、お客に対するサーヴィス精神など欠片もない失礼とすら言える態度で接客される事がパリの黒い噂として有名だが、最近は不思議とそういう目には合わなくなった。もしかすると感じのいい店を引き寄せる力が備わってきたのかもしれない。
当たり前かもしれないが、こうしたことの数々は、例えばパリを舞台にした映画には殆ど描かれていないので、フランス映画大好き少女だった私としてはパリ症候群とまでは行かなかったものの、20年前パリに来た当初は大きく夢を打ち砕かれたものだ。つまり、清潔好きで礼儀を最も重んじる我が国から来た者にとって、まさにそれとは正反対の文化の上に成り立っているのがパリという街なのであった。

私もそんなパリに慣れて20年も暮らして来たものの、年を取るにつれてだんだんとまた日本の社会の細やかな日常的配慮が恋しくなるのも事実だ。とはいえ、それじゃあフランス人の民度というものが日本に比べて極端に低いのかというとそう単純な話でもない。
日頃から感じていることなのだが、フランス人は物乞いの人達にとっても優しい。メトロに乗れば3回に1回は物乞いが乗って来る。多い時だとメトロに乗るたびに彼等と出会うことになる。物乞いも堂々としたもので、皆が聞いている聞いていないに関わらず大声で自分の悲惨な状況をひとしきり説明し、その後ようやくお金もしくは食べ物を下さいと言うのが通常のパターンである。ここで彼らに同情した人はそっとお金を渡したり、少しの間言葉を交わす人もいる。
これが東京の山手線だったらどうなるのだろうかとふと考えた途端、背中に冷たいものが走った。
まず大声を出した時点で嫌な顔をされるのだろう。物乞いをしなきゃいけないような人間の話の内容など誰も興味を持たないかもしれない。なんなら物乞いなら物乞いらしく、黙って帽子を差し出す方がマシだくらいに思われるのかもしれない。

パリの通りで物乞いをしている人たちが通りを行く人に声をかけるというパターンも勿論あるのだが、そんな時彼等を無視する人をほとんど見たことがない。物乞いにボンジュールと声をかけられれば必ずボンジュールと返すし、そこには侮蔑的な態度など微塵もない。
日本人の私の方がよっぽど 我慢が足りない。
メトロなどで身体的に彼らと近いと、つい悪臭に顔をしかめたりしている自分をよく知っているので、どうやったらフランス人みたいに自然に彼らに優しくできるのか、そのような態度はやはりフランス国家の掲げる「自由、平等、 博愛」の徹底した教育の賜物なのかどうかを思わず知りたくなる。
近しいフランス人に聞いてみたら「そんなの当たり前じゃないの。私たちはたまたまラッキーだったのよ」と返された。日本でよく聞かれる自己責任という厳しい言葉はフランスにいるとどうも非人間的に聞こえる。

暖かい家に暮らし、毎日 美味しいものを食べることは当たり前なんかじゃない。
清潔な社会で、働き者である事が「当たり前」とされる我が国の人々はどれほどの重荷(プレッシャー)を背負わされ日々を生きているのだろうか?
日本において本来の意味での「自由」は、同調圧力や周囲をいつも気にする習慣ですでに奪われているし、「負け犬 」という恐ろしく差別的な言葉を平気で日常口にすることから見ても明らかなように、国民は自分たちのことを平等だとは思っていないようである。
では「博愛」という点ではどうなのだろう?これはまず人間が皆平等だという視点に立たなければ成り立たない。
人間が本当に平等かという問題については 色々な考え方があると思うし、私の奥底にもなんとなくそう言い切ってしまうにはひっかかる部分があることも確かだけれど、たとえそれが何であれ、すべてのものが白でもあると同時に黒でもあり得るのだといった柔軟な認識を持つことは物事の最も深い真理に到達するために必要で、それこそが私達を無意味な分断から遠ざけ愛の方向へと向かわせる道だと感じる。
12.5.2024
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
パリにいてウィーンを想う

1995年の夏。 私はウィーンで音楽学生としての生活を始めたばかりだった。
その頃のオーストリア通貨はまだシリングで日本は円高。ウィーン国立オペラやウィーン・フィル、そしてブレンデルやポリーニといった巨匠のリサイタルですら、立ち見席であればほんの500~600円で聴くことができた。今ならまさに耳を疑う金額である。
私は自分のアパートの壁に、ウィーンを代表する3つの劇場(国立オペラ座、そしてコンツェルトハウスとムジークフェライン)の毎月のプログラムを貼り、毎晩のようにオペラやコンサートへ出かけた。
私がそんなウィーンでの日常はいたって特別で、他の都市においては実現不可能なのだということに気づいたのは、ウィーンを出てミラノやパリといった他のヨーロッパの都市に住むことになってからだった。
ヨーロッパと言えどもあのように恵まれた音楽生活はウィーンを離れるともうどこにもなかったのだ。
時は流れ、ユーロになりグローバル化が進んでからは、あのスターバックスがウィーンにも進出したとか(他の都市なら当たり前でも、ウィーンの街ほどスタバが似合わない街はないという意味である)、古き良きカフェハウスに観光客が列をなしているといったことを風の便りに聞く度にがっかりした気分になった。
昨今の経済グローバル化は猛スピードで進み、初めは便利だと思っていても、こうして結果的に変わり果てた世の中の姿を俯瞰して眺めると、 結局世の中には変わった方がいいことと変わらない方がいいことがあるのだなという認識に至る。
私がウィーンという街をこの上なく好きな理由は、良い環境や師に恵まれただけではなく、この街が良い意味で極めて保守的であり、とりわけその芸術文化を今に伝えることに並々ならぬ力を注いでいる点にある。
私もウィーンでは物欲は全くと言っていいほど刺激されなかったけれど、コンサートや美術展には日々目を輝かせて通った。
実にこの都市ほど、その固有の魅力と音楽の歴史が切っても切れない関係にある街はヨーロッパ広しと言えどもそう多くはないだろう。
その理由はやはりベートーヴェンやシューベルトのようなクラシック音楽を代表する作曲家たちの多くがこの街に暮らして名作を書き、この地で認められるという事が彼らにとっても大きなステイタスとなるなど、ウィーンが紛れもなく18~19世紀にかけて音楽のメッカであったからだ。

面白いのは、パリにもそうした19世紀のショパンを中心とした音楽サロン文化 みたいなものが存在したにも関わらず、そうしたことは今日ではプロの音楽家と音楽好きのマニアの間でしか知られていない事である。
ウィーンの人々に音楽文化が浸透していることは、音楽学生だった時代にウィーンでバイオリンケースを持って街を歩くと、人々が私に声をかけたり親切にしてくれたという経験が度々あった事にもよく現れている。
例えば「君はバイオリンを弾くんだね?」という一見何でもない質問と表情のどこかに、ちょっと安心したような、 警戒心を解いたような不思議なニュアンスを感じたものだ(これがパリであれば、しょっちゅうバイオリンはスーツケースだと間違われたり、 当たってたらいいなという感じでそれは楽器ですか?と聞かれることになる)。
ウィーンにおいて音楽家であることは一目置かれる存在であり、フランスなどに比べ外国人に対しては保守的なこの国において、最も簡単に相手の警戒を解くことの出来る便利な身分証明書みたいなものだった。
またウィーン特有の魅力を語るのに、街の至る所にある古い建物を活かした天井の高いカフェハウス(Kaffeehaus)に触れないわけにはいかないだろう。ウィーンのカフェこそ私がこの世で最も愛するものの一つだ。
私の通っていたウィーン国立音大のあるヨハネス・ガッセからほど近いところにあるカフェ・フラウエンフーバー(Frauen Huber)では、ベートーヴェンがピアノ演奏をしたと言われている。私はこの店の雰囲気が大好きで度々通っていた。ここは食事も安くて美味しく、当時料理も満足にできなかった私は、栄養不足を補うためにここでよくほうれん草のシュトゥルーデルを注文し、エレガントな給仕さんはそれを必ず覚えていてくれた。
一方で、カフェ・ハヴェルカ(cafe Hawelka)のように19世紀からボヘミアンの芸術家たちが集う親密な雰囲気の小さなカフェもある。
店内は少し薄暗くて古いけれど、ウィーンのコンサートや展覧会のポスターが壁中に張り巡らされているようなエッジの効いた店で、当時ご高齢のマダムが店に出ている時は、夜中の12時になると揚げたてのウィーン風ドーナツ、 クラプフェン(klapfen)がお客に振る舞われることでも知られていた。
ウィーンのカフェではライブ演奏を除き音楽は一切なく、人々はそれぞれに新聞や本を読みながら静かな時間を過ごし、皆マナー良く低い声で会話している。一言で言えばカフェ文化というものが確立しており、コンサートホールと同様にそこでの民度が高い感じだった。
このような繊細なカフェの雰囲気は、やはりパリでもミラノでも見つけられないものだ。だからこそ当時のこのようなウィーンの街を、私は手放してしまった素敵な恋人のように今でも恋しくなる時がある。大手のカフェやブティックが、世界中の都市にまんべんなく行き渡り、どこに行こうと似たような風景に出くわす今日、こうした固有の文化や場所がいつまでも大切に受け継がれてほしいと願うばかりだ。

9.10.2024
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
デパートの中の散歩道

私たちは 多かれ少なかれ、ルーティンに陥りがちな毎日を送っている。
皆さんの散歩のルートはいくつあるだろう?
私は恥ずかしながら20年パリに住んでいても、いつも同じである。
言い訳したい訳では無いが、この散歩ルートは美味しくて安いコーヒーが飲める場所を目的地として決めたので自然とそうなった。
つまり裏を返せば、パリではなかなか美味しいコーヒーにありつけないという意味でもある。
さて、私の散歩のルートは少し変わっていて、まずメトロで10分足らずの駅、オテル・ド・ヴィルまで行く。
それから目の前のデパート、「BHV」に入るところから始まる。
せっかくピカソ美術館などがあるマレ地区の入口なのに、外を散策しないのはおかしいのでは?と思われる方。
私もあなたの意見に大賛成!
自分でも「外を散策しようよ」と自分に言ってやりたいのだけれど、これがなかなかそういう気持ちにはならない。なぜならこのあたりの店は、一見お洒落でも高くて不味いコーヒーを出すカフェとかアイスクリーム屋を含め、何故かコスパが悪い店ばかりでどうもトキメかない。
それに比べるともともとデパートが大好きな私は、デパートの中を散策する方が何倍もわくわくするのである。

まずこのBHVというデパートはパリの他のデパートとは大分異なり、ドアの取っ手ひとつからファッションまで、ありとあらゆる種類のものが各階に詰め込まれている、まさに宝物を探す感覚だ。
地下はDIYやアウトドアのかなりプロっぽい道具から、フランスで昔から使われているオールドファッションな掃除用具の類まで見事な品揃え。
2階ではパリ発のファッションブランドを試着して、3階では種類の豊富な本屋さんでしばし時間を忘れて過ごし、スピリチュアル系の店にずらりと並ぶパワーストーンやタロットカードに目配せをしてから、今度は日本から遥々やって来た見覚えのある文房具の数々の前で思い切り郷愁に浸る。
その郷愁を受けて、足は自ずと美しいスーツケースが並べられた売り場へと惹きつけられてゆく。
5階の家具売り場では、映画のワンシーンのように完璧にレイアウトされたインテリアを見ながら自分の理想の部屋を思い描く。
ところが1番目を惹くシックな薔薇色の長椅子に座ってみると、見た目ほど座り心地は良くないなあ、なんて思ったりする。
はっとコーヒーが飲みたくなっている自分に気づくのはそんなときだ。
即座にバラ色の長椅子は頭から消えてなくなり、いそいそと6階にあるカフェへと向かう。
さあいよいよ散歩の締めだ!
ドトールみたいに気楽なセルフサービスだけど、見晴らしの良い大きな窓と、リヴォリ通りやセーヌ河、そしてサン・ジャック塔も見渡せる細長いテラスのあるカフェが、子供服売り場の奥で私を待っているのである。
今日も来たよ!と心のなかで呟きながらカフェの中へ真っ直ぐに入ってゆくとシュ~ッという楽しげなスキューマの音と香ばしいコーヒーの香りに包まれる。
ここではちっちゃなエスプレッソしか頼んでなくても店員さんが機嫌良く、昔のパリみたいにカップの脇に小さなチョコレートを置いてくれる(パリではいつの頃からか、食事を注文したお客さんのコーヒーにしかチョコレートを付けてくれなくなった)。思わず心の底から笑みがこぼれるのはこんな瞬間だ。
デパートの最上階で目を閉じてコーヒーを啜る自分が、あのSempéの絵の中のユーモラスな人々の一員になったかのような気がしてしまう。
こんな気楽な気分転換が私はスキだ。

7.1.2024
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
誰かを幸せにする音

今年の春、私がその存在を知って以来ずっと心の中で共に歩いてきた一人のピアニストが92年の生涯に幕を降ろした。
ネットニュースで目に飛び込んできた彼女の死は、私にとって他人とは思えないほど受け入れ難いものだった。でも心の何処かでは、ああついにその日が彼女にもやってきたんだなと諦めに近い感情で受け止める自分がいた。
フジコ・ヘミング。
日本人の母とスウェーデン人の父のもとにベルリンで生まれ、フジコが幼い時に家族で越してきた日本に馴染めなかった父は、ふたりを残して日本を後にした。
20代の時に留学先のウィーンでレナード・バーンスタインにその稀有な才能を認められ、彼のバックアップで実現したリサイタルが彼女の輝かしいウィーン・デビューとなるはずだった。ところが、こじらせた風邪が悪化し耳が聞こえなくなるという悲劇に見舞われることになるのだ。もちろん治療するお金もなかった。
そしてその後の長い人生は、彼女がその頃掴み取ろうとしていたものから少しづつ外れていく。神様はフジコを見捨てたかのように思えた。
でも、「遅くなっても待っておれ」
これが彼女の信じた聖書の言葉だった。
彼女の才能はいったん封印されたように見えたが、それは決して輝きを失わなかった。フジコは自分の才能を諦めずに磨き続けたのだ。
晩年における彼女の活躍は日本では多くの人が知っているかもしれない。そこがこのピアニストの独特なところだ。つまり彼女の本格的なキャリアは60代から始まったのである。
多くの人達と同じように、私も彼女を初めて知ったのはNHKが1999年に放送した一本のドキュメンタリーだった。
あのときの衝撃は今でも昨日のことのように覚えている。
私が衝撃を受けたのは、彼女の独特の衣装のせいでも、小説家なら飛びつきたくなるほどドラマティックな経緯を辿ったその半生の物語でもなくそれはただ、彼女の指先からこぼれ落ちる音がそれまで一度も聴いたことのない音だったからだ。
透明なクリスタルを想起させるその音は、川の水のようにテレビ画面から溢れ出した。さらに驚きだったのは、その音がまるで彼女自身の言葉のように物語を語りだしたことだった。
母と一緒に東京の実家でその放送を見ていた私はその数年前からウィーンに留学していた。
そして母と共に、このような演奏が存在するなんてと思わず画面に釘付けになった。
同時に、このピアニストが持つこのように大きな音楽性の、たとえその片鱗でも演奏者として身に着けられる可能性があるのなら、自分は日本の音大で一体何を学んでいたのだろうか?という思いがいつものように私の脳裏をかすめた。

私が通ったエリート養成所みたいな音大では、きっちり楽譜通りという名のもとに、いくつかのお手本のような曲の解釈や、マシーンの様にばりばりと演奏することばかりが重要視されていた。
それに加えコンクールで優勝したり、学内で勝ち上がっていくためにはクルト・ワイルの三文オペラではないけれど、センシティブな心は石になるまで鍛え上げる必要があった。
結果、上手くても皆均一の無難な演奏になるのだった。工場でマニュアル通りに作られた美しいお菓子のように。
そうした環境の中、音大にいた頃はずっと悩んでいた。でも、日本を一歩出てウィーンという都にたどり着いた時にやっと息ができた。
ウィーンは音楽の世界においても非常に保守的で知られているのに、そこで聴く音はとても人間味に溢れていたのだ。
一方でウィーンの先生達は、日本の音大のレッスンが生易しく思えてくるくらいに「曲の様式と解釈」にはうるさかった。
それに加えて、自分があたかもベートーヴェンから直接指導を受けたかのように自信たっぷりに曲の解釈を述べるのだった。それが私が直面した次の問題だった。私にはなぜ先生方が小さなフレーズひとつ自由に弾かせてくれないのか本当に分からなかった。これでは言われたとおりにガチガチに仕上げるしかない。
日本の音大で私が学べなかったのは、まさにこうした伝統に裏付けされた音楽的解釈だったはずなのに。
楽譜に書いてあることを作曲家の意思を汲み取りながら正確に伝えるなんてことはある程度までは可能だとしても、自分という存在を忘れてそればかりを考えていたら三流の翻訳家になってしまう。なぜなら演奏者はその曲を書いた本人ではないのだから、本当の解釈を探したところでわかるはずもない。
そんなふうに考えに行き詰まる時、自身の音楽の化身のような個性的なフジコの姿が頭をよぎることがあった。
彼女は錬金術師のように鍛錬し、磨き上げたその音で星のない夜空を星で一杯にした。
私たちが聴きたい音はそんな音なのだ。
みんなを幸せにする音。
するとそれまでの頭の中だけの長い議論がすうっと蜘蛛の子を散らすように収束し、ひとつの答えが見えてくる。
それは、誰かに一瞬だけ辛い日常を忘れさせ、この世にはこんなに素敵なこともあるんだよと希望を与える演奏をすることだ。
パリにも活動の拠点があったフジコの演奏をいつでも聴きに行けると思っていたが、それは叶わなかった。「いつかしよう」という言葉とはこれを教訓にサヨナラすることに決めた。
今たくさんの愛した猫たちと共に天国にいるフジコは、あの素晴らしい音で神様をうっとりさせているに違いない。

2.10.2024
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
祭りの後に想うこと。

心のどこかで子どものように待ち侘びていたクリスマスもお正月も、いつものようにやってきたと思ったら あっという間に過ぎ去って行った。
12月から1月というのは不思議な時間だ。
クリスマスとそれに続く「これから正月だ」という壮大な時間が流れるイメージがあるので、あたかも時間の単位までもが大きく引き伸ばされるような印象がある。
フランスには「お正月」という日本人の持つ特別な時間の流れはないけれど、 クリスマスがそれに代わっての大イベントである。
なのでクリスマスの少し前ぐらいから始まるクリスマス休暇を境に、パリからだんだん人がいなくなってゆく。
そのたびに、「ああ、やはりここは東京のように地方出身者達に支えられている街なのだな」と思う。
なんだか日本の年末が少し早まったかのような雰囲気で、それはそれで楽しい。
しかもこのがらんとした雰囲気は年始の2日頃まで続くのだ。

「年末」という曖昧でいながら他のどの月にも存在しない祝祭のムードを帯びた時間の流れは今更ながら不思議だ。
カレンダーに並ぶ12月後半の日々は、全く別の時空に属しているのだろうか。
命の短い私たち人間が勝手に区切った小さな1年は、壮大な宇宙にとってはひとつ咳をしたような軽さしかないかもしれないけれど、そんなちっぽけな存在たちが必死に生きた1年という時間の重さに対して神様が労いの魔法をかけてくれるのがこの時期なのかもしれない。
だから人間の哀れな脳はつい、この魔法が終わる時のことを忘れてしまう。
夏休みが永遠に続くと信じてしまう子供たちのように、この祭りの終わりも遥か彼方にあると信じてしまうのだ。
ところが神様は私達の脳に「休みなさい」と少しだけ魔法はかけても、時間を倍にはしてくださらない。
私もクリスマス頃にはこの年末、優しい時間という長椅子にゆったりと寝そべり、あの映画を観よう、この本を読破しようなどとあれこれ夢想したのだが、不思議にもなかなかこの「優雅な長椅子」に辿り着かなかった。

クリスマスから大晦日、元旦にかけて食べるものの買い出しに始まって部屋の大掃除。
それが終わると今度は新年の挨拶合戦である。
電話をかけたりメッセージに返信したりするうちにだんだんと疲れがたまってくる。
スマホの見過ぎで、肩までコッてくると流石にもう本を開く気力もない有様だ。
呑気に明日でもいいやなんて思えば既にもう日付は1月2日に変わっていることに気がつく。
残念ながらフランスには「三が日」という感覚がないので、元旦さえ過ぎれば間もなく周りの世界は元通りになる。
そこではたと気がつく。
本を片手に「優雅な長椅子」に座っていたと記憶しているのは何時間くらいだったんだろうと。
そこで自分の中に自然と今年の教訓が生まれた。
それは「最もやりたいと思うことを一番先にすること」だ。
今週からパリはいっとき寒さが和らぎ、明らかに少しだけ日も長くなった。
それだけでも何だか勇気づけられる。生きているだけでも重労働な冬の出口はもうすぐそこだ。

12.10.2023
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
鍵穴からメリー・クリスマス

パリは11月に入った途端に極端に冷え込むようになった。
穏やかな秋は殆どなく
窓を開ける度に震え上がりながら公園の紅葉を見つめる毎日。
今日などは朝起きて、いやに寒いので温度計を見ると3度しかなかったので驚いてしまった。
もう真冬ですか?と。
それで今年もまたこの時期になると
クリスマスが目の前に迫っていることに気付かされる。
それもこれも、テレビやYouTubeが今年も不気味に笑うサンタとか
大量生産の添加物にまみれたチョコレートの山を前に
幸せいっぱい微笑む家族のイメージなどを、これでもかと繰り出して
クリスマス商戦を繰り広げているからである。
去年くらいまでなら私もそんなコマーシャルを見た後に
ふと楽しい時間を想像して暖かい気分になった瞬間もあっただろう。
でも今年はどういうわけかそうした宣伝が甚だ鬱陶しく思える。
別にクリスマスが悪いわけではない。
ひとたび現在世界で起きているおぞましい戦争に思いを馳せれば
幸せなクリスマスのイメージなんて絵に描いた餅でしかなく
家の周りがすべて火事なのに家の中だけで皆が「幸せだねえ」と言っているようなものである。
そもそも人間という種族が問題なのだ。
清貧を心掛け信心深い人々がいる一方で
腹黒い人間たちは何千年もの間宗教を道具に金を儲け、殺戮を正当化してきた。
そこでわたしはまた、10歳の時からのあの疑問を因縁のように繰り返す。
「なぜここまで科学やテクノロジーが進化しても戦争だけは太古の昔からなくならないのか?」
ダブルスタンダード(二重規範)という言葉がよく聞かれる今日
どの国の政府にもこれが当てはまる気がして
正義なんていうものはもう何処にも存在しないんだという絶望感に苛まれる。
だからこんなご時世において、もしまだ本物の聖夜というものが存在し
神様が哀れな人間たちを見放さずにいて下さるというのなら
こちらもただ浮かれて消費するだけのクリスマスを過ごすのでは
あまりに軽率だという気がしてしまう。
少なくとも私はクリスマスで賑わうパリのショッピングセンターで
子豚の群れよろしく彷徨い歩いている最中に
テロリストのひとりに頭を撃ち抜かれて死ぬなんていうアホな結末だけはごめんだ(これでは断腸の思いで一人娘をヨーロッパに送り出してくれた親に申し訳が立たないというものだ)。

そこで私が思いつくのは世にもネクラなクリスマスの過ごし方。
朝からひとり禅の本を読んで過ごすとか、にわか茶室を作るといったものである。
部屋の一角を茶室に見立てて、弱い冬の光の中で瞑想をしてみるのも良いかもしれない。
そういえば、私にとって生まれてから今日に至るまで
楽しく過ごすということは必ずしも誰かと一緒にいることを意味してこなかった。
むしろ一番ワクワクするのはひとりで何をしようかなと考えた時なのだ。
自分の中に強くコミットすることによって
逆に世界全体が活き活きと見渡せる時のあの清々しさが何より好きなのである。
だからと言ってはなんだが、パリによくありがちな人でいっぱいの小さなレストランで
知らない人と同じテーブル(しかも四人座りの席!)に着席させられ
隣の人の口から飛ぶ唾とか大声に耐えながらする食事ほど辛いものはないし
パーティなんかもガヤガヤ声に耐えられなくて
「この騒音はヘリコプターに換算すると何ヘルツになるだろう?」なんて考え始めたら最後。
必ず途中で逃げ出してしまう。
こんなふうに極めて非社交的な、私という人間は家のドアを開けて中へ飛び込み
錠を下ろした途端にほっとする。さあひとときの間、混沌とした世界よさらば。
世界に一分でも一秒でも早く優しさと新しい秩序が戻りますようにと願いつつも、鍵穴からメリー・クリスマス。

10.15.2023
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
素敵な偶然

誕生日の朝、パリの新しい仕事場で初ミーティングがあった。
前の日の夜にグーグルマップでその地区を見ていると、仕事場から徒歩3分くらいのところに見覚えのある名前を見つけた。
Le Pure Café(ル・ピュアカフェ)。
あれ、もしかするとこのカフェはいつか行ってみたいと思っていた、あの映画に出てきたカフェではないだろうか?
「あの映画」とは、95年頃にジュリー・デルピーとイーサン・ホーク主演で第一作目が発表された、ラブストーリー三部作のうちの二作目「ビフォア・サンセット」のことである。

一作目のビフォア・サンライズ(タイトルの酷似がなんとなくキッチュで可笑しい)は発表当時、主人公達の年代が自分と同じなうえ、舞台も当時留学していたウィーンだった。
スクリーンのあちこちに、よく知っているカフェや通りを見つける楽しさに加え、抜け感のあるリアルな雰囲気やセンスのいい音楽など、どこをとっても自分好みで大のお気に入り作品となった。
今観ると、自分自身の若過ぎる日々を綴った愛おしい日記のようにも思える作品だ。
第二作目は9年後、私がパリに移住した年に発表され、これまた不思議な偶然で映画の舞台はパリだ(私を追っかけてくるみたいに)。
長距離列車のなかで知り合った若い男女がウィーンで途中下車し、束の間の短く夢のような時間を過ごして別れていく第一作目は本当に甘酸っぱい青春の香りに満ちているのに対して、この二作目では仕事や家庭を持ち少し大人になったふたりが偶然パリで再会を果たすというものだ。
パリの街を歩きながら、もしくはカフェで、ふたりは9年間の空白を埋めるかのように果てしない対話を展開する。
そんな映画の重要な舞台の一つとなったのが先に書いた 「Le Pure café」なのだ(ヌーヴェルバーグの脱力感を感じさせるこの三部作の舞台にパリのカフェはまさにぴったりだ)。
私は即座に今年の誕生日の朝ごはんはこのカフェにしようと決めた。

大好きな映画のシーンが撮影された場所が仕事場の直ぐそばにあるなんて、嬉しい偶然ではないか?
すると途端に数々の忘れられないシーンが脳裏に蘇ってきて、早くもこの場所に縁みたいなものを感じ始めた。
次の日仕事のミーティングは10時だったので、私は少し早めに家を出ることにし、降りたことのないシャロンヌ駅で地下鉄を降りた。
パリというのはほんの少し地区が違うだけで雰囲気がガラリと変わる。
11区にあるこの店はグーグルマップを頼りに駅から3分ほど歩き、角を曲がったところで姿を表した。
パリにおける多くの映画の撮影場所の例に漏れず、ほんとうに特別なところは何もない、地元に溶け込んだこのカフェの姿はスクリーンの中で見たよりもずっと古ぼけて見えた(もう撮影から20年近く経っているのだから当たり前だけれど)。
でもアパルトマンの斜めになった角に位置する入口の雰囲気は、映画で見た姿と何も変わらず、テラスにはまだそんなに人はいなかった。
どこか戦前の雰囲気が漂うレトロな店内に入りカフェ・オ・レと、カウンターの上のパン・オ・ショコラを注文してからテラスに座った。
しばらく座っていると、11区風の個性的な人々がチラホラと顔を見せ始めた。
彼らのクリエイティブでありながらリラックスした服装と、サン・ジェルマンあたりでお茶をする裕福なマダム達の控えめな、それでいて思いきり質の良さが滲み出るファッションとは本当に対照的だ。

コーヒーと一緒に運ばれてきたパン・オ・ショコラは見栄えこそ地味だったけれど、ここ数年食べた中でもトップと言えるほどの美味しさだった。
初めて入ったカフェから眺める普段と違う景色はサプリメントのように心の風景をも変えてくれる。
すっかり忘れていたこの映画の恋人たちが不意にわたしの心に戻ってきたことで、もう一度この三部作をじっくりと観直したいという欲求が芽生えた。
不思議なくらい幸せな予感を伴って。

8.5.2023
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
父の好物を探して

航空券の異常な高騰の中、奇跡的に乗り継ぎ便よりも安価な値段で直行便を見つけた私は幸運にもこの夏、病から回復した父が待つ家に帰ることができた。
去年の夏心不全で倒れた父は、10月にめでたく退院し、それ以来ヘルパーさんたちの力を借りながら新しい住まいで一人暮らしをしてきた。
家の中は1年近く経ったわりには片付いていて、インドの修行僧みたいに細くなった父は、私が兄と選んだ折りたたみ式の食卓ではなくキッチンの端っこに置いた丸いガラスのコーヒーテーブルの前を主な居場所にして暮らしていた。
父の部屋を覗くと、壁には若い時の雑誌のインタビュー記事とか新聞の切り抜きとかが何枚もも貼られていた。
ベッドの周りには不可解なひもが張り巡らされ、そこにも紙片とかあらゆるものがぶら下げられていてまさに「父の城」がそこに出来上がっていた。

印象的だったのは、父が食べ物に対する興味そのものを失いかけているように見えたことだった。
「俺は何でもいいんだ」
と言い切る父は、1日に2回配達されるお弁当をゆっくりゆっくり 午後中かけて食べ、 私が何かを買ってきたり 作ったりしてもさほど興味を示さなかった。
それはどこか 拗ねているようでもあり、自分で遠くまで美味しいものを買いに行けない現状を諦めるために自分に課した約束事のようにも見えた。
それでも私がフランスから買って来たチョコレートに関しては例外だったようで毎食後口にし、挙句の果てにいそいそと仏壇にまで持って行った。
毎度食事が終わる度に、私はこれらの個別包装された色々な種類のチョコレートをタロットカードのようにテーブルの上に並べ、じっとその上に視線を注いでいる父の方を見ながら「今日はどれにする?」と尋ねるのが小さな日課となったが、私自身はパリで高級な 「雪見だいふく」とか、キットカットの抹茶味を早く買いに行きたいと思っていた。
私はお寿司も好きだが日本の B 級グルメとか昭和の洋食みたいなものに目がない。
嬉しいことに今回そうした食費は円安の影響で驚くほど安く済んでしまった。
日野駅前にある フレッシュネスバーガーとやよい軒にも楽しくて何度か通った(やよい軒でお味噌汁やバランスの取れたおかず付きの定食が1000円以下で食べられるのに対し、ハンバーガーとポテトのセットが1000円以上するのがなんとも不思議だった)。
父はまだ一人では外出できないので、私は用事のついでとか、たまに友人とのランチで外出した時を除いては極力家で父と食事を取るようにした。
父のお弁当はバランスが良くはあったが、やはり生野菜や果物、お味噌汁などを付け足す必要があった。
私は 自分用にパスタを作り、もくもくとお弁当を食べる父の横でそれを食べた。
そのうちパルミジャーノなしのパスタに飽き飽きした私は大好きな納豆を買い込み、それと焼き魚でご飯を食べることが多くなった。
するとやはり日本ではこういう食事が一番美味しいことに改めて気がついた。
フランスでは2切れで1500円もする鮭が日本ではたったの数百円なのだから堪能しない手はない。
スーパーでは他にもアジの開きや天然のブリを小躍りしながらカゴに入れた。
母が家にいた時によく食卓に上がったアジの開きを焼くと、父も珍しく食べたがった。

ある日、父の日課であるアパートの敷地内の散歩に付き合おうと家を出ると、父は突然すぐ目の前のバス停からバスに乗ってみたいと言い出した。
倒れて以来1人でバスに乗ったことなど一度もないし、杖をついた父を連れて行けるか心配になったが、ちょうどバスが到着したので一緒に近くのショッピングセンターまで行ってみることにした。
ショッピングセンターに着くと、私は父に久しぶりにアイスクリームを食べることを提案した。
風が出てきて少し涼しくなったので、父は外のテラスでベンチに座って待ちたいと言った。
私がアイスクリームを持ってベンチに近づくと 一瞬 父の姿が見えなかった。
さらに近づくと杖の先だけが見えた。
10分も経っていないのに、父はもう疲れて枯れ木のようにベンチの上に横になっていたのだ。
私が声を掛けるとアリのように手足をバタバタさせて起き上がり、アイスクリームを受け取った。
そして待ちきれないと言った様子で口に運ぶとつい心から「ウマイ!」と本音を漏らしてしまった。
自動車レースをやっていた若い頃から様々な事故に遭い、その度に不死鳥のように蘇った父は今84歳で確実に歳老いていた。 老いとは一体どこからやってくるのだろうか?
7月の鮮やかな夕焼けに空が包まれていくのを見ながら一年前、 医者にお父さんは二度と家に戻ることはないだろうと言われた日のことを思い出した。
それから数ヶ月後見事に回復し、8ヶ月も 一人暮らしを続けて来た父。
子供のように夢中でアイスクリームを食べる 姿を横目で見ながら、父にはこれからも世の常識を何食わぬ顔で覆して行って欲しいと願わずにはいられなかった。

6.10.2023
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
音楽を演奏するのにプライドなんていらない
夜20時過ぎ、シャルル・ドゴール空港へ向かうバスの窓からぼんやりと外を見ていると不思議な違和感に襲われた。
まだまだ昼間のように明るい風景が突然音を失っていくように感じられたのだ。
水に浮かぶ美しいオフィーリアのように、外見はまだバラ色の頬をしているけれど内側では確実に死が一秒ごとに広がっているのにどこか似た不気味さで、明るく見える風景はその内側で確実に暗い夜を広げていた。
そんなふうにして、見えないところで終わってしまった一日をそうっと沈黙で包み込むかのように明るい夜が更けていくのを見るのは不思議だった。
今日のバイオリンのレッスンで、生徒のカミーユが自分の演奏を誇りに思えないから発表会で演奏したくないと言ったとき、自分自身を誇りに思うことが音楽にとって一番余計なことなのだと説明している自分の声を聞いて思わずびっくりした。
何かが私に乗り移ったのか?
それはまさに自分に向けられた言葉だと思ったからだ。


自分を誇りなんかに思えば思うほど、ありもしない完璧の檻の中に閉じ込められて何もできなくなる。
例えば人の前で演奏するのが増々怖くなったり、失敗したかしないかということだけが大切に思えてくる。
誇りに思ったりするのは芸術家の仕事ではないのに、わたしは何を勘違いして生きてきたのだろう?
音楽を心から愛して楽しむことができるのならタダの馬鹿でもいいとなぜ思えなかったのだろう?
人前で演奏するたびに、ずっと自分で自分を誇りに思える演奏をしたいと願っていた。
誇りに思える演奏って一体どんな演奏なんだろう?
音を外さない演奏のことだろうか?
10代の頃に読んだフランソワーズ・サガンのインタビューの中のひとつのフレーズが、不思議なくらいその後の人生で度々心に浮かんでくるようになった。
それは「火事になった時に私たちは差し出された手を選ばない」というもので、火事のような非常事態のときには私たちに一流の手だけを選ぶような猶予はないということなのである。
芸術もそれと同じで、音楽や言葉が人を勇気づける時にそれが ヴィクトル ・ユーゴーの言葉やウィーン・フィルの音でなければならないとは限らないだろう。
それは学校の先生の言葉 かもしれないし、もしかしたら道路工事のおじさんの言葉 かもしれない。
蜃気楼のように眼の前に立ちはだかる名声や完璧(に見えるもの)には実体がないのだから、そんなものを目標にしたって裏切られてしまう。
だからむしろ精一杯自分自身が幸せな気持ちになるための努力(これだって途方もなく難しい!)をしたほうがいいと思うようになった。
多分それこそが本当の自分自身に到達するための唯一の方法なのだろう。

数日前から名前を聞いたことのない昔のピアニストが演奏するブラームスに夢中になっている。
RCAレーヴェルから出ているので決して無名ということはないのだろうけど、なにせ録音が古いので音質は悪く、高音に行くとアグレッシブなまでにキーッという音の感触で、お世辞にも完璧とは言い難い録音である。
でも私はそれを繰り返し聴いてしまう。
荒削りと言えるほど振り切った演奏から見えてくるのはかつて感じたことのないほどリアルなブラームスの音楽の本質。
まるで戦場とか、被災地などで偶然見つけたピアノを全身全霊で演奏しているかのような不思議な情熱と「素」の迫力がそこにあるのだ。
そんなライブ感がこちらの心を掴んで離さない。
完璧とか有名という言葉の持つ響きはゴージャスで、ひとの心を狂わせるのは事実だ。
でもこうした幻想を人々に抱かせるのは本来芸術の目的ではない。
芸術はそれが必要な時には一番の親友よりも先に心のそばにいてくれるものなのだ。
私達がもう夢も希望もない虚ろな気分でいる時ですら、ふと明日もう一度新しい人生をやり直せるかもしれないという一筋の希望を与えてくれるのが音楽なのだとすれば、音楽家としてのわたしはもっとその事を真摯に受け止めて行動しなければならないのだろう。
自分の自己満足のためではなく、その音楽を今まさに必要としている人のために。

4.10.2023
DAYS / Sachiko Kuroiwa Column
パリの屋根とバイオリン
19回目の春

今年も桜の季節。
パリで迎える19回目の春だ。
嬉しいことに、私が教えているコンセルヴァトワールの教室のふたつの窓からも可憐な桜の木が見える。
桜という花は不思議で、ただ美しいだけでなく日本を象徴する花であることから、私のように長い逃亡生活(?)で母国を長く留守にしている者にとっては望郷の念を哀しいまでに掻き立てる存在だ。
それと同時に "ああ、私は20年近くもこんなところで何をしているんだろう"とか、"やはり数年以内に完全帰国して自国にもう一度根付く準備をしなくては"などと深刻に考え始めるトリガーにもなっていることも事実だ。
だから単純に望郷の念を伴った美しさに目を潤ませるだけでは終わらない桜という存在は、どこか心のなかで後回しにしてきた問題を会う度にしつこく思い出させようとする面倒臭い親戚のおじさんにも似ている気がする。

そんな桜の季節に入ったパリはいつになく不穏な空気に包まれている。
年金問題に関するストライキに次ぐストライキで、まともにどこかへ行く計画一つ立てられない。
いやそれどころか普通に出勤することすら阻まれている状態である。
ゴミ収集車までもがやって来なくなり、道端にはうず高く積まれたゴミがパリの景観をぶち壊している。
そんな中、皮肉にもストライキではなくインフルエンザが原因で仕事を休むことになってしまった。
食べることはもちろん、薬を飲むことや起き上がることもままならなかった二日間、床に伏した私は頭痛と吐き気に苦しみながら朦朧とした頭の中でひっきりなしに無数の夢を見ていた。

コンセルヴァトワールの教え子たちの顔が次々と夢の中に現れ、大人になってそれぞれの仕事についていく夢はあまりにもリアルでとても夢とは思えないほどだった。
夢の中で彼らはさらにもっと歳をとってゆき、お爺さんお婆さんになった顔までもはっきりと見ることができた。
例えばハンサムでピアノが上手な11歳のアルテュールは案の定人気アーティストになっていたし、名家の出身で既にキャリア・ウーマンみたいに頭の切れる12歳のシャルロットはそのままの姿で弁護士になっていた。
そこに何の違和感もなかった!
前に何かの本で読んだことでもあるが、たしかに人間は生まれた瞬間から全てを内包しているのだ。
赤ちゃんであると言う事は、既におじいさんおばあさんをその中に内包しているとも言える。
夢の中に出てきた無邪気な生徒たちには申し訳ないが、改めてこの逃れられない一個体としての人間の宿命、命の短さみたいなものを感じずにはいられない思いでその時目覚めた。
と同時に私達が未来を内包している存在なのだとすれば、やはり現在から既に垣間見えるそれぞれの未来のイメージが強ければ強いほど、そこにぐいぐいと現在は引きつけられてゆくのではないかと強く感じた。
私たちが コントロール可能な未来をイメージによって作り出すというのは「引き寄せ」的な話の中でもさんざん言われ続けている事だけれど、はたと考えてみるとごく自然なことのような気もする。

地獄のような2日間が過ぎ、再び春の光の恩恵を感じることのできる身体に戻った私は古い蛹を脱ぎ捨てた気分で目覚めた。
そして再び楽な身体で息をしている事の、そしてまた普通に朝ご飯を食べられることの驚きと素晴らしさに気付いた時、ふらふらの身体が安堵と感謝の念で満たされていった。
そんな尊い朝に、まだ少し夢と現実の境目を彷徨っていたわたしの脳がふと自分に投げかけた 問いがある。
それは “私は人にどんなイメージを与えているだろう?というものだ。
普段私自身がイメージしている私と、他の人が持つ私のイメージとの間にどれほどの乖離があるのか?
私がリアルに見た、生徒たちの人生をコンパクトに凝縮した夢のせいだろうか?
この時ばかりは、どうせなら自分がなりたい未来のイメージを他人にも与えるような人になりたいと強く思った。
一度しかない人生、自分の望む未来のイメージに相応しい自分でいたい。
少しづつでもそうなっていくようにするためには、まず今の自分がその姿を信じなければ。
とまるで元旦みたいに強く自分に言い聞かせた。
それから、人というのはどんな体験からも「何らかの教え」を得るものなのだな、とひとりでニヤリとした。




















