


FAY Satoko
writer
2012年に前夫を自宅で看取り、人生を再構築すべく2014年にカリフォルニア州サンディエゴに移住。
仕事では個人から社会まで、幅広い意味での健康と幸せ「ウェルビーイング」をテーマに取材執筆を行うほか、エッセイや短編の執筆も。
プライベートでは再婚した夫と犬2匹と暮らし、波乗りとヨガにいそしむ日々。
FAY(フェイ)はアメリカでのニックネーム。

















4.10.2023
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
ホームシックは続くよ、春までも

渡米して丸9年となった。
最もホームシックになったのは最初の1年だったが、それに次ぐレベルのホームシックが今年に入ってから続いている。
それもこれも雨が続いてちっともサーフィンができていないせいが大きい。
カリフォルニアは雨水を処理するインフラが整っていないので、雨が降ると山から川へ、そして道路から川へ、という感じで汚水は一気に海水に流れ込む。
よって、公式には雨後の72時間は海に入るなと言われている。
雨が降り続いていると言っても、毎日ではないのだが、そろそろ72時間経つ(つまり3日間)という頃になってまた次の雨が降る、ということを繰り返していて、年が明けてから海に入れたのは数回だけ。
沿岸の崖は崩れまくっていることもあって、海にアクセスする駐車場が閉鎖されているところも多く、9年住んだけどこんなことは初めてという春を体験している。
前にも書いたが、サーフィンができないとなると、私にとってサンディエゴで暮らす魅力の80%はなくなるも同然で、日本は桜の季節ということもあいまってホームシックは深まるばかり。
もちろん、それはアカン、となんとか立て直すことを試みている。
だって、波乗りできなかったらこの町に住んでいる理由はないって、彼氏がいなかったら生きている理由がない、というようなもので、私の人生、波乗りが全てなわけではないから、波乗りが消えたとしても楽しくあるべきなのだ。
そうでないと困る。
波乗りだけが私の人生じゃないはずだ。
そう言い聞かせていろいろなことを楽しもうとしているが、今のところ、波乗りの他に熱中できるのはヨガだけというのが現状だ。
*
ヨガを始めたのは2005年だから、ヨガ歴だけでいえば18年と、サーフィン歴よりヨガ歴の方が5年も長い。
とはいえ、渡米後は日常生活を落ち着かせることに追われていて、家で思い出した時にやる程度だったので、本格的に再開したのは2020年のコロナ禍だった。
それまでは、会社勤めだったので、ヨガのクラスに出たくても、時間で都合がつかないことが多かった。
けれど、コロナ禍のロックダウンで、さまざまなスタジオや先生たちが、オンラインクラスをやり始めた、かつ、私の仕事も家でのリモートになったので、参加できるようになったのだ。
その頃から、「やっぱりヨガが好きだな。ヨガを体系立てて学びたいな。
ティーチャーコースを取りたいな」とぼんやり考えるようになった。
ところが、ティーチャートレーニングを実施している先生なりスタジオなりで、ピンとくるところを見つけるのに時間がかかった。
私は、カリフォルニアにおける昨今のヨガはファッションになりすぎていると思っていて、それはそれで裾野を広げるという点では素晴らしいと考えているのだが、自分が学ぶにあたってはファッションに傾いていない、より古典的な、あるいは本質的なヨガを教えてくれそうな先生なりスタジオなりを求めていたのだ。
それがついに見つかったのが昨年のこと。
そして、会社を辞めて完全にフリーとなり、今年になってとうとうティーチャートレーニングに参加することが叶ったのだ。
というわけで、今、ものすごくホームシックだけど、それでも私がサンディエゴにいる理由は、サンディエゴで始めてしまったティーチャートレーニングを修了したいからという一心である。
いや、もちろん、現実的には家族がいるからサンディエゴに残る理由は他にもあるのだが、ヨガがなければ、家族ともども日本に帰国して過ごす将来を考えてもいいのではないかと夫に提案しかねないほど、今、私は日本が恋しい…。
*
ここまで書いて頭の整理がされてきたが、私は日本が恋しいというより、サンディエゴに飽きたのかもしれない。
せっかくサンディエゴに根付いてきたなぁと実感していたのに、根付いた途端に飽きたとは、我ながらけっこうな根無草である。
でも、振り返ってみると、大人になって実家を出てからは、一つの土地に9年も続けて住んだことがなかった。
だから、すっかり忘れていただけで、本来は根っからの根無草なのかもしれない。
根がないのに根っからのっていうのもなんだが、私はそもそも、ひとところに落ち着いて住みたい気持ちが、そんなにないのかもしれない。
それはそれで恐ろしい本音に気づいてしまった。
だって、家族もいて、犬もいて、気づいたからといって、「じゃあ引っ越そう」なんて身軽に動けないじゃんか。
でも、身軽に動けない自分が歯痒くもある。
いつからこんなに身軽でなくなったのだろう。
20代30代の私なら、住む場所を変えることは洋服のテイストを変えるくらい簡単だったのに。
これはもしや、ホームシックではなく、中年の危機、ミッドライフクライシスかもしれない。
私は40代も後半になってまた再び、自分はこの先、どんな場所で、どんなふうに暮らしていきたいのか、改めて考え直しているのだった。

2.8.2023
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
ホームシックは突然に

年末から年始にかけて、カリフォルニアに住んでいることを忘れるくらい雨が続いた。
クリスマスも、大晦日も、正月も降り続けた雨は、松の内が明けてもまだぐずぐずと居残って、ようやくサンディエゴらしい太陽と再会できたのは1月に入って3週間が経ってからだった。
例年であれば、年末年始のお休みの間、夫とサーフィン三昧としけこむのだが、当然、今年はできなかった。
かわりに、寒い我が家でブランケットにくるまり、ひたすら日本のYouTubeを見続けた。
わびしいと言えば、わびしい。
わずかな救いは、日本食レストランで買った豪華なおせちがあったこと、YouTubeを映し出すテレビ画面が75インチと(無駄に)特大であること。
でも、そのささやかな救いも、日本からかかってきた父母からのLINE通話で吹っ飛ばされた。
向こうは弟夫婦と、可愛らしい姪っ子と一堂に介して、母の手作りのおせちをつまながら、おいしそうな日本酒を飲んでいる。
言わずもがな楽しそうだ。
しかも、正月早々、あまりに暖かいので、布団を干した、と言う。
元日の夜から干したばかりの布団にくるまって眠れるって、何それ、最高じゃん。
それが叶わぬ遠い場所にいることが、なんだか、寂しく、なんなら、悔しい。
いつもなら「こちらもサーフィン三昧で楽しんでいますよ」と言い返せるのに、今回は言えない。
そこで気づいた。
私は、どこかで、サンディエゴにいることが自分にとって最高の選択なのだということを自分(と周囲)に言い聞かせていたいんだ、と。
「いい暮らしをしているじゃん」と自分(と周囲)に言い聞かせるための強力なファクターが、お天気の良さとサーフィンであるのに、それがなくなると途端にここに好んで住んでいる理由が見えなくなる。
そして、ホームシックに襲われる。

1ヶ月にもおよぶ鬱々とした長雨が過ぎ去ると同時に、日本から友人Mさんがやってきた。
もともとは夫の友人であるMさんがカリフォルニアに来るのは実に4年ぶり。
そのタイミングを待っていたかのように、ちょうどいいサイズの波がサンディエゴに届いて、我々夫婦はMさんと共にようやく2023年の初乗りを果たすことができた。
サーフィンをした翌日は、海沿いにある自然保護地区、「トーリーパインズ」にハイキングに出かけた。
ここはとにかく風光明媚で、断崖絶壁から海を見下ろす景色が見もの。
ハイキングコースはその絶景の中を歩いて、最後はビーチまで下りることもできる。
Mさんは、歩きながら、「いいねぇ。やっぱり、カリフォルニアはいいねぇ」と何度も言った。
私はその度、「でしょう。でしょう」と答え、心の中で「そんなところに住めている私はラッキーだ」と自らに言い聞かせた。
一時間くらい歩き続けただろうか?
汗をかいて車に戻って帰路を目指す頃には、私のホームシックはスッと消えていた。

日本を出て何年経ってもホームシックは不意に、不定期に、やってくる。
それでも9年も経つと、さすがに対処は得意になった。
ホームシックというのは、元カレみたいなもので、距離ができたからこそ美しいところばかり思い出してしまうけれど、実際には嫌だったところもうんとあるのだ。
要は、何らかの理由で今に満足できない時、昔の良かったところだけを引っ張り出して懐かしがりたいのだ。
だから、ホームシックになったら抗わず、ただ「懐かしいなぁ」「楽しかったなぁ」と、飴玉を味わうような気持ちでつかのまの甘味を徹底的に味わうくらいが、むしろいい。
やがてその甘味にも飽きるし、飽きる頃には目の前にもまた違った甘味があったことをちゃんと思い出せるから。
とはいえ、できれば2023年は、過去の甘味よりも、今ここの甘味をたくさん味わいたいなぁ。
できるかな? いや、できるようにする、かな?
11.7.2022
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
パドレスに染まった秋

この10月のサンディエゴはパドレス一色だった。
メジャーリーグベースボールに興味がない方にはどうでもいい話と思うが、我がサンディエゴの野球チーム、サンディエゴパドレスが、リーグ優勝を争うポストシーズンへの進出を決めたのだ。
ポストシーズン進出といっても、これがまた「ワイルドカード」という、簡単に言うと「ぎりぎり進出」だったので、サンディエゴ市民たちは最初はおとなしかった。
「ポストシーズン進出は嬉しいけど、初戦で負けてしまうかもしれないし、あまり期待はしないでおこう」といった空気がムンムンしていた。
ところが、初戦でニューヨークメッツを下して二戦目に進んだあたりから、パドレスファンたちは色めき立ち始めた。
もしかしたら行けるんでないか!? そんな雰囲気がファンの間で漂い始めたのだ。
わかりやすかったのは、パドレスの帽子やTシャツを来た人に出会う確率が激増したことだ。
パドレスのステッカーをつけている車を見る機会も増えたし、ご近所さんの家に掲げられている国旗がパドレスの旗に変わったりもしていた。
顔見知りはもちろんのこと、会ったことがない人でも、パドレスのグッズを身につけていたら、「Go Padres!」と声を掛け合ればたいていノリノリの返事が返ってきた。
スポーツっていいなぁ、と久しぶりに実感した。
市民の興奮は、ポストシーズンの第二戦目、ロサンゼルスドジャースとの対戦でマックスとなった。
リーグ優勝候補の本命、ドジャースに、サンディエゴが勝ったのだ。
うちはテレビがない、というか、テレビはあるのだけど視聴契約をしていないため野球中継が見られないので、試合がある日はスポーツバーに繰り出して観戦していたのだが、その場にいる誰もがパドレスを応援しているので、勝利が決まった瞬間のバーはまるでライブハウスのような一体感に包まれて、すごく楽しかった。
なんだかこの感覚久しぶりだなぁ…と感じてから、そりゃそうだ、と気づいた。コロナパンデミックでこの数年、こんなふうに人が集まって騒ぐってことがなかったものね。
そう考えると、パドレスのプレーオフ進出で街がこんなにも盛り上がったのは、もちろんシンプルに地元チームを応援したいという気持ちが動機であろうけれども、長引いたコロナ禍の鬱憤を晴らすような意味合いもあったのかもしれない。
残念ながらパドレスはドジャースの次の対戦相手、フィラデルフィアフィリーズに負けてしまって、リーグ優勝はならず、ワールドシリーズには進めなかった。
ただ、私は、試合のたびに毎度スポーツバーに繰り出すことや、一つ一つのプレーに本気でハラハラドキドキすることにやや疲れてきていたので、今年はもうこれで十分、とちょっとホッとしたのも正直なところだ。

それにしても、お祭りのような10月であった。
日本にいた頃は、関東にいたせいか、こんなふうに一つの野球チームで地元全体が盛り上がるということを経験したことがなかった。
そもそも我が家からして、父親は巨人ファン、東海出身の母はドラゴンズファン、兄はヤクルトファンとバラバラだったし、いろんな地方から人が集まっている東京では、それは不自然なことではなかった。
さらに言えば、東京を本拠地とするチームは、巨人、ヤクルト、日ハム(当時)と複数あって、東京にいるからどこファンであるという考えも持っていなかった。
けれど、サンディエゴにいると、基本パドレスファンだという前提で会話が始まる。
これが、本当に面白かった。
今のところ引っ越す予定は全くないけれど、もし私がシアトルに引っ越したら、きっと、私はパドレスのことを昔の恋人のように懐かしく思いながらもシアトルマリナーズを応援する気がする。
少なくともそれがファンに求められている姿勢というふうに感じてしまう。
そう考えていくと、縁ある地元チームを応援するのって、結婚と似ているような気もしてきた。
何がって、何かがずれていたら私はシアトルにいたかもしれず、そしたら結婚相手はマリナーズになったろうけど、たまたまサンディエゴにいたからパドレスだったってところ。
たまたまではあるけれど、でも、応援すると決めたからには本気で応援するってところも。
この結婚、もとい、ファンであることの本気度を表明するためにも、いよいよテレビの野球中継の視聴契約を真剣に検討する時が来たかもしれない。

10.7.2022
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
オンスとパウンドの壁を越えた日

アメリカに移住して8年、いまだに私が理解できていないのがアメリカ独特の単位だ。
長さの単位、フィート(ft)に関しては、「1フィートは大人の大きめの足のサイズ(だいたい30cm)と覚えるといい」と移住の初期に誰かが教えてくれ、すぐ感覚に落とし込むことができたが、それだけ。
そもそも日本で育った私は100、1000という単位で区切ることに馴染みすぎているので、1フィートの12分の1が1インチ(in)と言われても、「なんで10で割らないで12で割るのか?」というところで思考が停止してしまう。
もっと苦手なのは、重さと体積の単位。
こちらの日常生活で一番よく出会うのはパウンドで、1パウンドはだいたい450グラムというところまでは理解できているが、パウンド(Pounds)の単位記号はなぜか「lb」なので、その表記を見てすぐに「パウンド」という音が出てこないのが難だ。
しかも、重さには他にオンス(oz)という単位があって、パウンドでなくオンスで表記されていると咄嗟にグラムに換算することができない。
そこに体積の単位、ガロン(gal)まで加わると、もう何が何だか…。
もちろん、7年も暮らしているので、16オンス(oz)は大体グランデサイズのカップ一杯だとか、私の車はガソリンを満タンにするとだいたい13ガロン(gal)入るとか、生活の上では困らない程度の知恵はついた。
ただ、16オンスは何グラムか? 13ガロンは何リットルか? 換算せよと言われたらわからない。
たまに、換算した数値がパッケージに記載されている商品もあって、それは本当にありがたい。
私には子どもがおらず、子どもの学校の宿題を手伝う必要がない(=アメリカの算数に触れる機会がない)ので、きっとこのまま、単位に関してはなんとなくぼんやりしたまま暮らしていくのだとどこかで思っていた。
ところがである。

この秋から、私は、アダルトスクールに通うことになった。
アダルトスクールというのは、アメリカ政府が提供する公立の教育機関で、18才以上の米国の住人には誰でも門戸が開かれている。
私は、英語力がもう少しほしくてアダルトスクールに入学申し込みをしたのだが、テストを受けたところ、英語を母国語としない人たちのための英語プログラム(ESL/English as a Second Language)で学ぶレベルよりは上のレベルだと判断されて、ABEというクラスに入ることになった。
ABEとはAdult Basic Education(大人の基礎教育)の略だ。
このクラスには、ESLでアドバンスのレベルには達しているとはいえまだ自身の英語力を磨く必要があると考えている人、大学などアメリカの高等教育機関への進学を目指していたり、アメリカでも母国と同じレベルのキャリアを形成したいなどの理由で、その土台となる知識・スキルを身につけたい人が主に通っている。
私はそのアダルトスクールのABEのクラスで、先日、ついにパウンドとオンスを学ぶことになった。
そして、初めて知った。
1パウンドは16オンスなんですって、奥さん!
っていうか、それさえ知らずに8年暮らしてきたって、それはそれですごいけど。
クラスでは、パウンドとオンスの計算をしただけでなく、パウンドとオンスが出てくる、アメリカの小学校5年生くらいまでの算数の文章問題も解いた。
何に感激したって、思ったより簡単に解けたことだ。
ちゃんと教えてくれる人がいれば、私だってできる!
いやいや、小学校レベルの算数だから解けて当然といえば当然なんだけど、私はそもそも数字と単位が苦手なうえに、英語は母語じゃないっていうことで、アメリカで算数や単位について考えることには大きな心理的ブロックが立ちはだかっていたのだ。
そのブロックが外れた。
渡米8年、ついにパウンドとオンスの壁を越えた!!!
ちょっとした、いや、結構な達成感で満たされたが、もう一人の冷静な自分はささやいている。
「次はマイル(Miles)の壁があるぞ。ヤード(Yards)の壁もまだある。分数は英語で何と言うのだ? 分子は? 分母は? 小数点は?」
…ひと壁越えて、また、ひと壁。
こうして移民暮らしは続いていくのだ。

9.5.2022
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
ラブ・ニッポン!!!

今思い出しても、なぜあの時、一言言えなかったのかなぁ、と悔しくなる出来事がある。
今から数年前、日本人4人と、アメリカ人1人で会食をしていた時のこと。
日本人は細かすぎるところがあるよね、という話になって、日本人である私たちも「わかるわかる」と頷いたところ、その場で唯一のアメリカ人であった男性Kさんが、こんな話題を出した。
「自分の会社で作っている製品を日本でも作ることになって、日本の人が視察にきたのだけど、『その色の配合を教えてくれ』って言うんだ。それで、僕は『そんなのないよ』って言ったんだ。だって、見た目、その色になれば細かいことはどうでもいいからさ」
要は、視察にきた人は、印刷で言うところのCMYKの要領で、何色を何パーセント配合したのが正規の色かを教えてくれ、と聞いたわけだ。
しかし、Kさんサイドは、見た目がその色に仕上がればいいから、そもそも色に対して厳密なルールなどなかった。
それで、色を正確に出したいから配合を教えてくれと言うのがいかにも日本人らしくきっちりしている(細かい)、と感じた例としてKさんはこの話を出したわけだ。
もちろん、どちらかというと好ましくない、ネガティブなニュアンスで。
私は、その時は少し酔っていたこともあって、「あは、そうそう、そういう細かさ、日本人ぽいのよね」って一緒に笑った。
でも、翌朝、目が覚めて、そのシーンを思い出したら、すごくモヤモヤした。
なんで、私は調子を合わせて笑うだけで、一言言えなかったのだろう。
「でも、そのくらい細かいからこそ、日本のモノ作りは世界に誇るレベルにあるのだよ」って。
だって、見た目でその色になればいいっていう作り方だと、作る人によって色にムラが出ちゃう。
もちろん、性能が同じなら色にムラがあってもいいという考えもあっていいわけだけど、色も含めて細部まで心を注いで作るっていうのが日本のモノ作りの精神の根底にはあって、だからこそ、メイドインジャパン製品が世界で信頼されるものであり続けているんだ。
別にKさんと言い争いたかったわけじゃないけど、ただ、自国についての揶揄を一緒になって笑うばかりで、細かいことの良い面もあるんだよって言えなかった自分が悔しかった。
日本人は細かいってことと同じくらい、自国のことを誇らしく主張することが苦手であるということをアメリカで暮らして痛感しているけれど、まさに自分がそうだと、悔しかったのだ。

…というような数年前の出来事を今、ここで出したのには理由があって、私はこの夏、久しぶりに日本に帰国して、日本のモノ作りの素晴らしさを再認識して戻ってきたのだ。
まずびっくりしたのがプチプライスのコスメのクオリティーの高さ。
人種のるつぼであるアメリカと違って、日本人ターゲットの製品は日本人の肌質、肌色だけ追求すればいいという点で利があるのかもしれないが、そこを差し引いてもなお感動レベル。
もう一つ、もし日本に住み続けていたらその魅力に気づかないでいたままだったのではないかと思うのが、手拭いと風呂敷だ。
手拭い、端っこが縫われていないのは、すぐ乾くように、というのと、水切れをよくすることで清潔を保つためだって、知ってました?
で、たとえば鼻緒が切れた時や包帯が必要になった時なんかに手でビリって切ってすぐ使えるようにもなっていて、しかも切った後はそのままにしてもほつれはさほど広がらないって、すごい。
もっと感動するのは風呂敷で、そもそもただの一枚の布をいろいろ折って、さまざまに使うという発想が超クリエイティブ!
私はサーフィンを愛好しているのだが、ビーチで着替える時に下に敷くと便利なマットも、サーフィン後の濡れたウエットスーツを入れるのに便利な袋も、大判の風呂敷が一枚あればこと足りるということに気づいて、これ、ぜひ世界のサーフシーンに「エコサーフ」として啓蒙したいわ、という気持ちになった。
いや、世界に啓蒙はさすがに無理としても、ここカリフォルニアの海で、手拭いや風呂敷を堂々と使って、「なにそれ?」って聞かれた時、「これすごいのよ!ビバ、ニッポンよ!」って誇りを持って伝えたいと思うようになった。
ということで、この夏、私にとって最大の出来事は、手拭いと風呂敷への愛が勃発したことです(笑)。
日本人であることにもっと誇りを持とう、日本文化の素晴らしさをもっと伝えていこう、そう思うようになった私のこれからのアメリカ生活にどんな変化が起こるのか、ちょっとワクワクもしている。

5.5.2022
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
体験しよう、旅しよう

ずいぶん前に読んだ『神との対話』シリーズ3部作(サンマーク出版)を読み返している。
前回読んだとき、すごく感動した記憶があるのだが、今回再び読んでみて、すごく感動したはずの内容のほとんどを覚えていなかったことに気づいた。
それからもうひとつ気づいたことがある。
それは、この本がアメリカで書かれたものであるために、アメリカで暮らしている今の私だから理解しやすい箇所が多々あることだ。
たとえば、『神との対話2』では「世界政府」について言及されている。
世界政府の是非については、私はまだ自分の意見を持ち合わせるほどの理解はできていないのだが、本の中には「アメリカ合衆国の成り立ちは、世界政府の基本に近い」というようなことが書かれていて、これには「なるほど!」とかなり合点がいった。
というのも、アメリカは「合衆国」であるってことが、アメリカに住んでみてはじめて体感として理解できたからである。
日本にいるとき、私は、アメリカ合衆国っていうのが国で、州というのが都道府県で、その下に市町村がある、と思っていた。
でも、実際には、アメリカでは、州というのがひとつひとつの国のようなもので、その下にある郡(カウンティー)がむしろ都道府県に近く、その下に市町村があるのだと、住んでみてわかった。
で、アメリカ合衆国はまさに、その州(States)という国々が、Unite(合体)した連邦国家なんだと。
いやいや、アメリカ合衆国は連邦国家であるって…そんなの基本的な教養でしょうと自分でも突っ込みたいけど、連邦国家というものに実際に住んでみて、その仕組みを生活で体感するまでは、連邦国家ってどういうことなのか、やっぱりきちんとは理解していなかったと認めざるをえない。
ちなみに、連邦国家ってこういうことかと、私が顕著に体感したのは、コロナ禍における各州の対応だった。
アメリカ連邦政府としてはマスク着用を義務付けると発表したとしても、州によっては「うちはマスクは義務化しません」というところもあったし、なんなら州が「マスクは義務」としても、その下の郡は「うちは義務ではなくこういうルールにします」なんてことが普通に行われていて、日本からの移民の私は「???」だったわけだ。
でも、各州がそれぞれ国のような存在で、連邦政府はそれを合体させた制度としての国家であると考えると、各州がそれぞれ独自のスタンスを取る(そしてそれが許される)ことも納得がいく。
よく考えたら、いや、よく考えなくても、そもそも税率だって州によって違うし、結婚やら離婚やら運転免許取得にまつわる手続きや法律だって州によってかなり違う。
車の車両登録だって州ごとに行われる。

まあ、そんなふうにして、独立した50州を結束させたのがアメリカが合衆国だと考えると、世界の国々がそれぞれの個性を保ったまま結束する「世界政府」という考えは決してトンチンカンな話というわけでもなさそうだと思えたわけだ。
でも、じゃあ、アメリカ合衆国はうまくいっていると言えるの? 似たような制度であるEUはうまくいっていると言えるの? と、問われると、ある観点から見ればうまくいっているだろうし、違う観点から見ればうまくいっていないだろうし、なんだか難しいなぁと、誰にも問われていないのに私は一人で頭を悩ませている。
ただひとつ確信しているのは、いろんなことを体験するほど、自分の考える物事の枠というのは広くなって、そのぶん出てくるアイデアにも広がりが出るはずだってこと。
たとえば連邦国家というのを体験したことで、それは私の血肉になった。
そうして私が血肉にする物事が多いほど、私というアイデアを出す土壌は豊かになるはずで、土壌が豊かであれば自然に豊かなアイデアが芽生えるはず、なのだ。
で、自身の血肉になるようないろんな体験を手っ取り早くできるのが異文化体験で、異文化体験を手っ取り早くできるのが旅だ。
良くも悪くもアメリカに慣れてきた私は、今、新しい体験を得るための旅を欲している。
もう40代も後半なんだけど、それでも、自分から出てくるアイデアが小さくまとまらないようにまだもうちょっとあがきたい。
少なくともアメリカではコロナ禍はすっかり落ち着いたので、旅をするぞ。
州が国だと考えたらカリフォルニアを出るだけでも異文化体験になるはずだから、まずはアメリカ国内の旅行でもいい、とにかく新しい体験をしよう、旅をしよう。

3.6.2022
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
風邪一過

風邪を引いて寝込んだ。
もちろんまずは流行のウイルスを疑って、すぐに検査をしたけれど、陰性。
3日まるっと寝てもまだ回復しなかったので、念のためまた検査をしたけれど、それも陰性。
アメリカでは一世帯につき4回分の簡易検査キットが無料配布されていて、今回使ったのはそれなので、精度がどうかは気になるところだが、さすがに2回も陰性だったし、同居する夫はピンピンしているので、やっぱり陰性だったと思う。
が、しかし、結果的には4日寝込んだ。
こんなに寝込むのは数年ぶりだ。
5日目からは起き上がって日常生活を再開しているが、まだ万全とは言えない。
いやはや、体調不良はやっぱり勘弁…だけど、太陽の出ない雨の日もまた違う視点で見れば大切であるように、より広い視界で捉えたら、時折こうして心身を強制的にスローダウンさせられる時間があることは大事なんだろうなぁとも思う。
あくまで「時折」であってほしいけど、風邪なんかは、「当たり前の日常を当たり前と思っちゃいけない」と思い出させてくれるちょうどいい機会と言っていいかもしれない。
心身が弱って、「これまで当たり前と思っていたことが当たり前じゃないとしたら」という前提でいろいろなことを考えられるようになるので、良くも悪くもさまざまなものが削ぎ落とされる。
「ああいうこともしたいと思ってたけど、まあ、それの優先順位は低いかな」とか、「ああなりたいと思って、あれこれがんばろうとしていたけど、まあ、ああならなくてもいいか」とか。
ああ、とか、それ、とか、これ、とかばっかりで、あれですけど。

で、今回のそのスローダウンの時間に、私はこの連載についてもいろいろ考えた。
私は年齢もあってか、カルチャーのトレンドにはもうあまり興味がないし、それについて書きたいとも思わない。
アメリカ西海岸という、日本とは異なる文化で暮らすことの面白さについても、8年という中途半端な在米歴になると、さすがに当初のフレッシュな感覚はなくなっているし、なんならアメリカ的な考えにもちょっと理解が深まったりしてしまっている。
そんな私が、毎回この連載コラムで一体何を書けばいいのだろうと、実は密かに頭を悩ませていた。
でも、風邪のスローダウン期間中に、ふと気づいた。
っていうか、アメリカ西海岸代表としてアメリカ西海岸らしい暮らしの話を書かなきゃって、自分が勝手に思い込んでいただけでは?
そもそもコーナー名がDaysだもの、私のいつものDaysを書けばいいじゃん?
アメリカ西海岸の暮らしをそんなに意識しなくても、そこで暮らしている私が書くから、何を書いてもどこかにきっとその香りは出るだろう。
それで十分なんじゃない?
いや、もし十分じゃなくて、読んでくださる皆さんがアメリカ西海岸のライフスタイル情報をこの連載に求めているとしても、「ごめんなさい、私はそれは書けないです」で、いいじゃん?
開き直りといえば開き直り。
でも、自分的には原点回帰。
というわけで、今回掲載した写真は、そんな清々しい気分の"風邪一過”の週末に、私の目に飛び込んできた美しく愛おしい日常の一コマ一コマ。
犬たちと出かける近所のトレイル(自然保護地区)、夫と散歩した公園、その公園近くのアメリカンダイナーで食べた土曜日のランチ…。
そんな日々の小さな幸せに目を向けて再びフレッシュな気持ちで執筆するぞ、と意気込んだところに、ウクライナのニュースが飛び込んできて心が痛み、自分の小ささ、無力さを思い知ってうちひしがれそうだけど、まずはそこから目をそらさない、知らないふりしない、ということが自分が日々の中でできることのひとつだ、と思いながらこれを書いた。

2.5.2022
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
歩いて、見る

犬を飼ってよかったと思うことはたくさんあるが、そのうちのひとつが、ご近所さんとの交流が増えたことだ。
ルナのお父さんお母さん、ルーシーとルーカスのお母さん、ポーとモーのお父さん、シリとダフィーのお母さんといった犬友達もできたし、犬を散歩させる時間に必ずウォーキングをしている人たち(中国系移民のサニーさんやリサさん)とも挨拶や世間話をするようになった。
今年で、アメリカ、カリフォルニアに越してきて8年。
確定申告をする、病院に行く、サーフクラブに所属する、といった「アメリカに来て初」のことをする度に、少しずつ根を張ってきた感覚があったが、犬を通じてご近所付き合いをするようになったこの2年ほどで、ようやく「自分の家はここなのだ」と、しっかりとこの地に根付けたように感じている。

近所を散歩するようになったおかげで、物をもらったり、拾ったりすることも増えた。
一番多いのは、庭先で実ったフルーツのおすそわけだ。
レモン、ライム、オレンジあたりが定番だが、柿やビワ、ザクロなんかをもらうこともある。
歩いている私たちを見つけて、「ちょっと待って!」と呼び止めて渡してくれるケースもあれば、「FREE(無料)」と書かれたダンボールの中にフルーツが入っていて、勝手に持っていっていいようにしてある場合もある。
勝手に持っていっていいといえば、レンガやら額縁やら、時には電球やら工具やらがドライブウェイ(ガレージと道路の間の道)に、やはり「FREE」と書かれて置かれていることも多い。
ガレージの中の不用品を売る、いわゆるガレージセールの小規模バージョン。
我々は犬の散歩中に見つけたそのプチガレージセールで、裏庭の整備に使うレンガを4つ調達したほか、1年は持つんじゃないかという量の電球も入手した。
最近では、裸のまま飾っていた絵にちょうどいい額縁も手に入れた。
改めて言うまでもないことだけど、このようなフルーツのおすそわけやガレージセールは以前から行われていたはずだ。
ただ、車社会のカリフォルニアでは、家の玄関を出たらすぐに車に乗ってしまうので、道端にあるその一画に気づくことがなかった。
犬を飼って、近所をのんびり歩くようになったおかげで、見えてきたものなのだ。
そんなふうに、存在はしているのに、単に自分が気づかないがために存在していないことになっていることが、他にもたくさんある気がする。
じつは昨年末で会社勤めを辞めて、フリーランスになった。
収入が不安定になるなど、不安はあるけれど、時間をマイペースに使えるようになったことはうれしいことで、今年はこれまでの全力疾走から競歩くらいまでに少しペースを落としたいと思っている。
そして、今まで走ることに必死で見えていなかった道端の美しい物事たちにもっと気づけるようでありたい。歩いて、見る、のだ。

12.5.2021
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
カフェラテだって。

コーヒーにハマった。
もともとコーヒーは好きだったのだが、今、ハマっているのはカフェラテだ。
これまで、カフェラテは、コーヒーを知らない人が飲む物だと思っていた。
つまり、邪道だと。
なぜそんなことを思っていたのか、理由はわからないが、過去の無礼な自分を謝りたい。
今さら私が言うまでもないことだが、カフェラテはちゃんと味わってみるとそうとう奥が深い。
おかげで最近はサンディエゴ中のいわゆる「サードウェーブ」とされるコーヒーショップをめぐることがちょっとした楽しみになってきている。
もちろん、目当てはカフェラテ、である。

「サードウェーブ」コーヒーは、日本でも流行ったのでご存知の方も多いと思うが、アメリカで2000年ごろから台頭してきたコーヒーの第3の流行のことである。
その前の第2の流行は、スタバなどに代表される、いわゆる「シアトル系」と呼ばれる深煎りのコーヒーだとされている。
それを経ての第3の流行は、Farm to Cupといって農場からカップに注がれるまでの豆の経路がクリアであることが大きな特徴である。
誰がどこで作ったどんな豆かがわかるということは、その豆の味を大事にしようってことにもつながって、基本、豆をブレンドはせずシングルで味わうことが多い。
少なくとも私はそういう理解をしていて、だから、そういったサードウェーブの店でカフェラテを頼むのは邪道とどこかで思っていた。
それで、ドリップコーヒーばっかり飲んでいたわけだが、正直言うと、シングルの豆って飲みやすいようにブレンドされていないから、全然好みじゃない味に出会うことが結構な確率であった。
結果、だんだん、コーヒー屋から足が遠のいてしまった。
私は自分をコーヒー好きと勘違いしていただけで、きっと本当は好きじゃなかったんだ、とさえ思うようになった。
だって、世の中の人がおいしいと思っている「サードウェーブ」コーヒーを、私はおいしいと感じないんだから、と。
ところが、ある時、自分の中で勝手に禁じていたカフェラテを解禁したら、これがめっぽうおいしい。
それで、これは研究する価値があるぞといろいろなサードウェーブの店で飲むようになり、一言でカフェラテといっても店によって味わいが全然違うことに気づいて、ハマったわけである。
これがシングルのコーヒーの味となると、もちろん焙煎やいれ方によって風味が違ってくるとはいえ基本的にはその豆そのものが好みかそうじゃないかという話で終わる。
でも、カフェラテの場合は、それぞれの店が「うちはこれがベストなカフェラテと思っている」という豆なり牛乳なり配合なりで作っているはずなので、自分の好き嫌いを判断するだけでなく、「なるほど、こうきたか」と考えられるのが楽しい。
たとえば大中小とサイズ違いを用意していない店がある。
これはきっと、サイズを変えることでカフェラテを構成するエスプレッソとミルクの比率が変わってしまい、サイズによってはベストな味を出せないからではないか。
聞いたわけじゃないからわからないけど、そんな心意気を感じる。
また、明らかに酸味が強い豆を使っている店もあれば、苦味の方が強い印象の店もあるし、エスプレッソの味はかなり控えめでミルクのまろやかさが全面に押し出されているようなカフェラテを出す店もある。
そんなふうに、それぞれのカフェラテに、その店の個性みたいなものを感じるようになって、がぜん楽しくなってきた。
これからは「コーヒー好き」じゃなくて、「カフェラテ好き」と堂々と言おうではないか。

ところで、コーヒー屋でカフェラテを注文するというのは、おそらくかなり難易度の低い英会話である。
にもかかわらず、先日、ホットティーを出されてしまってがっくりした。
ラテを注文すると必ず「ホットかアイスか」と聞かれるので「ホットラテ」と先手を打ったつもりが仇となった。
そういう時、数年前なら何も言わずに出てきたホットティーを飲んだところだが、ここ数年は、「いやいや、頼んだのはホットのカフェラテだったんですよ」とちゃんと言って取り替えてもらえるようになった。
それでも、夫に言わせると私はまだまだ控えめで、特に英語での会話となると相手に押し切られて「それでいい」と笑って言ってしまう傾向にあるのが歯がゆいそうで。
2022年は、自分のほしいもの、したいことを、ちゃんと伝える、という超基本的なところを今一度がんばってみようとカフェラテを飲みながら決めた。
10.5.2021
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
さっくり女子キャンプ

女友達とさっくり週末キャンプに出かけた。
元同僚であるその女友達は、日本人で、年齢は少し年下だけど、ほぼ同年代と言っていい。
アメリカにいる日本人女性は、アメリカ人と結婚してこちらに住んでいるか、もしくは旦那さんの仕事で赴任して来ているか、というパターンが多い中で、彼女はアメリカに住みたくて仕事を見つけて単身渡米してきた人だ。
今でこそ再婚した私も、渡米した時は彼女と同じ境遇、アメリカに身寄りのない者同士だった。
おかげで、いろいろな話がしやすく、アメリカに来る前は東京の同じビル内で働いていたことがある(もちろんその時は知り合いではなかったけれど)という親近感もあって、すぐに打ち解けた。
彼女には、他にも仲良くしている元同僚がたくさんいるのだが、それは一重に、彼女がマメで、定期的にお出かけの計画を立てては声をかけているからであろう。
私は予定を立てて友達を誘うということがどうにも得意でないのだが、彼女が誘ってくれるおかげで、自分一人だったらしなかったような体験をたくさんさせてもらえている。
「さっくり女子キャンプ」もその一つだ。

彼女とする「さっくり女子キャンプ」の何がいいって、準備に全く気負いがいらないことだ。
キャンプ飯への情熱もたいしてないので、食べ物を作るとしても毎回、鍋とか本当に簡単なもの。
今回にいたっては簡単な料理さえせず、キャンプ場から一番近い町で調達したピザとフルーツを夕食にした。
互いにお酒は得意でないので、乾杯はKombucha。
朝はお湯を沸かしてコーヒー。
山火事の危険を回避するために、カリフォルニアの多くのキャンプ場ではこの時期、焚き火をすることが禁止されているため、キャンプの醍醐味であるキャンプファイヤーもなかった。
じゃあ、何を楽しみに行くかというと、ただ喋ること。
喋るだけならキャンプじゃなくてもいいじゃんと思われるかもしれない。
けど、いやいや、自然の中で、時計も携帯も気にせずにお喋りに興じる、というところがいいのだ。
前述したように焚き火ができなかったのは残念だけど(人は焚き火を見ながら話すと心の奥の言葉が出てきやすい気がするので)、それでもやっぱり大自然の中で、ミニマルな装備でいると、都会で話すときとはまた違う話ができる。
いや、同じ話でも、もう少し深く本質的なところまで話せる、というのが正確かもしれない。

今回、私たちが訪れたのは、Idyllwildという、山の中のエリア。
サンディエゴからは北東に車を走らせて約2時間で着く。
道中は、砂漠あり、岩場あり、牧場あり、と景色が次々に変化していき、ドライブそのものも楽しい。
友達はロサンゼルスから来たので、行き帰りは別々。
こんなふうに現地集合・現地解散ができる自立した感じも、私には心地いい。
森の中で歯を磨きながらキツツキを見つけてはしゃいだり、隣でキャンプを張っている家族から手作りの焼きたてのシナモンロールをおすそ分けされたり、遠くから聞こえる風の音に耳を澄ませたり、ひとつひとつはなんてことないことなのに、楽しかった。
本当は普段から目にしたり、耳にしたりしているはずなのに、意識には上がってきていない素敵なことが世界にはたくさんある。
そんなことを、キャンプすると思い出させてもらえる。
そして、そんなキャンプを、「お茶しない?」の気楽さでできるのがカリフォルニアのいいところと思う。
何より、遠い異国にいながら、共通の興味を持つ友人と出会うことができ、こうしていろいろ引っ張り出してくれることがありがたい。
次は自分で計画を立てて、私から彼女を誘ってみよう。

9.5.2021
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
ガラガラヘビ

田舎に住みたい!
時々、そんな思いが強くなる。
この8月はそうだった。
というのも、どこに行っても人、人、人で。
自宅待機例などが出ていて、おおっぴらに外出ができなかった去年に比べたら、日常が戻ってきたことはいいことだ、なんて思えたのは最初だけ。
海に行っても人でいっぱい。
外食に出かけても人でいっぱい。
人混みが苦手な私は、早々に根をあげてしまった。
もっと田舎に住みたい!
いや、私の住んでいるサンディエゴも十分に田舎ではある。
しかも我が家の裏庭はフェンスを隔てて裏山に繋がっていて、その裏山は広大な自然保護区の一部。
おかげで、フェンスをすり抜けて野うさぎが庭に来ることは日常だし、フェンスの向こうをコヨーテが歩いているのもよく見る。
一度だけだけどボブキャットという、日本語で言うなら山猫?を見たこともある。
ちょっと車を走らせれば写真のような広大な自然が広がってもいる。
でも、そういうところには住居はない。
だから、今、自分が住んでいる環境は私にとっては田舎感が足りない。
動物が多いのはいい。
でも人が少ないともっといい。
そう愚痴っていたら、「人がいないところはいないところで、蛇がいっぱいいたりするよ」と夫になだめられた。
わかる。
でも、8月の私は人に疲れ過ぎていて、蛇がいてもいいから人がいない方がいいと思っていた。

ところが、そんな会話をしたそれこそを翌日に、我が家に蛇がきた。
ただの蛇じゃない。猛毒を持つガラガラヘビ。
それがなんと我が家のガレージでトグロを巻いていたのだ。
オーマイガー!
私も夫もここで生まれ育っていないのでガラガラヘビの特徴がわからず、自力で外に出すことがどの程度危険なのかわからないという軟弱者っぷり。
ご近所さんに頼ろうと外に出てみるも、いつもなら道路で子どもを遊ばせていたり、世間話をしていたりする人たちがその日に限って誰もいない。
ならば自分たちでやるしかないと、ガーデニング用の鋤を夫が持ち出していざガレージに出かけたが、5分もしないうちに戻ってきて、「蛇がいるのがガレージの真ん中過ぎて、うまく逃がせる気がしない」とポツリ。
そう。
我々には殺すという選択はなく、とにかく蛇に家の(ガレージの)外に出てほしいだけなのだ。
が、下手に突っついて出口ではなくガレージの物陰や壁の上の方に逃げてしまったら今以上に厄介なことになる。
さて、どうしたものか。
何かアドバイスをもらえるんじゃないかと思って動物愛護団体に電話をすると、住所を聞かれ、「今からスタッフを派遣するから蛇を見ておいてください」とのこと。
ほどなくして美しい女性スタッフがやってきて、ガラガラガラと激しい威嚇音を出すヘビを道具を使ってささっと捕獲し、蓋つきのバケツに入れて、事件解決。
こんな簡単な作業を自力でやれなかったことを、ちょっと恥ずかしく思う私。
「ガラガラヘビが家に入って来ることは多いのですか?」
聞いてみると、夏場は時々ある、との返事。
「ただ、レスキューを頼まれるのは住宅街が多いわね。山の方に住んでいる人は自力でやっちゃうから」
ああ、やっぱり。
田舎に住みたい!と言っておきながら、家に入ってきたガラガラヘビ一匹に対処できないようでは、まだまだ道のりは長い、とがっくり。
とりあえず蛇をつかむ道具を買おう。

仕事をバリバリとして稼げることよりも、自然の中に放り出されても生きていけることの方に魅力を感じるようになったのは、2011年の東日本大震災の後だったと思う。
いつの間にか忙しい日常に流されて、あの年に感じた、ピュアでプリミティブな生きる力への渇望などすっかり忘れてしまっていたけれど、コロナ禍を経て、また、もっと自然にかえりたくなっている自分がいる。
だからって何をどうすればいいのかわからないけれど、とりあえず蛇をつかむ道具を買うことは、これからどんな生活を目指したいかを定める、一つのシンボリックな決意、という気がしている。
8.2.2021
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
独立記念日2021

7月は嵐のように過ぎていった。
これを書いているのは7月の25日だが、わずか3週間前の7月4日、アメリカ独立記念日のことが数カ月前に感じるほどだ。
なんでこんなに慌ただしいのかといったら、おそらく、6月の半ばから完全に経済が再開されたことが大きい。
飲食店も通常の営業を復活、人が集まるイベントも再開。
昨年の4月から1年近く行動を制限されていて、その制限されている日々が日常になっていたところにかつての日常が戻ってきて、急にギア全開になって、そのスピード感に体も心もまだ追いついていないのだと思う。
だけど、楽しい。
普通に遊べるということを、ものすごくありがたく思えるようになった。

今年の独立記念日は、近所の公園で行われているイベントに足を運んだ。
国家斉唱、祝砲の発射、古き良き時代を再現するダンスのパフォーマンス…シニアやファミリー向けの、スタンダードなイベントといった印象だったが、独立記念日といえばいつも海でサーフィンばかりしていたわたしにはひどく新鮮だった。
例年、独立記念日が近くなると、「これ、誰が着るのかしら?」と不思議に思う、ド派手な星条旗柄のTシャツやパンツなんかがそこらじゅうで売られ始めるのだけど、この日はみんなそういう服を着ていて、誰がじゃなくてみんな着るんだと学んだ。
星条旗柄を着ていない人も赤×青×白でコーディネイトしているか、小物に星条旗柄を忍ばせていたりして、その徹底ぶりに感心してしまった。
アメリカに来てつくづく感じるのが、みんな、祝う時は恥ずかしがらずに思いっきり祝う、ということだ。
その姿勢は、自分は好きだな、と思う。
海にも、独立記念日には何かしら星条旗柄をまとったサーファーが、ハロウィンの時には仮装サーファーが、クリスマスシーズンとなればサンタサーファーが、普通にいる。
思いっきり祝うといえば、この時期は卒業シーズンでもあって、卒業生が家族にいると、車に「XX(名前)、2021年、大学卒業おめでとう!」なんてド派手に書かれていたりする。
もちろん、そのまま町中も走る。
「卒業おめでとう」と書かれた車と、駐車場で隣同士になって、運転手と顔を合わせる機会があれば、「おめでとう」と声をかけたりもする。
もちろん、誰だかは知らないし、また会うことはたぶんない。
でも、そういうの、なんか好きだ。

経済が再開されたカリフォルニアだが、コロナのデルタ株の再流行の兆しがあり、ロサンゼルスなど一部のエリアでは再び屋内ではマスク着用が義務化された。
この先、患者数が増えて医療機関を圧迫するようなことになればまた飲食店や小売店に規制がなされるかもしれないが、そうならないことを願う。
7.2.2021
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
サンディエゴLOVE

パスポートの有効期限が近づいてきたので、更新のためにロサンゼルスのダウンタウンにある日本国総領事館に行ってきた。
サンディエゴから在ロサンゼルス日本国総領事館までは、車で片道2時間(渋滞は必須なので実際にはもっとかかる)、距離にすると205キロ近く。
さすがに気軽には行きにくいため、いつもは年に数回「出張総領事」というのを開催してくれて、領事館でするような手続きをサンディエゴでできるようにしてくれる。ところが、このコロナ禍で出張総領事は中止となった。
カリフォルニア州は6月15日から経済を完全に再開させたので、出張総領事の復活も近いと思うのだが、それを待っている間にパスポートの有効期限の方が先に切れてしまいそうなので、重い腰を上げてロサンゼルスまで行くことにしたのだ。
パスポートの更新は通常なら申請と交付は別々の日になるが、サンディエゴのように遠方から行く場合は申請した同日の午後に交付をしてもらうことができる。
申請を終えてから交付されるまでに4時間ほど時間があったので、ランチも兼ねてダウンタウン巡りをすることにした。
目指したのは、最近すっかり治安が良くなり活気を取り戻していると聞いていたリトルトーキョー。
そう。日本を離れて7年が経っている私がロサンゼルスに求めるのはアメリカっぽさでもカリフォルニアっぽさでもなく、「サンディエゴにはない日本」なのだ。
私は、サンディエゴでは食べられない、手打ちのうどんが食べたかった。

誤解を招くような例え方かもしれないけれど、リトルトーキョーには、日本の田舎を旅しているような面白さがあった。
本物の、今の東京に比べたら何世代も古いような、垢抜けない感じ。
でも、私にはそれがとても懐かしく感じられて、心地良かった。
例えば、昔の食堂には必ずあった、店の前のメニューの模型。
プチプライスの、いわゆるドラッグストアコスメが売られている商品棚。
大きなショッピングモールの上の階にレストランがたくさん並んでいること。
いずれも日頃から「ああ、懐かしいな、恋しいな」などと思っている風景ではないのだが、見たら、「あ、そうだ、日本はこんな感じだった。懐かしい」となる。
折しも暑い日だったので、なんだか、夏休みの子どもに戻ったような気分だった。

渇望していた手打ちうどんを食べ、日本風のシュークリームを食べ、プチ日本旅行気分を満喫して総領事館に戻るその途中で、我々はうっかり、「スキッドロウ」と呼ばれる治安の悪いエリアに足を踏み入れてしまった。
さすがに嗅覚が働いて、「ここは通ったらダメなところ」とすぐにわかり、そのエリアのど真ん中を通ることは避けられたが、それでも路上はゴミだらけ。
その脇は路上生活者のテントがぎっしりといった道を歩く羽目になり、道1本間違えただけでこんなにも街の様子が変わるのかと驚かされた。
不思議なことに、先ほどまで日本を恋しがっていた私は、「ああ、早くサンディエゴに帰りたい」と思った。
私の「ホーム」はどっちなんだろう(笑)。

サンディエゴ在住者がこぞっていうことだが、北のロサンゼルスから5号線を南に走って、サンディエゴ郡に戻ってくると、途端に雰囲気が明るく開放的になる。
ああ、帰って来た、とほっとする。
いつもほぼ毎日海に入ってサーフィンをしているが、どこか遠くに出かけた後はとりわけ海に入りたくなる。
そして海に入ると、しみじみ思う。
私は、サンディエゴが大好き。
時々どうしても食べたくなる手打ちうどんもないし、懐かしい日本の原風景もないけど、今はやっぱりここが私の居場所だ、そう感じている。

6.2.2021
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
自然と人工のあいだに

3月から5月までにかけて期間限定で行われていた「Desert X」という、現代アートの展示プロジェクトに行ってきた。
会場は、パームスプリングスという砂漠の中のオアシス的な街。
パームスプリングスは、ハリウッド黄金期の後半、1950年代にハリウッドスターの別荘地としても知られた街で、建物やインテリアにミッドセンチュリーモダンの雰囲気があって、オシャレでアートな街としても知られる。
いまもスパやゴルフなどを楽しみに南カリフォルニアの海岸沿いに住む人たちが身近な避寒地として訪れる街でもある。
そんなパームスプリングスへは、サンディエゴからは北東に車を走らせて約2時間。
ロサンゼルスからは南東に車を走らせて約2時間。
今回の旅の友はロサンゼルス在住の女友達だったので、パームスプリングスで現地集合して、1泊2日のアート鑑賞の旅を楽しんだ。

Desert Xは、パームスプリングスの街全体を使ったアートの展示会で、鑑賞者、つまり我々は地図を頼りに作品の展示場所を探し、車で乗りつけ、鑑賞して、また次の作品を見に車を走らせる。
地図は、Hubと呼ばれる、このプロジェクトのビジターセンター的なところでもらうことができるが、Desert Xのスマホアプリをダウンロードするのが早い。
Desert Xのアプリには各作品や作家の解説があって、その作品がどこに展示されているかの地図があって、地図からナビに飛ぶことができるので、本当に便利であった。
砂漠という、本来なら生きていくのは簡単でない土地で、スマホアプリを駆使して遊んでいる、そのコントラストがなんだか不思議だった。
それはアート展示にも言えた。
Art(アート)は「芸術」と訳されることが多いけれど、「人為の」という意味もある。
Desert Xは、砂漠という自然を舞台に、人の作った作品が展示されていて、なんというか、作品だけでなくその舞台も含めてアート作品なんだ、ということを強く感じさせられた。
もっといえば、この作品をこの砂漠に展示していること、つまり展示場所がここであるということも含めてアートなんだ、と。
アートをよく知る人ならそんなこと当たり前なのかもしれないけれど、どこでどう展示されるかも含めてアートだという認識が、それまでのわたしにはあまりなかったんだと思う。
おかげで旅の間ずっと、わたしの心は、自然の良さと、自然の一部である人間が作ったものの良さ、ふたつの間のふしぎな空間を漂っていた。
どっちが良いとか、どっちが悪い、ではなく、人のあらゆる営みはそれがどんな形であれ自然の一部であるし、一見、自然と相反するような人工建造物もデジタルテクノロジーも、自然の一部である人間が作ったものという点では大いなる自然の一部で、両者は相反するものではなくて、混じり合ってまた新しい文化ができていくのだなぁと、そんなことを考えていた。

わたしは、どちらかというと、ナチュラリスト志向で、環境問題に関心があり、デジタルよりアナログ、新しいものより古いものを好む。
いまの世の中はいろんなことが過剰な気がして、このままでは世界はどうなってしまうのかと懐古的になることも多い。
けれど、もし自然であることを好むことをナチュラリストというなら、時代の変化という自然に発生していくこともまた自然であるはずで、あらゆる人工物も人間の進化もまた自然といえる。
だとしたら、わたしがやることは、変化していく世界に抵抗したり対抗したりすることではなく、変化していく世界の中で、どうやって美しい世界を実現させていくか、だけだ。
Desert Xの旅を終えて、「自然であること」について自分なりに整理できて、視界が開けたような気持ちになった。
抵抗しないで、対抗しないで、進もう。
いつだって、「いま」をはじまりにできる。
5.2.2021
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
ないものねだり?

2010年、それまで7年ほど暮らしていた東京から湘南に引っ越したとき、いろんなことにカルチャーショックを受けた。
一番驚いたのは、ウエットスーツや水着の人が普通に道にいることだ。
ウエットスーツや水着の人が海沿いの道にいるならわかる。
でも、そうでなく、駅前の商店街にいる。
サーフボードを片手に歩いている人もいれば、サーフボードを横にひっかけた自転車を漕いでいる人もいるが、とにかく普通にいる。
その隣には70代と思われる男性が派手なアロハシャツと短パン姿で歩いていたりもする。
そういう光景に出会うたび、「ああ、わたしはビーチシティーに越してきたのだなぁ」と、それまで海を身近なものとして育ってこなかったわたしはいちいち感動した。
***
そんな湘南のビーチカルチャー浸透度を伝えるのにぴったりのエピソードがひとつある。
ある朝、二世帯住宅の一階に住む義父が「散髪に行ってくる」と家を出て、ものの5分もしないうちに帰ってきた。
どうしたのかと尋ねると、「休みだった」と義父。
「え? 定休日だったのに、知らずに行ってしまったんですか?」
「いやいや、定休日じゃないよ、臨時休業。そう貼り紙があった」
「え? 臨時休業って心配ですね? 何かなければいいけど…」とわたしが言うと、義父はいやいや、と手を振り、笑った。
「波乗りに行っちゃったんでしょう、きっと。今日、サーフィンに行く人、何人も見たから、たぶん波がいいんでしょう。波がいいんじゃあ仕方ないね」。
ちなみにこの義父、サーファーではない。
でも、長年の経験で(?)、道ですれ違うサーファーの数とその様子でそのの波がどうだか、だいたいわかるらしい。
なんだか、すごい異文化圏にきてしまった、と、その時わたしは思った。
わたしがこれまでいた文化圏なら、「波乗りのために仕事を休むだ? 仕事をなめているのか?」となるのが当たり前なのに、義父は「波がいいんじゃ仕方ない」と笑って受け入れている。
これがいわゆるビーチシティーカルチャーというものか。
最初こそは戸惑いもあったが、ひとたび住人になってしまうとビーチシティーの暮らしは想像以上に居心地がよく、前夫が亡くなり、その町にいる理由がなくなった後も、とても他のところで生きていける気がしないくらいまでどっぷりはまってしまった。
***
2014年にサンディエゴに引っ越してきたとき、まっさきに感じたのが湘南と似ているということだ。
西側は北から南まで112キロの海岸線で、そのほぼ全てがサーフスポットといって過言でないサンディエゴはまさにビーチカルチャーが根付く町だった。
もちろん、ウェットスーツで歩く人、水着で歩く人もたくさんいる。
でも、湘南で耐性がついているわたしはもう驚かない。
湘南とサンディエゴ、国は違えど同じ文化圏。
そんな感覚が、ビーチシティーにはある。
が、湘南で見かけたよりももっともっと強者がこちらには、いる。
それは、どこでも裸足で歩く人たち。
名付けて裸足族。
いやいや、ビーチで裸足になるのは普通だってことはわたしもわかっている。
でも、裸足族が裸足で歩くのはビーチだけではない。
彼・彼女らはビーチから何ブロックも離れた飲食店にも裸足で入るし、ちょっと高級な食材を扱うスーパーマーケットにも裸足でいる。
お金に困っていそうで、というのではない。
きれいなお姉さんも、かっこいいお兄さんも、颯爽と歩くその足元を見ると裸足。
裸足族は公衆トイレにも裸足で入る。
わたしなんぞ、靴を履いていてもイヤなときがあるのに、裸足族はむしろ靴より裸足のほうがすぐに洗えていいでしょと言わんばかりに堂々と入っていく。
裸足族を見ると、わたしのビーチカルチャー度数はまだまだ低いなって思わされる。
いや、別に競争しているわけじゃないのだが、でも、なんか、悔しい。
「海が好きです」「自然が好きです」「サーファーです」などと言っていても、どこでも裸足で行けるくらいじゃなければまだまだ甘ちゃんという気がしてしまう。
そんなわけで、わたしは数年前から密かに裸足族の仲間入りすることをめざしている。
まずは面の皮ならぬ足の皮を厚くするために、とにかく裸足でいる場所を増やすことが最初のステップだろうと、わりとがんばって、いろいろなところで裸足を心がけている。
この「裸足族」というカテゴリーを意識しているのはわたしだけかと思っていたが、ちょっと前にサーフィン仲間のAちゃんが、自身の働いている日本料理店のお客さんたちのことを「ちゃんと靴を履く人たち」と表現していて、面白かった。
要は、「どこでも裸足で行ったりしない、ちゃんとした人」ということ。
さらに、これまでずっとサーファーとばかり付き合ってきたAちゃんは、次は「きちんと靴を履いている彼氏」がほしいそうだ。
若い頃にはヒールの靴でカツカツと町の中を歩いてきたわたしは裸足族に、昔から裸足族ばかりに周りを囲まれていたAちゃんは靴を履いている種族に、それぞれ憧れている。
これが、ないものねだり、というものか。
でも、最近は思う。
なぜか憧れてしまうことって、じつは自分に「ないもの」ではなくて、本当は自分の中にあるのに、なんらかの理由で深く深くに押しやって「ないことにしてしまったもの」たちなんじゃないかと。
わたしはたぶん裸足族になりたいわけではなく、それが象徴するような、自然体で、とらわれのない、自由な精神を取り戻したいのであろう。
そして、それはわたしにないわけではなくて、奥深くに隠してしまっただけなのだ、と。
4.1.2021
DAYS / Satoko FAY Column
カリフォルニアの風
日にち薬

アメリカ、カリフォルニアに引っ越しをしてこの春で丸7年を迎えた。
7年前の3月末、ロサンゼルス国際空港に降り立ったとき、わたしにはこちらに親類も友達もいなかった。
頼りは、その前年に北カリフォルニアのシャスタを旅したときに出会ったロサンゼルス在住のYさんと、これから入社する会社の上司と同僚だけ。住む家さえ決めておらず、当面はホテル暮らしで、到着の翌日から会社に出社するという、いま思えばだいぶ無謀な引っ越しだった。
日本では湘南鵠沼で二世帯住宅の一軒家に暮らしていたが、引っ越しのために厳選して持ってきた荷物はスーツケース2つぶんだけであった。
亡くなった前夫が「当面生きていけるくらいの金額は残す」と言って残してくれたお金は、その言葉通り、当面生きていくために使わせてもらったため、渡米時にはアメリカ暮らしで必須の車を買うための代金くらいしか銀行口座には残っていなかった。
ゼロからスタートとはまさにこのことだ、というくらい、なーんもなかった。
でも、希望はあった。
と書きたいところだが、はたして希望はあったのか、あんまり覚えていない。
ただ、日本にいるのがつらかったから逃げてきた、というのが近い気がする。
わたしの20代後半から30代後半は、よくもわるくも亡くなった前夫一色であった。
どこに行っても、何をしても、彼との思い出があるような気がしたし、思い出せば思い出すほど、いまここに彼がいないということが大きく感じられてつらかった。
わたしは、残された人生を、泣いて力なく過ごしたくなかった。
笑って生きたかった。
だから、どこか遠いところに行きたかった。
彼のことを思い出させるものがないところに行きたかった。
そういういろいろがあってのアメリカ移住、であった。

***
海外移住は来てしまえばなんとかなる、とよく言われる。実際、なんとかなったから、いまのわたしがある。
でも、振り返れば、最初の3年くらいは必死であった。
渡米したてでまだ歯科保険に入れていない時に、10年以上ずっと大丈夫だった歯の詰め物が取れるとか。
ケチって格安の中古車を買ったら、買ったはなからスピードメーカーが動かなかったとか。
さすがにそれは販売店に無料で直してもらえたが、今度は1週間後にエンジンがかからなくなったとか。
その車は最終的にはラジエーターが漏れるようになって、直すお金も買い換えるお金もなかった当時は、トランクにラジエーター液を積んで、毎回、乗る前に自分で補充していた。
どれもこれも20代の若者であれば人生経験としてネタになるが、わたしはそのとき30代も後半で、日本では何不自由なく暮らせていたのに、アメリカでは不自由ばっかりで、なぜこんな思いをしてアメリカにい続けるのだろうと自問自答したものである。
結局、日本に帰らなかったのは、帰ったところで、前夫はいない、わたしが望む暮らしはもう日本にもない、とどこかでちゃんとわかっていたからだ。
日本に帰ってもアメリカにいてもどうせ夫はいないなら、なんだか大変なことがいろいろ起こって生きるのに精一杯というアメリカのほうが都合がよかった。
毎日やらなきゃいけないことが多すぎて気が紛れたからだ。