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DAYS

STAY SALTY ...... means column

Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

from  Buenos Aires / Argentina

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倉光寿美子
Reiki Teacher / Hypnotherapy Therapist

レイキティーチャー、ヒプノセラピーセラピスト。アルゼンチンタンゴに魅せられて、ブエノスアイレスに渡り、街と空と文化と人に恋をした。ただ今、北海道の実家に帰国中ですが、変わらずブエノスアイレスの魅力をお伝えしていきます。

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5.5.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

ブエノスアイレスのバスの思い出と運賃のはなし

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最近ブエノスアイレスから聞こえてくるのは値上がりの話題ばかりだ。

日本もインフレが進んでいるが、アルゼンチンのそれは度を越している。

20年ぶりの高水準と言われ、3月の物価上昇率は前年同月比55.1%。

「生活感覚だと去年から二倍から三倍になった感じ。」なのだそう。

スーパーで色々買い物してトータル1000円位だったものが、3000円になったら、その負担は大きい。

 

日本からブエノスアイレスに移り住む利点の一つには、『生活コストの安さ』があったのだけれども、もうそんなことは言えないご時世になってしまった。

 

そんな中でも、公共交通機関の料金だけは据え置かれている。

バスの初乗り18ペソ(数十円のレベル)は驚異的な安さと言えるかもしれない。

わたしの愛するバス旅が守られているのは、小さな喜びだ。

 

多くの人が好まないバスでの移動が、わたしは大好きだった。

地下鉄ならば15分で着く距離を、ぐるぐる迂回するバスで50分かけて移動するのは、車窓からの街並みを眺める楽しさがあるから。

街ゆく人、車、店の様子を見ていると、季節の移り変わりも治安の具合も、街で起きていることも肌感覚でわかった。

 

とは言え、最初からバス旅を呑気に楽しめたわけではなかった。

ブエノスアイレスのバスを乗りこなすには、熟練が必要。

 

実は市内のマップ・交通を網羅した携帯アプリを使いこなすと、降りる場所も知らせてくれるので楽なのだが、携帯電話を手にしていて盗難に遭遇するリスクを考えると、その天秤はなかなかに難しい。

バスにおける盗難リスクはかなり高いのだから。

 

ブエノスの市内バスは先払い方式。

乗るときに運転手に行き先を告げなくてはならないし、車内アナウンスはないので、降りる場所を自分できちんと把握している必要がある。

だから初心者の頃は、家を出る前にアプリでバスルートを研究して、通過する大きな通りや、番地、降りるバス停をメモにして出かけたものだった。

 

それが容易にできるのは、ブエノスアイレスの街の作りのおかげ。

中心部エリアは、ほぼほぼ碁盤の目になっていて番地は片側が偶数、もう一方は奇数で、正確に増減する。

長い道では4000番代まで番地が続いていくところもある。

だから通りの数字を追っていると、だいたい自分のいる位置が把握できるのだ。

そして通りの名前が街角に常に表示されている点。

どの道にも名前があって、それは日本でいうと銀座通りやすずらん通りみたいなものだけど、ブエノスでは国名、聖人、著名人にちなんで付いているものが多い。

中には『Osaka』と名のつく通りもあったりする。

他には歴史的に重要な日にちなんだもの。

メイン通り『9de Julio(ヌエベデフリオ)』は独立記念日で日本語にしてしまうと『7月9日通り』、『25 de Mayo(ベインテシンコデマショ)』は『5月25日通り』。

こちらはアルゼンチン独立に向けての一歩を踏み出した1810年の五月革命を記念した日。

こんな風に何が起源の日なのかを紐解くと、道の名前も覚えやすい。

想像力を使いながら通りの名前を眺めたりしていると、時間はあっという間にすぎてしまうもの。

そんなバス旅が好きだった。

 

物価高騰の最中にあっても、バス運賃はこの先も変わらないでいて欲しい。

いや、根本的にアルゼンチンの経済も世界の経済も回復に向かうのを祈りたい。

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4.5.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

アルゼンチンのスイートな思い出の味『チョコトルタ』

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甘過ぎて頭が痛くなる。

というのが本当に起こるスイーツがアルゼンチンには数多い。

住んでいた頃には敬遠していたのに、離れてみるとあの甘さが恋しいものだ。

中でも「あれ食べたい」と切実に思うのは、チョコトルタという名の家庭で作る即席ケーキ。

市販の材料を組み立てて作る、焼かないケーキだ。

 

ブエノスアイレスに暮らした頃に、恋人が担当する料理というのがいくつかあって、ポレンタ、ラビオリ、チョコトルタがそうだった。

最初は一緒に作ろうかと手を出してはみたものの、最終的に、彼の細かいこだわりを尊重しながら頑張るよりも、任せてしまう方が楽だと悟った。

チョコトルタはママの味。

各家庭でクリームに使う材料のお好みブランドがあるし、配分量も違う。

コーヒーを使う家もそれがミルクに代わる家もある。

一般的には誕生日の定番で子供も大好きなケーキだが、彼のレシピはチーズクリームの酸味とコーヒーの苦味も加わった大人向けチョコトルタだ。

アーティストの彼は手先が器用で、綺麗に仕事をするので見ているのも安心感がある。

さながら芸術作品が仕上がっていく工程を見る気分で、わたしは見物役に徹したものだった。

そして、そのスイートな時間が好きだった。

 

チョコトルタの作り方は超簡単だ。

「チョコリーナ」というチョコレート味のチープなビスケットを生地として使い、アルゼンチン人が愛するミルクジャム「ドゥルセデレチェ」と、スプレッドとして売っている「チーズクリーム」を半々で混ぜたものをクリームとする。

濃いめに作ったインスタントコーヒーにビスケットを浸してクッキングシートに一面並べたら、クリームを塗り、またコーヒー漬けビスケット、クリームの順に重ね合わせて行くだけ。

 

これを冷蔵庫に入れて保管する。

食べるのは断然翌日が美味しい。

水分を吸ったビスケットがしっとりして、全体が馴染むと、ティラミスっぽい味になる。

 

そもそもの材料のドゥルセデレチェが激烈に甘いので、仕上がりケーキも甘くて、さらに重たい。

だがしかし、癖になる美味しさなのだ。

だから懐かしい。

チョコトルタを口にして「甘すぎる。」とボヤきたい。

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3.6.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

北国で想う遥か彼方のアルゼンチンタンゴ

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ブエノスアイレスにはアルゼンチンタンゴが戻ってきたみたいだ。

ミロンガ(タンゴのダンスパーティ)もレッスンクラスも条件付きながら再開しているし、外国人タンゴ愛好者達も少しづつ戻り始めている。

SNSに流れてくるブエノスのダンスホールの盛況な様子を見るとノスタルジーと羨ましい気持ちが混じり合って、キュンとしてしまう。

タンゴを踊りたいな、と思うし、あの空間に入り込みたいな。と思う。

 

実家暮らしを始めてアルゼンチンタンゴを踊ることは諦めた。

北海道の片田舎にタンゴスタジオなんてあるわけない。

とはいえ、なんでもいいから音楽に身を委ねることをしたくてフラダンスを習い始めた。

 

フラダンスのいいところは何と言ってもパートナーなしでひとりで踊れることだろう。

大地と神と繋がる癒し系ダンスは性に合って、週に一度のクラスはとてもいい気晴らしになっている。

 

どのダンスにも共通する、音との一体感を感じながら無心に身体を動かせるヒーリング効果には満足しているものの、やはりアルゼンチンタンゴを恋しく思う。

なにか健全な精神が根底にあるフラダンスに比べて、どこか暗さや隠微さを秘めたタンゴの「ワル」な感じが、常習性を誘うのかもしれない。

 

ペアダンス特有のパートナーとの駆け引きは、面白みであると共に、人との関わりを深く感じられる癒しでもある。

寂しい時や気分が沈んだ時こそ、踊りに行くと元気になれたのは、その効用だったのだなと改めて思う。

郷愁漂うアルゼンチンタンゴの音楽性と、混沌としたブエノスアイレスの街に抱かれるからこそ、フロアに集う人々との交流や駆け引きのあたたかさが色合いを増していた面もあったと思う。

 

画面越しの地球の裏側の世界から、目をあげるとピュアな北海道の大自然。

なんだか異次元空間にいるみたいだ。

背中の開いたキラキラのドレスを着てヒールの高いタンゴシューズを履いて、まるで狩に出かけるみたいな、そんな気合いでダンスフロアに足を踏み出すには、ちょっとしたエネルギーが必要だ。

その気合いが錆びつきはしないかと、心配に思っている。

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12.5.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

地球の裏側の彼とわたしの新年

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アルゼンチンの年末年始は真夏に訪れる。

何年経っても太陽サンサン、ジリジリ暑い中のクリスマスツリーには違和感を感じるものだ。

12月の25日を過ぎるとすぐに正月用にディスプレイを変える日本とは違って、

あちらでは1月初旬までクリスマス仕様が続く。

 

欧米と同様にアルゼンチンも正月よりクリスマスに重きがおかれ、

正月は元旦の1日だけが休みで、2日からは日常が戻る。

それでも大晦日の夜はパーティーと決まっている。

クリスマスが断然家族での集まりが多いのに比べ、大晦日の夜は友人同士で集まることも少なくないようだ。

何れにしても家食べがほとんど。

レストランに行くのは観光客か在住外国人だけかもしれない。

アルゼンチン人のパーティは夜の8時か9時から始まる。

夏の食卓らしく冷製のプレートがいくつも並び、庭に備え付けのバーベキューコーナーで肉を焼く。

新年午前0時のお祝いの乾杯はシードルかシャンパンだ。

このタイミングで12粒の干しぶどうを食べる家庭もある。

1年12ヶ月を意味するブドウを0時を知らせる12回の教会の鐘に合わせて急いで食べると、

やってくる年の幸運が約束されるというスペインの風習。

アルゼンチンの移民はスペイン、イタリア系が大半なのでそんな家庭も多いのかもしれない。

新年が明けると夜空には花火が上がり始める。

庭や広場で打ち上げ花火を上げる個人が多く、住宅街でもあちらこちらで花火が上がっているのが見られる。

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わたしはたいていの場合、里帰りして日本で年末年始を過ごすので、

ブエノスアイレスに居る恋人とはビデオ電話で新年の挨拶をすることがほとんどだ。

時差はちょうど12時間。

日本の新年0時は、アルゼンチンでは大晦日の昼の12時。

彼からの電話で新年を祝う。

年越しそばの習慣が彼にはとても奇妙で、それでいて興味深いようで、

「もう年越しそばは食べたのか?」と毎年それが話題になる。

 

アルゼンチンが新年を迎える、日本の元旦の昼には今度はわたしが電話をかけて、改めて新年の挨拶をする。

その場にいる彼の家族にも一通り挨拶をして、それから屋外の方々に見える花火の様子を見せてもらう。

それが現在のわたしたちのお正月。

 

いつの日か、ブエノスアイレスで新年の花火を一緒に見上げる日がくるのかな?

いつの日か日本で一緒に年越しそばを食べる日がくるのかな?

と思いながら、今年も地球の反対側同士で新しい年を迎える。

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11.5.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

異国で歯医者に行ってみた。

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母の付き添いで行った歯医者さんの待合室。

壁に『当院ではCT撮影で歯や顎骨の状態を詳しく診断しています。』と張り紙があった。

ほぅ、北海道の田舎町の歯医者でも院内でCTまで取れるんだなーと思って、ふと思い返す。

いや、日本では当たり前だよね。

 

アルゼンチンの分業制医療に慣れて、この日本品質に感心するようになってしまった自分がおかしい。

アルゼンチンでは血液検査もエコーもレントゲンも専門の検査機関に出向いて検査するのが普通だ。

だから不調があって診察に行っても初回は聴取のあとドクターから検査オーダーを渡されて、次回は検査結果を持ってきてね。と言われる。

自分で予約を入れて検査に出向き、自分で検査結果を取りに行き、専門医の所にそれを持参して診断を仰ぐ。

当然時間もかかるし、手間もかかる。

院内で待合室にいる間に検査結果がドクターの手元に勝手に届いているという日本標準はすごいのだ。とアルゼンチンに住んで初めて気づいた。

 

歯科も同様だ。

口腔内レントゲンは専門機関に出向いて自分で取ってくる。

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日本で通っていた歯科医に「もしも今後不具合が起きたら、この歯は抜くしかないからね。」と言われていた歯が痛くなったのは、ブエノスアイレスに住み始めて2年目くらいだったろうか。

頬まで腫れてきたところで観念して歯科医に行くことにする。

言葉の壁があったので、まずは日本語対応可能の条件を最優先に探した。

そして見つけた日系人の女医さんは「まずは腫れを取らないと何も出来ない。」と言い、抗生物質を処方してくれた。

片道1時間半かけて行った、アパートの一室のそこは、言葉の安心感はあっても昭和な感じの歯科医院だった。

 

抗生物質を飲んでいたその週、語学クラスで歯痛を話題にしたところ、スペイン語の先生は「目と歯の治療は妥協してはいけない。」と言い、自分が渡り歩いた果てにたどり着いた歯科医を紹介し、初診の付き添いまでしてくれた。

真新しい診療具が並ぶ清潔感溢れる医院で、爽やかな好青年の歯科医は、模型を使いながらゆっくりと優しい単語で説明してくれた。

その初診でわたしの心はすっかりこちらの医院への乗り換えを決めることになる。

この爽やかな歯科医院通いが始まり、そこで初めてレントゲン専門機関というものがあるアルゼンチンの分業医療の仕組みも知ることになった。

 

そして歯科医のオーダー通りに口腔内全体のレントゲン写真を撮った結果、数々の治療課題を提示されることになる。

当初、痛みのあった奥歯の処置だけのつもりだったのに、丁寧で爽やかな提案にのせられて他の歯の治療も次々とやることになり、通院は長期間に及んだ。

 

提案されるままに治療を続けた根拠は価格の安さだ。

日本でも保険外になるセラミックや、インプラント治療が半分とは言わないまでも2/3位の価格でできる。

わたしの選んだ歯科医院は、現地の相場からすると十分に高いレベルだったけれども、それでも日本と比べると安かった。

 

基本的に医療と学費は無料というアルゼンチン。

政策は素晴らしいかもしれないが、自分が医療を受けるのは心配。と思い込んでいた。

でも歯科通いを通じていつの間にか平気になった。

要するに貧富の差が激しいこの国では、医療も無料枠から安心感の持てるレベルまで層が分厚い。

歯科も見極めさえ間違わなければ、良い治療を日本より割安に受けられるということなのだ。

 

レントゲンの煩わしさを除けば、不満は全くない。

歯を見せて笑うのが好きになったほど治療の結果にも満足している。

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10.5.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

隣国ウルグアイへのショートトリップ

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島国ニッポンにいると海外は文字通り海の外なのだけれども、南米大陸のアルゼンチンはチリ、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ウルグアイの五カ国と国境を接する。

ブエノスアイレスの街から一番近くて便利な隣国はウルグアイだ。

日本でも話題になった『世界でいちばん貧しい大統領』と言われたムヒカ元大統領の国。

アルゼンチンとは違う価値観や文化、雰囲気が感じられる場所である。

都市の様相の首都モンテビデオやビーチリゾートもあるけれど、今日は南西部の国境の街、コロニア・デル・サクラメントの話をしたい。

 

コロニアはブエノスアイレスからラ・プラタ川を隔てて対岸に位置し、フェリーで約1時間という近さだから、ブエノス在住者には一番馴染みが深い。

アルゼンチン人にとってもまとまった休みを過ごすことができる近くて便利な旅先だし、旅行者もオプションツアーでアルゼンチンから隣国ウルグアイへのワンデイトリップを楽しむことができる。

 

またアルゼンチンの居住権を持たず、観光ビザで入国しブエノスアイレスに滞在を続ける者にとっては、別の意味で必要不可欠な行き先でもある。

というのは正当にアルゼンチンに滞在するための手段の一つが、3ヶ月ごとに他国に一度出てアルゼンチンに再入国するという方法だから。

隣国は五カ国もあるし、どの国でも選び放題なわけだが、やはり旅程1時間の距離感とコストパフォーマンスで、コロニアに勝る場所はない。

コロナの影響で渡航規制が始まってからは、滞在制限期間の延長措置が取られていて、無理やり旅をする必要はなくなっているが、以前はわたしも随分通ったものだった。

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出国・入国のスタンプをパスポートに刻む必要性を外しても、コロニアは何度でも戻りたくなる魅力的な場所だ。

朝早くにブエノスアイレスのフェリーターミナルから出発し、午前中のうちにコロニア港に到着。

フェリーターミナルを出て10分も歩くと、岬の先の旧市街に入ることができる。

世界文化遺産にも登録されているこのエリアは、1600年代から繰り返しポルトガルとスペインの領地になっていた歴史の軌跡が残る街並みだ。

 

広場を中心に、不揃いの石を敷き詰めて道を作るしかなかった時代の石畳の道や、灯台、歴史的建造物がある。

水辺がすぐ近くに感じられ、車両が極端に少ないそのエリアはコンパクトで散策しやすく、居心地も良い。

古い建物を再利用したカフェやレストラン、民芸品やアーティストの店なども点在していて、休憩や土産品の買い物にも事欠かない。

以前にコロニアの街の広い範囲を回る観光バスに乗ったこともあったが、結局見所はこの旧市街エリアだけのようだと分かったので、それからは、もっぱらフェリーターミナルから歩ける範囲で行動する。

ランチを食べて、ぶらりぶらりと散歩して、コーヒーを飲んだら、あっという間に夕方の帰りのフェリーの時間になるものだ。

コロニアでの時間はその程度で、足りなくもなく、持て余しもしない。

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帰りのフェリーに乗り込む頃には、自分がいつもより緩んでいることに気づく。

ブエノスアイレスにいる時には気にならないのだけれども、騒音と雑踏と治安の悪さのせいで、いつの間にか心も体も緊張していたのだ。

コロニア旧市街の静けさとのんびりとした空気は、都会で暮らす疲れを癒す効果も持っている。

 

ブエノスアイレスから日常を離れてリフレッシュするには、ちょうど良いショートトリップ先がウルグアイのコロニア・デル・サクラメント。

 

9.5.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

わたしを捕らえたブエノスアイレスのタンゴ

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ブエノスアイレスに住み始めるまで、アルゼンチン人はみんなタンゴを踊るのだと思っていた。

だってアルゼンチンタンゴの発祥の地だから。

でもそれは大きな勘違いだった。

現代のアルゼンチン人にとってタンゴはものすごくマイナーな存在だ。

若者たちはクラブに出かけるし、年配者もタンゴを聴くことはあっても踊れないという人が大多数だ。

何よりタンゴはブエノスアイレスという都市のものであって、広大な大地のアルゼンチンの他のエリアに出るともっとマイナーになる。

 

だから、何がきっかけでブエノスアイレスに住むことになったか?という質問に「タンゴ」と答えると、一般人は「本当に?」と驚く。

自分たちは興味のない伝統文化を求めて、便利で快適な地球の裏側から混沌とした南米の国に住み着くことが信じられないのだ。

一方で同じ問答でも、タンゴに関わる人たちは「いるよねー、そういう人。」という反応、短期でタンゴ留学に来た外国人は「うらやましい!」と言う。

ご本家では衰退の一途のアルゼンチンタンゴも、輸出先の日本や欧米ではマニアが育っていて、多くの外国人がタンゴの聖地を目指してやって来る。

そしてそれにハマってしまった人々はブエノスアイレスにまた舞い戻る。

現地にしかない魅力がそこにあるから。

いや正しくは、あったから。

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コロナによる規制でタンゴが禁止になり一年以上経つ。

混み合った空間で抱き合って踊るタンゴは感染予防の観点から見ると劣悪だ。

少しづつ緩和はされているものの、以前と同様のタンゴ界がブエノスアイレスの街に戻るのかどうかは誰も知らない。

既に世界の各地ではタンゴ界も動き出していて、東京では気をつけながらタンゴが踊れるし、ヨーロッパでもミロンガ(タンゴのダンスパーティー)が開催されている様子がSNSに上がってくる。

場所を選ばなければタンゴは踊れるのだ。

「でも。」と思う。

やはりブエノスアイレスの夜の空気感や、スペイン語の雑踏や、歴史の染み込んだサロンの中で踊りたい。

ブエノスアイレスという街とタンゴ音楽のしっくり感を一度感じてしまったら、もはや他の土地ではわたしの中にタンゴ音楽が染み入ってこない気がしてしまう。

たとえこの先、タンゴを踊るサロンや開催されるミロンガが前と同じでなくなったとしても、ブエノスアイレスに土着するタンゴのスピリットは、この苦悩の時期もまたタンゴの歴史の一部として包み込み、熟成して、味わいを深めていくのだと思いたい。

 

タンゴにハマった人々は、その理由を「タンゴがわたしのハートに届いた。」「タンゴがわたしを捕らえた。」という類の言い回しを好んでする。

わたしを捕らえたのは「ブエノスアイレスのタンゴ」みたいだ。

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8.2.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

セラピストとしてのわたしを育ててくれたのはアルゼンチン人だった。

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わたしのセラピスト歴はブエノスアイレスで始まった。

ひとりで南米に住むと言ったわたしに「絶対に役立つからレイキを身につけてから行きなさい。」と友人が勧めてくれたのがきっかけだったからだ。

実際、行ってみると自分の体調管理と安全で快適な日々を送るために充分役立ったし、噂どうり、日本人よりも外国人の方がレイキに対しての知識も興味も豊富だった。

日本発祥のヒーリングにも関わらずだ。

アルゼンチン人とレイキの話題になると、きまって質問ぜめに合い、とにかく体験したいとセッションを頼まれることも多かった。

最初の頃は自信もないし断るしかなかったけれど、需要が充分にありそうなのはすぐに分かったので、日本への一時帰国の度にレベルアップ講習を受けて、開業出来る体制づくりをした。

 

実際には体制づくりより、クライアントを受け始める勇気が整うまでの方が時間がかかった。

在住している日本人の友達に無償でヒーリングすることはあっても、営業を始める自信を持つことが出来なかったわたしの背中を押してくれたのは、友達になったアルゼンチン人だった。

「レイキをして欲しいの。でもお金を取らないというなら頼まない。」と、愛情たっぷりなオファーをくれた。

彼女は2回目の施術には自分の友人も連れてきてくれて、口コミでクライアントが増えるきっかけまでも作ってくれた恩人だ。

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アルゼンチン人はおしゃべり好きだ。

だから口コミがとっても広がりやすい。

防犯の面からも知らないクライアントを受けたくはなかったし、口コミはとても助かった。

反面、海外の日本人コミュニティは小さいだけにずっと難しい。

ある駐妻さんにヒーリングの施術をした後「誰にも言わないでください。」と頼まれたことがあった。

もちろんセラピストには守秘義務があるので、施術上知り得たことを話しはしないが、自分が依頼したことすら誰にも知られたくないということなのだ。

駐妻コミュニティでの口コミは望めそうにないな、と思った一件だった。

 

のちにデリケートな内容を取り扱うヒーリングに留まらず、オイルトリートメントや指圧の勉強を始めたのはそんな理由もあった。

 

アルゼンチン気質で忘れてならないのは『褒め上手』な一面。

クライアントの人たちの誉め言葉こそが、セラピストとしてのわたしを育ててくれたのだと思っている。

セッション後はさすがのアルゼンチン人も言葉数が少なくなるが、それでもどう感じたか、何が起きたかについて話してくれるとともに、わたしの手技について褒てくれることが多かった。

これによって、自分が施術中に感じた感覚が正しかったことが明快にわかったし、自分の仕事が人の役に立っていることが実感できた。

 

クライアントとしてのアルゼンチン人と日本人の圧倒的な違いは、全部はっきり知りたがることかな、と思う。

レイキのセッションは、大雑把に言うとエネルギーを整えるのが目的だが、その過程でチャクラやオーラの状態も分かってしまうものだ。

セッション後のカウンセリングではその結果を本人に伝えるが、中にはあえて言わない内容というのもある。

受け止めるのがキツイ結果になりそうなときは、やんわり伝えたりするのだけれども、アルゼンチン人の場合、ズバリとそのまま聞くのを好む傾向がある。

それもエグければ、エグいほど「そうでしょ、そうでしょ。最悪だったでしょ。わたしの状態!!それが分かってもらえて大満足よ!」みたいな感じなのだ。

誰しも自分の身の上に起こっていることは知りたいものだけれども、良くない状態をも肯定されると嬉しいみたいだ。

そして、日本人ならば「それで自分はこれからどうすれば?」と聞いてくる場面も、アルゼンチン人の場合は「次の予約はいつにする?」になる。

おかげでリピート客が多い。

アルゼンチン人の他力本願気質にも、わたしは助けられたのかもしれない。

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7.2.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

ずっとそのままでいてね。ブエノスアイレスの本屋さん。

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ブエノスアイレスも今やネットでポチッとすると本が家まで届くようになった。

南米のネットでのお買い物はアマゾンよりもMercadoLibre (メルカドリブレ)だ。

最初、「売りたい人と買いたい人がそのサイトで出会って、モノのやり取りは直接本人たちが待ち合わせして手渡しするのだ」と聞いた時には、なんとアナログな!!と驚いたものだ。

しかし、宅配サービスが発達していなくて、クレジットカードや銀行口座を持たない層も多い国としては、なるほどうまい仕組みだったのだろう。

それがコロナのロックダウンのおかげで劇的に周辺環境は整って、サービスは成長し、メルカドリブレの株価も登り調子。

あっという間に、誰もが家に居ながらにして、安心して買い物ができるようになってしまった。

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そんな急激に買い物環境が変化したブエノスアイレスも、ほんの数年前までは何軒もの本屋をまわり、目指す本を探し歩くのが主流だった。

ある時、東京にいるアルゼンチン人のタンゴの先生から、Sandroの写真集を買ってきてくれと指令が入った。

まだポチッと買えない時代。

Sandroはアルゼンチンでは誰もが知っている60〜70年代に活躍した男性歌手だったが、写真集は大分前のもので探すのは容易ではなかった。

まずはブエノスアイレスで一番有名な書店、El Ateneo Grand Splendid(エル・アテネオ・グランド・スプレンディッド)へ。

この店は、『世界の美しい書店リスト』に名を連ねる、20世紀初頭に建てられた劇場をリノベーションした書店だ。

入り口は一見すると普通の本屋だが、中へ進むと急に吹き抜けの空間に出て、天井画を見上げることになる。

2階、3階席だった所にもに本がぎっしりと陳列してあり本当に美しい。

そして実用的にも品揃えが豊富で頼りになる。

が、しかし、その写真集はマニアックすぎて置いていなかった。

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こういう時に、アルゼンチン人の世話焼き精神にはとても助けられる。

本屋の店員は、「こういうタイプのものはあそこの通りの本屋が強いよ」と、他店の名前をメモにしてくれた。

その先も行く店、行く店で、わたしのがっかり顔を見た店の人は、次の本屋を紹介してくれたのだった。

だから闇雲に回った訳ではないけれども、結局、丸々二日間、文字通り足を棒にして書店巡りをする羽目になった。

最終的に写真集を見つけた時には、嬉しすぎてお店の人に抱きつきそうだった。

この時の本屋巡りで、すっかり本屋好きになった。

ブエノスアイレスには古くからの本屋が残っていて、趣ある店構と、それぞれに特徴ある品揃えやディスプレイがあって、とても楽しい。

ポチッとしてお家に本が届く時代は便利ではあるけれど、ブエノスアイレスの素敵な書店は残っていて欲しいな、と思う。

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6.2.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

ストリートアートを巡る楽しみ

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世界の状況と同様に、ブエノスアイレスのロックダウンも緩んだり、厳しくなったりを繰り返し、最近はまた外出しにくい状況になっている。

厳しい規制状況下では公共交通機関に乗るために許可証が必要になるので、それを持たないものはタクシーを使うか、徒歩での外出が主体になりがちだ。

でも、たとえ1時間歩くとしても、あの街の救いは眺める景色が楽しいことだ。

 

歴史ある建造物、街路樹もいいけれど、わたしのお気に入りは壁に描かれたストリートアートを見つけながら歩くこと。

通りを歩くとシャッターサイズから、ビルの壁一面を飾るものまでいろいろなアートが楽しめる。

普段歩く道から通りを一本変えると新たな出会いがあったりして、キョロキョロしながら歩いていると、あっという間に目的地までたどり着く。

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ブエノスアイレスのストリートアートも最初はスプレーによる落書きから始まった。

政治的な不平、不満を主張する一つの手段でもあった落書きが、アートへと変わっていったのは、2001年の経済危機が大きなきっかけだった。

国中が大きな打撃を受け疲弊しきった街に明るさをと、建物の所有者たちが壁を彩ることをアーティストに依頼し始めたのだという。

20年経った現在は、市もストリートアートをひとつの観光資産と位置付けていて、たくさんの作品を楽しむことが出来る。

サイズも色々ならば、作風も色々。

もちろん政治的メッセージの強いものも見られるし、純粋にアーティスティックなものもある。

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わたしの思うストリートアートの魅力は2つある。

 

ひとつめは、命が短かく変化すること。

それは一面では残念なことだけれども、魅力でもあると思う。

描きたてのピカピカな状態から、雨風にさらされてだんだんと街の一部に溶け込んでいく変化の様を眺めるのも面白みがあるし、久しぶりに通ってみたら、見慣れた壁が新しい絵に変わっていた!という驚きもある。

 

そしてストリートアートは背景ありきのアートだという点。

店の壁やシャッターに描かれる絵は、建物全体や、街ゆく人々との調和込みでの作品だし、壁一面のアートは空が背景となる。

青空に映えるものもあれば、「この絵は曇り空の方が似合うのだな」と、ある日発見したりする。

運良く、変化する夕暮れ時の空の色や雲の造形と壁絵が美しく共演した瞬間に出会えたならば、物凄く得した気持ちになるものだ。

そんな風に、生きている街の中のアートは、美術館の中とは違う一期一会の楽しみがある。

だからブエノスアイレスの街歩きはやめられない。

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5.1.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

ブエノスアイレスのCafé Notable

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ブエノスアイレスのカフェはやさしい。

たとえひとりぼっちでも、そこに居ると何故だかその場やその街に自分が受け入れられている気持ちになる。

とりわけ昔ながらの趣あるカフェには独特の温かみがある。

それは何十年にも渡ってそこに集った人々の喜怒哀楽の歴史が壁や床、空間に刻み込まれているせいかもしれない。

 

ブエノスアイレスに住みはじめたばかりの、知り合いも少なく、言葉もよく分からなかった頃、わたしにとってカフェは街や人と繋がる大事な場所だった。

年季の入った店内の装飾と、高い天井は心地よく、使い込まれた木製のテーブルに語学学校の宿題を広げて、ぼんやり人物観察をすることが多かった。

そこでアルゼンチン人の振る舞いや言い回しなど多くのことを吸収したと思う。

開け放たれた窓から風とともに入ってくる街の喧騒と、隣のテーブルから聞こえてくるスペイン語のおしゃべりは賑やかで元気をくれたし、自分がその場の一部となっている感覚に気持ちが和んだ。

近年、ブエノスアイレスにも近代的なカフェチェーンが増えたけれども、小綺麗なそちらより、わたしは断然古くて、雑味のある古典推し。

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歴史と雰囲気のあるカフェは『Cafe Notable(カフェ ノタブレ)』(注目に値するカフェ)の名称で、ブエノスアイレス市の法律35条によってその条件が定義されている。

創業年や建築物、文化的価値などの条件をクリアした店舗のリストには、古くは1800年代から続く老舗もあり、ステンドグラスが見事なお店も、タンゴの曲の歌詞に名前が出てくるお店などもある。

度重なる不況や昨今のロックダウンによって閉店に追い込まれる店も出て、最近は減少傾向というが、当初は100店近くがリストアップされていたらしい。

 

ブエノスアイレスのカフェには、ドリンク一杯で何時間居ても構わない。

街の人たちが昔からそのようにカフェを使っているのだから、誰も何も言わない。

毎朝同じ席で、同じ朝食を食べる年配者も、女子会で長時間話し込んでいるグループも、口喧嘩しているカップルも、誰も滞在時間は気にしない。

一度、深夜に友達とカフェに長居したことがある。

彼女には悩み事があって、その話を途中で切り上げるわけにはいかなかった。

深夜1時を過ぎて、客は私たち1組だけになり、Mozo(ウエイター)たちは片ずけと掃除を始めたけれども、私たちに一言も退店を促すことはなかった。

日本でよく聞く「ラストオーダーです。」の告知ももちろんなく、店内の椅子が全てテーブルに逆さに載せられるまで、私たちは心ゆくまで語り合った。

チップを少し多めに置いて、「ごめんね、遅くまで。」と言ったら、「いいんだよ。全部片付け終わるまでどっちみち居るからね。」と返してくれた。

そういう感じが、懐深く人々を受け入れてくれるCafe Notable。

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4.1.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

アルゼンチンの誕生日

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春に生まれた。

この時期の誕生日というのは、どこにいるかによって雰囲気がだいぶ変わる。

生まれ育った北海道の三月四月はまだ雪解けの時期で、道端に黒ずんだ雪が残り、埃っぽくて色でいえばグレー。

まだまだ冬の延長だ。

東京に住み始めた時には、同じ日が桜咲く頃でピンク色に彩られたウキウキ感があり、随分と気分が変わったものだった。

そして同じ時期、ブエノスアイレスは秋の入り口で、街路樹が黄色やオレンジ色に染まってくる。

レトロな街並み、石畳と紅葉の組み合わせは、また一段とブエノスアイレスらしさがあり、哀愁漂う季節。

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さて、アルゼンチンの誕生日。

スペイン語では誕生日をcumpleaños(クンプレアニョス)と言う。

日本語、英語birthdayは『生まれた日』であるのに対し、スペイン語は『año(歳)にcumplir(到達する)日』になる。

過去のある日に生まれてきたことを祝うと言うよりも、今日ここに達したことを祝うのかなぁと思うと、随分と捉え方が違う気がする。

祝い方にも違いが。

日本では誕生日を周りの人たちに祝ってもらうのが一般的だと思うが、アルゼンチンでは誕生日を迎える本人が祝いの席を整える。

パーティの企画も手配も、ケーキを準備するのも自分。

みんな「もうすぐわたしの誕生日なの!」と誕生日をどのようにアレンジするかをよく話題にする。

わたしは人に気を遣わせてしまう気がして、誕生日をわざわざ口にしないほうだけれども、その辺の感覚が全然違うのだ。

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そんなわけで頻繁に巡り合う誕生会の話題であるが、絶対に気をつけなくてはいけないことが一つある。

誕生日の前にお祝いを言ってはいけない。

当日よりも前にお祝いを聞くのは『mala suerte(縁起が悪い)』のだ。

タンゴのダンスホール、ミロンガではよく誕生会を見かけるが、それを目的に大きなテーブルに友人たちが集っても、誰ひとり24時を過ぎるまではお祝いも言わないし、プレゼントも渡さない。

日づけが変わってからケーキを広げてシャンパンでお祝いをするのが一般的。

ケーキにロウソクを付けたら、火を消す前に3つの願い事を心の中でするのも、決まり事。

あちらのケーキ用ロウソクは花火みたいな仕様なので、早く消さなきゃと焦ってしまうのだけれど、3つの願い事は大事なのである。

それが終わったらケーキを食べるのだけれども、当然、切り分けるのも配るのも当の本人。

主役はホストでもあるので忙しい。

そして、そこでは不思議なケーキの切り分け方をする。

ホールのケーキの真ん中を丸く切り抜き、そこから二重、三重に円を描いてから放射状に小分けにして行く。

一切れごとは円錐台形(バウムクーヘンを切り分けた感じ)に仕上がり、一つのホールから数多くのピースを切り分けることができる。

ミロンガのような場所だと、顔見知りが多いのでテーブルに招待した友人のみならず、会場にいる多くの知り合いにもケーキを振る舞うのが儀礼となっている。

だからそんな切り分け方も生まれたのかもしれない。

タンゴの世界には特別に誕生日ダンスというものもある。

タンゴはふつう数曲を通して同じパートナーと踊るものだが、誕生日ダンスは次から次へとパートナーを変えて一曲のワルツを踊りきる。

それは友人たちのお祝いであり、人気のある人だとその人と踊るために列ができたりするものだ。

この様子は何度見ても心温まる素敵な風習だ。

ブエノスアイレスのタンゴ界はまだまだ通常営業には程遠いが、早くそんな誕生会の風景が戻ってくるといいなと願っている。

 

3.1.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

マテ茶セットを抱えて公園へ

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今年も日本のお花見は自粛ムードなのだろうか。

桜の樹の下に座って友と語らい花を愛でるのは、日本の春の素敵な催しなので、早く解禁になってほしいもの。

アルゼンチンの春も花が美しく咲き乱れるけれども、あちらにお花見という文化はない。

日常的に公園に出かけ、緑の上に座り休憩したり、子供を遊ばせたりするので、わざわざ『お花見』と気合いを入れる必要がないのかもしれない。

彼らが公園に行く時に持参するのは、マテ茶。

マテ茶というのは南米特有のお茶で、『飲むサラダ』とも言われ、肉の割に野菜をあまり食べないアルゼンチン人の栄養バランスを補うのに、マテ茶の功績は大きいという説もあるほどにビタミン、ミネラルが豊富。

苦味があるが慣れるとクセになる。

ハーブやドライオレンジピールをブレンドしたりアレンジも楽しい。

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飲み方は独特で、茶葉を入れたマテと呼ばれる茶器にボンビーシャというストロー状のものをさして飲む。

紛らわしいが茶葉もマテ、茶器もマテという。

ポットから茶葉入り器にお湯を繰り返し注ぎ、味がなくなるまで飲むので、マテ茶葉、マテ器・ボンビーシャと、ぬるめのお湯入りポット(熱湯だと飲む時に火傷するので)はセットで持ち歩く必要がある。

もちろん家で飲むシチュエーションも多いけれども、そのスタイルをどこへでも持って行ってしまうのが面白い。

公園に行くとポットを小脇に抱えた人たちがたくさんいて、その光景は最初はとても不思議に思えたものだった。

 

もともとマテ茶は一つの器をみんなで回し飲みするスタイルが定番。

しかしコロナが流行り始めてからはひとりひと器が奨励されて、それぞれがMyマテを持つようになった。

一つの器を分かち合うことで垣根を無くすコミュニケーションマジックは、マテのもつ魅力でもあるので、そんな文化が一つ失われてしまったのかと思うと少しさみしい気もする。

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マテ茶の回し飲みには特有のお作法がある。

サークルにはお湯注ぎを仕切るオーナーがいて、それ以外の人がボットを触ることはない。オーナーはマテ器に茶葉を準備し、最初のいちばん苦いひと口を自分で飲んだら、そのあとお湯を充分に注いで他の人に勧める。

受け取った人は、それを飲み干してからオーナーに器を戻す。

オーナーはまたそこにお湯を注いで、今度は違う人にお茶を勧める。

そのやり取りを人数分繰り返す。

当然、オーナーは忙しいことになるが、そこはアルゼンチン人。

管理も気配りもゆるいので回す順番は間違うし、はなしに夢中でお湯を注ぐのも忘れる。でもそんなことは誰にとっても問題ではなく、話題と、マテ、それぞれが人々の間を行ったり来たりするのを共有する時間こそが大事。

日本人の「お茶しよう」とアルゼンチン人の「マテ茶飲もう」は同じノリだけれども、アルゼンチンのそれは、もっと緩くて時間的制限がない感じがする。

そこに重要な用件は必要なくて、公園で緑と花と風を感じつつ、マテ茶を飲みながらゆったりと同じ時間を過ごす。

コロナ渦の公園マテの風景は、回す事のないMyマテ持参の新しいスタイルではあるけれども、そこにはやっぱりゆるい時間が流れているのだと思う。

 

2.1.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

ブエノスアイレスの冬にはロクロ

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地球の裏側ブエノスアイレスの二月は夏真っ盛りで連日30度前後なのだけど、

日本に合わせて冬の話をしようと思う。

彼の地の冬に雪は降らない。

以前に降った記録もあるようだが、通常降らないし、気温がマイナスになることもない。

でも寒い。

キーンと骨身にしみるような寒さがある。

街の横を大きなラプラタ川が流れているため、その湿気が体感として寒さをより強く感じさせるのだという。

密閉性のよくない建築物の部屋には、隙間風が入り込んで、室内でも寒い思いをすることが多い。

そんな季節の食べ物は、何と言っても煮込み料理だ。

牛肉王国らしく、牛のぶつ切り、臓物類と野菜、とうもろこしに、レンズ豆、ひよこ豆、白インゲン豆などの豆類をじっくり煮込んだ料理をロクロと呼ぶ。

これは各家庭のママの味であるとともに、行事の時にはレストランの本日のスペシャルに必ず現れるメニューでもある。

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だから街を歩いて『ロクロあります』の看板を見かけると、「今日は何の日だったっけ?」と思うのだ。

それは独立記念日や五月革命記念日だったり、なんとか将軍の日だったり。

早速友達に「ロクロ食べに行かない?」と集合をかけて、レストランに出かける。

煮込みの定説通り、そういうものは大量に仕込んで、大鍋で作った方が美味しいに決まっているから。

豆が牛の旨味と脂分をしっかり吸い込んだ味わいは、冬のご馳走。

体が温まるし、なにより美味しい。

決まってその夜は、お腹が張って苦しむのだけれども、それでもメニューを見るとその誘惑に負けてしまう。

ブエノスアイレスの冬にはやっぱりロクロ。

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1.3.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

マラドーナはいちサッカー選手じゃないから。

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2021年のアルゼンチンには、もうすでにマラドーナはいない。

彼が天に還った後に、ブエノスアイレスを離れたわたしに「マラドーナのいないアルゼンチンにはなんの価値もないからね。」と言った人がいた。

冗談みたいだけれど、あながち冗談とも言えないくらいに、アルゼンチン人にとって彼の訃報は大きなニュースだった。

 

それが報じられたのは11月25日で、その日のうちにアルゼンチン政府は翌日に大統領府で告別式を行い、政府は3日間の喪に服すと発表した。

その直後から多くのファンが大統領府前広場に集まり始め、翌日は彼の棺の前を通ってお別れをしたい市民が数十万人に膨れ上がり、その列は何kmにも及んだ。

あっという間に、ADIOS(さよなら)とDIOS(神)にマラドーナの背番号10を組み合わせた『AD10S』というポスターが街に溢れ、彼の生涯は2020年で終わりではなく『1960 ー ∞ 』と無限のマークで記された。

サッカーファンに限らず多くの属性の人々が、彼の不在を悲しんでいて、その大騒ぎぶりはわたしには驚きだった。

マラドーナが有名なサッカー選手で人気者だったことは、いくらサッカー音痴なわたしでも知っていた。

でもこれ程までとは。。。

 

「いちサッカー選手の告別式を、大統領府でやるということ自体が驚きなの!」とアルゼンチン人の恋人に言ったら、「いちサッカー選手じゃないから。」と言った後の解説が、すごーく長くて、途中でストップをかけられないくらいに熱かった。

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マラドーナは貧しい環境に生まれ、恵まれた体格ではなかったにも関わらず、サッカーで世界に名を轟かせたという功績に加え、多くの人々に愛されるキャラクターの持ち主だったようだ。

弱者と貧困の側に立ち、多くの人々の共感を呼ぶ、時には正論、時にはウィットに富んだ行動と言動を繰り出す。

一方で、スキャンダルの宝庫でもある。

薬物で逮捕歴もあるし、酒に溺れ、女癖悪く、素行も悪い。

それでも、その物凄いカリスマ性に人々は魅了された。

彼のプレイ、彼の言動、彼の存在から自らの人生に影響を受けた人が、あまりにも多い。

だからみんなが、『ありがとう』を彼に言う。

 

多くの追悼番組が何日にも渡ってアルゼンチンでは放映されていたが、サッカープレイの名場面集に加えて、名言特集も随分企画された。

ある日、一緒にテレビを見ていた恋人が、画面のマラドーナに合わせて一語一句違わずセリフを発する姿には、思わず二度見してしまった。

わたしの恋人は熱狂的サッカーファンではない。

にも関わらず、そのレベル。

告別式にわざわざ何時間も並んだ人達の思いたるや…である。

全然思い入れがないはずのわたしも追悼番組でジーンと涙ぐんでしまったではないか。

 

アルゼンチンではその後も、彼の話題がテレビ界を騒がしている。

追悼番組ラッシュの後は、NZラクビー、オールブラックスの追悼ハカへのアルゼンチンチームの対応批判が続き、マラドーナ主治医に関する過失疑惑、そしていまは遺産問題が勃発中。

多分、みんながマラドーナを終わったことにしたくないのだと思う。

ずっとお騒がせしていて欲しいのだ。きっと。

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12.1.2020

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

世界一長い隔離政策がアルゼンチンにもたらしたもの。

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世界で一番長いと言われている約8ヶ月の隔離政策も、首都圏では限定的に緩和され、やっと市民生活が動き始めたブエノスアイレス。

花が咲き、街中が美しく色付く季節の街に繰り出せるようになったのは本当に嬉しい。

でもこの頃になると気温が25度を超える日も出てきて、マスク着用が義務付けられている今年は、息苦しいわ、暑いわでなかなか辛い。

日本の夏には機能素材の涼しいマスクがあったと聞いたけれど、南米アルゼンチンにはまだ届いていないみたい。

隔離政策が始まって以降、ありとあらゆるお店が手製の布マスクを販売し始め、柄と形は選び放題だけれども、涼しい快適マスクにはまだ出会えていない。

 

今回のコロナ騒ぎで、ここアルゼンチンではマスクは罰則付きで義務化され、保健衛生の指導が強力に推進された。

慣れないマスクをして、抱擁なしの挨拶を交わし、家の入り口で靴を脱ぎ、アルコールジェルを持ち歩いてせっせと手を消毒している人々の様子を見るのはおかしな感じがする。

習慣を変えるというのは大変なことだと思うのだけれど、馴染むのが早いなぁと感心する。

アルゼンチン人に言わせると、『僕たちは順応が得意』なのだそうだ。

経済状態が悪く、大統領が変わるたびにガラリと政策が変わるこの国の人々は、臨機応変に生きるのが当たり前ということだ。

そりゃ、自作布マスク制作の着手も早いわけ。

何とも逞しい。

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今年、世界中で宅配業が伸びたそうだが、アルゼンチンでいうと宅配創世記を迎えたと言ってもいいのではないかと思う。

だって以前は物が届かない国だった。

サービス自体は前からあったけれど、途中で破損したり、紛失したり、時間が余計にかかったり、そんなことがほぼ基本設定だったから、みんな宅配サービスに信頼をおいていなかった。

ところが、誰も外出できない状況下において、何と素晴らしいことに宅配業が機能し始めた。

スーパーの食料品も、小売店の衣料品も、プレゼントのお届けも信頼されるに値するサービスに成長したようだ。

 

また銀行口座開設がスマホで簡単にできるシステムが整ったのも、この環境下で給付金を口座を持たない市民に配布する為。

収入が途絶えた市民へのサポートの中には、定期的に自宅に小麦粉やパスタ、油などの保存食品を配布するサービスなどもあり、これは話題のベーシックインカムの先取りに思えなくもない。

 

長い長い不自由な生活は、アルゼンチンにおいては、保健衛生教育と近代化のきっかけになったのかもしれない。