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DAYS

STAY SALTY ...... means column

Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

from  Buenos Aires / Argentina

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倉満寿美子
Reiki Teacher / Hypnotherapy Therapist

レイキティーチャー、ヒプノセラピーセラピスト。アルゼンチンタンゴに魅せられて、ブエノスアイレスに渡り、街と空と文化と人に恋をした。ただ今、北海道の実家に帰国中ですが、変わらずブエノスアイレスの魅力をお伝えしていきます。

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こんにちは、さよなら、ありがとう、昔のわたし。

12.5.2024

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

こんにちは、さよなら、ありがとう、昔のわたし。

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今年のわたしの秋は、再会の季節だった。

 

地元で中高生時代の友達と約40年ぶりに集まり、東京で10年前の仕事関係の友達と集った。そして4年前まで居たブエノスアイレスの友達を北海道に迎えて旅をした。

 

それは言わば連続同窓会。旧友と会うことで、その時代時代の自分との再会も果たすことになり、思いがけず、自分史のふりかえりができた感じがしている。

 

彼らを通じて見る昔の自分は、まるで他人のことのように感じられた。それは過去生の世界かと思えるくらいだった。

いや、ヒプノセラピーの過去生の方がまだ出来事や感情が明瞭かもしれない。

何しろ、友人たちが話題にする出来事や登場人物を、わたしはほとんど思い出せないのだ。それはもう呆れられるほどに。

 

ヒプノセラピーで思い出す潜在意識下の過去は、今、思い出す必要のある出来事であって、それを追体験することによって、現在を改善するものだ。そういう役割の記憶だから、セラピーから時間が経っても、割とその内容はしっかりと思えているものだ。たとえそれがずっと何世紀も前のことであったとしても。

 

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それなのに、今生の十数年前の記憶がないって、どういうこと?と自分に問うてみる。

どうも、どの時代もわたしにとっては闇歴史であったせいで、自分で記憶を封印してしまったような気がする。いじめられっ子中学時代と、陰気で人見知りの高校時代、しっかり、キッチリさんの代表のような東京勤務時代。それらはわたしを形作った貴重な経験ではあれども、決して戻りたくはない過去。

 

そう思うと、いろいろなものから解放されて、自分の本質に近づくきっかけになったブエノスアイレス時代は、やはり一番しっくりくる。

 

なるほど。わたしは若い頃の自分の記憶を封印していたのだな。ということが分かった。

それならば、セラピストらしくそれらは清算しておこうではないか。

 

それぞれの時代の、それぞれの場面で、傷ついたり、我慢したり、頑張りすぎて、疲れきっていた自分を、想像の中で、抱きしめて、頑張ったねと労って、癒してあげる。

そして、手放す。さよなら、ありがとう。昔の自分。

 

それらが済んだら、なんだか、旧友たちとの距離感が、一層近く感じられるようになった気がする。これぞ自己セラピーの効果だな。

 

連続した同窓会は、過去の傷の清算のきっかけにもなってくれたのだ。

なんだかジメッとした自分史がさっぱり洗い流されて、今の自分はゼロポジションにいる気分。この先の未来がぐっと広がったのではないかしら?

 

今回の写真は、アルゼンチン時代の友達と巡った北海道旅行のもの。実り多き再会の秋を超えて、ありのままの自然体で過ごせた、よき旅だった。

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いまあるお金は、魂を磨く為だけに使う

7.1.2024

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

いまあるお金は、魂を磨く為だけに使う

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今年の夏は、関東から北海道に遊びにきてくれる友達を富良野に案内する予定。どこに行くか、何を食べようかと、ただ今プランを練っているところだ。

 

近頃のわたしの選択肢フィルターは、もっぱら『お金の問題か?』というフレーズ。時間やその他の制約がある場合は仕方がないけれども、この身に染み付いた『節約モード』がブロックになっている場合は、それを取り払い、前に進むようにしている。

現在のわたしは、両親の介護をしながらの実家暮らし。言い換えると定職を持たず、収入もないパラサイトである。だから、費用の枠を外して何かをするという発想は、非常識かもしれない。

 

でも、昨今の金融の揺らぎ方を見ていると、動かさない貯金や保険にはかえってリスクがあるように思ってしまう。未来の為に我慢するより、いまを楽しむために使っても良くないか?

 

同様に、引き出しの中の何年も使っていないブランド品も、価値のゼロ化は目前のような気がする。使うあてもないし、売ってしまえ!と実行に移したら、予想を超えた金額が振り込まれてきた。おかげで前回の海外旅行費用には困らなかった。

この顛末をわたしはとても気に入っている。そして、モノやお金への執着から解き放たれた今の自分のことも、いいな、と思っている。

 

離婚して大量のモノを処分した黒歴史は、モノに執着しないわたしを作り上げた。

 

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経済が不安定なアルゼンチンで暮らしたことで、お金は紙切れだと思えた。アルゼンチンでは自国通貨ペソの価値は毎日乱高下するから、手元の米ドル札を換金するタイミングを測りながら暮らしていた。頭では円換算でついつい考えてしまうから、円ドルの為替も気になるし、スーパーの商品の値段だって昨日と同じじゃない。一体、どのタイミングで手を打つのがいいのだろうか?

その上、不思議なことに、ピン札と古いドル札では換金レートも変わってしまう。紙幣の価値って一体なんなのだろう?

こんがらがった頭を解いて、はじめて紙切れに翻弄されるのはナンセンスだと思えるようになった。

 

アルゼンチン人の生き方にも影響を受けた。彼らは何度も経済破綻を経験しているから、国や貨幣の未来を信用していない。だからまとまったお金があれば、不動産、車など形に残るものを買うし、貯金するならドル札で持つ。明日のお金の価値は未知だから、今、友達や家族と楽しむ為の支出を厭わない。

 

今日も、ニュースや動画に映るブエノスアイレスのカフェやピザ屋はどこも賑わっている。去年から今年にかけてアルゼンチンはひどいインフレで、消費は落ち込んでいると統計上は伝えられる。でも人々の繋がりと、日々の楽しみは落ち込みはしないのだ、あの国は。

あの様子を見ると、やっぱり楽しみを先送りにしている場合じゃないと思える。

 

肉体の終わりを迎えるときに、モノは何も持っては逝けない。経験を積み重ねて、学びを深めることが魂の目的なのだ。繋がりを大切に、愛すること、感動すること、五感を満たすこと、そんな事柄を優先してお金を使いたいと思う。

 

夏の富良野では、いい景色を堪能して、美味しいものをたっぷり食べるのだ。友達と体験を共有し、好奇心を満たし、語り合って、魂を磨こう。費用は気にせずに。

聞いちゃいけない話題の人のこと

4.15.2024

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

聞いちゃいけない話題の人のこと

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巷では、わたしのアルゼンチンのボーイフレンドの話題は、触れてはいけないことのようになっているらしい。

いつの間にか破局しているかもしれないから、聞いちゃいけない気がするみたいだ。

 

友達がわたしに彼の話題を持ち出すときには、「聞いていいのかわからないけど…。」と枕詞がつくし、こちらから彼の名前を出したときには、「連絡とっているんだ?」と聞き返されることもある。

 

確かにラテンの国の男と遠距離で繋がり続けることなんて、摩訶不思議なおはなしだと思う。

でも、実際に彼とわたしは良好に関係を保っている。

もしかしたら、距離が離れているから良好なのかもしれない。

お互いに、見えていない素の生活があって、電話で交わす言葉は相手を思いやることと、最近の出来事だけ。

 

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彼は、体調不良の時は「レイキをして欲しい」と言ってくることがある。

遠隔でヒーリングしながら様子をリーディングすると、彼の調子は本人が話しているよりずっと精神的にきつい状況のように見て取れることが多い。

インフレ率が200%を超えるアルゼンチンで生計を立てることは、予想を超えるストレスがあるのだろう。

こんな時は、自分がセラピストで本当によかったと思う。

すぐに駆けつける事が出来ない距離感で、ただやきもき心配するしかなかったならば、わたしの方が参ってしまう。

ヒーリングを送ることで彼の調子を整える手伝いができていることは、二人の繋がりにも役立っていると思う。

 

わたしにとっては、彼との会話こそが癒しになる。

 

「今日はどうだった?」と彼に聞かれても、わたしの日常は話題らしい話題もない日の方が多い。

「暇つぶしに動画編集したり、文章書いたりしていたよ」とふてくされ気味に言う。

『暇つぶし』をアルゼンチンでは『matar tiempo(時間を殺す)』と表現する。

すると彼は『スミコがやっているのは、hacer tiempo viva(時間を生かす)でしょう?』と、返してくる。

彼にとっては言葉遊びのようなものだけれども、こういうことが言える、この人が好きだな、と思う。

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わたしが父母の介護で気が滅入っている時にも、彼はいい感じの切り返しをしてくれる。

わたしはイライラして、親に対して思わず放ってしまったキツイ言葉や、乱暴な態度に、後になってから自分で落ち込むのだ。

彼も見送った母親は認知症だったので、そういう場面に理解を示してくれる。

ついでに「『Uno no es de fierro(人間は金属片じゃないんだから)』こんな言い回しがあるんだよ。」とスペイン語の慣用句を教えてくれた。

人間なんだから感情があって当たり前。

気にやむ必要はないのだと。

彼も子供の頃に、おばあちゃんからよく言われたフレーズなのだとか、そんな昔話もついでに聞いていたら、いつの間にかわたしのモヤモヤは影を潜めていた。

 

そんなことがある度に、わたしはこのボーイフレンドのことが大切だな。と思うのです。

パリで踊る、バンコクで踊る、アルゼンチンタンゴ

2.10.2024

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

パリで踊る、バンコクで踊る、アルゼンチンタンゴ

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年末年始と久しぶりに海外旅行を楽しんだ。

1ヶ月の間にパリ、そしてバンコクを駆け足で。

どちらにも友達が居て、彼女たちに会いに行くのが主目的だったけれども、副産物としてどちらの街でもアルゼンチンタンゴを踊るミロンガに行くことができた。

 

北海道に暮らし始めてからタンゴとはすっかり疎遠になっていたので、果たして自分は踊れるのだろうか?と心配していたけれども、踊り出したならば、身体は勝手に動くものだった。

 

そして踊ってみたならば、どうして自分はこの楽しみを何年間も封印できたのだろう?と不思議になるほどに、その心地よさと面白さに陶酔した。

 

音楽を体で表現するという楽しさは、フラのような一人で踊るダンスでも味わえる。

 

誰かと繋がるコミュニケーションの楽しさや、無心になる感覚は、セラピーの世界でも味わえる。

 

でも、音楽とその空間を目の前のパートナーと共有し、無言のコミュニケーションを行いながら踊る、その面白さはやっぱり二人で踊るダンスならではだと思う。

さらにそこにアブラッソ(ダンスの抱擁)を介するのが、アルゼンチンタンゴ。

ハグするからこそ感じること、伝わることというのがあるのだ。

 

ただただ、気持ちよくて、にやけちゃう面白さをひたすらに楽しんだのは、いつ以来だったのか。

帰り道に「あー、楽しかった!」と声に出して、そんな自分に驚く。

こんな無邪気さが自分に潜んでいたことすら忘れていた。

 

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パリのタンゴも、バンコクのタンゴもブエノスアイレスのそれとはちょっと違う。

それを見つけることもまた楽しいものだった。

 

パリのタンゴは少しマッチョかな?と思う。

男性が女性を思いのままに動かすことを楽しんでいる感じ。

「とても個人主義」というフランスの国民性がタンゴにも現れるのか?パートナーの意向はお構いなしで派手なステップをリードされることが多い。

音楽の扱いも然りで、曲を聴いているというより、時々、音に合わせて体を動かす、スポーツをしているみたいな感覚に陥った。

ただ、パリはタンゴ人口が多くて、フロアの中から自分好みの踊り手を見つけ出すのが思いの外楽しかった。

 

バンコクのタンゴは、タンゴのダンス。

南国の湿気のある暑さ、微笑みの国タイの柔らかな空気感と、アルゼンチンタンゴはどうもわたしの中でマッチしづらい。

行ったミロンガはタイに住む外国人や旅行者のほうがタイ人よりも多くて、それぞれが思うアルゼンチンタンゴをかき集めてそのフロアを構成しているような感じを受けた。

まるで、タンゴレッスンを受講した時みたいな気持ちで、踊ってくれた先生をフォローすることを純粋に楽しんだ。

『タンゴはパスポート』と人々は言う。

タンゴさえ踊れたならば、言葉が通じなくても知り合いがいなくても、世界中で踊れて、世界で友達ができる。

ヨーロッパとアジア、全く異なる文化圏の2都市のミロンガに行ってみて、全くその通り。と思った。

その地にアルゼンチンタンゴがあったならば、そこにわたしの居場所がある。

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アルゼンチンの新しい時代の大統領

12.10.2023

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

アルゼンチンの新しい時代の大統領

11月19日、アルゼンチンでは大統領選の決選投票が実施されて、経済学者でリバタリアン(自由至上主義者)、第三極・極右のハビエル・ミレイ氏(53)が当選。

次期大統領に決まった。

 

もともと大統領選は10月22日が投票だったが、5人が出馬した選挙では45%以上の当選の条件を満たした候補はおらず、そのため11月に改めて、首位約37%を得た与党連合の中道左派セルヒオ・マサ経済相(51)と、2位のミレイ氏(約30%)の決選投票になった。

そのくらいに、支持が割れていた。

市民の中には、「誰に決まってもアルゼンチンが悪くなるか、もっと悪くなるかだ。」と皮肉る人も少なくなかった選挙。

 

結局は、破天荒な振る舞い、公約で、『アルゼンチンのトランプ』というあだ名のミレイ氏が選ばれた。

 

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アルゼンチンは、前年比140%を超えるインフレ。

市民の生活感ではもっと上がっている印象で、日々の食料品や生活に必要な支出が十分にまかなえない貧困層が人口の40%にのぼると言われる。

この現状を招き、改善できない現政権なんて、まっぴら御免という民意がこの結果を生んでいる。

ミレイ氏を選んだというのが正解か、現政権にNOという意図の反映なのか、実際のところはどっちなのだろう。

 

ミレイ氏のびっくり箱みたいな公約は、米ドルの法定通貨化、中央銀行の廃止、赤字国営企業の民営化、国家支出の削減、輸出入税の撤廃などなど。

弱小政党で議席数が少ないので、実際に公約を果たすまでには壁があると言われる。

でも、6年住んで、前回大統領交代の時期を過ごしたわたしの感触では、意外といけるのかも。と思う。

アルゼンチンは変化が早いのだ。

大統領が変わると、こんなに生活感が変わるのか!と、あの頃は異国の政治と生活の直結感に驚いた。

 

ミレイ氏は当選演説で、「きょうからアルゼンチンの再建が始まる。きょうでアルゼンチンの没落は終わる。」と言った。

いいねぇ、それ。と思う。

 

引き合いに出されたトランプ前大統領も、当選当初は世界に驚きと困惑を巻き起こしたけれど、何年も経って、いまは彼の政策や実績の真実が正当性を持って表面に現れ始めている。

それをみると、アルゼンチンのトランプも、あながち悪くないように感じたりするのだ。

今まで長い間をかけて蝕み続けてきたアルゼンチンを、まずは真っさらに壊してしまって、土台から新しく立て直す。

それには破天荒なキャラクターが必要だったし、それを時代が後押ししているのだと思う。

大規模な変容には痛みが伴うものだから、しばし、今よりもっとキツイ時期を経験するかもしれないけれど、アルゼンチンの力強い大地に生まれ育った人々には、それを受け止める大きさがあることをわたしは知っている。

 

きっと大丈夫、夜明けはすぐそこ。

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南米の母なる大地に感謝する日

8.5.2023

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

南米の母なる大地に感謝する日

北海道の田舎暮らしでは、四季の移り変わりがとても身近だ。

見守り介護の毎日は自由はないけれど暇はあるので、気晴らしに外に出ては、緑の色合いの変化に目を細め、花々を撮影したりする。

自然に親しむと、日本の大地のエネルギーは繊細だと改めて思う。

 

誰しも異国に降り立った時に、「お、匂いが違う。」というような気づきを得ることが多いと思うが、土地ごとのエネルギー、気にも違いがある。

わたしが感じる日本のそれは繊細で涼やかな感じ。

ここにいると余計なものが削ぎ落とされて、本質へと導かれるような気がする。

それに比べて、アルゼンチンは力強い湧き上がるような活力感がある。

ブエノスアイレスに遊びに来た友達の多くが、「なんだか元気になる。」と言っていたけれど、大地の気は無関係ではないと思う。

 

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大地の気を司る神は、南米ではパチャママという女神とされている。

アンデス地域の先住民族であるケチュア族の言語、「世界」や「宇宙」を意味する「パチャ(Pacha)」と「母」を意味する「ママ(Mama)」の二つの単語が結合したパチャママの名称は母なる大地と訳される。

その姿形は出回るイラストや置物などによってバラバラだけれども、総じて豊かさと母性が感じられるどっしり体型、やさしい表情だ。

 

今回この話題を書いているのは、南米では母なる大地に感謝を捧げる『パチャママの日』が8月1日はだから。

その習わしはアンデス文化がある南米各地で先住民時代から続いていて、アルゼンチンでもペルーやボリビアに近い北部に伝統行事が残る。

地面に穴を掘り、酒や果物、穀物など大地からの恵みをそこに納めて祈りを捧げる。

アルゼンチンの8月は冬。春がきて種を蒔く前のこの時期に、これから土を掘り起こし耕すことに対して大地に許しを請い、豊かな実りを施してくれることに感謝するのだ。

 

今年のアルゼンチンは水不足の影響で作物の出来が悪い。

農産物の輸出が大事な収入源のアルゼンチンでは、そうじゃなくても良くない経済に大きな影を落としている。

そんなこともあって、今回のパチャママの日は、いつにも増して大地への祈りを念入りに届ける日になりそうだ。

人々に元気をくれる大地のエネルギーと、次の収穫期に豊かな実りをもたらしてくれることへの感謝を意図して、わたしも地球の裏側から祈りたいと思う。

 

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アルゼンチンママの最期のギフト

6.10.2023

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

アルゼンチンママの最期のギフト

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五月の初旬のある日、珍しい時間にアルゼンチンのボーイフレンドから電話が入った。

それは彼の83歳の母親が亡くなったという知らせだった。

数年前から車椅子生活で施設に入っていたので、急に、という訳ではなかったけれども、その事実はやはり悲しい驚きをもたらすものだ。

 

彼の母は、アルゼンチンのステレオタイプの母親像とはちょっと違う種類の女性だった。

一般的にアルゼンチンは家族の繋がりがとても強くて、家族の集まりはかなり頻繁だし、家族間の連絡はとても密だ。

電車の中で、中年のおじさんが「Hola mama」と携帯で母親と話している姿は、はじめは異質に感じたけれど、生活するうちに珍しいものではないことがわかってきた。

日本人からみると過干渉気味に感じてしまう家族関係だけれども、彼の地においては、それが普通。

 

そんな中にあって、彼のママは子供との間に距離感のある人だった。

それは彼女が女優という職業だったせいかもしれないし、早くに夫を亡くし働きながら二人の兄妹を育てたワーキングママだったせいなのかもしれない。

歯科医師から66歳で女優に転職、貫禄のある年配の女性という役柄を劇場や何本かの映画で演じていた。

ユーモアがあって、社交家、おしゃれで華やかさのある彼女は、とてもカッコよかった。

物言いがはっきりしている一方で、外国人であるわたしには、ゆっくりと優しく言葉の指導もしてくれた。

 

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彼女の訃報を聞いて電話口で涙ぐんだわたしにボーイフレンドは「僕と妹以外の人の方が、ずっと母が亡くなったことを悲しんでくれるね。」と冗談を言った。

華やかな表舞台に生きたママに寄せられた悲しみのコメントはすごく多かったのだそうだ。

この冗談を彼が皮肉ではなくて、愛のこもった声で言ったのを聞いて、わたしは安堵した。

それは感情のもつれがあって衝突も多かった彼ら親子の関係を、わたしは気がかりに感じていたからだ。

50歳を超えてもなお、わたしのボーイフレンドとその妹は母親の愛情に飢えているような部分があって、幼い頃に期待する愛情を十分に与えてもらえなかったことへの不満がくすぶっているようだった。

特に母娘の関係性は険悪だった。

 

ところがその娘は、母が弱って一人暮らしが不可能になった時、母を自分の家に引き取り、その後施設に移るまでの間、献身的に世話をした。

そしてその間に、自分と母親との関係性を再構築したみたいだった。

今際の際でママは娘に「あなたを愛してるよ。たくさん、たくさん、たくさんね。」と言ったのだそうだ。

お兄さんであるわたしのボーイフレンドにとってのこの数年は、ゆっくりと母親との決別を準備する期間だったように思う。

強くエネルギッシュな面影が消えて、物忘れをし始めたママとは、だんだんと冗談も言い合えないし、喧嘩することもできなくなっていった。

施設に入ってからは頻繁に顔を見ることもできず、それは「ママを失う」体験を何度も重ねることだった。

今、彼がとても穏やかに、母親の死を受け止められているのは、この数年間があったおかげのような感じがする。

 

そんな風に見ると、患ってからの数年間は、ママからの息子と娘へのギフトだったのかもしれない。

二人の子供にとっては、ママを見送る準備期間が必要だったのではないだろうか。

もつれた感情の関係性が清算されて、彼らの心の準備ができるまで、ママは旅立つのを待っていたのかな。と思ってしまう。

 

葬儀の翌週には兄妹は揃って故郷に出向いた。

母親の遺灰を散骨するためのその旅はとても満足のいくものだった、とボーイフレンドは知らせてくれた。

わたしは、みんなの気持ちが昇華したように感じて、心から良かったと思った。

 

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宙ぶらりんな恋人

4.10.2023

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

宙ぶらりんな恋人

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年老いた両親との同居で、一番、参るなぁと思う話題はつれあいのことだ。

 

認知症の母はすでに色々なことを覚えていないので、ふとした拍子に「今日はあんたの旦那さんはどうしたの?」と聞く。

娘が結婚16年目で離婚して、その後アルゼンチンに行き、あちらにボーイフレンドを残して、介護の為に帰国したことなど、もちろん覚えていないから。

旦那じゃないけれど、そんなことはどうでもいいから「外国にいるんだよ」と返事する。

母「なんで外国にいるの?」

わたし「だって外国人だからね」

ここからの展開はふたパターン。

一つは、「ご飯は一人で作れるのかい?」母には、家族が美味しいご飯で満たされていることが大事なのだ。

もしくは「なんで離れ離れでいるの?ダメだよ、男の人は一人で放っておいてはいけない。」

昭和初期の生まれの女としては、夫婦は一緒にいるのが当然なのだ。

どちらにしても、「今度連れてくるから、ご馳走作ってあげてね。」と返答すると、大抵の場合「連れておいで。連れておいで。」と母は上機嫌になってくれる。

とにかく曖昧なままに早々に話題を切り上げるのが常だ。

 

実際のところ、彼とわたしの遠距離恋愛もかなり曖昧だ。

わたしがアルゼンチンから日本へ一時帰国をするとき、彼は親の介護という理由に理解を示してくれた。

その時点では、2年以内には短期だとしても一度はブエノスアイレスへ戻るつもりだったし、3年半経てばお役御免して自由の身になれるはずだった。

ところが、今やブエノスアイレスへ戻れる日は予定すら立てられない。

 

今でも彼とは定期的にメッセージのやり取りをするし、電話でも話している。

近況報告をして、お互いの親の健康状態を気遣う。

とりとめなく30分、1時間と話すこともあるけれど、二人の関係性に関するシビアな話題を扱うことはない。

 

彼の存在は、わたしにとってのオアシスだ。

とても大切に想う相手だし、ハートのピュアなところが好きだと変わらず思う。

目の前に居なくても気持ちが繋がっている気がする。

だから、実は会えなくて寂しいという感覚はあまりない。

もはやボーイフレンドという呼び名よりも、魂の伴侶という方がしっくりする気がする。

 

彼がその辺りをどのように思っているのかは、実のところ分からない。

曖昧なまま放置しているのが現状だけれども、わたしはそれが悪いことのようにも感じていない。

物事が動くときには、きっと動くのだ。

 

さて、我が家の食卓では、先の会話に続けて父が「スミコの彼氏が来たら、ママはスペイン語を覚えなくちゃならないから、大変だね。」と続けて笑う。

それは、想像するとカオスな場面だけれども、母にとっては刺激的でいいのかもしれないな。とも思う。

弟も「彼氏が来てくれたならば、スキーでも、釣りでも、何処へでも案内するよ。」という。

 

以前から、ボーイフレンドに、いつかはわたしの生まれ育った国を見てもらいたい。というほのかな夢を抱いていた。

それを実現するタイミングは、もしかしたらこの状況なのかもしれないな。という考えがよぎる。

それがグッドアイデアだと思う瞬間もあれば、我が家に背の高いアルゼンチン人が滞在する図はやっぱりカオスだと思い直したりもする。

そして決断は先延ばし。

 

宙ぶらりんなボーイフレンドを、日本に招待する企画も宙ぶらりんなままの3度目の春。

 

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代表ユニフォームを買うぞと心に決めたアルゼンチンW杯優勝

2.8.2023

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

代表ユニフォームを買うぞと心に決めたアルゼンチンW杯優勝

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年を越してサッカーW杯はずいぶん前のことのように思える。

 

36年ぶり3度目の優勝をアルゼンチンにもたらしたチームが凱旋帰国した12月20日、ブエノスアイレスの街に繰り出した人々は500万人とも600万人とも言われている。

人々が街を埋め尽くしたその様子は尋常ではなくて、バスでの凱旋パレードはルートが二転、三転。

最終的にはヘリコプターで選手が空から挨拶する形になった。

優勝を受けて、このパレードの火曜日が急遽祝日になったのは、なんともアルゼンチンらしいなと思う。

 

経済も政治も悪くて国中が疲弊していたアルゼンチンにおける久しぶりの華やかな出来事。

36年もの間、熱望しながらも何故か優勝できなかったW杯であり、スター選手メッシにとっては年齢的に最後のチャンスかもしれない大会だった。

サッカーファンならずとも家で黙ってはいられない。

その勝利の感動を、選手たちへの感謝を、高揚感を一人でも多くの人々と共有したい気持ちが、人々を街へと誘ったのだろう。

決勝進出が決まった時も、優勝の日も、試合が終わると多くの人々が通りに出てオベリスコを目指した。

 

現地にいたならばわたしも路上に繰り出していただろうな、と思う。

だって分かち合いたいのだ。

この瞬間を。

アルゼンチンカラーを身につけて、知らない人たちとジャンプしながら、応援歌を歌ったならば、どんなに楽しかっただろうか。

そんな妄想をしながら、わたしは独り北海道の実家のテレビで決勝戦を見た。

真夜中に無言で観るサッカー中継はつまらない。

今回ばかりはアルゼンチン代表チームユニフォームを持っていないことが悔やまれた。

たとえ一人ぼっちでもチームカラーを身につけてテレビの前に座りたい気分だったのだ。

仕方がないので国旗デザインのマテ茶器を握りしめてみた。

次にブエノスに戻る時には、新しい代表チームのユニフォームを買っちゃうぞ!と今から心に決めている。

そのデザインには3度の優勝を示す星が三つ付いているはずだ。

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タンゴのアブラッソ(抱擁)を記憶する者として。

11.7.2022

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

タンゴのアブラッソ(抱擁)を記憶する者として。

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アルゼンチンを離れてもうすぐ2年になろうとしている。

ブエノスアイレスには、マスクなしで抱き合って踊れるタンゴの世界がすっかり戻ってきているそうだ。

 

わたしがそこに居ない間、現地の様子と共に残念な訃報もいくつも受け取った。

 

もともとミロンゲーロス(タンゴダンスパーティーを愛好する人々)には年配者が多いので、ブエノスアイレスに住んでいた頃も、ミロンガ(ダンスパーティー)の顔見知りの訃報に接した経験はある。

でもこの2年は、その数があまりにも多い。

 

ほとんどの場合は、SNSを通じてその事実を知る。

他がどうかは知らないけれど、タンゴ界では知人友人が、故人との思い出話と共に写真を投稿したり、当人のFacebookページにお悔やみのコメントをする。

だから、目覚めて携帯を持ち上げたと同時におびただしい数の投稿を目にすることになる。

あさイチから、もう彼らと挨拶を交わすことも、踊ることもできないのかと心が乱れる。

 

特に親しかった人の場合、訃報は友達からダイレクトに知らされる。それをこの2年でふたつ受け取った。

ひとりは毎週ミロンガで同じテーブルに座っていた男性だった。

お年寄りではないし、健康そうに思えたその人は旅先で突然に亡くなったそうだ。

大きな体で、優しいアブラッソ(抱擁)で踊る人だった。

曲と曲の合間に、まったくどうでもよい、いい加減な浅い感情の口説き文句を、毎回同じように言って笑わせてくれるセニョール。

クセがなくて安心感のあるハイジの白パンみたいなワルツの1タンダ(3曲のワンクール)。

わたしたちの間にあった「いつものそれ」は、もう永遠に戻らない。

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ふたり目は、とても大事な人だった。

彼と踊るのが大好きだった。

同じように彼のタンゴを愛していた女友達から訃報を受け取った。

少し前に病気らしいと聞いていたが、その後があまりに早かった。

独特のスタイルで踊るその方はとても素敵で、彼と踊ってみたいと憧れていても、長いことその夢は叶わなかった。

誰とでも踊るわけではない、お好みのはっきりしているミロンゲーロのリストに入るのは、そう簡単ではないのだ。

ある日、目線のラブコールをやっと受け取ってくれた彼とのタンゴでは、踊ることよりも、そのアブラッソ(抱擁)に心を奪われた。

「電流が走ったみたいだった」と言ったら、女友達はみんな笑ったけれども、そのくらい尋常ではない何か特別なものを感じた。

のちにヒプノセラピーで過去生を紐解いてみたら、いつかの時代に私たちは親子だったことがわかった。

過去に彼はわたしの子供で、その子を腕に抱く愛おしい感覚が、ダンスのための抱擁で蘇ったのが、特別感の理由だったようだ。

何年経っても彼と踊るときにはドキドキした。

仕事柄わたしは魂は永遠であると知っている。

それでも、彼の情熱的な抱擁でタンゴに陶酔することがもう2度と出来ないのだと思うと、その喪失感は大きい。

 

タンゴ界では踊ってお別れをする。

彼らが通っていたミロンガでは、故人の定席に一輪の花が置かれ、オーガナイザーが言葉を述べて、故人のためのタンゴが流れる。

そして人々は故人を偲んで踊るのだ。

 

ダンスにおいてリーダー役ならば、特有のステップやミュージカリティを通じて彼らのタンゴを受け継ぐということが可能かもしれない。

 

フォロワーの役割の女性にできることは少ない。

ただ、実際にパートナーとして踊った相手にしか分からない彼らのタンゴを私たちは知っている。

抱擁の内側にあるエネルギーの熱量や、音楽との距離感や、ふたりの間に醸成された新たな世界観。

わたし達にできるのは、その抱擁を記憶する者として、誇りを持って踊り続けていくこと、と思っている。

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わたしを語るに必須のアルゼンチン経歴

10.7.2022

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

わたしを語るに必須のアルゼンチン経歴

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日本で久しぶりに対面レイキクラスの仕事が入り、自己紹介をする機会があった。

 

教える側としての自己紹介は、目の前にいる生徒さんとの距離を縮めるという目的が全てだと思っている。

出来るだけお相手が共感できる履歴を組み込んで、反応が感じられた部分は少し追加して話してみる。

 

16年に渡る東京在住、結婚・経営・離婚の話でキュッと距離が近づいた。

次にアルゼンチンの話で、聞き手が身を乗り出してきたのを感じ、今のわたしを誰かに知ってもらう為にアルゼンチン生活の経歴は外せないのだ、やっぱり、と思う。

 

ざっくり、こんな話をした。

 

離職、離婚をきっかけに、習い事のアルゼンチンタンゴの本場ブエノスアイレスに行ってみた。

地球の裏側のそこは旅程だけで30時間を確保しなくてはならないので、働く日本人の短い休暇では、時間が足りなくてなかなか行けない。

無期限のバケーションに入ったわたしにはぴったりの行き先だった。

予定を3ヶ月延長して半年後に日本に戻ってみると、そこはもう自分の居場所ではないような気がした。

もう自分は「ちゃんとやる」ことが無理だと思った。

人の期待に添える仕事をやり遂げる社会人とか、誰からみても恥ずかしくない振る舞いのできる大人とか、そういう自分に戻れない、戻りたくない。そんな感じ。

 

アルゼンチンという国の、ラテンの自由で陽気でいい加減な雰囲気(失礼)と、人生における仕事の優先順位が低く、みんなが自己中(失礼)という、驚きの異文化体験。いいんだ?これで。と思えたのは人生での重大発見だった。

フレンドリーであたたかい人間関係に癒されたし、好きなだけタンゴのクラスを受けて本場のミロンガで踊ることができる毎日は楽しかった。

一方で、言葉と文化の壁には苦労して、いつまで経っても会話らしい会話ができなくて、情けなくて落ち込んだりもした。

何もかもが初めての刺激だらけの毎日は、仕事も結婚生活も頑張りすぎて燃え尽きていたわたしに再び色彩を与えてくれた。

日本に居続けていたならば、なかなか立ち直れなかっただろうと思うのだ。

 

そして渡航寸前に友達から勧められて受講したレイキが、ひとりぼっちの海外生活でとても役立った。

心と体の不調を自分でケアできて、安心を自分自身で作り出せる癒しの技は心強いサポートとなった。

また、日本よりも海外で人気の高いレイキは、現地の人との話題のきっかけになりやすかった。

レイキの強みがよく分かった後は、短期帰国の度に上のクラスを受講して、講師になり、ブエノスでヒーリングの施術と伝授クラスを生業とするに至る。

現在は両親の介護のために、北海道の実家に長期で一時帰国中。

 

こんな感じの自己紹介。

 

わたしに起こった意識の変化と、人生の別の扉が開いていった経験は、現実逃避の異国生活がきっかけだ。

そのくらいしないと頭の硬いわたしは、変化を受け入れるのは無理だったと思う。

でも今となっては、アルゼンチンに行く前の自分を、あんなに頑張らなくてもよかったよね。もっと気楽に生きていられたらよかったのにね。と思うのだ。

 

大げさに異国に飛び出さなくても、自分を癒すことに気づけて、癒しの技を身につけたならば、毎日がもっと楽で、楽しくて、輝きに満ちたものになる。

いまのわたしはそれを知っている。

わたしの人生に興味を持ってくれた人たちに、もっと近道をして欲しい。

 

そんな気持ちで心を込めてレイキクラスを行った。

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おうちコーヒー豆選考、放浪の末に。

9.5.2022

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

おうちコーヒー豆選考、放浪の末に。

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アルゼンチンに住んだ人のあるあるに、「アルゼンチンに来てコーヒーに砂糖を入れるようになった」というのがある。

わたしも同様だ。

 

ブエノスアイレスのカフェで多くの人が注文する Cafe con Leche(カフェオレ)や、Cafe Cortado(カフェオより少なめのミルク入り)には、大量の砂糖の袋が付いてくる。

そしてアルゼンチン人は何袋も使う。

はじめは「信じられない。」という思いで眺めたものだが、試してみると確かに砂糖を溶かしたほうが美味しく飲める。

苦味が強いからだ。

おそらくミルク抜きで提供されたならば、飲み干せない飲み物かもしれない。

それでも街角カフェのテーブルで口に運ぶコーヒーはあの味が似合う。

 

自分のアパートで朝に飲むコーヒーはストレート。

ブエノスアイレス暮らしを始めた頃、その、おうちコーヒー豆の銘柄選びはずいぶんと長い道のりだった。

 

世界的コーヒー原産国のある同じ南米でもアルゼンチンで栽培されるコーヒー豆はごくわずかだそうだ。

ブエノスアイレスのスーパーに並ぶコーヒー豆のほとんどはコロンビア産かブラジル産だ。

 

それらの輸入商品の他に、輸入豆をアルゼンチンのブランドが焙煎して商品化しているものもあるが、試したアルゼンチン焙煎は苦味だけある茶色い液体だった。

あとで砂糖を入れて焙煎するらしいと聞いて合点がいった。

それは焦げた苦味に近かった。

スーパーの商品は色々試したけれども、深煎りが好きなわたしはどうにも好みのコーヒーに巡り会えず、次にカフェチェーンの売り場にあるコーヒーも試すことにした。

 

ブエノスアイレスにもスターバックスコーヒーはあるが、地元の感覚だとスタバは高級店。

売っている豆もばかみたいに高く、ドルの高騰とともに頻繁に価格改定がある。

日本でも馴染みのあったパッケージの豆を試すと、当然だがちゃんとコーヒーの味がしてコーヒーの香りがする。

美味しい。

しかし高い。

それに、と思う。

せっかく南米にいるのに、なぜなぜスタバ?

 

考え直して、地元のカフェチェーンのブランドコーヒー、こだわりの自家焙煎専門店の豆などいくつも試す。

コーヒー豆のお試しは一度買うと一袋を消費するのになかなかの日数がかかるので、放浪の旅は長いことかかった。

 

そして結局のところ、たどり着いたのはスタバのコーヒー豆。

アルゼンチン人の恋人には「そんな価格のコーヒー豆を買うなんてどうかしている。」と言われたが、地道に試した最後の結果だ。

もはや妥協はできない。

「高いけど美味しいよね、このコーヒー。」という問いには、彼も頷いたものだった。

 

おかしな話だが、北海道に住む今のわたしには、スタバのコーヒーがブエノスアイレスの思い出の味になってしまった。

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地球の裏側に送るヒーリング

7.11.2022

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

地球の裏側に送るヒーリング

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北海道の実家暮らしを始めてからのわたしは、セラピストとしての活動をほぼほぼ自宅で完結している。

レイキには遠隔ヒーリングという、離れた場所から時空次元を超えて届けるヒーリング手法があるのだ。

クライアントの体調・心情に沿って癒しのエネルギーを送って、自己治癒力が活性化するようにチャクラやオーラの状態を整える。

 

クライアントの中には、ブエノスアイレスに居た頃お得意様だったアルゼンチン人もいる。

 

何かと不安定な世の中だけれども、アルゼンチン人は歴史的に不況や先行き不安に慣れている。

こういった世界情勢の中でもそれぞれの楽しみを見つけて楽観的に日々を暮らすのが上手な人たちだ。

その逞しさが好きだし、そこに学ぶことも多い。

と、あちらに住んでいた頃には認識していたし、それを疑うこともなかった。

 

ところが最近、いやいや彼らもやっぱり不安で怖いのだ、と遠隔レイキを通じて思った。

というのは、そう思わせるケースが続いたからだ。

具体的には、主要な7つのチャクラのうちの第一チャクラと第六チャクラが不活性。それは地に根をがっちり張ることをせずに、未来を無理に見ようともしないという状態にみえた。しかも本人の潜在意識が意図してそうしているようなのだ。

 

不安定な国の表層に根を張ったならば国と一緒に自分もグラグラするし、経済不安の中で自分の未来予想図を必死で描いても迷いが一層深くなる。解釈してみると、そんな感じだろうか。

 

しかし全てのチャクラが不調な訳ではなく第七、第三チャクラは活性化している。

それは天からのエネルギーをしっかり受け取っていてインスピレーションに明るく、自己肯定感が安定しているという状態。

 

ということは、この意図されたチャクラのアンバランスは、彼らなりの今を生き抜く波乗り術なのかもしれないと思えてきた。

 

通常、スピリチュアル的には天と地としっかりコネクションが取れていて、各チャクラが活発に動いている状態が理想とされる。セラピストとしても滞っているチャクラを活性化すべくセッションを進めるのが常だ。

でもこんな時は、無理に全てのチャクラを活性化することに注力するのは得策とはいえない。

その人の現状にとっての最良最善を意図してヒーリングエネルギーを送る。

怖い暗闇は薄目を開けて爪先立ちで歩いてもいいじゃないか。

来るべき飛躍の時に、よく張ったアンテナでチャンスを掴み取り、自分を信頼して立ち上がれたらいいのだ。

きっと。

その魂にエールを送るような気持ちでヒーリングをした。

そしてアルゼンチンという国の未来も輝くように、南米の大地にも地球の裏からヒーリングを送ることにした。

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ブエノスアイレスのバスの思い出と運賃のはなし

5.5.2022

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

ブエノスアイレスのバスの思い出と運賃のはなし

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最近ブエノスアイレスから聞こえてくるのは値上がりの話題ばかりだ。

日本もインフレが進んでいるが、アルゼンチンのそれは度を越している。

20年ぶりの高水準と言われ、3月の物価上昇率は前年同月比55.1%。

「生活感覚だと去年から二倍から三倍になった感じ。」なのだそう。

スーパーで色々買い物してトータル1000円位だったものが、3000円になったら、その負担は大きい。

 

日本からブエノスアイレスに移り住む利点の一つには、『生活コストの安さ』があったのだけれども、もうそんなことは言えないご時世になってしまった。

 

そんな中でも、公共交通機関の料金だけは据え置かれている。

バスの初乗り18ペソ(数十円のレベル)は驚異的な安さと言えるかもしれない。

わたしの愛するバス旅が守られているのは、小さな喜びだ。

 

多くの人が好まないバスでの移動が、わたしは大好きだった。

地下鉄ならば15分で着く距離を、ぐるぐる迂回するバスで50分かけて移動するのは、車窓からの街並みを眺める楽しさがあるから。

街ゆく人、車、店の様子を見ていると、季節の移り変わりも治安の具合も、街で起きていることも肌感覚でわかった。

 

とは言え、最初からバス旅を呑気に楽しめたわけではなかった。

ブエノスアイレスのバスを乗りこなすには、熟練が必要。

 

実は市内のマップ・交通を網羅した携帯アプリを使いこなすと、降りる場所も知らせてくれるので楽なのだが、携帯電話を手にしていて盗難に遭遇するリスクを考えると、その天秤はなかなかに難しい。

バスにおける盗難リスクはかなり高いのだから。

 

ブエノスの市内バスは先払い方式。

乗るときに運転手に行き先を告げなくてはならないし、車内アナウンスはないので、降りる場所を自分できちんと把握している必要がある。

だから初心者の頃は、家を出る前にアプリでバスルートを研究して、通過する大きな通りや、番地、降りるバス停をメモにして出かけたものだった。

 

それが容易にできるのは、ブエノスアイレスの街の作りのおかげ。

中心部エリアは、ほぼほぼ碁盤の目になっていて番地は片側が偶数、もう一方は奇数で、正確に増減する。

長い道では4000番代まで番地が続いていくところもある。

だから通りの数字を追っていると、だいたい自分のいる位置が把握できるのだ。

そして通りの名前が街角に常に表示されている点。

どの道にも名前があって、それは日本でいうと銀座通りやすずらん通りみたいなものだけど、ブエノスでは国名、聖人、著名人にちなんで付いているものが多い。

中には『Osaka』と名のつく通りもあったりする。

他には歴史的に重要な日にちなんだもの。

メイン通り『9de Julio(ヌエベデフリオ)』は独立記念日で日本語にしてしまうと『7月9日通り』、『25 de Mayo(ベインテシンコデマショ)』は『5月25日通り』。

こちらはアルゼンチン独立に向けての一歩を踏み出した1810年の五月革命を記念した日。

こんな風に何が起源の日なのかを紐解くと、道の名前も覚えやすい。

想像力を使いながら通りの名前を眺めたりしていると、時間はあっという間にすぎてしまうもの。

そんなバス旅が好きだった。

 

物価高騰の最中にあっても、バス運賃はこの先も変わらないでいて欲しい。

いや、根本的にアルゼンチンの経済も世界の経済も回復に向かうのを祈りたい。

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アルゼンチンのスイートな思い出の味『チョコトルタ』

4.5.2022

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

アルゼンチンのスイートな思い出の味『チョコトルタ』

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甘過ぎて頭が痛くなる。

というのが本当に起こるスイーツがアルゼンチンには数多い。

住んでいた頃には敬遠していたのに、離れてみるとあの甘さが恋しいものだ。

中でも「あれ食べたい」と切実に思うのは、チョコトルタという名の家庭で作る即席ケーキ。

市販の材料を組み立てて作る、焼かないケーキだ。

 

ブエノスアイレスに暮らした頃に、恋人が担当する料理というのがいくつかあって、ポレンタ、ラビオリ、チョコトルタがそうだった。

最初は一緒に作ろうかと手を出してはみたものの、最終的に、彼の細かいこだわりを尊重しながら頑張るよりも、任せてしまう方が楽だと悟った。

チョコトルタはママの味。

各家庭でクリームに使う材料のお好みブランドがあるし、配分量も違う。

コーヒーを使う家もそれがミルクに代わる家もある。

一般的には誕生日の定番で子供も大好きなケーキだが、彼のレシピはチーズクリームの酸味とコーヒーの苦味も加わった大人向けチョコトルタだ。

アーティストの彼は手先が器用で、綺麗に仕事をするので見ているのも安心感がある。

さながら芸術作品が仕上がっていく工程を見る気分で、わたしは見物役に徹したものだった。

そして、そのスイートな時間が好きだった。

 

チョコトルタの作り方は超簡単だ。

「チョコリーナ」というチョコレート味のチープなビスケットを生地として使い、アルゼンチン人が愛するミルクジャム「ドゥルセデレチェ」と、スプレッドとして売っている「チーズクリーム」を半々で混ぜたものをクリームとする。

濃いめに作ったインスタントコーヒーにビスケットを浸してクッキングシートに一面並べたら、クリームを塗り、またコーヒー漬けビスケット、クリームの順に重ね合わせて行くだけ。

 

これを冷蔵庫に入れて保管する。

食べるのは断然翌日が美味しい。

水分を吸ったビスケットがしっとりして、全体が馴染むと、ティラミスっぽい味になる。

 

そもそもの材料のドゥルセデレチェが激烈に甘いので、仕上がりケーキも甘くて、さらに重たい。

だがしかし、癖になる美味しさなのだ。

だから懐かしい。

チョコトルタを口にして「甘すぎる。」とボヤきたい。

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北国で想う遥か彼方のアルゼンチンタンゴ

3.6.2022

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

北国で想う遥か彼方のアルゼンチンタンゴ

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ブエノスアイレスにはアルゼンチンタンゴが戻ってきたみたいだ。

ミロンガ(タンゴのダンスパーティ)もレッスンクラスも条件付きながら再開しているし、外国人タンゴ愛好者達も少しづつ戻り始めている。

SNSに流れてくるブエノスのダンスホールの盛況な様子を見るとノスタルジーと羨ましい気持ちが混じり合って、キュンとしてしまう。

タンゴを踊りたいな、と思うし、あの空間に入り込みたいな。と思う。

 

実家暮らしを始めてアルゼンチンタンゴを踊ることは諦めた。

北海道の片田舎にタンゴスタジオなんてあるわけない。

とはいえ、なんでもいいから音楽に身を委ねることをしたくてフラダンスを習い始めた。

 

フラダンスのいいところは何と言ってもパートナーなしでひとりで踊れることだろう。

大地と神と繋がる癒し系ダンスは性に合って、週に一度のクラスはとてもいい気晴らしになっている。

 

どのダンスにも共通する、音との一体感を感じながら無心に身体を動かせるヒーリング効果には満足しているものの、やはりアルゼンチンタンゴを恋しく思う。

なにか健全な精神が根底にあるフラダンスに比べて、どこか暗さや隠微さを秘めたタンゴの「ワル」な感じが、常習性を誘うのかもしれない。

 

ペアダンス特有のパートナーとの駆け引きは、面白みであると共に、人との関わりを深く感じられる癒しでもある。

寂しい時や気分が沈んだ時こそ、踊りに行くと元気になれたのは、その効用だったのだなと改めて思う。

郷愁漂うアルゼンチンタンゴの音楽性と、混沌としたブエノスアイレスの街に抱かれるからこそ、フロアに集う人々との交流や駆け引きのあたたかさが色合いを増していた面もあったと思う。

 

画面越しの地球の裏側の世界から、目をあげるとピュアな北海道の大自然。

なんだか異次元空間にいるみたいだ。

背中の開いたキラキラのドレスを着てヒールの高いタンゴシューズを履いて、まるで狩に出かけるみたいな、そんな気合いでダンスフロアに足を踏み出すには、ちょっとしたエネルギーが必要だ。

その気合いが錆びつきはしないかと、心配に思っている。

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地球の裏側の彼とわたしの新年

12.5.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

地球の裏側の彼とわたしの新年

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アルゼンチンの年末年始は真夏に訪れる。

何年経っても太陽サンサン、ジリジリ暑い中のクリスマスツリーには違和感を感じるものだ。

12月の25日を過ぎるとすぐに正月用にディスプレイを変える日本とは違って、

あちらでは1月初旬までクリスマス仕様が続く。

 

欧米と同様にアルゼンチンも正月よりクリスマスに重きがおかれ、

正月は元旦の1日だけが休みで、2日からは日常が戻る。

それでも大晦日の夜はパーティーと決まっている。

クリスマスが断然家族での集まりが多いのに比べ、大晦日の夜は友人同士で集まることも少なくないようだ。

何れにしても家食べがほとんど。

レストランに行くのは観光客か在住外国人だけかもしれない。

アルゼンチン人のパーティは夜の8時か9時から始まる。

夏の食卓らしく冷製のプレートがいくつも並び、庭に備え付けのバーベキューコーナーで肉を焼く。

新年午前0時のお祝いの乾杯はシードルかシャンパンだ。

このタイミングで12粒の干しぶどうを食べる家庭もある。

1年12ヶ月を意味するブドウを0時を知らせる12回の教会の鐘に合わせて急いで食べると、

やってくる年の幸運が約束されるというスペインの風習。

アルゼンチンの移民はスペイン、イタリア系が大半なのでそんな家庭も多いのかもしれない。

新年が明けると夜空には花火が上がり始める。

庭や広場で打ち上げ花火を上げる個人が多く、住宅街でもあちらこちらで花火が上がっているのが見られる。

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わたしはたいていの場合、里帰りして日本で年末年始を過ごすので、

ブエノスアイレスに居る恋人とはビデオ電話で新年の挨拶をすることがほとんどだ。

時差はちょうど12時間。

日本の新年0時は、アルゼンチンでは大晦日の昼の12時。

彼からの電話で新年を祝う。

年越しそばの習慣が彼にはとても奇妙で、それでいて興味深いようで、

「もう年越しそばは食べたのか?」と毎年それが話題になる。

 

アルゼンチンが新年を迎える、日本の元旦の昼には今度はわたしが電話をかけて、改めて新年の挨拶をする。

その場にいる彼の家族にも一通り挨拶をして、それから屋外の方々に見える花火の様子を見せてもらう。

それが現在のわたしたちのお正月。

 

いつの日か、ブエノスアイレスで新年の花火を一緒に見上げる日がくるのかな?

いつの日か日本で一緒に年越しそばを食べる日がくるのかな?

と思いながら、今年も地球の反対側同士で新しい年を迎える。

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異国で歯医者に行ってみた。

11.5.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

異国で歯医者に行ってみた。

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母の付き添いで行った歯医者さんの待合室。

壁に『当院ではCT撮影で歯や顎骨の状態を詳しく診断しています。』と張り紙があった。

ほぅ、北海道の田舎町の歯医者でも院内でCTまで取れるんだなーと思って、ふと思い返す。

いや、日本では当たり前だよね。

 

アルゼンチンの分業制医療に慣れて、この日本品質に感心するようになってしまった自分がおかしい。

アルゼンチンでは血液検査もエコーもレントゲンも専門の検査機関に出向いて検査するのが普通だ。

だから不調があって診察に行っても初回は聴取のあとドクターから検査オーダーを渡されて、次回は検査結果を持ってきてね。と言われる。

自分で予約を入れて検査に出向き、自分で検査結果を取りに行き、専門医の所にそれを持参して診断を仰ぐ。

当然時間もかかるし、手間もかかる。

院内で待合室にいる間に検査結果がドクターの手元に勝手に届いているという日本標準はすごいのだ。とアルゼンチンに住んで初めて気づいた。

 

歯科も同様だ。

口腔内レントゲンは専門機関に出向いて自分で取ってくる。

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日本で通っていた歯科医に「もしも今後不具合が起きたら、この歯は抜くしかないからね。」と言われていた歯が痛くなったのは、ブエノスアイレスに住み始めて2年目くらいだったろうか。

頬まで腫れてきたところで観念して歯科医に行くことにする。

言葉の壁があったので、まずは日本語対応可能の条件を最優先に探した。

そして見つけた日系人の女医さんは「まずは腫れを取らないと何も出来ない。」と言い、抗生物質を処方してくれた。

片道1時間半かけて行った、アパートの一室のそこは、言葉の安心感はあっても昭和な感じの歯科医院だった。

 

抗生物質を飲んでいたその週、語学クラスで歯痛を話題にしたところ、スペイン語の先生は「目と歯の治療は妥協してはいけない。」と言い、自分が渡り歩いた果てにたどり着いた歯科医を紹介し、初診の付き添いまでしてくれた。

真新しい診療具が並ぶ清潔感溢れる医院で、爽やかな好青年の歯科医は、模型を使いながらゆっくりと優しい単語で説明してくれた。

その初診でわたしの心はすっかりこちらの医院への乗り換えを決めることになる。

この爽やかな歯科医院通いが始まり、そこで初めてレントゲン専門機関というものがあるアルゼンチンの分業医療の仕組みも知ることになった。

 

そして歯科医のオーダー通りに口腔内全体のレントゲン写真を撮った結果、数々の治療課題を提示されることになる。

当初、痛みのあった奥歯の処置だけのつもりだったのに、丁寧で爽やかな提案にのせられて他の歯の治療も次々とやることになり、通院は長期間に及んだ。

 

提案されるままに治療を続けた根拠は価格の安さだ。

日本でも保険外になるセラミックや、インプラント治療が半分とは言わないまでも2/3位の価格でできる。

わたしの選んだ歯科医院は、現地の相場からすると十分に高いレベルだったけれども、それでも日本と比べると安かった。

 

基本的に医療と学費は無料というアルゼンチン。

政策は素晴らしいかもしれないが、自分が医療を受けるのは心配。と思い込んでいた。

でも歯科通いを通じていつの間にか平気になった。

要するに貧富の差が激しいこの国では、医療も無料枠から安心感の持てるレベルまで層が分厚い。

歯科も見極めさえ間違わなければ、良い治療を日本より割安に受けられるということなのだ。

 

レントゲンの煩わしさを除けば、不満は全くない。

歯を見せて笑うのが好きになったほど治療の結果にも満足している。

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隣国ウルグアイへのショートトリップ

10.5.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

隣国ウルグアイへのショートトリップ

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島国ニッポンにいると海外は文字通り海の外なのだけれども、南米大陸のアルゼンチンはチリ、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ウルグアイの五カ国と国境を接する。

ブエノスアイレスの街から一番近くて便利な隣国はウルグアイだ。

日本でも話題になった『世界でいちばん貧しい大統領』と言われたムヒカ元大統領の国。

アルゼンチンとは違う価値観や文化、雰囲気が感じられる場所である。

都市の様相の首都モンテビデオやビーチリゾートもあるけれど、今日は南西部の国境の街、コロニア・デル・サクラメントの話をしたい。

 

コロニアはブエノスアイレスからラ・プラタ川を隔てて対岸に位置し、フェリーで約1時間という近さだから、ブエノス在住者には一番馴染みが深い。

アルゼンチン人にとってもまとまった休みを過ごすことができる近くて便利な旅先だし、旅行者もオプションツアーでアルゼンチンから隣国ウルグアイへのワンデイトリップを楽しむことができる。

 

またアルゼンチンの居住権を持たず、観光ビザで入国しブエノスアイレスに滞在を続ける者にとっては、別の意味で必要不可欠な行き先でもある。

というのは正当にアルゼンチンに滞在するための手段の一つが、3ヶ月ごとに他国に一度出てアルゼンチンに再入国するという方法だから。

隣国は五カ国もあるし、どの国でも選び放題なわけだが、やはり旅程1時間の距離感とコストパフォーマンスで、コロニアに勝る場所はない。

コロナの影響で渡航規制が始まってからは、滞在制限期間の延長措置が取られていて、無理やり旅をする必要はなくなっているが、以前はわたしも随分通ったものだった。

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出国・入国のスタンプをパスポートに刻む必要性を外しても、コロニアは何度でも戻りたくなる魅力的な場所だ。

朝早くにブエノスアイレスのフェリーターミナルから出発し、午前中のうちにコロニア港に到着。

フェリーターミナルを出て10分も歩くと、岬の先の旧市街に入ることができる。

世界文化遺産にも登録されているこのエリアは、1600年代から繰り返しポルトガルとスペインの領地になっていた歴史の軌跡が残る街並みだ。

 

広場を中心に、不揃いの石を敷き詰めて道を作るしかなかった時代の石畳の道や、灯台、歴史的建造物がある。

水辺がすぐ近くに感じられ、車両が極端に少ないそのエリアはコンパクトで散策しやすく、居心地も良い。

古い建物を再利用したカフェやレストラン、民芸品やアーティストの店なども点在していて、休憩や土産品の買い物にも事欠かない。

以前にコロニアの街の広い範囲を回る観光バスに乗ったこともあったが、結局見所はこの旧市街エリアだけのようだと分かったので、それからは、もっぱらフェリーターミナルから歩ける範囲で行動する。

ランチを食べて、ぶらりぶらりと散歩して、コーヒーを飲んだら、あっという間に夕方の帰りのフェリーの時間になるものだ。

コロニアでの時間はその程度で、足りなくもなく、持て余しもしない。

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帰りのフェリーに乗り込む頃には、自分がいつもより緩んでいることに気づく。

ブエノスアイレスにいる時には気にならないのだけれども、騒音と雑踏と治安の悪さのせいで、いつの間にか心も体も緊張していたのだ。

コロニア旧市街の静けさとのんびりとした空気は、都会で暮らす疲れを癒す効果も持っている。

 

ブエノスアイレスから日常を離れてリフレッシュするには、ちょうど良いショートトリップ先がウルグアイのコロニア・デル・サクラメント。

わたしを捕らえたブエノスアイレスのタンゴ

9.5.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

わたしを捕らえたブエノスアイレスのタンゴ

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ブエノスアイレスに住み始めるまで、アルゼンチン人はみんなタンゴを踊るのだと思っていた。

だってアルゼンチンタンゴの発祥の地だから。

でもそれは大きな勘違いだった。

現代のアルゼンチン人にとってタンゴはものすごくマイナーな存在だ。

若者たちはクラブに出かけるし、年配者もタンゴを聴くことはあっても踊れないという人が大多数だ。

何よりタンゴはブエノスアイレスという都市のものであって、広大な大地のアルゼンチンの他のエリアに出るともっとマイナーになる。

 

だから、何がきっかけでブエノスアイレスに住むことになったか?という質問に「タンゴ」と答えると、一般人は「本当に?」と驚く。

自分たちは興味のない伝統文化を求めて、便利で快適な地球の裏側から混沌とした南米の国に住み着くことが信じられないのだ。

一方で同じ問答でも、タンゴに関わる人たちは「いるよねー、そういう人。」という反応、短期でタンゴ留学に来た外国人は「うらやましい!」と言う。

ご本家では衰退の一途のアルゼンチンタンゴも、輸出先の日本や欧米ではマニアが育っていて、多くの外国人がタンゴの聖地を目指してやって来る。

そしてそれにハマってしまった人々はブエノスアイレスにまた舞い戻る。

現地にしかない魅力がそこにあるから。

いや正しくは、あったから。

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コロナによる規制でタンゴが禁止になり一年以上経つ。

混み合った空間で抱き合って踊るタンゴは感染予防の観点から見ると劣悪だ。

少しづつ緩和はされているものの、以前と同様のタンゴ界がブエノスアイレスの街に戻るのかどうかは誰も知らない。

既に世界の各地ではタンゴ界も動き出していて、東京では気をつけながらタンゴが踊れるし、ヨーロッパでもミロンガ(タンゴのダンスパーティー)が開催されている様子がSNSに上がってくる。

場所を選ばなければタンゴは踊れるのだ。

「でも。」と思う。

やはりブエノスアイレスの夜の空気感や、スペイン語の雑踏や、歴史の染み込んだサロンの中で踊りたい。

ブエノスアイレスという街とタンゴ音楽のしっくり感を一度感じてしまったら、もはや他の土地ではわたしの中にタンゴ音楽が染み入ってこない気がしてしまう。

たとえこの先、タンゴを踊るサロンや開催されるミロンガが前と同じでなくなったとしても、ブエノスアイレスに土着するタンゴのスピリットは、この苦悩の時期もまたタンゴの歴史の一部として包み込み、熟成して、味わいを深めていくのだと思いたい。

 

タンゴにハマった人々は、その理由を「タンゴがわたしのハートに届いた。」「タンゴがわたしを捕らえた。」という類の言い回しを好んでする。

わたしを捕らえたのは「ブエノスアイレスのタンゴ」みたいだ。

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セラピストとしてのわたしを育ててくれたのはアルゼンチン人だった。

8.2.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

セラピストとしてのわたしを育ててくれたのはアルゼンチン人だった。

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わたしのセラピスト歴はブエノスアイレスで始まった。

ひとりで南米に住むと言ったわたしに「絶対に役立つからレイキを身につけてから行きなさい。」と友人が勧めてくれたのがきっかけだったからだ。

実際、行ってみると自分の体調管理と安全で快適な日々を送るために充分役立ったし、噂どうり、日本人よりも外国人の方がレイキに対しての知識も興味も豊富だった。

日本発祥のヒーリングにも関わらずだ。

アルゼンチン人とレイキの話題になると、きまって質問ぜめに合い、とにかく体験したいとセッションを頼まれることも多かった。

最初の頃は自信もないし断るしかなかったけれど、需要が充分にありそうなのはすぐに分かったので、日本への一時帰国の度にレベルアップ講習を受けて、開業出来る体制づくりをした。

 

実際には体制づくりより、クライアントを受け始める勇気が整うまでの方が時間がかかった。

在住している日本人の友達に無償でヒーリングすることはあっても、営業を始める自信を持つことが出来なかったわたしの背中を押してくれたのは、友達になったアルゼンチン人だった。

「レイキをして欲しいの。でもお金を取らないというなら頼まない。」と、愛情たっぷりなオファーをくれた。

彼女は2回目の施術には自分の友人も連れてきてくれて、口コミでクライアントが増えるきっかけまでも作ってくれた恩人だ。

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アルゼンチン人はおしゃべり好きだ。

だから口コミがとっても広がりやすい。

防犯の面からも知らないクライアントを受けたくはなかったし、口コミはとても助かった。

反面、海外の日本人コミュニティは小さいだけにずっと難しい。

ある駐妻さんにヒーリングの施術をした後「誰にも言わないでください。」と頼まれたことがあった。

もちろんセラピストには守秘義務があるので、施術上知り得たことを話しはしないが、自分が依頼したことすら誰にも知られたくないということなのだ。

駐妻コミュニティでの口コミは望めそうにないな、と思った一件だった。

 

のちにデリケートな内容を取り扱うヒーリングに留まらず、オイルトリートメントや指圧の勉強を始めたのはそんな理由もあった。

 

アルゼンチン気質で忘れてならないのは『褒め上手』な一面。

クライアントの人たちの誉め言葉こそが、セラピストとしてのわたしを育ててくれたのだと思っている。

セッション後はさすがのアルゼンチン人も言葉数が少なくなるが、それでもどう感じたか、何が起きたかについて話してくれるとともに、わたしの手技について褒てくれることが多かった。

これによって、自分が施術中に感じた感覚が正しかったことが明快にわかったし、自分の仕事が人の役に立っていることが実感できた。

 

クライアントとしてのアルゼンチン人と日本人の圧倒的な違いは、全部はっきり知りたがることかな、と思う。

レイキのセッションは、大雑把に言うとエネルギーを整えるのが目的だが、その過程でチャクラやオーラの状態も分かってしまうものだ。

セッション後のカウンセリングではその結果を本人に伝えるが、中にはあえて言わない内容というのもある。

受け止めるのがキツイ結果になりそうなときは、やんわり伝えたりするのだけれども、アルゼンチン人の場合、ズバリとそのまま聞くのを好む傾向がある。

それもエグければ、エグいほど「そうでしょ、そうでしょ。最悪だったでしょ。わたしの状態!!それが分かってもらえて大満足よ!」みたいな感じなのだ。

誰しも自分の身の上に起こっていることは知りたいものだけれども、良くない状態をも肯定されると嬉しいみたいだ。

そして、日本人ならば「それで自分はこれからどうすれば?」と聞いてくる場面も、アルゼンチン人の場合は「次の予約はいつにする?」になる。

おかげでリピート客が多い。

アルゼンチン人の他力本願気質にも、わたしは助けられたのかもしれない。

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ずっとそのままでいてね。ブエノスアイレスの本屋さん。

7.2.2021

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愛しのブエノスアイレス

ずっとそのままでいてね。ブエノスアイレスの本屋さん。

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ブエノスアイレスも今やネットでポチッとすると本が家まで届くようになった。

南米のネットでのお買い物はアマゾンよりもMercadoLibre (メルカドリブレ)だ。

最初、「売りたい人と買いたい人がそのサイトで出会って、モノのやり取りは直接本人たちが待ち合わせして手渡しするのだ」と聞いた時には、なんとアナログな!!と驚いたものだ。

しかし、宅配サービスが発達していなくて、クレジットカードや銀行口座を持たない層も多い国としては、なるほどうまい仕組みだったのだろう。

それがコロナのロックダウンのおかげで劇的に周辺環境は整って、サービスは成長し、メルカドリブレの株価も登り調子。

あっという間に、誰もが家に居ながらにして、安心して買い物ができるようになってしまった。

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そんな急激に買い物環境が変化したブエノスアイレスも、ほんの数年前までは何軒もの本屋をまわり、目指す本を探し歩くのが主流だった。

ある時、東京にいるアルゼンチン人のタンゴの先生から、Sandroの写真集を買ってきてくれと指令が入った。

まだポチッと買えない時代。

Sandroはアルゼンチンでは誰もが知っている60〜70年代に活躍した男性歌手だったが、写真集は大分前のもので探すのは容易ではなかった。

まずはブエノスアイレスで一番有名な書店、El Ateneo Grand Splendid(エル・アテネオ・グランド・スプレンディッド)へ。

この店は、『世界の美しい書店リスト』に名を連ねる、20世紀初頭に建てられた劇場をリノベーションした書店だ。

入り口は一見すると普通の本屋だが、中へ進むと急に吹き抜けの空間に出て、天井画を見上げることになる。

2階、3階席だった所にもに本がぎっしりと陳列してあり本当に美しい。

そして実用的にも品揃えが豊富で頼りになる。

が、しかし、その写真集はマニアックすぎて置いていなかった。

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こういう時に、アルゼンチン人の世話焼き精神にはとても助けられる。

本屋の店員は、「こういうタイプのものはあそこの通りの本屋が強いよ」と、他店の名前をメモにしてくれた。

その先も行く店、行く店で、わたしのがっかり顔を見た店の人は、次の本屋を紹介してくれたのだった。

だから闇雲に回った訳ではないけれども、結局、丸々二日間、文字通り足を棒にして書店巡りをする羽目になった。

最終的に写真集を見つけた時には、嬉しすぎてお店の人に抱きつきそうだった。

この時の本屋巡りで、すっかり本屋好きになった。

ブエノスアイレスには古くからの本屋が残っていて、趣ある店構と、それぞれに特徴ある品揃えやディスプレイがあって、とても楽しい。

ポチッとしてお家に本が届く時代は便利ではあるけれど、ブエノスアイレスの素敵な書店は残っていて欲しいな、と思う。

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ストリートアートを巡る楽しみ

6.2.2021

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愛しのブエノスアイレス

ストリートアートを巡る楽しみ

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世界の状況と同様に、ブエノスアイレスのロックダウンも緩んだり、厳しくなったりを繰り返し、最近はまた外出しにくい状況になっている。

厳しい規制状況下では公共交通機関に乗るために許可証が必要になるので、それを持たないものはタクシーを使うか、徒歩での外出が主体になりがちだ。

でも、たとえ1時間歩くとしても、あの街の救いは眺める景色が楽しいことだ。

 

歴史ある建造物、街路樹もいいけれど、わたしのお気に入りは壁に描かれたストリートアートを見つけながら歩くこと。

通りを歩くとシャッターサイズから、ビルの壁一面を飾るものまでいろいろなアートが楽しめる。

普段歩く道から通りを一本変えると新たな出会いがあったりして、キョロキョロしながら歩いていると、あっという間に目的地までたどり着く。

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ブエノスアイレスのストリートアートも最初はスプレーによる落書きから始まった。

政治的な不平、不満を主張する一つの手段でもあった落書きが、アートへと変わっていったのは、2001年の経済危機が大きなきっかけだった。

国中が大きな打撃を受け疲弊しきった街に明るさをと、建物の所有者たちが壁を彩ることをアーティストに依頼し始めたのだという。

20年経った現在は、市もストリートアートをひとつの観光資産と位置付けていて、たくさんの作品を楽しむことが出来る。

サイズも色々ならば、作風も色々。

もちろん政治的メッセージの強いものも見られるし、純粋にアーティスティックなものもある。

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わたしの思うストリートアートの魅力は2つある。

 

ひとつめは、命が短かく変化すること。

それは一面では残念なことだけれども、魅力でもあると思う。

描きたてのピカピカな状態から、雨風にさらされてだんだんと街の一部に溶け込んでいく変化の様を眺めるのも面白みがあるし、久しぶりに通ってみたら、見慣れた壁が新しい絵に変わっていた!という驚きもある。

 

そしてストリートアートは背景ありきのアートだという点。

店の壁やシャッターに描かれる絵は、建物全体や、街ゆく人々との調和込みでの作品だし、壁一面のアートは空が背景となる。

青空に映えるものもあれば、「この絵は曇り空の方が似合うのだな」と、ある日発見したりする。

運良く、変化する夕暮れ時の空の色や雲の造形と壁絵が美しく共演した瞬間に出会えたならば、物凄く得した気持ちになるものだ。

そんな風に、生きている街の中のアートは、美術館の中とは違う一期一会の楽しみがある。

だからブエノスアイレスの街歩きはやめられない。

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ブエノスアイレスのCafé Notable

5.1.2021

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愛しのブエノスアイレス

ブエノスアイレスのCafé Notable

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ブエノスアイレスのカフェはやさしい。

たとえひとりぼっちでも、そこに居ると何故だかその場やその街に自分が受け入れられている気持ちになる。

とりわけ昔ながらの趣あるカフェには独特の温かみがある。

それは何十年にも渡ってそこに集った人々の喜怒哀楽の歴史が壁や床、空間に刻み込まれているせいかもしれない。

 

ブエノスアイレスに住みはじめたばかりの、知り合いも少なく、言葉もよく分からなかった頃、わたしにとってカフェは街や人と繋がる大事な場所だった。

年季の入った店内の装飾と、高い天井は心地よく、使い込まれた木製のテーブルに語学学校の宿題を広げて、ぼんやり人物観察をすることが多かった。

そこでアルゼンチン人の振る舞いや言い回しなど多くのことを吸収したと思う。

開け放たれた窓から風とともに入ってくる街の喧騒と、隣のテーブルから聞こえてくるスペイン語のおしゃべりは賑やかで元気をくれたし、自分がその場の一部となっている感覚に気持ちが和んだ。

近年、ブエノスアイレスにも近代的なカフェチェーンが増えたけれども、小綺麗なそちらより、わたしは断然古くて、雑味のある古典推し。

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歴史と雰囲気のあるカフェは『Cafe Notable(カフェ ノタブレ)』(注目に値するカフェ)の名称で、ブエノスアイレス市の法律35条によってその条件が定義されている。

創業年や建築物、文化的価値などの条件をクリアした店舗のリストには、古くは1800年代から続く老舗もあり、ステンドグラスが見事なお店も、タンゴの曲の歌詞に名前が出てくるお店などもある。

度重なる不況や昨今のロックダウンによって閉店に追い込まれる店も出て、最近は減少傾向というが、当初は100店近くがリストアップされていたらしい。

 

ブエノスアイレスのカフェには、ドリンク一杯で何時間居ても構わない。

街の人たちが昔からそのようにカフェを使っているのだから、誰も何も言わない。

毎朝同じ席で、同じ朝食を食べる年配者も、女子会で長時間話し込んでいるグループも、口喧嘩しているカップルも、誰も滞在時間は気にしない。

一度、深夜に友達とカフェに長居したことがある。

彼女には悩み事があって、その話を途中で切り上げるわけにはいかなかった。

深夜1時を過ぎて、客は私たち1組だけになり、Mozo(ウエイター)たちは片ずけと掃除を始めたけれども、私たちに一言も退店を促すことはなかった。

日本でよく聞く「ラストオーダーです。」の告知ももちろんなく、店内の椅子が全てテーブルに逆さに載せられるまで、私たちは心ゆくまで語り合った。

チップを少し多めに置いて、「ごめんね、遅くまで。」と言ったら、「いいんだよ。全部片付け終わるまでどっちみち居るからね。」と返してくれた。

そういう感じが、懐深く人々を受け入れてくれるCafe Notable。

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アルゼンチンの誕生日

4.1.2021

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愛しのブエノスアイレス

アルゼンチンの誕生日

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春に生まれた。

この時期の誕生日というのは、どこにいるかによって雰囲気がだいぶ変わる。

生まれ育った北海道の三月四月はまだ雪解けの時期で、道端に黒ずんだ雪が残り、埃っぽくて色でいえばグレー。

まだまだ冬の延長だ。

東京に住み始めた時には、同じ日が桜咲く頃でピンク色に彩られたウキウキ感があり、随分と気分が変わったものだった。

そして同じ時期、ブエノスアイレスは秋の入り口で、街路樹が黄色やオレンジ色に染まってくる。

レトロな街並み、石畳と紅葉の組み合わせは、また一段とブエノスアイレスらしさがあり、哀愁漂う季節。

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さて、アルゼンチンの誕生日。

スペイン語では誕生日をcumpleaños(クンプレアニョス)と言う。

日本語、英語birthdayは『生まれた日』であるのに対し、スペイン語は『año(歳)にcumplir(到達する)日』になる。

過去のある日に生まれてきたことを祝うと言うよりも、今日ここに達したことを祝うのかなぁと思うと、随分と捉え方が違う気がする。

祝い方にも違いが。

日本では誕生日を周りの人たちに祝ってもらうのが一般的だと思うが、アルゼンチンでは誕生日を迎える本人が祝いの席を整える。

パーティの企画も手配も、ケーキを準備するのも自分。

みんな「もうすぐわたしの誕生日なの!」と誕生日をどのようにアレンジするかをよく話題にする。

わたしは人に気を遣わせてしまう気がして、誕生日をわざわざ口にしないほうだけれども、その辺の感覚が全然違うのだ。

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そんなわけで頻繁に巡り合う誕生会の話題であるが、絶対に気をつけなくてはいけないことが一つある。

誕生日の前にお祝いを言ってはいけない。

当日よりも前にお祝いを聞くのは『mala suerte(縁起が悪い)』のだ。

タンゴのダンスホール、ミロンガではよく誕生会を見かけるが、それを目的に大きなテーブルに友人たちが集っても、誰ひとり24時を過ぎるまではお祝いも言わないし、プレゼントも渡さない。

日づけが変わってからケーキを広げてシャンパンでお祝いをするのが一般的。

ケーキにロウソクを付けたら、火を消す前に3つの願い事を心の中でするのも、決まり事。

あちらのケーキ用ロウソクは花火みたいな仕様なので、早く消さなきゃと焦ってしまうのだけれど、3つの願い事は大事なのである。

それが終わったらケーキを食べるのだけれども、当然、切り分けるのも配るのも当の本人。

主役はホストでもあるので忙しい。

そして、そこでは不思議なケーキの切り分け方をする。

ホールのケーキの真ん中を丸く切り抜き、そこから二重、三重に円を描いてから放射状に小分けにして行く。

一切れごとは円錐台形(バウムクーヘンを切り分けた感じ)に仕上がり、一つのホールから数多くのピースを切り分けることができる。

ミロンガのような場所だと、顔見知りが多いのでテーブルに招待した友人のみならず、会場にいる多くの知り合いにもケーキを振る舞うのが儀礼となっている。

だからそんな切り分け方も生まれたのかもしれない。

タンゴの世界には特別に誕生日ダンスというものもある。

タンゴはふつう数曲を通して同じパートナーと踊るものだが、誕生日ダンスは次から次へとパートナーを変えて一曲のワルツを踊りきる。

それは友人たちのお祝いであり、人気のある人だとその人と踊るために列ができたりするものだ。

この様子は何度見ても心温まる素敵な風習だ。

ブエノスアイレスのタンゴ界はまだまだ通常営業には程遠いが、早くそんな誕生会の風景が戻ってくるといいなと願っている。

マテ茶セットを抱えて公園へ

3.1.2021

DAYS / Sumiko Kuramitsu Column

愛しのブエノスアイレス

マテ茶セットを抱えて公園へ

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今年も日本のお花見は自粛ムードなのだろうか。

桜の樹の下に座って友と語らい花を愛でるのは、日本の春の素敵な催しなので、早く解禁になってほしいもの。

アルゼンチンの春も花が美しく咲き乱れるけれども、あちらにお花見という文化はない。

日常的に公園に出かけ、緑の上に座り休憩したり、子供を遊ばせたりするので、わざわざ『お花見』と気合いを入れる必要がないのかもしれない。

彼らが公園に行く時に持参するのは、マテ茶。

マテ茶というのは南米特有のお茶で、『飲むサラダ』とも言われ、肉の割に野菜をあまり食べないアルゼンチン人の栄養バランスを補うのに、マテ茶の功績は大きいという説もあるほどにビタミン、ミネラルが豊富。

苦味があるが慣れるとクセになる。

ハーブやドライオレンジピールをブレンドしたりアレンジも楽しい。

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飲み方は独特で、茶葉を入れたマテと呼ばれる茶器にボンビーシャというストロー状のものをさして飲む。

紛らわしいが茶葉もマテ、茶器もマテという。

ポットから茶葉入り器にお湯を繰り返し注ぎ、味がなくなるまで飲むので、マテ茶葉、マテ器・ボンビーシャと、ぬるめのお湯入りポット(熱湯だと飲む時に火傷するので)はセットで持ち歩く必要がある。

もちろん家で飲むシチュエーションも多いけれども、そのスタイルをどこへでも持って行ってしまうのが面白い。

公園に行くとポットを小脇に抱えた人たちがたくさんいて、その光景は最初はとても不思議に思えたものだった。

 

もともとマテ茶は一つの器をみんなで回し飲みするスタイルが定番。

しかしコロナが流行り始めてからはひとりひと器が奨励されて、それぞれがMyマテを持つようになった。

一つの器を分かち合うことで垣根を無くすコミュニケーションマジックは、マテのもつ魅力でもあるので、そんな文化が一つ失われてしまったのかと思うと少しさみしい気もする。

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マテ茶の回し飲みには特有のお作法がある。

サークルにはお湯注ぎを仕切るオーナーがいて、それ以外の人がボットを触ることはない。オーナーはマテ器に茶葉を準備し、最初のいちばん苦いひと口を自分で飲んだら、そのあとお湯を充分に注いで他の人に勧める。

受け取った人は、それを飲み干してからオーナーに器を戻す。

オーナーはまたそこにお湯を注いで、今度は違う人にお茶を勧める。

そのやり取りを人数分繰り返す。

当然、オーナーは忙しいことになるが、そこはアルゼンチン人。

管理も気配りもゆるいので回す順番は間違うし、はなしに夢中でお湯を注ぐのも忘れる。でもそんなことは誰にとっても問題ではなく、話題と、マテ、それぞれが人々の間を行ったり来たりするのを共有する時間こそが大事。

日本人の「お茶しよう」とアルゼンチン人の「マテ茶飲もう」は同じノリだけれども、アルゼンチンのそれは、もっと緩くて時間的制限がない感じがする。

そこに重要な用件は必要なくて、公園で緑と花と風を感じつつ、マテ茶を飲みながらゆったりと同じ時間を過ごす。

コロナ渦の公園マテの風景は、回す事のないMyマテ持参の新しいスタイルではあるけれども、そこにはやっぱりゆるい時間が流れているのだと思う。

ブエノスアイレスの冬にはロクロ

2.1.2021

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愛しのブエノスアイレス

ブエノスアイレスの冬にはロクロ

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地球の裏側ブエノスアイレスの二月は夏真っ盛りで連日30度前後なのだけど、

日本に合わせて冬の話をしようと思う。

彼の地の冬に雪は降らない。

以前に降った記録もあるようだが、通常降らないし、気温がマイナスになることもない。

でも寒い。

キーンと骨身にしみるような寒さがある。

街の横を大きなラプラタ川が流れているため、その湿気が体感として寒さをより強く感じさせるのだという。

密閉性のよくない建築物の部屋には、隙間風が入り込んで、室内でも寒い思いをすることが多い。

そんな季節の食べ物は、何と言っても煮込み料理だ。

牛肉王国らしく、牛のぶつ切り、臓物類と野菜、とうもろこしに、レンズ豆、ひよこ豆、白インゲン豆などの豆類をじっくり煮込んだ料理をロクロと呼ぶ。

これは各家庭のママの味であるとともに、行事の時にはレストランの本日のスペシャルに必ず現れるメニューでもある。

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だから街を歩いて『ロクロあります』の看板を見かけると、「今日は何の日だったっけ?」と思うのだ。

それは独立記念日や五月革命記念日だったり、なんとか将軍の日だったり。

早速友達に「ロクロ食べに行かない?」と集合をかけて、レストランに出かける。

煮込みの定説通り、そういうものは大量に仕込んで、大鍋で作った方が美味しいに決まっているから。

豆が牛の旨味と脂分をしっかり吸い込んだ味わいは、冬のご馳走。

体が温まるし、なにより美味しい。

決まってその夜は、お腹が張って苦しむのだけれども、それでもメニューを見るとその誘惑に負けてしまう。

ブエノスアイレスの冬にはやっぱりロクロ。

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マラドーナはいちサッカー選手じゃないから。