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DAYS

STAY SALTY ...... means column

Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

from  Cairns / Australia

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秋澤月枝
essayist

日本人の夫と、2002年からオーストラリアに移住。

最初の半年は、単身、ニューサウスウェールズ州のBed and Breakfastで家庭料理を学ぶホームステイを体験。その後、夫が就職したクイーンズランド州のワイナリーに合流。

現在は、家族とケアンズに暮らす。

 

お菓子作り、編みぐるみや折り紙などの手仕事が趣味。

中学生と高校生の子どもを持つ母でもあり、彼らの描く絵の1番のファン。

 

 9.5.2022

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

バナナを買う

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1. オーストラリアの無人販売所

 

野菜の無人販売所。

 

日本人だったら

「あーあ、見たことあるよ」

「畑の片隅に小屋を建てて売ってるとこでしょ?」

って、自分の記憶をたどる人が多いのではないかと思う。そして、

「日本は平和で真面目な人種だからできるけど、他の国にはないでしょ?」

なんて思ってしまうことも。

 

日本には、あらゆる自動販売機がさまざまな場所に設置されている。

そして、売上を立てることができるのは、壊そうとする人がいないからだ、なんて聞く。

オーストラリアでは、屋外で自動販売機を見かけることがほぼ無いので、『そんなものかな?』と思っていた。

『無人販売所も無いよね』とも。

 

いつの頃からだろうか、私がほぼ毎日通るハイウェイの脇に、トレーラいっぱいのバナナが置かれるようになった。

 

そこは、ハイウェイを運転する人が、大型車でも停まって休憩できるような少し広めの場所になっている。

ケアンズの街中から、北へ向かって進む側にあり、この先の主要な町の名前が記された大型の看板も立っている。

 

11年前に私たちが引っ越してきた頃は、そこに小さなフルーツの有人販売所があった。

バナナ、マンゴー、パイナップルなど南国のフルーツが並ぶ。

ケアンズ近郊ではフルーツ農園を見かけることが多く、その販売所はそういった農家のメインビジネスなのか、

お小遣い稼ぎなのか、とにかく、直販っぽい感じがいいなあと思っていた。

 

しかしそのうちフルーツの販売所は消え、気づいたら、バナナがいっぱい詰まったトレーラが無人でぽつんと置かれるようになっていた。

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2. 無人で大丈夫なのか?

 

比較的治安が良いとはいえ、軽犯罪自体は少ないとは言い難く、近年子どもたちによるゲーム感覚の車の窃盗・破壊が深刻な社会問題になっているケアンズ。

ハイウェイ脇にも、乗り捨てられた車を見ない日がないような状態である。

 

そんな中で、無人のバナナ販売? 

悪さをする人はいないのか?

 

無人販売が長く続いている理由について、私の勝手な主観になるが、少し考えてみたのでおつきあい願いたい。

 

まず、基本的に車でなければ来られない場所であるということ。

 

ハイウェイと言っても日本の高速道路と違い、一般の道路と縦横無尽に繋がっている。

それでも人口が密集しているエリアから少し離れており、頑張って自転車で来られるかな? という感じだ。

 

ハイウェイとは反対の側に、歩行者・自転車専用道路が通っているが、太陽の日差しがきついことが多いので、体力的にどうだろうか。

ちなみにハイウェイの時速は80km/h。

 

そして、ここはハイウェイの両側からも見晴らしの良い、開けた場所である。

バナナを購入する人は、基本的に走っている車に背を向けた状態になるので、誰に見られているか、わからない。

 

それから、バナナの入ったトレーラは夜になると回収される。

朝、通勤通学の時間帯には、すでにそこにある。

しかし、夜少し遅い時間に通ると、トレーラは回収されてなくなっていた。

夕方にはトレーラ内のバナナが見えなくなるくらい売れていることがあるので、補充と料金回収を毎日行なっているようだ。

 

また、この場所にはオーストラリア名物のビーフパイを売る移動車が、いつも停まっている。

単純に休憩目的の大型車なども停まるが、パイを購入する人も停まる。

それよりなにより、このバナナ販売所、とっても人気だ。

 

何台も車が止まっていて、トレーラに向かって行列をなしている光景は一般的。

パンデミック禍でも、行列は消えなかった。

 

これだけ人気なら人目があるので、お金を入れずにバナナを持っていく人は少ないだろう。

あるSNSで「私は先にお金を入れてからバナナを選んだのに、支払いをしてないと後ろの人に言われて嫌だった」という投稿を見た。

誤解はあっても、とりあえずお互いに監視の目が働いているのだなと思った。

 

最後に、売っているのが重くて安いバナナだというのも、無人販売にできる条件なのかもしれない。

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3. ここでバナナを購入してみた

さて、我が子どもたちはバナナを食べないため、私はいつも素通りするだけだったが、先日勇気を出して(!)車を停めた。

 

季節が冬のケアンズでは、大手スーパーでもバナナの価格が現在$4.50/kg前後。

しかし、この販売所では$2.00/kgと表記されていた。

シーズンになったら、もっと安かったような気がする。

 

私は、午後の仕事として、スーパーの青果コーナーで品出しをしているので、普段からバナナがよく売れるのを体感している。

金額がその半分以下だったら、合流が面倒なハイウェイ脇でも、車を停めて買いたいと思うだろう。

 

私がここを訪れたのは、子どもたちを学校に送った帰りで、朝9時にならない時間帯。

反対側はまだ渋滞しているが、私の進行方向の車はまばらだった。

それが「停まってみようかな」と思う後押しになった。

 

ただ、ほんの気まぐれで立ち寄ったので、現金の持ち合わせが車の小銭しかない。

 

2ドルを握りしめてトレーラに向かったら、その手前で、パイナップルを売るおじさんも見てしまった。

奥には、いつものビーフパイを売るおじさんが座っている。

 

パイ屋さんではカードが使えるのを知っているけど、いやいや、今日はフルーツだけなんだ。

わざわざ停まったからと、欲が出そうになるのを抑える。

 

1ドル分のバナナ2本と、格安1ドルのパイナップルを入手した。

そして、気さくなパイナップルのおじさんの写真も!

 

ここでは、バレンタインや母の日などのシーズンにお花を売る人もいて、ローカルのちょっとした憩いの場所になっている。

最近は、観光客のかたも再び見かけるようになってきたので、このような場所で、ローカル気分でフルーツを買うのも楽しいだろうと思う。

 

7.11.2022

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

在豪21年目の文化理解

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1. 非営利団体での仕事

 

このStay Saltyではエッセイストという肩書きを使用しているが、私が現実に収入を得ている仕事は、清掃と店員である。

私たちは21年前に「文化交流」を名目として夫婦で来豪し、そのまま住み着いてしまったのだが、現在でも私の二つの仕事両方で、いまだ、文化交流というか、少なくとも私の視点からの文化理解を継続しているように感じている。

店員の仕事の方は、オーストラリアの他に、インドネシア、韓国、ミャンマー、フィリピンなどさまざまな国からやってきたスタッフと共に働いており、現在のオーストラリアを象徴しているように思う。

もう一方の清掃の仕事については、少し歴史に踏み込むような文化交流かもしれない。

平日の午前中、非営利団体の宿泊施設にて、キッチンなどの共有スペースと各個室をきれいにするのが、私の清掃の仕事だ。

この施設は、遠方に住み、医療にかかる必要のある本人やその家族が利用するという特徴を持つ。料金も安く、政府のサポートと組み合わせると、無料になる利用者もいるそうだ。

ケアンズという場所柄、トレス海峡の島々、北端や内陸、果ては近隣の国からの利用者も過去にはあったと聞く。

 

この仕事は昨年9月に採用され、オンライントレーニングを受講した。

そこで大きく時間が割かれていたのは、人権を蹂躙する違法行為に加担しない、それに気づくということに始まり、オーストラリア先住民に対する知識と理解などであった。

オーストラリアでは、国内に住んでいた「アボリジナル」、北端からニューギニアの間に位置する島々の「トレス海峡諸島民」の二種類のルーツを持つ人々が、先住民と呼ばれている。それぞれに象徴する旗も存在する。

 

以前住んでいたイプスウィッチ(クイーンズランド州・州都ブリスベンの西隣に位置する市)では、西洋人の文化であるワインの仕事に関わっていたためか、先住民と呼ばれる人々との縁はなく、せいぜいブリスベンの観光施設で関わる程度であった。

 

ケアンズに引っ越してきてからも直接の交流はなかったが、街で先住民らしき人々を見かける率が、イプスウィッチの頃よりもぐっと増えた。すぐそばには、ヤラバー(Yarrabah)というアボリジナルのコミュニティ地区もある。

 

そもそも、私が採用された求人募集欄には「先住民優遇」の文字があり、私はダメ元で応募していた。

雇用はタイミングやご縁の要素があるため、現在スタッフの一員として働いているわけだが、なぜ、上記の但し書きがあったのかについては、実際に働き始めてから理解することになる。

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2. 先住民優遇の理由

 

この施設の利用者の大半は、先住民系の人々だ。

 

私が以前、ホテルで清掃員として働いていたことや、同僚に先住民系のスタッフが少なくなかったことなどを面接時に話したため受け入れられたようだ。ホテルで一緒になった仲間のルーツが、この仕事とのご縁を繋いでくれた。偶然とはいえ、彼らに感謝したい。

 

清掃業務には4人のスタッフがおり、2人が先住民系、1人が白人、そしてアジア人の私という構成になっている。

 

ここで働いていると、この施設はホテルよりもスタッフと利用者との距離が近いように感じる。

 

宿泊予約も担当するフロントスタッフと利用者の人々は、体調について話すことが多い。その流れでだろうか、清掃スタッフに対しても利用者のかたから話しかけられることがある。定期的に利用する人がいることも、距離が近くなることの一因だろう。

病気・ケガの話や医療用語などがでてくると、日本語でも知識が少ない分野であるところに苦手な英語が相まって、私はうまく返事ができず、お恥ずかしいところだ。

 

他のスタッフは長く働いていることもあるだろうが、『よくわかるよ』というスタンスで話しているのを見ると、同じバックグランドを持つからだろうかと想像してしまう。掃除スタッフの中で私が一番若いから、というのも病気などの知識が少ない原因かもしれないが。

 

それから、男性利用者の部屋に女性スタッフだけが入ることや、その逆は好まれない文化のコミュニティがあるようで、それぞれに独特な風習があるかもしれないことを知った。

 

実際には、男女混合のチームで清掃をすることが多く「入らないでほしい」

と言われたことはないが、そういった文化的背景を理解するのは、同じルーツを持つ人々の方が、話が早いだろうと思う。また、医療に受診しなければいけない体調のかたが多いわけだから、気持ちも不安定になりやすいだろう。そんな時は、同じ文化圏のスタッフに対してのほうが、親近感がわきやすいかもしれない。

 

もちろん、先住民系の人々の就職先として門戸を開いておきたいという部分は、大前提としてあるだろう。

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3. 他人を理解するということ

アボリジナルコミュニティに関しては、グループが細かく分かれており、それぞれに異なった言語や習慣などがあるという。そのような地図も存在する。

 

例えば子どもたちが通うハイスクールでは、校長先生が「Kurrinyala!(Welcome!)」という言葉をニュースレターの冒頭によく使うが、これはケアンズエリアのアボリジナル・Yidiny peopleの言葉だそうだ。

 

職場の別部署にも先住民系のスタッフが何人もいて、ある男性の出身コミュニティは、ケアンズエリアとは別で離れた所だという。

引っ越し先のこちらのコミュニティをリスペクトしながら生活し、利用者の出身コミュニティに対しても理解を深めていると話してくれた。

 

それぞれのコミュニティに、大切に思っているルールなどが存在する。

 

ケアンズの街を歩いていると、時々、大声を張り上げて叫んだり喧嘩をしている先住民らしき人たちを見かける。

当然のことながら、そういうラフな態度の人ばかりではないと頭では理解しているが、どうしても目立ってしまうのは否めない。そして、普段の生活ではそのような人々ばかりに目がいく。

しかし、悪目立ちをする人ばかりが先住民ではないだろう。

 

実際、この仕事でさまざまな人々に会う機会を得て、少しずつ体験が伴ってきた。

 

宿泊施設利用者の方々が、私が一般的だと思うおだやかな生活をされていたり、部屋をきれいに保とうとしている痕跡を見ることがある。

 

妊娠中のお母さんが、幼児を引き連れている様子。

ご年配の夫婦が、お互いに労っている様子。

共用キッチンから漂う美味しそうな食事の匂いや、のんびりテレビを見たり、話しをしている様子。

私が仕事をしていて、「嫌だなあ」と条件反射で思ってしまうことはある。

 

体調が悪くて部屋を汚してしまうのは、よくあること。

でも、ただ面倒くさくて汚す人、掃除をする人にも感情があることなど気にしない人もいるだろう。それはおそらく、どの国でも人種でも同じ。

 

掃除をするという立場なので、ひどく汚されるとガッカリするし、「なぜ?」という気持ちも湧く。ただ、汚しかたが独特だと、そこにも文化の違いがあるのだろうかという発想は起こる。

 

私には私が育ってきた文化圏の常識があり、それを受け入れてほしいという気持ちがある一方で、別の文化圏の常識を持つ人々が存在し、それによって行動しているのだろうとも思う。

 

アジア人の自分は、この職場ではマイノリティに当たると思うが、だからこそ「理解しよう」という気持ちが働きやすくなっているのかもしれない。

 

まだまだ、私の文化交流・理解は続く。

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5.5.2022

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

ビスコッティ

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1. バースデイ・パーティー

 

子ども達が産まれたイプスウィッチからケアンズに引っ越し、上の子が小学校に入ると、年に2回ある子ども達のバースデイ・パーティーをどうすればよいか、ということにいつも頭を悩ませていた。

 

オーストラリアでは大人になってからでも、特に区切りの良い年齢の年は盛大に祝うなどと見聞きしていたので、これは「重要任務」だぞと思っていた。

 

それまで呼ばれたことのあるパーティーといえば、職場の仲間の娘さんが成人になったお祝いも兼ねて、自宅で賑やかに行われる大人向けのものだった。

庭仕事や大工仕事を主に請け負っていた職場の仲間は元ドラマーで、楽器を鳴らしたりミラーボールが回るなか踊ったりしていた。みな、大いにお酒を飲んで「うえーい」と盛り上がって、そのまま雑魚寝して朝を迎えるといった感じ。

彼らの自宅は、隣家が離れたところにしかない田舎にあったため、騒音公害の心配はない。私はいつも、そのノリに完全には乗り切れないタイプだったけれど、十分に楽しんでいた。

当時はワイナリーで働いていたこともあってか、お酒があって、夜は適当に雑魚寝だったり寝具を持ち込んで、といったパーティーが多かったように思う。

 

子どもが産まれてからは、ワイナリーにある旗立てを利用して鯉のぼりを飾り、こどもの日パーティーを開催したことがあった。それ以外にも、日本人プレイグループでバースデイを祝うこともあった。

ワイナリーは、オーストラリアにおける私たちのホームグラウンドだったし、プレイグループはみんなで協力し合う雰囲気が強かったので、個人的なプレッシャーは少なく、楽しみながら準備ができた。

 

ところが、もともと知り合いのいなかったケアンズに来てからのパーティー開催は、全てが自分で、しかも英語で小さい子を仕切るという不安もある「重要任務」。

 

初めてお友達を呼んだパーティーは、近所の公園で、とにかく食べ物だけは子どもにも大人にもたくさん用意することにした。

 

ディップとクラッカー、ひとくちソーセージなどのつまめるものから、唐揚げや、海老のサラダ。

ロリーと呼ばれる甘いグミや、クッキー、ポテトチップスなど定番の菓子も並べた。

 

子ども向けのバースデーケーキは、アイスクリームをケーキの形にデコレーションしたものだったが、それとは別で、小さな子の子育てにいつもお疲れの保護者のため、マロンクリームを使ったロールケーキを焼いた。

トッピングには、コーヒーフレーバーの地元産チョコレートを乗せると、予想以上に私好みに仕上がった。

 

このパーティーから何年も経ったある日、当時参加してくれたママ友であるNさんから

「あの時のビスコッティが美味しかった」

というコメントをいただくことになる。

 

私は、パーティーにビスコッティを焼いていたことすら忘れていたので驚いた。

マロンクリームのロールケーキのことばかり思い出しては、いつかまた作りたいなと思っていたからだ。

 

彼女からの一言で、「私のビスコッティ」作りが始まった。

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2. お惣菜屋さん

 

ビスコッティが美味しかったというコメントをいただき、それならばまた焼いてみようと、手元にあるレシピ本を久しぶりに開いた。

 

ビスコッティはイタリア生まれのとても硬いお菓子だ。

紅茶やコーヒーにひたして食べるのも一般的だろう。

ただ、私の持っているレシピはオーストラリアのもの。

ワーキングホリデー時代の友人が、プレゼントしてくれた本に載っていた方法で作っている。

だからだろうか、私が作ると、クッキーよりは硬いけれど普通に噛める程度に焼きあがってしまう。

 

それでもおいしいと言われれば嬉しいので、一度焼いて、ママ友Nさんにお裾分けをした。

すると彼女の口利きで、日系のお惣菜屋さんで販売したらどうかという話が持ち上がった。

お惣菜屋さんは、別のママ友Mさん1人で切り盛りしていたお店である。

お食事や単品の他に、デザートも置いていた。

しかし、1人でできる作業量は限られている。

ビスコッティは管理が簡単で長持ちするし、ちょっとしたプラスアルファになるということで置いてもらえることになった。

 

私は別に仕事があって、お菓子作りをビジネスにする予定ではなかったので、材料費と光熱費の分をいただいて、時々お菓子を卸した。

作る機会が増えると、作業の手順も安定していった。

ママ友Mさんから、フィードバックがもらえたりして勉強にもなった。

また、本場イタリア人のお客様から「ビスコッティではない、別のお菓子にこのようなものがある」というコメントがあった、とも教えてもらった。

どのお菓子のことだったのかは気になるけれど、どちらにせよ、イタリアのお菓子に変わりはないようで安心した。

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3. マーケット

 

ところで、地元にはいくつかのマーケットがある。

 

我が家に程近いビーチで、毎月一回日曜日に行われるマーケットは、参加費が安いうえ素人にも敷居が低く、日本で言うフリーマーケット的な出店が可能だ。

ビジネスで出店しているところもあるし、非営利団体の活動資金稼ぎや、趣味のクラフトグッズを販売しているブースもあり、賑やかで楽しい。

週末はマーケットを覗いて、屋台の食べ物を食べたりのんびり過ごす、というのもオーストラリア人の一般的なスタイルだと思う。

都会で行われる大規模なものから、田舎の小さなものまで様々で、観光用のパンフレットにもマーケット情報がまず載っている。

 

ある時また別の友人から、着なくなった服を売りたいが、一緒に私の手作り菓子も売らないかと声をかけられた。

もともとワイナリーで働いていた頃は、出張試飲の許可がおりる野外イベントを手伝っていたし、マーケットで自分が売る側に回るのは楽しそうだな、と思って参加した。

 

マーケットでは、使って良いスペースを与えられるので、自分たちでテントとテーブルを用意して、売りたいものを並べる。

友人は、商品に値段のタグをつけ、テントの骨組も利用してディスプレイしていたし、私はケーキ用のスタンドに、見本品を並べて準備した。

 

あまり目立った感じに飾り付けできなかったので、ほとんどは知り合いの方が購入してくださったが、時々それ以外の方にも購入していただけたのも、また、嬉しかった。他のストールの方とも交流できたりして、それもよかった。

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4. 日豪イベント

 

現在、お惣菜屋さんは閉店しているし、マーケットでの販売も2回で終了した。

私は相変わらず、趣味でお菓子を作っては自分で消費している。

ごくたまに、依頼されて作ることがある程度。

 

そんな折、再びママ友Nさんからお誘いがきた。

今度はこどもの日の木曜日の夜、日豪イベントとして「Taste of Japan」と題した居酒屋スタイルの企画に、一緒に参加しようというのである。

 

当日は、本職の日系ビジネスの方々が、日豪のお酒を販売したり、おつまみになる食べ物を色々と用意する。

そんな場所の端っこの方にスペースをいただき、友人のクラフトやイタリアンなおつまみ、そして私のビスコッティを置かせていただく予定になった。

素人の私にとっては場違いな気がしないでもないが、そんなことを言っていては何事も始まらないので、ありがたく挑戦させていただこうと思っている。

 

これまで作ってきたフレーバーは、バニラ、コーヒー、抹茶、ココア、クランベリー味。

日本っぽい味が少ないので、今、きなこや黒糖なども試し焼きをしている。

 

オーストラリアで、日本人がイタリアのお菓子を焼いているというのは不思議な感じがするが、ケアンズではおかしくないのかもしれないと思っている。

なんといっても、家庭で話されている英語以外の言語は、ケアンズにおいてはイタリア語と日本語がほぼ同率首位である、という国勢調査の結果を読んだことがあるからだ。

 

友人が私のビスコッティを褒めてくれてからというもの、私の活動範囲は確実に広まった。

 

ケアンズに越してきて12年になるが、いまだに自分の立ち位置が掴めない。

それでも、このように様々な体験ができていることに感謝したい。

友人が贈ってくれたレシピ本から始まり、自分の焼いたビスコッティを通じて、多くの方と繋がれるご縁を感じているところだ。

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4.5.2022

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

オーストラリアの助産師主導型出産

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1. オーストラリアで子どもを産む

 

子どもは2人いる。

現在、それぞれ12歳と15歳。

オーストラリアの同じ公立病院で出産した。

 

共に同じ病院を利用させてもらったけれども、その体験は大きく異なる。

 

第一子は、いわゆる通常のステップを踏んだ出産。

最初にGPと呼ばれる一般開業医の妊娠検査を受けて、病院へのレターをもらい、専門医にかかる。

初産のため、来院から出産まで9時間かかった、というのはよくある話だろう。

 

第二子の時は、来院から出産までは1時間半だった。

2人目以降は予想外のスピードで出産が進んだという話もよく聞くため、こちらもまあ、特別な話ではない。

 

大きく違ったのは、第二子の時は「ミッドワイフリー・グループ・プラクティス(MGP)」と呼ばれる、新しいプログラムを利用したことだ。

私たちの住む地域では、利用できるようになってからまだ一年も経っていない、新しい取り組みだった。

 

日本では助産院で産むという選択肢も一般的だが、こちらでは聞いたことがなかったので、「参加を希望しますか?」と医師から尋ねられた時、私は諸手を挙げて同意した。

 

妊娠13週の頃、正式にMGPが利用できるという手紙を受け取り、利用メンバーになることができた。

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2. 助産師さん主導型の出産

 

「ミッドワイフリー・グループ・プラクティス(MGP)」は、助産師さんが主導となって妊婦の面倒を見るというプログラムだ。

 

通常は、定期的に医師と面会して体調を管理するところ、MGPでは、担当の助産師が産後までサポートしてくれる。

いつも決まった助産師さんに体調を診てもらうため、医師と面会するのは最低限で済む。

 

利用できる妊婦にも条件があって、

 

 健康で出産に特別な問題がない。

 自然分娩で産む予定である。

 無痛分娩など特殊な方法を利用予定ではない。

 

という希望が一致しないといけない。

 

第一子の時は、出産時に笑気ガスを吸わせてもらったけれど、MGPではまず、医療介入を減らすための努力を妊婦側に求められる。

まあ努力と言っても、マタニティヨガをしてみる、出産時はバランスボールを使ったり、重力を利用した赤ちゃんが出てきやすい体勢をとってみるというような話で、特別大変なことではない。

 

私たちの担当助産師は、第一子の時に参加した「両親学級」の講師をしてくれた男性だった。

ご夫婦共に、助産師の仕事をしているそうだ。

このプログラムを率先して進めている人物のようで、医療介入の少ない出産、母乳育児推奨などの情報を共有してくれた。

 

確かに、「彼の両親学級」ではそのような話を聞いていたのだが、第一子の時は、ずっと分娩台の上で寝ていたし、母乳の与え方を病院で習うこともなかった。

母乳クリニックというところは、ヘルスプラザに存在したが、実際に参加できたのは産後2週目に入っていた。

今回は私がイメージしていた出産に近づくのか、と楽しみな気持ちになった。

 

通常4週間に一度の健診は8週間に一度、妊娠後期になると2週間に一度の健診でよい。

その代わりに困ったことがあったら、夜中でも担当の助産師さんに繋いでもらえる。

それも心強いことだと思った。

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3. 第二子の出産

 

頼れる人がいる、という安心感からだろうか。

妊娠中の私の体調は比較的安定しており、出産時も、病院に着いてからわずか7、8回の息みを経て第二子は生まれた。

水中出産だった。

娘は、途中まで羊膜に包まれたままだったという。

 

生まれてきた娘は、夫がへその緒を切り、すぐに私の胸で2時間ほどカンガルーケアで過ごす。

さまざまな医療介入は、その後に行われたと記憶している。

これらのことは、第一子では果たせなかった「夢」となっていたので、それが現実になったことで「尊重されている」と感じた。

3歳半の息子も、一緒にそばにいた。

 

出産から4時間半後、帰宅許可が出て、4人になった私たちは家に帰った。

 

そういえば1人目を産んだ時、同室になった女性が立て続けに2人、当日退院を希望して帰っていった。

オーストラリアではよくあることなのだろう。

しかし、日本では1週間程度入院するというではないか。

私も1人目の時は、4泊ほどさせてもらっている。

それが今回は、病室にすら足を踏み入れることがなかった。

 

2回目の出産後は、お産が軽かった分、体力が余っていた。

出産に付き合ってくれた息子に、その場で絵本の読み聞かせをしてあげられたくらいだし、自分で歩いて車に乗ることもできた。

第一子の時は、車椅子を使って病室まで運んでもらったので、これは大きな違いだった。

 

家に帰れば、助産師さんが自宅訪問で我々の様子を確認してくれるのも安心だ。

 

しかしその2日後、私と娘は病院へ舞い戻ることになる。

 

授乳のため、長時間抱きすぎたせいで、娘の体温が39.3℃まで上昇してしまったのだ。

暑い日に、エアコンを使っていなかったのが災いしたらしい。

体温自体は自宅で用意したぬるま湯のお風呂で落ち着いたのだが、念のため病院へむかうことに。

すると娘は、黄疸治療、低体温、再び黄疸治療という理由で、病院に7泊の足止めを食らってしまった。

授乳をしなければいけないので、私も娘と離れた病室で入院をした。

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4. 担当助産師さんの活躍

 

入院8日目、帰れそうなのに許可が出なくてしびれを切らした私は

「まだ退院できないのか?」

と医師に尋ねていた。

 

すると朝イチで採血したばかりなのに、「採血をしなければ」と言って、医師は娘を連れて行ってしまう。

『何度採血をするのだろう』と不安になっていた時に、かの担当助産師さんが様子を見にきてくれた。

 

4日間の休暇を終えても、まだ私たちが入院していることに驚いた彼は、現状を聞きに医師の元へ行ってくれた。

そして、娘を取り返してくれたのだった。

「もう退院できますよ」とも言ってくれた。

 

この時は、彼から後光が見えた気がした。

そして、特定の人が面倒を見てくれると、このようなサポートもあるのかと感謝した。

 

未熟児だらけの特別看護ルームの中、娘は3kgと大きく、黄疸の数値以外は問題のない子だった。

言葉は悪いが、後回しにされている感があった。

娘のかかとの採血の傷跡を見ては、不憫に思っていた私は、家に帰れると聞いて本当に安堵した。

 

お産が軽かったとはいえ、産後の体調が万全とは言い難い状況で、自分の味方と思える人がいるのは心強いと実感した。

 

次回妊娠をしたら、「まず自分の携帯に連絡をしてほしい」という申し出までいただいており、将来にまで気持ちのゆとりを提供してもらえた。

 

ただ残念なことに、その半年後には飛行機で2時間半も離れたケアンズへ引っ越すことを決めてしまったので、次回はこなかった。

 

当時、MGPサービスがまだ始まっていなかったケアンズでは、もう出産は無理だと思ってしまったので、子どもは2人のままである。

 

贅沢を覚えてしまったのかもしれない。

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3.6.2022

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

永住権前後

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1. 永住権取得の先にあったもの

 

私たち夫婦は、当時日本で貯めたお金の全てを使ってオーストラリアへやってきた。

ワーキングホリデービザなのだから、働けば何とかなるだろうという発想だった。

かつて夫が、カナダのバンクーバーで3ヶ月間の語学留学をしていて、日本人の友人たちがアルバイトをしているのを間近で見ていたため、海外で働くイメージが想像できていたのだと思う。

 

ワイナリーと民泊(Bed & Breakfast)と別々に分かれて、6ヶ月間の文化交流体験をこなしたあと、夫の研修先が、そのままビジネスビザまで請け負ってくれる就職先となった。

 

ワイン醸造は高給取りの職業だという噂は、単なる噂だった。

大手にでも勤めていれば話は違ったのかもしれないが、金銭面においては、長らく自転車操業のような生活をしていた。

しかし若かったこともあり、お金を得る以上の経験をしているのだという意識を持っていて、生活できているから大丈夫という安易な気持ちで生きていた。

また「お給料には反映できないが、色々とサポートはしてあげよう」というオーナーの気持ちを感じていたので、住んでいる家から放り出されるような不安も少なかった。

実際、途中からオーナーが購入した住居に移り住み、家賃も我々が払えるくらいの金額で固定してくれた。

この時期、周りの家賃相場はどんどん上昇していたので、これはありがたかった。

 

四年間のビジネスビザの終わりが見えかけてきた頃、オーナーから永住権の話が出た。

この時期、オーストラリアはまとまった人数の移民受け入れを発表しており、我々ももれなく申請したのは言うまでもない。

 

地方在住の雇用主指名ビザだったが、ワイナリーの建つ場所が地方と地方でないギリギリの場所に存在しており、普段使用している郵便番号が地方であるからとの判断で受け入れられたのはいい思い出だ。

 

結果、2006年の半ば、私たちは永住権を取得した。

そしてその2週間後に、私は1人目の子どもを出産している。

 

ビザ申請に詳しい方なら「あれ?」と思うかもしれない。

健康診断のX線検査は、妊娠中であれば受けられないのではないか?

しかし今回は「出産後に受ける」という約束のもと下りたビザだった。

私たちを担当した移民局の方が融通を利かせてくれたようだが、そのおかげで生まれてきた息子は、自動的にオーストラリア国籍を取得することができた。

 

永住権を持って出産で病院に滞在したのは、3泊ほどだったか。

その間に「医師からの出産証明書をもって、センターリンクへ行くように」と促された。

促してくれたのは、ナースだったのか、それとも事務の人だったのだろうか。

いつまで経ってもわからないことだらけの中で、言われた通りに足を運んだ。

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2. センターリンクという所

 

それまで、「自宅」「職場」「スーパーマーケット」のほかに、出産のための「病院」が増えただけの地味な生活をしていた我々だ。

センターリンクが何をするところなのか、よくわかっていなかった。

身近な職場のオーナーは子どものいない共稼ぎで、縁がないようだった。

 

センターリンクは政府の機関だ。

さまざまな状況の人へ、金銭的なサポートを行う。

 

「失業手当」「ひとり親家庭へのサポート」「子育て世帯へのサポート」「老齢年金」「若者へのサポート」「大人になって学生に戻った人へのサポート」など、書き出すとキリがないくらい種類がある。

 

そのせいか様々な人が利用しており、自分の順番が来るまで、それなりに待たされた。

生まれたばかりの乳児をあやしながら、正直、少しストレスを感じていたのだが、我々の順番が来て話を聞くと、どうやら手続きをすることで定期的にお金が振り込まれる、ということがわかった。

 

そして我々は「低所得者むけの子育て世帯への追加補助」を受け取る資格のある年収かもしれないと言われたが、永住権取得から2年以上経過している必要があり、こちらの申請は叶わなかった。

 

渡したばかりの出産証明書を秒で無くすという、不可解なミスをしたセンターリンクの職員だったが、それでもさまざまな情報と金銭的なサポートをくれた。

 

しかも出生率の増加に力を入れている時期だったようで、出産一時金として3000豪ドルほどの金額をもらえるという。

数年前なら桁が一つ少なかったと聞いたので、偶然だが、タイミングも良かった。

 

少し前、永住権の申請費用を払ったその瞬間から、この国の健康保険が使えることになっていた。

それまで実費だった出産前検診が無料に、そして出産入院費用までもが全額カバーされている。

 

それに加えて、子どもがいるだけで、国がもっと金銭的サポートをしようというのだ。

オーストラリアで子どもを持つということは、金の卵を産む鶏を持つことなのか?

 

一瞬頭がクラクラしたが、素直にサポートを受け取ることにした(受け取らない理由を知りたい)。

残念ながら、上記の通り我が家は裕福ではない。

国からのサポートのおかげで、日本の家族へ孫の顔を見せに帰ることが、より早く実現した。息子が5ヶ月の頃だった。

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3. 恩返し

 

政府からのこのようなサポートに対して、お金が出るから子どもを産むというカップルも一定数いたようだ。

しかも、乳児にかかりっきりの母親を出し抜いて、一括で支払われた出産一時金を持ち逃げした父親がいるらしいという噂も出ていた。

2009年に娘を出産した際は、一時金の支払いが分割に変更されたいたので、あながち嘘でもないのだろう。

 

現在は制度も変わり、金額も一桁少ない額に戻っている。

あの頃、移民を受け入れたり、出産を奨励したりと、国は人口を増やしたかったのだろうと思われる。

さて、これまで我が家がセンターリンクからサポートを受けたものは以下の通り。

 

「出産一時金」

「子育て世帯補助金」

「賃貸家賃補助」

「低所得者証明カード(ほとんど利用した記憶はない)」

「保育園の費用補助」

「学資補助(一時金)」

これ以外に災害時の一時金など、子どもがいなくてももらえるものもあった。

初めに案内された「低所得者むけの子育て世帯への追加補助」は利用していない。

 

一時期、私が週5でホテル勤務をしていた頃、夫とのダブルインカムでさすがに補助の対象外になった。

サポートには世帯収入に上限があるのだ。

夫と2人で「ようやく独立した感じだ」と言い合っていたのだが、私のわがままで、また収入が減ってしまった。

 

子どもたちが中高生になった今、残念ながら再びセンターリンクのお世話になっている。

子どもが中高生の方が、補助額がより高いというのはオーストラリアの特徴なのではないかと思う。

ハイスクールでは、個人のコンピュータやデバイスが勉強に必須となっているので、支出がどうしても大きくなるのを見越してのことだろう。

それでも、お世話にならずに済むのが本当は良いのだが…

 

オーストラリアの財政が厳しくなって、市民権保持者ではない永住者に、同じだけのサポートを与えるのはいかがなものかという意見があるのだという。

 

日本人は重国籍が認められていないので、どうしても永住者にとどまる人がほとんどだ。

出生地によって国籍を得た子どもたちと違い、我々夫婦も永住者止まり。

こちらでの選挙権もなく、よって自分の意見を投票することもできない。

 

しかしまあ、今までこの国にお世話になってきた分くらいは、質の高い労働力と納税と子育てでお返しができるといいなと思っている。

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2.5.2022

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

State-of-the-art とは

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悩む

 

State-of-the-art

 

この言葉を初めて知ったのは、ワーキングホリデーで滞在していたオーストラリアに残る、そのきっかけとなったワイナリーでのことだ。

私たち夫婦が勤務していたワイナリーの宣伝用パンフレットに 、State-of-the-art winery と書いてあった。

 

勢いで海外に出てみたものの、英語に興味が薄く触れる経験の少なかった私にとっては、初めて聞く言葉。

 

はてさて、どういう意味だろう?

 

artとつくからには、きっとなにか優美でエレガントな意味があるに違いない。

stateは、州という意味しか思い浮かばない。

この二つの単語を合わせているのだから、そうだな『芸術的に素晴らしい代表的な場所』みたいな感じで使われているのだろうか。

 

ちょっとお上品でお洒落な場所であることを、印象付けたい時の言葉なのかもしれない。

もしくは熟練したものの持つ素晴らしさが、芸術的ということかもしれない。

ワインは、味わいを例える時に様々な表現をするし、それ自体が作品として扱われることもある。

 

だからアートなのか。

私は勝手に、そのような解釈で自己解決していた。

パンフレットにこの言葉を使ったワイナリーのオーナーに、言葉の意味を尋ねれば手っ取り早く理解できたのだろうが、なぜだろうか、聞くような事ではないと感じ、調べようとも思わなかった。

 

なんとなく、心で理解しなければいけない言葉なのだという気がして、自分の中に仕舞っておいた。

ただ時々思い出しては、

 

この事象は、State-of-the-artという表現がふさわしいだろうか? 

 

という検証は時々していた。

あまりしっくりくるものはなかった。

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閃く

 

話は、その後私がケアンズに引っ越し、ホテルのベッドメイキングをしていた頃に飛ぶ。

 

私が働いていたホテルの部屋の造りは、スイートルームを除けばほとんど同じで、掃除をする手順は、どの部屋でも違いは少なかった。

 

ホテルという性質上、お客様視点から、見るからに美しく部屋を仕上げることを要求されるが、それと同時に、事業者視点からは、決められた時間内で仕上げるようプレッシャーも与えられている。

 

ちなみに、12部屋で5時間というのが業界の基準だと言われていた。

これはペアではなく1人で掃除を行う時の基準で、綺麗にするのに時間のかかるチェックアウトの部屋も、お客様から「今日は掃除は要らない」と言われるかもしれない使用中の部屋も含めた混合の数である。

 

短時間で、美しく、そして抜かりなく。

これらの相反する要求に応えるためには、自分の体の動きを『半自動化』するしかない。

どのような順番でどのような動作をすれば、見逃しを防ぎ、効率的に掃除ができるのか、ということをいつも考えていた。試行錯誤を繰り返し、考える前に体が勝手に動くように努力した。

 

そのうち私が担当するフロアーが出来、毎日だいたい同じ部屋を掃除するという条件が整った時、私は客室のドアを開けた後、踊るような感覚でいつも同じように体を動かしていることに気がついた。

 

自分の体の動きだけではない。

 

部屋をセットアップするのに必要な、アメニティやシーツ、タオルなどを運ぶワゴンも、自分好みに整理整頓していて、コントロールできていると思った。

 

その時、私はいまState-of-the-artの状態なのではないか、と感じた。

 

State-of-the-art housekeepingとでも言おうか。

 

 

さて、自分に都合の良いことばかりを書いてしまったので、時間に関しては、綺麗さに重きを置くあまり、どうしても遅れがちであったことは告白しておきたい。

 

しかしそれを差し引いても、掃除をする私の動作は、自分史上、かなり理想的に感じられた。

 

私の中で、State-of-the-artというのは『理想的』という日本語に変換されていた。

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真実

 

さて、それではState-of-the-artの本来の意味は何だろうか。

実は先ほど、初めて調べた。

 

State-of-the-art = 最先端、最新の(技術、設備など)

 

artは芸術ではなく技術という意味で、stateは状態を表すそう。

theはひとつしかない物の前につける冠詞なので、この使い方では唯一無二という意味合いを持つらしい。

「最先端」が「理想的」なら、私の解釈もあながち間違いではないが、思ったよりもエレガントではなかった。

どちらかというと、シャープで尖った感じがする。

言葉だけを見て、勝手にロココ朝の雰囲気を感じ取っていたが、テクノロジーが似合うような意味合いであった。

英語脳になれない自分を披露しているようで、なんだか少し恥ずかしい。

さて、今回の答え合わせをするのに、20年近くの時を経ている。

私たちがオーストラリアに足を踏み入れたのは、2002年2月。

私がワイナリーで冒頭の言葉にはじめて触れたのは、その1ヶ月後のことだ。

あまり目にする機会が少ない言葉とはいえ、調べることなく、よくここまで想像だけでやり過ごしてきたなと思う。他にも、調べてみると想像とは全く異なる意味だった単語は少なくない。

高校生の頃から、英単語の暗記を脳が拒否してきた代償だろう。

20年というオーストラリア滞在年数に対して、それに見合う英語力が全くついていないため、申し訳ないような気持ちをいつも感じる。

普段、私のよくわからない英語に付き合ってくださる皆さんには、本当に感謝しかない。

 

20年といえば、人ひとりが成人になるとされる年数だが(今年から18歳が成人に変わるけれども)、私の英語に関してはいつまで経っても成人になる気配はない。

しかしそれでも、State-of-the-artという単語を付けられるような、最新の何かに触れることができたら、人生は楽しいだろうと思う。

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12.5.2021

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

街のベーカリー

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2010年、ケアンズに引っ越してきて嬉しい誤算だったのは、おいしいケーキやスイーツがいろんなお店で簡単に手に入ることでした。

観光地なので、おしゃれなカフェもたくさんあるし、いろんな国出身の人が各自ルーツの甘いものを提供してくれます。

ですから「自分で作らなければ…」と思わなくても、そういったお店に出向くことで満足できてしまいます。

私の場合は、ケアンズ以前で過ごした日々の積み重ねもあるので、買うだけでなく自分で作る楽しみもやめられませんでしたが、そのための「勉強」という名目で、ケーキ屋さんに出向くこともやめられません。

ただこれは観光地ケアンズだからであって、そうではない地域の人は、みんな自分で作って、甘いものへの欲求を満足させているのかといえばそういうわけでもなく、甘いものが欲しくなったら立ち寄るお店があります。

 

それは、ベーカリー(パン屋さん)。

 

2002年に半年間ホームステイしていた場所は、ニューキャッスルから車で30分、シドニーからだと一時間半のドライブを経て到着する、湖と山に囲まれた田舎にありました。

そしてそこに住むホストファミリーはほとんど外食をせず、毎晩できたてのおいしい夕食を食べていました。

デザートも、結構な頻度で一緒に作りました。

それでも一度、お友達の家に持参するために、地元のベーカリーで甘いお菓子を見繕ったことがありました。

こういう場所で甘いものを買うのかということと、そのスイーツがとても甘かった記憶が残っています。

アップル・ターン・オーバー

ホームステイが終わった後に引っ越したイプスウィッチは、州都ブリスベンの西隣に位置していました。

しかし、都会のそばにあるエリアの割に、スイーツが並ぶおしゃれなお店は見あたらず、砂糖の塊のようなチーズケーキを出すカフェが、繁華街にようやくあるような感じでした。

ブリスベンに気軽に行ける距離のため、逆に発展を逃していたのかもしれません(今は人口も随分と増え、様変わりをしているはずですが)。

そんな地域でも、いわゆる「近所のベーカリー」にはスイーツが置いてありました。

駅前にあったお店で、見た目で選んで買ってみたのは「アップル・ターン・オーバー」というお菓子。

丸い形のパイ生地を半分に折って、中に煮りんごを挟んだものです。

アップルパイのように、縁をぎゅっと閉じることはせずに焼いてありました。

そのままの状態のものと、生クリームを間に絞ったものとが選べます。

甘いもの好きのオーストラリア人ですが、驚いたことにここに絞られていた生クリームは無糖でした。

甘くないと逆に塩味を感じてしまい、とても不思議な気持ちになります。

さくさくパイ生地と、甘酸っぱい煮りんご、そして生クリームの濃厚さがクセになる一品でした。

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ラミントン

 

また、イプスウィッチ在住時は知り合いが家族でベーカリーを経営していて、新店ができたと聞いて寄らせていただいたことがあります。

その時に買ったのは、ラミントンでした。

ラミントンは四角いスポンジケーキを、チョコレートやココアアイシングでコーティングして、ココナッツをまぶしたお菓子で、オーストラリアのスイーツとして有名。

ベーカリーで買うラミントンはいつもふわふわの口当たりで、どうやったらあんなに軽くてきめの細かいスポンジを焼けるのだろう、と羨ましく思いながら食べる一品です。

ケアンズに来てからお友達と一緒に作ったことがありますが、あのふわふわ感は出せませんでした。

残念。

いつか、もう一度挑戦したいと思っています。

このラミントン、実は発祥が我がクイーンズランド州で、一説によると「ブリスベンでできた」「いやいやトゥーウーンバだ」などと言われているそうです。

それを知った時、私は中間地点にあるイプスウィッチで初めて食べたのかと、しみじみしてしまいました。

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ベーカリーのスイーツ探訪

 

ケアンズに来てからは、目を引くケーキ屋さんやカフェに心を奪われ、街のベーカリーでスイーツを買う機会はほとんどありませんでした。

 

ある時、時間調整のために立ち寄ったショッピングセンターにチェーン店ではないベーカリーがあり、友人宅へのお持たせをそこで買ってみようと思いました。

 

ショーケースにはカップケーキや、コッペパンの上にアイシングがたっぷり乗った甘いパンなど、お決まりの品が並びます。その時は、お持たせの条件に合う手軽で手頃なミニタルトを選びました。

 

そうだった、そうだった、

 

ベーカリーのスイーツも忘れちゃあいけませんでした。

派手さはあまりないけれど、確実に国民のお腹を満たしてきた甘いものがそこにはあります。

 

 

せっかくなので、今まで行ったことのないケアンズの街のベーカリーで甘いものを探そう! と思い立ちました。

職場のスタッフがよく行くというお店を訪れてみると、なんだか懐かしい雰囲気の店内。

 

奥の棚には食パンやディナーロールなど、日常的に食べられるパンが並び、手前のショーケースには、サンドイッチや惣菜パン、スイーツなどが並んでいます。

想像以上に、いろんな種類の甘いものが置いてありました。

 

ラミントン、アップルターンオーバー、バニラスライス、ドーナッツ、ヘッジホグスライス、ロッキーロードスライス、キャラメルタルト、ミンスパイ、マッドケーキスライス、エクレア、カップケーキ、フィンガーバン(アイシングを載せたコッペパン)、クリームバン(生クリームを挟んだコッペパン)などなど……

 

ワクワクしていたので、値段を見ずに4つほど甘いものを選んだところ、合計がなんと10ドルを切っていました。カフェでケーキを頼もうものなら、一つ8ドルは平気でとられるこのご時世に、です。

 

その後、欲が出た私は、別の場所にあるチェーン店のベーカリーにも突撃し、新たに3つ、手に入れる有様。甘いものには目がありません。

 

これからのクリスマスシーズン、オーストラリアでは定番のフルーツケーキやジンジャーブレッド以外に、普段は手に取らないスイーツを食べてみるのも悪くないなあと思う今日この頃です。

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11.5.2021

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

小学校で最後のお祭り

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1.ロックダウン

8月のお盆の時期、娘の通う小学校ではフェイトと呼ばれるお祭りが行われるはずだった。

これまで私がどのようにフェイトに関わってきたのか、今年はいつ行われるのか、ということは8月号に書いている。しかしその記事を寄稿した後、開催予定日のちょうど1週間前に、ケアンズはロックダウンになった。

3日間のロックダウンが明けて小学校は再開されたが、送り迎えの保護者が2週間は学校施設内に立ち入れない制限がかけられたこともあり、その状況下でのフェイト開催は難しいとの判断がなされた。

1週間前であったから、当然さまざまな準備は進んでおり、企業・団体からの寄付やラッフルチケットの販売、当日やってくる移動遊園地のフリーパス券販売などもすでに行われていた。

よって、中止ではなく延期。

ただでさえ忙しい最終学期である4学期、10月後半の土曜日、午後3時から8時までが新しいフェイトの日付となった。

2.仕切り直し

フェイトの数ある出し物の中で、私は「巻きズシ」ストールの共同責任者を担当している。

8月のフェイト延期が決まった頃、スシストールは一体どのような状況だったのか?

各家庭からの炊飯器、前日の仕込み・当日朝のスシ巻き・当日午後の販売スタッフを募り、人数調整や追加募集を行っているところだった。

食材に関しては、長期保存の効くものは既に入手済みで、そろそろ野菜を購入しようかというタイミング。おかげさまで、10月に延期されても食品に関してのロスは出なかったが、日をあらためたことによる新たな問題が発生した。

現在、世界的なムーブメントになっている「脱プラスティック」。

我々の住む地域では、9月1日から食品を販売する際の使い捨てプラ容器が原則禁止となったのだ。

元々の開催日時であれば、確保済みのプラスティック容器を使用できたのだが、日を改めたことで新しく紙の容器を購入するはめになったのである。

現在手元にある容器は使用できず、新たな製品を購入するという、エコとは言い難い状況になったのは皮肉なことだ。

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3.参加者を集める

 

新しい日付のフェイト1週間前。

今回はロックダウンなどもなく、無事に準備を継続することができた。

昨年からのパンデミックが引き続き世界を賑わしているせいか、フェイトのボランティアは例年になく集まりが悪いようだった。

感染者が1人出ただけでロックダウンになったケアンズでも、人数が集まるイベントには参加を躊躇する人が多いのかもしれない。

娘のクラスの担当ストールは古本販売だったが、責任者と話をすると人手がまだまだ足りていなかった。

私はスシの責任者だが、販売の時間帯はほとんど体が空いているため、2時間参加することにした。娘は最上級生で、お祭りの間の付き添いが必要な年齢ではない。

そして私は、ケーキストールに寄せられた各家庭からのケーキを見ることができさえすれば、あとはボランティア仕事であっても構わない。

 

午前中にスシ巻きをしてくれた人で、自分の子どものクラスが担当しているストールにも参加している保護者は多い。それを見ていると、特定の人々の善意で成り立っている、とつい言いたくなってしまう。(やる気はあっても、家庭や仕事の都合で参加できない方も当然いるのだが)

今まで参加したことのない人も、時々しか参加しない人も巻き込んで作り上げるのが理想だろうが、我々だって一介の保護者であって、イベント開催の特別なスキルを持ったスペシャリストではない。普通に告知をして、参加を募ることしかできない。

スシストールでも、スシ巻き・販売・炊飯器は改めて募集しなおしたが、希望する数になるまでに時間がかかった。フェイトの主催者にも手伝ってもらい、Facebookやニュースレターで募集をかけてもらったところ、今年は例年になく日系以外のボランティアの方からメッセージをいただくことができた。

そのため今年は、当日の作業内容の手引書を、日本語だけでなく英語でも書き足すことにした。

4.フェイト当日

 

当日がやってきた。

前日から仕込みは始まっており、照り焼きチキン調理や荷物をスシ巻き会場に移動する作業を終えていた。

朝8時、もう1人の責任者と私で、スシ巻き会場である学童の施設のセッティングから開始。

テーブルを移動し、各電源に2台ずつ計12台の炊飯器を設置。

それから8時半には最初の参加者のかたがやってくるので、それに間に合うように、サインしてもらうタイムシートや手引書、衛生管理に関するパンフレットをわかりやすく並べる。

 

最初にお願いするのは、スシに巻く具材の準備。

ツナマヨを作り、野菜(きゅうり、にんじん、アボカド)を切る作業だ。

この野菜、実は購入後に我が家で管理していたため、嫁に出すような気持ちで今回持参した。

きゅうりは、購入後すぐ冷蔵庫に入れておいたら、危うく凍りかけていたのを発見。

すぐに取り出して、表面に結露する水分をとりつつ室温に戻し、クーラーボックスに入れたり冷蔵庫に戻したりを繰り返し、様子を見ていた。

購入時の見た目が良かったアボカドは、袋から出してみると、まだ硬いものが多かった。

バナナを入れると追熟が促されると聞いたので、家にあった熟れすぎているバナナを、とりあえずアボカドの間に差し込んでみた。

毎日硬さをチェックしていたが、土曜日になっても、まだベストな状態とは言い難いものが半分近く。

切ったら良い感じでありますように!

野菜のその後は、参加者のかたにお任せすることにして、私は、全体の進行が滞りなく進むことに意識を向ける。

 

お米は無事に炊けているか?

次々とやってくる方に、わかりやすいようなテーブルセッティングか?

朝から一緒に連れてきた子ども達(15歳と11歳)にも仕事はあるか?

スシ売り場に保管用の冷蔵庫は届いているか? 冷えているか?

今、どのくらいスシができている?

「あ、今仕事がないんです。何をしてもらいましょうか…」

「では、そろそろ売り場に運びますか」

 

このような感じであたふたしていたら、あっという間に予定数の寿司が出来上がっていた。

私が実際に巻いた寿司は、5本くらいだっただろうか。

材料が余っていたので、まだ数が足りていないと勘違いした私は、

お米が足りない! 

と騒いでしまったが、すでに十分足りていた。事前に1合2本で計算・準備していた、米の量を信用して良かったのだと思った。

過去のスシ巻きでは、何かしらのトラブルがいつも起こっていたので、スムーズな進行に慣れていなかったように思う。

余った食材で、みんなのランチを作った。

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5.スシ完売!

 

スシは完成してしまえば、後はこっちのものだ。

販売は、お金がわりのスティックとスシを交換すれば良いだけ。

「ツナマヨ&きゅうり」「照り焼きチキン&アボカド」「きゅうり、アボカド&にんじんのベジタリアン」から選んでもらえる。

私は子どものクラスのお手伝いに抜けてしまったが、もう1人の責任者のかたが何かと気をかけてくださり、つつがなく売れていた。

 

300本以上作った年は、最後の1時間を売り子が練り歩いたこともあるが、今年は200本と数を控えめにしている。

そのおかげで、売り切った後に片付け・解散となっても、まだ祭りは終わっていなかった。

今年は私にとって11年目のフェイトで、そして小学校の保護者として関わる最後のフェイト。

日系の保護者、スシストール担当クラスの保護者、担当クラスの先生(偶然にも日系のかた)、学校の日本語の先生、そして、学校からの参加者募集の呼びかけを見て参加してくれた保護者の方々、おまけにそれぞれの子ども達まで。

人が足りないと騒いでいたが、結果、こんなにたくさんの方々の協力を得て、スシストールは無事に終わった。

余った食材で作ったスシを食べていると、薄く切られたアボカドがまだ少し硬かった。

薄く切って食べやすくしてある工夫に感謝しつつ、どこかちょっと抜けのある、これぞフェイトのスシだなとしみじみ味わった。

 

10.5.2021

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

ペットを飼うということ

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1.ペットが欲しい

 

「うちにも犬か猫が欲しい」

娘からいつも言われていた言葉だ。

そう言われるたびに、

「猫はお父さんが好きじゃないし、犬はうちのフェンスをしっかりして、日陰になる場所を外に用意してあげないと無理」

と断っていた。

オーストラリアで、ペットを飼っている家は多い。

 

私が初めてホームステイをした家には猫と馬がいたし、夫のステイ先には犬が2頭いた。

現在住んでいる家の近所を見渡しても、首輪をつけた猫が道路を歩き、散歩をすればフェンス越しに吠えてくる犬、勝手に抜け出して歩き回っている犬もいる。飼い主の車(トラック)の荷台に繋がれて、一緒に出勤する犬も時々見かける。

お友達の家から

「鳥を飼い始めたよ」

「ギニーピッグ(モルモット)を育てているよ」

なんて声もちらほら。

 

周りにはこんなにたくさんの人がペットと一緒に暮らしているのに、なぜ我が家はダメなのかと不満タラタラの娘だったが、今年のお正月に夫が

「猫なら飼ってもいいかもしれない」

と言い始めたので私はびっくりした。

 

娘は大喜びだ。

白状すると、私がどこまでの負担に耐えられるのかというのが、ペットを飼う時の1番のポイントだと思っている。

我が家にはすでに金魚がいる(実はもう「ペット」はいた)。

朝晩2回のえさやりと、時々水槽の掃除をすれば良いという、お世話の簡単なペットだ。水質もあまりこだわらなくてよい。

金魚は5年ほど前の息子の誕生日に五匹買ったもので、「これはおれの金魚にしよう」と夫が言っていた黒い出目金一匹だけが、現在も生き延びている。

しかし気がつけば、毎日のお世話をしているのが息子でも夫でもなく、母で妻の私だというのは、まあ、よくある話だろう。

 

犬にしろ猫にしろ、我が家でなにかを飼うのであれば、最終的には私の責任感が最後の砦となる。

そんなプレッシャーを感じつつ、それでも猫を飼えるとなって嬉しかった。

私は生まれた頃から、家に猫がいた。

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2.猫を迎える

 

我が家からそれほど遠くない場所に、動物の保護施設RSPCAがある。私たちは、将来家族になる猫をそこで探した。

保護施設で希望を伝えると、まず、猫を迎える条件が整っているか、スタッフの人に確認される。

子どもがそれなりの年齢になっていること、ペットの飼育に制限のない持ち家であること、完全室内飼いができることなどの条件を満たし、晴れて我が家にやってきたのは、生後六ヶ月のキジトラの兄弟猫が二匹。

飼うのは元々一匹のつもりだったが、兄弟で一緒にいるところを見てしまうと、そこから一匹だけを選ぶことはできなかった。

私たち人間が家を留守にしている間、生まれた時からの兄弟と一緒なら、お互いに寂しくないかもしれないという算段もあった。

私たち家族は大人二人、子供二人。そこに猫も二匹なら、バランスが取れているではないか!

兄弟たちは実際に、ケンカしたりシンクロしたり運動会を始めたり、人間がいなくても楽しそうにやっている(ように見える)。

 

生後六ヶ月だと、来た時から体もそれなりに大きく、トイレの場所も勝手に覚えてくれて手がかからなかった。

初めに液体状のおやつを舐めさせてあげたら、どことなく緊張していた二匹もリラックスしたようだった。

私たちが、エサと新鮮な水ときれいなトイレを提供しておけば、あとは好き勝手に過ごしてくれた。

私たち人間は、喜んでたくさんの写真を撮った。

 

猫を飼うことについて昔と違うと感じたのは、完全室内飼いであるという点だろうか。

気ままに外を歩く近所の猫も少なくないのだが、野生・飼い猫の区別なく、猫はオーストラリア固有の野生生物を殺し過ぎてしまう観点から、完全室内飼いを推奨されている。

 

確かに、猫たちがやってくるまでは家の中にヤモリがいたが、今や室内には見当たらなくなってしまった。いつものんびりしているように見える猫だが、なかなかのハンターであることは間違いない。

 

外に出して誰かに捕獲されてしまうのも困るので、小さな家の内側で過ごしてもらっている。

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3.ペットの病気

 

猫を譲渡された時の書類に、誕生日の記載があった。

誕生日がわかっているということは、妊娠中の母猫が保護されていたのかもしれないが、まあそれはともかく、7月の半ば、家族でお祝いをすることにした。

 

普段はドライフードとウェットフードを半々で与えていたが、その日は値段の高い缶詰を買い、そのうえに液体状のおやつで名前を書いたものが祝いの膳。

 

私たち人間は猫のアート大会を行い、本人たちは知るよしもないバースデーカードを作って楽しんでいたのだが、片方の猫に異変が。

急にいろんな場所で少しずつおしっこをするようになり、それに血が混じっていたのだ。

 

楽しい誕生日のはずが、嬉しくない出来事の記念日にもなってしまった。

 

予防接種でお世話になった動物病院で診てもらうと、排尿がきちんとできていないことを指摘され、緊急入院となってしまう。

尿石が疑われたが、強制的に排出した尿から見つかったのは、バクテリアだった。抗生物質を処方されたあと、経過がよくて一泊で帰ることができた。

 

しかしその2週間後、また同じ症状が起こり、今度は入院せずに注射を打たれただけで帰った。

 

それからは少し落ち着いていて、病気のことを忘れかけていた先日、今回は完全に尿が出なくなってしまった。血尿はなかった。

 

これらはいつも予期できず、突然発生する。

 

同じ条件で育ち、同じ餌を食べて育った二匹だが、一歳になってからはいつも片方だけが体調を崩す。

今回もかかりつけの動物病院での入院予定だったが、検査結果を診たドクターから、緊急動物病院への移動を促され、そちらで一泊をした。

 

幸いなことに、今回も尿を強制的に排出したあとは経過が良く、一泊の入院だけで帰宅を許されている。

 

ただし一泊とはいえ、残された健康な猫も、私たちも心配な夜を過ごした。

初めての入院の際は「一泊が1週間に感じた」と娘は言った。

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4.現代の常識

 

ペットの突然の病気は、年齢に関わらず他人事でないと、今回実感した。

何より、まだ一歳になったばかりでも起こりうるのだ。全くイメージできていなかった。

 

私のイメージは、30~40年ほど前に実家にいた猫たち。

彼らは外にいることが多く、そのうち帰って来なくなった。交通事故に遭っていたのを大人が隠していただけかもしれないし、本当に雲隠れしたのかもしれない。

猫の寿命はそれなりに長いようだが、彼らは一桁の年齢で消えてしまっていたと思う。

捨て猫や飼い主を探している猫を譲り受け、「餌を世話してあげるから、家のネズミを取ってくれ」という関係性の付き合いだった。餌はもちろん、ご飯に味噌汁をかけたネコまんま。今なら塩分過多で、動物虐待に問われそうな対応が日常。

 

ペットに対する、時代のアップデートができていなかったことに気づいた。

 

現代は完全室内飼いが主流となり、そうであれば、目の前から消えるということはまずないし、目的も愛玩動物の要素が強くなる。

 

そうであれば、人間が完全に責任を持って対応するのは必至だろう。

 

「猫と一緒に育った」というセンチメンタルを持っていたが、現代においてペットを飼うということは、おそらく国を超えて、私の「知っている」時代より飼い主の責任が増している。

 

今まで

「ペット保険ってなんだろう? 必要なのか?」

と思っていたが、考えるべき項目だった。

目の前に体調の悪いペットがいたら、放っておくことはできない。

その際、全てが実費になる。

気持ちは人間と同じように家族であっても、国の健康保険などは人間にしか適用されない。マイクロチップを埋め込んで、ペットとして登録済みでも、去勢手術を済ませていても、国からのサポートはない。

 

ペットである犬や猫の野生化を認めないことや、それ以外の野生生物は絶滅から守られるべき存在であること。

 

これらは人間が作り出した「考え方」であると言えるが、そういった御託を抜きにしても、目の前の生命が助けを求めていたら、なんとかしたいのは人情ではないか。

 

とりあえず、家族として迎え入れた猫たちは、私たちと運命共同体だ。

私たちは頑張って働いて、いざという時のために備えたいし、猫たちにはのびのびと暮らして欲しいと思っている。

 

9.5.2021

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

ケアンズの賃貸空室率

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ケアンズのロックダウンと空室率

 

8月中ば、ケアンズにも二度目のロックダウンがやってきた。

 

一度目は昨年の前半、はじめに感染が出た時だった。

それ以降、感染ルートがはっきりしたごく僅かな陽性者は時々出たが、これまでロックダウンにはならなかった。

 

タクシードライバーがひとり、検査で陽性反応が出たための三日間のロックダウンだったが、終わってみると、他からは誰も陽性反応が出なかった。

現在は再び、基本的にマスクなしで許される生活に戻っている。

 

ケアンズは、オーストラリア国内でマスクが要らない・ロックダウンが少ない拠点都市として人気が出ているらしい。

 

住宅事情がそれを物語っており、賃貸空室率が1.1%(2021年4月)で、家が見つからないと嘆く家族の記事が新聞に載った。ペットも一緒だった。

当然のように賃料もじわじわと上がっており、気の良いお隣さんが金額の安い田舎へ引っ越してしまった時は、とても悲しい思いをした。

リタイアしたお父さんと娘さんのコンビで、お父さんはいつも共有のドライブウェイに落ちた枯葉を掃除してくれたし、娘さんとは一時期職種が同じだったことから、とても親近感を覚え、お菓子やオリーブをお裾分けしたりした。イースターやクリスマスには、彼女からカードと共に子ども達へチョコレートのプレゼントをもらった。

 

今、近所の相場を軽く検索してみたが、以前はたくさん出てきたアパートタイプの賃貸物件はなりをひそめ、高額な一軒家が目立つようになっている。

 

また、売家にしても人気のようだ。

100人を超える人が見学会に訪れた6000万円台の物件があると小耳に挟んだし、日本語の不動産ニュースレター最新号には「ケアンズでは、販売中の物件よりも買主の数が多いという状況が続いており成約価格も上がっています」とあった。

 

金利が史上最低という要因もあり、市場が活発に動いているようだが、一方でロックダウンが続く地域の裕福な人々が、自由を求めて北に引っ越すというケースも、もう当たり前の光景なのかもしれない。

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我が家の引っ越し履歴

 

住宅価格高騰真っ最中のケアンズで、それでは我が家はどんな状況かというと、ホームローンを返済中の持ち家に住んでいる。

滞在初期のホームステイを除くと、オーストラリアに来てから五軒目の住まいになる。

 

一件目は、不動産会社を通して契約したイプスウィッチの一軒家。

 

六ヶ月間バラバラにホームステイ生活を送っていた私が、夫のステイ先へ合流した1週間後に、この家に越した。

床の隙間から地面が見えるような、シンプルな造りの2ベッドルームハウスだった。

仕事にかまけて庭の草を放置していたら、「警告文」が届いたため急いで草刈りをしたことや、隣の家の犬二匹が勝手に上がり込んでいたので追いかけ回した思い出がある。

ワーホリ友達やワイナリーで研修がしたいとやって来た日本人が、セカンドベッドルームに泊まったのはこの家だった。

二軒目は、勤務先であるワイナリーのオーナーが投資用に物件を購入したので、個人的に借りた。

年季の入ったクイーンズランダーと呼ばれる高床式住居で、1000平米の敷地の中に建っていた。

ここでは子どもが二人増え、ご近所さんとも仲良くなれた。

金婚式を迎えたお隣の老夫婦は、いつも二人で広大な庭の手入れをしていたし、反対側のお隣は小学生のお子さんがいるご家庭で、英語の苦手な私たちを歓迎してくれた。

息子は一歳から、家の斜め向かいにある保育園へ通い、裏庭の向こうにはオーナーが住んでいたので、安心して暮らしていた。

三軒目はケアンズに飛ぶ。

イプスウィッチにはアパートらしき建物はほとんどなく一軒家ばかりだったが、ケアンズはレゴブロックエリアと呼ばれるアパートだらけの地域が存在した。

 

私たちが最初に引っ越したのは、不動産屋さんに勧められた「現在販売中」の賃貸物件。

オーストラリアの集合住宅は、一戸ごとにオーナーが異なり、自分が住むこともあれば賃貸に出すこともある。

3階建てのアパートの2階で、子ども達が通うことになる学校の真横にあった。

当初、海に近い物件を希望していたが叶わず、およそ1700キロ離れた遠距離から住宅を決めなければいけなかったため、言われるがまま「おすすめ物件」にサインした。

しかし怪我の功名というかなんというか、引っ越した地域はいわゆる人気エリアだった。

 

実はそれまで、ケアンズの治安や人気の場所などについて調べたことはなかった。

二人目を産んだばかりのタイミングで、夫は職探しに忙しく、そんなことを考える余裕がなかったのだ。

そんな私たちだが、図らずもケアンズの人気エリアに住み、子ども達は人気の小学校に通うことになった。

ところでアパートの2階では、地面がない。

入り口に広めのベランダがあるだけで、そこからパン屑のこぼれたテーブルクロスをはたくと、一階の住人のベランダに落ちてしまう。

子どもがいる家庭なので、どうしても地面が欲しくて半年待たずに引っ越した。

四軒目は、やはり小学校のすぐそばにある、ちいさな裏庭がついたメゾネットタイプ(二階建ての集合住宅)。

毎日の散歩の時、ここに住めたらいいなと密かに目星をつけていた物件だった。

先のアパートよりも体感的に室内は狭い物件だったが、全体的にきちんとした作りで、住みやすくて嬉しかった。

二階へ続く階段があったので、子ども達はよく登り降りして遊んだ。

もちろん時々転げ落ちた。

裏庭は雨季に川になるシーズナルクリークに面しており、一度そこからフェンスの隙間を通り抜けてゴアナ(オオトカゲ)が入り込んだ時は、慌ててしまった。

サイズが1メートルほどあるので怖いし、安全な動物なのか確認したくて近所の人を呼び、フェンスの隙間を広げて逃してもらった。

ここでは子どもの友達もでき、お菓子もたくさん作った。「狭いキッチンからおいしい料理」を心の合言葉にしたし、家が狭いので外遊びに出かける基地のような感覚で過ごした。

 

しかし、

賃料は上がっていく。

人間関係も良好、学校が近くて住みやすいこの住まいは楽しかったが、私が就職したことを機に住まいを購入することを決めた。

 

それが五軒目、現在の住宅だ。

小学校そばの人気エリアからは少し離れたが、念願だった海の近くに引っ越した。

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ジェントリフィケーション

 

オーストラリアの賃貸では、「借りている」ことを意識させられるイベントがある。

半年ごとに、不動産屋の室内チェックが入るのだ。

こちらには、ひどい住み方をする人がいるらしく、それを防いだり確認するのだろう。

 

「〇月〇日〇〇時に訪問するので、在宅していてください」

 

というレターが届くのできれいに掃除して準備するのだが、待てど暮らせどやってこない、なんてことはよくあった。

仕事で留守にした時は、友好的なコメントが残されていたのに、私が在宅で立ち会った時は「窓のサッシが汚い」というお小言を頂戴したので、これからは留守にしようと誓った。

 

また、次に住みたい賃貸物件の見学を希望した際、指定された日時に、不動産屋がやってこないこともあった。

所詮、借主はそのような扱いなのだと身をもって実感した。

 

ひるがえって、家を購入しようと見てまわった時は、不動産屋の対応の丁寧さを感じた。

やはり賃貸の借主は立場が弱いのだろうかと、思わずにはいられなかった。

 

冒頭の賃貸空室率1.1%という数字。

貸主は賃料を上げて、貸し出す人を選びたい放題だろう。

 

最近、バックパッカー宿の掃除を時々している。

現在は州をまたぐ旅行者はやってくることができないので、住む家を失った人が、次の住まいが見つかるまで、こういった宿やキャンプサイトを利用することもあるだろう。

それでも次の住まいが見つからない人は、今までの仕事や学校や諸々をあきらめて、家賃の安い地域へ行くしかないのだろうか。

 

これをジェントリフィケーションと呼ぶのだろうか。

 

8.2.2021

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

小学校で巻き寿司を作る日

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スクールフェイト

 

ケアンズに越してきた翌年、2011年に息子は小学校に入学した。

一年生になる前の、日本で言うなら年長さんにあたる学年で、クイーンズランド州ではプレップと呼ばれている。おもに四歳から五歳の子が通う。

 

私たち夫婦は日本で生まれ育っているので、オーストラリアの小学校は知らないことばかり。

入学して少し経つと、「スクールフェイト(School FETE)に協力してください」という情報が飛び込んできた。

どうやらフェイトというものは、学校をあげての大きなお祭りのようだということを知る。

子ども達が通う小学校では、毎年8月上旬から中旬の土曜日の午後に行われることが多い。

 

仕切っているのはP&C(Parents and Citizens’)という日本のPTAのような組織。

ステージ設営と司会進行、食べもの屋台ブース、ケーキ・スイーツ・ジャム・植木・おもちゃ・お楽しみグッズ・セカンドハンド商品などの販売、アヒル(のおもちゃ)すくいやお化け屋敷などのアトラクション、オークション、ラッフルチケット抽選会などのイベントがあり、すべてボランティアの手によって運営される。

そして、移動遊園地の業者もやってくる。

 

私たちにとってはじめての年、Over 18’s BARというお酒を出すブースの責任者を募集していた。

小学校のイベントだが、なんと、保護者やスタッフ向けにお酒を飲めるスペースを確保しているらしい。

「お酒を提供しても、今まで問題が起きていない」コミュニティであるというのが、実は自慢だったようで、そんな言葉をちらほら聞いた。

「何年か前に、やるか辞めるかの熱い議論が交わされた」という話も聞いた。

お酒の販売には厳しいオーストラリアだからこその、自慢だったと言えると思う。

 

オーストラリアではお酒を販売するスタッフはRSA(Responsible Service of Alcohol)という免許が必要だが、夫は酒屋という仕事柄、常に保持している。

また、ワイナリーで働いていたときにたびたび出張試飲販売を行っていたため、そういったブースに何が必要かということは、それまでの経験からだいたい想像がつく。

「私たちのテリトリーだな」という匂いがした。

 

お酒ブースの責任者がなかなか決まらない様子を見て、私たちは手を挙げることにしたのだった。

 

「ありがとう」という言葉とともに、P&C会長の男性が笑顔で説明をしてくれた。

ここは単に責任者がいなかっただけで、すでに全て手配済みの楽なブースだと教えてもらう。

実際に、当日の販売スタッフを見つけることだけが、私たちの最大の仕事だった。

通常は、各ブースに担当クラスがつき、クラスの保護者を中心にボランティアを募るのが一般的だ。

しかし、お酒ブースはその性質上クラスがついておらず、人を集めるのに難儀した。

なにせ、私たちは引っ越して来て間もないうえに、まだプレップの子供の親なのである。

 

フェイトの時間中、私たちがずっと販売に張り付いていても構わなかったが、みんなで協力して作り上げるイベントなのだからと気を取りなおし、知り合って間もないお父さんなど、狭い範囲だが声がけをした。

当日は、ベテランの男性もヘルプしてくれ、新人の私たちをかなりサポートしてくれた。

 

このブースを担当するにあたり、「お酒を売っているなんて」というクレームを受けるかもしれない、と身構える気持ちも準備していた。

だが蓋を開けてみると、スマートに飲む人ばかりで拍子抜けだった。

小さかった子ども達も、頑張って私たちに付き合ってくれた。

それでも「小学校」と「お酒」という組み合わせに難色を示す人がいるためなのか、毎年存在するブースではなかった。

そして私たちがこのブースの責任者をしたのは、結局このとき一回きりであった。

「日本人である」保護者には、もっと別の大きなミッションが待っていたのである。

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スシストール

 

はじめての年、私たち夫婦はお酒ブースを担当したが、日本人だということでスシストールからも声がかかっていた。

 

スシストールは、そのむかし日本人保護者有志が立ち上げたブースで、こちらで人気の巻きズシを販売する。

ちなみに中身は、照り焼きチキンとアボカド、ツナマヨときゅうり、そしてベジタリアン用となっている。

 

スシを作るのは基本的に日本人ということなのか、担当クラスがついておらず、ひたすら日系の保護者に声がけをして人手を集めていた。

 

お気づきかもしれないが、ケアンズは在住日系人が多いため、その子どもである日系生徒の数も多い。

学校によって数にばらつきはあるが、子ども達の小学校では息子の学年は10%が日系の生徒、娘の学年もそれに近い数字だった。(学年によっては数人のみという場合も、もちろんある)

保護者手作りのスシ巻きとその販売は、下準備からそれなりの作業量があり、かつ呼びかけた保護者すべてが参加するわけでもないので、特定の小学校でしか実現しないブースと言える。

また、この小学校で習う外国語が日本語であり、日本語の先生も巻き込むことができるという条件も整っていた。

 

とにかく「日本人ならフェイトではスシストールに参加!」という流れがあり、土曜日の午前中は息子がプレップの時から、私は毎年スシを巻いている。

 

そして2017年、息子が6年生の最終学年になったときに、私はこのスシストールの責任者になった。

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ケーキ or スシ

 

それまでの私といえば、毎年スシは巻いてきたが、それ以外のブースで販売するホールケーキやカップケーキを作ることを何よりの楽しみとしていた。

 

考えてみてほしい。

自分が作りたいと思ったカップケーキを一日中、大手を振って好きなだけ焼いて、デコレーションできるのである。

たくさん並んだケーキを写真に収めて、ニンマリできるのである。

そして、これらをストールに持っていけば喜ばれて、それをお客さんがワイワイ言いながら選ぶのだ。

こんな楽しいことがあるだろうか?

 

またケーキストールと呼ばれるブースでは、ホールケーキなどを入れるケーキの箱に子ども達がアートを施す。

学年ごとに子ども達のデザインを競うコンテストとなっており、参加するためには中に手作りのケーキが必須。

ある年は、息子と娘用の箱の他に二つ追加して、計四つの箱にケーキを収めた。

普通にホールケーキを入れたこともあるし、和風にカステラとどら焼きを並べたこともある。

日本のケーキ屋さんをイメージして、クッキーとケーキの詰め合わせにした時は我ながらワクワクした。

 

しかし2017年からは、必要最低限のケーキを焼くだけにして、スシストールの責任者を引き受けることにした。

歴代の保護者のみなさんは、お子さんの卒業とともに学校を去ってしまう。

誰かが引き継がなければ、ストールは残らない。

そして、この学校のフェイトにスシはつきものだ!

以来、フェイト自体が開催されなかった昨年を除いて、メインになったりサブになったりしながら、責任者として参加している。

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コンベナー

 

責任者(コンベナー)から見る景色は、土曜日の午前中だけスシ巻きに参加していた時とはまったく違った。

 

新しく入学してきたお子さんの保護者の方を中心に、新しい人材を集める。

使わせてもらう各施設に使用許可をもらう。

前日の下準備では、学校でランチや軽食を販売するタックショップと呼ばれる施設を、当日のスシ巻きは、OSHC(Outside School care)という学童のような施設をお借りしている。

そして、当日必要なテーブルなどの備品の申請や、食材の注文。

責任者が集まるミーティングに参加するし、ご飯を炊くための炊飯器も各家庭から貸していただかなければいけない。

 

しなければいけないことが山積みだった。

 

ありがたいことに、私が責任者になった2017年から、スシストールにもクラスがついた。

販売スタッフの募集を、クラスにお願いできるようになったのは大きかった。

ついでに食材の寄付も募るようになった。

 

「スシは作れないけれど、何かできることはないか」と、協力的な保護者の方がたいてい何人かはクラスにいらっしゃる。

クラスだけでなく「今年のコンベナーになってくれてありがとう」と日系の方から言われることもある。

このようなお声がけをいただくと、本当に報われるような気持ちがしていて、年齢によってゆるみはじめた涙腺が、ますますゆるくなりそうだ。

 

実は今年、下の学年の保護者の方から責任者に立候補がなければ、私はコンベナーをするつもりはなかった。

誰かのやる気がなければこのストールは続かないが、私が無理にやる気を見せるもの違うような気がしていた。

しかし、実際は立候補をしてくださった方が現れて、担当クラスの先生も、日本語の先生もとても協力的だった。

私はこの現状にすっかりやる気を取り戻し、新しい保護者の方と共同責任者となり、協力して動いている。

 

今年は、8月14日、15時から20時がフェイトの時間で、まさにこの文章を書いている今は、準備にてんてこまいのタイミングだ。

 

フェイトの売り上げはすべて、子ども達の学校の備品や遊具など、就学環境の改善・向上に使われる。

いちストールの責任者でも大変だと思っているのに、運営側の責任者は本当にやることだらけだと思う。

子ども達のためではあるが、皆で楽しい時間を共有できれば、また来年以降につながっていくのではないだろうか。

このご時世でも、フェイトが開催できることに感謝したい。

 

7.2.2021

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

コルクスクリューとオーストラリアの日々

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2002年 勤務先・ワイナリー

 

オーストラリアに来たのは2002年2月。
6ヶ月のホームステイ生活を終え、夫の働くワイナリーに合流した。

夫はもともとお酒が好きで、日本では酒屋で働いており、アルバイトの子に少しでも知識を増やしてもらいたいとミニクイズを出す立場の人だった。
ワイナリーに合流したての私は、そんな話を聞きかじっていたものの、お酒の知識はほとんどなかったし、あまり強くもなかった。

そんな状況だったから、ワイナリーで知るさまざまな知識は新鮮で、また、それを日本ではなくオーストラリアで経験しているということ自体が刺激的だった。
販売エリアであるセラドアーから、製造エリアにあるステンレスタンクや樽を見ながら、お客様が試飲ができる環境は、あるべき姿だなと誇らしく思っていた。

ワインの基本的な作り方や醸造酒と蒸留酒の違いを知り、ブドウを育てることとワイン醸造は、必ずしも同じワイナリーで完結しないということを理解した。
ブリスベンの農業祭・エッカなどで行われるワイン品評会で、オーストラリアワインのムーブメントを体感することもあった。

お祭りなどでは出張試飲販売に出向き、ワイナリーではワイン樽に囲まれた中で各種パーティーを開く。
そして市販品から製造途中のものまで、日常的にワインを飲み、味を覚えていく生活。

ワイナリーの雑用係として、さまざまな裏方作業を手伝いながら、同時にオーストラリアのカルチャーをも垣間見ることができた期間だった。

ある時、私たちの生活は「自宅、職場、スーパーマーケットの往復」だけだと気づいたことがある。

しかし取り立てて不満に思えなかった。

職場に行けば、(必要に迫られた)さまざまな体験をさせてもらえたし、現地の少数の日系コミュニティーも居心地が良かった。
ワイナリーのオーナー夫婦はカナダからの移民だったので、お互いに自国にしか家族のいない仲間のような感じで、イベントごとに集まってお祝いをした。
私には保護者のような存在であり、とても心強かった。

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2010年 ケアンズへ

 

ワイナリーに籍を置きながら、私は二人の子どもを産んでいた。
そして二人目の子どもを産んですぐ、夫はワイナリーを退職しようと決断していた。

折しもオーストラリア全土でワインが生産過剰となり、その影響を受けてワイナリーの経営が厳しくなりつつあった。


私は子育てにかかりきりで、月に一度、書類の整理をするためだけに数時間出勤するような状態だったし、ワイン醸造スタッフも少しずつ削られているところだった。

いずれ自分のワイナリーを持ちたいと公言していた夫だったが、自分に子どもができたことで、家族をメインとした生活を送りたいと考えたようだ。


日本に帰りやすいケアンズへ、移動することを決めた。

無職の状態で引っ越したからかもしれないが、ケアンズは完全にアウェーの土地だった。

一番ショックだったのは、スーパーなどで日系の人を見かけても、みな目をそらすことだった。
それまで住んでいたイプスウィッチという町は、人口の規模はケアンズと同じくらいだが、日系の家族は数えられる程度でほとんどが知り合いだったので、スーパーで見かけない日本人を発見したら、とりあえず声をかけてしまうような地域だった。

ケアンズは日本人観光客やワーキングホリデーの若者も多く、誰が旅行者で、誰が地元の人かの区別が難しい。
日系人は3000人ほど住んでいるという。
日本人を見かけること自体、全く珍しくないし、わざわざ日本人のお友達を増やす必要のない人ばかりなのである。

それでも、私がこの地に馴染むことができたのは、当時もうすぐ4歳になる息子と5ヶ月の娘のおかげだった。
予防接種を受けに行った保健所で日本人プレイグループの存在を知り、少しずつ顔見知りのママさんが増えた。
夫は醸造業をあきらめて、再び酒屋に就職し、店舗スタッフとクリスマスパーティーを開くまで仲良くなっていった。

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2021年 今現在

 

必死にふたりの子育てをしながら、考えるよりもまず体を動かす仕事である、ホテルのハウスキーピングを6年半勤めたのち、現在はちょっと立ち止まったような時間帯を過ごしている。
子ども達もそれぞれ、15歳と11歳に成長した。
ほとんど、手がかからない。

昨年はじめ、昨今の事態に落ちいる直前に、10年ぶりにイプスウィッチを訪ねている。
3泊4日の強行スケジュールだったが、1泊ごとに違う友人のお宅にお世話になって、再会を喜ぶことができた。

そして、子ども達の生まれた病院、通った保育園、住んでいた家などをまわり、ワイナリーのあった場所を訪れた。

ワイナリーは2011年に倒産しているが、現在は、元オーナー夫婦が住んでいる。
また同僚だったスタッフは、ワイナリーの一部を使って蒸留所を立ち上げ、高品質なジンやブランデーを少量生産している。

ワイナリーから見た景色は、牛が草を食むばかりの牧草地で牧歌的なものであったが、10年後に見た景色は、動物病院や住宅などの建物が増えていて、現実に引き戻される感覚がした。

近所にあった日用品屋さんは、オーナーが、レジェンドと言われていた中国人からインド人に変わっており、大好きだったオーストラリア名物のビーフパイを販売していた場所には、チェーン店のガソリンスタンドが大きな顔をして建っていた。

10年もあれば、当たり前だが、いろんなことが変わっていた。

ワイナリーで経験したさまざまな出来事は、私にとって、オーストラリア生活の足がかりになる体験だった。私が初めの半年間を過ごしたBed & Breakfastのホームステイ先も売り払われて、現在はリタイヤされている。もう訪れることはないだろう。

 

手元にあるコルクスクリューを、久しぶりに太陽の下に出してみた。
2002年当初は、オーストラリアワインのまだ多くがコルクを使っていたので、コルクスクリューを使って、一生懸命に開け方を覚えた。だんだん指も切らなくなった。

しかしそのうちスクリューキャップが主流になり、ひねれば簡単に開くようになって、コルクスクリューの出番はめっきりなくなってしまった(その分、コルク臭のするワインも消えた)。

私たちの、オーストラリア生活の初期を象徴するようなコルクスクリュー。
使うことはもうほとんどないけれど、捨てることもないだろう。

ほんの少し前の出来事だと思っていたことが、気づいたらすっかり過去だったと思い知らされたけれど、「受け入れられ、努力してきた」ことを心に、これからの日々を過ごしていこうと思っている。

これが決して、走馬灯を見ているわけでないことを祈る。

 

6.2.2021

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

手作りのゆたかさ

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家庭料理で文化交流

オーストラリアに足を踏み入れたのは、2002年。

初めの半年間は、夫と離れてのホームステイ生活でした。

私の滞在は、家庭料理の文化交流を目的としていましたので、必然的にステイ先で日本食をふるまう機会が多くありました。

山の中の一軒家のような場所で、手に入る日本料理用の食材は限られており、アジア食材店も車で1時間以上かかる場所にありました。

それでもホストファミリーは、すでに味噌やみりん、醤油といった調味料を持っており、私は滞在初期から和食を作ることができました。

 

ただし和食といっても、白ネギや蓮根やごぼう、たけのこといった野菜類は、簡単には手に入りません。

大根もなかなかお目にかかれない野菜ですが、ラッキーなことにステイ先の近所では売られていました。

 

ホストファミリーは、新しい食材に挑戦するタイプの人たちでした。

でも大根は食べたことがなかったそうなので、思わず腕まくりをしましたよ。

 

はじめは大根おろしにして、ハンバーグの和風ソースとして使いました。

常にかたまり肉しか調理しないご家庭だったので、ハンバーグというひき肉料理に難色を示されましたが、かたまり肉をミンチにすることで納得してもらいました。

大根おろしはさっぱりとした後味で、喜んでもらえたと記憶しています。

 

次に、大根自体の美味しさを味わってもらいたいと思い、干し椎茸とともに風呂吹き大根風の煮物にしました。

米のとぎ汁で下茹でをしていると、独特の匂いにびっくりしたホストマザーが鼻をひくつかせてキッチンにやってきました。

しかし、夕食で一口食べてみると

「あら美味しい」

大根からジュワッとしみでる出し汁とともに、あっさりクセのない味がお気に召していただけた様子。

好まれない匂いの記憶が、帳消しになった瞬間でした。

 

それから、よく作ったのは巻き寿司です。

こちらの人にとって、巻き寿司は健康的な食べ物という認識で、スーパーには寿司用のお米や海苔などが、国際食品コーナーに売られていました。

照り焼きチキンやツナマヨ、スモークサーモンでお寿司を作りましたが、これらは手に入りやすい食材であり、また食べやすいため、20年近くたった今も我が家の定番となっています。

 

寿司巻きはちょうど良い文化交流のアクティビティになり、ご近所さんや家族を招いて寿司パーティーを開きました。

巻き簾を使って巻き寿司を作るのは、在住日本人でも得意でなかったりします。

それこそ、初めて挑戦するオージーの皆さんとは、

「できるの?」

「どうやるの?」

ってやいのやいの言いながらつくります。

ちょっといびつに巻き上がったお寿司を食べるのは、とても楽しい時間でした。

 

それから、ホストファミリーのお孫さんが遊びに来ていた時は、椎茸、鶏肉、にんじん、カブで炊き込みご飯を作りました。

まだ離乳食明けと言ってもおかしくない年齢のお孫さんでしたが、醤油味の炊き込みご飯が口にあったようで、何度もおかわりをしてくれたのが嬉しく、私の記憶に残っています。

 

肉じゃが、牛丼、鶏の照り焼き、かぼちゃの煮物、ほうれん草のおひたし、蛇腹きゅうりの酢の物、お味噌汁、チャーハン…滞在中は、日本の家庭でごく一般的に作られる、このような料理をつくりました。

私たちから見るとフツーの料理でも、オーストラリアで披露すると文化交流になるという面白さ。

 

逆に、オーストラリアでは一般的な、オーブンでかたまり肉と野菜を焼くロースト料理の夕食が、私には新鮮に映りました。

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手作りをするということ

 

滞在の初めから「積極的に料理をする」という環境でしたから、その後夫と再び合流してからも、手作りに抵抗のない生活が続きました。

 

実際のところ、手作りを余儀なくされるのは「海外に移り住んだ日本人あるある」かもしれません。

 

大都市やケアンズのように日本人が多く住む地域には、日本食のレストランや食べ物屋さんは存在します。

また、アジア食材店、日本食材店もあります。

しかし、現実的に値段が高い。

そして、自分の好みの味かどうかは相性があります。

 

故郷の味を恋しがるなら、自分で作ってしまう方が手っ取り早い。

 

ありがたいことに、こちらで勤め人をしていれば、性別関係なく大体定時で帰れます。

毎日、料理をする時間がとれるのです。

 

夫は、私の出産を機に本格的に夕食作りを始めました。

 

上の子が15歳になる今では、バターと小麦粉でホワイトソースを作れるようになっています。

これまでも、ラーメンの麺とスープの両方にチャレンジしたり、納豆も作りました。この前は、炊いた餅米を麺棒でついてお餅にしていました。

私は、パンやケーキ、おまんじゅうなどのお菓子をよく作ります。

 

もちろん出来合いの食べ物を買うこともありますし、ケーキ屋さんのスイーツも大好きです。

作る過程を知っている分、余計に美味しく感じますし、ありがたいなと思います。

 

 

時々考えるのです。

もし日本で生活をしていたら、ここまで自分で作ろうと思っただろうか?

 

大学生の頃、一口コンロの狭いキッチンで、友人が器用に揚げ物の夕食を作っていました。

素晴らしいと思いながらも、私は揚げ物を自宅では作りませんでした。

外食で食べることが多く、スーパーなどでも簡単に手に入るからです。

 

今度は同じ友人が、手ごねパンの生地をテーブルにペタペタ打ちつけていました。

私はまたもや感嘆しながら、「パンは時間がががるうえ、すぐそこの店で簡単に買えてしまうしなあ」と思っていました。

 

結婚してからも、仕事帰りの夫と赤暖簾で待ち合わせたり、中華屋さんで夜ご飯を食べることが多くありました。

 

作ってみたいなあという気持ちはあっても、便利さに流されていたように思います。

「誰かが用意してくれた便利さ」があったからこその生活でしたが、日本を出て恋しくなってようやく、「自分で作ろう、やってみたい」という思考を得ました。

食べるものだけでなく、アクリルたわしや石けん、化粧水などにも挑戦してきました。

 

ホームステイ中、オーストラリア人のホストマザーは、自分のツーピース・スーツを縫っていました。

ホストファーザーは、もともと木材の仕事をしていたそうですが、自宅に木材加工場を持ち、タンスなどの家具を作っていました。

住んでいた家と、家にある家具のほとんどを自分たちで作ったと聞いています。

 

 

当たり前のように手を動かす人の中に身を置いて、私の考え方が自然と変化したのかもしれません。

 

私は県境にある田舎で育ちました。

自宅で調理される食事は、主に家庭菜園で採れた野菜。

梅干しも漬物も自家製。

汲み取り式のトイレ。

 

私が多感な中高生の頃に、バブルの好景気がやってきました。

様々な消費を促すたくさんの広告が、私たちの周りにあふれていました。

知らず知らずのうちに

「なんでも手作り=田舎=古臭い=なんだか恥ずかしい」

というイメージを持ってしまっていたようです。

 

 

様々なものを「自分で作ってみよう」と積極的に思えるようになった今では、自分が欲しいと思うものを自分で作り出せるということは、とても豊かなことだと感じています。

誰も盗むことができない、大切な財産です。

 

そしてそれは、「自分でコントロールできること」でもあります。

 

私にとって海外に出るという行動は、単に「居心地の良い環境から離れた」だけではなく、「自分軸で行動できる」きっかけを得るものであったと、しみじみ思っています。

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5.2.2021

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

朝が好き

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朝が好きだ。

30才を過ぎる頃までは朝寝坊だったので、昔の私を知る人はびっくりするかもしれないけど、朝が好きだ。

5:45の目覚ましアラームが鳴る1時間くらい前から、お腹の空いた飼い猫が二匹ともベッドへやってくる。

ベッドの上をもぞもぞ歩いたり、私の指をなめたり、そばでクルンと横たわったりして私が起きるのを待っている。

 

なんとか目を覚まし、朝一でネコたちに餌を与え、猫のトイレ掃除をして庭に出ると、運が良ければとても綺麗な朝焼けが見られる。

近くで遠くで、鳥たちのさえずりも聞こえる。

それだけで、今、この瞬間に起きていてよかったと思う。

 

 

結婚当初、夫は朝早くに出勤することが多かった。

まだ日本にいた頃だ。

夫より早く起きて朝ごはんの準備をする、というのがいわゆる「主婦・パート」の私に期待される役割だったのかもしれない。

しかし、私はその辺りはルーズで、自分の都合で起きていたし、夫もその辺りは気にしないタイプの人でたいへんありがたかった。

おかげで「早起きをして夫の面倒を見なければ」という義務感や切迫感にとらわれることがなかった。

 

 

オーストラリアに来て夫とは別々になって、6ヶ月間のホームステイ中は、毎日のルーティンがなんとなく決まっていた。

朝7時に起きて、ホストファミリーと一緒に朝食を作る。

午前中のモーニングティー、ランチ、アフタヌーンティー。

夕方5時過ぎからは夕食作り。

そのまま10時ごろまでリビングでのんびり過ごして、自分の部屋へ行く。

これの繰り返し。

英語は苦手だったけど、毎日同じ時間に起きて、同じルーティンで生活するって思ったより快適なんだな、ということに気づく。

生活の枠組みが決まっていることに対する息苦しさはなくて、

『今日は、空いた時間に何をしようかな?』 

って考えることができた。

(手芸のクロスステッチとか、料理本を読んだりキッチンを借りて料理を一人で作ってみたり、お手伝いをしたり、ごくたまに英語の辞書を開いてみたりといった、自分の収入のための仕事をしない、若いのにおよそ俗世を離れたような暮らしだった。)

 

 

夫と合流し子供が生まれると、今度は責任感が出てきて朝起きられるようになった。

小学生の夏休みの朝のラジオ体操。

5年生までは、ほぼ起きられた試しがなかったのに、6年生になって自分の地域を任されたとたん、毎朝起きて、みんなの前で体操ができるようになっていた。

あの時とちょっと似ているなと、ひとりごちた。

相変わらず、夫は自分のことは自分でして出勤していたので、朝ご飯の後、ぽっかりと時間が空いた。

ひまだし、毎日ベビーカーを押してお散歩に出ていたら毎日のルーティンができで、そうなると子育て中の生活でも精神的に余裕が生まれることを覚えた。

 

 

下の子が3才になり、ホテルの客室清掃の仕事を始めてからは、二人の子供たちを、幼稚園と小学校の学童へ預けるために、はじめのうちは朝6:45に家を出ていた。

さすがにこの頃は朝早く起きられて嬉しいというよりも、ひたすら義務感で起きていた。

自分の立てたスケジュールをそつなくこなすために、早く起きていた。

当時3-4才と7-8才くらいの子が、6時に起きて45分後に家を出る生活に付き合ってくれたことは、今考えると奇跡的に思えるし、感謝しかない。

 

いつも同じ時間に子供たちを車に乗せて走っていると、日の出の時間の変化がよくわかった。

蒸し暑い夏から朝晩が肌寒い季節に移り変わる時、東からの太陽がまぶしくて車のサンバイザーを下ろす日々がはじまる。

ホテルには6年半在籍していたので、毎年、サンバイザーを下ろしながら

「いよいよ気持ちのいい季節が来るな」

と、まぶしさに目を細めながら思っていた。

 

 

5:45に目覚ましアラームが鳴る今、起きてから少しのんびりする時間がある。

そのおかげで猫のお世話をしたり、そのついでに日の出の綺麗な空の色をカメラに収めることができる。

休みの日なら、そのまま海を見に行くことだってできる。

20代の頃のように、夜、無理をするのが辛くなってきた今、朝はエネルギーに満ちた「希望」の時間だ。

 

だから、私は朝が好きだ。

 

4.1.2021

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

ハイスクールのドラマ

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Improvisation night

 

昨夜は、息子の通うハイスクールへ行ってきた。

 

オーストラリアのハイスクールは、基本的に中高一貫だ。

11、12歳から17、18歳までの生徒が通う。

5月生まれの息子は、日本であれば今年中学3年生だが、こちらでは高校1年生となる。

学年は1月始まりのため、特に1月から3月の間は日本とオーストラリアで2学年も違うことになり、分かっているのにいつも驚いてしまう。息子が小学校に準備学年として入学した時は、たった4歳だった。

 

ハイスクールに話を戻そう。

息子の友人がドラマ(演劇)のイベントに出演するから観に行きたいという。

11歳の娘も観たがったので、私もついていくことにした。

ハイスクールの講堂でおこなわれた、Improvisation night。

即興劇だった。

学校でドラマを習っている生徒のうち、年齢の高い子たちがチームに分かれて、その場で選んだお題のドラマゲームに挑戦し、点数を競う。

まだ年齢の低い生徒は、事前に練習してきたオリジナルの寸劇を、そのドラマゲームの合間に披露していた。

 

実際にどんなゲームが行われていたかというと、

・同じ内容のストーリーを、「激しく」「ネガティブに」「ロマンチックに」などと色合いを変えて演じるもの

・演技を続けながら参加する人数を一人ずつ増やしていき、全員で演技したらまた一人ずつ減らしていくというもの

・演技をしながら、サポーターのパントマイムを見てキーワードを推理し台詞に使うもの

などなど、大人顔負けの内容だった。

 

私も小・中学校では、文化祭の出し物やクラブ活動で劇に参加したことはある。

日本の学校で、演劇に参加したことのある人は少なくないだろう。

それでも演劇を専門的に習ったことのない私にとっては、ただただ生徒たちの達者な様子に圧倒されるばかりだった。

そんな昨夜のイベントだったが、彼らにとっては観客の入った公開レッスンと言えなくもないだろう。

なぜなら彼らの「本番」といえば、市の劇場で開催予定のミュージカルだからだ。

 

2年前に「雨に唄えば」を観に行った時、彼らは堂々とした演技で観客を圧倒していた。

ミュージカルだから、歌が上手いのは当たり前。

ロマンティックな演技すらこなす。

ダンスチームの踊りも素晴らしかったし、ステージ上では実際に雨も降って、地元紙の話題になっていた。

本当にみんな、放課後はそこら辺を歩いている高校生なのだろうかと何度も思った。

おまけに地元のラジオ番組に出演した時は、受け答えの明瞭さにも驚かされた。

どれだけしっかりしてるんだ。

そう言えば、「ハイスクールミュージカル」というディズニー映画を観たことを思い出した。

英語圏では、達者な演技をする高校生というものは一般的な存在なのかもしれない。

 

 

Programs of Excellence in 2022

 

一緒に昨夜のドラマを見たいと言った娘は、現在こちらの小学6年生。

娘の場合は11月生まれなので、日本でも4月から6年生であるのは同じ、現在11歳。

今、6年生はハイスクールのお受験シーズン真っ最中。

と言っても通常、校区内の公立学校には受験をしなくても通うことができる。

ただ、先に書いたドラマのような活動に参加したい生徒は、エクセレンスプログラムと呼ばれる課外活動の受験が必須となる。

またこの受験は、校区外の学校へ越境入学したい場合の一般的なルートともなっている。

少なくともケアンズではそうだ。

学校によって科目に多少の違いがあるが、息子の通うハイスクールのエクセレンスプログラムには、STEM(学問)、ミュージック(合唱・楽器)、スポーツ(サッカー、ホッケー、バスケットボール)、美術、演劇、ダンスがあり、いくつでも受験できる。

 

ドラマを見たいと言った娘は、このドラマの受験に参加する。

クラス担任との面談時にドラマ受験の話をしたら、「クラスではおとなしいから想像ができない」と言われたが、クラスで一人ずつ行う発表に比べたら、みんなで演じるドラマの方が恥ずかしくないそうだ。

それを聞いて、素晴らしい演技をする役者さんが、ひとたびコメントを求められるとモゴモゴしてしまう様子を思い出してしまった。

まだこれからの娘と、すでに実力のある役者さんを同じラインに並べるのは、親バカ以外のなにものでもないのだけれど。

 

「演技を習う」

 

日本だったら子役タレントさんをイメージしてしまうが、ドラマはケアンズのポピュラーな習い事のひとつとなっている。

自己表現力、記憶力、胆力、発想力、応用力などが鍛えられるからだろうか。

将来、どんな職業についたとしても役に立つのかもしれない。きっとそうだ。

娘のドラマの受験では、ひと段落分の文章を覚えて発表するのが当日の課題。

課題の用紙はすでに娘に渡してあるので、自分なりのペースで進めて欲しいと思っている。

昨夜の、見る側は面白かったけれど、演じる方は簡単でない即興劇を見た後でも、娘は受験のやる気を無くしていなかったので、頼もしいなと少し思った。