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DAYS

STAY SALTY ...... means column

Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

from  Cairns / Australia

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秋澤月枝
essayist

日本人の夫と、2002年からオーストラリアに移住。

最初の半年は、単身、ニューサウスウェールズ州のBed and Breakfastで家庭料理を学ぶホームステイを体験。その後、夫が就職したクイーンズランド州のワイナリーに合流。

現在は、家族とケアンズに暮らす。

 

お菓子作り、編みぐるみや折り紙などの手仕事が趣味。

中学生と高校生の子どもを持つ母でもあり、彼らの描く絵の1番のファン。

料理の自由

 9.10.2024

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

料理の自由

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1・体力 

あいかわらず絶賛断捨離中である。

 

そろそろガレージセールを開くかと勇気を出して、まずは日本のコミックや雑貨を中心とした品揃えに決定した。

 

ガレージセールとは、自宅の一角に不用品を並べて買ってもらおうというオーストラリアではポピュラーなイベントで、たいていは近所の人や知り合いが来てくれる。

今回は日本のもの中心だったので、SNSで友人知人と日本語グループにだけ告知して、主要道路の脇に看板を立てる作業は省略した。

日本人の方のほかに、近所の方がふらっと立ち寄ってくださったり、日本人の義母のために日本語の本が欲しいというオージー男性が来てくださったりと予想外の来客もあった。

 

そこで残ってしまった(というか大半のものは残っているが)品物は、河岸を変えてオンラインに移行した。現在、興味を持ってもらえそうなセットを作っては、時間を見つけて商品登録をしている。

 

お友達のヘアサロンには小説を置いてもらっていて、私たちを知らない方にも見てもらっている(ありがとう)。

 

正直いうと、荷物整理の先はまだ見えない。

品物が収まっている棚や、壁の代わりに購入した独立型のクローゼットなどもこのお家から出ていってもらわないといけないが、どのように宣伝すれば、欲しそうな人にリーチできるだろうか? などのことを考えなければいけない(そんな時間も楽しくはあるが)。

 

肉体労働の仕事を続けながらの作業なので、体力つけないとなあ。

 

そんなことを思っていたら、雑穀を使った料理教室を開いている方がいる、と友人伝いに聞きつけた。

 

雑穀といえば、昔の日本でお米が高級品だった頃に庶民が食べていた物ではなかったか。力が湧くかしら?

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2・雑穀のお料理教室 

6年ほど前、お米に混ぜるだけの五穀米セットを日本で購入したことがある。

 

そのむかし新岐阜駅付近のどこかのお店で、二十代前半だった私は、可愛らしい雑穀米のランチセットを食べた。それが美味しくて記憶に残っていたのだ。

るんるん気分で五穀米を炊いてみると、当時の家族には白くないご飯は不評で、継続できずに終わってしまった。

そんな記憶を思い出して、作っても家族には食べてもらえないかもしれないが、でもやっぱり私が食べたいから参加しよう! と決めた。

 

 

雑穀料理の先生は、ヨガの先生として知っていたけど今までお話をする機会のなかった先輩ママさん。お子さんが生まれてから、健康的な食事を求めて様々な食生活を学習・実践されてきたという。

 

そんなストイックな方が、この雑穀食に出会ってからとても健康になったとおっしゃる。

私は、肉も食べるし白い物(精製された食品)も加工品も精進料理も、自分の好みであればなんでもいただくので、食に関しては節操がない人間だと思っている。

 

ヨガで体を鍛え、口にするものを厳選している方とお話ししても良いのかしら?

などと不安になったのも束の間、何事にも全力投球な先生から

 

『自分の生活に少しでも雑穀を取り入れてみて欲しい、知って欲しい』

 

というお気持ちがひしひし伝わってきた。

リラックスして料理の工程を学び、先生手作りのランチをいただくことができた。

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3・罪悪感 

ところで健康的な食事法の情報に触れていると、「Guilt Free Food - 罪悪感のない食べ物」という言葉がでてきたことはないだろうか?

 

オーストラリアが発祥の、砂糖も小麦粉も添加物も使用しない、フルーツとナッツのみで作られた「ブリスボール」が人気になってから認知度が上がった言葉らしい。

私の記憶でも、ブリスボールがお店に並ぶのを見かけるようになった時期に見知ったような気がする。

甘いものがやめられないことを気にする人向けの言葉かな? 程度の認識だった。

 

その後、自分の体に害を及ぼさない、という意味での「ギルトフリー」に疑問を持つようになった。食品がもたらす環境破壊や労働力搾取の話を聞くようになったからだ。

 

高カロリー、砂糖、グルテンなどに対しての「罪悪感の矢印」は自分の体にしか向けられていないが、口にしている食品が生み出した環境破壊の一因や児童を含む強制労働の問題などは、矢印が自分や家族以外に向いている。

 

そのことを意識するようになってから、

「砂糖や油脂を使わない罪悪感のないお菓子です」

という類の情報に触れた時、ものすごく困惑するようになった。

 

ただ自分の誘惑に負け、ダメだと思いつつ食べちゃった「てへぺろ罪悪感」の軽いノリに感じてしまうのだ。

自分のことだけ良ければ、それでいいのか? 

その罪悪感は、自分以外の世界にも当てはめなければ、ただの自己中だ!

 

しかし例えば摂食障害など、これまで自分の体を労ることができなかった過去を持つ人もいる。自分を労わることができなければ、その周りの世界を心配する余裕もできないだろう。

 

さまざまな思考が脳裏をよぎった。

一時期は、その表現はもうやめて欲しいとまで思った。

 

時間が経ち、罪悪感という言葉が軽く扱われ過ぎているという視点は、あくまで「私から見た視点」なのかもしれないと思うようになった。その人にはその人の過程や過去があり、つまりは目を向けるべき「罪悪感」は人それぞれ違うステージのものなのだ。

 

そう感じるようになった時、ようやく落ち着くことができた。

罪悪感という言葉の羅列からは、各人の世界・段階を読み取ることが難しいというだけのことだ。

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4・閑話休題 

断捨離中の我が家ではあるが新しい仲間がお目見えした(旅行用バッグのことではない)。

料理教室で習った「雑穀たち」である。

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ラッキーなことに量り売りのお店が近くにあるので、少量ずつ買っていろいろ試すことができる。保存容器は、今までキッチンに溜め込んでいた空き瓶だ。

改めて、いろんなものが棚の奥から出てくるなあと思う。

微妙なサイズだと思っていたこれらの瓶は雑穀のおかげで日の目を見ており、日本へ帰る直前まで活躍してくれることは間違いない。溜め込んでおいてよかったと言えるかもしれない。

 

いまのところ、雑穀入りスープと雑穀ごはん、雑穀ごはんを使った甘酒、その甘酒で作るキムチを作る程度にとどまっている。

心配していた家族の反応は、案外悪くなかった。

 

「白米をやめて雑穀ご飯に変えてほしい」という話ではなく、「雑穀ごはんはいつもあるから、食べたかったら食べられるよ」というスタンスでいるのがポイントだろう。スープなどの調理法の時は見た目が大事だなと、娘の反応から勉強した。

もう少し家のことが落ち着いたら、新しい料理にも挑戦してみたいと思う。

 

雑穀にはいろいろな種類がありそれぞれに特徴があるので、組み合わせや調理法などを考えるのは楽しそうだ。先生がワクワクしながら話をしてくださるのも、この自由さからくるのだろう。

 

私は極端な主義主張はあまり得意ではないが、生活の一部としてしれっと共存できそうな雑穀のことを知る機会があってよかった。

 

そして相変わらず、砂糖も小麦粉も米粉も、はちみつも乳製品も卵も、普段通りに使ってお菓子は作りたい。美味しいものが作りたい。

 

雑穀を食べ続けると食の好みが変わってくるという話も聞いた。

もし未来の私が変化するなら、それもまた面白そうだ。

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終活と呼べるもの

 7.1.2024

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

終活と呼べるもの

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モノと向き合う 

只今絶賛断捨離中、である。

そう、家にあるものを少しずつ売ったり捨てたりしている。

 

一般的にイメージされるように、子どもがいる家庭は荷物が多い。

周りにいるオーストラリアのお友達と同様、我が子にも一般的な書籍やおもちゃを買い与えたいし、また、私たちのルーツである日本の文化や行事も同時に教えたい。

 

庭にはトランポリンを置き、ガレージには自転車やローラーブレード、各種ボール類、家の中には楽器やコミック、クラフトグッズ、ぬいぐるみなどをところせましと並べてきた。学校からも勉強したテキストやノートや作品類が、毎年送り返されてくる。

 

一時帰国をすれば買い物三昧。

オーストラリアに戻る飛行機では、荷物の重さを100キロから120キロ分にしていたし、同時に船便も使っておもちゃやマンガ、昔話セットなどを送ったこともある。

 

お正月、節分、ひなまつり、こどもの日、クリスマスや誕生日。

 

日本の家族が気を利かせて定期的に送ってくれた季節の荷物は、届くたびにワクワクしながら箱を開けた。

イベントを祝いながら、家族みんなで楽しい時間を過ごしてきた。

 

 

最近はトラネコ兄弟も仲間に増えたので、キャットタワーやキャットウォークがリビングの一角を占拠している。

もちろん親である私たちにも歴史がありますからね、

荷物もそれなりにいろいろ。

 

我々の欲望を満たし続けた結果、家にはモノが溢れかえった。

 

でも、

 

モノがたくさんあるだけならば、たいして問題にはならない。

それぞれの品には思い出があり、自分を構成するものの一部と思えなくもないからだ。大切だと思う限りそばに置いておけばよい、よね。

 

それが、

 

物と向き合って処分を考えなければいけない状況に発展した。

 

我が家は、今年中に日本へ本帰国する。

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地元のマーケット 

昨年の5月から12月まで、月に一度開催される地元の日曜マーケットに出店参加していた。見取り図を確認するだけでも、プロアマ問わず180ものお店が一時的に立ち並ぶ賑やかなイベントだ。

編みぐるみ作品を販売する友人と共同して、お気楽な趣味の店を開いたのである。

 

私には少し前から、子ども達が描いた絵をグリーティングカードにして販売するという密かな野望があった。それで2022年のクリスマス・クラフトマーケットに出店したのだが、残念ながら売り上げはさっぱり。

 

そこで、次にマーケット出店が叶うなら、日本でキャラクターグッズや和風のものを調達して一緒に並べれば、目を引いて良いのではないかと考えた。家には子ども達が過去愛用したぬいぐるみなどもあるし、「ついでに家の不用品も売ってみようか」と話が進んだ。

 

当時はまだ、本帰国するから売るという訳ではなくて……。

 

子ども達が大きくなって、「モノ」よりも「スクリーン」で過ごす時間が増え、年齢的にもそろそろサヨウナラだろうかと思われるモノ達が、目につくようになっていたのだ。

 

初めは、小学生の頃に読んだ古本やおもちゃを店先に並べた。

子どものお得なものは足を止めるようだったし、アニメ好きな人々はグッズを手に取った。

中古であるにも関わらず、こちらで売られていない日本のアニメキャラクターのぬいぐるみを抱きしめて、「今年のバースデープレゼントはこれがいい」と親に交渉している高学年くらいの女の子を見た時は、少し感動した。

 

気をよくして、ちょっとずつ違う中古品も並べてみる。

 

反応が良くてすぐに売れたのは、ギターだった。

子供用大人用あわせて3本と付属品、アンプ。

それぞれに買い手がつき、あっという間にするするっと消えていった。

 

Nintendoのクラシックミニシリーズは、日本語バージョンだったにも関わらず、オージーのおじさんが「大丈夫、大丈夫。子どもは学校で日本語習ってるから」と嬉しそうに持ち帰った。

 

今や新品はプレミアム価格でしか買えない、7年ほど前に人気だった小さなプラスチックの着せ替え人形コレクションは、オンライン上に残っている情報をかき集めて名前とレア度を割り出し、中古とわかるパッケージを作って並べた。たくさん作ったので全ては売れなかったが、多くの人が楽しそうに選ぶ姿を見られて良かったと思っている。

 

余談だが、本当は手作りスイーツもマーケットで一般販売したかった。

しかし、認可されたキッチンと市の販売許可(有料)が必須だったので諦めた。5年ほど前の同じマーケットでは、さまざまな素人が好きな手作り品を売っていたのだけれど、近年は条件が厳しくなっていた。

 

さて一方で、全然売れないものもあってがっかりしたのだが、それらも含めオンラインに出してみることにした。

 

実は不用品を「譲る」のではなく「売る」ことに少し抵抗があった。

しかし、オンライン上では多くの人が思い思いの値段をつけて、中古品を販売している。

それらを眺めていると

「大切なモノを譲るのです」

という表現にも見えてきて、持っていた抵抗感はずいぶん小さくなった。

 

ビリヤードのキューと球、電子ピアノ、自転車2台、鯉のぼり、キャンプ用品やクラフトグッズなどがオンラインで売れた。知らない人とのチャットのやり取りがあまり好きではないので、少しずつ出しては様子を見ている。

 

売りたいものや処分したいものは、まだまだ山のようにある。

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スーツケースひとつ 

2002年にはじめてオーストラリアの地を踏みしめた時、私の荷物は大きめのスーツケースとリュックサックひとつだった。夫にいたっては、ドラムバッグとよばれるスポーツジムに持って行くような円筒状のバッグとリュックサックが、全ての荷物だった。

 

滞在許可証がワーキングホリデーからビジネスビザ、永住権と変化するに従い、増えていった我が家のモノたち。

 

再び日本に定住する時、持ち込む荷物は前回のようにスーツケース一つとリュックサックだけに戻りたいと思った。

実際には何箱か荷物を別で送ることになるだろうが、それでも引っ越しの規模ではないはずだ。

 

今回の断捨離は「ときめくかときめかないか」ではなく、

「本当に日本へ持ち帰る価値があるのか?」

で厳しく判断する必要がある。

 

まず、キッチン用品は日本でまかなえるので、ほとんど処分するつもりでいる。

大好きなお菓子作りの器具、とくに焼き型に未練は強いが、おそらくサイズが合わないだろう。

日本の環境にあった道具を揃えよう、と割り切る。

 

ガレージにあるもの、要らないな。

家具や寝具、洗面・掃除用品も無くて大丈夫。

化粧品や洋服は、旅行程度の量で良い。

 

本棚にずらっと並ぶ日本の小説やコミック類はどうだろう。

家族と最終的な話し合いが必要になるが、日本に行けばラクに手に入るものばかり。本当に必要なら、また買い揃えるだろう。

手元になくても、図書館や漫画喫茶で読むことができる。

オーストラリアで欲しい人を探した方が、有効活用といえる気がする。

 

日本のCDやDVDは悩ましい。

今やサブスクを利用すれば、多くのものが観れるし聴ける。

自分のコレクターアイテムとしてどうしても必要! と思うモノ以外は、あきらめよう。

私は「旅行より物」タイプの人間であったので、いいなと思って購入したものを手放すのはつらいが、ここは気合いだ!!

 

家計関連の紙の書類は、どうしようか。

大事そうなものはスキャンしてクラウドに保存するか……。

いつか、ひとつずつ向き合う時間を作る必要がありそうだ。

がんばれ、自分!

 

いちばん判断がむずかしいのは、プリントされた写真と手紙と子ども達の日記や作品(成長記録)。

ああ、、、、困った。

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息子だけは、日本ではなく州内の都会へ引っ越すのだが、彼もまた、最低限の荷物しか持たない移動になるだろう。「オーストラリアの実家」は無くなるのだし、自分が管理できるだけの荷物と共に、新しい生活を築いてほしい。

 

 

私たちは、22年間に及ぶオーストラリアで過ごした生活の後始末をはじめている。

 

これってもしかして、

いわゆる「終活」なのではないか

と、思えてきた。

 

人生の折り返し地点を少し過ぎたタイミングの終活。

日本の小学校で行われているという「二分の一成人式」に少し似てるかもしれないな。

 

『立つ鳥跡を濁さず』

『来た時よりも美しく』

 

私たちは、

日本で新しい生活を始めるのにふさわしい、

一番身軽な人間になるのだ!

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この文章を入力中のMacBookに、メールの着信音が響いた。

セールの先行案内だった。

 

6月はオーストラリアの会計年度末で、多くの企業が、年度内に売上を立てるための大規模セールを実施する。

 

サイトに飛び、 商品を、 クリック、 する。

 

 

いえ、あのね、

旅行用のカバンなんですよ。

スーツケースの取手に差し込めるタイプの、トートバッグなの。

飛行機の機内には、荷物二つまで持ち込めるんですよ。

リュックサックとトートバッグで、ちょうどよくないですか?

普段使いにもできる、便利な物なんですよ。

お小遣いで、買うんですよぉぉ…………

お邪魔いたします

 4.15.2024

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

お邪魔いたします

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転入届 

ハイスクールを卒業した息子が、現在日本に滞在している。

 

進学の時期を少しずらしたので、その間、日本での生活を経験しようという目論見だ。今までは旅行で、長くても一度に3週間程度しか滞在したことのない日本。

今回は3ヶ月近く、主に義両親宅にお世話になる。

 

彼は日本国籍があるので、とにかくまずは『市役所で転入届を必ず出すように』と伝えていた。そのため、日本に入国した際は、パスポートに入国のスタンプをもらうことを教えた。

現在、入国時は自動化ゲートを利用するのが一般的なため、入国を証明するスタンプはわざわざお願いして押してもらう仕様になっているらしい。これが、転入時に必要な書類となる。

 

スタンプが押されたパスポートを抱えて、息子は祖父母と共に市役所に出向いた。そして、残念なことに転入はできなかったという報告をくれた。

一年以上滞在する予定でなければ、転入手続きは受け付けられないのだという。

 

息子は「本籍は日本にあるが、日本の住所を一度も持ったことがない」状態だ。

現在、彼の身体は日本にあって生活をしているが、日本のどの場所にも所属していない日本人ということになる。現住所は出生届を提出したときの海外のままで、日本国籍保持者ながら、旅行者としてしか扱ってもらえないのだ。

 

「健康保険証はなくても良いから」と言っても、「アルバイトをすれば納税が発生するかも」と言ってもダメだった。(納税の必要がでるくらい稼げるかは置いておいて)

 

「予定」であれば、口では「一年住む」と言って「やっぱり予定が変わった」と転出すれば良いのでは? と思われるかもしれない。しかし、帰りのチケットを持っているにも関わらず、どれくらいの人がそのような行動を取れるのだろうか。

 

中核都市の市役所から「あなたは一時滞在者です」と告げられて終わった。

親知らず 

住民登録できない。

それが何を意味するかというと、まず「国民健康保険」に加入できないということだ。

 

オーストラリアではかかりつけの歯科医院で定期検診を受けている。

少し前に受診した際、息子はハイスクール卒業のタイミングで親知らずを一度に抜いてしまうことをお勧めされた。

 

大きな病院(ホスピタル)へ出向き、全身麻酔をして4本抜くため日帰り入院になる。おおまかな見積りには、35万円ほどの記載があった。我が家が加入している任意健康保険を利用しても、なのである。

 

見積もりをもらった時に思った。

飛行機のチケットを買って、日本の歯科医にかかっても、きっとお釣りが来る。 

今すぐ4本を一度に抜く必要がわからなかったし、親知らずで全身麻酔を受けさせることにも少し抵抗がある。

 

日本の歯医者へ行きがてら、そのまま少し住んでみたらどうかという話になった。

進学先はオーストラリアで、日本に住む予定はないのでいい機会だ。

住民票を入れて健康保険が使えたら、旅行保険はいらないし一石二鳥、とも。

 

結果、そんな楽観的な計画は実現できず、彼は実費で検診を受けることになった。

そして日本の歯医者さんから

「今はまだ、何もする必要がない」

と言われただけで終わった。

アルバイト 

住民登録ができないと、就労体験をしたくてもアルバイトを見つけられない事態も発生する。

 

一般的に、本人の証明として住民票が必要な雇用先が多く、また息子の場合は17歳のため、年齢確認も必要になる。パスポートで国籍と年齢はわかるが、日本の住所は証明できない。

 

それから銀行口座の開設。

これが絶望的になる。

少し前であれば、パスポートの「現住所欄」に日本の住所を書いておけば口座が作れた。しかし、彼のパスポートは新しいもので「現住所欄」がない。その場合は、住民票を提出するわけだが、それが存在しないためどうにもならない。

 

今時、現金支給のアルバイトは少ないだろう。下手をすれば、指定の銀行に口座を作れと言われることもあるくらいだ。銀行口座がないと、給与の事務処理が大変になるだろうことは想像に難くない

 

息子はこの状況でもめげずに履歴書を送っているようだが、日本でのアルバイト体験はもはや絶望的になっている。

日本人でも 

日本人なのだから、日本に住みさえすれば現在住んでいる人々と同等の権利が与えられると私は思っていた。

しかし、それには最低滞在期間という制限が設けられていた。

 

たとえば私たち夫婦は、永住権保持者としてオーストラリアに住んでいるが、あくまで永住権なので選挙権はない。

滞在期間が20年強と長くなってしまっても、日本へ帰るつもりでいるから「お邪魔してます」という感覚を持ちながら生活している。

 

一方、息子の場合は両国ともに国籍保持者なので、どちらに住んでも全ての権利が行使できるだろう、と私は思っていた。

だが、一筋縄ではいかないことを今回学んだ。

 

しょうがない。

そうであれば、せっかくの日本なのだから、楽しむ方向で過ごしてもらいたい。

 

などど書きつつ「ボランティア活動でもしたら?」と息子にうながす私がいる。

 

しょうがない。

母親は欲深いのだ。

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サイクロン・ジャスパー

 2.10.2024

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

サイクロン・ジャスパー

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豪雨による被害 

お正月に発生した能登沖の地震より2週間ほど前、ケアンズにはサイクロンがやって来た。

 

サイクロンの規模自体はそこまで大きいものではなく、風雨が激しかったことと何度か停電があったことを経て、一旦弱まった。しかしそのまま雨雲は停滞し、100年に一度と言われる記録的な豪雨に見舞われる。

 

我が家のある海岸沿いエリアなどでは、浸水被害が発生した。

 

今の家に越してから10年が過ぎるが、これまでの豪雨被害といえば、主要道路が冠水したためこの地域が孤立した程度だ。しかも水は1日で引いたため、翌日はもう日常に戻っている。

 

ここに何十年と住んでいる近隣住人もそれぐらいの被害経験しかなく、今回も「大丈夫だろう」という楽観的予測に包まれていた。

 

ところが、歴代一位の降雨量を記録した今回のサイクロンは、道路だけでなく住宅をも水浸しにしてしまった。

 

避難をはじめた人々が出てきた頃、我が家の目の前の道路は川になった。

道路を流れる水は水位を徐々にあげ、我が家の建物に近づいてくる恐怖。

 

電気は止まり、スマホの電波を含むネット回線もほぼ壊滅状態。情報源のポータブルラジオからは、我が家のある地域名が連呼されていた。

 

しかし結果的に、我が家は住宅の浸水被害を逃れた。

 

その代わり、海岸沿いの道路の一部が海へ押し流され、河川からの新しい水路ができていた。おそらくこの抜け道ができたおかげで、道路を流れていた水が一気に海へ移動したのだろう。

 

私たちの家があるストリート(通り)が被害を免れたのは、この水路のおかげ。

住民はそう言い合った。

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時系列 

サイクロンにより身動きが取れなくなってしまったのは、12月13日(水)から18日(月)のおよそ1週間だった。簡単な時系列を記してみたい。

12月13日(水)14日(木)

ケアンズより少し北部にサイクロンが上陸。

何度かの停電があるも、その日のうちに復活する。

強い雨風のため、我が家からは出勤できない状態と判断した。

12月15日(金) 

熱帯低気圧に変化し雨足が弱まるが、まだ断続的に降り続いている。

この日、クイーンズランド州では大学進学用テストの成績が発表されたので、息子の友人が他エリアから車を走らせて突然やって来た。

この日、特に高い大潮による水位上昇が心配されたが、災害のあった1週間のうち、この日は移動可能な条件だったようだ。

12月16日(土)17日(日)

「記録的豪雨」という言葉が使われ始める。

熱帯低気圧に変化したサイクロンは停滞を続け、この二日間に膨大な量の雨を降らせた。降雨量2メートルという、聞いたことのない単位を耳にする。

主要道路の閉鎖と開通が繰り返される。

避難する住人の話が出はじめ、同エリアに住む知人の家族は、屋根に登って救助を待ったという話をSNSで読む。

日曜昼には、浸水による漏電を防ぐ目的だろう計画停電が実施される。と同時にインターネットによる情報の取得も困難に。水道が糸の太さしか出なくなる。

そして日曜の夜、自宅の浸水に怯えていた頃、我が家から少し離れた海岸沿いの道路が決壊した。

12月18日(月)

雨はほぼ止み、曇り空に。

自宅の浸水から免れたことに安堵するが、様子を見にエリア内を車で進むと、浸水の跡が残る車両や家屋を目の当たりにする。

主要道路は甚大な被害を受けた箇所がいくつもあった。

我が家のあるエリアから街へ向かう道路はなんとか通れるようになっていたが、泥だらけ。復旧工事の都合だろう、「一旦外に出るとすぐに自宅へは戻れない」と関係者に告げられる。

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12月19日(火)

街へ向かう幹線道路への出入りが自由になったため(住人限定)、私は宿泊施設である職場へ避難し、翌日からの出勤の準備をする。

夜には水道と電気が自宅に戻る。携帯の電波障害は改善するが、自宅のインターネットは年末まで戻らなかった。

 

また、夫の職場は街とは反対方面で道路が閉鎖されていたため、週末まで出勤することが難しかった。

脱出

雨が降り続いていた頃、「避難をするべきか否か」についてはずっと悩んだ。

緊急アラートはもちろん届いており、

安全に移動できるなら高台へ。

もしくは住居の高階層へ。

生命の危機を感じたら連絡を!

 

浸水が始まっていれば、どんどん水位が上がっているなら、生命の危機を感じて避難を求めるだろう。

しかし、まだ何も始まっていない自宅、家を出れば豪雨で道路は歩けないほどの濁流。

この条件では家にいる方が安全だと判断するしかない。

平静を務め、見守るしかないと思った。

 

そして結果的に自宅への被害は免れた。

停電、ほぼ断水の状態も3日間程度で解消した。

 

しかし、これはあくまでも結果論であって、不便を強いられている最中は「いつまでこの状態が続くのか」がわからない。

わからないための不安が常に付きまとっていた。

我が家には、ソーラーパネルも発電機も、貯水タンクも付いていない。

 

水道が出なくなり、浴槽に溜めていた水でトイレを流したが、どれくらいの頻度で流すべきか? そもそも一時は逆流しかけていたこのトイレを、どこまで信じて良いのか?

スマホの充電は車をアイドリングして行ったが、ガソリンはいつまで持つのか?

調理のためのカセットコンロのガスは、どれくらい慎重に使うべきか?

通電のない冷蔵庫にある食材と、食品庫にある食材をどのように食べていくべきか?

 

災害時の蓄えを準備していても、どのように計画的に使えば効果的なのかわからず、不安だった。

 

しかし同時に、すぐそばの別地域では、電気も水もインターネットも通常通りに使える環境が存在している事実が、心の支えになった。

いざという時、救助が期待できる安心感がある。

 

1週間の引きこもり生活の後、泥だらけの住宅地を超え、街へ向かう道路を車で走った。

 

何年かに一度浸水してしまうハイウェイ上の橋を通り過ぎ、ガソリンスタンドや動物の保護施設などがあるエリアまでやって来た時、急に景色が変わった。

そこには路面が茶色い泥に覆われていない、今までと変わりない日常が広がっていた。

 

避難生活の買い出しのために立ち寄ったショッピングセンターは、クリスマスの買い物客で賑わっていた。駐車場に停めた泥だらけの自家用車が、場違いに見えた。

 

被災した地域では忘れそうになっていたが、間もなくクリスマスを迎える時期だった。

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自分にできること

記録的豪雨と時を同じくして、二台あった我が家の車が一台、全く別の理由で故障した。

長年加入しているロードサービスからは、我が家の住所は災害エリアのため侵入できないと言われ、1週間近く待たされた。夫の車が修理を終え使えるようになったのは、ラッキーが重なっても結局1月の半ばだった。

 

それでもインフラさえ戻ればすぐに住める家があり、一台でも動く車がまだある。

 

被害にあった住民と同じエリアに住む私は、ボランティアをする側に今すぐ回るべきなのではないかと強く思った。自分は大丈夫だったことが、逆にいたたまれない気持ちを生んだ。

 

しかしこの1週間、常に出勤できない理由を探しては自分を納得させ、申し訳ない気持ちでいっぱいだったため、自分の仕事を優先した(職場はさまざまな理由で人手不足だったので、結果的には良かったが)。

 

夫も私も、現在二つの仕事を掛け持ちしているため、車一台で出勤をやりくりするのは落ち着かなかった。子ども達の学校が夏休みで、送り迎えが不要だったのは助かった。

 

私たちができることは、すぐそばで配布されている救援物資を受け取らず、逆に物資を提供する側になること、自分たちで生活を回すこと、だろうかと割り切ることにした。

 

一個人としてできるサポートは、決して目立つことではなかった。

しかし、無理をして自分が倒れないことは重要だ。

宿泊施設の職場には、この災害で道路が閉鎖し、すぐには帰宅できなくなった宿泊客もいた。

予想外の速さで復旧したインフラも、そこで働く人がいるからこそ。

自分が自分の仕事をすることで、だれかの助けになっていると信じたい。

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ハイスクール卒業

 12.10.2023

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

ハイスクール卒業

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先日、17歳の息子がハイスクールを卒業した。

 

オーストラリアの学年末は12月なのだが、息子の高校は、他校に比べると1ヶ月ほど早い10月の後半に卒業授与式を行って終了。

私たちはその会場で、一輪のバラと両親への手紙を息子から受け取った。

 

ご想像通り、私は、彼が初めて小学校の準備学年に通い始めた4歳の頃のことを思い出していた。

機関車トーマスが描かれた大きなリュックを背負って初登校した息子が、いよいよ自分の決めた進路に向かって歩み出すのかと思うと、なんだか感慨深い。

 

特に、いずれ日本へ帰る予定の私たち夫婦とは国が離れてしまう可能性が高いので、不安半分、信頼半分といったところ。

自分の人生、思ったように行動をしてほしいと思う。

 

今回は、日本で高校を卒業した私が、オーストラリアの高校生活に「これは違うなあ」と感じたことをいくつかご紹介したいと思う。

アルバイト 

州によって多少の違いがあるようだが、13歳ごろになるとアルバイトが可能になる。

(日本は義務教育が終わってからだそう)

15歳にもなると、一時的でも多くの子が働いている印象だ。

特にファーストフード店のスタッフは、ハイスクールの子達とそれをまとめる年長者しか見かけないくらいで、一利用者として彼らにお世話になっている。

 

雇用形態はカジュアル(アルバイト)が多いと思うが、「パートタイムジョブを見つける」という言い方が一般的なよう。

日本みたいに学校側が禁止することはなく、学校関連の、たとえばシドニー旅行やニュージーランドへのスキー旅行など費用が高額になるイベントがあると「今からパートタイムで頑張って貯めて!」なんて言葉が、先生から投げかけられることも。

 

私は日本の高校に入学した時、スーパーマーケットで働けそうだったのに、学校の許可が出なかった。

(他の子は、上手にこっそり働いていたのだろうが)

今でもそれを悔しく思っているので、正々堂々と働ける環境が羨ましいと思ってしまう。

 

こちらの履歴書には、過去の勤務先の「推薦人」情報を記載することが一般的なので、早いうちにアルバイトをしておくのは将来の就職活動にも役立つ。

若いうちからの職業経験は、自分のスキルの一つとして考えられているようだ。

運転免許 

日本では、高校卒業前に自動車の運転免許を取ることは稀だと思う。

 

しかし、こちらでは州が認める年齢に達すると、保護者の協力のもとで路上運転の練習をする子が散見される。

(ドライビングスクールもある)

クイーンズランド州では16歳になると路上練習に出ることができ、17歳になると本免許に挑戦できる。

つまり、早い子は11年生(高2)の時点で運転免許を取得してしまうということ。

免許を取ると車で通学する子も出てきて頼もしく感じるが、反面無事を祈りたくなる。

(想像してみて。学校帰りに複数人の友人を乗せ、ファーストフード店へわいわい乗りつける高校生たちを)

 

こちらも学校が禁止する話は聞いたことがなく(もしかしたら厳格な私立など例外はあるかもしれない)、本人(と保護者)の責任だと割り切りが良い。

若いドライバーは、初心者マーク期間が長く、任意保険も高額になりがちだが、それでも学校や習い事、アルバイトへの送り迎えをしなくてよくなり、楽になったと喜ぶ親御さんもちらほら。

卒業パーティー 

ハイスクールの卒業パーティーはアメリカのプロムが有名だと思うが、オーストラリアでも「フォーマル」と呼び盛大に祝う。

 

今年は我が家も息子が参加するということで、先輩ママさんから話を聞いていた。

 

男女ペアで参加する時は、お揃いのお花のコサージュを男性側が用意するんだよ、とか
会場へ行くためのリムジン(LIMO)は、早いうちに予約しておかないと無くなっちゃうよ、とか
会場に入らなくても家族もドレスアップする、とか

 

どれだけ準備が必要なのか戦々恐々としていたところ、(親にとっては)ありがたいことに、ペアではなく仲良しグループで参加すると言う。

お花のコサージュは要らず、車もグループの親さんにお任せ。

息子はスーツと靴を用意するだけで済んだ。

 

息子の学校は国際会議なども開かれるコンベンションセンターを借り、生徒たちはレッドカーペットならぬ、スクールカラーのブルーカーペットの上を歩いて会場に入る。

このカーペットには運転手付きの車で乗りつけるのだけれど、それがまるで車の品評会のようで華やかだった。

実際、フォーマルで愛車を披露したいと思っている車好きな人もいるみたいだ。

 

飲酒可能な18歳も混ざっているがパーティー自体は学校のイベントなので、当然のことながらアルコールフリー。

保護者の我々は会場内を見ていないが、高校生活の締めの一つとして楽しい思い出を共有できたようだ。

仲間との二次会も終え、私が呼ばれて迎えに行ったのは夜中の12時になっていた。

普段ぼんやりしている息子が、スーツを着て凛々しくなったのを見て「馬子にも衣装」をリアルに感じた1日でもあった。

ギャップイヤー 

高校を卒業して次の進学先が決まれば、同時期に一斉に入学というのも絶対ではないと知った。

進路先の大学やコースによるが、入学時期を最大1年間遅らせることができる。

「ギャップイヤー」と呼ばれていて、進学する前に思い切り働いてお金を貯めたり、旅行をしたり、ただ休んだりする期間を過ごせる。

大学などで勉強をするのは、高校を卒業したての生徒ばかりではなく、大人や留学生も多いので、それに対応するために、一年の間に入学時期が何度もあるのかもしれない。

 

こちらの大学は課題が大変で、入学一年目に離脱者が多いと聞く。

準備ができていない、と思う子には「優しい猶予期間」だと思う。

我が家も幾ばくかのギャップイヤー期間を取ることになりそう。

彼はケアンズではなくもっと都市での進学を希望しているので、住まいなどをゆっくり探していきたい。

 

我が家は息子が小学校に入る前年に、イプスウィッチからケアンズに引っ越した。

オーストラリアに永住するきっかけとなった「ワイナリー」の仕事から離れ、子育てを中心に暮らしていく方向に舵を切った瞬間だったと思う。

 

そもそも、この息子(第一子)が生まれる2週間前に私たち夫婦の永住権が降りたのは偶然だったのか?

日本人の子どもとしてオーストラリアで生きていく覚悟を決めて、生まれてきたようにも思える。

 

彼のこれからの人生を、ゆるやかに応援したい。

 

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秋の一時帰国

 10.15.2023

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

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秋の一時帰国

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1 富山

 

残暑が厳しい9月に、再び日本へ舞い戻っていた。

今回は娘と私の女子トリップ。

訪れた場所は、飛行機の発着する大阪と私の実家の富山だけである。

 

私は高校を卒業後、進学のために実家を離れた。

北陸から東海へ南下しただけだが、間に挟む日本アルプスは思いのほか高く、カルチャーショックが少なからずあった。

曇り空が日常の日本海側から、明らかに晴れの日が多い太平洋側へ。

テレビのチャンネルは、転出時にようやく民放が3局に増えた県から、もともと全局見られる県へ。

市の端っこ、県の端っこにあった田んぼと工場しかない実家のエリアから、市の端っこでもなんだか賑やかな県庁所在地へ。

 

これまでオーストラリアからの一時帰国中に長く滞在するのは、決まって夫の実家であった。私たちが結婚をした地域でもあり、友人に会う予定を立てやすいから。

 

母が鬼籍に入った時に、1週間程度の滞在をした記憶はある。

しかし十日間も富山の実家に滞在するのは珍しい。

家族仲が悪いわけでは決してない。

むしろいい方だと思う。

 

今回は今までなかなか実践できなかった、私が生まれ育った自分の家族と長く過ごす貴重なチャンスだ。

2 精進料理 

 

特に予定は決めていなかったが、富山で行きたい場所はあった。

その情報は、動画サイトを観ていた時に出てきた。

 

私たちが生まれ育ったのは、古い日本家屋。

大学生の頃に取り壊されているのでもう存在していないが、その家で、私たち家族は何度も仏事を執り行った。

仏事では、それなりの年齢になると、子どもでも一丁前に御膳が用意される。

 

提供されるのは肉っ気のない精進料理だが、その御膳にいつも出てくる三色のくずきりはタレが甘じょっぱくて印象的だった。普段の食事も精進料理に近いものではあったが、そのくずきりが食卓に出てきたことはない。

 

動画サイトではその三色くずきりをはじめ、いとこ煮やよごし、具の入ったがんもどきなどが並ぶ料理を紹介していた。それらの料理は、砺波地方独特の精進料理らしい。

それを古民家レストランで提供しているという。

 

法事に参加しないと食べることができないと諦めていた料理が、このレストランへ行けば堪能できる。このチャンスは逃したくないと思った。

 

妹たちも興味があるようだった。

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3 農家レストラン大門(おおかど) 

平日の昼時、休みを合わせてくれた妹二人と私は、散居村のなかにある古民家レストランに足を運んだ。

 

地図が示す場所は田んぼの真ん中で少し不安になったが、目的地の横に「大門そうめん資料館」が建っていたので、観光客が訪れるルートになっているのだろうと安堵して車を停めた。

 

一人暮らしを始めてから、母がよくこの大門素麺を持たせてくれた記憶がある。そのままでは長すぎるので、茹でる時に割る必要があるこのそうめんだが、砺波市の特産品だったということにこの時はじめて気がついた。

富山県には大門(だいもん)という地域もあるため、ずっと勘違いをしていた。

 

レストランに入ると、中は懐かしさを覚える住居を改装した内装。

畳の上にテーブルと椅子が並べられ、庭が見える席に座らせてもらった。

 

ランチタイムはお肉のつかない伝承料理がいただける。

 

お目当てだった三色くずきりのみならず、大門そうめんやゆべしなど、田舎で暮らしてきた私たち姉妹の楽しめる料理がたくさん並んでいた。

 

ゆべしは、我が家では「ゆうびす」と呼ぶ寒天料理。

溶き卵が入った醤油ベースのスープを寒天で固めたものだ。干し椎茸でだしをとり、そのまま具にもなっている。暑い夏の時期には冷蔵庫で美味しく冷やし、冬の時期は室内に置いたままでも大丈夫な料理。

母が作るゆうびすには千切りの生姜が入っており、それがアクセントになっていた。レストランのゆべしには入っていなかったので、母のレシピだったのだと改めて思った。

 

御膳には、抹茶塩の天ぷらもついており華やかさを添えていた。

法事の際に天ぷらはあっただろうか?

しかし野菜の天ぷらは母もよく作ってくれた料理のため、このランチは結果、母の料理を偲ぶような話題が増えた。

 

母が作ってくれた「ゆうびす」や「かぶらずし」「なます」などの伝承料理は、どうやら妹が引き継いでくれているらしい。

料理をいただきながら、いずれ、母の味を習いたくなった。

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4 アズマダチ 

古民家レストランは、私たちが生まれ育った日本家屋と間取りがとてもよく似ていた。

 

お客様玄関から家屋に入ると、左手側に広間や仏間がある。庭に面する部分は2から3畳程度の控えの間のような部屋が連なっており、実際、仏事の際はお坊さんに休んでいただく場所だった。

 

レストランのホームページを見ると、「アズマダチ」という言葉が書かれていた。

砺波平野に多く見られる伝統的家屋の形だそうだ。

ネット検索すると「となみ散居村ミュージアム」という施設があり、平面図が載っているのだが、こちらの伝統館1階の間取りがかなり似ている。

 

仏間には富山県らしい立派な仏壇が飾られ、その左側が床の間なのも同じだった。

実家には20畳ほどの広間があり、小さい時は室内運動場のように走りまわっていたことを思い出す。

 

私たちの「生家」はもうないが、このように現在でも存在している伝統的家屋を目にしたことで、懐かしい記憶が蘇った三姉妹のお喋りは止まらなかった。

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5 日常 

今回の旅行は、娘が日本の中学校へ体験入学をするのが目的だった。

四日間だったが、部活動の新人戦と14歳の挑戦(職業体験)の狭間という忙しない時期に受け入れていただいた。

 

学校までの道のりを娘と往復したり、ちょっとしたお遣いを父に頼まれたり、甥っ子自慢のパスタを作ってもらったり、妹たちと夕飯を作ったり。

「日常」に重きを置いた時間を過ごすことができた。

 

ラジオから流れる富山弁に改めて驚きつつ、私も努めて地元の言葉で喋った。随分忘れてしまったと思うが、それでも娘には新鮮そうだった。

 

「私の地元」の空気に触れ、自分のルーツを思い出していた。

日本の学校にも触れ、ちょっと緊張もした。

(歩行者は、道路の右側を歩くルールでしたよね?)

 

日本に住んでいた時、私はどんなことを思っていたのか?

そんなことを考えながら、やはり私は日本人だし、この国に戻ってくるのだろうと意識している。

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ハウスキーピングという仕事

 8.5.2023

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

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ハウスキーピングという仕事

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1.

 

ハウスキーピング

 

この言葉を聞いて、

「ああ、宿泊施設のお掃除をする人のことね」

とすぐに理解できる人はどのくらいいるのだろうか?

 

少なくとも私が初めて聞いた時は家計簿のことかと思ったし、自分がホテルの客室清掃をする立場の人間になってはじめて使うようになった言葉だ。

(ケアンズは観光地なので、理解する人は多いが…)

 

そう、みんな知っているようで、案外知られていない仕事。

それがハウスキーピング。

 

ハウスキーピングは、基本的に繰り返し作業の仕事だ。

繰り返し作業のプロだと言える。

 

「お掃除が仕事です」

というと混同されやすい。

 

例えば賃貸の明け渡し時に業者がする清掃であれば、各個人がそれぞれの使い方で溜め込んだ汚れを次の借り手が気持ちよく引っ越して来られるような状態にまで回復しなければならない。状況に合わせて様々な薬品やツールや技術などを駆使して、設備への被害を最小限にしながら汚れを取り除く作業が多くなるだろう。

日本のYoutube動画で、時々見てしまうタイプの作業(私だけかも)。

 

しかしハウスキーピングの掃除はというと、「各個人がそれぞれの汚し方をした場所を清掃する」ところまでは同じだが、いつも同じ場所で、かつ介入する頻度が細かい。

 

ホテルであれば毎日だし、滞在者が掃除するタイプの宿でも、1週間に一度は定期清掃が入るはず。

 

この頻度を持ってして、汚れの蓄積を防いでいる。

 

時々、頑固な汚れなどに対する効果的な掃除方法を尋ねられることがあるのだが、あまり役に立つ返事をすることができない。

強いて言えば「いつも掃除していれば、まあ大丈夫だと思うけど」になる。

 

それができれば、みんな困らない。

2. 

 

ハウスキーピングスタッフとしての私の経験は、専属のホテルで6年半、3社のホテルへ派遣スタッフとしてお手伝いを何度か、バックパッカー宿にてお手伝いを数ヶ月、そして現在働いている、医療を受ける人向けの宿泊施設で2年近くになった。

 

実際に作業をしたことがないと、おそらくピンと来ないと思われるので、ホテルで働いていた頃のある1日を簡単にご紹介しよう。

 

まず朝イチで、今日自分が担当する部屋の一覧を受け取る。

(私が勤めていたホテルでは、一人で掃除をするタイプだった)

1日に割り当てられる部屋数は上下するが12から14部屋前後。ホテルでは使用中の部屋も毎日掃除に入るため、この数はチェックアウトの部屋と使用中の部屋とが混ざったものになる(業界では12部屋で5時間が目安だと聞かされている)。すでにチェックアウト済みの部屋を優先的に、どんどん掃除を進めていく。

 

掃除には、汚れ物を処分し掃除機をかけたり埃を取ったり、バスルームを磨いたりするほかに、テレビなどの備品がきちんと使えるかの確認、ベッドメイキングや次のゲストの人数分のタオルなどを用意する作業も含まれる。手持ちのシーツやタオルが足りなければ催促し、部屋に備え付けの書類やコップの数が足りなければ走り回って調達する。

全ての部屋をあるべき姿に整えられたら、ようやく1日が終わる。

 

ゲストからのクレームが来ないように、綺麗に間違いなく。しかし管理者からのクレームもないように、指示された時間内でなるべく終われるように。

この相反した要求を一身に受けて、毎日同じ作業を部屋の数だけ繰り返すのだから、繰り返し作業のプロになるのも然り。

 

掃除に使用する薬剤は各ホテルで決まっているため、この汚れにはこの新しい薬品を試そうか、というタイプの掃除とは異なるのがお分かりいただけるであろうか。

 

家に持ち帰る仕事もなく、新しい気持ちで毎日を迎えることができる環境だが、繰り返しの作業は肉体を駆使するため、じわじわと身体にくる。腕や手のひら、腰、膝など慢性的な痛みを訴えない人の方が少数だろう。また、接客業でもあるので、ゲストから厳しい言葉を投げかけられる場合もある。

完全なるホテルの裏方でありながら、感じの良い接客も求められる、肉体も精神も使うそんな仕事であった。

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3. 

ホテルを退職した際、ハウスキーピングの仕事には戻るまいと思っていた。

 

時間内にどれだけ綺麗にできるか、日々できることを増やす挑戦を自分自身に課していたため、やれるだけのことはやったという気持ちがあったし、もう肉体労働は疲れたとも思っていた。

 

しかし、つなぎのために登録した派遣会社では、飲食の仕事に呼んでもらえるようにアルコール取り扱いの免許をとったにも関わらず、紹介されるのはハウスキーピングの仕事ばかりであった。

 

体を動かしていない時期は、いかに自分がなまくらになってしまったかということを考えた。ホテルの頃は親が心配するくらい痩せていたので、多少体重が増えることは問題なかったが、キビキビと動いていた頃を思い出すと自堕落になったように感じた。

 

そして、娯楽がメインのホテルとは異なり、医療系の宿泊施設はより公益性が高いのではと判断したため、結局ハウスキーピングの仕事に戻り現在に至る。

 

毎日、シャワーブースの掃除をしながら

「なぜ私はこの仕事を続けているのか?」 

と考える。

 

私は自発的に体を動かすタイプの人間ではないので、「収入を得ながら運動ができるから」かもしれないし「繰り返しの単純作業が好きだから」かもしれない。

 

掃除の仕事は、やればやっただけ結果が目に見えるものであるため「やりがいが分かりやすい」し、「療養中のかたのお役に立てているかも」とも思える。

 

そして、ハウスキーピングの仲間はいつも優しい。

 

実際のところ1日3ー4時間程度の仕事量なので、ホテルに比べると肉体的な辛さは減ったが、これだけで生活をするのは難しい。そのため、別の仕事も週2で入っている。こちらも別の肉体労働で、なかなかハードだ。

 

しかしどちらも、だれかがやらないと社会がスムーズに回らない裏方の仕事であったりする。「だから私は働いている」と考えてしまう自分を、面倒くさいなあと自分で思う。

 

ホテルの頃は、窓のサッシを拭きながら「もう辞めなければいけない」という言葉が常に頭に浮かんでいたのだが、今のところ「なぜこの仕事を続けているのか?」という疑問ですんでいるので、現在のハウスキーピングの仕事はもう少し続けるだろうと思う。

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日本で出会ったハプニング

 6.10.2023

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日本で出会ったハプニング

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1. 横浜の出禁おじさん

 

3月末から2週間半、5年ぶりの日本を、中高生の子ども二人と一緒に家族四人で旅行した。

 

大阪・奈良、金沢・富山、東京・横浜、岐阜・愛知、そして大阪とぐるっと回ってケアンズに戻ったのだが、その濃密な時間の中いくつか面白い体験をした。

 

まずは横浜で出会ったおじさんについて書きたい。

 

私たち家族は東京から岐阜へ移動する途中、横浜に住む友人を訪ねた。

友人カップルはお酒を出すたこ焼き屋さんをやっており、私たちの到着時間に合わせ、いつもよりも早く店を開けて待ってくれていた。

 

「久しぶりだねえ」

「この川沿いの場所は落ち着くなあ」

などと談笑し、美味しいたこ焼きを頬張っているところに、自転車でふらふらとやってきた一人のおじさん。

 

「生ビール一杯いいかい?」

と注文すると、当たり前のように私たちに話しかけてきた。

 

はじめは横浜のこの辺りの話。

 

わたしは『地元の人とふれあえるなんて珍しい』と思って一生懸命に耳を傾けていたのだが、「戦時中はね、私の両親はね、兄弟はね」などと、だんだんおじさんの自分語りが強くなってきた。

横浜という土地柄なのか、昔は家族で海外にいたなんて話になったから、

「私たちも海外からですよ」

と伝えてみるも私の言葉への反応はなく、自分語りが止まらない。

はじめはみんなで聞いていたと思うが、気づいたら私一人が相手をしている状況。

 

「兄さん、姉さんはそれぞれ違う国で生まれて、自分の両親はどんな仕事をしていたのか、いまだにわからないんだ(ニヤリ)」

という話になってくると、いよいよやばいかな?

これは、解放してもらえないかもしれないぞと不安になった頃に、友人が「勘弁してください」と、割り込んでくれた。

 

聞くと、近所で有名な出禁おじさんだったらしい。

いろんなお店で嘘なのか本当なのかわからない話のワンマンショーを繰り広げて、拒否されてきたそうだ。

そうか、私は真剣に話を聞いていたから嬉しかったのだろうか。

とても生き生きと話していた姿が印象的だった。

 

珍しい人に会って面白かったけれども、友人との再会を喜ぶ時間がその分ぐっと短くなってしまったのは、やはり残念だったと言うしかない。

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2. カプセルホテル

 

名古屋では、大学時代の友人達と会う約束をしていた。

 

岐阜の小さな大学に通っていた私たちは、仲良し6人組。

関東、中国地方、そして東海地方と普段はバラバラに散らばっている彼女達が、私の一時帰国をきっかけに集まってくれた。

 

6人もいると、それぞれのライフステージが異なったり、単純に予定がつかなかったりして、これまで全員が一度に集まるのは難しかった。

私も(当時お金がなくて)結婚式に駆けつけられなかったり、また、高山や香港旅行なども参加できなかった。

 

前回、みんなで集まったのはいつだっただろうか?

「別れるときは、また明日会えるような感じで、いつもサラッとさよならしてるよね」

なんて話していたのも、ずいぶん昔だ。

誰かが欠けてしまうのはしょうがないこと、今、集まれたことを喜ぼう。

そんな感覚だったと思う。

 

しかし今回は、念願の6人全員で会えることになった。

そして自宅が遠いチームは、名古屋で宿を取ることにした。

 

いいところがあると聞いたよ、と名古屋に住む友人が紹介してくれたのは「いろいろ付いたカプセルホテル」。

 

無料の「大浴場」「ソフトドリンク」「夜の時間はアルコール」「ご飯とお味噌汁」などなど、何も持ってこなくても様々なものが用意してあるタイプの宿だった。

 

カプセルホテルは、日本独自の珍しい形態の宿泊施設であるにもかかわらず、私たちの誰も泊まったことがなかったし、紹介してくれた彼女も然りだった。

 

 

「面白そう!」

ってことで3人分予約したのだが、当日、チェックインをして初めて知った事実。

カプセルのある眠る場所では、喋ってはいけなかったのだ!

 

他の利用客が24時間いつ眠っているかわからない場所です。

お静かにお願いいたします!

 

しかもカプセルを見たあとに「閉所恐怖症気味」なのよと告白しあう友人と私。(カプセルの中に入ってみると、案外大丈夫でした)

冷静になればなるほど、なんで予約した? ということに……。

 

「いい宿はないか」と探してくれた名古屋の友人は、自営業で各地を飛び回る生活をしている。そんな彼女に対して、便利だよと紹介してくれたのではないかと思っている。

 

予約の段階では、私も含め皆がバタバタしており

「宿が取れた? よかった、よかった、一安心」

という感じだった。しょうがなかったのだ。

 

居場所を求め、ドリンクや軽食のあるフロアに移動するも、お通夜なのか? と思うような静けさ。館内着を着てお目当てのドリンクなどを片手に持ち、うろうろ単独で行動する利用客。その中に3人グループの我ら。奥にある喫煙ルームからはタバコの匂いがうっすら漂う。

基本的に一人で利用するお客さんが圧倒的に多いため、賑やかなグループ客は敬遠されるようだった。蚊の鳴くような声で私たちは話す。

ロッカールームと大浴場は普通に話せる場所だったが、長居をする場所ではないよね。

 

尽きぬ話をするために集まっているのに、それを禁止された私たちは、一人旅以外でのカプセルルーム利用はないなと反省をし、翌日に予定していた「大人の遠足(ノリタケの森とプラネタリウム)」に期待を膨らませたのであった。

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3. お土産

日本の旅の締めといえば、なんといっても荷物!

 

段ボール箱につめた衣類や本、食品などを、事前に夫の実家から空港の郵便局に送りつけ、飛行機に乗せるというのは、毎回の最重要ミッションである。

 

子ども達が小さかった頃はそこにおもちゃも加わり、合計10箱なんてこともあった。

 

今回も同じように、まずは段ボール箱5箱を用意し郵便局のサイトを一応確認すると、なんと空港の支店が消えていた。

 

今まで使ったことはなかったが、存在は知っていた民間の荷物受け取りサービスカウンター。

こちらは開いていたので、その住所を指定することができた。一安心。受け取りも無料で行えたし、最後、空港で買い足したお土産を入れるための余分な段ボール箱を購入することもできた。

 

よし、次は買い物だ! と勇んだところ「店」が無い!!

 

5年前にはあった目の前のコンビニ、お土産物屋さん、書店、100均ショップや各種専門店。

 

パンデミック期間中のあれこれで、

 

なんと、なんと、

 

ほとんどのお店が閉店していた。

 

新幹線の売店で、道中の荷物になるからとお土産物を躊躇するのではなかった。

荷物受け取りカウンターでは、梱包用テープも箱とセットになって売られていたのは、100均ショップがなくなったからか?

 

かろうじて見つけられたのは、工事中のエリアの間にコンビニと薬局ひとつずつ。

薬局にはお土産物がひっそりと少量、置かれていた。

空港でお土産物を買えばいいと油断していた私は、薬局でようやく光を見た。

4. 最後の最後

よし、荷物は準備OK。

預けるぞ!

 

ジェットスターのカウンターは、、、

どこだ?

 

ない。

 

電光掲示板を見ると、私たちの便はC2だかなんだかの表記。

あれ? 関空も、第2ターミナルができたんだっけ?

格安旅客機はそっち?

 

関空の第2ターミナルへは、無料の専用バスに乗る必要があった。

バス停まではエレベーターを使って地上に降りて少し歩く。

そこへ来たバスに、カートに積んでいた段ボール箱6個とスーツケース二つをおろして載せる。

バスから降りると、またカートを拾って荷物を積み直し、第2ターミナルの中へ。

 

女性「ここにジェットスターのカウンターは無いみたいですね」

 

「……」

 

第2ターミナルのバス停に戻った。長蛇の列。皆、荷物はコンパクト。

 

一つ目のバスには乗れないだろうと諦めていたところ、乗りなさい、荷物も載せなさいと世話を焼いてくれた職員のおじさんの存在があった。

ありがとう。

絶望の淵から救われました。

 

ここでは家族の団結力が試されていると思った。

誰も文句を言わず作業する。

荷物が置けるところに立っていた人には、場所を少し譲っていただく。

 

バスから降りる。

そしてまた、荷物をバスから下ろす。先ほど置いていったとおぼしきカートを拾って載せ直す。エレベーターに乗って第1ターミナルの出発ロビーへ再び戻る。

 

1時間近くロスをしただろうか?

 

その頃にはCカウンターにジェットスターの表記が出て、受付を待つ乗客の列ができていた。

 

しなくてもいい移動だった、ということを知る。

ただ、間に合ったことに安堵した。

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今回の日本旅行では、有意義な時間を過ごすことができた。

降り立ってすぐに食べた日本食に感動し、観光地の外国人旅行客の多さに圧倒されつつも親近感を覚え、ドキドキしながらマスク無しで出歩き、桜の時期にもなんとか間に合った。家族4人がそれぞれ撮影した写真を共有アルバムにし、特急しらさぎにはやっぱり子ども達だけで乗り、ズワイガニを一杯ずつ食べ、ジブリ、秋葉原、推し活、家族、友人。

 

いくつかスパイスの効いた体験もしたが、あとになれば全て思い出。

さて、またケアンズでの日常を過ごしましょうか。

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ケアンズ国際空港にて

 4.10.2023

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

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ケアンズ国際空港にて

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1. 一時帰国

 

ただ今、ケアンズ国際空港の搭乗エリアで、飛行機に乗る時間が来るのを家族で待っている。

今日は子どもたちの一学期の最終日だが、1日前倒しでホリデーを始め、2日遅れで二学期を始めると学校に連絡をした。

オーストラリアではよくある流れの、学校をあまり休まない頑張った予定を組めたと思っている。

 

2020年の一時帰国予定が幻となってしまったため、我が家にとっては約5年ぶりの日本!

ワクワクドキドキ、そしてうっすらと不安。

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前回の帰国時は娘が小三、息子は中一だった。

5年経つと、当然ながら娘は中二で、息子はなんと高三になってしまった。

はっきりと記憶の残る年齢の時期を、ずっとオーストラリアで過ごしてしまったのだなと、少し悩ましく思う。

 

日本の情報はインターネットを通して知ることができるので、そこまで浦島太郎ではないと思うけれど、肌で実感することはできないので「ようやく」という気持ち。そして息子の年齢を考えると、もしかして、この旅行は4人での最後の日本旅行になるかもしれない貴重な時間。

そういう訳で、あまり色々と周遊しない我が家にしては珍しく、今回は奮発して関東と関西の両方に宿をとった。

おじいちゃんおばあちゃんの住む地域は北陸と東海なので、日本のまんなかをぐるっと回る予定だ。

2. 搭乗エリア

 

搭乗手続きを済ませ、手荷物検査、そして出国手続の流れにしたがう。

機械化された出国手続きに驚きながら、すでに一人でも手続きの作業ができるようになった子どもたちの成長を改めて感じた。

 

息子の友達は、飛行機乗り継ぎの国内旅を一人でしたり、別の子はイギリスに留学中なので一人で国際線に乗ったりしている。

 

特急「しらさぎ」を子どもだけで乗れたね!

なんて褒めたりする年齢でもないだろうが、なにげに箱入りな子どもたちなので私の感動の沸点が低いのはご容赦を。

 

出国手続きが終わると進む方向は免税ショップの中にある。

そこを通り抜けると、あとはお土産もの屋さんが三つとカフェが一つしかない待機場所。

以前は巻き寿司のお店もあったような気がするが、あれは主要都市の空港だっただろうか……? 

たまにしか来ない私の記憶はあやしい。

唯一のカフェには、コーヒーや軽食を求める人の列が絶えず、我々もまずはその列に並んだ。

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国際間の移動が再び活発になったとはいえ、閉まったままのお土産物屋さんを見ると、間にパンデミックを挟んでいたことを実感する。

羊の皮のマットやアグブーツ(羊毛で作った暖かい長靴)を販売していたお店には、今まで足を踏み入れることすらなかったけれども、ないのかと思うとわがままなもので、商品が見てみたくなる。

 

子どもたちがまだ幼かった頃は、ここにある本屋さんで絵本や児童書、お絵かき帳などを購入し、機内での時間に備えた。

離着陸時に、耳抜きがうまくできるようキャンディを用意してなめさせたり、搭乗直前まで人気のない場所で走ったり体をうごかして疲れさせ、機内で眠りやすくなるように工夫していたのもはるか昔のこと。

 

今は、皆がそれぞれのスマホやデバイスを駆使して、自分で時間を潰す準備をしている。

ちなみに私はこの通り、エッセイを書いたり、写真を撮ったりしているのである。
 

3. 他国のコイン

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空港へ来たら、いつも決まってすることがある。

それは他国のコインを寄付すること。

 

ホテルでハウスキーピングの仕事をしていた頃、自然と集まってくるのが海外のコインで、その扱いに困っていた。

お金なのできちんとしたいし、でも有効利用の方法がない。

それぞれの国の出身者を探して譲るというのも面倒な作業。

そんなとき、コインの行き先を空港で見つけたのだった。

それは搭乗エリアにある募金箱。

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オーストラリアドルのみならず、各国のお金が普通に入っていた。

日本へ帰るたびに、ここへ入れることにした。

 

今回は5年ぶりの国際旅行のため、行き場に困ったコインがまだ私の手元にあった。

パンデミック直前に、ホテルの仕事自体は辞めているので大した量でもない。

さきほど募金箱に入れてやっと肩の荷が降りた。

 

募金の行き先を見ると「フライングドクター」と書いてあった。

 

病院がそばにないリモートエリアの急病人などを、空のルートを使って運ぶサービスを行なっているものだ。

コイン程度ではたかが知れた額だと思うけれど、ほんの少しでも誰かの役に立っているなら嬉しい。

旅のついでに有益なことをしたという気持ちにもなれておトク。

 

オーストラリアドルが余った旅行客のかたも、旅の締めにちょっとした募金をするのも良いかもしれませんね。

 

さて、そろそろ搭乗時間が近づいてきた。

「気をつけて行ってきてね」

と送り出してくれた、友達や職場のスタッフに良い土産話ができるよう、これから楽しんでまいります!

 

日本の桜がすでに満開だという話は聞いているので、間に合うかどうかは到着してからのお楽しみ。

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裸足

 2.8.2023

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

裸足

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1. Easy Going

 

先日、スーパーに来た女性が「寒いわねえ」と言って買い物をしていた。

真夏のケアンズであるから外は暑く、食品を扱うスーパーの中はそのぶんエアコンが効いている。

我が家の子ども達は寒がりで、夏でも買い物の際は長袖を持参するタイプだ。

彼女もそうなのかと思って何気なく足元を見ると、裸足だった。

申し訳ないが、冷えた床を直に感じるなら寒くても仕方がないだろう。

指摘したいところをグッとこらえた。

 

オーストラリア、特に常夏のケアンズにおいて裸足は文化かもしれない。

 

街の中心部に無料プールがあることもあり、水着や上半身裸などラフな服装で街を歩く人がいるのはごく一般的な光景で、足元も多くの人はサンダルだ。

裸足の人もいる。靴を買うお金がないわけではないと思う。

なぜ?

と問われても専門的な知識は持ち合わせていないが、Easy going(気楽にいこうよ)気質があると言われているこの国なら、全くおかしくはない。

裸足の人、靴を履いている人、サンダルの人が入り乱れる光景は、肩肘を張らなくても生活できる場所の象徴のように見える。

 

裸足なのがそんなに気になるのか? どちらでもいいじゃないか。そんな声も聞こえてきそうだ。

裸足で外を歩く人は、大人も子どもも性別も関係ない。

ためしに「オーストラリア 裸足」で検索してみると、たくさんの記事や画像がヒットして面白い。

多くの日本人が驚き、そして「へぇー」となっている。

 

一方就業時間中は、常時履き物をはいていることが規定されている場合がある。

身の安全を守るためのワークブーツ着用が筆頭に挙げられると思うが、かつて私の職場で「靴を脱いでいた時の事故は、勤務中の保険の対象外になる」と明言されたこともある。

それはホテルでハウスキーピングの仕事に就いていた時で、それほど重いものを運ぶ仕事ではなかったが、靴下はだしでの転倒などを懸念されたのかもしれない。

 

仕事で脱ぐなと言われている履き物であればなおさら、フリータイムになったら脱ぎたくなるのは性だろう。

日本ではどうだろうかと思い返してみた。

ベランダであろうとちょっと外に出る時に、必ず何か履き物を用意するなぁ。

私の記憶している20年前までは、少なくともそうだった。

私の育った家は古い日本家屋で、トイレが家族用玄関の向こう側にあった。

なのでトイレに行くときは必ずサンダルを履いたし、トイレ繋がりで言うと、大学生になって引っ越した一人暮らしのアパートにある狭いトイレですら、私は専用のスリッパを用意していた。

足を汚したくないという意識が、知らず知らずに染み付いていたように思う。

 

スーパーに裸足で買い物に来ても、誰も気にしない寛容なオーストラリアとはいえ、入店を拒否される場所はある。

ドレスコードのある高級レストランなどはまず無理だろうし、安全のためだろう、DIYショップでも弾かれる。

 

どういう経緯だったろうか海へ行ったわけでもないのに、夫が珍しく裸足で車を運転、そのまま降りてDIYショップに入ろうとしたことがある。

そして、入り口に常駐するスタッフに「履き物をはいて出直すよう」入店を断られた。

急いで近くのスーパーに行き、ビーチサンダルを買って事なきを得たが、休日の油断した頭に喝を入れられた瞬間だった。

在豪歴が長くなったと感じた瞬間でもあった。

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2. 子どもの場合

 

お友達の家など、子ども達が遊びに行った先で忘れる筆頭が、履き物だ。

 

水着や水筒、デバイスなどの入ったカバンは忘れないようにいつも注意するが、最後の最後にちょっとだけ遊んでしまって、裸足で車に乗り込んでしまうことがよくあった。

今日は忘れないぞと思っていた日は、今度、別れ際に親同士で話し込んでしまって、気づいたら子どもが裸足に戻っていた時なんかは、さすがにせめられない。

「靴履いた?」は受け入れ側も、お迎えの側も合言葉のようになっている。

 

学校から直接お友達の家に遊びに行った日などは、それを忘れると「明日の学校にはいていく靴がない!」事態が発生する。

そんな時は玄関先に忘れた靴を出しておいてもらって、通学時に寄り道して履き替えた。

親側のやりくりも楽ではありませんよ、ほんと。

 

子ども達にとって裸足で外遊びをすることはごく一般的な感覚で、公園や庭などで初めは履いていたとしても、気付けば脱いでしまっている。

公園などに忘れてしまうとまず見つからないので、高価なものを買い与えないのは生活の知恵であると私は思う。

 

娘の通った幼稚園でも、あらためて写真を見返すと裸足で遊んでいた。

しかしこれが小学校に入ると事態は一変する。

朝9時ごろから3時ごろまで、ずっと靴を履くように指導されるのだ。

一番若い子はまだ4歳半。

学年が低いうちは、教室の椅子に座るより地べたに座って活動する時間が長いこともあり、靴を脱ぎたくて癇癪を起こしてしまう子もいると聞く。

入学準備学年というのは、こういったルールに少しずつ慣れていく期間でもあるのだなとしみじみ思う。

 

私だって仕事の時は靴を履いているが、帰宅の車に乗り込むや否や常備しているサンダルに履き替えてしまう。

裸足とまではいかないが、仕事が終わったという解放感を足からも味わえて良い。

 

そういえば私が小学生の頃は、暖かい季節になると「はだし運動」の期間が設けられ、校内や砂利の敷き詰められた中庭でも裸足で過ごすことができた。

砂利の上を歩く時は足ツボマット並みに痛かったけれど、楽しかった記憶がある。

 

裸足の解放感は時に、大地と繋がっている「アーシング」も感じることができるだろう。

感覚が敏感な子どもの頃に裸足で過ごす恩恵は、日本の学校教育でも認知されるものだったのだな。

 

ただし、我が家では街中を歩く時、子どもが裸足になることは禁止してきた。

割れたお酒の瓶の破片など、危険なものが落ちていることがよくあるからだ。

ちょっと過保護に思えなくもないが、危機意識を持つきっかけにもなるだろうと信じている。

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3. 裸足じゃないの?

サンダルを履いていたために、嫌味を言われたことが一度だけある。

 

それは某プレイグループ(未就学児向けの遊びグループ)での出来事だった。

月曜から金曜まで日替わりで異なったプレイグループが使用している施設があり、普段私はそこの日本人プレイグループに参加していた。

 

あるとき知り合った女性が別の曜日のリーダーをしていて、遊びに来てよと誘ってもらった。

自然派を謳う教育方針に共感する人たちのグループで、遊んでいいのは木など自然素材のおもちゃだけ。

はじめにパン生地をみんなでこねて、ランチに焼けたパンを食べるというのが楽しそうなグループだった。

私は自宅でパンを焼いていたので親しみも感じた。

 

遊びに行くと、プラスチックのおもちゃがある場所を知っている娘はそこを開けたがり、私はそれを阻止して頑張って外遊びに誘うはめになった。

 

そうこうしていたら「ここは誰でも来ていいグループなの?」と、明らかに私を意識した様子で質問している女性の声がした。

 

その場では親も子どもも裸足になって過ごすのが決まりだったようで、それを知らなかった私はずっとサンダルを履いたままだったのだ。

裸足になり自然と繋がることを拒否している人間が、そのグループに紛れ込んだように見えたのかもしれなかった。

 

私の興味で参加したけれど、我が家には厳しいなということは早々に気づいていたので、彼女の質問は良いきっかけになり、ランチになる前にお暇することにした。

このグループの共感する教育方針の書籍は以前から持っていたが、実生活に落とし込むことはできずにいた。

私が裸足にならなかったことで拒否反応を示された唯一の経験は、いわゆるおもちゃに囲まれてテレビを見せる暮らしをしていた我が家とは、方向性が少し違うグループだったのかもしれないという再認識の経験にもなった。

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4. 足の皮の厚さ

日本へ一時帰国して、友人のお子さんと一緒に遊ぶ機会に恵まれると

「ほんとに裸足になるんだねえ」

という話になった。その場には、靴のまま遊具で遊ぶ友人の子2人、裸足になって遊ぶ我が子2人の面白い対比だった。そのうちみんな裸足になって遊んでいた気がする。

 

ケアンズの公園で遊んでいるお子さんが、履き物のまま、特に靴下とスニーカーのフル装備だったりすると「旅行客かな?」 とまず思ってしまう。

最近は我が子の年齢が上がり公園に行く機会も激減したし、パンデミックの制限でしばらく旅行者を見かけることもなかった。

これからまた、現地の子ども達と旅の子ども達が交差する機会が増えるのかと思うとほっこりした気持ちになる。 

 

などとまあ、しかし偉そうに言っていますが、こちらの生粋の(?)裸足族のみなさんは、暑い道路を歩けたり少々の障害物も平気な様子なので、私たちはそこまでの境地には至っていないことを白状しておきます。

 

実は足の皮の厚さが、これからの生存競争を勝ち残る要因の一つだったりして。

だとしたら、庭の人工芝の上を「熱い! あつい!」と飛び上がって歩く私はまだまだ修行が足りませんね。

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実感する師走

 12.15.2022

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Green and Gold

実感する師走

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1. 二つ目の仕事

 

一年前の今頃は、時間が余っていた。

 

当時新しく始めた仕事は、ケアンズで医療を受けるために遠隔地からやってきた人やその家族のための宿泊施設の清掃。

ホテルのお部屋を6年半掃除してきた経験から、清掃の仕事はいつも人手が足りないイメージをもっていたが、この職場では3ー4時間も働けば1日の仕事が終わる。

仲間の清掃スタッフも、基本的に3時間で帰ってしまう。

もちろん仕事量が多い日もあるが、翌日に持ち越したりと工夫して短時間で終える。

 

オーストラリアでの1日の最低労働時間は、3時間と決まっている。

確かに面接時に「3時間は確保する」と言われたが聞き流していた。

集中して体を動かす仕事のため、時間が短くても疲労するので、そういった配慮があるのかもしれない(皆の年齢は私よりも高い)。

しかしランチタイムの街中に開放されると、稼ぎに行ったはずが出費のほうに傾いてしまうので困る。

 

そんなこんなで今年の前半は、平日の午前中は不可という条件で二つ目の仕事探しに奔走し、最終的にスーパーの青果部門でのお仕事を得た。

 

こちらの仕事では、一度に6ー7時間というまとまった時間がもらえる。

勤務日は週2、3日で、清掃の仕事もある日は合計10時間勤務を超えることになるが、週末があったりどちらかだけだったりとバラエティがあった。

 

この仕事の組み合わせだと、働いていてもまだ空いている時間に友人とランチを食べに行く予定を立てられたり、髪を切りに行く都合もつけやすいという利点があった。収入が増えたので、こういった出費も安心してできる。

 

やっと落ち着いたと思った。

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2. 加速

 

安定を感じていた頃、スーパーの部門責任者が変わった