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DAYS

STAY SALTY ...... means column

Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

from  Cairns / Australia

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秋澤月枝
essayist

日本人の夫と、2002年からオーストラリアに移住。

最初の半年は、単身、ニューサウスウェールズ州のBed and Breakfastで家庭料理を学ぶホームステイを体験。その後、夫が就職したクイーンズランド州のワイナリーに合流。

現在は、家族とケアンズに暮らす。

 

お菓子作り、編みぐるみや折り紙などの手仕事が趣味。

中学生と高校生の子どもを持つ母でもあり、彼らの描く絵の1番のファン。

秋の一時帰国

 10.15.2023

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

秋の一時帰国

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1 富山

 

残暑が厳しい9月に、再び日本へ舞い戻っていた。

今回は娘と私の女子トリップ。

訪れた場所は、飛行機の発着する大阪と私の実家の富山だけである。

 

私は高校を卒業後、進学のために実家を離れた。

北陸から東海へ南下しただけだが、間に挟む日本アルプスは思いのほか高く、カルチャーショックが少なからずあった。

曇り空が日常の日本海側から、明らかに晴れの日が多い太平洋側へ。

テレビのチャンネルは、転出時にようやく民放が3局に増えた県から、もともと全局見られる県へ。

市の端っこ、県の端っこにあった田んぼと工場しかない実家のエリアから、市の端っこでもなんだか賑やかな県庁所在地へ。

 

これまでオーストラリアからの一時帰国中に長く滞在するのは、決まって夫の実家であった。私たちが結婚をした地域でもあり、友人に会う予定を立てやすいから。

 

母が鬼籍に入った時に、1週間程度の滞在をした記憶はある。

しかし十日間も富山の実家に滞在するのは珍しい。

家族仲が悪いわけでは決してない。

むしろいい方だと思う。

 

今回は今までなかなか実践できなかった、私が生まれ育った自分の家族と長く過ごす貴重なチャンスだ。

2 精進料理 

 

特に予定は決めていなかったが、富山で行きたい場所はあった。

その情報は、動画サイトを観ていた時に出てきた。

 

私たちが生まれ育ったのは、古い日本家屋。

大学生の頃に取り壊されているのでもう存在していないが、その家で、私たち家族は何度も仏事を執り行った。

仏事では、それなりの年齢になると、子どもでも一丁前に御膳が用意される。

 

提供されるのは肉っ気のない精進料理だが、その御膳にいつも出てくる三色のくずきりはタレが甘じょっぱくて印象的だった。普段の食事も精進料理に近いものではあったが、そのくずきりが食卓に出てきたことはない。

 

動画サイトではその三色くずきりをはじめ、いとこ煮やよごし、具の入ったがんもどきなどが並ぶ料理を紹介していた。それらの料理は、砺波地方独特の精進料理らしい。

それを古民家レストランで提供しているという。

 

法事に参加しないと食べることができないと諦めていた料理が、このレストランへ行けば堪能できる。このチャンスは逃したくないと思った。

 

妹たちも興味があるようだった。

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3 農家レストラン大門(おおかど) 

平日の昼時、休みを合わせてくれた妹二人と私は、散居村のなかにある古民家レストランに足を運んだ。

 

地図が示す場所は田んぼの真ん中で少し不安になったが、目的地の横に「大門そうめん資料館」が建っていたので、観光客が訪れるルートになっているのだろうと安堵して車を停めた。

 

一人暮らしを始めてから、母がよくこの大門素麺を持たせてくれた記憶がある。そのままでは長すぎるので、茹でる時に割る必要があるこのそうめんだが、砺波市の特産品だったということにこの時はじめて気がついた。

富山県には大門(だいもん)という地域もあるため、ずっと勘違いをしていた。

 

レストランに入ると、中は懐かしさを覚える住居を改装した内装。

畳の上にテーブルと椅子が並べられ、庭が見える席に座らせてもらった。

 

ランチタイムはお肉のつかない伝承料理がいただける。

 

お目当てだった三色くずきりのみならず、大門そうめんやゆべしなど、田舎で暮らしてきた私たち姉妹の楽しめる料理がたくさん並んでいた。

 

ゆべしは、我が家では「ゆうびす」と呼ぶ寒天料理。

溶き卵が入った醤油ベースのスープを寒天で固めたものだ。干し椎茸でだしをとり、そのまま具にもなっている。暑い夏の時期には冷蔵庫で美味しく冷やし、冬の時期は室内に置いたままでも大丈夫な料理。

母が作るゆうびすには千切りの生姜が入っており、それがアクセントになっていた。レストランのゆべしには入っていなかったので、母のレシピだったのだと改めて思った。

 

御膳には、抹茶塩の天ぷらもついており華やかさを添えていた。

法事の際に天ぷらはあっただろうか?

しかし野菜の天ぷらは母もよく作ってくれた料理のため、このランチは結果、母の料理を偲ぶような話題が増えた。

 

母が作ってくれた「ゆうびす」や「かぶらずし」「なます」などの伝承料理は、どうやら妹が引き継いでくれているらしい。

料理をいただきながら、いずれ、母の味を習いたくなった。

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4 アズマダチ 

古民家レストランは、私たちが生まれ育った日本家屋と間取りがとてもよく似ていた。

 

お客様玄関から家屋に入ると、左手側に広間や仏間がある。庭に面する部分は2から3畳程度の控えの間のような部屋が連なっており、実際、仏事の際はお坊さんに休んでいただく場所だった。

 

レストランのホームページを見ると、「アズマダチ」という言葉が書かれていた。

砺波平野に多く見られる伝統的家屋の形だそうだ。

ネット検索すると「となみ散居村ミュージアム」という施設があり、平面図が載っているのだが、こちらの伝統館1階の間取りがかなり似ている。

 

仏間には富山県らしい立派な仏壇が飾られ、その左側が床の間なのも同じだった。

実家には20畳ほどの広間があり、小さい時は室内運動場のように走りまわっていたことを思い出す。

 

私たちの「生家」はもうないが、このように現在でも存在している伝統的家屋を目にしたことで、懐かしい記憶が蘇った三姉妹のお喋りは止まらなかった。

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5 日常 

今回の旅行は、娘が日本の中学校へ体験入学をするのが目的だった。

四日間だったが、部活動の新人戦と14歳の挑戦(職業体験)の狭間という忙しない時期に受け入れていただいた。

 

学校までの道のりを娘と往復したり、ちょっとしたお遣いを父に頼まれたり、甥っ子自慢のパスタを作ってもらったり、妹たちと夕飯を作ったり。

「日常」に重きを置いた時間を過ごすことができた。

 

ラジオから流れる富山弁に改めて驚きつつ、私も努めて地元の言葉で喋った。随分忘れてしまったと思うが、それでも娘には新鮮そうだった。

 

「私の地元」の空気に触れ、自分のルーツを思い出していた。

日本の学校にも触れ、ちょっと緊張もした。

(歩行者は、道路の右側を歩くルールでしたよね?)

 

日本に住んでいた時、私はどんなことを思っていたのか?

そんなことを考えながら、やはり私は日本人だし、この国に戻ってくるのだろうと意識している。

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ハウスキーピングという仕事

 8.5.2023

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

ハウスキーピングという仕事

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1.

 

ハウスキーピング

 

この言葉を聞いて、

「ああ、宿泊施設のお掃除をする人のことね」

とすぐに理解できる人はどのくらいいるのだろうか?

 

少なくとも私が初めて聞いた時は家計簿のことかと思ったし、自分がホテルの客室清掃をする立場の人間になってはじめて使うようになった言葉だ。

(ケアンズは観光地なので、理解する人は多いが…)

 

そう、みんな知っているようで、案外知られていない仕事。

それがハウスキーピング。

 

ハウスキーピングは、基本的に繰り返し作業の仕事だ。

繰り返し作業のプロだと言える。

 

「お掃除が仕事です」

というと混同されやすい。

 

例えば賃貸の明け渡し時に業者がする清掃であれば、各個人がそれぞれの使い方で溜め込んだ汚れを次の借り手が気持ちよく引っ越して来られるような状態にまで回復しなければならない。状況に合わせて様々な薬品やツールや技術などを駆使して、設備への被害を最小限にしながら汚れを取り除く作業が多くなるだろう。

日本のYoutube動画で、時々見てしまうタイプの作業(私だけかも)。

 

しかしハウスキーピングの掃除はというと、「各個人がそれぞれの汚し方をした場所を清掃する」ところまでは同じだが、いつも同じ場所で、かつ介入する頻度が細かい。

 

ホテルであれば毎日だし、滞在者が掃除するタイプの宿でも、1週間に一度は定期清掃が入るはず。

 

この頻度を持ってして、汚れの蓄積を防いでいる。

 

時々、頑固な汚れなどに対する効果的な掃除方法を尋ねられることがあるのだが、あまり役に立つ返事をすることができない。

強いて言えば「いつも掃除していれば、まあ大丈夫だと思うけど」になる。

 

それができれば、みんな困らない。

2. 

 

ハウスキーピングスタッフとしての私の経験は、専属のホテルで6年半、3社のホテルへ派遣スタッフとしてお手伝いを何度か、バックパッカー宿にてお手伝いを数ヶ月、そして現在働いている、医療を受ける人向けの宿泊施設で2年近くになった。

 

実際に作業をしたことがないと、おそらくピンと来ないと思われるので、ホテルで働いていた頃のある1日を簡単にご紹介しよう。

 

まず朝イチで、今日自分が担当する部屋の一覧を受け取る。

(私が勤めていたホテルでは、一人で掃除をするタイプだった)

1日に割り当てられる部屋数は上下するが12から14部屋前後。ホテルでは使用中の部屋も毎日掃除に入るため、この数はチェックアウトの部屋と使用中の部屋とが混ざったものになる(業界では12部屋で5時間が目安だと聞かされている)。すでにチェックアウト済みの部屋を優先的に、どんどん掃除を進めていく。

 

掃除には、汚れ物を処分し掃除機をかけたり埃を取ったり、バスルームを磨いたりするほかに、テレビなどの備品がきちんと使えるかの確認、ベッドメイキングや次のゲストの人数分のタオルなどを用意する作業も含まれる。手持ちのシーツやタオルが足りなければ催促し、部屋に備え付けの書類やコップの数が足りなければ走り回って調達する。

全ての部屋をあるべき姿に整えられたら、ようやく1日が終わる。

 

ゲストからのクレームが来ないように、綺麗に間違いなく。しかし管理者からのクレームもないように、指示された時間内でなるべく終われるように。

この相反した要求を一身に受けて、毎日同じ作業を部屋の数だけ繰り返すのだから、繰り返し作業のプロになるのも然り。

 

掃除に使用する薬剤は各ホテルで決まっているため、この汚れにはこの新しい薬品を試そうか、というタイプの掃除とは異なるのがお分かりいただけるであろうか。

 

家に持ち帰る仕事もなく、新しい気持ちで毎日を迎えることができる環境だが、繰り返しの作業は肉体を駆使するため、じわじわと身体にくる。腕や手のひら、腰、膝など慢性的な痛みを訴えない人の方が少数だろう。また、接客業でもあるので、ゲストから厳しい言葉を投げかけられる場合もある。

完全なるホテルの裏方でありながら、感じの良い接客も求められる、肉体も精神も使うそんな仕事であった。

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3. 

ホテルを退職した際、ハウスキーピングの仕事には戻るまいと思っていた。

 

時間内にどれだけ綺麗にできるか、日々できることを増やす挑戦を自分自身に課していたため、やれるだけのことはやったという気持ちがあったし、もう肉体労働は疲れたとも思っていた。

 

しかし、つなぎのために登録した派遣会社では、飲食の仕事に呼んでもらえるようにアルコール取り扱いの免許をとったにも関わらず、紹介されるのはハウスキーピングの仕事ばかりであった。

 

体を動かしていない時期は、いかに自分がなまくらになってしまったかということを考えた。ホテルの頃は親が心配するくらい痩せていたので、多少体重が増えることは問題なかったが、キビキビと動いていた頃を思い出すと自堕落になったように感じた。

 

そして、娯楽がメインのホテルとは異なり、医療系の宿泊施設はより公益性が高いのではと判断したため、結局ハウスキーピングの仕事に戻り現在に至る。

 

毎日、シャワーブースの掃除をしながら

「なぜ私はこの仕事を続けているのか?」 

と考える。

 

私は自発的に体を動かすタイプの人間ではないので、「収入を得ながら運動ができるから」かもしれないし「繰り返しの単純作業が好きだから」かもしれない。

 

掃除の仕事は、やればやっただけ結果が目に見えるものであるため「やりがいが分かりやすい」し、「療養中のかたのお役に立てているかも」とも思える。

 

そして、ハウスキーピングの仲間はいつも優しい。

 

実際のところ1日3ー4時間程度の仕事量なので、ホテルに比べると肉体的な辛さは減ったが、これだけで生活をするのは難しい。そのため、別の仕事も週2で入っている。こちらも別の肉体労働で、なかなかハードだ。

 

しかしどちらも、だれかがやらないと社会がスムーズに回らない裏方の仕事であったりする。「だから私は働いている」と考えてしまう自分を、面倒くさいなあと自分で思う。

 

ホテルの頃は、窓のサッシを拭きながら「もう辞めなければいけない」という言葉が常に頭に浮かんでいたのだが、今のところ「なぜこの仕事を続けているのか?」という疑問ですんでいるので、現在のハウスキーピングの仕事はもう少し続けるだろうと思う。

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日本で出会ったハプニング

 6.10.2023

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

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日本で出会ったハプニング

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1. 横浜の出禁おじさん

 

3月末から2週間半、5年ぶりの日本を、中高生の子ども二人と一緒に家族四人で旅行した。

 

大阪・奈良、金沢・富山、東京・横浜、岐阜・愛知、そして大阪とぐるっと回ってケアンズに戻ったのだが、その濃密な時間の中いくつか面白い体験をした。

 

まずは横浜で出会ったおじさんについて書きたい。

 

私たち家族は東京から岐阜へ移動する途中、横浜に住む友人を訪ねた。

友人カップルはお酒を出すたこ焼き屋さんをやっており、私たちの到着時間に合わせ、いつもよりも早く店を開けて待ってくれていた。

 

「久しぶりだねえ」

「この川沿いの場所は落ち着くなあ」

などと談笑し、美味しいたこ焼きを頬張っているところに、自転車でふらふらとやってきた一人のおじさん。

 

「生ビール一杯いいかい?」

と注文すると、当たり前のように私たちに話しかけてきた。

 

はじめは横浜のこの辺りの話。

 

わたしは『地元の人とふれあえるなんて珍しい』と思って一生懸命に耳を傾けていたのだが、「戦時中はね、私の両親はね、兄弟はね」などと、だんだんおじさんの自分語りが強くなってきた。

横浜という土地柄なのか、昔は家族で海外にいたなんて話になったから、

「私たちも海外からですよ」

と伝えてみるも私の言葉への反応はなく、自分語りが止まらない。

はじめはみんなで聞いていたと思うが、気づいたら私一人が相手をしている状況。

 

「兄さん、姉さんはそれぞれ違う国で生まれて、自分の両親はどんな仕事をしていたのか、いまだにわからないんだ(ニヤリ)」

という話になってくると、いよいよやばいかな?

これは、解放してもらえないかもしれないぞと不安になった頃に、友人が「勘弁してください」と、割り込んでくれた。

 

聞くと、近所で有名な出禁おじさんだったらしい。

いろんなお店で嘘なのか本当なのかわからない話のワンマンショーを繰り広げて、拒否されてきたそうだ。

そうか、私は真剣に話を聞いていたから嬉しかったのだろうか。

とても生き生きと話していた姿が印象的だった。

 

珍しい人に会って面白かったけれども、友人との再会を喜ぶ時間がその分ぐっと短くなってしまったのは、やはり残念だったと言うしかない。

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2. カプセルホテル

 

名古屋では、大学時代の友人達と会う約束をしていた。

 

岐阜の小さな大学に通っていた私たちは、仲良し6人組。

関東、中国地方、そして東海地方と普段はバラバラに散らばっている彼女達が、私の一時帰国をきっかけに集まってくれた。

 

6人もいると、それぞれのライフステージが異なったり、単純に予定がつかなかったりして、これまで全員が一度に集まるのは難しかった。

私も(当時お金がなくて)結婚式に駆けつけられなかったり、また、高山や香港旅行なども参加できなかった。

 

前回、みんなで集まったのはいつだっただろうか?

「別れるときは、また明日会えるような感じで、いつもサラッとさよならしてるよね」

なんて話していたのも、ずいぶん昔だ。

誰かが欠けてしまうのはしょうがないこと、今、集まれたことを喜ぼう。

そんな感覚だったと思う。

 

しかし今回は、念願の6人全員で会えることになった。

そして自宅が遠いチームは、名古屋で宿を取ることにした。

 

いいところがあると聞いたよ、と名古屋に住む友人が紹介してくれたのは「いろいろ付いたカプセルホテル」。

 

無料の「大浴場」「ソフトドリンク」「夜の時間はアルコール」「ご飯とお味噌汁」などなど、何も持ってこなくても様々なものが用意してあるタイプの宿だった。

 

カプセルホテルは、日本独自の珍しい形態の宿泊施設であるにもかかわらず、私たちの誰も泊まったことがなかったし、紹介してくれた彼女も然りだった。

 

 

「面白そう!」

ってことで3人分予約したのだが、当日、チェックインをして初めて知った事実。

カプセルのある眠る場所では、喋ってはいけなかったのだ!

 

他の利用客が24時間いつ眠っているかわからない場所です。

お静かにお願いいたします!

 

しかもカプセルを見たあとに「閉所恐怖症気味」なのよと告白しあう友人と私。(カプセルの中に入ってみると、案外大丈夫でした)

冷静になればなるほど、なんで予約した? ということに……。

 

「いい宿はないか」と探してくれた名古屋の友人は、自営業で各地を飛び回る生活をしている。そんな彼女に対して、便利だよと紹介してくれたのではないかと思っている。

 

予約の段階では、私も含め皆がバタバタしており

「宿が取れた? よかった、よかった、一安心」

という感じだった。しょうがなかったのだ。

 

居場所を求め、ドリンクや軽食のあるフロアに移動するも、お通夜なのか? と思うような静けさ。館内着を着てお目当てのドリンクなどを片手に持ち、うろうろ単独で行動する利用客。その中に3人グループの我ら。奥にある喫煙ルームからはタバコの匂いがうっすら漂う。

基本的に一人で利用するお客さんが圧倒的に多いため、賑やかなグループ客は敬遠されるようだった。蚊の鳴くような声で私たちは話す。

ロッカールームと大浴場は普通に話せる場所だったが、長居をする場所ではないよね。

 

尽きぬ話をするために集まっているのに、それを禁止された私たちは、一人旅以外でのカプセルルーム利用はないなと反省をし、翌日に予定していた「大人の遠足(ノリタケの森とプラネタリウム)」に期待を膨らませたのであった。

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3. お土産

日本の旅の締めといえば、なんといっても荷物!

 

段ボール箱につめた衣類や本、食品などを、事前に夫の実家から空港の郵便局に送りつけ、飛行機に乗せるというのは、毎回の最重要ミッションである。

 

子ども達が小さかった頃はそこにおもちゃも加わり、合計10箱なんてこともあった。

 

今回も同じように、まずは段ボール箱5箱を用意し郵便局のサイトを一応確認すると、なんと空港の支店が消えていた。

 

今まで使ったことはなかったが、存在は知っていた民間の荷物受け取りサービスカウンター。

こちらは開いていたので、その住所を指定することができた。一安心。受け取りも無料で行えたし、最後、空港で買い足したお土産を入れるための余分な段ボール箱を購入することもできた。

 

よし、次は買い物だ! と勇んだところ「店」が無い!!

 

5年前にはあった目の前のコンビニ、お土産物屋さん、書店、100均ショップや各種専門店。

 

パンデミック期間中のあれこれで、

 

なんと、なんと、

 

ほとんどのお店が閉店していた。

 

新幹線の売店で、道中の荷物になるからとお土産物を躊躇するのではなかった。

荷物受け取りカウンターでは、梱包用テープも箱とセットになって売られていたのは、100均ショップがなくなったからか?

 

かろうじて見つけられたのは、工事中のエリアの間にコンビニと薬局ひとつずつ。

薬局にはお土産物がひっそりと少量、置かれていた。

空港でお土産物を買えばいいと油断していた私は、薬局でようやく光を見た。

4. 最後の最後

よし、荷物は準備OK。

預けるぞ!

 

ジェットスターのカウンターは、、、

どこだ?

 

ない。

 

電光掲示板を見ると、私たちの便はC2だかなんだかの表記。

あれ? 関空も、第2ターミナルができたんだっけ?

格安旅客機はそっち?

 

関空の第2ターミナルへは、無料の専用バスに乗る必要があった。

バス停まではエレベーターを使って地上に降りて少し歩く。

そこへ来たバスに、カートに積んでいた段ボール箱6個とスーツケース二つをおろして載せる。

バスから降りると、またカートを拾って荷物を積み直し、第2ターミナルの中へ。

 

女性「ここにジェットスターのカウンターは無いみたいですね」

 

「……」

 

第2ターミナルのバス停に戻った。長蛇の列。皆、荷物はコンパクト。

 

一つ目のバスには乗れないだろうと諦めていたところ、乗りなさい、荷物も載せなさいと世話を焼いてくれた職員のおじさんの存在があった。

ありがとう。

絶望の淵から救われました。

 

ここでは家族の団結力が試されていると思った。

誰も文句を言わず作業する。

荷物が置けるところに立っていた人には、場所を少し譲っていただく。

 

バスから降りる。

そしてまた、荷物をバスから下ろす。先ほど置いていったとおぼしきカートを拾って載せ直す。エレベーターに乗って第1ターミナルの出発ロビーへ再び戻る。

 

1時間近くロスをしただろうか?

 

その頃にはCカウンターにジェットスターの表記が出て、受付を待つ乗客の列ができていた。

 

しなくてもいい移動だった、ということを知る。

ただ、間に合ったことに安堵した。

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今回の日本旅行では、有意義な時間を過ごすことができた。

降り立ってすぐに食べた日本食に感動し、観光地の外国人旅行客の多さに圧倒されつつも親近感を覚え、ドキドキしながらマスク無しで出歩き、桜の時期にもなんとか間に合った。家族4人がそれぞれ撮影した写真を共有アルバムにし、特急しらさぎにはやっぱり子ども達だけで乗り、ズワイガニを一杯ずつ食べ、ジブリ、秋葉原、推し活、家族、友人。

 

いくつかスパイスの効いた体験もしたが、あとになれば全て思い出。

さて、またケアンズでの日常を過ごしましょうか。

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ケアンズ国際空港にて

 4.10.2023

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

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ケアンズ国際空港にて

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1. 一時帰国

 

ただ今、ケアンズ国際空港の搭乗エリアで、飛行機に乗る時間が来るのを家族で待っている。

今日は子どもたちの一学期の最終日だが、1日前倒しでホリデーを始め、2日遅れで二学期を始めると学校に連絡をした。

オーストラリアではよくある流れの、学校をあまり休まない頑張った予定を組めたと思っている。

 

2020年の一時帰国予定が幻となってしまったため、我が家にとっては約5年ぶりの日本!

ワクワクドキドキ、そしてうっすらと不安。

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前回の帰国時は娘が小三、息子は中一だった。

5年経つと、当然ながら娘は中二で、息子はなんと高三になってしまった。

はっきりと記憶の残る年齢の時期を、ずっとオーストラリアで過ごしてしまったのだなと、少し悩ましく思う。

 

日本の情報はインターネットを通して知ることができるので、そこまで浦島太郎ではないと思うけれど、肌で実感することはできないので「ようやく」という気持ち。そして息子の年齢を考えると、もしかして、この旅行は4人での最後の日本旅行になるかもしれない貴重な時間。

そういう訳で、あまり色々と周遊しない我が家にしては珍しく、今回は奮発して関東と関西の両方に宿をとった。

おじいちゃんおばあちゃんの住む地域は北陸と東海なので、日本のまんなかをぐるっと回る予定だ。

2. 搭乗エリア

 

搭乗手続きを済ませ、手荷物検査、そして出国手続の流れにしたがう。

機械化された出国手続きに驚きながら、すでに一人でも手続きの作業ができるようになった子どもたちの成長を改めて感じた。

 

息子の友達は、飛行機乗り継ぎの国内旅を一人でしたり、別の子はイギリスに留学中なので一人で国際線に乗ったりしている。

 

特急「しらさぎ」を子どもだけで乗れたね!

なんて褒めたりする年齢でもないだろうが、なにげに箱入りな子どもたちなので私の感動の沸点が低いのはご容赦を。

 

出国手続きが終わると進む方向は免税ショップの中にある。

そこを通り抜けると、あとはお土産もの屋さんが三つとカフェが一つしかない待機場所。

以前は巻き寿司のお店もあったような気がするが、あれは主要都市の空港だっただろうか……? 

たまにしか来ない私の記憶はあやしい。

唯一のカフェには、コーヒーや軽食を求める人の列が絶えず、我々もまずはその列に並んだ。

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国際間の移動が再び活発になったとはいえ、閉まったままのお土産物屋さんを見ると、間にパンデミックを挟んでいたことを実感する。

羊の皮のマットやアグブーツ(羊毛で作った暖かい長靴)を販売していたお店には、今まで足を踏み入れることすらなかったけれども、ないのかと思うとわがままなもので、商品が見てみたくなる。

 

子どもたちがまだ幼かった頃は、ここにある本屋さんで絵本や児童書、お絵かき帳などを購入し、機内での時間に備えた。

離着陸時に、耳抜きがうまくできるようキャンディを用意してなめさせたり、搭乗直前まで人気のない場所で走ったり体をうごかして疲れさせ、機内で眠りやすくなるように工夫していたのもはるか昔のこと。

 

今は、皆がそれぞれのスマホやデバイスを駆使して、自分で時間を潰す準備をしている。

ちなみに私はこの通り、エッセイを書いたり、写真を撮ったりしているのである。
 

3. 他国のコイン

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空港へ来たら、いつも決まってすることがある。

それは他国のコインを寄付すること。

 

ホテルでハウスキーピングの仕事をしていた頃、自然と集まってくるのが海外のコインで、その扱いに困っていた。

お金なのできちんとしたいし、でも有効利用の方法がない。

それぞれの国の出身者を探して譲るというのも面倒な作業。

そんなとき、コインの行き先を空港で見つけたのだった。

それは搭乗エリアにある募金箱。

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オーストラリアドルのみならず、各国のお金が普通に入っていた。

日本へ帰るたびに、ここへ入れることにした。

 

今回は5年ぶりの国際旅行のため、行き場に困ったコインがまだ私の手元にあった。

パンデミック直前に、ホテルの仕事自体は辞めているので大した量でもない。

さきほど募金箱に入れてやっと肩の荷が降りた。

 

募金の行き先を見ると「フライングドクター」と書いてあった。

 

病院がそばにないリモートエリアの急病人などを、空のルートを使って運ぶサービスを行なっているものだ。

コイン程度ではたかが知れた額だと思うけれど、ほんの少しでも誰かの役に立っているなら嬉しい。

旅のついでに有益なことをしたという気持ちにもなれておトク。

 

オーストラリアドルが余った旅行客のかたも、旅の締めにちょっとした募金をするのも良いかもしれませんね。

 

さて、そろそろ搭乗時間が近づいてきた。

「気をつけて行ってきてね」

と送り出してくれた、友達や職場のスタッフに良い土産話ができるよう、これから楽しんでまいります!

 

日本の桜がすでに満開だという話は聞いているので、間に合うかどうかは到着してからのお楽しみ。

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裸足

 2.8.2023

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

裸足

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1. Easy Going

 

先日、スーパーに来た女性が「寒いわねえ」と言って買い物をしていた。

真夏のケアンズであるから外は暑く、食品を扱うスーパーの中はそのぶんエアコンが効いている。

我が家の子ども達は寒がりで、夏でも買い物の際は長袖を持参するタイプだ。

彼女もそうなのかと思って何気なく足元を見ると、裸足だった。

申し訳ないが、冷えた床を直に感じるなら寒くても仕方がないだろう。

指摘したいところをグッとこらえた。

 

オーストラリア、特に常夏のケアンズにおいて裸足は文化かもしれない。

 

街の中心部に無料プールがあることもあり、水着や上半身裸などラフな服装で街を歩く人がいるのはごく一般的な光景で、足元も多くの人はサンダルだ。

裸足の人もいる。靴を買うお金がないわけではないと思う。

なぜ?

と問われても専門的な知識は持ち合わせていないが、Easy going(気楽にいこうよ)気質があると言われているこの国なら、全くおかしくはない。

裸足の人、靴を履いている人、サンダルの人が入り乱れる光景は、肩肘を張らなくても生活できる場所の象徴のように見える。

 

裸足なのがそんなに気になるのか? どちらでもいいじゃないか。そんな声も聞こえてきそうだ。

裸足で外を歩く人は、大人も子どもも性別も関係ない。

ためしに「オーストラリア 裸足」で検索してみると、たくさんの記事や画像がヒットして面白い。

多くの日本人が驚き、そして「へぇー」となっている。

 

一方就業時間中は、常時履き物をはいていることが規定されている場合がある。

身の安全を守るためのワークブーツ着用が筆頭に挙げられると思うが、かつて私の職場で「靴を脱いでいた時の事故は、勤務中の保険の対象外になる」と明言されたこともある。

それはホテルでハウスキーピングの仕事に就いていた時で、それほど重いものを運ぶ仕事ではなかったが、靴下はだしでの転倒などを懸念されたのかもしれない。

 

仕事で脱ぐなと言われている履き物であればなおさら、フリータイムになったら脱ぎたくなるのは性だろう。

日本ではどうだろうかと思い返してみた。

ベランダであろうとちょっと外に出る時に、必ず何か履き物を用意するなぁ。

私の記憶している20年前までは、少なくともそうだった。

私の育った家は古い日本家屋で、トイレが家族用玄関の向こう側にあった。

なのでトイレに行くときは必ずサンダルを履いたし、トイレ繋がりで言うと、大学生になって引っ越した一人暮らしのアパートにある狭いトイレですら、私は専用のスリッパを用意していた。

足を汚したくないという意識が、知らず知らずに染み付いていたように思う。

 

スーパーに裸足で買い物に来ても、誰も気にしない寛容なオーストラリアとはいえ、入店を拒否される場所はある。

ドレスコードのある高級レストランなどはまず無理だろうし、安全のためだろう、DIYショップでも弾かれる。

 

どういう経緯だったろうか海へ行ったわけでもないのに、夫が珍しく裸足で車を運転、そのまま降りてDIYショップに入ろうとしたことがある。

そして、入り口に常駐するスタッフに「履き物をはいて出直すよう」入店を断られた。

急いで近くのスーパーに行き、ビーチサンダルを買って事なきを得たが、休日の油断した頭に喝を入れられた瞬間だった。

在豪歴が長くなったと感じた瞬間でもあった。

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2. 子どもの場合

 

お友達の家など、子ども達が遊びに行った先で忘れる筆頭が、履き物だ。

 

水着や水筒、デバイスなどの入ったカバンは忘れないようにいつも注意するが、最後の最後にちょっとだけ遊んでしまって、裸足で車に乗り込んでしまうことがよくあった。

今日は忘れないぞと思っていた日は、今度、別れ際に親同士で話し込んでしまって、気づいたら子どもが裸足に戻っていた時なんかは、さすがにせめられない。

「靴履いた?」は受け入れ側も、お迎えの側も合言葉のようになっている。

 

学校から直接お友達の家に遊びに行った日などは、それを忘れると「明日の学校にはいていく靴がない!」事態が発生する。

そんな時は玄関先に忘れた靴を出しておいてもらって、通学時に寄り道して履き替えた。

親側のやりくりも楽ではありませんよ、ほんと。

 

子ども達にとって裸足で外遊びをすることはごく一般的な感覚で、公園や庭などで初めは履いていたとしても、気付けば脱いでしまっている。

公園などに忘れてしまうとまず見つからないので、高価なものを買い与えないのは生活の知恵であると私は思う。

 

娘の通った幼稚園でも、あらためて写真を見返すと裸足で遊んでいた。

しかしこれが小学校に入ると事態は一変する。

朝9時ごろから3時ごろまで、ずっと靴を履くように指導されるのだ。

一番若い子はまだ4歳半。

学年が低いうちは、教室の椅子に座るより地べたに座って活動する時間が長いこともあり、靴を脱ぎたくて癇癪を起こしてしまう子もいると聞く。

入学準備学年というのは、こういったルールに少しずつ慣れていく期間でもあるのだなとしみじみ思う。

 

私だって仕事の時は靴を履いているが、帰宅の車に乗り込むや否や常備しているサンダルに履き替えてしまう。

裸足とまではいかないが、仕事が終わったという解放感を足からも味わえて良い。

 

そういえば私が小学生の頃は、暖かい季節になると「はだし運動」の期間が設けられ、校内や砂利の敷き詰められた中庭でも裸足で過ごすことができた。

砂利の上を歩く時は足ツボマット並みに痛かったけれど、楽しかった記憶がある。

 

裸足の解放感は時に、大地と繋がっている「アーシング」も感じることができるだろう。

感覚が敏感な子どもの頃に裸足で過ごす恩恵は、日本の学校教育でも認知されるものだったのだな。

 

ただし、我が家では街中を歩く時、子どもが裸足になることは禁止してきた。

割れたお酒の瓶の破片など、危険なものが落ちていることがよくあるからだ。

ちょっと過保護に思えなくもないが、危機意識を持つきっかけにもなるだろうと信じている。

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3. 裸足じゃないの?

サンダルを履いていたために、嫌味を言われたことが一度だけある。

 

それは某プレイグループ(未就学児向けの遊びグループ)での出来事だった。

月曜から金曜まで日替わりで異なったプレイグループが使用している施設があり、普段私はそこの日本人プレイグループに参加していた。

 

あるとき知り合った女性が別の曜日のリーダーをしていて、遊びに来てよと誘ってもらった。

自然派を謳う教育方針に共感する人たちのグループで、遊んでいいのは木など自然素材のおもちゃだけ。

はじめにパン生地をみんなでこねて、ランチに焼けたパンを食べるというのが楽しそうなグループだった。

私は自宅でパンを焼いていたので親しみも感じた。

 

遊びに行くと、プラスチックのおもちゃがある場所を知っている娘はそこを開けたがり、私はそれを阻止して頑張って外遊びに誘うはめになった。

 

そうこうしていたら「ここは誰でも来ていいグループなの?」と、明らかに私を意識した様子で質問している女性の声がした。

 

その場では親も子どもも裸足になって過ごすのが決まりだったようで、それを知らなかった私はずっとサンダルを履いたままだったのだ。

裸足になり自然と繋がることを拒否している人間が、そのグループに紛れ込んだように見えたのかもしれなかった。

 

私の興味で参加したけれど、我が家には厳しいなということは早々に気づいていたので、彼女の質問は良いきっかけになり、ランチになる前にお暇することにした。

このグループの共感する教育方針の書籍は以前から持っていたが、実生活に落とし込むことはできずにいた。

私が裸足にならなかったことで拒否反応を示された唯一の経験は、いわゆるおもちゃに囲まれてテレビを見せる暮らしをしていた我が家とは、方向性が少し違うグループだったのかもしれないという再認識の経験にもなった。

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4. 足の皮の厚さ

日本へ一時帰国して、友人のお子さんと一緒に遊ぶ機会に恵まれると

「ほんとに裸足になるんだねえ」

という話になった。その場には、靴のまま遊具で遊ぶ友人の子2人、裸足になって遊ぶ我が子2人の面白い対比だった。そのうちみんな裸足になって遊んでいた気がする。

 

ケアンズの公園で遊んでいるお子さんが、履き物のまま、特に靴下とスニーカーのフル装備だったりすると「旅行客かな?」 とまず思ってしまう。

最近は我が子の年齢が上がり公園に行く機会も激減したし、パンデミックの制限でしばらく旅行者を見かけることもなかった。

これからまた、現地の子ども達と旅の子ども達が交差する機会が増えるのかと思うとほっこりした気持ちになる。 

 

などとまあ、しかし偉そうに言っていますが、こちらの生粋の(?)裸足族のみなさんは、暑い道路を歩けたり少々の障害物も平気な様子なので、私たちはそこまでの境地には至っていないことを白状しておきます。

 

実は足の皮の厚さが、これからの生存競争を勝ち残る要因の一つだったりして。

だとしたら、庭の人工芝の上を「熱い! あつい!」と飛び上がって歩く私はまだまだ修行が足りませんね。

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実感する師走

 12.15.2022

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

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実感する師走

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1. 二つ目の仕事

 

一年前の今頃は、時間が余っていた。

 

当時新しく始めた仕事は、ケアンズで医療を受けるために遠隔地からやってきた人やその家族のための宿泊施設の清掃。

ホテルのお部屋を6年半掃除してきた経験から、清掃の仕事はいつも人手が足りないイメージをもっていたが、この職場では3ー4時間も働けば1日の仕事が終わる。

仲間の清掃スタッフも、基本的に3時間で帰ってしまう。

もちろん仕事量が多い日もあるが、翌日に持ち越したりと工夫して短時間で終える。

 

オーストラリアでの1日の最低労働時間は、3時間と決まっている。

確かに面接時に「3時間は確保する」と言われたが聞き流していた。

集中して体を動かす仕事のため、時間が短くても疲労するので、そういった配慮があるのかもしれない(皆の年齢は私よりも高い)。

しかしランチタイムの街中に開放されると、稼ぎに行ったはずが出費のほうに傾いてしまうので困る。

 

そんなこんなで今年の前半は、平日の午前中は不可という条件で二つ目の仕事探しに奔走し、最終的にスーパーの青果部門でのお仕事を得た。

 

こちらの仕事では、一度に6ー7時間というまとまった時間がもらえる。

勤務日は週2、3日で、清掃の仕事もある日は合計10時間勤務を超えることになるが、週末があったりどちらかだけだったりとバラエティがあった。

 

この仕事の組み合わせだと、働いていてもまだ空いている時間に友人とランチを食べに行く予定を立てられたり、髪を切りに行く都合もつけやすいという利点があった。収入が増えたので、こういった出費も安心してできる。

 

やっと落ち着いたと思った。

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2. 加速

 

安定を感じていた頃、スーパーの部門責任者が変わった。

オーストラリアではよくあることだが、仕事が理由ではない引っ越しや、単純にキャリアを変えたくなったという理由で退職する人は多い。

特に管理者サイドに多い傾向があると感じている。

ヒラのスタッフの場合、時々同じ職場に舞い戻る人もいる。

そしてまた辞めたり戻ったりを繰り返すなんて話も聞くが、それはさすがに稀か……。

 

そのあたりから人手が少しだけ手薄になり、私の勤務日数が週3、4日に増えた。

急な病欠の人が出れば「今日働けないか?」という問い合わせや「出勤時間を前倒ししてくれないか?」という連絡も増えた。

朝、目一杯働いている日が多いので、地味にきつい。

しかし、その後出勤して仕事量に困るのは自分なので、また悩ましいところなのである。

最低賃金が世界でもトップクラスのオーストラリアで、雇われ仕事があるだけよいのですがね。

 

 

話は変わって、ここのエッセイを読んでいただけたからなのか、今年の初めに「書くお仕事をしませんか?」というお誘いを知人から受けた。

対象者を探してから話が進むお仕事で、ずっと探していた候補者がようやく見つかったのが奇しくもこの時期。

応募書類を作成したり、そのためのインタビューのスケジュールを組むなど、それまでの空いた時間はMacBookの前で思考をすることが増えた。

 

実は、書くお仕事というのはぼんやりとだが「いいな」と思っていた。

20年前に来豪してから自分のウェブサイトを作ったり、日記サイトやブログなどに文章を書きなぐってきたこともあり、書いたり表現することは好きだ。

 

中学生の頃、将来のなりたい職業を発表する授業があって、編集者を選んだことがある。

子どもの頃は、アイドル雑誌やバンド系音楽雑誌を読むのが大好きで、特に音楽雑誌では、通常のアーティスト記事のほかに編集者の発言もよく載っていたのが楽しそうに見えた。

しかし「編集者」を選んではみたものの「競争率が高い」という一文を見て、発表には使ったが実際に目指すのは辞めた。

基本的にそういう競争は、好きではなかった。

 

なので、書くお仕事に誘っていただけた時は嬉しく、また、その内容も楽しいものであったため取り組みたいと思った。

 

もちろん、昨年このStay Saltyにエッセイを書きませんかと誘っていただいた時も、大変嬉しかったし同時に緊張をした。

なにぶん、ほかの方の領域に私の文章が載ることなど、これまでほとんどなかったし、デザインをお仕事にされている方に、私が撮った写真を渡すのも勇気が必要だった。

 

それでも掃除や品出しで肉体を使い、書くことで頭を使うというのは、努力の方向が分散していて面白いと思っている。

3. そして、グリーティングカード

もう一つ書くと、私は地元の週末マーケットで、ブースを持ってみたいと思っていた。

そこで販売するのは、子どもたちが描いた絵を印刷した、お手製のグリーティングカード。

「Happy birthday」や 「Merry Christmas」「Thank you」などと書かれていたり、また文字のないオールマイティーなものを中心に考えている。

種類が少ないかなと思ったので、これまで私が撮ってきた写真でも作ることにした。

カードの活動は、2年前からできたらいいなと考えていて、でも実行できなかったことだった。

それがさまざまな勇気の後押しをいただき、実際に行動に移せたのは、やはり忙しくなったこの時期。

 

週末マーケットでの販売ブース予約はなかなか取れず、手元には出番を待つカードの種類が増えるばかりだったけれど、ついに今月半ばに開催される『クリスマス・クラフトマーケット』に出店が決まった。

先月も行われたこのクラフトマーケットを視察した際、週末マーケットにいる人々より素人感が強いブースも少なくないと感じた。

プロのようなディスプレイは無理だと不安だったので、敷居が低くなった分、趣味の一環であるこの活動を単純にたのしめる気がしている。

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現在は忙しさの佳境で、今月のエッセイもそのことを書くしかない状態なのだけれど、私がこの状態でいられるのはすべて家族のおかげ。

 

子どもたちはそれなりに自分のことができるようになり、多少の家事も頼める。

とりわけ感謝をしているのは夫で、フルタイムの安定した仕事を続けながら、毎晩美味しい食事を作ってくれている。

私の体調も心配してくれる。

 

私が言う「忙しい」には、肉体労働からの体力を回復させるための時間も含まれているので、なおさら時間がないのだけれど、そういったことに罪悪感を感じなくても「忙しい」に集中できる現在が有難いなと思う。

 

ちょっとした無理がきくのも今のうちという意識があるので、それを楽しんでおきたい。

 

そして、

 

年が明けたら私のホリデーだ!

 

HAVE A WONDERFUL FESTIVE SEASON!!

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マンゴーの季節

 11.7.2022

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

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マンゴーの季節

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1. 初めて食べる

 

有名ギフトショップによる日本への宅配マンゴーの予約販売が、今年も始まった。

 

この宣伝文句を見かけると

「ああ、もうお歳暮のシーズンか」

としみじみ思う。

 

時を同じくして、スーパーにも早稲の品種が並びはじめた。

そして近所の大きなマンゴーの木には、これでもかというほど青い実が鈴なりにぶらさがっているので、野生の小動物たちは、熟れるのを今か今かと待っていることだろう。

私がオーストラリアに越してきた当時、まだ日本では、マンゴーもアボカドも一般的に出回るような食品ではなかった。

そのため、こちらの八百屋さんで見かけたとき、恐る恐る手に取ってみるという感じだった。

それこそアボカドをフルーツだと思い買ってみて

「甘くない」

と、食べ方がわからず途方に暮れた経験もある。

当時はまだ、納豆や巻き寿司に入れるとおいしい、ということを知らなかったのだ。もったいなかったなあと、今になっては思うけど。

マンゴーに関しては、幼い頃にドライマンゴーを食べたことがあった。

家族のフィリピン土産で、肉厚な半生タイプ。表面には白い粉が吹いており、ハズレにあたると筋ばかりで悔しかった思い出がある。

私はその甘酸っぱいドライマンゴーが好きでよく食べたけれど、生のマンゴーを食べる機会は日本ではついぞ訪れなかった。

 

こちらで初めて食べた時の記憶はもうなくて、でも格子状に切り込みを入れて、プリンっとひっくり返して食べたのは間違いないと思う。

美味しかったと思う。

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2. 自宅にあるマンゴーの木

 

イプスウィッチの家に住んでいた頃、裏庭にマンゴーの木があった。

金婚式を迎えたご夫婦が住むお隣の木は、彼らの歴史を象徴するかのように巨大で見事だった。

並んで、我が家のものは植えてからまだそんなに経っていなかったようで、私の背丈ほどの小ぶりな木に、実が二、三個つく程度だった。

しかしとても美味しそうに生っていたので、ポッサムやコウモリに食べられないように、熟すまでビニール袋をかぶせてみたことがある。

そのままおいしく熟した実もあったし、袋ごとかじられた実もあったはず。

美味しいものへの執念があるのは、人間だけじゃないんだなと思ったと同時に、硬いプラ容器を使って入れば食べられなかったはず、と悔しくなった。

私の方が執念がすごい。

ケアンズでは、メゾネットタイプの家に住んでいたときに、裏庭のフェンスの向こう側に大きな木があった。

我が家の屋根を覆うように茂っていたので、夜寝ていると

 

ゴン、ゴンっ

 

とマンゴーが落下して屋根に当たる音が聞こえる時期があった。

翌朝裏庭に出ると、落ちた時の衝撃で潰れているものからきれいな形をそのまま保っているものまで、さまざまな状態のマンゴーが転がっていた。

 

私にとっては宝の山。

これは幸いとばかりに、状態の良いものを厳選して収穫した。

ダメなものはフェンスの向こう側へ投げた。

もともと向こう側に木があるのだし、市が管理している雨が降ると川になるシーズナルクリークで問題はないので、念のため。

 

食べきれない量を収穫した時は、皮をむいてから冷凍する。

冷凍したものはそのまま食べるというより、マンゴープリンなどのスイーツを作るときに重宝するので便利。スムージーに入れる人もいるだろうけど、一瞬で無くなるのがもったいないという気持ちになり、スイーツにしてしまう。

まあ、スイーツにしたところで、瞬殺なのは変わらないか……

 

しかし、スイーツにしてもしなくても、我が家でマンゴーを食べるのは私だけ。

子どもたちはもともと興味がなかったところに、学校でマンゴーの木の下の掃除を手伝わされて嫌いになってしまった。つぶれて、発酵した時の匂いが強烈すぎたらしい。

 

ケアンズに住んでいれば、いたるところにマンゴーの木があるので、このような経験から嫌いになってしまった子が一定数いるのではないか? と私はにらんでいる。

マンゴーは、独特な香りを放つ開花の時期も、実がなる時期も存在感が強い。

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3. 日本にて

ところで屋根にマンゴーが落ちる家に住んでいた頃、日本へ一時帰国した際にマンゴー売りのお兄さんに出会った。2011年ごろだと思う。

近視の手術をして病院を出た直後に、路上で声をかけられたのだ。

 

「国産の高級マンゴーを売り切らないと帰れない。買ってください」

などと言いながら近寄ってきた。商品保証をすると言われたような気もする。

要は押し売りなんだけど、扱っているフルーツがマンゴーだというのに心ひかれた。しかも日本産は食べたことがなかった。

 

ひとつ三千円ほどしたと思う。

 

「オーストラリアの自宅には、マンゴーの木があるんですけどねえ」

と言いながらも、二つ買ってしまった。

 

高額な手術をしたあとというのが、普段とは違う状況だった。

おそらく売り手はそれを狙っていたんだろうと思う。

 

しかし重ねて言うが、扱っていたのが日本産マンゴーだったから買ってしまった。

義両親家での夕食後のおやつに、ちょうどよさそうだった。

幸運なことにとても美味しかったし、ちゃんとした商品でよかったと胸を撫で下ろした。

(商品自体に罪はないけれど、今売りに来たなら絶対に買わない)

現在の自宅には、残念ながらマンゴーの木はない。

お店で購入するか、誰かからのお裾分けをもらえたらラッキーという感じだ。

特に誰かのお家でとれたマンゴーは、地産地消というと大袈裟かもしれないけれど、地域のパワーが宿るような気がする。

 

そろそろまた、マンゴースイーツが食べたいなあ。

今度は何を作ろうか?

そんなことを考えるのも、楽しいひと時だなと思う。

日本行きのチケット

 10.7.2022

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

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日本行きのチケット

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1. 幻の2020年9月

 

子どもたちが学校に通いはじめてから、日本へ一時帰国するのは決まってスクールホリデーのシーズンだった。

 

3~4月のイースターホリデー(秋休み)、6~7月の冬休み。

9~10月の春休み、もしくは12~1月の夏休みのうちのどれか。

 

そのなかでもクリスマスシーズンは、私たち親の仕事の都合でむずかしく、また、寒いのが嫌だという理由もあって、常に却下されてきた。

「そのうちに!」と思っているのだが、来豪以来、日本で年末年始を過ごしたことはない。

 

このシーズンにしか食べられない故郷の味「かぶらずし」を食べられるのは、いったいいつなんだ? 

 

そんなことを思いながら、暑いケアンズの夏に溶けている。

 

日本のお花見シーズンにも重なるイースターホリデーは、いつも人気で、航空券の安売りはなかなかお目にかからない。ケアンズにいるオーストラリア人にも

「サクラ!」

「ハナミ!」

と言わせる時期のため、セールに出すまでもないのだろう。

 

我が家は安い時しか購入しないので、選べる日付は、いつもオーストラリアの冬休みか春休みばかりだった。

 

2020年1月末にセールが出た時も、購入したのは、春休みである9月のチケット。

 

しかも今までで一番お値打ちな金額で、家族4人で約1400AUD。一人当たり350ドルで日本を往復する計算になる。

「よい買い物ができた。帰りは100キロの荷物もつけたし~」と浮かれていたのもごくわずかのあいだ。

 

みなさまもご存知の通りの、パンデミック宣言。

国際線の運行は軒並み運休となり、2年ぶりの一時帰国は泡と消えた。

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2. バウチャー

 

約1400ドル分のチケットは、航空会社のバウチャーになっていた。

使用期限は一年だったので、なんとか使いたい。

もったいない。

 

日本へ帰るはずだった時期、代わりに近場の旅行を計画した。

そういえば、航空会社のウェブサイトでは、ホテルやレンタカーの手配もできる。

だったら、ケアンズ近郊にある高原、テーブルランドエリアの宿を予約する時に、バウチャーが使えるかもしれない!

 

一縷の望みをかけてコンピュータに向かったが、航空券とセットにしてくださいという案内が出て撃沈。

宿は、普通に予約して、普通に支払った。

 

同じように、海外に行けなくなった人々が、近場の国内旅行に切り替えて発散しているようだった。それまではすいていたキャンプ場も、パンデミック以降、ホリデーシーズンは満室で、予約が取りづらくなったと聞いた。

 

私たちが利用したのもキャンプ場のキャビンで、1LDKタイプだった。

美しい湖畔を眺めながらも、

「本当なら日本にいて、家族や友人と会っているはずだったのに」

という思いが頭をかすめたりした。

 

それでもまだまだ不安な時期に、カモノハシを探したり、湖の周りを散策して、家族でリフレッシュできたのでそれはよかった。

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3. 2021年6月のブリスベン

ステイホームが推奨されたり、ロックダウンが何度かおこなわれるなか、バウチャーの使用期限は迫ってくる。

 

依然として日本への国際線は運休を続けており、そちらに使うことはできない。

 

そもそも出国するためには、国の許可が必要な時期。

「親族が危篤」ではダメで「死亡が確認されて、はじめて許可が降りる」という話を、多方面から聞かされていた。

 

やはり国内旅行か。

 

そのうち「一度はスターバックスに行ってみたい」と娘が言いだした。

ケアンズにスタバはないので、ブリスベンへ行く必要がある。

 

そうか、ブリスベンならユニクロやH&Mもあるぞ!

 

子どもたちは洋服を買うのに中途半端な年齢で、試着の必要がある。

日本にいる間に、まとめて洋服を買う習慣になっている我が家は、そのチャンスを逃してしまい、ちょっと困っていた。

 

問題なのは、ブリスベンはこの時期、スクールホリデーのたびロックダウンになっていたことだ。

 

つまり、学校のある時期に旅行へ行くしかない。

ただし、息子は学校を休みたくない人間。

 

その結果、土曜の朝にケアンズを発って、日曜の早朝にブリスベンのホテルを出るという強行スケジュールが組み上がった。

日曜の真夜中にケアンズに戻るという選択肢もあったけれど、さすがにそれは現実的ではないという判断で。

 

猫を飼いはじめたこともあり、夫が留守番を申し出てくれたので、私と子どもの3人分を予約した。

 

バウチャーをなるべく使い切ろうと、飛行機の座席指定を少しグレードアップしたり、五つ星ホテルを予約して、なんとか1360ドルまで積み上げた。

 

40ドルほどまだ残っていたが、さすがにもうあきらめた。

息子用の追加ベッド台とほぼ同額だったが、それだけは現地払いと表示されたので、募金の気持ちであきらめた。

 

一泊半日の短い旅行のなか、スタバ、ユニクロ、H&M、そしてラーメン屋さんという、日本に帰っていたら通ったであろうお店をハシゴすることができた。

締めはクリスピークリームドーナッツを空港で受け取ったことで、こればかりは田舎に住むオージーっぽい行動だなと思った。

 

ミッション・コンプリート。

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4. 期待の2023年4月

募金だとあきらめたバウチャーの残りは、知らないうちに使用期限が延長されていた。

 

それに気づいたのは、つい最近のことである。

今年に入ってから、ケアンズ・日本間の直行便が復活し、いよいよ我が家も日本へ一時帰国する計画を立てたのだ。

来年の4月のイースターホリデー。

その2週間滞在できるチケットを、確保することができた。

現在の最低価格の日付で選んだのだが、支払った金額は、前回バウチャーになった分の3倍ほどにふくらんでいた。

それでも、日本の桜のシーズンに、良い日付で予約できたのはラッキーだったと思う。

 

実は、日本のマスク人口の高さや、入国時におけるワクチン証明書もしくはPCR検査の結果を求められることなど、帰国するにはまだ敷居が高いと思っていた。

 

それでもチケットを買う気になったのは、日本に住む家族から、遠い親戚が若くしてお亡くなりになったという話を聞いたのがきっかけだ。

 

「会えるうちに会っておかないと」

「チャンスのあるうちに帰国しておかないと」

と強く思った。

 

実際に帰国する半年後は、日本側の入国の条件がゆるい方向に変わっているかもしれないという期待を、ほのかに持っている。

 

そうならなかったとしても、5年ぶりに家族と会えるのは単純に嬉しい。

実家にいるあいだに、世界一美しいと称されるスタバにも足を運べるといいな、なんて思ったりしている。

夫側の実家にいるときは、やはり金華山だろうか。

薄墨桜は、まだ散っていないだろうか。

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バナナを買う

 9.5.2022

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

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バナナを買う

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1. オーストラリアの無人販売所

 

野菜の無人販売所。

 

日本人だったら

「あーあ、見たことあるよ」

「畑の片隅に小屋を建てて売ってるとこでしょ?」

って、自分の記憶をたどる人が多いのではないかと思う。そして、

「日本は平和で真面目な人種だからできるけど、他の国にはないでしょ?」

なんて思ってしまうことも。

 

日本には、あらゆる自動販売機がさまざまな場所に設置されている。

そして、売上を立てることができるのは、壊そうとする人がいないからだ、なんて聞く。

オーストラリアでは、屋外で自動販売機を見かけることがほぼ無いので、『そんなものかな?』と思っていた。

『無人販売所も無いよね』とも。

 

いつの頃からだろうか、私がほぼ毎日通るハイウェイの脇に、トレーラいっぱいのバナナが置かれるようになった。

 

そこは、ハイウェイを運転する人が、大型車でも停まって休憩できるような少し広めの場所になっている。

ケアンズの街中から、北へ向かって進む側にあり、この先の主要な町の名前が記された大型の看板も立っている。

 

11年前に私たちが引っ越してきた頃は、そこに小さなフルーツの有人販売所があった。

バナナ、マンゴー、パイナップルなど南国のフルーツが並ぶ。

ケアンズ近郊ではフルーツ農園を見かけることが多く、その販売所はそういった農家のメインビジネスなのか、

お小遣い稼ぎなのか、とにかく、直販っぽい感じがいいなあと思っていた。

 

しかしそのうちフルーツの販売所は消え、気づいたら、バナナがいっぱい詰まったトレーラが無人でぽつんと置かれるようになっていた。

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2. 無人で大丈夫なのか?

 

比較的治安が良いとはいえ、軽犯罪自体は少ないとは言い難く、近年子どもたちによるゲーム感覚の車の窃盗・破壊が深刻な社会問題になっているケアンズ。

ハイウェイ脇にも、乗り捨てられた車を見ない日がないような状態である。

 

そんな中で、無人のバナナ販売? 

悪さをする人はいないのか?

 

無人販売が長く続いている理由について、私の勝手な主観になるが、少し考えてみたのでおつきあい願いたい。

 

まず、基本的に車でなければ来られない場所であるということ。

 

ハイウェイと言っても日本の高速道路と違い、一般の道路と縦横無尽に繋がっている。

それでも人口が密集しているエリアから少し離れており、頑張って自転車で来られるかな? という感じだ。

 

ハイウェイとは反対の側に、歩行者・自転車専用道路が通っているが、太陽の日差しがきついことが多いので、体力的にどうだろうか。

ちなみにハイウェイの時速は80km/h。

 

そして、ここはハイウェイの両側からも見晴らしの良い、開けた場所である。

バナナを購入する人は、基本的に走っている車に背を向けた状態になるので、誰に見られているか、わからない。

 

それから、バナナの入ったトレーラは夜になると回収される。

朝、通勤通学の時間帯には、すでにそこにある。

しかし、夜少し遅い時間に通ると、トレーラは回収されてなくなっていた。

夕方にはトレーラ内のバナナが見えなくなるくらい売れていることがあるので、補充と料金回収を毎日行なっているようだ。

 

また、この場所にはオーストラリア名物のビーフパイを売る移動車が、いつも停まっている。

単純に休憩目的の大型車なども停まるが、パイを購入する人も停まる。

それよりなにより、このバナナ販売所、とっても人気だ。

 

何台も車が止まっていて、トレーラに向かって行列をなしている光景は一般的。

パンデミック禍でも、行列は消えなかった。

 

これだけ人気なら人目があるので、お金を入れずにバナナを持っていく人は少ないだろう。

あるSNSで「私は先にお金を入れてからバナナを選んだのに、支払いをしてないと後ろの人に言われて嫌だった」という投稿を見た。

誤解はあっても、とりあえずお互いに監視の目が働いているのだなと思った。

 

最後に、売っているのが重くて安いバナナだというのも、無人販売にできる条件なのかもしれない。

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3. ここでバナナを購入してみた

さて、我が子どもたちはバナナを食べないため、私はいつも素通りするだけだったが、先日勇気を出して(!)車を停めた。

 

季節が冬のケアンズでは、大手スーパーでもバナナの価格が現在$4.50/kg前後。

しかし、この販売所では$2.00/kgと表記されていた。

シーズンになったら、もっと安かったような気がする。

 

私は、午後の仕事として、スーパーの青果コーナーで品出しをしているので、普段からバナナがよく売れるのを体感している。

金額がその半分以下だったら、合流が面倒なハイウェイ脇でも、車を停めて買いたいと思うだろう。

 

私がここを訪れたのは、子どもたちを学校に送った帰りで、朝9時にならない時間帯。

反対側はまだ渋滞しているが、私の進行方向の車はまばらだった。

それが「停まってみようかな」と思う後押しになった。

 

ただ、ほんの気まぐれで立ち寄ったので、現金の持ち合わせが車の小銭しかない。

 

2ドルを握りしめてトレーラに向かったら、その手前で、パイナップルを売るおじさんも見てしまった。

奥には、いつものビーフパイを売るおじさんが座っている。

 

パイ屋さんではカードが使えるのを知っているけど、いやいや、今日はフルーツだけなんだ。

わざわざ停まったからと、欲が出そうになるのを抑える。

 

1ドル分のバナナ2本と、格安1ドルのパイナップルを入手した。

そして、気さくなパイナップルのおじさんの写真も!

 

ここでは、バレンタインや母の日などのシーズンにお花を売る人もいて、ローカルのちょっとした憩いの場所になっている。

最近は、観光客のかたも再び見かけるようになってきたので、このような場所で、ローカル気分でフルーツを買うのも楽しいだろうと思う。

在豪21年目の文化理解

7.11.2022

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

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在豪21年目の文化理解

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1. 非営利団体での仕事

 

このStay Saltyではエッセイストという肩書きを使用しているが、私が現実に収入を得ている仕事は、清掃と店員である。

私たちは21年前に「文化交流」を名目として夫婦で来豪し、そのまま住み着いてしまったのだが、現在でも私の二つの仕事両方で、いまだ、文化交流というか、少なくとも私の視点からの文化理解を継続しているように感じている。

店員の仕事の方は、オーストラリアの他に、インドネシア、韓国、ミャンマー、フィリピンなどさまざまな国からやってきたスタッフと共に働いており、現在のオーストラリアを象徴しているように思う。

もう一方の清掃の仕事については、少し歴史に踏み込むような文化交流かもしれない。

平日の午前中、非営利団体の宿泊施設にて、キッチンなどの共有スペースと各個室をきれいにするのが、私の清掃の仕事だ。

この施設は、遠方に住み、医療にかかる必要のある本人やその家族が利用するという特徴を持つ。料金も安く、政府のサポートと組み合わせると、無料になる利用者もいるそうだ。

ケアンズという場所柄、トレス海峡の島々、北端や内陸、果ては近隣の国からの利用者も過去にはあったと聞く。

 

この仕事は昨年9月に採用され、オンライントレーニングを受講した。

そこで大きく時間が割かれていたのは、人権を蹂躙する違法行為に加担しない、それに気づくということに始まり、オーストラリア先住民に対する知識と理解などであった。

オーストラリアでは、国内に住んでいた「アボリジナル」、北端からニューギニアの間に位置する島々の「トレス海峡諸島民」の二種類のルーツを持つ人々が、先住民と呼ばれている。それぞれに象徴する旗も存在する。

 

以前住んでいたイプスウィッチ(クイーンズランド州・州都ブリスベンの西隣に位置する市)では、西洋人の文化であるワインの仕事に関わっていたためか、先住民と呼ばれる人々との縁はなく、せいぜいブリスベンの観光施設で関わる程度であった。

 

ケアンズに引っ越してきてからも直接の交流はなかったが、街で先住民らしき人々を見かける率が、イプスウィッチの頃よりもぐっと増えた。すぐそばには、ヤラバー(Yarrabah)というアボリジナルのコミュニティ地区もある。

 

そもそも、私が採用された求人募集欄には「先住民優遇」の文字があり、私はダメ元で応募していた。

雇用はタイミングやご縁の要素があるため、現在スタッフの一員として働いているわけだが、なぜ、上記の但し書きがあったのかについては、実際に働き始めてから理解することになる。

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2. 先住民優遇の理由

 

この施設の利用者の大半は、先住民系の人々だ。

 

私が以前、ホテルで清掃員として働いていたことや、同僚に先住民系のスタッフが少なくなかったことなどを面接時に話したため受け入れられたようだ。ホテルで一緒になった仲間のルーツが、この仕事とのご縁を繋いでくれた。偶然とはいえ、彼らに感謝したい。

 

清掃業務には4人のスタッフがおり、2人が先住民系、1人が白人、そしてアジア人の私という構成になっている。

 

ここで働いていると、この施設はホテルよりもスタッフと利用者との距離が近いように感じる。

 

宿泊予約も担当するフロントスタッフと利用者の人々は、体調について話すことが多い。その流れでだろうか、清掃スタッフに対しても利用者のかたから話しかけられることがある。定期的に利用する人がいることも、距離が近くなることの一因だろう。

病気・ケガの話や医療用語などがでてくると、日本語でも知識が少ない分野であるところに苦手な英語が相まって、私はうまく返事ができず、お恥ずかしいところだ。

 

他のスタッフは長く働いていることもあるだろうが、『よくわかるよ』というスタンスで話しているのを見ると、同じバックグランドを持つからだろうかと想像してしまう。掃除スタッフの中で私が一番若いから、というのも病気などの知識が少ない原因かもしれないが。

 

それから、男性利用者の部屋に女性スタッフだけが入ることや、その逆は好まれない文化のコミュニティがあるようで、それぞれに独特な風習があるかもしれないことを知った。

 

実際には、男女混合のチームで清掃をすることが多く「入らないでほしい」

と言われたことはないが、そういった文化的背景を理解するのは、同じルーツを持つ人々の方が、話が早いだろうと思う。また、医療に受診しなければいけない体調のかたが多いわけだから、気持ちも不安定になりやすいだろう。そんな時は、同じ文化圏のスタッフに対してのほうが、親近感がわきやすいかもしれない。

 

もちろん、先住民系の人々の就職先として門戸を開いておきたいという部分は、大前提としてあるだろう。

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3. 他人を理解するということ

アボリジナルコミュニティに関しては、グループが細かく分かれており、それぞれに異なった言語や習慣などがあるという。そのような地図も存在する。

 

例えば子どもたちが通うハイスクールでは、校長先生が「Kurrinyala!(Welcome!)」という言葉をニュースレターの冒頭によく使うが、これはケアンズエリアのアボリジナル・Yidiny peopleの言葉だそうだ。

 

職場の別部署にも先住民系のスタッフが何人もいて、ある男性の出身コミュニティは、ケアンズエリアとは別で離れた所だという。

引っ越し先のこちらのコミュニティをリスペクトしながら生活し、利用者の出身コミュニティに対しても理解を深めていると話してくれた。

 

それぞれのコミュニティに、大切に思っているルールなどが存在する。

 

ケアンズの街を歩いていると、時々、大声を張り上げて叫んだり喧嘩をしている先住民らしき人たちを見かける。

当然のことながら、そういうラフな態度の人ばかりではないと頭では理解しているが、どうしても目立ってしまうのは否めない。そして、普段の生活ではそのような人々ばかりに目がいく。

しかし、悪目立ちをする人ばかりが先住民ではないだろう。

 

実際、この仕事でさまざまな人々に会う機会を得て、少しずつ体験が伴ってきた。

 

宿泊施設利用者の方々が、私が一般的だと思うおだやかな生活をされていたり、部屋をきれいに保とうとしている痕跡を見ることがある。

 

妊娠中のお母さんが、幼児を引き連れている様子。

ご年配の夫婦が、お互いに労っている様子。

共用キッチンから漂う美味しそうな食事の匂いや、のんびりテレビを見たり、話しをしている様子。

私が仕事をしていて、「嫌だなあ」と条件反射で思ってしまうことはある。

 

体調が悪くて部屋を汚してしまうのは、よくあること。

でも、ただ面倒くさくて汚す人、掃除をする人にも感情があることなど気にしない人もいるだろう。それはおそらく、どの国でも人種でも同じ。

 

掃除をするという立場なので、ひどく汚されるとガッカリするし、「なぜ?」という気持ちも湧く。ただ、汚しかたが独特だと、そこにも文化の違いがあるのだろうかという発想は起こる。

 

私には私が育ってきた文化圏の常識があり、それを受け入れてほしいという気持ちがある一方で、別の文化圏の常識を持つ人々が存在し、それによって行動しているのだろうとも思う。

 

アジア人の自分は、この職場ではマイノリティに当たると思うが、だからこそ「理解しよう」という気持ちが働きやすくなっているのかもしれない。

 

まだまだ、私の文化交流・理解は続く。

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ビスコッティ

5.5.2022

DAYS /  Tsukie Akizawa Column

Green and Gold

ビスコッティ

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1. バースデイ・パーティー

 

子ども達が産まれたイプスウィッチからケアンズに引っ越し、上の子が小学校に入ると、年に2回ある子ども達のバースデイ・パーティーをどうすればよいか、ということにいつも頭を悩ませていた。

 

オーストラリアでは大人になってからでも、特に区切りの良い年齢の年は盛大に祝うなどと見聞きしていたので、これは「重要任務」だぞと思っていた。

 

それまで呼ばれたことのあるパーティーといえば、職場の仲間の娘さんが成人になったお祝いも兼ねて、自宅で賑やかに行われる大人向けのものだった。

庭仕事や大工仕事を主に請け負っていた職場の仲間は元ドラマーで、楽器を鳴らしたりミラーボールが回るなか踊ったりしていた。みな、大いにお酒を飲んで「うえーい」と盛り上がって、そのまま雑魚寝して朝を迎えるといった感じ。

彼らの自宅は、隣家が離れたところにしかない田舎にあったため、騒音公害の心配はない。私はいつも、そのノリに完全には乗り切れないタイプだったけれど、十分に楽しんでいた。

当時はワイナリーで働いていたこともあってか、お酒があって、夜は適当に雑魚寝だったり寝具を持ち込んで、といったパーティーが多かったように思う。

 

子どもが産まれてからは、ワイナリーにある旗立てを利用して鯉のぼりを飾り、こどもの日パーティーを開催したことがあった。それ以外にも、日本人プレイグループでバースデイを祝うこともあった。

ワイナリーは、オーストラリアにおける私たちのホームグラウンドだったし、プレイグループはみんなで協力し合う雰囲気が強かったので、個人的なプレッシャーは少なく、楽しみながら準備ができた。

 

ところが、もともと知り合いのいなかったケアンズに来てからのパーティー開催は、全てが自分で、しかも英語で小さい子を仕切るという不安もある「重要任務」。

 

初めてお友達を呼んだパーティーは、近所の公園で、とにかく食べ物だけは子どもにも大人にもたくさん用意することにした。

 

ディップとクラッカー、ひとくちソーセージなどのつまめるものから、唐揚げや、海老のサラダ。

ロリーと呼ばれる甘いグミや、クッキー、ポテトチップスなど定番の菓子も並べた。

 

子ども向けのバースデーケーキは、アイスクリームをケーキの形にデコレーションしたものだったが、それとは別で、小さな子の子育てにいつもお疲れの保護者のため、マロンクリームを使ったロールケーキを焼いた。

トッピングには、コーヒーフレーバーの地元産チョコレートを乗せると、予想以上に私好みに仕上がった。

 

このパーティーから何年も経ったある日、当時参加してくれたママ友であるNさんから

「あの時のビスコッティが美味しかった」

というコメントをいただくことになる。

 

私は、パーティーにビスコッティを焼いていたことすら忘れていたので驚いた。

マロンクリームのロールケーキのことばかり思い出しては、いつかまた作りたいなと思っていたからだ。

 

彼女からの一言で、「私のビスコッティ」作りが始まった。

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2. お惣菜屋さん

 

ビスコッティが美味しかったというコメントをいただき、それならばまた焼いてみようと、手元にあるレシピ本を久しぶりに開いた。

 

ビスコッティはイタリア生まれのとても硬いお菓子だ。

紅茶やコーヒーにひたして食べるのも一般的だろう。

ただ、私の持っているレシピはオーストラリアのもの。

ワーキングホリデー時代の友人が、プレゼントしてくれた本に載っていた方法で作っている。

だからだろうか、私が作ると、クッキーよりは硬いけれど普通に噛める程度に焼きあがってしまう。

 

それでもおいしいと言われれば嬉しいので、一度焼いて、ママ友Nさんにお裾分けをした。

すると彼女の口利きで、日系のお惣菜屋さんで販売したらどうかという話が持ち上がった。

お惣菜屋さんは、別のママ友Mさん1人で切り盛りしていたお店である。

お食事や単品の他に、デザートも置いていた。

しかし、1人でできる作業量は限られている。

ビスコッティは管理が簡単で長持ちするし、ちょっとしたプラスアルファになるということで置いてもらえることになった。

 

私は別に仕事があって、お菓子作りをビジネスにする予定ではなかったので、材料費と光熱費の分をいただいて、時々お菓子を卸した。

作る機会が増えると、作業の手順も安定していった。

ママ友Mさんから、フィードバックがもらえたりして勉強にもなった。

また、本場イタリア人のお客様から「ビスコッティではない、別のお菓子にこのようなものがある」というコメントがあった、とも教えてもらった。

どのお菓子のことだったのかは気になるけれど、どちらにせよ、イタリアのお菓子に変わりはないようで安心した。

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3. マーケット

 

ところで、地元にはいくつかのマーケットがある。

 

我が家に程近いビーチで、毎月一回日曜日に行われるマーケットは、参加費が安いうえ素人にも敷居が低く、日本で言うフリーマーケット的な出店が可能だ。

ビジネスで出店しているところもあるし、非営利団体の活動資金稼ぎや、趣味のクラフトグッズを販売しているブースもあり、賑やかで楽しい。

週末はマーケットを覗いて、屋台の食べ物を食べたりのんびり過ごす、というのもオーストラリア人の一般的なスタイルだと思う。

都会で行われる大規模なものから、田舎の小さなものまで様々で、観光用のパンフレットにもマーケット情報がまず載っている。

 

ある時また別の友人から、着なくなった服を売りたいが、一緒に私の手作り菓子も売らないかと声をかけられた。

もともとワイナリーで働いていた頃は、出張試飲の許可がおりる野外イベントを手伝っていたし、マーケットで自分が売る側に回るのは楽しそうだな、と思って参加した。

 

マーケットでは、使って良いスペースを与えられるので、自分たちでテントとテーブルを用意して、売りたいものを並べる。

友人は、商品に値段のタグをつけ、テントの骨組も利用してディスプレイしていたし、私はケーキ用のスタンドに、見本品を並べて準備した。

 

あまり目立った感じに飾り付けできなかったので、ほとんどは知り合いの方が購入してくださったが、時々それ以外の方にも購入していただけたのも、また、嬉しかった。他のストールの方とも交流できたりして、それもよかった。

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4. 日豪イベント

 

現在、お惣菜屋さんは閉店しているし、マーケットでの販売も2回で終了した。

私は相変わらず、趣味でお菓子を作っては自分で消費している。

ごくたまに、依頼されて作ることがある程度。

 

そんな折、再びママ友Nさんからお誘いがきた。

今度はこどもの日の木曜日の夜、日豪イベントとして「Taste of Japan」と題した居酒屋スタイルの企画に、一緒に参加しようというのである。

 

当日は、本職の日系ビジネスの方々が、日豪のお酒を販売したり、おつまみになる食べ物を色々と用意する。

そんな場所の端っこの方にスペースをいただき、友人のクラフトやイタリアンなおつまみ、そして私のビスコッティを置かせていただく予定になった。

素人の私にとっては場違いな気がしないでもないが、そんなことを言っていては何事も始まらないので、ありがたく挑戦させていただこうと思っている。

 

これまで作ってきたフレーバーは、バニラ、コーヒー、抹茶、ココア、クランベリー味。

日本っぽい味が少ないので、今、きなこや黒糖なども試し焼きをしている。

 

オーストラリアで、日本人がイタリアのお菓子を焼いているというのは不思議な感じがするが、ケアンズではおかしくないのかもしれないと思っている。

なんといっても、家庭で話されている英語以外の言語は、ケアンズにおいてはイタリア語と日本語がほぼ同率首位である、という国勢調査の結果を読んだことがあるからだ。

 

友人が私のビスコッティを褒めてくれてからというもの、私の活動範囲は確実に広まった。

 

ケアンズに越してきて12年になるが、いまだに自分の立ち位置が掴めない。

それでも、このように様々な体験ができていることに感謝したい。

友人が贈ってくれたレシピ本から始まり、自分の焼いたビスコッティを通じて、多くの方と繋がれるご縁を感じているところだ。

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オーストラリアの助産師主導型出産

4.5.2022

DAYS /  Tsukie Akizawa Column