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#10
MARCH 2021
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PEOPLE

STAY SALTY ...... people here

呵す。

Words create your future.

言葉が自分の未来をつくる

writer / editor / teacher of composition classes  高田ともみ

3.1 2021

 Tomomi Takada

「仕事を辞めたいのですが、今後のことを考えると不安で決められません」(40代 会社員)

 

 ――自分のやりたいことをしたらいいと思います。自分のやりたくないことをすると人生がたのしくないと思います。(小5女子)

 

「実は動物に触れるのが苦手です」(40代 主婦)

 

 ――じしんもってやったらできる。(小2女子)

 

「人前で話す時、緊張してしまいます」

 

 ――あきらめよう!(小5男子)

 

「上司が仕事をしません。どうしたらいいですか?」(30代パート)

 

 ――上司が仕事をしないなら、いっぱい努力して上司よりすごい人になって、仕事をやってもらったらどうですか。(小6男子)

 

 

 

これは、大人の悩みに子どもたちが答える

 

「大人お悩み相談室」で書いてもらったものです。

 

言葉足らずだったり、ぶっきらぼうだったりするけれど、

 

子どもたちの言葉には

 

軽さと真剣さの両方がちょうどいい具合に混じり合っている。

 

大人の私にも、きっと同じことは言えるでしょうが、

 

子どもたちの言葉の方がスッと心に入ってくる気がするのは

 

なぜなんでしょう。

 

計算も憶測もない、子どもたちの言葉。

 

私はもうずっとずっと、

 

その透明な音色みたいなものに、魅了され続けています。

Tomomi Takada
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*****

 

 

フリーランスの編集ライターとして仕事をしていた私が

 

「こども表現の教室」という屋号で、

 

小さな子ども向けの作文教室を開講して

 

5年ほどが経ちました。

 

 

作文教室を開くことになったのは、

 

娘のお友達のお母さんからの相談がきっかけ。

 

ーー息子が全く作文が書けない。見てやってほしい。

 

そう言われたとき、私に作文を教えることはできないけれど、

 

自信を持ってもらうことはできるかも、と思いました。

 

 

書けないんじゃなくて、

 

書きたいと思っていないんじゃない?

 

そう思ったから。

 

 

子どもたちは、本当に素直に、自分の思いを表現します。

 

まっすぐすぎて、逆に鋭いくらいに。

 

それがいつの間にか、

 

「相手を傷つけるから、いっちゃダメよ」

 

「それじゃつまらない」「もっと前向きな言葉を」

 

などの反応に取り囲まれるようになり、

 

自分の言葉に蓋をするようになる。

 

 

“いいこと、言わなきゃ”。

 

 

私自身にも痛いほどその経験があるからこそ、

 

子どもたちに「そんなこと考えなくていいよ」

 

と伝えられたら、作文を超えた時間が作れるかもしれない、

 

と思ったのです。

 

 

*****

 

 

私の作文教室では、

 

いわゆる王道の作文を書いてもらうことは

 

あまりありません。

 

冒頭のようなワークをはじめ、

 

連想ゲームや物語づくり

 

時には外を散歩しながら生きた言葉を探します

 

(2020年からはオンライン中心です)。

 

 

できるだけ、子ども自身がそのまんまを表現できる

 

場をつくり、五感を刺激するようなことをしたい。

 

こうやって書くとなんだか楽しそうですが、

 

子どもって想像以上に

 

自由で、バカバカしくて、すぐ忘れる(とくに男子)笑。

 

秩序もへったくれもない時もしょっちゅうですが、

 

ふとした時、

 

その子の感性の塊みたいな言葉を

 

取り出せることがあるのです。

 

なんでこんなことが言えるのーーー!!

 

身震いするような興奮を抑えつつ

 

その荒削りで生々しい響きには、

 

もう、世界をひっくり返す力さえあるように

 

感じてしまうのです。

 

 

子どもの自由さに魂が吸い取られそうになることもありますが、

 

そんな言葉に出会えることが

 

細々とでもこの教室を続けていられる

 

原動力になっています。

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*****

 

 

20代の出版社勤務から雑誌や書籍に関わり、

 

わりと長い間、言葉と向き合う時間を

 

過ごしてきました。

 

 

書き手として

 

自分の文章を誰かが読んでくれる喜びは、

 

どんな体験にもかえがたく

 

自分なりの言葉をもっと突き詰めていきたい

 

と思う気持ちは消えることがありません。

 

かといって、

 

自分の文章が上手いなんて思ったことは一度もないし、

 

表現したいことがあふれて仕方がない、

 

なんて天才肌なわけでもありません。

 

 

ただ、

 

”言葉の向こう側にある

 

まだ言葉になっていないものをつかみたい”。

 

 

その魔物みたいな魅力には

 

ずっと取り憑かれています。

 

 

2018年に自著を出版できたことも

 

この想いを強くするきっかけになりました。

 

 

 

私の夫は中国人で、ひょんなことで

 

中国の夫の実家で暮らすことになったことで、

 

私は自分の信じてきた「常識」のほとんどを

 

崩壊させられました。

 

 

日本では「無神経」だと思えた夫は

 

中国では「礼儀」を大切にしている人で

 

「中国は自由のない国だ」という思い込みは

 

日本の「不自由さ」を浮き彫りにしました。

 

食も、家族も、PM2.5も

 

実際に暮らしてみて、感じたことと

 

テレビや新聞で見聞きしたこととは

 

あまりにもギャップがありすぎた。

 

ーーー伝えずには、いられない。

 

その衝動が、決して書くのがうまくない

 

私の背中をぐっと押し続けてくれたのです。

 

 

*****

 

 

私は、子どもたちに「書くことが苦手だ」

 

なんて思い込んでほしくないだけです。

 

 

「ねえねえ! これみて!」

 

と言って両手いっぱいに

 

ダンゴムシをウヨウヨさせてしまうな子どもたちに

 

書く才能がない、わけがない。

 

自分の言葉をそのまま出せて、

 

それをそのまま受け止めてくれる場があれば

 

子どもたちは自由にその想像を羽ばたかせるはず。

 

 

 

 

言葉が自分の未来をつくる

 

 

と、私は信じています。

 

 

自信をなくすことがあっても、

 

どんなに腐りそうなときでも 、

 

自分を否定せずに、自分だけは自分の味方になって

 

自分をまっすぐ見つめられるようなったら、強い。

 

 

 

そして、それを助けてくれるのは

 

どこかの誰かが言った名言なんかではなく、

 

心の奥底から静かに湧きあがる、自分だけの言葉です。

 

 

おもしろくない、つまんない、

 

書きたいことなんかない!って言ってもいい。

 

でも、そこで考えることをやめない。自分をあきらめない。

 

言葉をつむぐことは、

 

自分を大切にすることだと

 

私は思います。

 

 

 

だから今、

 

あなたがどこにいて、どんなことを感じていて、

 

どんなふうにこの世界を見ているのか、教えてよ。

 

 

 

そんな気持ちで、

 

子どもたちといつも

 

ただ遊んでいるんですよね。

text - Tomomi Takada

photo - Satoko Murakami

profile photo - Shinya Kondo

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文筆家/編集者/作文教室の先生

高田ともみ

Tomomi Takada

出版社勤務などを経て、フリーランス編集ライターとして書籍、雑誌の制作に携わる。

現在は、エッセイ、ノンフィクションを中心に執筆。愛媛県在住。

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『こども表現の教室』

愛媛県新居浜市を拠点に、こども向け作文教室「こども表現の教室」を不定期で開講。小学生を中心に、言葉を使った遊びやワーク、ときどき作文添削を行っている。2020年からはオンラインに切り替え、どこからでも参加可能。

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Book『中国的「今を生きる」生活』

中国遼寧省瀋陽市での食、教育、お金、仕事…。何も考えず移住してみたら、3回くらい脱皮するハメになったという体験を、さくっと読めるエッセイにまとめました。中国に関わるお仕事をされる方、生活者視点で中国理解を深めたい方に、ぜひ読んでいただきたいです。

発行:書肆侃侃房  定価:1500円+税

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#09
FEBRUARY 2021
Hiromi Takechi
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PEOPLE

STAY SALTY ...... people here

恢い。

Like reading a story, I want to work with dresses and weddings.

私は小さくて可愛いチャペルのオーナーです。

トレーラーハウスの移動式のチャペルで、どこでも結婚式ができるんです。

名前は「ルーロット」と言います。

「ルーロット」はフランス語でジプシーの移動式住居のこと。

ジプシーみたいに旅をしながら仕事がしたいと思って。

 

本業は、ウェディングドレスの仕立て屋をしています。

最近では、お母様のウェディングドレスのリメイクや、ヴィンテージドレスのリメイク、オーガニックコットンなどの天然素材のドレスのご要望が増えてきました。

廃棄する予定の服をリメイクして作品を作ったこともあります。

エシカルなウェディングへの関心がだんだん高まってきているようで嬉しいです。

旅をしてドレスをつくる。なんてしあわせなんだろう。

 

ウェディングドレスとの運命的な出会いは、旅の途中でした。

それも、目的地のイギリスではなく経由地のタイで。

タイシルクの美しいウェディングドレスを目にした時、雷が落ちたような衝撃を受け「ウェディングドレスを仕事にする」と決めたのです。

 

その後、ファッションの企画デザインをしていた会社を退職し、もう一度専門技術を学ぶ学校に行きました。

その時、洋裁ではなく「お直し」と「リメイク」技術を学んだのは、余剰在庫を持たない仕事をしたいと思ったから。

ファッションが好きだからこそ、自分ひとりで仕事をするなら在庫を持たずに「オーダー」と「リメイク」だけでやってみようと思ったのです。

幸運なことに、その学校で私を担当してくださった先生が、ウェディングドレスのオーダーサロンで長年経験を積まれた方でした。

ですから私は、お直し技術だけではなくオーダーメイドでいちからドレスを作る方法も学ぶことが出来ました。

 

技術の習得には、時間とお金と大変な労力を伴います。

私もその例外ではありませんでした。

でも決してそれは無駄ではなかったと思います。

身につけた技術は自信となり、私が最も大切にしているお仕事のひとつ「お母様のウェディングドレスのリメイク」に繋がっています。

想いと時を繋ぐリメイク。

 

古いものには、物語と記憶が宿ります。

着た人の体型や、作った人の意図も。

私はひとつひとつ、それらの物語を読むようにドレスを繕います。

ドレスに込められた記憶を取り出し、その思い出をひと針ひと針縫い付けるのです。

ドレスたちはとてもおしゃべりで、私にたくさんのドラマを語ってくれます。

「このドレスはね、もうひとり着たのよ」

「きっと叔母さんね。背の高い方だったのね」

「久しぶりに起きたわ。ずいぶんと眠っていたみたい」

「そうね、30年も眠っていたのよ。そろそろ目を覚まして。花嫁さまが待っているわよ」

 

丁寧に手を加えてやると、ドレスが眠りから目を覚まして輝き始めます。

お母様や誰かのドレスが、花嫁さまのドレスに変わる瞬間があるのです。

それは何度体験しても、とても感動する瞬間です。

ドレスのリメイクは私にとって、時を超えて物語を繋ぐ、とても大切なお仕事なのです。

物語を読むように、

ドレスとウェディングの仕事をしたい

Owner of a mobile chapel, Roulottes / Wedding dress tailor   タケチヒロミ

2.1 2021

Hiromi Takechi
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風変わりなアトリエで。

 

移動式チャペル・ルーロットは、とある風変わりなギャラリーのシェアアトリエに入居したことから始まりました。

神戸の旧居留地に、チャータードビルという元英国銀行のレトロなビルがあります。

その路地裏の入り口から階段を登ると、芸術家たちの集まるギャラリーカフェがあり、夜な夜な奇妙な人達が集まって宴を繰り広げます。

私はその上の階の奥にある隠れ家のようなアトリエを間借りして、ドレスの仕立て屋を営んでいました。

宴の喧騒や音楽の中で縫い物をしていると、まるでパリの芸術家が集うモンマルトルの屋根裏部屋にいるような気分になれます。

コロナの影響で今はもうなくなってしまったそのギャラリーから、私はたくさんのものをもらいました。

ここに居なければ、ルーロットも誕生しませんでした。

 

アトリエで製作していたある日、私にひらめきが降りてきました。

動くチャペルがあったら、思い出の場所で結婚式を挙げたり、おじいちゃんおばあちゃんや移動が大変な人のもとへも駆けつけられるのに、と。

「誰か作ってくれないかな」と口に出してみたら、扉が開いてギャラリーの経営者の一人で、その場所の改装を手掛けた芸術家が登場。

「トレーラーハウス、作れますか?」と聞いたら「作れます」と答えてくれました。

それが、ルーロットのはじまり。

移動式チャペル・ルーロットって何?

移動式チャペル ルーロットは、トレーラーハウスの走るチャペルです。

タイヤのついた「車両」なので、高速道路も走ることができ、新郎新婦さまの結婚式を挙げたい場所に駆けつけることができます。

 

ルーロットでやりたかったのは、旅するように自由で、本当の意味でお二人らしい結婚式。

体裁や式場の決まりごとやしきたりから離れて、お二人の物語に寄り添った結婚式が作りたいと思って。

思い出の場所や好きな場所、自然の中、祝福して欲しい人のいる場所、お二人だけのストーリーがそこにはあると思うのです。

いろんなことから自由になって、好きな場所で、愛する人と、大切な人たちと、たくさんの笑顔に溢れた結婚式の一日を過ごして欲しいのです。

 

今までたくさんの素敵なお二人の物語を聞かせてもらいました。

みんなで作った菜の花畑の結婚式の物語は、なんと絵本にまでなりました。

旅をして知らない場所に行き、新しい出会いと、想像もしていなかった美しい景色に出会えます。

こんなに素晴らしい仕事が他にあるでしょうか?

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これからのこと。

小さい頃、田舎育ちで内向的な私にとって、空想や物語は私の狭い世界を広げてくれる翼でした。

ドレスを繕うことや、旅をして結婚式をすること。

それも私にとっては大切な翼です。

 

しかしこのコロナで、ウェディングの仕事はゼロになりました。

今は少し回復しましたが、それでも今まで通りに戻るにはかなりの時間を必要とするでしょう。

旅にも行けず、大好きなウェディングやドレスの仕事もできない。

ご飯は食べられるし家もあるけど、それって生きてる意味あるのかな?と思ってしまったこともあります。

 

けれどもこのコロナのおかげで、私はもうひとつ、小さな翼を持っていることに気が付きました。

 

言葉という翼。

 

言葉で、伝えること。

文章を書くこと。

 

ドレスやウェディングの物語を、自分の言葉で書いて、伝えてみたいと思うようになりました。

それがこれからの私の挑戦です。

 

物語は、まだまだつづく。

そして冒険の旅も。

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移動式チャペル・ルーロットのオーナー+ウェディングドレスの仕立て屋

タケチヒロミ

Hiromi Takechi

ウェディングドレスのお仕立てとリメイクをするドレスの仕立て屋タケチヒロミです。

2015年より、手作りの移動式チャペル・ルーロットのオーナーとして、自由なウェディングの企画・施工をしています。

旅と古いもの・ヴィンテージをこよなく愛すイギリス愛好家です。いつか映画の衣装を作ってみたい。

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PEOPLE

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恢い。

How to Find the Small Miracles Hawaii Taught Me

「ハワイに呼ばれる」なんてたまに聞くけれど、それはスピリチュアルにかぶれた人たちの思い込みだと思っていました。

自分の身に起こるまでは。

 

私とハワイの出合いは30代のはじめ、運動不足解消のために始めたフラでした。

子どもの頃から運動が苦手で、唯一踊りだけが好き。

どうせ運動するならなんでもいいから踊りを、会社帰りに気軽に立ち寄れる場所で習いたい。

そんなことを考えていた時に、たまたまフラを習いたいという友人がいて、じゃあ私もとついて行ったのがきっかけでした。

大人になって久しぶりの習い事はとても楽しく、新しい友人もでき、どんなに仕事が忙しくても時間を作ってレッスンに参加するようになりました。

35歳を過ぎた頃、仕事でいろいろなことが重なり、私は心のバランスを崩しかけていました。

自分のことを忘れっぽくて、いいことも悪いこともすぐ忘れるタイプだと思っていたけれど、実は忘れたふりをして自分をごまかしていただけで、心の奥に引っ込めて蓋をしていたもやもやはむくむくと膨らんで、ついに蓋が閉められなくなったよう。

気付けばなにをどうしたら元気になれるのかわからない状態になっていたのです。

会社の産業医の先生に診てもらうと、少しお休みしたほうがいいとのこと。

人に言われて初めてこのままではまずいと実感した私に、ある日急に「ハワイに行かなくちゃ」というメッセージが降ってきました。

それは本当に突然のことで、でもあまりにも自然で、なんの疑いもないものでした。

そこからは何かに取り憑かれたかのように、自分でも信じられないスピードで学校に申し込み、ビザを申請し、会社を辞め、あっという間にハワイに留学することになったのです。

ハワイが教えてくれた小さな奇跡の見つけ方

PR / Hawaiian Language Instructor  日高 周

2.1 2021

Shu Hidaka
Shu Hidaka
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フラを習ってはいたけれど、いわゆるフラ留学ではありません。

日本で生まれ育った私にとってフラは、子どもが遊ぶように、ただ楽しいからやるもの。

フラの先生からは、ハワイの人々にとっては歴史や文化の伝承であり、情熱であり魂であり、踊りを超越した大切なものだと教わっていました。

私はそれがどういうものなのか、言葉を理解することで触れてみたいと、なぜだか当然のように思ったのでした。

 

学生に戻ったということもありますが、ハワイでは驚くほどゆっくり時間が流れました。

朝起きたら、近所のコミュニティセンターでおばさまたちに混ざってフラ・レッスンを受けるか、料理や洗濯などの家事をする。

お昼から夕方の早い時間までは学校で英語の授業を受け、そのあとはハワイ語の個人レッスン。

夜は早めの夕飯を食べたら、眠くなるまでひたすら自習。

時にはちょっと遠出してファーマーズ・マーケットで野菜を買ったり、ルームメイトとビーチにサンセットを見に行ったり。

東京では時間がいくらあっても足りなかったのが嘘のように、いくらでも時間があってなんでもできるのです。

 

ハワイでののんびりした暮らしの中で、私はかつての自分が、自分で決めた謎のルールにかんじがらめになっていたことに気が付きました。

仕事で苦しくなってしまったのは、自分の気持ちを無視して「仕事だからこうするべき」と自分を縛り付けていたからかもしれません。

時間が足りなかったのは、いろんなことを手放せなかったから。

あの時どこからか受け取った「ハワイに行かなくちゃ」というメッセージは、疲れ果てた心が自分を助けるために出したものだと今は思います。

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ハワイでの暮らしの中で私は、自分が本当は何をしたいのかを自分の心に確認するようになりました。

と言っても、将来の夢のような大きなことではなく、今日は何を食べたいのかとか、歩いて帰るかバスに乗るかとか、そんな日常の小さなことを。

そして気が付いたのは、幸せを感じるのは、日常の些細なことだったのだということ。

朝起きたら天気がいいこと。

道でとてもきれいな花を見たこと。

ルームメイトから今日の波の様子を聞くこと。

それらは普段の生活の中に小さな神様がいるような感覚。

ハワイの言葉でマナと呼ばれるもなのかもしれません。

フラの中で語られていることの片鱗に、ほんの少し触れた気がしました。

同時に、それはハワイでなくても、毎日の暮らしの中で見ようと思えば見ることができるものだったと気が付いたのです。

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「ハワイに行かなくちゃ」と同じように「そろそろ帰ろう」が湧いてきて東京に戻った私は、今、小さなハワイ語教室を主宰しています。

レッスンではハワイの言葉を学びながら、ハワイの歴史や文化を一緒に紐解いていきます。

レッスンを通して、私が見つけた小さなマナを共有していきたいと思っています。

 

最後に。

ハワイが私にくれたたくさんのうれしい出会いのひとつが、モロカイ島に住むアーティスト山崎美弥子さんとの出会いでした。

以前から私は一ファンとして、美弥子さんが再び本を出すことを望んでいましたが、2020年10月、私自身が編集者のひとりとして参加させていただき、新しい書籍が生まれることとなりました。

モロカイ島の日々』は、美弥子さんがモロカイ島に辿り着き家族を作る過程が、美弥子さんの絵画のようなやわらかいタッチで綴られたエッセイ。

人によってさまざまな受け取り方ができる作品ですが、私にとっては、ひとつの家族が日常の中に散りばめられた小さな奇跡をみつけていく物語でした。

このタイミングで書籍が世に出たのは、何か意味があるのかもしれません。

今、大変な状況が続いていますが、この物語が穏やかな気持ちを取り戻す小さな助けになることを願っています。

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PR/ハワイ語講師

日高 周

Shu Hidaka

1981年生まれ。東京外国語大学イタリア語学科卒。
イタリア・フェラーラ大学にて、中世美術史を学ぶ。

アロマテラピー業界およびIT企業の広報を経て、2017年、語学と文化を学ぶためハワイに留学。

ハワイ島のロコからハワイ語を学ぶ。
現在は東京を拠点にフリーランスでPRをしながら、ハワイ語教室「Pono ʻŌlelo HawaiʻI」を主宰。

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JANUARY 2021
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PEOPLE

STAY SALTY ...... people here

賜り。

What I wish to hand over through Omusubi, “a place to connect to genuine self”

photo by yu nakamura

 私は、「おむすびを通して、わたしの軸につながる時間や場所を渡していきたい」という想いで、新月から満月までの期間、ご縁のある場所に赴き、おむすびをむすび、おむすびを食べていただく、という活動をしています。

 

おむすびをむすぶことは、私自身が「わたしの軸につながる」こと(言い換えるなら、「本来のわたしを生きる」「本来のわたしで在る」こと、でしょうか)であり、おむすびを食べてくださる方がその方の軸につながりますように、と祈りを込めてむすんでいます。おむすびは、塩おむすびだけをむすび、時には、都市のカフェなどで「おむすび会」のような形で、時には、離島の自然の中で「リトリート」という形で開催しています。

 

「自分の感覚を見つめ、その感覚を大切に扱い、自分自身を信頼し尽くす」

 

それはいつも、私自身が「わたしの軸につながる」指針となっていて、おむすび会でもリトリートでも、「自分の内側にあるものを感じる」ということを大切にしています。お塩とお米だけのシンプルなおむすびは、不要なものを取り払い、透明な心にしてくれ、「感じる」手助けをしてくれると思っています。

Lie Lin

1.3 2021

Omusubi Courier  リンリエ

おむすびを通して渡したいもの、

「わたしの軸につながる場所」

Lin Lie
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photo by yu nakamura
photo by yu nakamura
photo by yu nakamura

 2015年の秋、私は「これからの人生をどう過ごしていきたい?」ということを考え始めていました。長らく都内の会社に勤め、仕事も暮らしもとても充足した日々を過ごしていたけれど、どうしても「自らで立ち止まる」ことが必要だ、と湧き起こる心の声を聴き、ちょうど1年後の秋、休職をさせてもらうことになりました。

 

お休みをして、自分だけの時間の中でしたかったことは、振り返りノートをつくること。
私は東京を離れて、風通しと日当たりが良く、海と緑が豊かな場所で、20歳からの20年間の振り返りノートを綴り始めました。1年ごとに、起こったできごとや感じたことを。ゆっくりと流れる暮らしの中で、記憶の片隅を呼び覚ますように、思い出しては書きとめ、をじっくりと繰り返していきました。

そして、その年の最後の月、
私はハワイのモロカイ島へと旅に出ました。

モロカイ島に住むアーティストの山崎美弥子さんの絵をこの目で見たくて。
その絵の先に、何かがあるような気がして。

 

モロカイ島では、美弥子さんの素敵な宿に滞在して、西の果てから東の果てへモロカイの自然を感じ、美弥子さんファミリーとおしゃべりしたり、遊んだり、ごはんを一緒に食べたり、暮らすように過ごす中で、宿のあちこちにある美弥子さんの絵を感じていました。美弥子さんの描く、海と空の色いろを眺めていると、自分の真ん中にすーっと戻っていき、魂が震える、そんな感覚になりました。

 

モロカイ島を離れるという前の日は、ちょうど新月。

私たちは、それぞれにお料理を持ち寄り、夜のビーチピクニックへ。

 

真っ暗な海辺、満天の星空。
静かな波音と焚き火の暖かい火、楽しいおしゃべりとおいしいごはん、響く歌声と愉快な踊り。
「自然と食と人」
そこにはすべてがあり、これ以上のものは要らない、至福のエナジーに満ちていました。


「この日のことを忘れないように」と、美弥子さんの娘きらちゃんのかわいい提案で、きらちゃんと妹のたまちゃん、お友達のかいくんと私の4人で円になって、満点の星空の下でハグしあったことは、今でも、私の真ん中でキラキラと輝き続けています。

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美弥子さんが描く「1000年後の未来」へタイムトリップをしたような2週間の旅を終え、

2017年の年が明け、ほぼ3ヶ月の時間をかけてノートが完成しました。

20年の振り返りノートをじっくりと読み返してみると、何をしていたか、よりも、その時どう感じていたのか?が目に留まり、どの年にも必ず、たくさんの人の名前が書き込まれていることに気づきました。友人や家族、愛する人、仲間、人生の先輩たち、可愛い後輩たち、親しい人、親しくない人。

 

(その時はそう受け止めていた)嬉しいことも哀しいこともすべては、
私の人生に現れてくれた人たちが、私に与えてくれた尊いできごと。

 

「ああ、人生の前半は、こんなにもたくさんの人たちから、

たくさんのことやもの(それはきっと、愛、ですね)を頂いてきたのだな」

私は、20年分の愛を受け取り、「感謝」という言葉が、すーっと私の肚の中にあたたかく溢れました。

 

「では、これからの人生の後半はどう在りたいか?」

何をしたいか、ではなくて、どう在りたいか。
これまでの20年で感じた想いを胸に抱きながら、これからの30年をイメージしてみました。

自然に生まれてきたのは、「何かを渡せる人で在りたい」という想い。

(何かはきっと、愛、ですね)
これまでは頂いてきたことばかりで、この先もきっと、頂くことの方が多いと思うけれど、「これからは、少しでも何か(=愛)を渡せる人で在りたい」という強い軸が芽生えてきました。

 

渡すためのものは、自分の手を通してつくったものにしたい、自分の手を通して、愛を伝えられるようなものがよい、それは、まっすぐに心に響く「たべるもの」がいいな、と思いました。モロカイ島の新月の夜に満ちていた至福のエナジーが蘇ってきたのです。

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その後、私はいくつかの月の満ち欠けを逡巡したのち、自分自身の「おむすびが紡ぐ物語」を思い出し、「おむすびをむすんで生きて生きたい」と2017年の秋、島根へおむすび留学へと旅立ちました。(「おむすびを紡ぐ物語」はぜひ、Webサイトをご覧ください)

 

その時はまだおぼろげだった輪郭は、島根の山奥で毎晩、心を込めておむすびをむすび続ける中で、自分自身が調っていく、自分の軸につながっていく感覚を体感する中で、おむすびの持つ力を確信し、「おむすびを通して、わたしの軸につながる場所や時間を渡していきたい」とはっきりと形が見えてきました。

そうして、2018年秋から「ラクダホテル別館」という屋号で、月の満ち欠けに合わせておむすびをむすぶ活動は、いろんな人と巡り合わせてくれ、いろんな形を成しながら、ゆっくりと歩みを進めています。2020年は未曾有のことが起こり、都市での「おむすび会」は中止となりましたが、離島・壱岐島の美しい自然の中でのリトリートという形へと導かれ、どこか、モロカイ島に似た、壱岐島の海や風、空や太陽、月や星を感じながら開催を重ねるごとに、ああ、自然の流れの中にいるのだな、と感じています。

 

あれから、毎月ごとに書く習慣となっている振り返りノート。振り返る度に、今でも頂くものの方が遥かに大きいと感じるばかりですが、渡したいものをしっかりと胸にたずさえ、これからも、自分の感覚を信頼して、自然の流れに身を委ね、その時できることを積み重ねて、ゆるやかに変化しながら、しなやかに揺れながら、おむすびをむすび続けていたいと思います。

 

その先には、「自然と食と人」の至福のエナジーが重なりあい、美弥子さんの絵でいっぱいの「わたしの軸につながる場所」があることを夢見て。

text and photoprahs - Lie Lin

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photo by yu nakamura

ラクダホテル住人+ラクダホテル別館店主+おむすびをむすぶ人

リンリエ

台湾にルーツを持つ、神戸生まれ。
神戸、北京、上海、東京と数十年の都市暮らしを経て、2017年秋、島根県の世界遺産の町にある「メインディッシュはおむすび」という1日3組限定の宿へ「おむすび留学」。約1年間、 毎晩、お客様に心を込めておむすびをむすび続け、おむすびの奥深さを感覚的に学ぶ。現在は、神戸と壱岐島を拠点に、「わたしの軸につながる時間」を大切にした「ラクダホテル別館(移動おむすび)」を主宰。 自分自身も「わたしの軸につながり」続けることを実践中。

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Lin Lie

Nozomi Kurashima
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PEOPLE

STAY SALTY ...... people here

賜り。

Four Women in the Kitchen

dashi artist  倉島のぞ美

1.3 2021

Nozomi Kurashima

女四人の台所

私が高校生の時、祖父が亡くなり、我が家は4人家族となった。

4人家族と言えば、両親と子供たちの核家族をイメージしやすいかと思うが、我が家は、明治生まれの曾祖母、大正生まれの祖母、昭和生まれの母、そして私と、女4人、4世代の4人家族という構成で、しかも、曾祖母は祖母の継母だったので、私たちとは血のつながりはなく、祖母の兄である跡取り息子が若くして亡くなったため、母が曾祖父母の養女に入るという、少々込み入った4人家族だった。

 

私が生まれた家は、三代続いた田舎の呉服屋で、当時は祖父母と母が主に切り盛りして、小さな店を営んでいた。幼稚園に入るまで、家族が仕事をしている間、私はお店で生活していた。しかし、お客様がみえると、楽しく積み上げた積木を片付けられたり、隅に追いやられたりする。そんな時、幼いながらに私は肩を落とし、また一から積み上げる。そんな状態が何度も繰り返されたある日、私はお客様に「お客さん!帰れっ!!」とブチ切れた。決してそのお客様が悪いのではないのは一目瞭然で、その日は私の中の我慢の神さまの居所が悪かったのだ。私に悪態をつかれたそのお客様は、顔を真っ赤にして「子供に言われても、気分が悪い!!」とたいそうお怒りになり、そのお客様に土下座をして謝罪する祖母と母の姿を見た時、私は大変なことをしたのだと感じた。3歳になる少し前だったと思う。

その日が境だったかは定かでないが、それからというもの私は同じ敷地内にある曾祖父の家に預けられることになった。曾祖父はすでに呉服屋を引退し、隠居生活を送っていた。

 

その家の時間は、ゆっくりと丁寧に流れていた。それまで、大人の時間や都合に合わせていた私に、そこでのゆったりとした時間は心地よく、すぐにその環境と総祖父母との生活になじんでいった。静かな空間にボーンボーンと鳴り響く柱時計。いつも火鉢には鉄瓶が置かれ、お湯が沸き、ご飯はかまどで炊いて、おひつに移し、小さな台所からは、いつもいいだしの香りがした。

 

そのころから、私の遊びは、庭の草花を摘んで、それを食材に見立て、料理をするままごと遊びが日課になった。美しく咲くピンク色の花を摘み、水を張った器に浮かべると、私の空想の世界の中で、それはそれは美しい美味しそうなスープになる。私は、空想料理家として、いくつもの料理を作り上げた。

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ある日、小さな鍋に水を入れ、畑で摘み菜をした野菜をもらい、ストーブの上に置いておくと、野菜は鮮やかな緑色に変化し、そのあと、柔らかく、しなっとなった。そこまで見届けて、昼寝をして目が覚めると、それはいつの間にか曾祖母の手によってお味噌汁に変化し、その日の食卓に並んだ。「のぞみが作ったお味噌汁、美味しいね。」と言う二人の顔を見て、私はうれしくなり、そして、いつもの遊びの延長に、本当に食べられるものがつながっているということに何かが私の中で動きだした。子供のころは、その言葉がわからなかったけれども、今思えば、初めて芽生えた「感動」に近い感覚だったと思う。

 

また別の日には、ミカンをひとつもらい、手でぎゅっと絞ってつぶし、おもちゃのザルでこし、おもちゃのコップに入れた。そして、曾祖母相手におままごと気分で、「さあ、どうぞ♪」と手渡すと、「いただきます。」といって、曾祖母はそのおもちゃのコップに入ったミカンの汁を飲み干した。私は慌てて「どうして飲んじゃったの!」と叫ぶと、「だって、本物のミカンのジュースだから。」と涼しい顔で曾祖母は言った。私は、「ちゃんと手を洗えばよかった。」「コップやザルはきれいだったかな。」「大好きなひいおばあちゃんがおなかが痛くなって、死んじゃったらどうしよう。」と後悔ばかりで、大泣きした。

 

その日から、いつまた曾祖母がおままごとだとわからず、おもちゃの食器を口にするかもしれないと真剣に思い、手やおもちゃの食器を清潔に保つことを心掛けた。あの時の曾祖母の行動は、私に料理の心得を教えてくれた。幼いながらに、私たちの体に入るものには、大切な人の命がかかわるということをその時、痛いほど体験したのだ。まだ、字が読めない私が、教科書ではなく、体験から学んだ大事な学習だった。今でも、あの時のことを思い出すと、気が引き締まるのと同時に、私の作った最初の料理で、病人が出なかったことを神さまに感謝する。

 

それからは、実際に台所に踏み台を用意してもらい、卵焼きを作ったり、おだしで使うかつお節を削らせてもらったりしたが、空想の世界で上手にできたようにはいかなかった。曾祖母の作る卵焼きは、きれいな黄色でふんわりとして、いつ食べてもおいしかった。私も挑戦してみたが、私の作った卵焼きは、曾祖母の半分くらいの厚さで、固く、茶色っぽかった。なんだか泣きたくなった。そんな失敗作の卵焼きを美味しいといって食べてくれる曾祖父母。いつもは無口な曾祖父まで、笑顔で美味しいといってくれたが、私は悲しかった。なぜなら、大好きな人たちに本当に美味しいものを食べてもらいたい、と思ったから。そして、私はその日、料理の先生になると決めた。3歳の時だった。

 

その後、曾祖母は認知症を患い、それまでのことを忘れたり、奇怪な行動をとることが11年も続いたが、そんな中にも曾祖母の丁寧に暮らしていた歴史を感じる瞬間がいくつもあり、その度に幼い頃一緒に過ごした曾祖母の姿を思い出した。人としても、女性としても、尊敬できる人だった。

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祖母もとても料理が上手だった。そして、祖母の料理は美しかった。

料理を香りよく、美味しく、美しく仕上げるためには、いかに下準備や下処理が大切か。祖母には料理の基本を教わった。野菜の切り方や野菜を湯がくタイミングや火加減、魚のさばき方など、祖母は私の先生だった。器の選び方や盛り付けも、祖母の美意識は細部にわたる。いつもは優しく、「嬢ちゃんばあちゃん」などとよばれる少し浮世離れした祖母が、台所に立った時は凛々しく、頼もしく見えた。

 

母は、私が料理の先生になりたいと伝えると、小学生の頃から、学校を休ませ、京都の呉服の仕入れに同行させてくれ、勉強会と称して料亭の一室を貸し切りにして、懐石料理を堪能する時間を作ってくれた。私は、一冊のメモ帳を用意し、出てきた順番や、食材、どういう味だったかをメモを取り、家に帰って、私なりに試作して、レシピを作った。それは、高校を卒業するまで続いた。また、イタリアンやフレンチ中華など、色々なジャンルの料理を教えてくれたのも、母であった。母は、大切な人を楽しませてくれるのがとても上手で、仕事で忙しい中でも時間をとり、一緒にお菓子を作ってくれたり、お友達を招いて手作りの料理で誕生会を開いてくれ、その日にだけ使う子供用のティーセットや食器などを用意してくれた。絵本の中のティーパーティーのようで、わくわくした。

 

そして、料理の先生になりたいと決めた23年後、私は本当に料理の講師となった。

 

今では、料理の講師の他、私が一番初めに立った台所のあった曾祖父の家を古民家スタジオとし、料理などの撮影スタジオ、メディアや雑誌などのレシピ制作などするようになった。

 

私は、台所を通して、それぞれの時代を生きた女性から、大切なことを学び、受け継いだ。

 

明治生まれの曾祖母からは、大切な人の命を預かる責任と心構え。

大正生まれの祖母からは、大切な人に心を尽くすおもてなしの心と五感の大切さ。

戦後の昭和を生きた母からは、幅広い世界観と大切な人を楽しませ、笑顔にする力を学んだ。

 

そして私は今、あらためて私にとっての料理とは何か?と問われたら、こう答える。

 

私にとっての料理とは、「あなたは大切な人です」という想いを込めた「祈り」。

 

今日も1日、いい日になりますように、という想いを込めて、朝食を作る。

家から出かける家族には、楽しいばかりでなく、ちょっと大変なこともあるかもしれないけれど、空になったお弁当のふたを開けた時には、しばしホッとする。それは、いつも見守ってるよ!というお守りのメッセージでもあるのだ。家に帰ってきたら、「いい香り~。おなかすいた~。今日の夕飯、何?」という、「ただいま」を聞いて、子どもたちが今日も1日無事過ごせ、我が家に帰ってきたことに感謝する。

 

そんな「祈り」と共にあるのが、私の「台所」であり、私の「料理」である。

text and photoprahs - Nozomi Kurashima

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dashi artist

倉島のぞ美

Nozomi Kurashima

古民家キッチンスタジオ&ギャラリー『美の和つた美』オーナー •  おだし作家

信州にて「おだし暮らし」を提唱し、和の心が生きる料理レシピを考案。メディアや食のイベントでの料理講師、フード撮影のスタイリング、レシピ制作など活動中。

当時11歳だった息子との共同製作のレシピ本「ゆうとくんちのしあわせごはん」がある。

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