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#20
FEBRUARY 2022
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PEOPLE

STAY SALTY ...... people here

To be able to swim freely.

2.5 2022

自由に泳いでいけること。

山田さなえ

画家/イラストレーター/アクセサリー作家

小学生の時、
「絵を描くのが好きだから、将来は漫画家になりたい!」

と母に言ったら、
「そういう職業は、ほんの一握りの人しかなれないから、普通の仕事をしながら趣味で絵を描いたら?」

と言われました。

 

もう少し経ってから、
「私は一生好きなことしたい。」

と母に伝えたら、
「一生はムリよ。結婚したらやらないといけないことがいっぱいあるし。」
という返事が返ってきました。

高3で進路を決めるとき、別の道も考えたけれどやっぱり美術の方へ進んでみたいと思った私は「美術の先生になる」という約束をして芸大を受験。

大学で美術を学ぶうち、「本当は人に教えるのは得意じゃないし、毎日作りたいものを作って暮らしていける美術作家、アーティストになれたら幸せだろうな。」という思いが強くなってきたけれど、長い間、それは人には言わないで、心の中にしまっておきました。

 
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中学・高校は美術部で、人より長い時間絵を描いていたので「絵の上手い山田さん」と言ってもらったり、絵画コンクールで賞をもらったりして、少しは自信を持っていました。

でも美術系の予備校や芸大に入ってから、もっと上手い人がはいくらでもいることを実感し、

−−− やっぱり、お母さんの言う通り。

   もっとすごい人がたくさんいるから、絵を描いて暮らすなんて私には無理だろうな −−−

 

と、だんだん自信が小さくなって行きました。

せっかくだから、独学では難しい彫刻を学んでみようと、芸大では彫刻基礎を専攻。
木彫、石彫、陶彫、樹脂などたくさんの素材に触れることができました。

その後、版画を専攻。

シルクスクリーンや、銅版画なども体験し、もう一度、平面に絵を描いてみようとしたけれど、当時は描きたいものがわからず、なんとなく描き続けられない気持ちになって、もう一度、自由な雰囲気の彫刻専攻に戻ることに。

そこでは、自分の作品についてもっと深く考えるようにと学びました。

いくら私の頭で考えても、そんなにかっこいいコンセプトなどは思いつかなかったけれど、「何か面白いことをして、みんなで楽しみたい!」という思いから、蒸しパンを1000個、陶器で作った貝殻状の器に入れて蒸し、芸大のみんなに食べてもらって、殻を集めて「蒸しパン貝塚」を作ったり。

大学でハーブを育てて、収穫したハーブでスパゲティーを100人分作ってみんなで食べる。

食べた人はみんな私の子供になってもらって、ハーブティーを飲みながら
みんなで家族会議をする「スパゲティー計画」というプロジェクトを4年間続けてみたり。

クッキーの実る木から収穫する「クッキー狩り」や人のうまみ話を引き出す「人間鍋」など、

「食べること」
「人と一緒に楽しく過ごすこと」
「生命が続いていくこと」

をテーマに作品を作っていました。

大学を卒業し、レストランや、ギャラリーでアルバイトしたりする中、ギャラリーのお客さんだった社長さんに「うちで働けへんか?」と誘われて、大阪の厨房機器メーカーに入社。

「人と自然の健康に役立つものづくり」を企業理念に、
「働くとは?仕事とは?生きるとは?」と毎日熱く語る社長のお話をひたすら聞いて、会社案内や社員研修用の文章をまとめてイラストを描くというのが私の主な仕事でした。

マレーシアに来てからも時々大阪に行ってお手伝いし、気がつけば、20年以上お世話になっていました。

もう86歳になられて今もお元気そうな社長には、怒られた記憶もたくさんあるけれど、生きるうえで大切なことを教えていただき、今でも感謝しています。

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2001年に同じ会社で知り合ったマレーシア人と結婚。

長男が1歳の時にマレーシア、クアラルンプールに移住。

まだ英語もマレー語もあまりわからないまま、印刷会社で3年間働きました。

その後、家でアクセサリーを作りながら、日本語フリーペーパーのデザインやイラストの仕事をしたり。
長女も生まれて、仕事と二人の子育ての両立に忙しい10年を過ごしていました。

−−− やっぱりお母さんの言う通り。

   結婚したら忙しいし、自分の好きなことなんてできないね・・・ −−−


と多少不満な自分を納得させながら、必死で毎日をこなしていました。

クアラルンプールでの生活が9年くらい経った頃、夫が家探しを始めました。

マレーシアも都会での暮らしは忙しいし、家の値段も高くなってきたので、夫の実家のジョーホール州にもやや近く、クアラルンプールから1時間ほど南の郊外、ヌグリスンビラン州に家を購入。

「40歳になったら絵を描きます!」

と決意して、親しい友人に宣言しました。

40歳になりたての頃はまだ忙しくてすぐには描けませんでしたが、郊外に引っ越して、少し時間の余裕ができてきたので、家の周りにある南国植物の絵を描き始めました。

2014年に、日本の方々とマレーシアのアートエキスポに参加できたことをきっかけに、クアラルンプールのアートギャラリーの方に声をかけていただいて、個展をさせてもらったり、芸大の友達とシンガポールでグループ展をしたりして、少しずつ美術の世界に戻ってきました。

マレーシアのアートグループに入ったことで、現地で絵を描いている友達が増え、フィリピンでのアート交流会にも参加、東南アジアのアーティストたちとも知り合う機会に恵まれました。

ちょうどコロナのはじまる前、大阪のギャラリーで、大学の友人や先輩の協力のもと、マレーシア、シンガポール、フィリピン、日本のアーティストとのグループ展も開催できました。

コロナ後は国内で、ナショナルアートギャラリーの支援するアートキャンプや展覧会に参加させてもらったりして、ますます絵を描いている友人が増え、たくさんのいい刺激をもらえるようにもなりました。

2019年には、シンガポール在住の山内麻美さんから絵本の挿絵の依頼があり、初めての絵本制作のため、マレーシアで絵本作家やアーティストとして有名なユソフ・ガジャさんのところへアドバイスをもらいに。

絵本制作について色々相談したところ、出版もサポートしてもらえることになり、コロナで少し延期にはなりましたが2021年、マレーシアでの絵本出版が実現しました。

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長年イラストを担当していた日本語フリーペーパー「SENYUM」の伊藤さんのコラム「自然の話」では、マレーシアの動植物の多様性やその形や性質のユニークさに感動し、南国の動物についてますます興味が湧いてきました。

そして、マレーシアの動植物を織り交ぜた絵を描いてほしいという依頼をいただいた時、どんなものを描けばいいかと調べていくうちに、この数十年で、マレーシアは大きく発展し、随分便利になった一方で、豊かな自然のジャングルが減り、たくさんの動物が住処を追われたり、密猟されたりして絶滅の危機にさらされていることを知りました。

このままではいけない、森林破壊には自分も加担している、と気づいてはいるけれど、お肉は好きなので菜食主義者にはなれないし、暑いと眠れないのでエアコンもつけたい。
でも私にできることはなんだろう。

それは、一人でやるよりも、同じ目標を持つ人と一緒にやれたらもっといいかもしれない。

もっと熱帯雨林の自然について詳しい人から学んだりできたらいいな。

同じ思いを持つ人たちとコラボしたりして、少しでもマレーシアの豊かな自然を残したいという気持ちも芽生えてきました。

ちょうど1年前に、彫刻家のイスマディさんが主催する、
「ハーブトレッキング~ 伝統ハーブをジャングルで見つけて観察して記録する」
というプログラムに参加し、ハーブガイドや、ハーブドクターの方に色々なマレーハーブを教えていただく機会に恵まれました。

プログラムの後、1年間スケッチを続けたものを出版社の方に見せたら、クアラルンプールのGMBBモールで個展をさせてもらえることになり、日本の友人に頼んで描き貯めた30枚のスケッチで作ったタペストリーを製作。

マレーハーブの種類はたくさんあるので、まだまだ続けて勉強したい。
豊富にあるマレーシア人の昔からの知恵や知識を、他の国の人にも知ってもらいたい、そんなことを考えていたら、大学でオランアスリ(マレーシアの原住民)の研究をされていて、ジャングルの薬草の本を出版されている方に遭遇。友人のお姉さんにもハーブに詳しい方が見つかって、ますますご縁が繋がってきました。

私が作品づくりを通じて目指していることは、

人と比べない、競わないで、
いつも自分の興味のある方へと
自由に泳いでいけること。

マレーシアは、多民族国家なので、生まれた時から自分の民族の文化や宗教を大切にしながらも、全く違う他の民族とも協力できる人たちが多い気がします。

そんなマレーシア人から学ぶことも多く、私も彼らの大らかな気持ちをもらって、のびのびと作品を作れる環境にいることがとてもありがたいです。

お互いの作品を尊重し、励ましあうのが上手で、マレー語も英語もあまりわからない私も仲間に入れてくれるマレーシアアーティストの友人たち。

あちこち行きたがりの私に、自由を与えて、サポートしてくれる夫。
家事も手伝ってくれるようになった子供達。
ジョーホールに里帰りした際には、いつもよりさらにのんびりした休息時間をくれるマレーシアの家族。

コロナでもう二年以上会えていないけれど、元気で応援してくれる日本の両親、家族。

8人の孫のおばあちゃんになった母は、今では孫たちには、
「あんたたちの好きなことしたらいい」
と言っています。

今は、昔よりも「好きなことしたい」って堂々と言ってもいいし、
みんなそれぞれの好きなことがしやすくなっている時代だと思います。

今ある幸せな環境に感謝しながら、これからもマレーシアで制作を続けていきたいと思っています。

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text and photo - Sanae Yamada

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画家/イラストレーター/アクセサリー作家

山田さなえ

2001年にマレーシア人と結婚、2003年にマレーシア移住。

二人の子育て期間の後、身近なマレーシアの自然に魅せられ、水彩、アクリル、油彩などで、熱帯植物や動物を中心に絵を描き始める。

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#19
DECEMBER 2021

食べることは、生きること。

生きることは、つくること。

つくることは、感じること。

感じることは、国境を越えること。

 

食・農・芸術・韓国を通して「人」を描きます。

 

 

これは6年前、地域情報紙の編集記者として働いていた会社を辞めた時、新しい名刺に書き添えた言葉だ。

 

肩書きは「半農半ライター」。30代後半からの人生は、半自給的な暮らしをしながら、食・農・芸術・韓国をテーマに、自分の体験や今を生きる人たちの姿を書いていきたい。そんな思いを込めて作った名刺だった。

半農半ライター

 
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PEOPLE

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What are your dreams?

12.5 2021

あなたの夢は、何ですか?

Kim Mina
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本当に望む暮らしとは?

 

それまでの私は、農業とは無縁の生活を送っていた。

片道2時間の通勤で、家には寝に帰るだけの毎日。

残業が続くと食事は不規則になり、いつも慢性的な肩こりや腰痛、逆流性食道炎に悩まされていた。

 

編集記者の仕事は、生みの苦しみが伴うとはいえ、とても楽しかった。

取材先や読者から、感謝やお褒めの言葉が届くことも増え、「もしかしてこの仕事が私の天職なのかも」と、ようやく自信が持てるようになってきた頃でもあった。

それなのに、もう一人の私がいつも首をかしげていたのだ。

「本当にやりたいことや、望む暮らしは何なの?」と。

 

「仕事して寝に帰るだけの毎日なんて嫌だ。本当は自分が作った野菜を料理して、ゆっくり味わいながら食事を楽しみたい。それに、今の私はお金がなければ食べ物を得ることもできないし、電気がストップしたらたちまち仕事もできなくなってしまう。それって生物として、とても弱いなって思わない?人間がこんな生活を続けていたら、先人たちが残してくれた知恵や技術も失われていくばかりじゃないかって、いつも危機感を抱いてる…」

 

「じゃあ、どうすればいいと思う?」と、もう一人の私が聞いた。

はっきりと答えが出ない中で、私は少しずつ自分の生活を変えていこうと試み始めた。

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「つくること」を始めて

 

ある時は、帰宅してすぐパウンドケーキを焼き、甘い香りに包まれながら眠りについた。

またある時は、韓国のパッチワーク「ポジャギ」を参考にカーテンをデザインし、一針ひと針縫い上げた。

「できた!やればできるやん」。

不器用だから何もできないと決めつけていたからこそ、完成した時の喜びは格別で。

少々不格好でも、全てが愛おしかった。

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そしていよいよ、春からベランダ菜園を始めようかと思っていたその時。

職場の同僚から有機農業塾の話を聞き、1年間月2回、週末に里山へ通う生活が始まった。

 

初めての農作業は、驚きや発見、感動の連続だった。

澄んだ空気、踏みしめる土のにおいや感触、吹き抜ける風の清々しさ。

作物の力強い生命力を目の当たりにする一方で、ささいなことで朽ちていく生命の儚さも知った。

大麦を炒って麦茶を作ったのは初めてだった。

作業後の疲れた身体を癒してくれる、その香ばしく濃厚な風味といったらもう!

 

どんなに疲れていても、畑に行くと元気になれる気がした。

お日様の光を浴び、身体を動かし、採れたての野菜を持って家に帰る。

洗って切って、ゆがいて焼いて。

シンプルな味付けでも十分おいしい料理が完成した。

食べることは好きだけど料理は苦手だった私が、進んで台所に立ちたくなるくらい、採れたての有機野菜は味も香りも豊かで、美しかった。

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「平日は編集記者として働き、週末は農作業をする。この暮らし、最高じゃないか!」

 

やっと理想の生き方が見つかったと安堵した時、またもう一人の私が、納得いかないという顔をしてみせた。

「あなたが本当に書きたいこと、伝えたいことは何なの?これからもずっと情報紙を作っていきたいの?」と。

自分に問うた答えは「ノー」だった。

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残りの人生があと3か月だとしたら

 

有名人や著名人のみならず、素敵な生き方をしている市井の人は五万といる。

誰にでも皆、その人だけの歴史があり、その人だけの言葉がある。

20歳の頃から「人が生きるとはどういうことだろう?」と考えてきた私には、取材を通して出会う人が皆、生きた教科書であり、先生だった。

 

でも、いくら素敵な人の話を聞いて帰っても、自分がその人のようになれるわけではない。

例えば、パン職人の方からおいしいパン作りの秘訣を聞いたとしても、

私が何も始めなければ、永遠に自分のパンは作れないままなのだ。

 

私はパン作りの秘訣を取材し、記事にまとめて終わるのではなく、

自分でもパンを作れる人間になりたいと思い始めていた。

家でパンが作れるなんて考えもしなかった人間が、ある日パン作りに挑戦し、

続けてみたらどうなったのか?何を感じ、何を得て、何を失い、何が残ったのか?

そういった自分の体験を書き綴り、後世の人に伝えていきたかった。

 

農業塾を教えてくれた同僚に借りた1冊の本を読み終えた時、心は決まった。

2003年に出版されたその本、『半農半Xという生き方』の中で、

著者の塩見直紀さんが書いていた“半自給的な農業とやりたい仕事を両立させる生き方“。

残りの人生があと3か月しかないとしたら、私はその生き方を目指したいと思った。

そして、会社を後にした。

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思いを書いて伝えると、人生が動き出す

 

なりたいと思う姿を人に伝えていくと、不思議なことに、面白がってくれる人や応援してくれる人が現れ始めた。

「食と農といえばこんな本があるよ」とか、「うちで畑をやりながら記事書いて、一緒に週末朝市を作らない?」とか、「農と韓国と言えば、この人に連絡してみるといいんじゃない?」という風に。

 

そうやって人からもたらされた出会いやチャンスと一つずつ向き合っていくうちに、思いがけず韓国で、3か月間の農業体験取材を行うことになった。

春から夏にかけて取材し、帰国したら、今度は日本の有機農家さんを訪ねる旅に出て、書きためたエッセイを1冊の本にまとめたい。

そう思っていた。

 

韓国は30代初めに1年間語学留学していた、縁の深い国だ。

「短期とはいえ、また暮らせることになるなんて…」と期待に胸を膨らませ、仁川国際空港に降り立った時、迎えに来てくれた友人の横に、見知らぬ韓国人男性がいた。

それから毎週、滞在先の農家さんの畑を手伝いに来てくれた彼は、その年の冬、私の夫になった。

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思いもよらなかった国際結婚を機に韓国へ移住し、丸4年。

私は今、3歳の息子を育て、夫と共に自営業を営み、

時々義両親の畑も手伝いながら、

今しか綴れない思いをエッセイや詩の形で書き残す。

そんな日々を送っている。

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10代の頃からあった農あるくらしへの憧れ

 

中学生の頃、夢をひとつに絞り切れなかった私は、卒業文集に「コントラバス奏者になる」、「中学校で社会を教え、吹奏楽部の顧問になる」、「笑いじわの多いおばあちゃんになる」、そしてなぜか「農家の嫁になる」と書いていた。

 

音楽家になる夢は早々に絶たれ、教師になる道に進んだものの自らそのレールを降りた私は、生きる目的を見失い、何の縁もなかった北海道弟子屈町のペンションで、4か月住み込み生活を始めた。

20歳の頃のことだ。

 

ペンションやカフェなどを自営する人たちは、夏の観光シーズンに休みなく働き、雪が降り積もる時期は旅に出たり、絵を描いたり、物づくりに励んでいた。

移り変わる自然環境に合わせてできる仕事をし、ないものは自らの手で作り、人生そのものをクリエイティブに生きている感じがした。

「私もいつか田舎でこんな風に暮らしたい」。

そんな新たな夢が生まれたのは、まさにこの時だった。

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その後、北海道から去り難くなった私は、のちの恩師となる人が書いた「人間は学び発達するという視点で、人間を学問の対象とした場である」という一文に出会い、札幌の大学に編入。

卒業後は「人が生きるとはどういうことか?」の答えを求めて、名刺一枚で様々な人の人生に触れられる編集記者の職に就いた。

 

就職した当時は「農家の嫁になる」なんて書いたことをすっかり忘れてしまっていたのだが、

大学卒業前の日記を読み返すと、こんな言葉を書き残していた。

―――私は、できるだけ知恵を絞って生活する暮らしにとても憧れている。

   「生きるために生きる」という生活。

   自分たちの食べるものは自分たちで作り、物が壊れたら自分で直し、

   ないものは自分でつくり、そういう生活がしたいと思う。

   田舎暮らしに憧れるのも、そういう気持ちからだ―――

 

それから紆余曲折あり十数年。

韓国で出会った夫は農夫ではなかったけれど、牧場や果樹園を営み生計を立ててきた農家の息子だった。

つまり私は、中学生の頃に書いた「農家の嫁になる」という夢を叶えてしまったというわけだ。

やはり、思いを言葉にして人に伝えると、いつの日か実現してしまうものなのかもしれない。

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夢がきっと、進むべき未来へ導いてくれる

 

幼い頃から海外に全く興味がなかった私が、どうして社会人1年目の初海外旅行で韓国を訪れ、韓国料理や韓国文化に夢中になり、留学して韓国語まで勉強するようになったのか?

20〜30代にかけて徐々に深まっていく韓国との縁が自分でも不思議でならなかったのだが、半農半ライターとして韓国で農業体験取材を始めた時、農家さんたちがその答えを教えてくれた気がした。

 

「2人はよく似ているね。長年連れ添った夫婦みたい。あなたたちのような出会いを韓国では、천생연분(天生縁分…天が定めた縁)っていうんだよ」

 

言葉にするのは恥ずかしいけれど、たぶん、きっと、今の夫や息子に出会うために、これまでの人生があったのだと思う。

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毎年挑戦しているベランダ菜園は失敗続きだし、コロナの影響で義両親の畑にもなかなか行けなくなり、理想の半自給的な生活からはほど遠い毎日ではあるものの、食べること、生きること、つくること、感動することを昔よりもっと楽しめるようになった自分が、確かに今ここにいる。

 

計画通りに進む人生は、達成感があって良いだろう。

だけど、何か見えないものの力によって、自分の想像を超えた未来へと導かれていく人生も、またおもしろいものだ。

 

まだまだ道半ばではあるけれど、私には書きたいことがたくさんある。

エッセイ・詩・小説など、書き溜めたものをいつか出版し、その本を通して世界中の人々や、100年後を生きる人たちにも出会ってみたい。

 

こうして思いを書いて人に伝えることで、願いは少しずつ叶っていくはずだから。

さあみなさんも、どうか思いのままに書いてみて。

もう願いが叶ったような気持ちで、楽しく自由に。

 

あなたの夢は、何ですか?

text and photo - Kim Mina

半農半ライター

Kim Mina

1982年九州生まれ、関西育ち。北海道大学教育学部卒。2006年、地域情報紙の編集記者1年目に初の海外旅行で韓国・釜山へ。2010年〜韓国語を学び始め、2012〜13年ソウルの延世大学語学堂に留学。帰国後、再び編集記者を経て2015年秋からフリーランス。食・農・芸術・韓国を通して人を描く「半農半ライター」の活動を始める。

2017年、韓国での農業体験取材を機に国際結婚し、韓国へ移住。現在は半農半作家生活を模索しつつ、子育て・家業・日本語会話講師の仕事に励み、今しか書けない思いをエッセイや詩で表現することがライフワーク。

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#18
NOVEMBER 2021
 
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PEOPLE

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I can be more free.

Saki

もっと自由になれる

Dancer  早記

11.5 2021

ダンサーとして華々しい実績が多いわけでもなければ、

優れた身体能力を持ち合わせているわけでもない。

そもそも性格的に向いてなかったのか、ただの努力不足だったのか。

人生の大半を費やしてきたはずのダンスで、

私は何かを残してきたのだろうか。

 

この敗北感と劣等感にいつも付き纏われ、

自信がない。

でも意地だけはある。

 

いつのまにか出来ない理由を探すことが得意になった。

 

2020年

コロナ禍で制限された生活となり、

 

もっと自分の手で何かに取り組んでいるという実感がほしい。

いわゆる自己肯定感というやつをもう少し持てるような生き方を、

いい加減、誤魔化さずに探したい。

 

考える時間が果てしなく増えた私は、迷走の沼に嵌まっていった。

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これまでの私

私がダンスに費やしてきた時間は、大きく3つの時期に分かれる。

5歳から小学校卒業まで通っていたモダンバレエ教室。

この頃の私は無敵だった。

褒めれば伸びる(おだてれば木に登る)

という特性をいち早く見抜いた素晴らしい先生との出会いが功を奏し、

誰よりも私がいちばん上手だと本気で信じていた、

楽しいことしかない小学生の時期。

 

その後短大生になった頃から、大手ダンススタジオに通いつめては、

スタジオの発表会やクラブイベントにさんざん出演していた時期。

あとひとつは、自分が教えたり振付したりする立場になってからの時期。

 

私には20歳くらいの頃から、10年以上師事した女性ダンサーがいた。

踊り方だけでなく、考え方や話し方、身につけるウエア、

果てはメールの打ち方までも影響され、何から何まで真似をした。

生き写しになりたいとすら思っていた憧れの人。

 

素敵なダンサーは多かれど、

生き写しになりたいと思うまでの人は師匠だけだろう。

師匠の振付で、スタジオ発表会やクラブイベントに出演したり、

アシスタントとして振付の仕事に携わらせてもらったり。

背中を追い続け、その振付や指導を近くで見てきたことは、

立場が変わった今、確実に私の中に活きているし、

こうしなければいけない、と凝り固まっていた私がいつも、

もっと遊べ

踊りがつまらない

と言われ続けた意味も今ならよくわかる。

 

師匠と、一緒に踊っていた仲間と懸けてきた時間は濃く、

何物にも変えがたい日々で、

細胞まで染み込み私を作り上げた大切な時間。

 

だけどいつも自信はなかった。

これだけの経験をさせてもらえるのは師匠がいるからだと。

決して自分の力ではないという思いが、

根なし草のような不安とともに常にあった。

 

これまでほぼ同業者ばかりの環境にしかいなかった私はその中で、

信頼関係を築く難しさ、自分のアイデアを主張する難しさに卑屈になり、

そんな自分が嫌いになった。

 

悔しさも飲み込んで一歩引いてしまうのは、

逃げの卑怯を孕む私の弱さ。

立場が変わっても、いつまでも付き纏う敗北感と劣等感。

いつまでこんな私でいるの?

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これからの私

コロナ禍で迷走の沼に嵌まったことは、

仕事への考え方や、働き方改革を余儀なくされ、

文字通り迷っていたのだけれど、

私にとってマイナスなことばかりではなかった。

 

もう少し世界を広げてみよう

 

そんなふうにはっきり意識したわけではない。

でも損得勘定を抜きにして、私が好きなことってなんだろう。

きっとそんなことをふんわりと考えていて、

時間を持て余していた昨年の夏、noteというSNSに出会った。

 

最初は誰とも繋がるつもりもなかった。

InstagramにもFacebookにも書ききれないような独りよがりな思いを、

文字に起こすことだけで満たされた。

 

でも私が思っていたよりもずっと、noteの世界は優しかった。

 

リアルの世界では、

これまでなかなか知り合える機会のなかった分野の人達も多く、

文章を介して人と人が繋がることは、

実際には会ったことがない者同士にも関わらず、

不思議と信頼関係が築かれる。

投稿された記事を読み、その人の思いや考えを知り、

知らなかった文化に触れることで、興味の幅がグっと広がっていく。

そして、多様な個々を優しく受け入れる寛大さ。

ダンサーです、と、自分を晒してあれこれ勝手な思いを綴る私にも、

私の知らなかった私を見出してくれるような。

そんな思いがして、私の心の拠り所となっていった。

 

それと同時に、書いた記事に何かしらの反応をもらうことで、

心の中がどんどん整理されていった。

ダンサーとして活動してきたこれまでの経験に、

少しずつ誇りを持てるようになり、

新たな夢を恥じることなく文字に起こせたことで、

 

もっと自分の手で何かに取り組んでいるという実感がほしい。

 

その願いが思わぬ形で具体的に動き出した。

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お寺 × ダンス

noteに投稿した記事に、

踊る時や振付作品をつくる時に大事にしているイメージ

世界観やコンセプト

そしてこれから先のダンスへの姿勢

について書いたことがあった。

 

これから先も踊り続けたい。

この世界観をもっと整えていきたい。

プレーヤーであり、振付や演出もしていたい。

そしてもうひとつ、

劇場やクラブといったダンス公演やダンスイベントで踊るような場所から、

一歩飛び出したい。

 

ダンス公演やダンスイベントを観る、そういった機会が身近にあるのは、

ダンサーかダンスを観ることが特別好きか、家族や友人が出演しているか、

そのような人がほとんどだと思っている。

 

noteでダンスについて綴った内容に、

これまでダンスには縁遠かった人達が新鮮な反応を寄せてくれたように、

いわゆる踊りを観るような場所でないところで踊ることで、

何か新しくて面白いことが生まれる機会になるのではないか。

 

記事を書いた時はまだ漠然としていたのだけれど、

このことについてもnoteは思わぬきっかけをくれた。

 

現代アートや歌、音楽など、アーティスト支援と地域の交流を目的として、

プロジェクトやイベント開催をしているお寺さんというのが、

けっこう多くある。

 

そんな情報をくれたのも、noteの記事を読んでくれた建築家の女性。

調べてみると、自宅からそう遠くはない場所で、

アーティスト支援のプロジェクトを開催しているお寺さんを発見した。

 

出来ない理由探しが得意な臆病者の私が、

すでにプロジェクトの応募期間は過ぎていたにも関わらず、

ダメ元でお寺さんに連絡を取り、

ご相談に伺う約束を取り付け、

企画書を書き、

 

今回はコロナ禍ということで、

実際にお寺さんに観客を入れてのパフォーマンスとはならなかったけれど、

 

お寺 × ダンス

 

知り合いの映像クリエイターに撮影の相談をし、

アートプロジェクトの一環として映像作品をつくらせてもらえる機会を得た。

 

自分の手で何かに取り組んでいるという実感。

 

背中を押してくれたのは、

新しい視点で新しい反応をもらえた新しい出会い。

 

いつまでも指咥えて見てるだけじゃなくて。

 

四捨五入すれば40歳となった今、

ようやく自分が自分でいられることを誤魔化さずに、

ワクワクを取り戻しつつあるようだ。

あの無敵だった小学生の頃を思い出せば。

 

過去に囚われ過ぎていた私は、

きっとこれからもっと自由になれる。

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text and photo - Saki

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ダンサー

早記

Saki

モダンバレエ 7年

ジャズダンス 15年

 

・フジテレビ『SMAP×SMAP』ダンサー出演、振付アシスタント等。

・NHK 2008年『紅白歌合戦』氷川きよしバックアップダンサー。

・NHK 『きよしとこの夜』ダンサー出演。

・NHK『BS日本のうた』川中美幸、瀬川瑛子バックアップダンサー。

・ミュージカル『中野ブロンディーズ』振付アシスタント。

・2015年 m.c.A・T 企業イベントバックアップダンサー。

・2018年 東京国際フォーラム 高橋真梨子コンサート『グランパ』振付、ダンサー出演。

・2019年 World of Dance tokyo、Show Stopper Japan にて、エキシビションゲストとして出演。

・東池袋52 振付指導、@jamexpo 2019 にて、シングル『 幸せのセゾン 』

 モーションキャプチャーでのCG映像出演。

・星座百景 ダンス指導。

・アップアップガールズ〈2〉ダンス指導。

・2020.1 R!pp V!bs 『 Last Message ~最後の花束 』MV出演。

・2020.7 タマ伸也『ライブハウスで会いましょう』MV出演。

その他、都内中心にダンスイベントへの出演やナンバー出展など活動中。

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#17
OCTOBER 2021
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PEOPLE

STAY SALTY ...... people here

Poco a poco, uno camina lejos
(Little by little, one walks far)

Yumi Hoshino
 

一歩また一歩、どこまでも遠くへ

はじめての翻訳絵本

絵本の発信をはじめたのは、今から10年前、2011年の5月でした。

それまで書き溜めていた山積みの翻訳絵本の企画書が、ある日、ただの紙切れに過ぎないことに気づき、FBIの秘密文書でもあるまいし、ええい、いっそ全部公開してしまえと、ブログで絵本レビューを発信することにしたのです。

ちょうど東日本大震災の後でした。

明日どうなるかなんて分からない、誰もがそう思ったにちがいありません。

 

誰かに届けたいというよりは、自分の気持ちに折り合いをつけたかったのだと思います。

絵本を翻訳して出版する夢が叶わなくても、それまでの過程を残しておきたかったのです。

今できることをすれば、明日、倒れて終わっても本望。

そんな気持ちもありました。

 

ブログでラテンアメリカを中心に絵本の紹介レビューを細々とアップしていたところ、世界の絵本を定期的に刊行する絵本の出版社の方から、ある日、一通のメールが届きました。

「絵本をいくつか見せていただけますか?」そんなお声がけだったと記憶しています。

それまでも絵本の持ち込みは、いくつかトライしたことはありましたが、人脈もツテも実績もない私に、時間を割いてくれる編集の方はなかなかいません。

たいてい「郵送してください」と言われて、絵本のコピーと企画書を送ってそれっきり。

会うところまでいっても、「ラテンアメリカの絵本、めずらしいね」その先は進まず。

そんな繰り返しを幾度か経験した後でした。

 

その日も、寅さんのように、スーツケースに詰め込めるだけ絵本を詰め込んで、いつものように絵本を紹介して帰る心づもりでした。

ところが、その日はいつもと違っていました。

「実は、版権を取ってあるんです。翻訳をお願いできますか?」と言っていただいたのです。

その瞬間、涙がぶわっとあふれて止まらなかったのを記憶しています。

 

はじめての翻訳絵本は、コスタリカの作家の絵本で『まぼろしのおはなし』という作品でした。

主人公は、図書館のかたすみでひっそりとかくれている一冊の本。

「わたしは まぼろし。だれにも みえない。」

それまで、だれひとりとして開くことのなかったその本を見つけたのは、本の背表紙を一冊一冊、指でなぞりながら本を探す目の不自由な女の子でした。

白いてんてんがページいっぱいにひろがる「まぼろしのおはなし」は、点字の絵本だったのです。

 

—  こんなすばらしいおはなしは、ほかにはない。

   ただ、ちょっと ちがうだけ。

   色とりどりの鳥のはねのように。さまざまな人のかおのように。

   大きなイチヂクの木の、かぞえきれない木の葉のように。—

10.5 2021

Spanish translator  星野由美

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タイトル:まぼろしのおはなし

著者:作/ハイメ・ガンボア、絵/ウェン・シュウ・チェン、訳/星野由美

出版社:ワールドライブラリー

私にとって絵本探しの旅は、鉱山でダイヤモンドの原石を発見するようなものです。

絵本を探しはじめた1995年以降、当時日本で紹介されていたラテンアメリカの絵本は、昔話や社会派の絵本が主流でした。

その一方、ラテンアメリカでは、イマジネーションにあふれ心豊かになる素敵な絵本が、2000年頃から続々と刊行されていきます。

『まぼろしのおはなし』も、その1冊でした。

 

翻訳のお話をいただいたその日、表参道にあった出版社を出た後も、うれしくて泣きながらフラフラと、ゆっくり原宿の駅まで歩いた記憶があります。

ようやく夢が叶ったのです。

2014年8月のことでした。

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遡ることさらに20年、はじまりは

今思えば、そのきっかけを作ってくれたのは、2014年からさらに遡ること約20年前の1995年、南米べネズエラに滞在していた時に通っていた、町の小さな本屋さんでした。

「Mi casa es tu casa (わたしの家は、あなたの家よ)」

ベネズエラの友人のこの言葉を信じて、3年勤めた会社を退職してベネズエラへ渡ったのが1995年、26歳の時でした。

旅行ではなく、現地で生活してみたかったのです。

 

南アメリカの北部、カリブ海に面する共和国ベネズエラ。

彼らのスペイン語は、まるで歌っているように聞こえました。

みんなとにかくよく笑い、涙もろく、たくさん喋ります。

じっと目をそらさずに話すので、逃げ場がなくてどきどきすることもあります。

刺激的な毎日ではありましたが、やはり私は日本人なので、時々ひどく疲れてしまいます。

そんな時、首都のカラカスにある、スペイン人夫妻が営む小さな書店が、私には避難所となっていました。

今ほどではありませんが、当時もベネズエラは治安があまりよくなかったので、一人でほっとできる空間があまりありません。

スペイン人夫妻のトマスさんとオルビドさんは、ご年配ということもあり、また、スペインから移住された経緯もあったのでしょう。

口数は多くないけれど、いつもさりげなく気にかけてくれました。

「いつでも寄りなさい」、「好きなだけいなさい」と声をかけてくれて、お茶をだしてくれたりしました。

それでいて、放っておいてくれたりもします。

ホームシックで泣いた時には、ぎゅっと抱きしめてくれて、本当に心の拠り所でした。

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ベネズエラの本屋さんオルビドさんと

帰国する時、おふたりが1冊の絵本をプレゼントしてくれました。シェル・シルヴァスタイン作の絵本『おおきな木』でした。

“ぼうやが大好きな木は、彼に幸せになってほしくて愛を与えつづけます。

ぼうやは、やがて大人になり、そして老いてゆく。

けれど彼にとって、木はいつだって帰ってくるところ。

そして木も、幸せなんです。

見返りのない愛だから。(筆者一部要約)”

 

私にとって、書店を営むスペイン人夫妻は、『おおきな木』のような存在でした。

おふたりが私に与えてくれた深い安堵感は、この1冊の絵本にすべて凝縮されています。

私にとって、この絵本は一生の宝物になりました。

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出版社:Litexa Venezolana

タイトル:El árbol generoso

著者:作/ Shel Silverstein

翻訳者:Carla Pardo Valle

出版社:Litexa Venezolana

そしておそらく、この頃からだったと思います。

南米の絵本を意識的に集めるようになったのは…。

残念ながら『おおきな木』は米国の作家でしたが、では、ベネズエラの絵本はどうなんだろう?

 

多様な人種から成るベネズエラには、色彩豊かな力強い作品が多く、優れた芸術文化があります。

そこで私が強く惹かれたのは、自分を芸術家と意識していない人々が、労働の合間に制作するような大衆芸術の作品でした。

今では、素朴派やアウトサイダー・アートに位置づけられるかもしれません。

まさにダイヤモンドの原石のような作品。

力強く、時に常識を覆し、時空を超越するもの。

ラテンアメリカの幻想文学の特徴ともいえるマジック・リアリズム…。

 

たとえば当時、友人の絵描き志望のサムエルは、ベネズエラのシンボルを実に色彩豊かに描いてくれました(参照:Venezuela by Samuel Tovar)。

エンジェルス・フォールを背景に、中央ベネズエラの平原のジャネーロ(カウボーイ)、アマゾンのヤノマミ族、美しいメスティーソの女性と白人女性、色鮮やかなコンゴウインコ、そしてカリブ海。

豊かな自然、多様な人種、多彩な動物。

この国の日常は色であふれているのです。

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Venezuela by Samuel Tovar

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サムエル・トバル(お姉さんと一緒に:2021年現在)

こうして、私の絵本さがしの旅がはじまりました。

当初、私が注目したのは、ベネズエラのエカレ社という子ども向けの出版社のラインナップでした。

今では、活動拠点をスペインやチリにまで広げており、ボローニャ国際児童図書展でラテンアメリカの最優秀出版社賞も受賞しています。

そこのラインナップの本は、既存のデザインやフォーマットを逸した魅力的な絵本ばかりでした。

 

さらにベネズエラには、バンコ・デル・リブロ(Banco del Libro:本の銀行という意味)という読書推進機関があり、毎年、子どもの本の優良図書を選定していました。

そこで選ばれたラテンアメリカの絵本にも注目していきました。

そして、当初ベネズエラという国にこだわっていた絵本探しは、その後、ペルー、チリ、コロンビア、アルゼンチンへと移り変わり、中米はキューバ、コスタリカ、メキシコ、もちろんヨーロッパのスペインまで広がっていきました。

というのも、チリの作家がスペインの画家と組んでスペインの出版社から絵本を出したり、ペルーの作家がメキシコの絵本コンクールに応募して、入賞後メキシコの出版社から刊行したり等々、彼らの芸術活動はスペイン語という共通言語を通じて、容易に国境を飛び越えていくのです。

多様性、インクルージョンという言葉は、日本ではここ十数年で使われるようになった言葉ですが、ラテンアメリカという文化圏に住む彼らにとってはもはや日常なのです。

国という枠組についとらわれて本を探してしまう、自分のなんと視野の狭いことでしょう。

 

そのうち国にこだわるのではなくて、心を奪われる“人”や“作品”に出会うことが、なにより一番大切だと思うようになりました。

今では「絵本」や「スペイン語」という枠組さえも、あまり気にならなくなりました。

もちろん個人的に、スペイン語のほうが英語よりも好きというところはあるのですが…。

 

そんなわけで、ベネズエラから始まった絵本探しの旅は、今年でかれこれ26年になります。

はじめて翻訳出版をしてからは7年、翻訳した作品は15冊になりました。

数は少ないですが、どれもわが子のように愛おしい作品です。

 

また、絵本を通じていろんな出会いも生まれました。

その間、ペルー大使館をはじめ、スペイン語に関する仕事についたり、結婚したり、双子を産み育児に追われたり等々、色々あった26年でした。

ただ、これからも変わらずにこだわり続けたいのは、自分が心を奪われた作品には、刊行できるできないにかかわらず、簡単に諦めないことだと思っています。

たとえその時に実現しなくても、せめて意識の片隅に置き続けること。

社会の流れ、人との出会いの中で、チャンスが訪れた時に、その本の魅力をまた紹介できるように。

 

たとえば、ペルーの著名な現代詩人ホセ・ワタナベさんとは直接の交流があり、残念ながら2007年に逝去されましたが、2003年にペルーを訪れた際、彼と交わした詩集の刊行の約束から日本語出版の実現に至るまで、プロジェクトとしてはトータルで15年余りの年月がかかりました。

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タイトル:ペルー日系詩人ホセ・ワタナベ詩集

著者:ホセ・ワタナベ

共編訳:細野豊、星野由美

出版社:土曜美術社出版販売

また、メキシコの女性画家フリーダ・カーロが、人生最期の10年間に綴った絵日記『フリーダ・カーロの日記』は、かれこれ20年がかりのプロジェクトです(2021-22年に刊行予定)。

1998年、神保町のイタリア書房でこの日記の本を手にした時から、すっかり彼女の絵の迫力に引き込まれ、出版の道を探ってきました。

 

ところが、メキシコの文化遺産である彼女の著作物の版権は非常に複雑で、何度もこれまでかと思うことがありました。

それでも諦めきれず、日本での刊行を夢見て、翻弄されながらも、何かに取り憑かれたようになって、ずっと模索してきました。

そして、ようやく夢が実現しつつあります。

 

絵本から詩へ、自分の生き方と並行して訳したい作品も少しずつ変化してゆきますが、その時々に心奪われた作品は、できるかぎり積極的に、これからもこだわってゆければと思っています。

その時、出会った本が、自分の最後の翻訳作品だと思って。

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タイトル:El diario de Frida Kahlo

著者:Frida Kahlo

出版社:La vaca independiente

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最後に

私にとって絵本さがしの出発点となった絵本は、先ほどご紹介した『おおきな木』でした。

無償の愛をテーマに、年代によって楽しみ方もさまざま、いろんな読み方ができる絵本です。

シンプルでいて深い、絵の見方によって別のお話しが見えてくる。

そんな絵本です。

いつの日か、私も絵本を探していく中で、スペイン語圏の『おおきな木』のような絵本に出会いたいと、ずっと思っていました。

そしてようやく、チリの友人を通じて、絵本『わたしたち』に出会いました。

もし本屋さんで見かけたら、お手に取っていただけたらうれしいです。

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タイトル:わたしたち

著者:パロマ・バルディビア、訳:星野由美

出版社:岩崎書店

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text and photo - Yumi Hoshino

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スペイン語翻訳家

星野由美

Yumi Hoshino

1969年東京生まれ。早稲田大学教育学部卒業。スペイン語圏を中心に詩と絵本の翻訳をしている。
訳書に『どうしてなくの?』(偕成社)、『たかくとびたて女の子』(汐文社)、『カメとクロジャガー』(福音館書店月刊絵本こどものとも)、

『わたしたち』(岩崎書店)、『なぞなぞえほん  ぴぅ!』(ワールドライブラリー)など。

2021‐22年は絵本翻訳の他に、『フリーダ・カーロの日記』と宮沢賢治の日西バイリンガル詩集を共訳で刊行予定。
心を奪われるような絵本との出会いを求めています。

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PEOPLE

STAY SALTY ...... people here

This is how we live now

Michiko Kurushima
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#16
SEPTEMBER 2021

いま、こうして生きている

東京から北海道に移住して

朝5時、起床。まだ薄暗い中、精米機で米を研ぎ、鍋でごはんを炊く準備をする。

お米を水につけている約20分。

パソコンを開いて昨日の夜に来たメールに返信。

空が明るくなってくると3人の子どもたちが起きてくるので朝ごはんとお弁当の準備。

子どもたちを学校と保育園に送り出したら、カバンに仕事道具を詰め込んで、自宅から車で5分ほどのところにある仕事場へ向かう。

ようやく落ち着いて仕事を始めるのが、だいたい9時頃。

自宅とは別に借りている部屋は森が近い。

部屋に一人でいると虫たちの大合唱が聞こえてくる。

 

北海道岩見沢市に移住して10年。

岩見沢の市街地から山間の美流渡地区に引っ越して3年。

東京時代は美術の専門出版社で編集者として働き、東日本大震災を機に夫の実家のあった岩見沢市に住まいを移した。

現在は退職しフリーランスの編集者となったが、あいかわらず美術関係の書籍編集がメインの仕事。

それ以外に、ウェブマガジンや雑誌で日々の暮らしについて連載し、美流渡地区のPRや移住者支援活動も行っている。

 

Editor / Writer / Part-time lecturer at Hokkaido University of Education  來嶋路子

9.5 2021

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締め切りという重圧

数日おきに締め切りがやってくる。

連載の執筆は月に3本。

それ以外にウェブや雑誌などの執筆が月に数本。

連載はたいてい締め切りの前日か当日に書く。

書く前は、「今日は果たして言葉が出てくるのだろうか、いい原稿が書けるだろうか」と不安になるが、そんなとき「事実の一つ一つを偽りのない言葉で正確に描写するしかない」と自分に言い聞かせる。

そして、私は書き出しの言葉が出るまで、とにかく部屋の中をぐるぐると歩き回る。

ときには机を磨いたり、コーヒーを淹れたりもする。

すると、ふと最初のフレーズが浮かんでくる。

 

そのフレーズを、すかさず書き留めていくのだが、途中でうまくいかない部分が出てくる。

説明的な言葉が続いたり、同じような言葉を繰り返してしまったり。

そんなとき異常にお腹が減ってきて、お昼に用意しておいたお弁当を10時くらいに食べてしまう。

また、仕事場の前に広がる庭に出て、草を抜いたり、ときにはレモンバームやカモミールを摘んでハーブティーを入れたりもする。

こうした行為の合間に浮かんだ言葉を、無理矢理にでも少しずつつなげていく。

低空飛行の中で、心の奥に「一番語っておきたいこと」がぼんやりと現れ出す。

それを心の中で温めながら、事実を一つずつ積み上げていく。

 

右往左往の末に、ある瞬間にスイッチが入ったかのように原稿に集中できるときがやってくる。

こうなったらもう動いたり食べたりせずに、言葉を連ねていく。

そうして自分の気持ちが、まるでコップから水が溢れ出るように盛り上がったときに、あの心の中で温めておいた「一番語っておきたいこと」を原稿に放つ。

 

そのあとは何度も原稿を声に出して読み、伝わりにくい言い回しなどを少しずつ直していくと、ある時点で「出来上がった」と思う。

完成原稿を、すぐに発注者にメールして、子どもたちが待っている家に慌ただしく帰る。

ときどき、単行本の執筆で長文を書くことがあるが、そうなると一度入ったスイッチが切れなくなってしまい、子どもたちが寝た後に続きをやったり、朝の時間も執筆に費やしたりする。

集中力が高まるのは良いことではあるが、1週間ほど、このテンション高めな状態が続くと、歯茎が腫れたり、首が痛くて回せなくなったりと、体の方が持たなくなる。

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© Ikuya Sasaki

編集の仕事は気持ち的にラク

原稿執筆よりも多くの時間を費やしているのが、編集の仕事だ。

編集者とは、本に関わる著者やライターやカメラマン、デザイナー、印刷会社などの間に立って交通整理をしながら、みんなのモチベーションを上げつつ、本を刊行するのが役目。

最近担当している本は500ページ規模のものも数冊あって、長距離マラソンのように何年も時間をかけている。

執筆よりも編集の仕事の方が気持ち的にラクで、かなりスピーディーに作業を進められる。

例えば、どのページにどんな内容を入れるのか、写真はどのようなものにするのかという、ラフなレイアウトをつくる作業は大好き。

アイデアは無数に浮かぶし、300ページくらいであれば半日で構成を決められる。

発注してくれるのは、主に東京時代の同僚や仕事仲間。

美術という専門的なジャンルからなのか、遠方の私に仕事を依頼してくれるのは本当にありがたい。

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手がペンキだらけの地域活動

最近は仕事の領域は広がりつつある。

私が住んでいるのは人口わずか350人ほどの過疎地。

4年前に、この地域に観光マップがないことに気づき、私が住んでいる美流渡地区を含む岩見沢市の山あい一帯のマップを、地域の仲間と作成することにした。

観光名所がほとんどない地区であったが、魅力的な人々が住んでいたので、地域住民約100名の似顔絵を掲載したものとなった。

マップは好評。

移住者が増えると、その似顔絵をプラスしたりなどして毎年更新している。

それ以外にも、地域にはアーティストや工芸作家が多数住んでいるので、みなさんの作品を販売するイベントも札幌や東京で企画してきた。

 

こうした活動に、今年は新しい展開が生まれている。

昨年夏に、東京から20年来の友人である画家のMAYA MAXXさんが、美流渡に移住した。

私が使っている仕事場の向かいに取り壊しの決まっていた長屋があったのだが、誰かが借りれば残せる可能性があると聞いたことがきっかけとなり、MAYAさんに声をかけた。

MAYAさんがやってきて、地域活動は大きな広がりを見せることになった。

近隣にある2年前に閉校となった美流渡中学校を、アートを軸として再生できないだろうかという取り組みがスタートしている。

取り組みの一環として、閉校してから校舎の1階の窓に設置された、雪止めの板に絵を描くプロジェクトを進行中だ。

窓に貼られた板の枚数はおよそ40枚。

幅が5メートルという大きなものもあって、ペンキの下塗りだけでもかなりの作業量となっている。

いつ終わるのかという気持ちになるプロジェクトだったが、MAYAさんは毎日着々と絵を増やしていて、閉校となって物悲しい雰囲気だった場所がアートの力で息を吹き返している。

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© Ikuya Sasaki
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移住して10年。予想しなかった展開

北海道に移住したとき、自分がこの先、どのような仕事をしていくのか具体的に想像がつかなかった。

編集は都市型の仕事だと思っていたので、距離的な不便さから段々と仕事が少なくなっていくんじゃないかと予想していた。

移住して10年が経ち、確かにちょっぴり編集依頼の仕事は減ったようにも思うが、僻地で暮らすというスタイルに興味を持ってくれた人たちが新たに連載の仕事をくれたり、地域での活動が広がったりと、常に仕事がパンパンの状態が続いている。

これは本当にありがたいことなのだが、3人の子どもたちが散らかし放題となっている自宅を片付ける気持ちも失われ、締め切りの重圧に押しつぶされそうになっていて、もがき苦しんでいることも事実。

体力がなくなっているときにイメージするのは、ジェットコースターに乗りながら、素早く他のジェットコースターに乗り換えて、無事に目的地に到着すること。

毎日の予定に乗って、やり切るしかないと言い聞かせている。

 

こんなふうに書くと嫌々やっているように思えるかもしれないが、やっている最中はワクワクすることが多い。

仲間たちとペンキを塗っている時間は素直に楽しいし、何百ページもある本の編集は頂上の見えない山に乗るような途方もない気持ちになるが、新しい知識との出会いがあって、その度に心を動かされている。

 

この原稿も締め切りが過ぎてしまった焦りの中であったが、今までとは違う切り口で、自分の仕事についてまとめられたことはうれしい。

さて、この原稿をメールしたら、午後からはMAYAさんと一緒に美流渡中学校で開催予定の展覧会の準備作業が待っている。

ジェットコースターを乗り換えて、今日もまた新しい場所へと向かっている。

text and photo - Michiko Kurushima

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編集者/ライター/北海道教育大学非常勤講師

來嶋路子

Michiko Kurushima

編集者。北海道教育大学非常勤講師。

東京都出身。1994年に美術出版社で働き始め、『みづゑ』編集長、『美術手帖』副編集長など。2011年に北海道へ移住し、2015年アートやデザインの本づくりを行う「ミチクル編集工房」設立。2018年夏に「森の出版社ミチクル」をスタート。自身の体験を描いた『山を買う』など、北海道の自然やそこに生きる人々をテーマにした本づくりを行っている。現在、マガジンハウスのウェブサイト「colocal」でエコビレッジ奮闘記を連載中。新刊に『いなかのほんね』(北海道教育大学の学生26名+來嶋路子・編、中西出版)。

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#15
AUGUST 2021
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PEOPLE

STAY SALTY ...... people here

Find out who I am.

最初の旅立ち

1995年の秋、東京の音大を卒業したばかりの私は、成田空港で憧れのウィーンでの生活に胸を膨らませていた。

いつものように私を心配しながら空港の土産物店などでお弁当(飛行機の機内食があるからいらないと言ったのに)を選ぶ母を横目に見ながら、期待と不安でふたつに引き裂かれそうな気持でいたことを思い出す。

母に「じゃあ着いたら電話するから」と言い、いざ出発ゲートをくぐって後ろを振り返ると、母の思いもよらない無防備な動作を目撃した。

母はその瞬間子供のように目を見開き、ショックな現場を目にした人のように「信じられない」といった様子で、両手で自分の顔を包み込み泣き出すところだった。

それは私がどこかで悪夢のように恐れていた光景であり、もしかするとそれを見なくてもすむかもしれないという淡い期待みたいなものが見事に裏切られた瞬間でもあった。

この日、当初「2年間」の予定だった留学がその後25年に渡る長い旅になることをどこかで予感していたのは母だけだったのかもしれない。

そしてこの時の光景は、その後「時間」という容赦のない濁流のなかで色褪せるどころか、益々色彩豊かに深い痛みを伴って、おそらく実際に目にした時よりもはっきりと私の中で生き続けている。

 

その後パリやミラノに住むことになっても常に思うのは、ウィーンと言う街は実に独特だということだ。

グローバル化が進んだ現在は少し違って来ているのかもしれないが、少なくとも15年前のパリやミラノは「伝統」という考え方からはすでに脱してグローバル化への道をひたすら歩んでいた。

つまり「伝統」なんて言葉が死後になりつつあった時代に、ウィーンと言う街はまさにその「伝統を武器に」生き残っていたのだ。

街中至る所にある「カフェ―ハウス」がその代表例であるかもしれない。

他の留学生たちの例に漏れず、私もこの美しく静謐な場所に本を持って通い詰めた。

 

通うと言えば、演奏会にもたくさん通った(これはウィーンで最も留学生たちに推奨されている音楽の勉強法でもある)。

当時のウィーンでは音楽会のチケットは本当に安くて、立見席ならばちょっとしたおやつ代で手に入れることができた。

そのうえ国立オペラ座をはじめとする歴史あるコンサートホールでは、毎晩のように「超」が付くほどの一流の演奏家が出演していた。

まさに日本の旅行会社の謳い文句の通り「音楽の都」そのもので、そのような街で音楽漬けの毎日を過ごしながらもどこかで「早く音楽で身を立てなければ」という焦燥感に苛まれた。

というのも、周りの音大生たちの中にはすでに6~7年もそこに暮らしながらなかなか仕事に就けず悶々とした日々を送っている人たちがたくさんいたからである。

そんなある日、ふとしたきっかけで受けたイタリアのオーケストラの試験に私は合格した。

留学生活4年目の夏のことだった。

Sachiko Kuroiwa

8.2 2021

Violinist / Teacher  黒岩幸子

[わたし]の正体を探して。

 
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4年間の青春

 

ミラノの生活を要約すると「4年間の青春」だろうか?

東京でもウィーンでも、私の学生生活の中心は常に【ヴァイオリンの練習】だった。

ごく親しい友人と一緒に、たまに映画やコンサートに行くことはあっても他の多くの学生たちが経験するバイトあり、恋ありといった青春ドラマの要素は一つもなかった。

そんな孤独な私の生活はイタリアで一変する。

 

はじめての仕事、初めての恋人、そしてはじめての大勢の仲間との付き合い。

私の青春時代は奇しくもこの初就職先で始まったと言える。

言葉の問題は全く危惧していたようにはならなかった。

人懐っこくて好奇心に溢れたオーケストラの人々はそんな私の不安を笑顔で軽々と一蹴してくれたし、それどころか返しきれないほどの親切や愛情を授けてくれたことは幸運だったとしか言いようがない。

でもその幸運に心から感謝したのはずっと後になってからの事だ。

その頃の私は(若気の至りというのか)子供じみた野心しかなかったので、自分の手にしたものの価値には気がつかなかった。

オーケストラは入団二年目にして財政が困難になり、僅かな給料が毎月遅れるようになった。

はじめはひと月。

それからふた月。

それでいながら世界でもトップクラスの指揮者率いるこのオーケストラの表向きは華やかで、毎週大物ソリストたちとの共演に追われて何かを真剣に考える暇もないほど忙しい日々だった。

平均年齢30歳前後の楽団員たちはこの状況に耐え切れずに、ひとりまた一人と辞めていった。

才能のある人たちばかりだった。

そして私もいつしか先の見えない日々に疲れ、苛立ち、彼らと同じようにオーケストラを辞めようと思うようになった。

もちろんその先にはもっと大きな夢を掲げていた。

「ここで終わってたまるか。もっと待遇の良いオーケストラに入ってやるんだ」

という野心と、昔から憧れていたパリという街は徐々に私の中で一つの道しるべとなってゆき、やがてそれだけが仕事で疲れ切った私にとっての希望の光になった。

そしてすべての選択がそうであるように、そのときはその選択が、後に私の人生で初めての大きな挫折と学びをもたらすことになるとは夢にも思わずに。

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パリはパリではない

パリにはもう17年も住んでしまった。

東京での学生時代、ゴダールの映画や、その他数々のヌーヴェル・ヴァーグの映画で観たパリはわたしにとって【絶対的聖地】となった。

そしてそれらの映画から私はファッション、哲学、芸術や様々な価値観といったありとあらゆることを学び、私の嗜好やものの考え方が形成されていった。

そういえば18歳で初めて吸ったタバコは【ジタン】で、もちろんセルジュ・ゲーンズブールの影響を受けてのことだがこの味の強烈さにはさすがに辟易した。

ヴェランダのヘリに隠すように捨てていたら、布団を干しに来た母に見つかってしまった。

パリを最初に訪れた時の不思議な衝撃をはっきりと覚えている。

それは岡本太郎もその著作に書いているように、公衆の場で愛情を表現しあうことを少しもためらわない人々の社会であり、フランス映画の通奏低音となっているあの独特の「官能性」が映画用に演出されたものではなく、パン屋のおばさんからも感じられることに驚いた。

パリという街に生息しているのは、ぎりぎりまで「個人」というものを実践している人々の群れとでも言えばいいだろうか?

ただ、30代の初めにヴァイオリン一つ抱えてこの街にやって来た私はその後何年にも渡って「新たにオーケストラに入り直す」ことの予想以上の、いや予期していなかった大変さと競争に直面し、ついに世界の舞台で戦う事の厳しさを思い知ることになる。

そのなかで私に唯一できたことはひたすら学びながら挑戦を繰り返すことだけで、そばでいつも私を励まし自信を与えてくれた人たちがいなかったらとても無理だった。

そしてパリオペラ座オーケストラでの非正規雇用の仕事を勝ち取るころには、自分の中のかつての「パリ」はまったく別のものに変化していた。

それはもう、お洒落なヌーヴェル・ヴァーグでも、サガンの小説に描かれるブルジョワ的パリでもなく、ただあくせく生きる場所としてのパリだった。

実際このフランスという国もこの数年間で大きな変貌を遂げた。

テロ、毎月の大型ストライキに次ぐコロナ。

そして今、政権によるワクチンパスポート義務化によって国民の選択肢が奪われる「統制」という不気味な方向に舵が切られようとしている。

このような息苦しい状況をかつての自由、平等を愛したパリの芸術家たちはどのように感じているだろう?

そしてこの先私は、芸術に携わる者としてどういった価値を選び取っていくべきなのか。

そんなことを考えながら今を生きている。 

text and photo - Sachiko Kuroiwa

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ヴァイオリニスト/教師

黒岩幸子

Sachiko Kuroiwa

パリ在住。ミラノ交響楽団第一ヴァイオリン奏者を経て渡仏。

フランス内外のオーケストラ及び室内楽奏者として活動を続ける。

近年ではパリで後進の指導にも情熱を燃やす。noteで様々な考えを発信している。

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