
#20
FEBRUARY 2022

PEOPLE
STAY SALTY ...... people here
To be able to swim freely.
2.5 2022
自由に泳いでいけること。
山田さなえ
画家/イラストレーター/アクセサリー作家
小学生の時、
「絵を描くのが好きだから、将来は漫画家になりたい!」
と母に言ったら、
「そういう職業は、ほんの一握りの人しかなれないから、普通の仕事をしながら趣味で絵を描いたら?」
と言われました。
もう少し経ってから、
「私は一生好きなことしたい。」
と母に伝えたら、
「一生はムリよ。結婚したらやらないといけないことがいっぱいあるし。」
という返事が返ってきました。
高3で進路を決めるとき、別の道も考えたけれどやっぱり美術の方へ進んでみたいと思った私は「美術の先生になる」という約束をして芸大を受験。
大学で美術を学ぶうち、「本当は人に教えるのは得意じゃないし、毎日作りたいものを作って暮らしていける美術作家、アーティストになれたら幸せだろうな。」という思いが強くなってきたけれど、長い間、それは人には言わないで、心の中にしまっておきました。

中学・高校は美術部で、人より長い時間絵を描いていたので「絵の上手い山田さん」と言ってもらったり、絵画コンクールで賞をもらったりして、少しは自信を持っていました。
でも美術系の予備校や芸大に入ってから、もっと上手い人がはいくらでもいることを実感し、
−−− やっぱり、お母さんの言う通り。
もっとすごい人がたくさんいるから、絵を描いて暮らすなんて私には無理だろうな −−−
と、だんだん自信が小さくなって行きました。
せっかくだから、独学では難しい彫刻を学んでみようと、芸大では彫刻基礎を専攻。
木彫、石彫、陶彫、樹脂などたくさんの素材に触れることができました。
その後、版画を専攻。
シルクスクリーンや、銅版画なども体験し、もう一度、平面に絵を描いてみようとしたけれど、当時は描きたいものがわからず、なんとなく描き続けられない気持ちになって、もう一度、自由な雰囲気の彫刻専攻に戻ることに。
そこでは、自分の作品についてもっと深く考えるようにと学びました。
いくら私の頭で考えても、そんなにかっこいいコンセプトなどは思いつかなかったけれど、「何か面白いことをして、みんなで楽しみたい!」という思いから、蒸しパンを1000個、陶器で作った貝殻状の器に入れて蒸し、芸大のみんなに食べてもらって、殻を集めて「蒸しパン貝塚」を作ったり。
大学でハーブを育てて、収穫したハーブでスパゲティーを100人分作ってみんなで食べる。
食べた人はみんな私の子供になってもらって、ハーブティーを飲みながら
みんなで家族会議をする「スパゲティー計画」というプロジェクトを4年間続けてみたり。
クッキーの実る木から収穫する「クッキー狩り」や人のうまみ話を引き出す「人間鍋」など、
「食べること」
「人と一緒に楽しく過ごすこと」
「生命が続いていくこと」
をテーマに作品を作っていました。









大学を卒業し、レストランや、ギャラリーでアルバイトしたりする中、ギャラリーのお客さんだった社長さんに「うちで働けへんか?」と誘われて、大阪の厨房機器メーカーに入社。
「人と自然の健康に役立つものづくり」を企業理念に、
「働くとは?仕事とは?生きるとは?」と毎日熱く語る社長のお話をひたすら聞いて、会社案内や社員研修用の文章をまとめてイラストを描くというのが私の主な仕事でした。
マレーシアに来てからも時々大阪に行ってお手伝いし、気がつけば、20年以上お世話になっていました。
もう86歳になられて今もお元気そうな社長には、怒られた記憶もたくさんあるけれど、生きるうえで大切なことを教えていただき、今でも感謝しています。

2001年に同じ会社で知り合ったマレーシア人と結婚。
長男が1歳の時にマレーシア、クアラルンプールに移住。
まだ英語もマレー語もあまりわからないまま、印刷会社で3年間働きました。
その後、家でアクセサリーを作りながら、日本語フリーペーパーのデザインやイラストの仕事をしたり。
長女も生まれて、仕事と二人の子育ての両立に忙しい10年を過ごしていました。
−−− やっぱりお母さんの言う通り。
結婚したら忙しいし、自分の好きなことなんてできないね・・・ −−−
と多少不満な自分を納得させながら、必死で毎日をこなしていました。
クアラルンプールでの生活が9年くらい経った頃、夫が家探しを始めました。
マレーシアも都会での暮らしは忙しいし、家の値段も高くなってきたので、夫の実家のジョーホール州にもやや近く、クアラルンプールから1時間ほど南の郊外、ヌグリスンビラン州に家を購入。
「40歳になったら絵を描きます!」
と決意して、親しい友人に宣言しました。
40歳になりたての頃はまだ忙しくてすぐには描けませんでしたが、郊外に引っ越して、少し時間の余裕ができてきたので、家の周りにある南国植物の絵を描き始めました。


2014年に、日本の方々とマレーシアのアートエキスポに参加できたことをきっかけに、クアラルンプールのアートギャラリーの方に声をかけていただいて、個展をさせてもらったり、芸大の友達とシンガポールでグループ展をしたりして、少しずつ美術の世界に戻ってきました。
マレーシアのアートグループに入ったことで、現地で絵を描いている友達が増え、フィリピンでのアート交流会にも参加、東南アジアのアーティストたちとも知り合う機会に恵まれました。
ちょうどコロナのはじまる前、大阪のギャラリーで、大学の友人や先輩の協力のもと、マレーシア、シンガポール、フィリピン、日本のアーティストとのグループ展も開催できました。
コロナ後は国内で、ナショナルアートギャラリーの支援するアートキャンプや展覧会に参加させてもらったりして、ますます絵を描いている友人が増え、たくさんのいい刺激をもらえるようにもなりました。
2019年には、シンガポール在住の山内麻美さんから絵本の挿絵の依頼があり、初めての絵本制作のため、マレーシアで絵本作家やアーティストとして有名なユソフ・ガジャさんのところへアドバイスをもらいに。
絵本制作について色々相談したところ、出版もサポートしてもらえることになり、コロナで少し延期にはなりましたが2021年、マレーシアでの絵本出版が実現しました。

長年イラストを担当していた日本語フリーペーパー「SENYUM」の伊藤さんのコラム「自然の話」では、マレーシアの動植物の多様性やその形や性質のユニークさに感動し、南国の動物についてますます興味が湧いてきました。
そして、マレーシアの動植物を織り交ぜた絵を描いてほしいという依頼をいただいた時、どんなものを描けばいいかと調べていくうちに、この数十年で、マレーシアは大きく発展し、随分便利になった一方で、豊かな自然のジャングルが減り、たくさんの動物が住処を追われたり、密猟されたりして絶滅の危機にさらされていることを知りました。
このままではいけない、森林破壊には自分も加担している、と気づいてはいるけれど、お肉は好きなので菜食主義者にはなれないし、暑いと眠れないのでエアコンもつけたい。
でも私にできることはなんだろう。
それは、一人でやるよりも、同じ目標を持つ人と一緒にやれたらもっといいかもしれない。
もっと熱帯雨林の自然について詳しい人から学んだりできたらいいな。
同じ思いを持つ人たちとコラボしたりして、少しでもマレーシアの豊かな自然を残したいという気持ちも芽生えてきました。