#23
May 2022
PEOPLE
#38
STAY SALTY ...... people here
Why I Write Novels
私が小説を書く理由
1.自己紹介
こんにちは。みなとせ はるです。
もう一つの私の名前を名乗り始めて、一年半が経ちました。
名前の由来は、「春の湊(みなと)」という言葉から。
アナグラムです。
春の湊は、春の果て、春の行きつくところという意味があります。
何かを表現することでその先に何があるのだろうか。
また、どんな場所に辿り着けるのだろうか。
創作を始める前のそんなわくわくする期待と、少しの不安の気持ちをまるっと込めて「みなとせ はる」は生まれました。
現在、私は自作小説をnoteというプラットフォームを中心に投稿したり、kindleにて電子書籍出版をして活動をしています。
創作を始めた頃は、まさか自分が小説を書き続けることになるとは、思ってもいませんでした。
なぜなら、自分に自信がなく、書いたものに対してどう思われるかということが不安でたまらなかったのです。
しかし、初めてnoteに詩のようなものを投稿すると、優しい声をかけてくださる方が多く、自分の創作や表現を楽しんで輝いていらっしゃる方と多く出会うことができました。
私が、もう少し自分の内側を伝えてみたいと「小説を書いてみよう」と思えたのも、こういった皆さんと繋がれた幸運があったからだと思っています。
小説家
みなとせ はる
5.5 2022
2.私にとって「小説を書くこと」とは何か。
ところで、「小説を書く」とは、どういうことをいうのでしょう。
「小説を読む」というのは、「登場人物の経験を通して、読者が追体験するその世界に接触し、心を動かすこと」といったことを想像します。
そう考えると、「小説を書く」というのは、「読者にその体験をよりリアルに感じ、楽しんでもらえるよう、工夫を凝らして物語を届けること」なのかもしれません。
ただ、私にとって「小説を書くこと」は、少し意味合いが違う気がしています。
自分の表現として小説を書き始めてから、私にとって「書く」ということは、「幼い頃の無垢な心(感性)を迎えに行く行為」という感覚があります。
小説を書く過程では、物語の中の世界を伝えるため、現実世界にあるものをより深く観察して五感で感じようとします。
また、自分の中に存在する考えや価値観とも向き合うことになります。
その時の私は、「もっと色々なものを感じたい。
もっと自由な価値観でいたい」と、そんな内側からの声をいつも聞いている気がするのです。
小説の良いところは、物語にいくらでもファンタジーを織り込めることです。
物語を書き、それを誰かに読んでもらうことは、個人的な心の内側の暴露でもあって、作品を読んでくださる方の中には、みなとせはるは「こんな性格なのかな」とか、「こんな考えの人なのか」とか、見透かしている方もいるかもしれません。
私は、それが時々とても恥ずかしく感じるのですが、「何を書こうと、小説はあくまでもフィクションでファンタジーで自由な世界だ」ということが、作品を公開する際に私に勇気をくれます。
エッセイを書くことが苦手なのは、こういう性格にあるのかもしれませんね(笑)。
3.私が書き続ける理由。
こうして、自分の内側と向き合いながら書いている私の小説ですが、「書き続ける理由は何か」ということを、最近よく考えます。
いくつか理由はありますが、やはり一番大きいのは、読んでくださる方がいてくれて、応援の声をいただけること。
自分の書いているものに迷っている時も、自信がなくなりそうな時も、「読みました」「応援しています」と言葉をいただくと、「まだ描きたいことがあるはずだ。がんばろう」と、とても励まされます。
皆さんに感謝を込めて、新たな物語を届けたい!と、前を向くことができるのです。
二つ目は、物語の中の人物たちが、私の中で生きているということ。
まだ文章に表していない先へ、登場人物たちが勝手に動き出すことがあります。
私の小説は、基本的に優しい人物が多いのですが、良い人や正しい人かに関わりなく、不器用な子どもたちもとても愛おしくて。
物語の最後まで辿り着いてほしいと思うと、いつの間にか、「続きを書こう」とパソコンに向かっています。
小説を書いていると、前向きになれることばかりではなく、他の方の作品でとても上手い文章や心動かされる素晴らしい物語に出会うと、「私はこのままでいいのか」と考えることもありました。
しかし、小説を始めとする、詩、音楽、写真、絵画等々、他の方の作品に私が触れてきて思うのは、「それが上手いか下手かではなく、その人しかもっていない感性、経験、考えなどに触れているから、私は感動しているんだ」ということです。
商業用の作品となるとまた違うのかもしれませんが、個人の自由な表現において大事なこと、人が心動かされるきっかけは、「そこ」にあるのではないでしょうか。
私たち一人一人が唯一無二の存在で、そこから生み出される作品は誰かの心だからこそ、その視点や感覚に触れた時、私たちは新しい発見をし、時に共感し、共鳴する。それは全て自分の刺激や癒しとなり、誰かの世界を知ることで新しい自分と出会うことにも繋がります。
私が書き続ける理由は様々ですが、結局のところ、私は小説を書くことで「私」を伝えたいのかもしれません。
先に述べた理由を別の視点から捉えると、読者の方が、物語の中に隠した「私」を見てくれたかもしれないことが嬉しくて、まだまだ言いたいことがあるから、登場人物たちが心の中で動いているのかもしれませんね。
「天の川を探して」イラスト:ミムコ
小説を書き始めて、もう少しで二年。
色々な私を物語に隠して表現してきたけれど、今は過去の失敗や辛かったこと、やり遂げられなかったことも含め、色々な体験をしてきた「私」という存在をかけがえのないものに感じます。
これから先、「もっと素敵な物語を届けたい」という想いと同時に現れるのは、「自分の内側を表現してみたい」、「文章や小説や書いてみたい」、そう思う人たちの背中を押すことのできる存在になりたいという気持ちです。
心はもっと自由になっていいんだよ、そう伝えられる物書きであり続けたいと思っています。
text and photo - Haru MInatose
小説家
みなとせ はる
2020年秋より、短編小説を中心に創作を始める。活動の中心は、noteやモノガタリー・ドット・コム等での小説作品の投稿、および、小説作品の電子書籍出版。モノガタリー・ドット・コムと『ものがたり珈琲』のコラボ企画コンテストにて、短編小説『モーニングコーヒー』が審査員特別賞(優秀賞)を受賞。Kindle電子書籍にて、小説『メトロノーム』、『電車とリボン』発売中。
#22
April 2022
PEOPLE
STAY SALTY ...... people here
As the presence that brews the message
4.5 2022
メッセージを醸す存在として
ieniiru
オルタナティブスクール教員/絵画療法士
ずっと憧れだった"シュタイナー教育"の現場を知りたくて、半年間だけ保育園に勤めさせてもらったことがありました。
当時のわたしは、シュタイナー学校の教員になることを目指していましたが、同時に、女性としてのライフプランも気になる年頃でした。
はたして、献身的に働くことが当たり前のこの業界で生きていくことはできるのか。
その可能性を探ってみたかったのです。
半年の契約期間を終えて退職するとき、園長先生からいただいた次のような言葉が心に残りました。
「あなたの素話はすごく良かった。長いお話をきちんと覚えて、きれいに語ってくださいましたね。」
「あなたが語ってきたお話は、誰にも奪われないものだから、これからも大切にしてください。」
二十年以上現場を守ってきた方からのお言葉はとてもありがたく、今も尚、わたしを励まし続けるものの一つとなっています。
あれから何年も経った今、教員の夢が叶って、丸三年になりました。
そして、つい先日のことです。
かつての園長先生の言葉に触発されて、パートナーにこんなことを言う自分がいました。
「あなたには、人に盗まれにくい力がある。それってすごいこと。」
国際的な学びと働きを実現する英語力。
まだ日本に浸透していない演劇メソッドを講師として表現・提供する力。
ちょっとやそっとでは人に追いつかれない特徴的なスキルが、彼には二つもありました。
留学に行って、資格を取って、そこで歩みが止まってしまう人も多いというのに。
毎日こつこつ、誇張ではなく一日もサボらずに、語学の勉強や稽古に励んでいました。
それも、ただじゃない年数をかけて。
取り組みが新しすぎて受け入れてもらえなかったり、ワークを盗まれたり、利用されたりすることもあるようです。
それでも、自分だけは「未来に必要とされる、大事なことをしている」と信じているようでした。
そんな彼の歯痒さや孤独感が、ふいに押し寄せてきたのです。
周囲の反対を押し切って、退職したばかりの自分と重なり、どうしても伝えたくなりました。
「本当の意味で盗まれることはないから、自信を持ってほしい。」
では、わたしにとっての「人に盗まれない力」とは何でしょうか。
自慢じゃないけれど、彼のように、人に説明のつくわかりやすいスキルを一つも持っていません。
教員を続けられたのも、たったの三年ぽっち。
でも、その問いかけから素直に出てきたのは、まさにこのことでした。
”他の誰にも盗むことができない、本当にその人に属する力を育むこと”
知的な情報のインプットでもなく、魔法のような変化をもたらすことでもなく。
誰も代わりにはやってあげられない、その人ならではの「する」を助けること。
自分は自分の在り方を整えることで、そのメッセージをこつこつ醸し続けること。
どんな職業であっても、どんなに素朴な場面であっても、とにかく、そうありたいと願ってきました。
口で言うのは簡単で、言えば言うほどやったつもりになれるところもあります。
でも、子どもが相手なら尚のこと、ことばよりも身体の発するメッセージの純粋さが肝心です。
だからこそ、
「わたしは真実を生きられているか」
いつも自分に問いかけ、その答えを生きようと試みてきた気がします。
たくさん道を間違えながら、ときには痛みをもたらしながら。
この営みには、やり終えるということがありません。
しかも、人に正しさを証明してもらうこともできません。
その確かささえ、自分自身に問うしかないのです。
この孤独で密かな道のりこそ、”人に盗まれることのない、わたしに属する力”と言えるのではないでしょうか。
もう少し具体的に、これまでとこれからのことを。
ずっとやりたかった仕事(オルタナティブスクールでクラス担任)に就いて三年。
この仕事のおかげで、子どもたちと宝物のような時間を過ごすことができましたし、noteにその取り組みを書くことで、たくさんの方に知ってもらうことができました。
しかし、この春、それらの恩恵を全て手放すことにしました。
「大好きなこの場所を次の世代に残すには」と考えたとき、矛盾しているようだけれど、このままの働き方では未来がないと判断したためです。
寂しい気持ちは山々ですが、大切だからこそ、離れることに決めました。
公的な補助を受けていない、小規模なオルタナティブスクールの運営(特に経済面)には、やはり厳しいものがあります。
どうしても、成り手を少なくしてしまう現状があり、次世代教員の育成も追いついていません。
わたしは現場に入ってたったの三年ですが、同世代の少なさや処遇の問題がずっと気がかりでした。
個人的な努力だけではとうてい解決できないことを実感し、次のステップとして、その”当たり前”を変えることに注力してみたくなりました。
そもそも、教育に関心のないわたしが教員の仕事にたどり着いたのはなぜか。
「根本から変えたい」「未来をつくる仕事がしたい」という想いが強かったからです。
まずは、この課題の根本の根本である”自分自身"を整えることにします。
自分が最も大切にされる場所へ行き、自分自身という基盤をつくり、そこから未来につづく仕組みを考えていきます。
一ヶ月後、半年後、一年後。どこにいるかもわからない、自分の未来が楽しみです。
2022年3月21日、春分の日。
text and photo - ieniiru
#21
MARCH 2022
PEOPLE
STAY SALTY ...... people here
Becoming myself.
3.6 2022
自分になっていく。
鈴木奈菜
ダンサー/振付師/フリーランスアーティスト
はじめに。
この度これを書くにあたり、欠かせない存在であるmiddle-note先生に、今日に至るまでの長い間、沢山の気付きや学び、それによる成長と、奇跡に満ちた人生へと私を導いて下さったご指導への心からの感謝を申し上げます。
自己紹介をします。
私の名前は、鈴木奈菜です。
年齢は33歳。
職業はフリーランスアーティストです。
長年、演者、ダンサーとしてキャリアを積みながら、ここ数年は、振り付けの依頼、オンラインでのダンスレッスンや英語レッスンの講師の依頼もお受けするようになりました。
また、写真家、映像作家、画家、デザイナーとしても活動させて頂けるようになり、最近では声優としての初仕事も決まったところです。
今でこそこの様に色々なことを仕事としている私ですが、「ビフォーコロナ」の約2年前までは、演者、ダンサーとしての舞台活動のみに専念していました。
そんな私が、この約2年の間で、何故こんなにも色々なことを仕事に出来るようになったのか? どんな変化が起きてこうなったのか? という事を今からお話ししていきたいと思います。
演劇科の高校を卒業したあと、私は迷っていました。
卒業公演のミュージカルを成功させる為に、長期にわたる無理な練習で喉を潰してしまったことで、精神的にも肉体的にも疲れ果ててしまっていたのです。
好きなはずのミュージカルをやっているのに、口の中には喉から出た血の味が広がり、辛さしか感じられない日々。
やっと卒業しても先のことを考えられず、先に渡っていた姉に誘われるまま、心の休養のためにNYに渡りました。
しかし、NYに渡ったは良いものの、慣れない文化と言葉の壁に孤独を感じていました。
そんな私に転機が訪れます。
ほどなく運命的に出逢ったダンスの師匠達にすっかり魅了され、そこからずっとダンス一色の人生を歩むことになるのです。
ダンスはもともと好きではありましたが、NYで出会ったダンスの師匠達に惚れ込んだことがきっかけで、本格的にやっていこうと決めました。
師匠達は、たまたま出逢った私を生徒としてだけでなく、アシスタントとして、カンパニーのメンバーとしても迎え入れて下さいました。
ダンスの技術、技量、魅力のみならず、人間としての器にも惚れ込んでいました。
ダンスは、英語が出来ない私にとって、言葉を超えるコミュニケーションの手段となってくれました。
そして、豊かな人間関係を私に与えてくれたのでした。
素晴らしい師匠達、素晴らしい仲間に恵まれて、私はどんどん癒されて行きました。
ボロボロだった私を救い、癒してくれたダンスにますます邁進する幸せな日々のスタートです。
しかしフリーランスダンサーとして生計を立てるのはとても大変で、他のアルバイトもしながらの生活を長く送りました。
それでも我武者羅にダンサーとしてのキャリアを積むうちに、徐々に収入も安定し、ダンスだけで生計を立てることが出来そうだ、と思い始めた矢先の2020年、私の仕事はコロナ禍の直撃を受けました。
当時は、舞台公演の真っ只中でしたが、その公演は千秋楽を迎えることなく中止となりました。
その上、年内のスケジュール一杯に入っていた国内外の舞台の仕事も、全てキャンセルとなりました。
今年は安泰だ、と思える程に沢山入っていた一年間の仕事が、一瞬にして全て白紙となったのです。
その時の私はどうして良いのかもわからず、ただただ不安と恐怖を抑えるのに必死でした。
その後もエンターテイメント業界の混乱は長い間続き、今まで舞台を中心としてやって来ていた私の仕事のスケジュールは白紙となったまま、なかなか埋まることはありませんでした。
コロナ禍の初期、誰とも会わず、ただただ家に閉じこもって、一人で悶々と過ごす日々を何ヶ月も過ごしました。
その時期は、悲しみや苛立ち、将来への不安などで塞ぎ込んでしまい、立ち直ることが出来なかったのです。
コロナ禍で何にも出来ない自分に苛立ち、キラキラ輝いていた未来が真っ暗になったように感じて、後から後から押し寄せる不安に、自分がどんどん押し潰されていくようでした。
「何か出来ないのか?自分は世の為人の為に何かの役に立てないのか?探せ!きっと見つかるはず!何か見つけなくちゃ!何かしなくちゃ!いいから止まってないで何かしろよ!」
最初は小さかった不安や苛立ちは、いつしか自分自身を押し潰すまでに大きく膨らんでいました。
そんな折、エンターテイメントの業界に入ると決めてからずっとどこかに隠して来た想い、長年怖くて向き合うことができなかった想いが、コロナ禍によって膨らんだ大きな不安に苛まれ、押し潰されたことで、一気に自分の中から刃物のような言葉や罪悪感と共に溢れ出て来ました。
「私には何も出来ない。私は無力だ。私には何の価値も無い」
「本当に大変な時に人々が求めるのはエンターテイメントではない」
「大切なのは水、食料、医療、労力。ダンスは何の役にも立たない」
「みんなが大変な時にダンスが出来ない心配をしている私は駄目な存在」
もう誤魔化すことは出来ませんでした。
今までも、地震や津波などの災害や、世界中で起きている環境問題などの情報に触れるたびに新たに生まれ続け、膨らみ続けて来たこの罪悪感。
それでも必死に「エンターテイメントは心を癒すもの、なくてはならないものだ」と自分に言い聞かせて押し殺して来た、この後ろめたさ。
そして何も変えられない無力な自分への失望と絶望。
そんなものたちが、いよいよ自分の中から溢れ出し、もう止めることも誤魔化すことも出来ませんでした。
私は幼少期から、「ななちゃんなら出来る!」と言う魔法の言葉を沢山かけられて育ちました。
そして、「私なら出来る!」と強く信じ込んで来ました。
でも本当はどこかで、自分には何も出来ない、価値がない、無力なんだ、と思っていたこと、実際に今、何も出来ないことに気付いて、それから何日も泣きました。
そんな時、私を助けてくれたのが、いつも沢山の気づきと学びに導いてくださるmiddle-note先生のコンサルティングでした。
私はお蔭で気付くことが出来ました。
「自分にはダンスしか無い」と思い込んでいること。
ダンスをしている自分しか許せない、愛せないということ。
ダンスをしない自分には何の価値もないと思っていること。
そのくせ、実のところは、ダンスやエンターテイメントを「役に立たないものだ」と否定し続けていたこと。
それは即ち、携わる全ての人達やその仕事までも見下しているということにもなりえてしまう、と言うことにも気付きました。
何度もダンスに救われたこと、ずっと支えられて来たこと、大切でかけがえのないものであること、それは全て本当のことなのに、同時に「無駄なことをしている」と思ってしまう苦しい気持ちがあったことに気付くことが出来ました。
同時に、そんな事を思っていた自分、醜い嫌な自分自身を受け容れることが出来なくて認めたくないという気持ちにも気付きました。
これが怖くて、本当の想いに向き合うことからずっと逃げていたのだと言うことにも気付きました。
物心ついた頃から、いい子でいたい、いい子だと思われたい、という願望がありました。
そのために、怒り、苛立ち、悲しみや苦しみの感情を押し殺すことを選んでいました。
自分が醜いと思う負の感情は全て、決して持ってはいけない感情だと決めて、自分の中から消そうとしていました。
大人になってもそのように生きて来たので、私は自分の負の感情と向き合うことが得意ではありません。
そんな私に、コロナ禍が齎した「何も出来ない時間」は、隠して来た負の感情を誤魔化し切れない程に膨らませ、向き合わざるを得ない状況を作ってくれました。
それは、盲目にダンスだけの人生をひた走る自分を一度立ち止まらせて、ゆっくりと今の自分や、今までの自分と向き合い、本当に行きたい未来を思い描くための時間と機会をもらうことでもありました。
その素晴らしい機会を得たことで、負の感情は、改めてダンスへの愛、エンターテイメントへの愛に昇華され、携わっている方々、生み出されていく作品の全てに、ただただ感謝が湧くばかりです。
結局、私にとってのエンターテイメントは、今も私を助け、癒してくれるかけがえのないもので在り続けています。
本気で向き合えばこそ生まれる負の感情も含めて、最初から最後まで、この命尽きる時まで、エンターテイメントは私の大部分を占める大切なもので在り続けるのだと思います。
私はこれからも、私に沢山の癒しと学びを与えてくれて、閉じ込めていた様々な感情を取り戻させてくれたエンターテイメントを心から愛したいし、誠実に、真剣に、真っ直ぐに向き合い、携わり、創り出していきたいです。
そんな気持ちが強くなったこと、コロナ禍によって空いた時間があったこと、何よりもmiddle-note先生が背中を押してくださったこともあって、ダンス以外のことにも目を向け始めました。
それは、好きだったけれど過去に辞めてしまったことや、やりたいのに最初から諦めていたことを思い出し、それらに改めて取り組み始める良いきっかけとなりました。
最初に始めたのは、写真でした。
以前から写真を撮ることが大好きで、旅先などでは、携帯でよく撮っていましたが、それ止まりでした。
しかし、私の写真を見たmiddle-note先生が「才能があるので本格的にやらないともったいない」と仰ってくださったのをきっかけに、早速、写真を撮ってSNSに投稿し始めたり、色々なウェブサイトの写真の企画に応募をし始めると、すぐに賞を頂けたり、写真を購入して頂けるようになったのです。
Snapmartでは初アンバサダーとして選ばれました。
それを機に、人生で初の一眼レフカメラも購入しました。
そのカメラは今では私の大切な相棒で、仕事の写真、趣味の写真に関わらず、撮るたびに癒されるのを感じます。
写真を本格的に始めたことを皮切りに、その他の能力開拓にも次々と着手しました。
小さい頃から諦めていたこと、やってみたかったこと、興味があったこと、苦手意識があってずっと敬遠してきたことなど、色々なことに挑戦し始めました。
機械への苦手意識を乗り越えて、諦めずに映像作品を制作したり、小さい頃にやりたかった絵をデジタルで描き始めたり、デザインに挑戦もしました。
表現においては、抵抗があったコメディーチックなことにも挑み、自分は大根役者だからと諦めていた演技にも挑みました。
喉を潰して以来遠ざかっていたミュージカルにも応募してみたり、自分の体型にコンプレックスがあるために敬遠していたタイツやショートパンツを履いて踊ってみたり、ずっと避けたいと思っていたグループやカンパニーに属することもしてみたり、ずっと我慢していた欲しかった物を自分に買ってあげたりと、小さいことから大きなことまで、出来ることは片っ端からやり始めていきました。
そうすると、有難いことに、素晴らしいタイミングで色々な方々からやりたいことをやれる嬉しい機会を頂くことが出来ました。
それはとてもエキサイティングな体験の数々でした。
そうして自分と向き合っていくうちに、克服していくうちに、気付いていったことがありました。
それは、自分一人がただ怖がっていただけで、トラウマにしてしまっていただけで、自分が勝手に諦めていただけで、辞めてしまっただけで、出来ないと思い込んでいただけで、本当はやっても良かったのだと言うことでした。
それに気付くと、「今まで辛かった、苦しかった、悲しかった、寂しかった。やりたいことを取り上げてごめんね」という感情と涙が自分の中から沢山溢れ出て来ました。
今年の初め、私は自分に約束しました。
「昔に諦めてしまった夢を叶えてあげる」
そして、その約束は、既に二つ叶いつつあります。
一つは、冒頭でもお話ししました、声優業です。
実は私は、ずっと昔から自分の声にコンプレックスを持っていました。
自分の声を聞くのが嫌でした。
そして演技する事に関しても、本当は憧れを抱いていたのですが、自分は大根役者だ、下手くそだ、と、思ってしまうことがあって以来、諦めていました。
ですがここ数年、仕事で役者さんと関わっていく中で、私も演技をしてみたい、という思いがふつふつと湧き出て来ました。
演劇の他にも、映画やアニメも好きで、「声の仕事もしてみたい、コンプレックスがなんだ!もう自分を嫌うのは辞めよう!」と思い、とある会社に思い切って応募すると、トントン拍子に事が進んで、なんと声優としても今年デビューすることが決まりました。
小さい頃に歌を習い始めた時から、自分の声が嫌いでした。
聞くのも嫌だった自分の声を、コロナ禍で自分と向き合う時間を経て、ようやく受け容れられたこと、また今までの色々な想いを受け容れて、新たな一歩を踏み出せた事がとても嬉しいです。
そして、もう一つは、文章についてです。
こうしてエッセイを書かせていただいていますが、私は子供の頃から文章を書くことが苦手でした。
伝えたい事が伝わらず、誰に読んでもらっても、いつもよくわからないと言われ、挙句には「ななちゃんは馬鹿だから仕方がないよ」と言われていました。
そして自分も「私は馬鹿だから仕方が無いんだ」と、抵抗する事なくヘラヘラと笑って受け容れたまま大人になりました。
そんな私に、middle-note先生がnoteを勧めて下さいました。
2019年の春にnoteを始めて以来、少しずつ自分の言葉で文章を書き記していくという事を続けて来ました。
今は、自分の言葉、自分の文章を通して自分の想いを伝えていく事が、とても楽しく、嬉しいです。
改めて、沢山の奇跡と幸せ、私の日常を日々豊かにしてくださったmiddle-note先生、そして、今まで沢山の素敵な機会をくださり、私に豊かな体験を与えてくださった皆さん、本当にありがとうございます。
そして、いつも沢山の応援をしてくださる皆さん、沢山の愛をありがとうございます。
これからも皆さんに更なる幸せが舞い込んできますように。
最後まで私のエッセイを読んでくださり、どうもありがとうございました。
これを読んでくださった方々に、何かを届けることが出来ましたら幸いです。
貴重なお時間をどうもありがとうございました。
© Hajime Kato
text and photo - Nana Suzuki
© Hajime Kato
ダンサー/振付師/フリーランスアーティスト
鈴木奈菜
関東国際高等学校演劇科卒業後、NYへ約2年半留学。Steps on BroadwayとJennifer Muller/The Worksからスカラシップを得て、様々な振付家の元、ダンス公演をする。Xodus Dance Collective というダンスカンパニーにも所属し、恩師の一人、Max Stoneを始め様々な振付家の元、公演をする。帰国後は、Noism2というダンスカンパニーに2年所属し、その後はフリーランスダンサー/振付師として活動する。近年ではパフォーマーとしてだけでなく、オンラインでのレッスンを行ったり、映像作品作りや写真を撮ったり、物語を書いたり、絵を描いてデザインしたり、声優に挑戦するなど色々な分野で活動している。
主な近年の代表作。
・ダンサーとして。(東京フェスティバルの「Toky Toki Saru」、「 MI(X)G」/ PARCO劇場「良い子はご褒美をもらえる」、「ピサロ」/ オリンピック閉会式。)
平原慎太郎率いるDe/Co.のメンバーとしても活動。
・振付師として。(島根県松江プラバ少年少女合唱隊「ライオンキング」、「メリーポピンズ」/ 自身の作品「dancing with universe」)
・選ばれた映像作品。(六本木アートナイトスピンオフプロジェクト「dancing with universe」)
・受賞写真作品。(RECOTORIサイトにて、新人賞受賞。/ Snapmart を通して、大阪Grand Front アンバサダーとして選ばれ、Grand Front Christmas賞受賞。)
Snapmartや、PIXTAや、個人を通しての写真販売もしている。