#35
February 2024
PEOPLE
#50
STAY SALTY ...... people here
Encountering "Pearls" in the Deep Sea
深い海で「真珠」と出会う
門脇麗佳
2.10 2024
人事コンサルタント/キャリアコンサルタント/コーチ
入院生活はある日、突然に
その強烈な痛みは、予告もなく、ある日突然襲ってきた。
いや、正直に言えば、これまでもときどき予兆のようなものはあった。
しかし、少し我慢すれば治っていたので、きっと大丈夫だと都合よく解釈していた……だけだった。
27歳のとき、婦人科系の病気で約一か月間の入院を余儀なくされた。
当時、電気メーカーのOLとして働いていた私は、所属する人事課の上司に電話をかけ、入院することになった事情を恐縮しながら説明した。
上司をはじめ、職場の皆さんは、「大丈夫? こっちは心配しなくていいよ」「安心して治療に専念して、また復帰しておいでね」と温かい言葉や励ましのメッセージをくださった。
ありがたい。私は恵まれているな……。
職場の皆さんの柔らかな笑顔を思い浮かべながら、ちょっぴり涙ぐむ。新卒採用の就活時、もともと海外と関わる仕事を志望していたのに、面接官の実直な対応に心を打たれ「この電気メーカーで私も働きたい!」と運命の出会いを感じた、自慢の職場なのだ。
私の入院生活は、体は自由に動かなくても頭は元気なので、まるで人生の充電期間を与えられたような感覚だった。
それまでの私は、OLとして規則正しく勤め、恋愛し、結婚し、家庭を築いて……という物語を紡いでいくものだと漠然と思っていた。
しかし、入院という予期せぬ事態が起こったことで、図らずも自分の役割や今後のキャリアを見つめ直す機会を得たのである。
「仕事は大丈夫」「安心してね」と言ってくださる職場の皆さんには、本当にもう、感謝の言葉しかない。
けれどもその一方で、生意気にも「今の仕事は、自分じゃなくても代わりの人が、翌日からすぐにでもできちゃうんだ」「自分だからできる仕事ってなんだろう」という考えがムクムクと湧いてきたのである。
今考えると、まだまだ青かったな~と突っ込みたくなるけれど、入院中という、社会からポツンと取り残されたような状況下で、私は自分自身に誓ったのだ。
自分が心から楽しめること、自分だからこそ生み出せる仕事をしたい、と。
大好きな会社を辞めた理由
一か月の入院期間を通して病気はすっかり完治し、無事に退院の日を迎えた。
職場に復帰した私は、もう以前までの私ではなかった。
平日はこれまで通りに仕事をこなし、週に3日、夜間に開講するグラフィック・デザインの学校に通い始めたのだ。
なぜグラフィック・デザインを選んだのか?
それは入院中、これからのキャリアについて考えたとき、人事課の仕事の中で、特に社内報の制作にやりがいを感じていたことに気づいたからだ。
社内報は、人事課の社員が持ち回りで作っていたが、じつは配られると同時にゴミ箱に入れられることも多く、その状況を常々残念に感じていた。
人は、他者との関わりの中で変化し、成長していく。社内報は、全国に点在する支社のさまざまな部署で、どんな人がどんなふうに働いているのかを伝えるもっとも有益なツールのはずなのに、どうしたら社員の皆さんに興味をもってもらえるのだろう、と。
そこで私は、自分が社内報の担当になった際、新たな記事のアイデアを出したり、社員へのインタビュー企画を考えたり、紙面デザインやレイアウトなども工夫して、徹底的に改革を行った。
すると、多くの社員から「前よりも楽しくなった」「もっと読みたい」などの嬉しい反響があり、クリエイティブの可能性をもっと追求してみたくなったのだ。
本格的にグラフィック・デザインを学んだことで、社内報のレベルは確実に向上した。
すると、社内報だけでなく、もっとさまざまなクリエイティブを手がけてみたいという気持ちが自然に芽生えた。新しい世界に飛び立つときが訪れたのだ。
大好きな会社を退職するのは後ろ髪を引かれる思いだったが、グラフィック・デザイナーとして新たなステージに向かう決意をした私を、職場の皆さんは、病気のときと同じように、「大丈夫だよ」「応援しているよ」と温かい言葉で送り出してくださった。
キャリアの8割は偶然によって決まる
「コカ・コーラのボトルの素材と“ハッピーをあげよう”というテーマで、あなたはどう表現しますか?」
デザイン系企業からの出向として、コカ・コーラ社で新設されたソーシャルエンゲージメントのクリエイティブプロジェクトチームの一員に選ばれたときのこと。
事前に、グラフィック・デザイナーとしての力量を試されるテストがあるとは聞いていた。
しかし、その道のプロたちがずらりと20人も並んでいる前で、私のPCと巨大スクリーンをつなぎ、デザインの過程や作業の一挙一動を見られつつ即興で作るなんて、聞いてないんですけどー!
……叫びたくなる気持ちをぐっとこらえ、冷汗が流れ落ちるようなシチュエーションの中、Photoshopとillustratorを駆使して、ボトルからプシューッと飛び出したコーラのしぶきで「幸」という文字を描くデザインを制作した。緊張度はすでにMAXに達している。
おそるおそる周りを見渡すと、うんうんと笑顔で頷いている皆さんの姿があった。
どうやら「このチームで一緒にやっていける人だ」と認めてもらえたらしい。
この日から、プロジェクト終了までの約8か月間、コカ・コーラ社のチームメンバーとして活動した。
心理学者のクランボルツは「個人のキャリアの8割は偶然によって決まる」というキャリア理論を提唱している。
出向という偶然からスタートしたコカ・コーラ社でのプロジェクト参加経験は、私に鮮烈な刺激をもたらし、さらなる目標を与えてくれた。
良いクリエイティブを生み出すこと――つまり、クライアントの魅力を最大限に引き出し、ブランドの価値を高めることができるかどうかは、「そこで働く人」そのものにかかっている。
彼らが、自分の強みを大いに発揮し、誇りを持つことができたら、よりクオリティの高いクリエイティブの創出に繋がっていく。
また、どんなに高いスキルや知識を持ったメンバーが集まっても、互いに認め合い、調和することができなければ、良いクリエイティブは生み出せない。
私も一人のデザイナーとして貢献するのでなく、「そこで働く人」一人一人の生き方や働き方を支援する立場で、組織がより活性化するように背中を押したい。
コカ・コーラ社での経験は、デザイナーから人事へのポジションチェンジや、現在につながるキャリアコンサルタントへの第一歩を踏み出す、大きなきっかけとなった。
欠けているなら、埋めていこう
出向先のコカ・コーラ社からデザイン系ベンチャー企業に戻ると、出向前は10名くらいだった社員数が、30名程に増えていた。
人が増えれば、課題や不満も増える。
私は社長に人事の重要性を訴え、社内初となる人事ポジションへ異動した。
さらに、自分の軸をより確かなものにするため、週末に学校に通って勉強し、キャリアコンサルタントの国家資格を取得した。
「なぜ、そんなに学び続けられるの?」と聞かれることがよくある。
私はこれまで、自分に満足できたことが一度もない。
つねにどこか自信がないし、つねにどこか納得していない。
自分の知識や経験値について、これでいいと満足してしまったら、そこまでだと思っている。
今の自分に必要だと感じることを、つねに学び続けてアップデートし、リミットをどんどん外していくことが、私にとってもっとも豊かな生き方なのだ。
たとえ何歳になろうとも、「これで満足」と思えることは一生ないだろう。
当初は、組織やチームを良くするために始めた資格の勉強だったが、学んでいるうちに、自分自身のキャリアについても深く掘り下げ、向き合うことができた。
資格取得後は、人事コンサル系の会社やコーチング・研修を行う会社、人や組織のサーベイ会社などを経験し、2024年1月に個人事業主として独立した。
いつも見守ってくれる上司や、ともに高め合えるチームメンバーはもういない。
きっと、これからも迷ったり悩んだりするだろう。
でも、欠けているなら埋めていけばいい。その情熱が人生のモチベーションになるはずだ。
海の底から一緒に「真珠(PEARL)」を見つけたい
2024年から独立した私は、「人事コンサルタント」「キャリアコンサルタント」「コーチ」として、仕事や生き方などに悩みを抱える方やキャリア相談などのToCサービス、人や組織に関する課題を抱える企業様に向けた人事コンサルティングなどのToBサービスを行っている。
個人事業主としての屋号は「PEARL career consultant」と名付けた。
もっとも大切にしているのは、クライアントの抱える本質的な課題や、大切にしている価値観などを、一緒に探求し、気づいていただける支援をすることだ。
対話を重ね、深くご自身の内側を見つめてもらうのは、一緒に深い海の中をダイビングしている感覚に近い。
深く深く潜った先に、手にできるもの(先に書いた、本質的な課題や、大切にしている価値観など)が、真にその人が出会うべくして出会えた大切なもの=「真珠(PEARL)」なのだ。
……とカッコよく語ってみたが、自分自身を探求するのは、とても怖い行為だし、そんなに簡単な作業ではない。
クライアントさんのセッションをしていると、無意識に見て見ぬふりをしていたり、感情にフタをしていたりする場面が多々ある。
中国に、こんなことわざがある。
「鳥には空気が見えない。魚には水が見えない。そして、人間には自分が見えない。」
人は自分のことをわかっているようで、わかっていないことばかりだ。
だからこそ、自分が見えなくなっている部分を映し出してくれる鏡のような存在が必要なのではないだろうか。
自分で自分がわからないから、私たちは悩み、葛藤し、ときに辛い思いをする。
それこそが人間らしさでもあり、決して悪いことではない。
けれども、見えなくなっていた自分自身を探求し「これが自分なんだ」とマルっと受け入れ、認めることや好きになることができると、人は驚くほど変われる。
何より私自身がそれをできるようになったことで、生きるのが格段に楽になった。
情報があふれ、さまざまな選択肢が広がる現代は、一見豊かで幸せなようだが、それゆえに迷うことも多い。
だからこそ、納得できる生き方や価値観を見つけることができれば、どんな社会であっても、自分の力で力強く、しなやかに羽ばたいていけるはずだ。
今日も私は、クライアントと一緒に深い海を潜っている。
一人ひとりの「真珠(PEARL)」は、凛としたシャープな輝きを放っていたり、ふわっと優しい光に包まれていたり、どれ一つとして同じものはない。
text and photo - Reika Kadowaki
人事コンサルタント/キャリアコンサルタント/コーチ
門脇麗佳
沖縄生まれ 神奈川育ち/在住。
大〜中小、ベンチャーなど様々な規模の組織内人事、デザイナーなどのキャリアを経て、2024年より、フリーの人事コンサルタント/キャリアコンサルタント/コーチとして独立。
中学生から上は60代の経営者まで、一人ひとりのユニークなキャリア(仕事を含む人生全般)の旅路をサポート。
それぞれの課題や目標に合わせてカスタマイズしたプログラムやを提供する。
趣味は自分にとってのパワースポットである沖縄をはじめ、国内外問わず旅をすること。
新しい出会い、発見を楽しんでいます。
※ 毎月、ワークショップを開催しています。
上記URLからご登録いただくと、毎月、アナウンスが届きます。
#33
October 2023
PEOPLE
#49
STAY SALTY ...... people here
Welcome to the Theater
劇場へようこそ
ライター/構成作家
中村桃子
10.15 2023
その絵は3年半ぶりに公開されるらしい。
「中」の女たちと覗き込む者たちが描かれる。
中からの光と、覗く人々が持つ提灯の光、
人びとの表情はほぼ見えないが、
格子ごしの光と闇がその模様を浮かび上がらせる。
描いたのは葛飾応為(おうい)、北斎の娘だ。
テレビドラマやアニメ映画でも取り上げられたことでご存じの方も多いだろう。
父と同じく絵を描くことに生涯を捧げた彼女は、謎多き人でもある。
父の手伝いや代作なども手掛けた。
父より美人画が巧いと言われたというエピソードも残っている。
しかし作品は世界で10数点しか残されていない。
代表作と言われているものが、かの絵である。
近くて遠く、遠くて近い、中と外、人と人、光と影。舞台と客席、いや、皆舞台。
応為を知ったのは『百日紅(さるすべり)』という漫画だ。
先程のアニメ映画の原作である。
若い応為ことお栄と鉄蔵こと父・北斎、
その家に居候している(という設定の)若き日の善次郎こと渓斎英泉らが
江戸の下町で、人びとや、人ならぬものたちとの不思議事と出会いながら、日々、描く。
それはむかしむかしの時代のこと、
なのに、なぜか今そこに居る・在る人やもののよう。
生や性、死、人と、妖。生き生きと、
でも淡々と描かれるさまがなぜだか不思議と気持ちいい。
初めて読んだのは、中学生か高校生の頃だ。
当時NHKで『コメディーお江戸でござる』という番組が放送されていた。
芝居小屋を模したセットでの公開収録。
座長を中心とした一座が笑いと情の喜劇を演じる。
芝居が終わると、ゲスト演歌歌手の歌のステージの後、
先程の喜劇にまつわるお話と江戸豆知識コーナーがある。
このコーナーで毎回興味深い話をにこにこと聞かせてくれたのが、
漫画家であり江戸風俗研究家・文筆家の杉浦日向子、先の原作者だ。
「江戸は遠い時代や世界じゃなく、そこにあるものですよ。ようこそ」
導かれるようにして、彼女の漫画やエッセイを手に取った。
粋や情を感じるには、中学生~高校生には、早かったと思う。
でも、彼女の「うつくしく、やさしく、おろかなり」という人間観に惹かれた。
絵や文から伝わる生き生きとした皆と〝この瞬間〟にわくわくした。
『百日紅』の主人公・応為、いや、お栄ちゃんや北斎は、わたし自身とそのまわりのようになり、今に至る。
劇場という空間に魅了されてきた。「書くこと」と「劇場(舞台)」(と、本)があった。
人生「初」の劇場体験は、小学生の頃。
学校から連れていかれた劇団四季の子供ミュージカルだ。
クライマックスで、善と悪、ふたつの歌が交錯する。
「人の心から光を奪え」という悪に対し、「心のぬくもり」で対抗するヒロインたちの歌合戦にドキドキとした。
物語が目の前で人によって具現化されること。
大きな劇場でその熱と力をたくさんの人と感じる一体感。
「沼」にハマってゆく。
小6の夏休み、テレビの劇場中継で観た『スーパー歌舞伎・八犬伝』と『ヤマトタケル』にも衝撃を受けた。
古典なのに、俗で、ぎらぎらで、物語の魂が迫ってくる、人が宙を翔ける。
劇場に行けないので図書館と本屋が頼りだ。
写真集、戯曲、古典芸能の棚を読み切っても、演劇書や、小劇場雑誌がある。
隅から隅まで読み、あちこちの劇場や公演に想いを馳せた。
その中からなんだか「びびっと」来て選び、観に行った劇団☆新感線は、
今思うとちょうどメジャー街道を駆け上がっていた頃で勢いがあった。
バイト代やお年玉を使ってがんばっても高校生が1公演で観られるのは1回。
だから一回で台詞を覚える。歌と踊りと台詞を脳内で何度も再演する。
演劇雑誌を通じて文通出来る演劇仲間を探す。綴り、語り合う。ビデオをもらう。
今はSNSで行われているようなことをリアルでやっていた。
かの劇団の役者と知り合い、
彼が音楽スタジオでやっていた個人レッスンにも通うようになった。
「「あ」の音は「あ」の口からしか出ないんだよ?!」「えーっ」
言葉と音の授業は書くことにも影響を与えた気がする。
演劇部でもなかったのに、神戸市の高校演劇に出演したり、
高校で講堂を乗っ取って広く客を呼ぶゲリラ卒業公演を行ったりした。
大学4年間も、舞台を観、つくった。
元新聞記者でエッセイストの下で学びながら、学生演劇。
体育会系か応援団のような劇団で役者・制作・演出を担当した。
怪我をしても病んでも舞台をやった。
自身最後の公演で演出の参考にと訪れたのが、旅芝居・大衆演劇の芝居小屋だった。
縁あって師事した関西喜劇の創始者である某喜劇作家の元で書いていた台本の参考にもしたかった。
生、性と生がぎらぎらに滲む劇場の、生きて行くことそのことそのものの舞台世界。圧倒的な熱と力に魅了された。芝居小屋と人の渦に巻き込まれ、好きや嫌いを通り越し、かかわることとなる。
なぜ、舞台なのか。劇場なのか。魅了されてきたのか。
ほんとうにシンプルなのだが、「目の前のあなたへ、あなたと」だからじゃないかと思う。
舞台から、目の前の観客へ。物語を、気持ちを、届ける。
客席のたくさんの観客たちは受け取り、笑ったり、泣いたりする。
その熱と気が舞台に届く。舞台上の役者や演者も受け取って、また、返す。
例え同じストーリーや構成を演じていても、一度として「同じもの」はない。
舞台と客席がつくりだす、今、その空間と空気、「生」のそれ。
6年前、ストリップ劇場へ行った。
初ではない。20代の頃、今はもうない劇場に何度か足を運んだりもしていたが、
でもそこまでハマることはなかった。
しかし、すこし歳を重ね、観て、あの頃とは違う感覚になった。
これまでに観てきたどんな舞台よりも〝人間〟を感じた。
当時と違い身近なものとなったSNSであれこれと調べ、ひとりの踊り子を知る。
エアリアルという空中演技の第一人者である踊り子だ。
どうしても観てみたくなり、足を運んだ。
劇場の扉をあけると、まさに、空中での演技が行われていた。
数ある中でも特に「高さ(天井や奥行きなど)がある」と言われる劇場のひとつで、
彼女は、シルクまたはティシューと呼ばれる布を身体に巻き付け、
回転したり、次々にポーズを決めていた。圧倒された。圧倒されたとしか、言えない。
すこし落ち着いた気持ちで観た次の「作品」のモチーフとされていたのは「愛と自由」を求める人びとを描いた古典作品だった。
なんだこれは。原作のテーマを、セリフや言葉ではなく、体で、体ひとつで、伝えていると感じた。もう一度言う。体ひとつで。
今思うと、モチーフとされていた作品のイメージもあるかもしれない、大きかったかもしれない。でも、それだけじゃない。
なぜなら、今も、今でも、どの作品にも、毎回新鮮な気持ちと共に感じるから。
なぜだろう。彼女の舞台に、わたしは、「一緒に連れて行ってくれる」ような気がした・する。
どこへ? なにを? なんで?
わからないけれど、なんだかとても。
舞台の上は彼女ひとり。でも、なんと言うといいのだろう。
客席にいるいろんな皆の、わたしたちの想いや人生を背負って、乗せて、
飛んでいるように、宙を泳いでいるような。
なぜそう思ったのかもわからない。だいいち人生なんて、オーバーだ。でも使いたい。
誰もがしんどい時代、しんどい日々、舞台の上の人も、客席の我々も。
そんな中、皆の気持ちを乗せて。
なんて重たく、なんてしんどい。なのに、鮮やかなほど。
女神でも天使でも天女でもなく、ひとりの人間なのに。人間だから。
劇場って、なんやろ。
人間って、なんや、なんなんやろうな。
素敵やな。また漠然とした言葉だ。でも素敵や。
そう信じたいような、信じられるような、うん、素敵やねん、って。
彼女の舞台を通して、
劇場という場所に集う人びとと出会って、
より「人間」を考えるようになった。
これまで以上にさまざまな人と出会うようになった。
1人じゃない。いろんな人が居る。
1人が好きなときもある。
でも1人じゃ生きてはいけない。
皆それぞれに何かを抱えていたり背負っていたりして。
その荷物を他人が代わりに持つことはたぶん出来ない。けれど、だから。
考えるようになった。
すべてのひとが、自由に、平等に、生きる権利がある。そう生きるには?
答えは出ない。すぐに出せない。ずっと出ない?
でもそれでも。だからそれでも。
考えること、接すること、みてみぬふりをしないこと、知ること知ろうとすること。
演じられる物語の中の、演じる舞台の上の、それを観る客席の、いろんな顔。
怒っている人、泣いている人。肚で泣いている人。涙をみせない人。演じている人。
役をもらえる人、もらえない人。いや、皆、何かの役だ。
いろんな、いろんな、立場、考え方、趣味嗜好。
北風と太陽、月と太陽、「目の前のあなた」。
関わってきた人びと、すれ違ってきた人びと、これから出会う人びと。
思うようになった。
だから、他者への〝RESPECT(尊重)〟って、きっと大事なんやろうな、って。
想像力を持って、つまり相手へ(そして自分へ)の尊重や尊敬の気持ちを持って、
自分の役を大事にしながら、この社会や世界という劇場で。
勿論、自分という軸は必要だ。過度な共感や寄り添いで流されないためにも。
その上で、「あってはならないこと」「許してはならないこと」を共に変えたり、変わったりしてゆくためにも、目の前のあなたに、目の前のあなたのことを。
そうして1歩や1ミリでも進める・進むこともあるんやないかなあ。
ずっと、インターネット上のBlog(今はnoteに移行)を書いてきた。
大学卒業後、「書きたいことを書きながら精進する筋トレと顔見世」の気持ちで始めた。
舞台の感想、旅芝居の「読み物」を書きたいと思って始めたのも大きい。
芝居小屋も併設した劇場型フードテーマパークでのアルバイトを経て、
ラジオの現場で働き、制作会社に入社した後、フリーとなった。
ミニコミ誌での取材記者、旅芝居専門誌のライター、ラジオ番組の構成。
さまざまな「書く」や「舞台」にかかわる仕事をしてきて今に至る。
ずっと書いてきたこのBlog名を、フリーとなってから、今も、使っている。
苗字も名前もそう珍しいものじゃないし、敢えて言うなら屋号だろうか、とは、後付けだ。
本名の一部に、ずっと好きでだいじで育てていただいてきた「劇場」や「舞台」に、花。
「人間って、皆、花。花みたいやない?」これも、こじつけ。
でも19年前に数秒で考えた名が、と、考えると、不思議な気持ちになる。
このウェブマガジンも、そのような縁、縁からの縁で、書かせていただくこととなった。
近くて遠く、遠くて近い、人と人、自分と他者、自分自身、光と影、だから、光。
応為の絵「吉原格子先之図(よしわらこうしさきのず)」は太田記念美術館にて11月に公開らしい。
わたしにはこの絵はまるで〝劇場〟のように見える。
text and photo - Momoko Nakamura
ライター/構成作家
中村桃子
大阪在住
関西大学社会学部マスコミ学専攻卒
学生劇団「学園座」演出・役者OG
喜劇作家・檀上茂氏に師事
「大阪シナリオ学校 演芸台本科」卒
ラジオ番組ADから大阪の制作会社勤務を経てフリーのライターとして活動
ストリップ劇場と旅芝居の芝居小屋と酒場に通い、とある書籍化に向けた原稿企画2本に取り組む日々。
ウェブマガジン「tabistory」にて酒場の話と誰かにとってのHomeの話、2種類を連載中。note「桃花舞台」も(ほぼ)1日1note、1日1エッセイ更新中。
東京・湯島の「Bookstore & Gallery 出発点」で5月から2箱「本屋・桃花舞台」をスタート。
SNS以外に、SNSを超えての〝繋がりの場所〟を、と、おすすめ本と、フリーペーパー、置いています。
過去の仕事など詳しいプロフィールは
https://momohanabutai1122.seesaa.net/article/202011article_1.html
PEOPLE
#48
STAY SALTY ...... people here
The Ocean and
Books
海と本
海と本 店主
鎌田啓佑
8.5 2023
「なんで本屋を始めたの?」と聞かれると、いつも何から話し始めたら良いか迷う。
自分自身もはっきりとした答えを持ち合わせていないというのが正直なところなのかもしれない。
本屋というものに元々憧れはあって、いつかやってみたいという気持ちは漠然とあった。
ただ、覚悟が定まったのは、やはり他界した弟の存在が大きいと思う。
僕ら兄弟は、年子ということもあり、兄・弟というよりは、小さい頃からお互いを意識し合うライバルに近い関係だった。
遊びに喧嘩にと、何かと競い合ったが、特にファミコンは弟の得意分野で、こちらは悔しい思いをした記憶しかない。
最初は年長である僕に分があり、負けると大泣きをする。
すると、しぶとく練習を重ねて、最終的には僕が負かされてしまう。
子供ながらにしつこさには驚かされた。
負けん気と集中力は勝てる気がしなかった。
僕よりも遥かに勉強ができた弟は慶応大学のSFCで学び、卒業後は兼ねてから憧れていた庭師になる。
古川三盛さんという作庭家の元で8年の修行を積んだ後、「庭づくり かま田」の屋号で独立。
主に奈良・京都周辺の私邸や店舗、寺院等の庭の設計・手入れなどをしていた。
癌に倒れるのは独立して5年後の36歳の時。
半年の闘病の後、一足先にこの世を去ることになった。
住むところにこだわらない人間で、卒業してしばらくは、風呂がベランダについているという珍しい作り(風呂なしのアパートに無理やり風呂をつけたため)の、控えめに言っても幽霊屋敷のようなオンボロアパートに住んでいた。
庭師として独立してからも、古い木造アパートにひとり住まい。
ただ、部屋はきちんと整理され、食器や衣服には彼なりのこだわりがあった。
素朴で質素だが、美徳に溢れる暮らしだった。
弟の死後、部屋の片付けを終えて、最後に残ったのは本棚だった。
そこには子どもの頃に読んだ手塚治虫などのマンガから、庭師になってから学んだであろうアントニン・レーモンド、磯崎新などの建築の本、彼が大好きだった保坂和志、勇気づけられたであろう岡本太郎、少し背伸びをして読んだはずの小林秀雄など、ほぼ一生分の本が並んでいた。
その一冊一冊から、育んできた彼らしさのようなものを感じ、僕には何だか本棚が弟そのものように見えてきた。
結局、本は一冊も捨てることができず、弟の一番仲が良く公私共にお世話になっていた庭師仲間の一人が丸ごと引き取ってくれることとなった。
本棚を見て、生き方そのもので大きく負け越してるなあという思い。
本というものの人生における影響の大きさ。
そして、人生には限りがあるという現実。
それらが本屋に向かう大きな原動力になった。
弟にとって、庭をつくるということは、学びであり、遊びであり、生き方そのものだったと思う。
庭づくりのために、人と会い、本を読み、教養を深めていた。
自分はWebデザインを仕事としていて、それなりに好きなことだが、やはり弟の庭へのそれとは違っていた。
本屋であれば少しは弟の生き方に近づけるんじゃないかと思った。
本好きだった弟も「いいじゃん」と言ってくれそうだ。
それに、独立してからは、お互いに(特に僕が)いつか一緒に仕事がしたいと思っていた。
本屋という形であれば、弟も一緒にやってくれるんじゃないかという思いもあった。
それから、僕なりに本屋を開業するための勉強を始める。
手始めに個性的な小さな書店に関する本を何冊か読んでみた。
一冊だけを売るギャラリー型のお店であったり、カフェと併設されたお店だったり、古本と新刊の両方を置くお店だったり。
さまざまな形態の本屋があり、どれも面白い。
自分にできる本屋って、どういうものかを考えたとき、普通の本屋さんはできないと思った。
いわゆる町の本屋さんになるには、かなりの書籍数とそれを置けるスペースが必要で、そもそも予算がない。
それであれば、偏ってはいても、自分の得意なジャンルで、他とは一味違った、面白いお店をつくるのが良さそうに思った。
僕はそれなりに写真が好きで、アートも好きだったが、それに特化できるほどの知識も経験もなかった。
長く続けてきていて、他の人よりも詳しいといえることは、サーフィンとその周辺のカルチャーくらいしかない。
サーフィンと写真・アートという軸が交わる領域はすぐに頭に浮かんだ。
僕の中で、教養や文化度の高いと思う人たちには、なぜかサーフィンは不評であるという意識がある。
「ふーんサーフィンね…。」という顔をされる。
オリンピック競技にもなり、スポーツ的側面ではかなり認められてきていると思うが、文化的な深みについては、まだまだ理解されていないように思う。
20代の頃、僕はサーファーのための波情報を提供する会社にいた。
携帯で現在の波のサイズやコンディションが分かるというもので、僕は七里ヶ浜から湯河原までバイクで走り、その波の情報を伝えるという仕事をしていた。
毎日、サーフィンができて最高だったし、必要な人に情報を届けるという、その仕事自体に誇りを持っていた。
その当時、サーファーには「マナーが悪い」、「ロン毛で茶髪にピアス」、「不良のやるスポーツ」というステロタイプ化されたイメージがあり、また実際にそのような人もいたし、もちろん外見は自由ではあるのだが、そのせいで嫌な思いもたくさんした。
友人のお母さんに「海人間にはなるな」と言われたことがある。
その言葉には「サーフィンばっかりやっているとろくな人間にならないよ」という示唆が含まれており、結構なショックを受けた。
そういうふうに見る人は一部だとしても、今でも確実に一定の割合で存在する。
僕はその層に届くことをしたいと思う。
そのためにはサーフィンのスポーツ的側面だけではなく、文化的側面が伝わっていくことが必要だろう。
またサーフショップのような「サーフィンをしたい」という気持ちがある人が訪れる場所ではなく、アートに興味がある、教養を深めたいという人が、たまたまサーフィンやその周辺のカルチャーに触れて、「お、ちょっと、いいかも。」と思ってくれる場所というのがあると良いと思う。
サーファーとそうではない人たちの汽水域のような場所というのがイメージだ。
地域や社会の中に、もっと当たり前にサーフィンやビーチカルチャーがあり、それが良い形で地域や社会へと還流されているというのが理想だと思っている。
一方で、サーファーがアートや文化への興味や教養を深めていく場所も不足しているように思う。
サーフィンというアクティビティ自体も十分楽しいし学びも多いのだが、その文化的深みを知っていくことは、その楽しみや学びを大きく広げてくれる。
そして、またそれが、そこから派生するサーフィンと関わりのないアート、文化、教養と出会っていくきっかけになると嬉しいし、そういうサーファーが増えることで、社会の中でサーファーの果たす役割や信頼感もより大きくなってくるはずだ。
そうした試行錯誤のあと(そして今もその最中だが…)、僕は昨年8月に「Books&Gallery 海と本」をスタートした。
コンセプトは海と本が好きな人のための場所。
サーフィンの深い部分に触れてほしいし、理解してほしいという思いはあるが、押し付けがましい場所にはしたくない。
サーフィンを含めた、海と接する広い文化や世界に触れることができる場所を目指し、あえてサーフィンやビーチカルチャーという言葉は店名からは外した。
海と本が好きな人なら誰でも、ふらっと気楽に入れる場所。
そして、自分の世界を広げてくれる一冊に出会える、そんな店でありたいと思っている。
…と、ここまでが、僕がお店を立ち上げるまでの話だが、それからギャラリーをスタートするまでにはややあり、その経緯も少し書き添えたいと思う。
店名に“Books&Gallery”とあるように、当初、海と本は本屋兼ギャラリーとして運営するイメージだった。
ギャラリーを併設することにしたのは、継続的な経営を考えると、どうしても本屋一本では難しいと考えたこと。
そして、アートや文化を楽しむ・学ぶという意味では、本屋とギャラリーは、とても近い位置にある。
本と一緒に、海と関連するアート作品も見られるようになれば、作家さんとの交流も生まれて、より楽しく魅力的な場所になると思えたからだ。
とはいえ、本屋のことも全くわかっていない僕にとって、本屋を経営するだけでも精一杯で、ギャラリーをスタートすることはなかなかできずにいた。
そんな折、アートディレクター白谷敏夫さんがふらっとお店に現れた。
白谷さんは僕が大好きな写真集やアートブックを多数手掛けている方で、それこそ僕にとっては伝説の中の人だった。
それだけでも信じられないことだが、白谷さんがあまりにも気さくに話してくださるので、「ギャラリーもやりたいと思っているが手がつけられていない」ことや、「いつか芝田さんの展示会も…」なんてことを、ボソボソと相談した。
白谷さんから「じゃあ今やろうよ」というとんでもない提案を頂き、あれよあれよという間に、今回の「芝田満之 Summer Bohemians 1984 展」へと結びつくことになる。
実現に向けて軽快にかつ力強く導いてくれた白谷さんと、こんな小さく頼りないギャラリーでの展示を快く引き受けてくれた芝田さんには、本当に感謝の言葉もありません。
「芝田満之 Summer Bohemians 1984 展」、8月27日(日)まで絶賛開催中。
ぜひ皆さまにご来場頂ければ嬉しいです。
text and photo - Keisuke Kamata
海と本 店主
鎌田啓佑
中学・高校時代を鎌倉で過ごし、現在は藤沢市鵠沼在住。
サーフィン誌でアルバイトをしていた学生時代に、DTPに憧れてデザインを独学で始める。
サーファー向け波情報会社で気象予報士として勤務後、Web制作会社でのデザイナー職を経て独立。
2022年8月「Books&Gallery 海と本」をスタート。
「Books & Gallery 海と本」よりお知らせ
芝田満之 Summer Bohemians 1984 展
2023/7/16 sun. - 8/27 sun.
アートディレクター白谷敏夫が新たに刊行する、芝田満之のZINE「Summer Bohemians 1984」の発売を記念した展覧会。当時サーフィンカメラマンとして独自のセンスとスタイルを展開していた芝田は、多大な影響を受けた大野薫のビーチサイド・コラムを綴った”Snaps”(2005 年刊 マリン企画)の表紙に青く染まったビーチのスナップを提供。サーファー大野の世界を一枚の写真で表現しきった印象深いその青い写真は、写真集”Summer Bohemians”(Bueno! Books)にも収められ、その夢見心地の青い写真の数々はサーファーだけでなく海外を含めた多くの人を魅了し、芝田を語る上で重要な写真集となった。
芝田がその当時の 80 年代に撮りためた青の写真で編まれた作品集と本展覧会。